武道の聖地から音楽の殿堂へ「武道館」の誕生 ── 東京オリンピック物語(9)

1964年の東京オリンピックの象徴的な遺産、日本武道館の誕生とその変遷に迫る興味深い記事です。20億円の費用と驚異的なスピードで建設され、柔道競技の会場として初めて使用されたこの巨大な施設は、日本の武道文化の拠点として歩み始めました。しかし、予想外の展開が待っていました。

それは、日本武道館が音楽の殿堂として新たな役割を果たすようになった瞬間でした。イギリスからやってきた4人組の若者によって、この建物は音楽の魂を湛える場となり、数々の伝説的なライブコンサートが行われました。この記事では、日本武道館の歴史、その建設背景、そして音楽との交わりについて詳しく探求しています。日本の伝統と革新が交錯するこの建物の魅力に迫ります。

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あの日、あの時、武道館は熱狂に包まれた。ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。(「BOOK」データベースより)

Nippon Budokan

東京京オリンピックの遺産「日本武道館」の誕生

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日本武道館の誕生は、1964年東京五輪の象徴的な遺産の一つと言えます。この「日本武道の殿堂」とも称される施設は、オリンピック開催を機に建設が進められました。また、この武道館は五輪で初めて採用された柔道の競技会場としても利用されました。

「畳の上に立つ」初のオリンピック柔道とその会場

1964年東京五輪では、日本発祥の柔道が初めてオリンピックの公式競技として認められました。その競技会場としては代々木公園や赤坂離宮隣地など、数々の候補地が検討されました。中には、代々木の屋内水泳場で競泳が終わった後に急ピッチで板を敷き、畳をその上に配置するという、非常にユニークな案も検討されました。

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「正力松太郎」の尽力と武道館の建設

1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックにおいて、柔道会場の建設に尽力した人物がいます。その人物は正力松太郎(1885~1969年)です。彼は読売新聞社の社長として業績を上げ、日本テレビと読売ジャイアンツの創設にも関与した有力な存在でした。正力は池田勇人首相に協力を求め、国会で武道館建設の重要性を訴えました。

1961年(昭和36年)の6月、武道を愛好する国会議員たちは「武道会館建設議員連盟」を設立しました。連盟の会長には正力松太郎が就任し、建設賛成の署名を集める活動が開始されました。この運動は国会議員525名から署名を獲得するという成果を上げました。この活動の後、文部大臣は「財団法人日本武道館」の設立を許可し、1962年(昭和37年)の1月31日から建設の準備が進められました。

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「徳川家から武道館へ」北の丸の歴史的変遷

北の丸公園の一部であった現在の武道館敷地は、かつて国有地で、政府から無償貸与されたことにより、1963年(昭和38年)10月1日に建設が始まりました。北の丸公園の入口に位置している武道館近くの田安門は、江戸時代初期の1636年(寛永13年)に建てられ、江戸城の総構えが完成した当時から現存する唯一の遺構となっています。

当初、北の丸地区には徳川家の親族の屋敷が配置されていました。例えば、三代将軍家光の時代には、三男で甲府藩主となった綱重(六代将軍家宣の父)、家光の乳母の春日局、そして家光の弟である駿河大納言忠長の屋敷が並んでいました。しかし、明暦の大火でこれらは消失しました。

その後、一時は火除けの地として使われ、1731年(享保16年)には八代将軍吉宗の次男である宗武が田安家の上屋敷を、1759年(宝暦9年)には九代将軍家重の次男である重好が清水徳川家の上屋敷を設けました。これらの家名は、近くの門の名前から採られたと言われています。明治維新後、この地は近衛師団の兵営地として使われ、武道館建設前はその跡地となっていました。

無償貸与という形で政府から提供された国有地が、現在の武道館の敷地となりました。この地は、北の丸公園の一部で、建設が開始されたのは1963年(昭和38年)の10月1日でした。

田安門 (Tayasu-mon)

設計は巨匠建築家「山田守」

オリンピック開催のわずか1年前、日本武道館の建設プロジェクトに山田守の設計案が採用されました。

日本武道館の建設は詳細な設計図も存在しないまま、工事が始まりました。山田は工事が進行すると同時に必死に図面を作成しました。山田は、聖橋や京都タワーなどのデザインで知られ、曲面や曲線美を大胆に取り入れる手法を特徴としています。この技法は、武道館建設にも巧みに取り入れられました。

山田が特にこだわったのは、日本武道館の形状でした。『君主は南面す』という故事に従って、正面席を北側に設置し、南を向くように設計しました。選手は東西から入場します。その方向性を確保し、観客の見やすさを考慮して、日本武道館は正八角形になったのです。15,000人を収容でき、視線が最長40m以内に収まるように、内径80mの正八角形にまとめられています。

富士山の裾野を模した大屋根の流動的な美しさは、武道の精神を象徴しています。武道の殿堂である日本武道館は、江戸城跡地の皇居に近い立地から、環境に馴染む和のモチーフが求められました。

魔除けのシンボル!日本武道館の黄金の擬宝珠

日本武道館の大屋根の頂点には、古代から魔除けとして使われてきた黄金の擬宝珠が配されています。その独特の形状から「玉ネギ」とも呼ばれるこの擬宝珠は、橋の欄干や神社、お寺の境内などでも見かけます。擬宝珠の起源については、二つの説があります。一つは、仏教の影響からきており、仏像が手に乗せている「宝珠」に由来するという説です。もう一つは、「ネギ」をイメージしたもので、ネギの持つ臭いが魔除けにつながると考えられていたという説です。

SankeiNews/YouTube

爆風スランプの名曲が奏でた「玉ネギ」の歴史

爆風スランプは、1980年代から1990年代にかけて活躍した日本のロックバンドで、数々のヒット曲を生み出しました。彼らの音楽はポップでキャッチーなサウンドと、ユニークな歌詞で人気を集めました。

「大きな玉ねぎの下で」は、その歌詞中で「玉ネギ」を象徴的な存在として歌っており、日本武道館との結びつきも強く感じられます。この曲は、爆風スランプの代表作として、日本武道館のイメージを広める一助となりました。

サンプラザ中野くん/YouTube

驚異的なスピードで完成

天皇陛下からの御下賜金、国費、そして国民から寄せられた浄財を合わせて約20億円の費用を投じて、日本武道館は1963年10月に着工されました。地上3階、地下2階建てのこの巨大な建物の建設は、関係者の連日連夜の努力によりわずか12ヵ月で完成し、1964年9月にその門を開きました。そのメインアリーナは約2000平方メートルで、畳を敷き詰めるとおよそ1200帖にもなります。これほど大規模な競技場は世界でも類を見ません。開館式は同年10月3日に行われ、10月20日には、東京オリンピックの柔道競技場として、その姿を世界に披露しました。

伝統と革新が交わる、武道と音楽の魂の殿堂

日本武道館は、1964年の東京オリンピックで柔道競技の会場として用いられた後、”武道の聖地”としてその地位を確立しました。柔道だけでなく剣道、相撲、なぎなた、少林寺拳法など、様々な日本武道の振興の場として活用され、数多くの武道大会が開催されてきました。しかしながら、この”武道の殿堂”として1964年に竣工した日本武道館は、想像もしなかった形で”音楽の殿堂”や”ロックの殿堂”へと変貌しました。それはイギリスからやってきた4人組の若者によるものでした。

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