オリンピックの遺産となった首都の交通インフラ ── 東京オリンピック物語(8)

この記事では、1964年に開催された東京オリンピックにおける交通基盤のスピード建設と、その影響について紹介します。東京オリンピックは、急ピッチで進められた都市開発プロジェクトによって、日本の交通インフラが大きく変革されました。特に東海道新幹線、首都高速道路、東京モノレールなどの大規模なプロジェクトが注目されました。

これらのインフラ整備は、オリンピックの成功を支えるだけでなく、日本の経済成長や国際的な地位向上にも大きな影響を与えました。記事では、それぞれのプロジェクトの背景や建設のスピード、オリンピックへの貢献、現在の東京の交通インフラへの影響などについて詳しく解説します。東京オリンピックがもたらした交通基盤の大変革によって、日本の都市開発と建設技術の力が世界に示された瞬間をぜひご覧ください。

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964年東京、1972年札幌、1998年長野と、国内で開催された過去3回のオリンピックを機に、鉄道を中心とした交通インフラがどのように整備され、大会期間中にどのような輸送が行なわれたのか。交通などの都市基盤が発展途上にあった当時、現在とは大きく異なるできごとが次々と起きていたのだった。昭和の東京大会から平成、令和と時代を重ねた今、「あのオリンピックのときにはこんなことがあったんだ」というエピソードの数々を、当時の貴重な記録から探る。(「BOOK」データベースより)

Transportation infrastructure

交通基盤の大変革

ANNnewsCH/YouTube

1964年の東京オリンピックの際には、”東京改造”と称される大規模な都市開発が、巨大な費用を投じて速やかに推進されました。

「急ピッチの整備とレガシー」東京オリンピックの交通基盤

1964年の東京オリンピックのために実施された東海道新幹線の開通や首都高速道路の建設などの大規模な都市インフラ整備は、そのオリンピックの具体的な遺産として認識されています。東京オリンピックのために急ピッチで整備が進められた交通基盤は5つに集約されます。

これには、鉄道の東京モノレール羽田線と東海道新幹線、そして道路の首都高速1号線の一部区間、環状7号線西側区間、六本木通りが含まれます。

しかしながら、実際には交通インフラの計画や設計を数週間という短期間の東京オリンピックのためだけに行うのは困難であり、これらの多くは、オリンピック開催決定前から「都市計画」として構想や計画が進められていました。

それにもかかわらず、1964年の東京オリンピックはこれらのプロジェクトを実現し、工事を急ピッチで進める助けとなりました。そのため、交通インフラは東京オリンピックのレガシー(遺産)と見なすことができるのです。

「東京モノレールと都市インフラ」革新的交通システム

1964年の東京オリンピックの開幕直前、すなわち9月17日に、東京モノレールが開業しました。この新たな交通システムは、オリンピックに参加する選手や観客を輸送するためのものでした。

オリンピックが開催された1964年には、競技場や宿泊施設の整備が進み、競技場への輸送手段として東海道新幹線や首都高速道路、地下鉄が開設されました。そして、これらの都市インフラに加えて、都市の空に高架軌道を描く形で東京モノレールが導入されました。

東京モノレール【公式】/YouTube
東京オリンピックと羽田空港拡張

オリンピックの開催に向けて、当時の東京の空の玄関口であった羽田空港の拡張が行われました。これと同時に、羽田から都心へのアクセスを大幅に改善する目的で東京モノレールが整備されました。

羽田空港と都心を行き来する道路は存在していましたが、その渋滞は厳しく、2時間以上かかることもありました。それゆえ、東京モノレールの開業は、世界と東京を短時間で結ぶ革新的な手段として広く注目されました。

ちなみに当時、日本の空港はまだ整備が進んでおり、東京モノレールは日本初の空港アクセス鉄道となりました。開業当時の羽田駅は現在は存在していません。

さらに現在の東京モノレールには、「羽田空港国際線ビル駅」、「羽田空港第1ビル駅」、「羽田空港第2ビル駅」という、羽田と名付けられた3つの駅がありまが、これらは開業当初の「羽田駅」とは関連性がありません。

東京モノレールの建設とオリンピックへのスピーディな準備

東京モノレールの運営会社である大和観光が発足したのは8月でした。その後、同社は新橋と羽田空港を結ぶモノレールの計画を立案し、10月に国に申請しました。初期の計画では、モノレールが新橋に進入する予定でした。

新橋から羽田空港までのルートで開業を目指していましたが、騒音問題などで地域からの理解を得られず、土地の取得も難航しました。これを受けて、オリンピックの開催に間に合わせるために、浜松町から羽田空港へのルートに計画を変更することになりました。

そして、開業前年の1963年5月に工事が始まりました。一連の工事は突貫工事となり、オリンピックの開幕前に開業することができました。

東京モノレール【公式】/YouTube
「日本の交通革命」

東京モノレールの開業は、「日本の交通革命」とも評されました。オリンピックがもたらす活気と、都心で初めて現れた本格的なモノレールという新しさが相まって、その人気は絶大でした。特に休日には、浜松町駅には長い行列ができるほどの人々が集まりました。

「五色橋」東京モノレールと幻のオリンピックの結びつき

五色橋は、1940年に予定されていたが結局開催されなかった「幻の東京オリンピック」に向けて作られたもので、オリンピックの五つの色にちなんで名付けられました。この橋は、東京オリンピックの2年前の1962年2月に架け替えられ、それが現在の橋となっています。

モノレールは、浜松町から出発し、羽田空港に向かいます。その途中、JR田町駅手前で一度線路から離れ、運河に沿ってゆっくりとカーブを描いた後、五色橋を越えていきます。

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「1964年の記念すべき日」東海道新幹線の試運転と営業開始

1964年10月1日、東京オリンピックの開幕に合わせて、日本が世界に誇る高速鉄道、東海道新幹線が開通しました。その試運転が初めて行われたのは、同年7月25日で、東京から新大阪までの全線にわたり、10時間かけて無事に走行を完了しました。

その1ヵ月前の7月1日には、神奈川県川崎市内で最後のレール締結が行われ、東京から新大阪までの515kmの軌道が全通しました。そして、その3ヶ月後の10月1日に、営業運転が開始されました。初期の所要時間は、「ひかり」で4時間、「こだま」で5時間でした。

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たった5年!東京オリンピックまでのスピード建設

東海道新幹線の建設工事は、1959年(昭和34年)の4月から始まりました。このプロジェクトは、東京オリンピックに間に合わせることを目指し、その工期はたったの5年と設定されていました。

アイエム[インターネットミュージアム]Internet Museum/YouTube
東京オリンピックと高度経済成長の起爆剤

新幹線の工事は実際には戦前から一部が始まっており、その後一時中断を挟んで1960年に工事が再開されました。そこからわずか約5年で完成させたのです。当時の設計思想、たとえば在来線から分離した専用軌道やATC(自動列車制御装置)の導入などは、現在でもしっかりと受け継がれています。

東海道新幹線の開通は、その9日後に開催された東京オリンピックとともに、日本が高度成長期に突入するきっかけとなりました。つまり、東海道新幹線は東京オリンピックと並行して行われた、高度経済成長の引き金となったのです。

東京の大動脈「首都高速道路」が開通

1964年の東京オリンピック開催に向けて、東京は新たなインフラで次々と変わっていきました。その一つが、正式には首都高速道路と呼ばれる首都高です。オリンピックの競技会場や宿泊施設、そして羽田空港とを結ぶことを目指し、都心環状線と高速1号羽田・上野線から建設が進められました。

オリンピック関連施設と羽田空港を直接結ぶ道路が優先的に整備され、京橋から芝浦までの間(4.5㎞)が日本初の都市高速道路として開通しました。オリンピック開催時には、1日平均で75,000台の車両がこの首都高速道路を利用したと言われています。

この首都高速道路の初開通は、1962年12月の京橋から芝浦までの4.5kmでした。その1年後の1963年12月には、本町から京橋(2.2km)、呉服橋から江戸橋JCT(0.6km)、そして芝浦から鈴ヶ森(6.1km)までの各区間が開通しました。

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都心と羽田を結ぶインフラの進化

1964年東京オリンピックに向けて整備された道路には、2つのタイプが存在しました。一つは通常の幹線道路で、これは都市計画道路事業として国庫補助を受け、東京都建設局が事業を進めたものです。もう一つは、オリンピックの開催を契機に着工された首都高速道路で、これは1950年代から首都圏整備委員会と東京都が計画していたものです。

首都高は「オリンピックのために建設された」と一般に認識されていますが、正確には、「もともとあった建設計画が、オリンピック開催決定で加速された」のが実態でした。1964年10月のオリンピック開催までに、羽田空港と都心部、そして選手村が設置された代々木(初台を含む)までの31.3kmが開通し、オリンピックを成功に導く一助となりました。

「国道246号線」オリンピック関連施設を繋ぐために道路

1964年の東京オリンピックに向けて、インフラ整備が急ピッチで行われました。その中で道路整備も重要な課題となり、特にメイン会場の国立競技場がある神宮外苑と、開会式を開催した駒沢公園(世田谷区)を結ぶ国道246号の整備が急務とされました。この区間は現在では青山通り、玉川通りとして知られています。

また、拡幅の余地が少ない国道1号のバイパス路線としての期待も寄せられていた246号線は、オリンピック関連の道路整備において「主要連絡路」と位置づけられ、国立競技場、代々木の選手村と駒沢競技場を結ぶ重要な道路となりました。

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「オリンピック道路」の整備と命名

1964年の東京オリンピックとパラリンピックは、都市インフラの発展に大いに寄与しました。首都高速道路の建設はよく知られていますが、東京都内のいくつかの通りもオリンピックにより整備され、「オリンピック道路」と呼ばれています。その中には、青山通り、玉川通り、環七通り、目白通り、笹目通りが含まれます。また、「青山通り」、「外堀通り」、「明治通り」などの名前は、都民や観光客の利便性を高めるためにオリンピックに向けて名付けられたもので、今日まで広く使用されています。

「オリンピック道路」の中心「環七」の誕生とその役割

1964年の東京オリンピック開催を前に、多くの道路が整備されました。その中でも特に大規模なプロジェクトとなったのが、都道318号(環状7号線)、通称「環七」です。オリンピック開催決定を受け、1960年に首都圏整備委員会は、首都高速道路に加え、環七、放射4号線、昭和通りなどの54.6kmを「オリンピック関連街路」として位置づけ、整備が必要と認定しました。

東京都知事であった東龍太郎は、大会の成功のためにはこれらの道路の整備が不可欠と考え、環七の整備に着手しました。これにより、住民たちは強制的に移転することとなりました。選手村が都心の代々木に移設されたことで、環七のオリンピックにおける重要性は低下しましたが、計画通りに工事は進行し、オリンピック開催前には羽田空港から北区北部までの環七の西半分が開通しました。「オリンピックを成功させよう」という強い意志の下、難しい土地の買収も進行し、結果として環七は完成されました。

東京都 Tokyo Metropolitan Government/YouTube
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964年東京、1972年札幌、1998年長野と、国内で開催された過去3回のオリンピックを機に、鉄道を中心とした交通インフラがどのように整備され、大会期間中にどのような輸送が行なわれたのか。交通などの都市基盤が発展途上にあった当時、現在とは大きく異なるできごとが次々と起きていたのだった。昭和の東京大会から平成、令和と時代を重ねた今、「あのオリンピックのときにはこんなことがあったんだ」というエピソードの数々を、当時の貴重な記録から探る。(「BOOK」データベースより)
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