戦後の日本の復興と若者文化の息吹が交錯した渋谷で、日本の近代建築の一大成果である国立代々木競技場の誕生やNHK放送センターの建設の裏側、そしてワシントンハイツという「日本の中のアメリカ」について、その歴史や構造に迫ります。
また、冷凍食材を活用した選手村の食事サービスや民間警備会社の躍進など、オリンピックにまつわる興味深いエピソードも紹介します。ぜひこのチャットの記事を読んで、魅力溢れるストーリーに触れてみてください。
焼け野原から生まれる「レガシー」と未来への絆 ── 東京オリンピック物語(6)
Shibuya
1964年東京オリンピックと渋谷
1964年の東京オリンピックに伴う変貌の中心となったのは、渋谷でした。新宿区の国立霞ヶ丘陸上競技場はオリンピックのメインスタジアムとして脚光を浴びましたが、渋谷区もさまざまな競技会場が点在しており、大会の魅力を引き立てました。
国立代々木競技場第一体育館は水泳の舞台となり、第二体育館ではバスケットボールが開催されました。また、渋谷公会堂は日本が初金を獲得した重量挙げの競技場となりました。東京都体育館では、男子体操チームが遠藤選手を中心に大活躍し、屋内水泳場では水球の試合が行われました。さらに、甲州街道では、アベベ選手と円谷選手が熱いマラソンの戦いを繰り広げました。
このように、渋谷は多様な競技をホストし、その地形と文化を大きく塑性しました。その結果、都市の風貌と雰囲気は劇的に変化し、その変化は今日まで続いています。
「代々木公園の歴史」東京オリンピックと選手村の足跡
東京・渋谷の代々木公園は、現在ではJR原宿駅のすぐ近くに位置し、休日には大勢の人々で賑わっています。しかし、その地には1964年の東京オリンピック時、大規模な選手村「代々木本村」が存在していました。
代々木選手村の広大な施設と文化の交流
東京・渋谷の代々木公園は、現在ではJR原宿駅のすぐ近くに位置し、休日には大勢の人々で賑わっています。しかし、その地には1964年の東京オリンピック時、大規模な選手村「代々木本村」が存在していました。
この1964年のオリンピック選手村は、東西に800メートル、南北に1400メートルという広範囲にわたり、合計面積はなんと660,000平方メートルもの大きさを誇っていました。約5900人を収容可能なこの「代々木選手村」を基点に、八王子(自転車競技)、相模湖(カヌー)、大磯(セーリング)、軽井沢(総合馬術)といった4つの地域に分村が設けられました。
選手村には、宿泊施設の他、食堂、医療施設、売店、練習施設などが充実しており、さらに娯楽施設としてはクラブや劇場も完備されていました。選手村内の道路には、オリンピックの開催都市であるローマ、アテネ、ヘルシンキといった名前が冠されていました。
さらに、選手村内で唯一オープンした百貨店として松坂屋銀座店が出店。衣料品や日用品、そして浴衣や提灯、番傘といった日本独特のお土産を求める選手たちで賑わっていました。これらの施設とアクティビティが、アジア初のオリンピックの特色と文化を具現化し、選手村全体に彩りを与えていました。
日本の伝統文化とのふれあい!東京オリンピックでの着物体験
1964年の東京オリンピックが10月10日から24日までの期間にわたって開催されていた中、10月14日には特別な体験が選手たちに提供されました。女子選手村のサービスセンターで、選手たちは日本の伝統的な着物を試着し、記念撮影する機会が設けられました。これは、選手たちが日本訪問の思い出を深く刻むための一助となるイベントでした。
ここでは、新生児の産着から始まり、お宮参り、七五三、振袖といった人生の節目に着用される着物、さらには花嫁衣装まで、成長過程で変化するさまざまなスタイルの着物が選手たちに紹介されました。
さらに、訪問着、付け下げ、二部式の着物、祭りで着用する半纏など、季節や場所に応じて選び、着る着物のバラエティも展示されました。その中には、現在ではあまり見ることのない稀な茶摘みの衣装や大原女の衣装も含まれており、これらの展示は選手たちから高い評価を得ました。選手たちは日本の伝統文化に深く触れる貴重な体験を享受し、その記憶は彼女たちの日本滞在の一部として刻まれました。
「東京オリンピックのロマンス」選手村で誓われたブルガリアのカップルの愛
1964年の東京オリンピックでは、選手村で一組のカップルが結婚式を挙げるというユニークな出来事がありました。それはブルガリアの体操選手、ニコライ・プロダノフと、同じくブルガリアの陸上選手、ディアナというカップルでした。彼らの当初の計画では、オリンピック後に結婚式を挙行する予定だったのですが、東京五輪組織委員会がこのカップルの特別な瞬間を選手村で祝うことを提案しました。
そして1964年10月23日、東京の代々木選手村にて、五輪マークを背に神前結婚式が執り行われました。24歳の新郎と21歳の新婦は神主の祝詞のもと、三三九度の儀式を行いました。この結婚式はメディアを賑わせ、大きな話題となりました。東京五輪組織委員会は、急なリクエストにも関わらず、すばらしいウエディングケーキを用意し、二人の祝福に一役買ったのです。
新婚旅行は1日だけで京都に行きましたが、その旅をディアナは今でも忘れていません。彼女は「見知らぬ子供が『おめでとう』と声をかけてくれたことや、日本の人々がとても親切に接してくれたことを忘れられません。日本は私にとって第二の故郷です」と語っています。この五輪史上初の選手村での結婚式は、多くの人々に感動を与え、彼らのストーリーは今も語り継がれています。
「料理人たちの奮闘」東京オリンピック選手村の食事サービス
選手村の開村と同時に稼働を開始した食堂は、約7000人の選手やコーチなど、93の国と地域から集まった関係者たちの食事を担当するという大役を果たしていました。その任務を果たすため、全国から選ばれた300人の料理人たちが日々奮闘を重ねていました。その規模は非常に大きく、なんと1日に約2万食もの食事を提供していたと言われています。
これらの料理人たちは、異なる文化背景を持つ選手たちの好みや食事制限を考慮に入れ、多様なメニューを提供しなければならないという難題に直面していました。
「オリンピック・メニュー」日本屈指の料理人による贅沢な食の体験
1964年の東京オリンピックの開催に当たり、「日本での西洋料理の調理が困難だ」という世界からの懸念を払拭するために、帝国ホテルの村上信夫総料理長を始めとする日本を代表する西洋料理人たちが一同に会しました。彼らは各国の料理を徹底的に研究し、その結果としてレシピ本「オリンピック・メニュー」を完成させたのです。
この特別な「オリンピック・メニュー」は、ホテルで提供されるような高級でボリューム満点の料理がふんだんに盛り込まれていました。ビーフステーキ、ローストチキン、ラム肉料理、シチューなどの主菜から、60種類以上のスープ、さらに30種類以上のソースまで、豊富なメニューが揃えられており、しかも提供される料理は毎日異なっていました。これらの料理はまさしくセレブ級のもので、参加した選手たちにとっては、競技の合間に高級レストランで食事を楽しむような体験を提供していました。
オリンピックの食材調達革命!冷凍食材と日本料理界の先駆的な試み
94カ国から7000人の選手と関係者を食事で支えるためには、120トンの肉、356トンの野菜、46トンの魚という、非常に大量の食材が必要となりました。これだけの食材を一度に調達することは、日本の一般家庭への食材供給にも影響を及ぼす可能性がありました。
そこで、解決策として導入されたのが「冷凍食材」でした。当時の料理界ではまだ一般的ではなかった冷凍食材の活用は、後の冷凍食品の発展につながる先駆的な試みでした。事実、オリンピックの食事提供を担当した帝国ホテルの村上信夫シェフは、「冷凍食品がなければオリンピックの成功はあり得なかった」と述べています。
「セコムの始まり」東京オリンピックと民間警備の躍進
東京オリンピックは日本初の民間警備会社の誕生と普及を促すきっかけとなりました。その会社とは、現在のセコムで、当時は日本警備保障という名前でした。
創業したのは1962年でしたが、当時の日本には民間の警備会社という概念がまだなく、契約を得ることは困難でした。しかし、1964年の東京オリンピックがその運命を変えます。自衛隊だけでは選手村の警備が不十分とされ、日本警備保障にその重要な任務が委託されました。
これにより、同社はその存在と業績を大きく知らしめ、その後の成長へとつなげる大きな一歩を踏み出すこととなりました。
「選手村誕生!」東京オリンピックと日米交渉の舞台裏
1964年の東京オリンピックの開催が決定した1959年、当初は選手村を埼玉県朝霞の米軍基地、キャンプドレイク・サウスエリア(現在は陸上自衛隊朝霞駐屯地などがある場所)に設置する計画があった。
ワシントンハイツから選手村への道
日本政府は当時、キャンプドレイクの他にも米軍の兵舎と家族用住居があったワシントンハイツ(現在の代々木公園など)の返還もアメリカに要求していました。日本の復興が進む中、首都の中心部に位置するワシントンハイツの返還を求める声は日増しに高まっていました。しかし、基地の移転費用などを巡り、日米間の交渉は難航しました。
渋谷区代々木の米軍住宅「ワシントン・ハイツ」を選手村にする案が持ち上がりましたが、東京都は当初反対しました。これは、いずれワシントンハイツが国に返還された場合、公園を造る予定があったからです。その後の議論の中で、NHKが一部を利用する提案を出し、混迷の度合いを増す事態となりました。しかしながら、ワシントンハイツかキャンプドレイクのどちらに選手村を設けるにせよ、アメリカとの土地返還交渉という難題が待ち構えていました。
最終的に、ワシントンハイツよりも朝霞の接収解除の見通しが明るいと判断し、朝霞を予定地とすることになりました。しかし、1961年に予想外の事態が起こり、アメリカ側がワシントンハイツの全面返還に同意するという回答を出しました。その結果、都心近くのワシントンハイツが選手村となることが決定しました。この決定は、1961年12月6日の日米合同委員会で合意されました。
「ワシントンハイツ」戦後のアメリカ文化と日本のアメリカ憧憬
現在の「代々木公園」や「NHK放送センター」が立つ場所は、かつて江戸時代には大名や旗本の下屋敷が存在していました。1909年にはここに陸軍の「代々木練兵場」と「衛戍(えいじゅ)監獄」が設置され、1910年にはこの地で陸軍の徳川好敏大尉が日本初の飛行機飛行に成功しています。また、「衛戍監獄」では、1936年に発生した「二・二六事件」の首謀者たちの死刑が執行されました。
1945年、終戦から約1か月後の9月8日には、ダグラス・マッカーサー将軍を中心とする米軍一行が東京に「入城」しました。それ以降、東京中心部の日本軍施設が米軍に接収され、代々木練兵場には米軍のテントが設営されるようになりました。
そして1946年7月、この地に「ワシントンハイツ」の建設が始まり、翌年9月に竣工しました。戦後の物資不足の中でもワシントン・ハイツの建設は優先され、約92ヘクタール(27万坪)の敷地に827軒の白いペンキ塗りの住宅、学校、教会、劇場、マーケットなどが建設されました。まるでアメリカの小さな町がそのまま移設されたかのような景色が広がっていたと言います。ここには、兵舎や軍人(将校)家族用の居住宿舎が造られ、その名はアメリカ初代大統領の名前を取り「ワシントンハイツ」と名付けられました。
夢の国の宮殿と表参道の発展
ワシントンハイツは、戦後の日本人が強烈にアメリカ的な豊かさへの憧れを抱くきっかけとなった「日本の中のアメリカ」でした。この地域は基本的に日本人の立ち入りが禁止され、高い金網で囲われた内側は、豊かさが広がる異次元の世界でした。そこには大きな流線型の自動車、輝く家電製品、鮮やかな緑の芝生、カラフルなカジュアルウエア、ラジオから流れる明るいジャズ、分厚いハムサンドイッチ、真っ白なミルクなどがありました。
一方で、近くで暮らす日本人たちは焼け野原のバラックで風雨に耐え、配給や闇市のわずかな食料で飢えをしのぎながら生活していました。そのため、ワシントンハイツの白い一軒家は、夢の国の宮殿のように見えたのでしょう。
戦後のアメリカ軍の駐屯は、思わぬ形で表参道の発展に重要な要素となりました。現在代々木公園がある場所に1946年に在日米軍施設である「ワシントンハイツ」が設立されると、周辺には「キディランド」や「オリエンタルバザール」などのアメリカ人向けの商業施設が増えました。当時は珍しかった海外の商品が日本人でも手に入れることができるようになり、表参道周辺には次第に感度の高い人々が集まるようになりました。
「代々木国立屋内総合競技場」オリンピックの遺産としての存在
1964年、第18回オリンピックがアジアで初めて東京で開催されました。この歴史的なイベントの記念碑的建造物として登場したのが、国立屋内総合競技場(現・国立代々木競技場)です。この施設は、かつてワシントンハイツが存在した場所に建設されました。オリンピック後、ワシントンハイツの跡地は再整備され、1967年10月に代々木公園としてオープンしました。
アスリートと訪れる人々の魂を鼓舞
主要施設としては、第一体育館、第二体育館、室内プールがあり、さらにサッカー場や陸上競技場も備えています。また、内部には岡本太郎氏の原画によるレリーフが飾られ、建築的・芸術的な観点からも日本を代表する建物となっています。当時の国際オリンピック委員会(IOC)のアベリー・ブランデージ会長は、代々木の体育館を「本当に素晴らしい。スポーツをやる人々を非常に鼓舞する。美を愛する人々の記憶の中にはっきりと刻み込まれるでしょう」と絶賛しました。
敷地はオリンピック前に日本に返還され、北側は選手村となりました。一方、南側の丘陵突端部(約9万平方メートル)は鉄道駅に近く、選手村から徒歩で移動可能な位置にあったため、競技会場の建設地として選ばれました。建設地がかつてアメリカ軍施設であったワシントンハイツだったことから、「ワシントンハイツ屋内総合競技場」という名称も一時候補に挙がりましたが、最終的には「国立屋内総合競技場」という名称が採用されました。
丹下健三の巧みなデザイン「吊り屋根構造の誕生」
国立代々木競技場の設計者である故・丹下健三(1913~2005年)は、1964年当時50歳で、すでに広島平和記念資料館や香川県庁舎などの設計で有名でした。彼は、この競技場の設計について、コンペティションではなく指名されて参加しました。競技場が完成した1964年時点で、彼は51歳でした。
その設計には、土木的スケールを持った吊り構造について坪井善勝氏、大口径のノズルによる大空間の環境調整について井上宇市氏といった最高の技術陣が参加しました。第1体育館は清水建設が、第2体育館は大林組がそれぞれ施工しました。
設計当時を回想すると、かつて坪井善勝研究室に所属していた構造設計者の斎藤公男氏は、2019年6月に行った日経クロステックのインタビューで次のように述べています。「冬の寒い早朝、赤坂離宮に学生たちが招集されて、代々木競技場設計に向けた集会が行われました。丹下健三さんや高山英華さんなど、そうそうたるメンバーが集まり、戦後の日本で世界に負けないものをつくろうと志を共有しました」
そして、競技場内で最も大きく目立つ建物で、現在ではイベントアリーナとしても利用されている「第一体育館」は、元々水泳の競技場として設計されました。これは約13,000人を収容可能な巨大な施設で、丹下が特にこだわったのは、内部を一切柱のない空間にすることでした。
選手と観客を一体感のある空間で包み込み、競技の興奮を一緒に体験できる場所にするため、「遮るものがない」方が良いと彼は考えました。その結果、当時世界にほとんど例のなかった「吊り屋根構造」によって、「巨大空間でありながら無柱」という困難な目標を実現しました。
競技に没頭する観客!柱のない天井空間
国立代々木競技場の「第一体育館」では、その名の通り、屋根が吊り橋に似た構造で吊られています。この施設では、高さ40mの脚柱が2本、126mの間隔で立てられ、その間に直径33cm、総重量250トンのメインケーブルが2本渡されています。このケーブルの両端は地中に伸ばされ、コンクリートの塊で固定されています。
これにより、屋根が引っ張られて上昇し、メインケーブルから直角方向に鉄骨の梁が渡され、屋根板が貼られています。第一体育館では2本の支柱から、第二体育館では1本の支柱から屋根全体が吊られています。
この構造のおかげで、体育館の内部に柱がなく、天井が高くて開放的な空間が実現し、観客が競技に集中しやすくなっています。
「二つの世界が交錯する」代々木競技場と二重吊り構造の先駆性
代々木競技場の設計当時、吊り構造の建築として有名だったのがエーロ・サーリネン(1910~1961年)が設計し、1958年に完成したイエール大学のホッケーリンクで、「クジラ」の愛称を持つこの建物では、真ん中に大きな梁をアーチ状に架け、そこから両サイドにケーブルを張って屋根を支えていました。
一方、丹下健三を中心とする設計チームが考え出したのは、「二重の吊り構造」、つまりメインの吊り材からサブの吊り材を吊るという、建築では世界初のアイデアでした。この先駆的な吊り屋根構造により、伝統と近代の融合を表現し、モダニズムの新たな地平を切り開いたのです。そしてここにおいて、日本の近代建築の存在が世界に示されました。
渋谷の象徴「NHK放送センター」と若者文化の拠点
NHK放送センターは、東京都渋谷区に位置しています。このセンターは、1964年の東京オリンピックの開催の翌年、1965年に設立され、2004年にはふれあいホールが完成しました。カラー放送の普及、衛星放送のスタート、そしてテレビ放送の完全デジタル化など、NHKは数々の進化の過程を経て、渋谷の地で歴史を刻んできました。
NHK放送センターの誕生と建設に対する反対運動
それまでNHK(日本放送協会)の本部として使用されていたのは、1938年に東京都千代田区内幸町に完成したNHK東京放送会館で、ここが1973年までNHKの本部として使用されていました。
NHK放送センターの建設は、ワシントンハイツ跡地にて行われることが、1962年に政府に提出された申請書により提案されました。しかし、この建設計画には反発する意見も多く、特に東京都知事の東龍太郎をはじめとした東京都議会は反対の立場をとりました。
都議会は、すでに政府と都議会の間で交わされていた「覚書」に基づき、ワシントンハイツを森林公園にするという決定を覆すことへの反発から、NHK放送センターの建設に反対の立場をとりました。また、NHKへの譲渡が他の施設の建設を許す口実となることへの懸念も表明しました。
このような都議会を中心に広がる建設反対の声に対し、政府はオリンピックにおける「テレビの重要性」を繰り返し強調し、結局、政府が都議会を説得し、1963年2月25日にワシントンハイツ跡地にNHK放送センターの建設が承認されました。
そして現在の渋谷へ!
東京オリンピックが開催された1964年には、日本全体が急速に都市化・工業化していく中で、東京の渋谷も大きな変貌を遂げました。その後、1973年にパルコが開店し、渋谷は若者文化の一大拠点となりました。
パルコは、新しいライフスタイルやファッショントレンドを提供する百貨店として、若者に人気のショッピングエリアとなりました。パルコの登場により、一度は郊外電車のターミナルとして機能していた渋谷は、消費とサブ・カルチャーが交錯するエリアへと進化しました。
それまで「区役所通り」と呼ばれていた通りは「公園通り」に名前を変え、パルコやその他の若者向けのブランドショップが集まるエリアとなりました。パルコの開店は、渋谷の商業エリアとしての魅力を一層高め、全国から若者を引き寄せることに成功しました。
世界が注目する若者文化の発信地
渋谷は、その特性から銀座や新宿といった他の東京の繁華街とは一線を画す地域となりました。銀座が高級ブランドのショッピングエリア、新宿がビジネスとエンターテイメントの中心地とされる中、渋谷は若者のサブカルチャーの中心地として、その独自の文化を築き上げることに成功しました。そのため、渋谷は全国、さらには世界からの観光客にとって、訪れる価値のある場所となりました。
オリンピックの遺産となった首都の交通インフラ ── 東京オリンピック物語(8)