東京オリンピック物語(6)── 焼け野原から復活へ……。今に繋がる「レガシー」

東京オリンピック物語(6)── 焼け野原から復活へ……。今に繋がる「レガシー」

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東京オリンピック物語(5)── オリンピック招致のために尽力してきた「田畑政治」が直前で辞任
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Tokyo Legasy

東京レガシー

オリンピック・パラリンピック等経済界協議会/YouTube

レガシーって?

レガシー(legacy)は英語で「遺産」を意味する言葉です。本来は「亡くなった人がのこした財産」を意味するのですが、派生的に「世代から世代へ受け継ぐものごと」も意味します。日本語のレガシーは、後者をさします。例えば「前政権のレガシー」と表現した場合、ここでのレガシーは、前政権によって残された「政治的業績」を意味します。

第27回 レガシー/三省堂 ことばのコラム
オリンピックにより起きるレガシー「オリンピック・レガシー」

さらに「アジアで初のオリンピック」ということで,国中がオリンピック一色といってもよいような熱気に包まれる中,直接オリンピッ クにかかわるとは思えないものまで,すべてを 「オリンピックまでに」「外国人に見られて恥ずかしくないように」と,猛烈な勢いで進められたためである。その結果人々の東京での生活は,移動から娯楽まで大きく変化することとなったのである。

東京オリンピックと日本人のアイデンティティー1964年東京大会と首都美化運動,マナーキャンペーンー/斗鬼 正一.江戸川大学紀要28号

IOCによれば、レガシーとは「長期にわたる、特にポジティブな影響」とされます(IOC “Olympic Legacy and Impacts”)。オリンピックの開催が決まると、開催予定都市において各種の施設やインフラの整備、スポーツ振興等が図られます。これによって生活の利便性が高まるなど人々の暮らしにさまざまな影響が出ます。こうしたオリンピック開催を契機として社会に生み出される持続的な効果がオリンピック・レガシーです。

レガシーとは何か /三菱総合研究所(MRI)
スポーツ」「社会」「環境」「都市」「経済」

 五輪憲章にレガシーの項目を盛り込むことが決まったのは、02年11月のIOC総会だった。五輪の商業化が進み、招致に向けたIOC委員への買収疑惑が浮上する一方、会場整備などに多大な経費がかかることで開催メリットへの疑問が生まれ、立候補都市の減少が危惧された。そのため、五輪を一過性の祭典で終わらせずに、開催の価値観を新たに見いだすために持ち出されたと言われている。IOCは03年にレガシーの概念などを「スポーツ」「社会」「環境」「都市」「経済」の五つのカテゴリーに分類して公表。

オリパラこぼれ話 オリンピックレガシー 後世に誇れる継承を/毎日新聞.2021

「有形レガシー」と「無形レガシー」

東京都 Tokyo Metropolitan Government/YouTube

オリンピック・レガシーについて言及する際 に多用される分類として、有形(tangible)と無形 (intangible)がある。IOC によれば、有形のレガシー としては、スポーツ施設や交通インフラの整備、都市の再生、まちの美化、都市の魅力や住民の生活 水準の向上につながるものがあり、無形のレガシー としては、国家威信の高揚感、新しい職業技術の獲 得や向上、開催国住民の満足感、自国文化・遺産の 再発見、環境意識が向上することが挙げられる 。

有形のレガシーと無形のレガシーの関係性に関する 研究(p.47)/荒牧亜衣.筑波大学体育系紀要 Bull. Facul. Health & Sci., Univ. of Tsukuba 39 47-52, 2016
現代にも残る「有形レガシー」

かつて1964年に東京で開催された東京オリンピックにおいては、その開催にむけて、競技用施設だけでなく、東海道新幹線や東京モノレール、首都高速道路等のインフラストラクチャーが整備されたほか、観戦客を受け入れるための数々のシティホテルも開業し、良くも悪くも東京の風景は一変した。そして、こうした明確な変化は、日本が第二次世界大戦敗戦の荒廃から復興し、先進国として国際社会に復帰するというメッセージとなって国内外に強く発信された。

オリンピッオリンピック文化プログラムに関する研究および「地域版アーツカウンシル」の提言ク文化プログラムに関する研究 および(p.177)/ 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会.三菱UFJ …

東海道新幹線の開通や首都高速道路の建設など、東京五輪に向けて充実した都市インフラは、1964年大会の「有形のレガシー」として知られている。

10月10日は1964年東京五輪、開幕の日:1964年のレガシーとは/Olympics.2020
無形のレガシー

1964 年東京大会での東洋の魔女の活躍は、バレー ボールの普及においても評価できるものであった。 特に、彼女たちの壮絶な練習風景とは対照的に、 女性が広く一般に楽しめるスポーツとしてバレー ボールが広く認知される機会をつくったことは、彼 女たちがのこした代表的な無形の遺産といってよ いだろう。

有形のレガシーと無形のレガシーの関係性に関する 研究(p.48)/荒牧亜衣.筑波大学体育系紀要 Bull. Facul. Health & Sci., Univ. of Tsukuba 39 47-52, 2016
国民の祝日

1964年に行われた東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)は、10月10日、国立競技場で行われた開会式で幕を開けました。

東京1964大会とは /TOKYO 2020 for KIDS 東京2020教育プログラム

そして10月10日の「体育の日」、それを受け継ぐ「スポーツの日」の精神も、1964年東京五輪の「無形のレガシー」だと言える。

10月10日は1964年東京五輪、開幕の日:1964年のレガシーとは/Olympics.2020

スポーツ少年団もレガシーの1つ!

 全国津々浦々で活動を目にするスポーツ少年団(スポ少)。これが1964年東京オリンピック(五輪)の「レガシー」として位置づけられていることは、あまり知られていない

「誰もが楽しめる組織」の理想と現実 スポーツ少年団/朝日新聞.2020
近代オリンピックの父「クーベルタン男爵」の意思を引き継ぐ

1892 年、近代オリンピック創設にあたりクーベルタン男爵は「オリンピックの復活こそが 青少年のための新たなスポーツ教育であり、社会を変革する起爆剤になる」と述べている。1964 年の東京オリンピックにおいて、世界から 3,352 名の青少年が集い、ユースキャンプが行われた。目的はオリンピックを通した青少年交流と教育であった。オリンピックムーブメントは世界平和とオリンピック教育にあったということである。スポーツ少年団はその理念を受け継ぎ、 1962 年に東京オリンピックのレガシー(遺産)として誕生した。

地域スポーツの未来像についての提言-スポーツの力で元気なまちづくり-(p.6)/住谷 幸伸.香川大学大学院地域マネジメント研究科 .2016
1962年6月23日 設立!

「五輪を機に、青少年の健全な育成の場を」と、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を母体にスポ少が誕生したのは、東京五輪の2年前、62年の6月23日。国際オリンピック委員会が創設された1894年6月23日にちなんだ「オリンピックデー」だった。現在の上皇ご夫妻が臨席した大々的な体協50周年記念式典の中で、その日に正式登録された東京と埼玉の22団体753人を代表し、新宿区スポーツ少年団が団旗を受けた。

「誰もが楽しめる組織」の理想と現実 スポーツ少年団/朝日新聞.2020

 1964年の東京オリンピック競技大会では、聖火リレー走者の伴走、開会式や各競技場での大会旗や各国国旗掲揚の介助など、大会の成功の一役を担いました。まさに、スポーツ少年団は1964年の東京オリンピック競技大会のレガシーであると言えます。

東京2020みんなのエスコートキッズプロジェクト/JSPO 日本スポーツ協会
ボランティアレガシー

このスポーツ少年団の団員は、紛れもなく1964年(昭和39年)10月10日に開幕した東京オリンピック支えたボランティアの一人である。当時、日本社会におけるボランティア活動の多くが、社会事業と関連した奉仕活動、慈善的、恩恵的な活動と理解されていた。よって、64年のオリンピックにおいてボランティアという用語は積極的に使われていない。しかし、かれらは国旗掲揚等の業務を大会組織委員会より正式に委嘱され、しっかりと活動を果たした。スポーツ少年団は1964東京大会の組織的レガシーとされているが、そこにはボランティアレガシーも重なっていることを忘れてはならない。

2020東京大会のボランティアレガシーとは何を意味するのか?【オリンピック・パラリンピックのレガシー】/笹川スポーツ財団.2017

パラリンピックでのレガシー

1964年東京パラリンピックのレガシーは、障害者がスポーツをする体制が整備されたことに尽きる。パラリンピック以降、現在の「障がい者スポーツ協会」が設立され、第2部が全国障害者スポーツ大会となり、指導者制度が作られた。続く世代に対して障害者スポーツの可能性を準備したのである。そしてこのレガシーは、日本の福祉施策の流れの中にしっかりと位置付けられていった。つまり、諸外国に比べて低い障害者の「社会復帰率」を上げるべく、一般の人々の障害者に対する認知度を高め、更生援護が可能な障害者の社会復帰を加速させたのだ。ただし、それは戦後の障害者運動が求めてきた重度者の生存の権利の要求とは異なるものでもあった。その意味で、ここでの「障害者」の範囲は狭く、可視化されたのは限られた多様性だった

1964年東京パラリンピック:日本の障害者スポーツの原点/nippon.com.2020

この大会フォーマットは、翌1965年に開始された全国障害者スポーツ大会に引き継がれ、さらには1975年の脊髄損傷以外の障がい者にも門戸を開いた第1回FESPIC大会(アジアや太平洋地域の障がい者スポーツ大会、現在のアジアパラ競技大会)が世界に先駆けて日本の大分で開催されている。この大会をきっかけに日本が世界の障がい者スポーツにおいて重要な役割を担うようになったことは、パラリンピックの大きなレガシーといっていいだろう。

画期的な試みで生まれた東京1964大会のレガシー 進化を続けるパラリンピック(後編)/東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト.2019

「パラリンピック」の名称が初めて考案されたのは1964(昭和39)年の東京大会。半世紀以上も前、「バリアフリー」という概念すらなかった時代に、大学生らで構成された日本赤十字社の「通訳奉仕団」が、外国のパラ選手をサポートしていた。奉仕団を経験した人たちは、当時培われた「ボランティア精神」というレガシー(遺産)が今大会にも受け継がれることを望んでいる。(植木裕香子、松崎翼)

1964年パラのレガシーを 無償の「通訳奉仕団」、受け継ぎ願う/産経ニュース.2019

焼け野原からの日本の奇跡的な復活はオリンピックが起爆剤!?

1945年に第二次世界大戦に敗戦した日本は国富の約4分の1を失い、経済状況はどん底の状態で焼け野原でした。

東京五輪と開幕後の経済/日野上総合事務所.2020
高度経済成長

しかし、1950年に朝鮮戦争が始まると、日本は米軍の物資の輸出の拠点となったことで特需を受け、一気に高度経済成長を遂げます。

東京五輪と開幕後の経済/日野上総合事務所.2020
それでも日本はまだ発展途上国だった
上田/YouTube

敗戦の打撃から徐々に立ち直りつつあったとは言え、1960年代初頭の日本は、欧米への劣等感に苛まれる、貧しい発展途上国であった。

日本を変えた東京五輪1964 「2020」は何を生みだすか?/PROJECT DESIGN.2016年9月号

1956(昭和31)年の『経済白書』の「もはや戦後ではない」という一文が当時の流行語になったが、1960年代半ばの東京都内にはまだ駐留軍に接収されている地域もあり、道路も舗装されていない泥道、砂利道が多かった。水洗トイレや下水の普及率も低く、都市基盤の整備や衛生状態は、欧米各国に大きく後れをとっていた。

1964年東京五輪を機に変貌を遂げた渋谷の街2020年以降の東京はどのように変化するのか/東洋経済ONLINE.2020

民間テレビ放送開始以降、繁華街の「街頭テレビ」に人々が群がり、白人レスラーを叩きのめす力道山の雄姿に喝采を叫ぶ姿にもそれは表われていた。「日本人としての誇りを取り戻したい、少しでも豊かになりたい」というのが、当時の日本国民の切なる願いだったと言ってよい。

日本を変えた東京五輪1964 「2020」は何を生みだすか?/PROJECT DESIGN.2016年9月号
高度経済成長をオリンピックがブースト!「オリンピック景気」
上田/YouTube

1950年代後半から1970年代前半にかけての好景気は、「高度経済成長期」といわれ、中でも1962年から1964年の2年間は「オリンピック景気」と呼ばれています。

オリンピックがやってくる/わらしべ瓦版.2018

1959年5月26日、自国で初めてスポーツの世界大会を開催することが決まった時、日本は世界中のアスリートとスポーツファンを受け入れる国づくりを進める必要に迫られた。

東京オリンピックがこれからの日本にもたらす4つのプラス要素/Olympics.2018
国家の維新をかけた約1兆円のプロジェクト

国家予算が年間約3兆2,000億円の時代に約1兆円をオリンピック・パラリンピックに投じ「1兆円プロジェクト」と呼ばれた。内訳は運営費が99億4,600万円、施設建設費165億8,800万円、インフラ整備費9,608億2,900万円など。インフラ整備費は新幹線や高速道路の整備にあてられた。こうした交通網に加え、国立競技場や武道館、代々木競技場などの施設は、50年たった今でも現役で活躍している。上下水道の整備にも729億円が投じられ、衛生的に劣悪と言われた東京の上下水道は飛躍的に改善された。これらは現在老朽化の憂き目にあっているとはいえ、今日の社会インフラは1964年東京オリンピック・パラリンピックの遺産が土台となっている。

スポーツアカデミー2014 第7回 1964から2020へ=歴史を伝える意義/笹川スポーツ財団
今の価値に換算するとなんと20兆円だった!!

開催のための関連予算は当時で1兆円超、今なら20兆円規模であった。

【東京五輪と角栄の時代】1964年の東京五輪 田中角栄氏が“大盤振る舞い”の予算計上「1秒あたり5億5000万円の復活折衝」 /zakzak.2021
「東洋の奇跡」

 昭和39年の東京オリンピックの頃になると、右肩上がりの経済成長が続き、後の高度経済成長の礎となりました。当時の経済成長は「東洋の魔女」ならぬ、「東洋の奇跡」と呼ばれました。

東京オリンピック2020/浦安市立図書館
今も残り続ける「レガシー」

1964 年の東京大会は、戦後の復興と経済的な飛躍の象徴として記憶され、夢や感動とともに、多くの「レガシー」が残されました。

2020 年 東京オリンピック・パラリンピックに向けた多摩市の取組方針/多摩市役所

Kenkichi Oshima

東京オリンピックを作った男「大島鎌吉」

urbsintacta/YouTube

1964年、東京で第18回オリンピックが開催された。有色人種国家における史上初のオリンピックを成功に導いた男こそ、選手強化対策本部長の大島鎌吉であった。人は彼を「東京オリンピックをつくった男」と呼ぶ。

大島鎌吉/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
オリンピアン!

 1908(明治41)年、金沢市に生まれ、関西大学の学生だった32(昭和7)年、ロサンゼルス五輪の陸上三段跳びの代表になりました。競技3日前に選手村の宿舎でガス風呂が爆発して全身に大やけどを負うも銅メダル。文武両道で学生時代から「跳ぶ哲学者」の異名を取りました。34(昭和9)年、大阪毎日新聞社に入社するとベルリン特派員として第二次世界大戦の欧州戦線を取材し、45(昭和20)年にはベルリン陥落を打電。ソ連(当時)兵に捕まりますが、シベリア鉄道でソウルへ、さらに飛行機で帰国を果たしました。

スポーツの巨人が遺した月桂樹/大阪体育大学.2020

東京オリンピック招致活動に尽力

東京がオリンピック招致に成功したのは59年5月25日。

今ある組織の見直しこそ、レガシーの創出である【オリンピック・パラリンピックのレガシー】/笹川スポーツ財団.2016

大島が東京オリンピックに本格的に関わるのは1958年、東京が正式に第18回大会に立候補して以降である。

大島鎌吉とカール・ディーム スポーツに高潔を求めて…… 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

1959年、日本オリンピック委員会(JOC)委員となり、招致運動の中心にいた田畑政治からの要請を受けてソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアをまわり、東京招致をよびかけた。東欧8票のうち7票が日本を支持したのは、大島の功績にほかならない。

大島鎌吉とカール・ディーム スポーツに高潔を求めて…… 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
不祥事が発生……それを救ったのが

第 18 回東京オリンピック開催が決まる半年前、とんでもない事件が起こります。「日本オリン ピック後援会」事務局が資金を遊興費などに使い込むという横領事件です。

1964 年東京オリンピック成功を支えた大島鎌吉の偉業/大島鎌吉.スポーツ文化金沢研究会.金沢文化スポーツコミッション

そして、日本体育協会会長、理事、JOC 委員、幹事たちが総辞職してしまいます。

1964 年東京オリンピック成功を支えた大島鎌吉の偉業/大島鎌吉.スポーツ文化金沢研究会.金沢文化スポーツコミッション

招致運動に際しIOC委員への働きかけは厳禁されている。窮状を救ったのが大島「救いの手」だった。1958年12月20日、大島の呼びかけで「日本オリンピックメダリストクラブ」が結成された(毎日新聞12月21日朝刊)。世界のメダリストへ「1964年の東京で会おう」と書信を送って「IOCでの投票を有利にする」狙いがあった。大島はオリンピック運動に賛同する青年有志に働きかけ「オリンピック青年協議会」を立ち上げさせていた。実は「メダリストクラブ」と「青年協議会」が国内外に向け招致運動を公然と展開したのである。

大島鎌吉のスポーツ思想に学ぶ(5)―理念「オリンピズム」の探究という視点において―(p.31)/伴義 孝(関西大学名誉教授).人体科学27-(1):23-35,2018〈評

選手強化対策副本部長に就任選手強化五ヶ年計画

東京オリンピックを1年半後に控えた1963年4月、大島は「選手強化対策副本部長」に任命され、『選手強化五ヶ年計画』を策定しました。それまでの日本スポーツ強化の欠点を分析し、スポーツに「科学」を導入したトレーニングを推進します。さらに、選手の発掘と育成、専任のコーチ制度、各競技で世界の著名なコーチや学者を次々と招聘し選手を強化しました。現在では当たり前のように感じられるこうした選手の育成強化策は、当時の日本では大変画期的なものでした。

金沢が生んだ東京オリンピック選手団長/金沢文化スポーツコミッション

選手強化対策本部長の田畑政治を、副本部長として支え、計画を予定通りに実施いていく。同本部が5年間に使った経費は約20億6000万円余。東京五輪開幕まで残り2年となった頃からは同本部の責任者らが国会に呼ばれ、説明を求められることも度々だったという。国を挙げて東京五輪を成功させようという“意気込み”の表れでもあったが、単刀直入な質問も浴びせられた。「金メダルはいくつ取れるのか」。ちなみに1956年メルボルン、60年ローマ五輪での金メダル数はともに4個。ここで田畑に代わって同本部長に就任していた大島はきっぱりと答えた。「金メダル15個を獲得します」―。

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第182回 陸上三段跳び、五輪選手団長・大島鎌吉/NPO法人 愛知スポーツ倶楽部.2021

「東京オリンピックをつくった男」

結果は16個の金メダル。だから大島は「東京オリンピックをつくった男」とも呼ばれた。

大島鎌吉とカール・ディーム スポーツに高潔を求めて…… 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

日本スポーツ少年団」設立

熱狂いまだ醒めやらない翌60年5月、日本体育協会は「青少年に対するオリンピック啓発運動推進のための機関設置」方針を定めた。早速、動き出したのは選手強化対策副本部長を務める大島鎌吉であった。

今ある組織の見直しこそ、レガシーの創出である【オリンピック・パラリンピックのレガシー】/笹川スポーツ財団.2016

大島を推進役に、18歳以下の未組織の少年少女を対象とした組織ができあがる。62年6月23日、オリンピックデーに日本スポーツ少年団は産声をあげた。当初は東京、埼玉の22団体、753人の登録であった。

今ある組織の見直しこそ、レガシーの創出である【オリンピック・パラリンピックのレガシー】//笹川スポーツ財団.2016

選手強化対策本部長に!

(前略)1963年にはジャカルタでのアジア競技大会の参加トラブルが引き金となって辞任した田畑の後を引き受け、強化対策本部長となった。

大島鎌吉とカール・ディーム スポーツに高潔を求めて…… 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

日本選手団の団長

 1964年東京五輪の選手団長は陸上男子三段跳び五輪メダリスト、大島鎌吉氏が務めた。

東京五輪団長に福井烈専務理事/REUTERS.2020
聖火リレーの人生について重要な提言

「1964 年の東京オリンピック聖火リレーランナーは、高校生たち若者を中心にする」ということを提唱したのも大島でした。

1964 年東京オリンピック成功を支えた大島鎌吉の偉業/大島鎌吉.スポーツ文化金沢研究会.金沢文化スポーツコミッション

原案では、各自治体の首長や議員、財界有力者、スポーツ功労者だったそうです。それに異を唱えたのは大島でした。最終聖火ランナーに推されていた織田幹雄らも賛同しました。

1964 年東京オリンピック成功を支えた大島鎌吉の偉業/大島鎌吉.スポーツ文化金沢研究会.金沢文化スポーツコミッション

世界的な偉人

東京五輪後のオリンピック・コングレスでは平和運動家・ノエル=ベーカー男爵らと行動を共にし、こうした世界的貢献に対し、その後、国際オリンピック参加者協会から日本人初の「五輪平和賞」を受けました。

関大アーカイブズ「あなたは関大スポーツの歴史を知っていますか?」/関西大学.2021

1985(昭和60)年、大島は76歳で永遠の眠りについた。没後、国際オリンピック委員会(IOC)は大島に「オリンピック功労賞」を贈った。生存者だけに贈る規定から、逝去後に贈呈されたのは異例である。大島の世界スポーツに対する貢献度の高さがうかがえる。

2019年度西大学年史資料室 スポーツの人五輪の哲人 大島鎌吉/関西大学

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東京オリンピック物語(7)── 選手村の場所は今の代々木公園!激変する渋谷
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私たちは、2020年3月、「日本スポーツレガシー・コミッション」という新しい一般財団法人を立ち上げました。これはラグビーワールドカップやオリンピック・パラリンピックなどの国際大会の経験、及びレガシーを継承していくためのもので、人材育成の場として運営し、スポーツ界のタテ社会ではなく、幅広いヨコの連携を活発にしようという発想です。(「Books」出版書誌データベースより)