今回は、日本の水泳界を支えた田畑政治氏の人生と業績について紹介します。彼は幼少期から健康上の問題に直面しながらも、自身の夢を諦めることなく、水泳指導者として活躍しました。田畑氏は指導者として多くのオリンピック選手を育成し、その名前は全国に広まりました。また、彼は東京オリンピックの誘致と準備にも尽力しました。
この記事では田畑政治の生涯と業績を追いながら、彼がスポーツと政治の交差点でどのように挑戦し、信念を貫いてきたかを探求しています。彼の献身と信念は、後世のスポーツ界における重要な教訓となります。田畑政治の遺産は、スポーツと政治の分離を追求し、国際的なスポーツイベントの友好と公正さを追求する人々にとって、永遠のインスピレーションとなるでしょう。
焼け野原からの復活!GHQ統治終了と東京オリンピックへの挑戦 ── 東京オリンピック物語(4)
Masaji Tabata
嘉納治五郎の意思を継ぐ男「田畑政治」
田畑政治は1898年、浜松市中区成子町で生まれ、裕福な造り酒屋「八百庄」の次男として育つという環境に恵まれました。しかし、家系の短命と自身の健康的弱さが影響し、幼少期からは浜名湖での水泳を通じて身体を鍛える日々が続きました。
しかし、4年生の時に慢性盲腸炎と大腸カタルを併発し、医師から水泳中止の勧告を受けるという厳しい現実に直面します。この結果、水泳選手という夢を断念せざるを得ませんでしたが、彼の情熱と野望はそこで終わることはありませんでした。代わりに「自分が泳げないなら世界一の選手を育て上げる」という新たな目標を掲げ、田畑は指導者・マネジャーとして水泳界に貢献し続けました。
その過程で彼は、周辺の中学校の水泳部を統合し、浜名湾游泳協会を設立。また、当時主流だった日本泳法から競争力のあるクロールへのスタイル変更を実現しました。この大胆な決断は1922年の全国大会で全国制覇を達成するなど、田畑率いる浜名湾勢の成功を後押ししました。
田畑の指導はその後も多くのオリンピック選手を輩出し、彼の名前は全国に広まりました。特に、1932年ロサンゼルスオリンピックでの浜松一中在学中の宮崎康二の金メダル獲得と世界新記録樹立は、彼の指導者としての力量を如実に示しました。
また、彼の故郷浜松出身の古橋廣之進も田畑の指導のもとで成長。戦争や事故で一時水泳を断念した古橋ですが、終戦後には再び水泳に打ち込み、日本選手権や全米水上選手権で33回もの世界新記録を更新するなど、世界を驚かせる活躍を見せました。
政治記者と水泳監督の二足のわらじ
朝日新聞社は1923年に大学卒業者の採用試験制度を開始しました。関東大震災が起こった1923年9月に東京の社屋が全焼しましたが、新聞発行を再開し、人材が必要だったため、2年目の採用試験が行われました。田畑政治はこの試験を受け、1924年5月1日に朝日新聞社に入社しました。
大正から昭和への改元や二・二六事件など、時代がダイナミックに動く中、田畑は政治記者と水泳指導者の二足のわらじを履いて活躍しました。彼は東京オリンピック招致を目指し、多くの重要な政治イベントを取材しました。しかし、彼の水泳活動は当時の朝日新聞社の「服務内規」で禁止されていた社外活動でした。
田畑は仕事と水泳活動を両立させることができたのは、彼が優れた政治記者であり、上司や同僚、後輩からの評価が高かったからです。彼は政治家たちの懐に飛び込み、後輩記者に特ダネを提供する一方で、自分が書く記事には要点を押さえた素晴らしい勘を発揮しました。
ただし、彼が陸軍省を担当していた時期には、陸軍取材に対して熱心でなく、同僚や上司からの評価が低かったという記録があります。それでも、ほとんどの場合、政治記者としての田畑の仕事ぶりは評価されており、そのため水泳活動について非難する声はあまり上がらなかったようです。
幻の大会への挑戦
田畑政治は、1940年の東京オリンピック開催のために大いに活躍しました。嘉納治五郎がこの大会を実現させるために目を付けたのが、田畑でした。アムステルダム大会で金メダルを獲得した男子200m平泳ぎの鶴田義行選手を育成した田畑は、競泳の専門家として知られていました。
嘉納から相談を受けた田畑は「世界に東京開催を認めさせるためには競泳しかない」と主張し、1932年のロサンゼルスオリンピックに照準を合わせました。その結果、日本は18種目中12個のメダルを獲得し、特に男子100m背泳ぎでは表彰台を日本が独占するという快挙を成し遂げました。
田畑の活動と成果は大きな評価を受け、1936年には1940年の東京オリンピック開催が決定しました。しかし、残念ながらこの大会は幻の大会となりました。戦争の拡大により、日本は開催権を返上せざるを得なくなり、戦争末期にはスポーツ自体が禁止され、田畑の夢は一時的に終わりを告げました。それでも彼の貢献と努力は、後世に大きな影響を与え、日本の水泳界における重要な遺産となりました。
再びの挑戦と成功
戦後の日本は、水泳連盟や各スポーツ協会を通じて国際オリンピック委員会(IOC)に復帰しました。そして、1952年に戦後初のオリンピックに参加。田畑政治はその日本選手団の団長を務めました。
田畑は、嘉納治五郎が実現できなかった東京オリンピック開催を再び目指しました。1958年以降、田畑は再び東京オリンピックの誘致に向けて準備委員会を牽引し、1959年5月、西ドイツ・ミュンヘンで開かれたIOC総会で1964年の夏季オリンピック開催地として東京が選ばれました。
嘉納治五郎に仕えていた田畑政治は、この成功に至るまでの誘致活動に大いに貢献しました。田畑の長年の夢であった東京オリンピックの開催は、遂に現実のものとなりました。
田畑政治と東京大改造「オリンピック準備の舞台裏」
東京オリンピック誘致成功後、田畑政治はオリンピック組織委員会の事務総長に就任し、大会準備に尽力しました。しかし、当時の東京は様々な都市問題を抱えていました。交通渋滞は世界最悪のレベルであり、大会の成功を阻む大きな障害となりました。
これらの問題を解決するために、1兆円という莫大な費用を投じて東京大改造が始まりました。この大改造は、都市の基盤整備だけでなく、交通網の改善や公共施設の建設など、東京全体の発展を目指した大規模なプロジェクトでした。
田畑の指導の下、東京は大きな変貌を遂げ、1964年の東京オリンピック開催に向けた準備が着々と進みました。
田畑政治と新たなオリンピック種目「柔道と女子バレーボールの採用」
田畑政治は東京オリンピック大会組織委員会の事務総長として、新たなオリンピック競技の採用を強く訴えました。特に、当時日本が世界的に優位に立っていた柔道と女子バレーボールを採用するよう訴えたのです。
その結果、嘉納治五郎が創設した柔道がオリンピックの正式種目に採用されました。これは日本の武道が国際的なスポーツの舞台で認められた、歴史的な瞬間でした。
また、女子バレーボールも新たに採用され、日本の女性アスリートに新たな挑戦の場が提供されました。この採用が後の「東洋の魔女」の誕生と、女子バレーボールの国際的な成功につながったと言えるでしょう。
田畑政治の決断!アジア大会での政治とスポーツ問題
1962年9月、田畑政治は東京オリンピック組織委員会事務総長として、重大な判断を迫られることになります。その年の夏、インドネシアのジャカルタで開催されたアジア大会で、主催国インドネシアは、親交のある中国やアラブ諸国に配慮し、台湾とイスラエルを招待しないという決定を下しました。
これは国際オリンピック委員会(IOC)から重大な注意を引き起こしました。IOCは、スポーツへの政治介入を極めて嫌う立場にありました。さらに国際陸上競技連盟は、このアジア大会に参加した各国連盟の除名を宣言しました。
日本はこの状況において、2年後のオリンピック開催国であり、同時にインドネシアの友好国でもあるという、非常に微妙な立場に置かれました。国際オリンピック委員会(IOC)は「加盟国の参加を拒否するなら正式な競技大会として認めない」という姿勢を示しました。
この事態に田畑政治は、「ここで引き揚げるという選択はすべきではないと思います。非合法の大会を合法化することに全力を傾注することこそ、アジア・スポーツ界の発展につながる日本が取るべき道だと思います。スポーツに政治を介入させたくありません」と公言しました。
田畑氏は、政治の対立を超えてスポーツの友好に力を注ぐべきだという決意を示したのです。しかし、その判断は国際的な批判を受け、結果的に東京オリンピック組織委員会事務総長の地位を追われることになります。
ジャカルタアジア大会後の田畑政治の辞任
ジャカルタでのアジア大会では、日本選手団は金74個、銀57個、銅24個という優秀な成績を収めました。しかし、田畑政治の大会参加の判断は、日本国内から厳しい批判を受けました。
その理由は、アジア競技連盟の憲章違反となる大会への出場を強行したこと、インドネシアの政治的策略に呑み込まれ、有効な対策を講じることが出来なかったと受け止められたこと、そして帰国後も見解の不統一さが浮き彫りになったことでした。このような状況を重く受け止めた政府や世論は、2年後の東京オリンピックに対して大きな影響が出ることを危惧し、日本スポーツ界に対し体制の刷新を求めました。
日本政府は、台湾から直接対応要請があった際には、政治的介入をしないという原則を保ちつつ、日本選手団に対して参加に関して慎重に考慮するよう求めました。また、日本選手団が参加を決めた後には「全く不可解」とその対応に疑問を示しました。この問題により、同大会に出場していた日本は混乱し、インドネシアとの関係も考慮に入れつつ競技には参加したものの、禍根を残す結果となりました。
結果的に、津島寿一と田畑政治は、この問題の責任を取る形でJOCの役職を辞任しました。当初はオリンピック大会組織委員会の事務総長として留まると見られていた田畑でしたが、政治絡みの主導権争いの波に巻き込まれ、結局は事務総長も辞任することになりました。
田畑の解任とその背後
田畑政治の解任には、政界の川島正次郎という実力者の影響があったと言われています。川島は自身の派閥が大きなものではなかったにもかかわらず、優れた政治的な嗅覚で政局を左右した自由民主党の実力者でした。田畑は後に、朝日新聞時代の同僚である細川隆元から、「あの時のしっぺ返しを受けたんだよ」と言われ、事情を教えられました。
その背景には、東京オリンピックの予算を話し合う会合での出来事がありました。川島が予算について横槍を入れてきたため、田畑は激怒し、「スポーツの専門家でもないのに、つべこべ言うな。第一、都知事選の時も資金調達が上手くやれず、よくあれで幹事長が務まるものだ」と批判したのです。
田畑は自著「スポーツとともに半世紀」で、「われわれは、文字通り血の出る思いをしてレールを敷いた。そして、私が走るはずだった、そのレールの上を別の人が走ったのである」と述べ、自身の怒りを吐露しました。この一連の出来事は、田畑の職務解任とその背後にある複雑な政治的な力関係を明らかにしています。
新たな指導者の就任と東京オリンピックの開催
五輪開催まであと2年という時点で、大会運営の中心となる組織委員会の首脳陣が不在という事態に陥りました。準備作業が停滞したため、会長より先に事務総長の選定に取り掛かることになりましたが、困難な状況を前に候補者を見つけるのは難航しました。しかし、1ヶ月後、大平正芳外務大臣と大野伴睦自民党副総裁(いずれも当時)による説得を受け、元エジプト・スペイン大使で歌人の与謝野秀が事務総長に就任しました。
そして1964年10月10日、秋晴れの空の下、新装された国立競技場で第18回オリンピック東京大会が開幕しました。前日まで雨が心配されていた田畑政治は競技場に一番乗りしましたが、その時点では彼の肩書は組織委員会事務総長ではなく、日本水泳連盟名誉会長に過ぎませんでした。
それでも田畑はその後もスポーツ界に貢献し続け、1972年の札幌冬季オリンピックに関わり、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長(現在の会長)ともなりました。1984年8月25日、85歳でその生涯を閉じた際には、棺はオリンピック旗で覆われました。田畑の献身的な貢献は、その最後の瞬間までオリンピックと共にありました。
焼け野原から生まれる「レガシー」と未来への絆 ── 東京オリンピック物語(6)