東京オリンピック物語(5)── オリンピック招致のために尽力してきた「田畑政治」が直前で辞任

東京オリンピック物語(5)── オリンピック招致のために尽力してきた「田畑政治」が直前で辞任

前回の記事を読む▼

東京オリンピック物語(2)── 太平洋戦争で多くのアスリートたちは命を失った
“https://diggity.info/sports/tokyo-olympic-2/”

Masaji Tabata

嘉納治五郎の意思を継ぐ男「田畑政治」

HamamatsuChannel/YouTube

水泳選手を目指すも怪我で断念……指導者の道へ

1898年(明治31年)に浜松市で生まれた田畑政治は、水泳選手として活躍が期待されるも、病気のため選手の道を断念。

人物像/田畑政治サイト|水泳ニッポンの父 田畑政治ゆかりの地 浜松

政治記者と水泳監督の二足のわらじ

朝日新聞社/YouTube

1924年(大正13)5月1日に、田畑は朝日新聞社に入った。

阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑、その実像は大河ドラマが描かなかった新聞記者の顔/前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長。論座 – 朝日新聞社の言論サイト.2019

 朝日新聞社は23年3月から、大学卒業者を入社試験で採用する制度を始めていた。この年の9月の関東大震災で東京の社屋内が全焼したが、新聞発行をすぐに再開して人材は必要だったために、2年目の採用試験は行われた。田畑はこれを受けた。

阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑、その実像は大河ドラマが描かなかった新聞記者の顔/前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長。論座 – 朝日新聞社の言論サイト.2019

大正から昭和への改元や二・二六事件など、時代がダイナミックに動く中、田畑は政治記者と水泳指導者の二足のわらじをはいて、東京へのオリンピック招致を目指す。

いだてん時代の新聞社は?リリーさん「荒くれ者だらけ」/朝日新聞デジタル.2019

嘉納治五郎から相談を受ける

幻に終わった1940年の東京オリンピックですが、嘉納はこの大会を実現させるためにある人物に目を付けていました。その人物こそが、アムステルダム大会での金メダリスト・男子200m平泳ぎの鶴田義行選手を育成した競泳の指導者・田畑政治でした。

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治/NHKスポーツ

嘉納から相談を受けた田畑は「世界に東京開催を認めさせるためには競泳しかない」と1932年開催のロサンゼルス大会に意欲を燃やします。結果、日本は18種目中12個のメダルを獲得。男子100m背泳ぎでは表彰台を日本が独占する快挙を成し遂げました。

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治/NHKスポーツ

田畑の功績もあり、1936年(昭和11年)に1940年(昭和15年)東京オリンピックの誘致が決まったが、戦火の拡大によって開催権を返上せざるを得なくなり、戦争末期にはスポーツどころではなくなりスポーツ自体が禁止された。

人物像/田畑政治サイト|水泳ニッポンの父 田畑政治ゆかりの地 浜松
幻に終わった東京オリンピックのためにもう一度

水泳連盟や各スポーツ協会がIOCへ復帰した日本は、1952年に戦後初のオリンピック参加を果たし、田畑は日本選手の団長を務めることに。そして、嘉納が実現することのできなかった東京オリンピック開催を再び目指します。

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治/NHKスポーツ

1958年(昭和33年)以降、田畑は再び東京オリンピックの誘致に向けて準備委員会を牽引していく。

人物像/田畑政治サイト|水泳ニッポンの父 田畑政治ゆかりの地 浜松
東京オリンピック開催が決定

1959年5月、西ドイツ・ミュンヘンに於いて第18回夏季オリンピックは東京に決定した。嘉納治五郎に仕えていた田畑政治は懇情の誘致に成功した。

レスリング部/ 偉人列伝.おかやま山陽高校.2020

JOCの事務総長に就任!大会準備に奮闘する!

田畑はオリンピック組織委員会の事務総長に就任し、大会準備に辣腕を振るった。しかし当時の東京は世界最悪と言われた交通渋滞を始め、様々な都市問題を抱えていたため、1兆円を投じる東京大改造が始まった。

1959年5月 ミュンヘンIOCの総会 | 映像の世紀プレミア(映像の世紀プレミアム)/TVでた蔵

嘉納治五郎の「柔道」をオリンピック競技に

Grappler Kingdom/YouTube

田畑は東京オリンピック大会組織委員会の事務総長として、当時日本が優位に立っていた柔道と女子バレーボールをオリンピック競技に採用するよう強く訴えた。その結果、IOC委員であった嘉納治五郎が創設した柔道が正式種目となり、すべての階級でメダルを獲得。女子バレーボールも採用され、 「東洋の魔女」と称された大松博文監督率いるチームは、期待通り金メダルを獲得した。

水泳ニッポンの父田畑政治ヒストリー(p.11)/田畑政治の経歴年表 – 浜松市

……開催を目の前にJOC事務総長を辞任に追い込まれていた

Ryan P/YouTube

64年東京五輪組織委員会 62年9月、防衛庁長官などを務めた初代会長の津島寿一、日本水泳連盟会長などを歴任した事務総長の田畑政治が辞任に追い込まれた。原因は同年夏のアジア大会(ジャカルタ)。

東京五輪組織委は64年もお家騒動 会長ら2人辞任/日刊スポーツ.2021
アジア競技大会での出来事

詳しく言えば、主催国のインドネシアが親交のある中国やアラブ 諸国に配慮、台湾とイスラエルを招待しなかった。これを国際オリンピック委員会(IOC)は重視し、スポーツへの政治介入を嫌った国際陸上 競技連盟が「アジア競技大会に参加した連盟の除名」を発表する事態となった。


聖火リレーへの思いとは……(p.63)/佐野慎輔.昭和館
田畑は悩んだ末に参加を決意

 2年後の五輪開催国でありインドネシアの友好国でもある日本は「加盟国の参加を拒否するなら正式な競技大会として認めない」とする国際オリンピック委員会(IOC)との間で板挟みとなり、混乱の末に全競技に参加する。

日曜に書く 論説委員・別府育郎 「いだてん」と東京五輪/産経ニュース.2019

「ここで引き揚げるという選択はすべきではないと思います。非合法の大会を合法化することに全力を傾注することこそ、アジア・スポーツ界の発展につながる日本が取るべき道だと思います。スポーツに政治を介入させたくありません」

米中の「新冷戦」で五輪は再び分断されるのか/nippon.com,2021

国際的に批判を受けるインドネシアでの大会を「非合法」と呼びつつ、田畑氏は政治の対立を超えたスポーツの友好に力を注がなければならない、という決意だったのだろう。

米中の「新冷戦」で五輪は再び分断されるのか/nippon.com,2021

日本は多くのメダルを獲得した!……でも辞任?

金74個、銀57個、銅24個と成果を残したが、大会後に政界有力者らから責任を追及され、2人は日本オリンピック委員会(JOC)の要職とともに退くことになった。

東京五輪組織委は64年もお家騒動 会長ら2人辞任/日刊スポーツ.2021
参加自体が日本国内で大炎上

ところがこの現地の判断は日本国内において批判を招いた。アジア競技連盟の憲章違反の大会への出場を強行し、インドネシアの政治的策略に呑み込まれ、 有効な対策を講じることが出来なかったと受け止められ、かつ帰国後も見解の不統 さが浮き彫りとなり、日本スポーツ界には厳しい批判が降りかかったのである。事態を重く受け止め、2 年後に迫った東京オリンピックに対して大きな影響が出ることを 危惧した政府や世論は、日本スポーツ界に対し体制の刷新を求めた。

日本スポーツ界と政治の関係に関する史的研究 ―1930 年代および 1960 年代のアジアにおける国際スポーツ大会を対象として―(p.125)/冨田 幸祐.一橋大学審査学位論文

政府は、直接台 湾から問題に対する対応要請などがあった際には、政治的介入はしないとの原則に則 りながらも、参加に関し慎重に考慮するよう日本選手団に求め、また日本選手団が参 加を決めた後には「全く不可解」とその対応に疑問を示した。

日本スポーツ界と政治の関係に関する史的研究 ―1930 年代および 1960 年代のアジアにおける国際スポーツ大会を対象として―(p.125)/冨田 幸祐.一橋大学審査学位論文
辞任に追い込まれる

この問題に同大会へ出場していた日本も巻き込まれ、インドネシアと日本の関係もあって競技には参加したものの禍根を残し、責任を取る形で津島と田畑はJOCの役職を辞任した。当初は別組織であるオリンピック大会組織委員会の事務総長には留まると見られていたが、政治絡みの主導権争いの波に巻き込まれ、事務総長も辞任することになった。

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編/CINEMORE.2020

辞任の裏に政治家「川島正次郎」の存在?

事実上の解任、その裏に政治記者時代から田畑の言動をおもしろく思っていなかった”政界の寝業師”、実力者の川島正次郎の画策があったといわれる。

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

派閥は決して大きくなかったが、優れた政治的な嗅覚で政局を左右した、自民党の実力者だった。

交錯する「ピンクの潮流」 中南米の政治混迷 上級論説委員 飯野 克彦/日本経済新聞.2019

後日、田畑政治は、朝日新聞時代の同僚・細川隆元から「あの時のしっぺ返しを受けたんだよ」と言われ、事情を教えられた。

東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝/立志伝

実は、東京オリンピックの予算を話し合う会合で、川島正次郎が予算のことで横槍を入れてきたため、田畑は怒って「スポーツの専門家でもないのに、つべこべ言うな。第一、都知事選の時も資金調達が上手くやれず、よくあれで幹事長が務まるものだ」と批判したことがあった。

東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝/立志伝

自著「スポーツとともに半世紀」に、「われわれは、文字通り血の出る思いをしてレールを敷いた。そして、私が走るはずだった、そのレールの上を別の人が走ったのである」と激しい怒りをぶつけている。

スポーツ茶論 民族の興隆に直結 別府育郎/産経ニュース.2019
1964年東京オリンピック開催まであと2年の出来事だった……。

 五輪開催まで、あと2年になったにもかかわらず、大会運営の中核となる組織委の首脳が不在となる非常事態に陥った。準備作業が停滞したため、まずは会長より事務総長を選ぼうと、数人の候補者がリストアップされたが、火中のクリを拾う人は出てこなかった。

オリンピズム五輪旗と組織委員会(5)調整役に徹し難局乗り切る/iza.2013

 辞任劇から1カ月後、大平正芳外務大臣、大野伴睦自民党副総裁(いずれも当時)に説得され、元エジプト、スペイン大使で歌人、与謝野鉄幹、晶子夫妻の次男、与謝野秀(しげる)氏が就いた。

オリンピズム五輪旗と組織委員会(5)調整役に徹し難局乗り切る/iza.2013

東京オリンピックが開幕!その時田畑政治は……

1964年10月10日、第18回オリンピック東京大会は「世界中の青空をすべてもってきた」秋晴れのもと、新装なった国立競技場で開幕した。前日からの雨を心配していた田畑政治は競技場に一番乗りした。しかし、彼の肩書はすでに組織委員会事務総長ではなく、日本水泳連盟名誉会長としての立場にすぎなかった。

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
その後も生涯オリンピックに関わり続けた!

悔しかったと思う。だが田畑はその後も1972年札幌冬季オリンピックにも関わり、日本オリンピック委員会(JOC)委員長(現在の会長)ともなった。1984年8月25日、85歳でその生涯を閉じたとき、棺はオリンピック旗で覆われた。「もって瞑すべし」である。

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
created by Rinker
戦前・戦後と日本のスポーツ界の発展に尽力し、1964年の東京オリンピック招致を成功に導いた田畑政治。その最も身近に接してきた著者が、『田畑政治オリンピック回想録』出版に向けて田畑政治みずからが語った原稿を元に、オリンピックに生涯をささげたその熱い生きざまを描く。(「BOOK」データベースより)

この記事の続きを読む▼

東京オリンピック物語(6)── 焼け野原から奇跡の復活!!今へ繋がる「レガシー」とは?
“https://diggity.info/sports/tokyo-olympic-6/”