東京オリンピック物語(4)── 焼け野原からの復活!GHQの統治は終わり、東京オリンピック開催に向けて本格的に動き出した!!

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東京オリンピック物語(3)── 戦後GHQ統治下の日本、国際スポーツへ復帰は水泳から!
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Tokyo Olympics

再び東京オリンピックの招致へむけて

東京都 Tokyo Metropolitan Government/YouTube
「東京オリンピック開催へ」議論が交わされる

 東京でオリンピック開催をとの意見がでてきたのは、戦後の占領政策が終わりに近づいてきた昭和26年(1951年)7月5日のことです。

晴れの特異日を選んだという「東京オリンピック10月10日」の神話/Yahoo!ニュース – Yahoo! JAPAN.2018

 東京都は、戦後の日本復興を世界にアピールするため、昭和35年(1960年)のオリンピック大会を東京で開催したいと国際オリンピック委員会(IOC)にアピールしています。 

晴れの特異日を選んだという「東京オリンピック10月10日」の神話/Yahoo!ニュース – Yahoo! JAPAN.2018

IOC総会 in コペンハーゲン「日本がIOCに復帰」

Copenhagen

1951 年の第 44 回コペンハーゲン IOC 総会で日本のオリンピックの復帰が認められ,この総会で永井松三 IOC 委員(死去)の後任として日本体育協会会長・東龍太郎が選任された.

オリンピックと資本主義社会③ オリンピック招致と日本資本主義(p.68)/内海和雄.一橋大学機関リポジトリ
日本水泳の活躍とマッカーサーがIOCへの働きかけ

(前略)マッカーサー元帥はオリンピック委員に日本のIOC復帰を要請していた。また、日本水泳の活躍によって世界の日本に対する世論が代わり始めたので、国際オリンピック委員会(IOC)は、態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明し、日本はIOCに復帰したのである。

東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝/立志伝

サンフランシスコ平和条約によって日本が独立

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube

日本は1952年4月28日発効のサンフランシスコ平和条約によって, GHQの店領から独立を回復した。これは1951年9月8日, 日本と旧連合国48カ国(内容に反対したソ連・中国・インドなどを除く)との間で調印された講和条約である。サンフランシスコ平和条約は通称で,正式名は「日本国との平和条約」である。

日本国憲法制定史における「日本国民」と「外国人」――米国の人権政策と日本政府との狭間で――(p.20)/後藤光男.日本国憲法制定史における「日本国民」と「外国人」(後藤)1

東京オリンピック招致へ向けて活動開始!

その 11 日後の 5 月 9 日、東京都知事安井誠一 郎は、第 17 回オリンピック大会の招致を表明しました。同月 24 日には早くも大会仮招請状をI OCに送付し、戦後における公式の招致活動が、ここに始まります。

1964年 東京オリンピックへの道のり(p.1)/平成 20 年度登録第 3 号 平成 20 年 9 月発行 【印刷】(株)まこと印刷.東京都総務局
日本がオリンピックに復帰!オスロ(ヘルシンキ)・冬季大会
British Pathé/YouTube

オリンピックへの参加も、1952(昭和27)年2月にオスロで開催された冬季大会から認められました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省

 このオスロ大会は4競技22種目で、30カ国694人が参加した。終戦から7年後だった日本は36年のベルリン五輪以来、16年ぶりに五輪に復帰したが、この年の夏にヘルシンキ五輪が控えていたため、派遣費の調達が困難で日本選手団は選手と役員計18人の小所帯で編成された。

羽生結弦、66年ぶりの偉業に挑む…当時は3回転で金/朝日新聞デジタル.2018

前大会と同様に4競技22種目が行われたが、スキーのアルペン種目のうち、男女の複合が廃止され、代わりに大回転が登場した。日本は役員5人、選手13人を送ったが、スピードスケート500メートルの6位が最高の成績だった。

第6回 オスロ (1952年)/JIJI.COM

春副知事を派遣

オリンピックへの関心が大いに高まる中で、都は正式の招請状を携えた春副知事をヘルシンキに派遣しました。

1964年 東京オリンピックへの道のり(p.1)/平成 20 年度登録第 3 号 平成 20 年 9 月発行 【印刷】(株)まこと印刷.東京都総務局
第1回投票で立候補も落選

東京は1952年ヘルシンキ大会直前に1960年第17回大会招致に立候補を表明。しかし、投票が行われた1955年のIOCパリ総会ではわずか4票しか得られず、第1回投票で落選した。立候補を勧めたはずの田畑はしかし、まったく落胆してはいない。むしろ、日本選手団団長を務めたヘルシンキ大会を例にこう話した。

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

「フィンランドは遠かった。遠くても多くの国から選手団は来た」

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

1955年 東京都議会でオリンピック大会の招致へ決議

1955(昭和 30)年 10 月 10 日,第 18 回 オリンピック大会の招致という決議案が東京都議会で満場一致で決議された.

オリンピックスポーツ文化研究(p.41)/No.1 2016.3.日本体育大学
ブランデージ(IOC会長)が来日!!

1955年といえば、日本がまだ戦争の傷痕を残しているころだ。東京は5年後の夏季五輪招致をめざし、国際オリンピック委員会(IOC)総会に向けてあれこれ策を練っていた。ときのブランデージIOC会長がふらりと日本にやって来たのは、そのさなかである。

春秋/日本経済新聞.2012

 日本は第17回大会の東京招致のための活動を積極的に行なった。しかしそれは時間的にIOC委員に理解を貰うための時間が少なすぎた。また欧州からの代表選手団の派遣について、「第16回大会がメルボルン(オーストラリア)で開催されるのに続いて、日本の開催ということに関しては、地理的な問題、派遣費用の問題で不可能と思われる。むしろ第18回大会に焦点を合わせ全ての招致活動をすべきであろう」という意見がブランデージIOC会長から伝えられた。

悲願の東京オリンピック開催へ(2)/JOC – 日本オリンピック委員会
1960年を諦め1963年にオリンピック招致に向けて活動開始

初めは1960(昭和35)年の大会の招致を考えていましたが、各国のIOC委員に東京をアピールするには時間が十分ではなく、当時のブランデージIOC会長の助言もあったことから、1964(昭和39)年18回大会招致に向けて活動を展開しました。

第 12 回オリンピック競技大会(1940 年) の東京招致に関わる嘉納治五郎の理念 と活動(p.72)/真田 久(筑波大学).マス・コミュニケーション研究 No.86.2015

メルボルン・オリンピック「東京でのIOC総会開催が決定」

1956年メルボルン大会でも日本代表選手団団長を務め、ヘルシンキで広めた国際人脈を使って58年IOC総会東京開催を勝ち取った。政治記者の顔を生かして岸信介首相に政府の支援を要請、海外公館と海外人脈の活用を訴えたのもこの頃だ。

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

1958年 東京でIOC総会が開催

翌年 1958(昭和 33) 年の第 54 次 IOC 総会の開催地が東京に決定すると,東京オリンピック開催の招致活動にとって大きな追い風となった.

オリンピックスポーツ文化研究(p.41)/No.1 2016.3.日本体育大学

第 3 回となる東京大会では、その直前に開かれた第 54次IOC総会に参加する各国委員に対し、 東京が国際レベルの競技会を担う実力を持ってい ることをアピールするのが狙いでした。

1964年 東京オリンピックへの道のり(p.2)/平成 20 年度登録第 3 号 平成 20 年 9 月発行 【印刷】(株)まこと印刷.東京都総務局

アジア競技大会での成功

thekinolibrary/YouTube

アジア競技大会は、4年に1度開催されるアジア最大のスポーツの祭典です。 アジア・オリンピック評議会(OCA)が主催し、アジアの45の国と地域が参加します。

アジア競技大会の歴史/20th Asian Games Aichi-Nagoya 2026

アジア競技大会は、第二次世界大戦後まだ間もない1951年、戦禍によって引き裂かれたアジア諸国の絆を、スポーツを通じて取り戻し、アジアの恒久平和に寄与したいとの願いを込め、日本を含む11か国の参加の下、第1回大会がニューデリーで開催されました。

アジア競技大会の歴史/20th Asian Games Aichi-Nagoya 2026

 1958年5月13日、第54次IOC総会が、天皇陛下の開会宣言により開始された。総会のために再来日していたブランデージIOC会長に対し、第18回大会の正式招請状が手渡された。

悲願の東京オリンピック開催へ(2)/JOC – 日本オリンピック委員会

第 54 次IOC総会に参加する各国委員に対し、 東京が国際レベルの競技会を担う実力を持ってい ることをアピールするのが狙いでした。 そのため、オリンピックを意識した聖火リレー の導入や閉会式の巧みな演出等、いわばオリンピ ックの予行演習といってもよい内容が盛り込まれました。

1964年 東京オリンピックへの道のり(p.2)/平成 20 年度登録第 3 号 平成 20 年 9 月発行 【印刷】(株)まこと印刷.東京都総務局
日本がオリンピック開催の力があることを証明

IOC総会とアジア大会の成功を通じ、日本の大会組織力・運営能力はオリンピック開催に十分であるとされ、施設についても申し分ないという評価を受けました。

オリンピック・パラリンピックと日本 第Ⅲ章(p.72)/オリンピック・パラリンピック 学習読本 高等学校編

メイン競技場「国立競技場」建設!!

ANNnewsCH/YouTube
元々は明治神宮外苑競技場

国立競技場の前身は明治神宮外苑競技場で、1924年10月に日本で初めての、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地に建設されました。

国立霞ヶ丘陸上競技場/スポランド
東京大空襲で壊滅!戦後にGHQが改修

 1945年5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)では、明治神宮外苑競技場も爆撃を受け、壊滅的な打撃を受けます。しかし終戦後占領軍に接収された後に改修され競技場として蘇ります。

天空から 5 二つのオリンピック競技場界隈の変遷を見る(前編)/フォーラムミサカ エコ.2019
「ナイル・キニック・スタジアム」

 この競技場を占領軍はナイル・キニック・スタジアム(Nile Kinnick stadium)と呼んでいました。戦死した米海軍のパイロット名前(ナイル・キニック)が由来のようです。キニック氏はアイオワ大学のアメリカンフットボールの名選手、英雄であったということです。米軍が占領地や戦艦等に母国の大統領や英雄の名前を付けるのは珍しくありません。

天空から 5 二つのオリンピック競技場界隈の変遷を見る(前編)/フォーラムミサカ エコ.2019
アジア大会で「国立競技場」に建て替え
JAPAN RUGBY TV/YouTube

 戦後、明治神宮外苑競技場はGHQによる接収を経て返還され、1953年にはサッカーワールドカップの予選、日韓戦にも使われている。そして1958年のアジア大会が東京で開催されることが決まると、国立競技場に建て替えられることになった。

候補は5駅…「国立競技場どこが“最寄り駅”か」問題 JR千駄ケ谷駅に中央線快速が止まらないナゾ《東京五輪》/Number Web.2021

 国際大会の舞台となる競技場の建設は、神宮競技場の取り壊しから始まりました。建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生氏。着工は昭和32(1957)年1月で、大会を2か月後に控えた昭和33(1958)年3月、ついに完成となりました。

国立競技場の歴史詳細/日本スポーツ振興センター
国立霞ヶ丘陸上競技場完成

58年に「第3回アジア競技大会」メイン会場として完成したのが国立霞ヶ丘陸上競技場、いわゆる「国立競技場」だ。「国立霞ヶ丘」とついているように、このあたりは霞ヶ丘と呼ばれている。住所は新宿区霞ヶ丘町(以前は霞岳町と表記)だ。

国立競技場はなぜ神宮外苑にできたのか/日経ビジネス.2019

世界中で東京支持のためのキャンペーン

田畑が中心となって立てた戦略に基づき、JOC会長の竹田恒徳や織田幹雄らは世界各国を回った。1964年のオリンピック開催地として東京支持を訴えたのだ。その中でもアメリカ在住の日経フレッド・イサム・ワダは中南米など多くの国を献身的に回り、東京開催をアピールした。

水泳ニッポンの父田畑政治ヒストリー(p.10)/田畑政治の経歴年表 – 浜松市

1959年 IOC総会 in ミュンヘン「東京での開催が決定!」

Munich

そして迎えたミュンヘンでのIOC総会。開催地として立候補したのは東京、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルの4都市。

水泳ニッポンの父田畑政治ヒストリー(p.10)/田畑政治の経歴年表 – 浜松市

(前略)見通しは五分五分でした。日本はオリンピック開催権獲得に望みをかけ、 ライバルだったデトロイトとウィーンから票を奪おうと激しいキャンペーンを展開しました。

日本とオリンピック(p.2)/Web Japan

午後2時30分から始まった4都市によるプレゼンテーションはブリュッセル、デトロイトと続いて東京に。

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(18)  もはや「ファー・イースト」ではない/産経ニュース.2018

田畑は、1959年ドイツ・ミュンヘンで開かれたIOC総会で、外交官の平沢和重にプレゼンを託しました。

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治/NHKスポーツ
平沢和重「東京オリンピックに開催に向けて伝説の演説」

趣意説明の中で、平沢は、日本の小学6年生の教科書に『五輪の旗』というエッセイが掲載されていることを紹介し、日本では、小学校の時からオリンピック精神やオリンピック・ムーブメントについて学習し、深く理解していることをアピールしました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省

 「昨年、ブランデージ会長は東京総会でこういわれた。『国際オリンピック委員会(IOC)は五輪の五つ目の地域、アジアにきた。これでやっと五つの輪がつながれた』と。いま日本の若人はIOCの会議だけでなく、本当にオリンピックがアジアと手をつなぐときを待ち焦がれている。日本の若人は五輪精神に深い理解とあこがれを持っているのです」

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(18)  もはや「ファー・イースト」ではない/産経ニュース.2018

田畑をはじめとする代表団一同が固唾を呑んで見守る中、45分間の待ち時間に対して原稿も見ずに15分間の演説を行った。

水泳ニッポンの父田畑政治ヒストリー(p.10)/田畑政治の経歴年表 – 浜松市

平沢の簡潔でわかりやすいメッセージはIOC委員たちの心を動かし、オリンピックの東京招致に大きく貢献しました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省
東京オリンピックが決定!

そして、翌年ミュンヘンで開催されたIOC総会において全56票中34票を獲得しました。こうして、アジアで初めてのオリンピック開催となる第18回大会の開催地は東京に決定しました。

オリンピック・パラリンピックと日本 第Ⅲ章(p.72)/オリンピック・パラリンピック 学習読本 高等学校編

戦後復興のシンボルとしてオリンピックを東京へ。招致活動は成功し、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルを圧倒して56票中34票を集めた。戦前、オリンピック委員会会長をしていたマッカーサーが動いたことも勝因のひとつだった。

選手村になったワシントンハイツ──1964東京五輪前夜/GQ JAPAN.2019
日本に「オリンピック組織委員会(JOC)」が設立

1964年東京五輪の組織委員会は開幕5年前の59年9月30日に結成された。会長にJOCトップの津島寿一委員長、事務総長には田畑政治(まさじ)JOC総務主事が就いた。

オリンピズム五輪旗と組織委員会(3)政、官と戦った剛腕事務総長/産経ニュース.2013
「東京オリンピック選手強化対策本部」設立

日本オリンピック委員会(以下JOC、当時は本会内の委員会組織)は、1960(昭和35)年1月18日、「東京オリンピック選手強化対策本部」を設けた(本部長/田畑政治、副本部長/大島鎌吉※のちに本部長)。その中にスポーツ科学研究委員会(東俊郎委員長)が設置された。

変遷と拡大の半世紀(p.17)/変遷と拡大の半世紀[指導者育成のあゆみ] 第1部.日本スポーツ協会

Matsuzo Naga

嘉納治五郎を最後を看取った男「永井松三」

永井松三について『オリンピック事典』(1981) では、以下のような記述がされている。「1939 年 から 1950 年まで国際オリンピック委員会委員。 1877 年(明 10)愛知県生まれ。東大卒業後、外 交官として国際舞台に活躍していたが、1937 年 (昭 12)事務局長久保田敬一の後任として第 12 回オリンピック東京大会組織委員会事務局に就 任、1939 年 IOC 委員に選ばれた。戦後、日本の 国際スポーツ界の国際復帰は、困難とたたかいな がらも、1949 年(昭和 24)の IOC ローマ総会に 出席した同委員の努力に負うところが多い。1957 年 4 月 19 日死去。」とある。

戦後日本の国際スポーツ界復帰に関する永井松三の役割(p.28)/和所 泰史.來田 享子.木村 吉次.スポーツ健康科学研究 35:27~39, 2013.

GHQ統治下でも日本が国際スポーツ復帰のために

(前略)当時、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters、以下「GHQ」と略す) を中心とした占領下にあった日本は、海外渡航も 制限されており、海外および国内への文通も検閲 を通さねばならないため、欧米諸国を中心とした IOC 委員らと連絡を取り合うことは、非常に困難な状況であった。そのような状況下で、日本の戦後オリンピック大会参加および、国際スポーツ界への復帰を目指し、奔走していた一人が永井松三である。

戦後日本の国際スポーツ界復帰に関する永井松三の役割(p.28)/和所 泰史.來田 享子.木村 吉次.スポーツ健康科学研究 35:27~39, 2013.

嘉納治五郎との最後の船旅

 「偶然のことで嘉納先生と先生最後の船を御一緒したのであるが、それから21年目に再び全く偶然のことから、先生の念願としておられた東京オリンピック実現のお手伝いをすることになったのである。思えば不思議な因縁であった」

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(19)武士道精神との融合を願う/産経ニュース.2018

平沢は戦後NHKの解説委員に転身し、1959(昭和34)年のIOC総会で1964(昭和39)年東京オリンピック開催立候補趣意説明を行いました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省
1960年東京オリンピックの決定打

 1959年5月の国際オリンピック委員会(IOC)ミュンヘン総会で、招致演説を行った平沢和重は、嘉納治五郎との交流を「世界柔道史」(恒友社刊)の序文でこう振り返っている。そしてミュンヘン総会について「委員会(IOC)のメンバーである東龍太郎博士が委員諸公に私を紹介する時に『嘉納先生の最後をみとった人物』であることに触れたとたん、委員諸公の顔にはありありと緊張の色が浮かんだ」と、当時の様子を記した。

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(19)武士道精神との融合を願う/産経ニュース.2018
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戦後、がれきの山から這い上がってきた日本は、世界に類例のない高度経済成長を成し遂げた。1964年の東京オリンピック開催当時、日本はかつてないほど誇りに満ち、アジア初のオリンピック開催国として誇り高く他国を迎えた。今に続く日本人の心を形づくったドラマ──1964年の東京オリンピックを、日系アメリカ人ジャーナリストが包括的に描く。英文書籍の待望の邦訳。(「Books」出版書誌データベースより)

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東京オリンピック物語(5)── オリンピック招致のために尽力してきた「田畑政治」が直前で辞任
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