焼け野原からの復活!GHQ統治終了と東京オリンピックへの挑戦 ── 東京オリンピック物語(4)

マッカーサー元帥の尽力により、日本は再びオリンピック委員会に参加し、東京都知事の勇気ある表明によって第17回オリンピック大会の招致が実現しました。戦後の苦難を乗り越え、わずか16年ぶりに五輪の舞台に立つこととなった日本。

しかし、派遣費の調達の困難や競技団体の小規模な編成など、困難な道のりが待ち受けていました。記事では、東京都の招致活動や国際オリンピック委員会へのアピール、アジア競技大会を通じたアジア諸国との絆の再構築など、感動的なストーリーが綴られています。また、戦後復興の象徴としての東京オリンピックの開催地選出や、マッカーサー元帥の活動も取り上げています。

水泳から始まる戦後GHQ統治下の日本の国際スポーツ復帰 ── 東京オリンピック物語(3)
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愛国心さえ取り戻せれば、日本は世界で一番幸せな国になる。戦後70年にわたる「反日プロパガンダ」の虚構を、知日派・米国人が暴く!(「Books」出版書誌データベースより)

Tokyo Olympics

再び東京オリンピックの招致へむけて

東京都 Tokyo Metropolitan Government/YouTube

GHQ(連合国総司令部)の統治下で、日本は復興のための重要なステップを踏み出しました。政治、経済、社会構造の大幅な改革が行われ、新たな国としての基盤が築かれました。

戦後GHQの占領政策が終わりに近づく1951年(昭和26年)7月5日、東京都は大胆な提案を行いました。その目的は、復興途中の日本の成果を世界に示すことにありました。

オリンピック開催の願い

東京都は、1960年(昭和35年)のオリンピック大会を東京で開催したいという意志を、国際オリンピック委員会(IOC)に表明しました。これは、日本が戦後の困難を乗り越え、新たなステージに立つ準備ができていることを示す象徴的な行動でした。

オリンピックの開催は、日本が再び国際社会に参加し、世界の仲間入りを果たすための重要なステップでした。この大会は、日本が戦争の影響から立ち直り、新たな道を歩み始めていることを世界中に示すことができる絶好の機会となりました。

日本のオリンピック復帰

1951年の第44回コペンハーゲンIOC総会で、日本のオリンピックへの復帰が認められました。この重要な総会では、日本体育協会会長の東龍太郎が、故永井松三IOC委員の後任として選ばれました。マッカーサー元帥の要請により、日本は再びオリンピック委員会に参加する道を開くことができました。

日本水泳の活躍と世界の視線

また、日本水泳界の活躍によって世界の日本に対する世論が変わり始め、IOCは態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明しました。これにより、日本はIOCに復帰しました。

Copenhagen

サンフランシスコ平和条約と独立の回復

日本は1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約によって、GHQの統治から独立を回復しました。この条約は1951年9月8日に日本と旧連合国48カ国(ソ連・中国・インドなど反対国を除く)との間で調印されたもので、「日本国との平和条約」が正式名です。

https://www.youtube.com/watch?v=eXw7vf4wQ9A
TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube
オリンピック大会の招致活動開始

独立回復からわずか11日後の5月9日、東京都知事の安井誠一郎は、第17回オリンピック大会の招致を表明しました。そして同月24日には大会仮招請状をIOCに送付し、戦後における公式の招致活動がここから始まりました。

日本がオリンピックに復帰!オスロ冬季オリンピック

1952年(昭和27年)2月、日本はオスロで開催された冬季オリンピックに参加しました。これにより、日本は36年のベルリンオリンピック以来、16年ぶりに五輪に復帰しました。しかし、ヘルシンキ五輪が控えていたため、派遣費の調達が困難で、選手団は18人(選手と役員)という小さな規模で編成されました。日本からはスピードスケート500メートルで6位という成績が最高でした。

British Pathé/YouTube
<公式招請>春副知事の派遣

オリンピックへの関心が高まる中、東京都は正式の招請状を携えた春副知事をヘルシンキに派遣しました。これは、日本がオリンピック開催国としての自己を世界にアピールするための重要なステップでした。

1960年大会への挑戦

1952年のヘルシンキ大会直前、東京は1960年の第17回大会の開催地候補を表明しました。しかし、1955年のIOCパリ総会での投票では、わずか4票しか得られず、第1回投票で落選しました。

田畑の不屈の精神

落選したにも関わらず、田畑は決して落胆しませんでした。彼は、遠くても多くの国から選手団が来るヘルシンキ大会を例に、「フィンランドは遠かった。遠くても多くの国から選手団は来た」と話しました。これは、日本が再びオリンピック開催国になることを信じていた証拠でした。

再挑戦!第18回オリンピック大会招致決議

1955年10月10日、第18回オリンピック大会の招致という決議案が東京都議会で満場一致で採択されました。日本はまだ戦争の傷痕を残していましたが、東京は5年後の夏季五輪招致を目指して、国際オリンピック委員会(IOC)総会に向けた策を練っていました。

ブランデージ会長の来日と意見

この時期、当時のブランデージIOC会長が日本を訪れました。彼は日本の第17回大会への招致活動について「時間的にIOC委員に理解を得るための時間が少なすぎる」と指摘しました。また、第16回大会がオーストラリアのメルボルンで開催されたことを考慮し、「地理的な問題、派遣費用の問題で日本の開催は困難」との意見を述べました。

1964年大会へのシフト

初めは1960年の大会の招致を考えていましたが、各国のIOC委員に東京をアピールするには時間が十分ではなく、ブランデージIOC会長の助言もあり、東京は1964年の第18回大会招致に向けて活動を展開することを決定しました。これは、日本がオリンピック開催国となる夢を追い続ける決意の表れでした。

「東京でのIOC総会開催が決定」メルボルン大会と国際人脈の活用

田畑政治は、1956年のメルボルン大会で日本代表選手団団長を務めた際に広げた国際人脈を活用し、1958年の第54回IOC総会を東京で開催することを勝ち取りました。また、政治記者の経験を活かし、岸信介首相に政府の支援を要請。さらに海外公館と海外人脈の活用を提唱しました。

これが東京オリンピック開催の招致活動に大きな追い風となりました。東京大会はその直前に開かれた第54回IOC総会で各国委員に対して、東京が国際レベルの競技会を担う実力を持っていることを証明する絶好の機会となりました。

Olympics/YouTube

アジア競技大会での成功とその歴史的意義

アジア競技大会は、アジア最大のスポーツの祭典であり、4年に1度開催されます。主催するのはアジア・オリンピック評議会(OCA)で、アジアの45の国と地域が参加します。1951年、第二次世界大戦後間もない時期に、戦禍によって引き裂かれたアジア諸国の絆を、スポーツを通じて取り戻し、アジアの恒久平和に寄与する願いを込めて、日本を含む11か国の参加の下、第1回大会がニューデリーで開催されました。

thekinolibrary/YouTube

「日本の組織力と運営能力が世界に認められる」第54次IOC総会

1958年5月13日、天皇陛下の開会宣言により、第54次IOC総会が開始されました。この総会は、日本がオリンピック開催への道を歩む上で重要な一歩となる舞台でした。再来日したブランデージIOC会長に対し、第18回大会の正式招請状が手渡され、日本の意志が明確に示されました。

このIOC総会とアジア大会の成功を通じ、日本の大会組織力・運営能力はオリンピック開催に十分であると世界に認められました。特に、適切な施設の準備とその運営については、申し分ないという評価を受けました。

世界を巡るオリンピック招致活動

JOC会長の竹田恒徳や織田幹雄らは、田畑が策定した戦略に基づき、東京を1964年のオリンピック開催地として支持を訴えるため、世界各国を回りました。その中でも特筆すべきは、アメリカ在住の日系人フレッド・イサム・ワダ。彼は中南米など多くの国を献身的に回り、東京開催を熱心にアピールしました。

「第55次ミュンヘンでの決戦」四都市の競争

1959年5月26日、ミュンヘンで開催された運命の第55次IOC総会。開催地として立候補したのは東京、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルの4都市。見通しは五分五分でした。日本はオリンピック開催権獲得に望みをかけ、ライバルだったデトロイトとウィーンから票を奪おうと激しいキャンペーンを展開しました。

Munich
平沢和重の熱弁と東京の勝利

いよいよ東京の順番が来ました。田畑は、1959年ドイツ・ミュンヘンで開かれたIOC総会で、外交官の平沢和重にプレゼンを託しました。

平沢は、日本の小学6年生の教科書に『五輪の旗』というエッセイが掲載されていることを紹介し、日本では、小学校の時からオリンピック精神やオリンピック・ムーブメントについて学習し、深く理解していることをアピールしました。彼の熱弁は45分間という待ち時間の中で、原稿も見ずに15分間にわたって行われました。その簡潔でわかりやすいメッセージはIOC委員たちの心を動かし、オリンピックの東京招致に大きく貢献したと言われています。

そしてついにその瞬間が訪れました。東京が全56票中34票を獲得し、アジアで初めてのオリンピック開催となる第18回大会の開催地は東京に決定したのです。

戦後復興の象徴

オリンピックの開催地として東京を選出するという決定は、戦後復興の象徴としての意義がありました。招致活動が成功した背後には、戦前にオリンピック委員会会長を務めていたマッカーサーの活動も一役買っていました。日本の都市が世界の舞台に立つことで、その復興の成果を全世界に示すことができるのです。

「東京オリンピックの準備」組織委員会の設立と任命

1964年の東京オリンピックに向けて、開幕5年前の1959年9月30日に組織委員会が結成されました。この委員会は、開催に向けた準備と計画を進める中心的な役割を果たしました。

JOC(日本オリンピック委員会)のトップである津島寿一委員長が組織委員会の会長に就任し、事務総長には田畑政治(まさじ)JOC総務主事が就任しました。経験豊富なリーダーシップを持つ彼らの指導の下、オリンピックの準備が進められました。

さらに、JOCは1960年1月18日に「東京オリンピック選手強化対策本部」を設立し、本部長に田畑政治、副本部長に大島鎌吉(のちに本部長)を任命しました。その一部として、スポーツ科学研究委員会(東俊郎委員長)も設置されました。これらの組織と役職は、選手のパフォーマンス強化と、オリンピック運営のための最新のスポーツ科学研究の適用を目指していました。

東京の誇り「明治神宮外苑競技場」その誕生から再建まで

1924年10月、明治神宮外苑競技場が青山練兵場跡地に建設されました。これは日本で初めて、そして東洋一の本格的陸上競技場としての開設であり、日本のスポーツ界にとって重要なマイルストーンとなりました。しかし1945年5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)では、この誇りある競技場も爆撃を受け、壊滅的な打撃を受けました。

占領軍による接収と復活

終戦後、明治神宮外苑競技場は占領軍に接収され、ナイル・キニック・スタジアムと名付けられました。これは戦死した米海軍のパイロット、ナイル・キニック氏の名前にちなんだもので、彼はアイオワ大学のアメリカンフットボールの名選手、英雄だったと言われています。占領軍による接収後、競技場は改修されて再びスポーツの舞台として蘇りました。

「国際大会の舞台へ」明治神宮外苑競技場から国立競技場への変貌

戦後、明治神宮外苑競技場はGHQによる接収を経て返還され、1953年にはサッカーワールドカップの予選、日韓戦にも使われています。そして1958年に東京で開催されることになったアジア大会に向けて、明治神宮外苑競技場は国立競技場に建て替えられることとなりました。

そのためにはまず、既存の明治神宮外苑競技場の取り壊しが必要でした。この大規模な建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生でした。

新たな国立競技場は、1957年1月の着工からわずか1年余りの間に完成し、1958年3月に開会を迎えました。わずか2か月後に開催される「第3回アジア競技大会」のメイン会場として設計され、その役割を見事に果たしました。

着工は1957年1月、そして大会をわずか2か月後に控えた1958年3月、ついに新生国立競技場の完成となりました。この新競技場は、東京の復興の象徴であり、また日本が国際的なスポーツイベントを開催できる能力を世界に示す場となりました。この新競技場は、東京の復興の象徴であり、日本が国際的なスポーツイベントを開催できる能力を世界に示す場となりました。

JAPAN RUGBY TV/YouTube
新たな競技場の正式名称は「国立霞ヶ丘陸上競技場」

新たな国立競技場は、1957年1月の着工からわずか1年余りの間に完成し、1958年3月に開会を迎えました。わずか2か月後に開催される「第3回アジア競技大会」のメイン会場として設計され、その役割を見事に果たしました。

この新競技場の正式名称は「国立霞ヶ丘陸上競技場」、一般的には「国立競技場」として知られています。「国立霞ヶ丘」と名付けられたのは、その所在地が霞ヶ丘と呼ばれる地域だからです。具体的には、新宿区霞ヶ丘町(以前は霞岳町と表記)に位置しています。この地名は、競技場の特性と地元の風土を織り交ぜたもので、競技場自体の誇りと同時に、地域の誇りでもあります。

国立競技場の名誉ある役割

建設からわずか6年後の1964年、新たに生まれ変わった国立競技場は、更なる名誉ある役割を果たすこととなります。それは、1964年東京オリンピックのメイン会場として使用されるという大役でした。この国際的なスポーツイベントでの活躍は、日本の復興を世界に示すだけでなく、日本がスポーツの舞台としての能力とポテンシャルを持っていることを再確認させるものでした。

焼け野原からの復活、そして世界へ

焼け野原からの復活を遂げ、GHQの統治を経て新たな国立競技場を持つ都市となった東京は、本格的にオリンピック開催に向けての準備を進めました。この新競技場は、東京の復興と進歩の象徴であり、日本が国際的なスポーツイベントを開催できる能力を世界に示す場となったのです。

ANNnewsCH/YouTube

Matsuzo Naga

嘉納治五郎を最後を看取った男「永井松三」

永井松三は、1877年に愛知県で生まれ、東京大学を卒業後、外交官として国際舞台で活躍しました。1937年には、久保田敬一の後任として第12回オリンピック東京大会組織委員会事務局に就任。その後、1939年から1950年まで国際オリンピック委員会(IOC)の委員を務めました。

戦後、GHQ占領下の日本では、海外渡航や国内外の文通が厳しく制限されており、欧米諸国を中心としたIOC委員らとの連絡が非常に困難でした。そんな状況下でも、永井松三は日本の戦後オリンピック大会参加および国際スポーツ界への復帰を目指して奔走しました。

彼の果敢な挑戦と連携により、戦後日本のオリンピック復帰への道が開かれました。特に、1949年のIOCローマ総会に日本が出席できたことは、彼の努力が大きく評価される一例です。

日本のオリンピック開催と国際スポーツ界への貢献

一方、嘉納治五郎との出会いは永井松三にとって重要な縁となりました。嘉納との初めての出会いは偶然の船旅で、その後21年経ってから、再び嘉納の夢であった東京オリンピックの実現に関与することになります。嘉納との深いつながりは、永井松三の人間性とリーダーシップを表すものであり、その後の日本のオリンピック史に大きな影響を与えました。

1959年、平沢和重がIOCミュンヘン総会で招致演説を行い、1964年東京オリンピック開催の立候補趣意説明を成功させました。平沢は嘉納治五郎との交流を振り返り、東龍太郎博士が彼を「嘉納先生の最後を見届けた人物」と紹介した瞬間、委員たちの顔色が一変した様子を記しています。

そして1964年、ついに東京オリンピックが実現しました。これは永井松三をはじめとする数多くの関係者たちの努力の結果であり、日本のオリンピック開催史において重要な一歩となりました。

永井松三は、日本のオリンピック開催と国際スポーツ界への復帰を実現するために尽力した一人であり、その貢献は今日でも語り継がれています。彼の努力とパッションは、スポーツを通じた国際交流と理解を促進するためのモデルとして、多くの人々に影響を与え続けています。

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