
東京オリンピック物語(3)── 戦後GHQ統治下の日本、国際スポーツへ復帰は水泳から!
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General Headquarters
終戦後にGHQの統治下

1945年8月14日にポツダム宣言を受諾した日本は、GHQを中心とした占領下となった。このGHQの最高司令官として1951年4月11日まで在職していた人物がアメリカのダグラス・マッカーサー元帥である。
戦後日本の国際スポーツ界復帰に関する ダグラス・マッカーサーの役割について(p.40)/和所 泰史
マッカーサー元帥
日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸した。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
終戦特集~太平洋戦争の歴史~/JIJI.COM
日本が降伏する瞬間
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の米艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、これによって日本の降伏が確定した。
降伏文書調印に関する詔書 1945年9月2日/日本国憲法の誕生
敗戦とともに日本は米軍を中心とする連合国軍の占領下におかれ、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーに、ポツダム宣言に基づいて占領管理を遂行する全権が与えられた。
概説[第1章 戦争終結と憲法改正の始動]/日本国憲法の誕生
GHQは戦前の敵性スポーツを払拭する
戦後の日本社会においては,しばらくの間 GHQの主導の下に,スポーツがコントロール されてきた。剣道や柔道は禁止され,そのいっぽうで学校教育の場においては,積極的にス ポーツがおこなわれるようになった。また,戦 時下において一時的であるにせよ野球をはじめ 様々なスポーツが貼付された「敵性」のラベル が払拭されただけでなく, 日本のスポーツ文化 劇的に変化した転換点、となっている。
戦後日本におけるトルコ(タタール)系格闘技選手に関する覚書(p.27)/石井 隆憲, 三沢 伸生.27(340)-32(335).アジア文化研究所研究年報.2009
“君が代”だけじゃなかった!!?GHQにより封印された第2の国歌「海ゆかば」
逆に武道は禁止
第二次世界大戦後、GHQ 当局は、5 年間 にわたり武道を禁止しました。戦前復活したこれら武道が、軍国主義の伸長につながる統制や国粋主義を養成したと考えられたためです。
武道(p.1)/Web Japan
戦後にはGHQの政策によって「学校での武道禁止」、「社会体育における武道実施の制限」、「大日本武徳会の解散」が徹底されることとなります。
学校教育の中の武道/【スポランド】
第二次世界大戦後、GHQ指令による武道の禁止の際も、相撲は例外であった。相撲界は戦中に野球が敵性競技として弾圧を受けていたときには、その精神性、武道の精神を強調して生き残り、戦後は、そのスポーツ性や娯楽性を強調して生き残ってきた。
国技の未来(p.8)/加藤 秀生.総括主任研究官.国土交通政策研究所報第 60 号 2016 年春季.国土交通省
剣道を愛好する人々によって、フェンシングなどを参考に武道色を払拭した「撓(しない)競技」というスポーツが考案され、学校でも採用。
時の話題 剣道も追放解除/NHKアーカイブス
日米の友好のため!GHQは敵性スポーツとしていた野球を奨励
スポーツ、なかでも野球の復興は、GHQが力を入れた占領政策のひとつでした。プロ野球についても復興政策が急がれ、昭和20年(1945年)11月16日、日本野球連盟の復活が発表されました。
プロ野球(戦後編)/ライオン株式会社
こうした野球の早期復活は野球関係者の努力というより、終戦後の日本に対して強い影響力をもったアメリカの意向が大きかった。彼らは国技でもある野球を日本に浸透させ、自国に対する警戒心を和らげようとしたのだろう。事実、戦後に作られた野球に関する規則や組織は、その成立をGHQ部局の一つ、CIE(民間情報教育局)が主導している。
野球界は本当にただの「犠牲者」だったのか。終戦から75年が経過したいま「戦争と野球」の関係を見つめなおす/ハーバー・ビジネス・オンライン.2020
他のスポーツが長く活動を制限され、武道などは競技そのものが禁止される中で、野球は日本が敗戦した1945年の11月には神宮球場で職業野球の大会が開かれるなど、急速に復活した。
【今、野球と子供は。】高校野球の発展/BASEBALL KING.2019
復興とともに日本ではスポーツが大衆娯楽に!
(前略)その後太平洋戦争ですっかり荒廃した日本でしたが、戦後、急速な復興を見せます。そんな中、スポーツ界も再び盛り上がりを見せ、スポーツ観戦が大衆娯楽化するとともに、選手たちの活躍は、戦争によって傷ついた人々の心の支えとなっていきます。
おわりに・参考文献/本の万華鏡
その頃、日本が世界で勝負できる競技は水泳だった
そのころ日本が世界に勝てるものは水泳だけでしたから、人気もたいしたものでした。今では誰も信じられないかもしれませんが、プロ野球(まだ1リーグ制)事務局が試合日程を組むのに水連に水泳の予定を調べに来たりしたんで
シリーズ第一回:古橋廣之進 – Japanese Olympian Spirits /日本オリンピック委員会: JOC
マッカーサーはアムステルダム五輪で日本人初の金メダルの瞬間を目撃
(前略)1928(昭和3)年8月2日、オランダ・アムステルダムでの第9回オリンピックの陸上・女子800メートル決勝で、人見絹枝が2位(タイムは2分17秒6)となり、日本の女子選手では初のオリンピックメダリストとなった。これに続いて行なわれた三段跳び決勝では、織田幹雄が15メートル21を出して見事優勝し、日本選手初の金メダリストとなる。
ご存知ですか? 8月2日は日本人がオリンピックで初めて金メダルを獲得した日です 同日、日本女子初のメダリストも誕生――“予想外”だった日本人の快挙/文春オンライン.2017
国旗掲揚台のセンターポールには、手違いにより外国のものの4倍ほど大きな日本の国旗が掲げられました。
織田幹雄さん/海田町ホームページ
同じスタジアムで、日本人初の金メダリストを目に焼き付けた人物がいた。米国選手団のダグラス・マッカーサー団長。
織田幹雄が紡いだ運命の糸 歴史的な「金メダル1号」/JIJI.COM
マッカーサーとIOCの繋がり
マッカーサーは1927年からの2年間アメリカ・オリンピック委員会の委員長を務めており、1928年第9回オリンピック・アムステルダム大会のアメリカ選手団団長であった経緯を持つ。
戦後日本の国際スポーツ界復帰に関する ダグラス・マッカーサーの役割について(p.40)/和所 泰史
こうした背景から、マッカーサー自身が他国の IOC 委員や当時 IOC 副会長であったアメリカのブランデージ(Avery Brundage)との人脈を持ち、何らかの情報を得ていた可能性もある。
戦後日本の国際スポーツ競技大会復帰過程に関する一考察 ― 1946 年~ 1947 年の大日本体育会の動向に着目して ―(p.24)/和所 泰史(環太平洋大学)/スポーツ史研究 第 32 号(平成 31 年)
金メダリストの織田幹雄はその後、マッカーサーの後押しを受けスポーツのために尽力
織田幹雄氏(1905~1998)とは海田町出身の日本人初・アジア初のオリンピック金メダリストで、引退後は陸上日本代表の総監督・新聞記者・大学教授も務めた人物で、「日本陸上界の父」と呼ばれています。
東京オリンピック1964展、広島・織田幹雄記念館で開催/マピオン.2021
マッカーサーの肝煎りで49年夏に渡米した織田は、米国だけでなく北欧を巡る機会に恵まれた。米国陸上代表チームのスウェーデン、ノルウェー、フィンランドへの遠征に同行。中身の濃い欧米視察となった。織田は「民間大使」のような役割を果たしながら、日本の国際スポーツ界への復帰に寄与していった。
織田幹雄が紡いだ運命の糸 歴史的な「金メダル1号」/JIJI.COM
1964年に開催された第18回オリンピック・東京大会については招致活動にも関わり、陸上日本代表の総監督として挑みました。
東京オリンピック1964展、広島・織田幹雄記念館で開催/マピオン.2021
彼はオリンピックのたびにこう感じていた。
「世界人」織田幹雄がかなえた夢 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】/笹川スポーツ財団
「オリンピックには世界中から選手が来るけれど、参加しただけで満足している者も多い。コーチにも、勉強もしないでただ行っただけという者がいる。それではオリンピックに参加する意味がない。世界のコーチがみんなで話し合って技術の向上に努めるべきじゃないか。国籍なんかにとらわれず、世界中で力を伸ばしていけばいいじゃないか」
長年の夢を形にする絶好の機会となったのが、1964年の東京オリンピックである。世界中から、競技を通して知り合った旧知のコーチたちがやって来る。ひと声かければ、皆が二つ返事で集まってくるだろう。この機会を生かさない手はない。 もちろん、東京大会には招致段階から深くかかわってきた。陸上では総責任者として強化の先頭にも立ってきた。自国開催となれば、スポーツ界のリーダーの一人として果たすべき役割は数多い。が、いくら忙しくとも、あの大事な夢を忘れることはなかった。
「世界人」織田幹雄がかなえた夢 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】/笹川スポーツ財団.2019
戦争で中止されていたオリンピックがロンドンで開催!
戦火により2大会続けて平和の祭典が中止となり、再びオリンピック旗のもとに各国から選手が集うのは、1948年にロンドンで行なわれた第14回大会のことになる。1936年にベルリンで開催された第11回大会から12年後のことである。
悲願の東京オリンピック開催へ(1)/日本オリンピック委員会
積極的に開催に名乗りをあげる都市はなく、ようやく「近代スポーツ発祥の地」の面目にかけてロンドンが手をあげた。英国もまた物がなく、スウェーデンが施設の木材を届け、アルゼンチンは馬術競技で使う馬を提供、カナダやオーストラリアは全参加選手たちのための食料を送った。後に「友情のオリンピック」と呼ばれた大会である。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
田畑政治は日本参加のためGHQを説得
1964年の東京オリンピックを進めた中心人物は田畑政治(たばた・まさじ)。日本水連の会長であり、日本のスポーツ界にこの人ありと言われた優れたリーダーである。
1964 TOKYOから50年、あのときとこれから/nippon.com.2014
当時の日本は、泳ぐたびに世界新を出すような強豪選手が揃っていたため、日本水泳連盟会長、およびオリンピック委員の役職にあった田畑政治は、何とか日本がこのオリンピックに参加できないかと最後までくいさがった。
[1908] [1948] [2012] ロンドン「十五輪」物語― [Olympic]/Onlineジャーニー
当時、日本を統治していた連合軍最高司令官総司令部(GHQ)に日参し、国際オリンピック委員会(IOC)などに参加交渉できるよう頼んでまわった。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
当時の日本の競泳陣は世界のトップレベル
当時、日本の競泳陣は日本大学在学中の古橋広之進、橋爪四郎らの強豪揃い。泳ぐたびに世界新記録を更新しているような状況でした。
オリンピックの歴史(4)再び世界を明るく照らす聖火/日本オリンピック委員会: JOC
【アメリカ本土まで泳げます!】『#いだてん』で #北島康介 さんが演じた #古橋廣之進 さん。#フジヤマのトビウオ と呼ばれました。1945年3月、#日本大学 の面接で、「どのくらい泳げるのか?」と問われ、即答したそうです。『戦争証言アーカイブス』で。#古橋広之進https://t.co/pPbtUXBmtM pic.twitter.com/gAe3bswOnN
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) October 27, 2019
マッカーサーの後押し
はかばかしい答えが得られないなか、田畑の思いを理解したのはほかでもないGHQ最高司令官、ダグラス・マッカーサーである。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
それでも日本の参加は認められなかった
日本が参加を望んだロンドン大会は、開催国・英国の強い反対によってドイツとともに招待リストから除外された。戦争責任という名目の政治利用である。
古橋廣之進 「古橋を責めないでください」-時代の不幸を思う 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】/笹川スポーツ財団
「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」。古橋広之進は1948年ロンドン五輪開催の1カ月ほど前に、こう記された電報が届いたと聞かされたという。第二次大戦初期、日本軍がマレー沖で撃沈した英国戦艦の名を記した電報。戦後初の五輪への参加が断たれたことを知った瞬間だった。
第2回 敗戦に沈んだ日本に希望の灯火をもとした「フジヤマのトビウオ」/次世代に伝えるスポーツ物語.提供 日本トップリーグ連携機構.笹川スポーツ財団特定非営利活動法人ソシオ成岩スポーツクラブ.2008
オリンピックのタイミングに水泳日本選手権をぶつける
これを悔しがった日本オリンピック委員会(JOC)総務主事で日本水連会長の田畑政治は、ロンドン大会と同じ日程で水泳の日本選手権を東京で開催。
近代オリンピックとその時代/JIJI.COM
怒った当時の日本水泳連盟会長田畑政治が連合軍最高司令官総司令部(GHQ)に掛け合い、接収されていた神宮プールを借り受け、全日本選手権実現にこぎつけた。
古橋廣之進 「古橋を責めないでください」-時代の不幸を思う 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】/笹川スポーツ財団
大会プログラムには当時の日本水連会長、田畑政治の「ロンドン大会に挑む」思いがつづられている。
オリンピズム トビウオとその時代(2)五輪王者は世界王者にあらず 日本がたたきつけた挑戦状/産経ニュース.2017
「いうまでもなくオリンピック大会は世界選手権大会を兼ねており、もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば、オリンピック・チャンピオンは実質的にワールド・チャンピオンたる栄誉に値しないことになる…ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権の優勝者である」
オリンピズム トビウオとその時代(2)五輪王者は世界王者にあらず 日本がたたきつけた挑戦状/産経ニュース.2017
オリンピックの記録を超え世界記録を更新!
結果、400m自由形で日本大学の古橋廣之進は世界記録を”更新”して4分33秒4でゴール。ロンドン大会同種目の優勝記録、米国のウイリアム・スミスの4分41秒0を軽くしのいだ。1500m自由形でも、ロンドンの優勝記録19分18秒5をはるかに引き離す18分37秒0、「世界新記録」を出した。古橋の日本大学の同僚、橋爪四郎も18分37秒8。「もしオリンピックに出ていれば、金・銀独占」という快挙に日本中がわいた。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
喝采を浴びた橋爪は、「あの雰囲気は絶対に忘れない。あの頃、日本人は誇れるものが何もなかった。食べる物も着る物もない。上野の地下道で家族を亡くした子どもが餓死していた。誇れるものが何もなかった。日本のどん底だった」。
戦後スポーツの軌跡/JIJI.COM
結果を残すも世界からの反応は冷たかった……
この様子はすぐに世界に打電された。しかし、国際水泳界の反応は冷たかった。「日本のプールは距離が短いのだろう」「ストップウオッチが壊れていたんじゃないのか」─そんな声さえあがった。わずかに米国競泳チームのロバート・キッバス監督だけが日本水泳界の復活を確信、国際舞台に戻すべく手をさしのべていく。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
キッパス監督は「日本水泳連盟は戦時中、会費を払っていなかったので資格停止となっただけでとなっただけなので、会費を納めれば、自動的に国際水泳連盟に復帰するのではないか」と言い、資格停止処分を会費滞納へとすり替えるという詭弁で、国際水泳連盟に働きかけてくれたのだ。
東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝/立志伝
それが翌1949年8月の全米水泳選手権への日本選手団招待である。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
日本スポーツが水泳で世界へ復帰!オリンピックへの歩みが始まった!!
日本がオリンピックに参加するためには、各種競技が国際連盟に復帰し、日本オリンピック委員会が国際オリンピック委員会(IOC)に認められなければならなかった。
東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝/立志伝
オリンピックの翌年、昭和23年になって、ついに待望の国際水泳連盟の復帰が認められます。6月15日のことでした。日本のスポーツ界で、国際連盟から復帰を認められたのは水泳だけで、まさに快挙と言える出来事でした
身体と心を鍛え、他者と競い、高峰へと昇り詰めるのがスポーツの醍醐味です。/アクアプロ|心のビタミン・ホームページ
古橋を含む日本人選手が全米大会に招待されたことは、単に日本の水泳が国際水泳連盟に復帰を正 式に認められたということだけでなく、日本国民にとっては「近来の快挙」であり、「敗戦後の社会 をあげて虚脱混迷している時⋯が国民の志気を鼓舞すると同時に、日本人の再起を世界に示すも の」であった。さらにはこれを契機として他の競技の国際復帰にもはずみをつけたいとの思いがあった。
(2010年3月発行)/横浜海外資館研究紀要 4 .JICA.平成21年度
まもなく、邦人の多いハワイから日本の水泳に招待が来たのです。それで日本は、「どうせならアメリカ本土(ロサンゼルス)にも行って、全米選手権に出られれば」と考えて先方へ電話すると、あちらは「ウエルカムだ」と。それで初の海外遠征が決まり、代表選考を兼ねた日本選手権の結果、日大勢(浜口喜博、橋爪四郎、丸山茂幸、私)と、早大勢(村山修一、田中純夫)の6選手が選ばれました。大会には天皇・皇后両陛下もお見えになり、私たちを激励してくださいました。
シリーズ第一回:古橋廣之進 – Japanese Olympian Spirits /日本オリンピック委員会: JOC
GHQの統治下ではマッカーサーの許可が必要だった
ところが、問題は国内にあったのです。日本政府が講和条約前の渡米は認めないというのです。どうしても渡航したいのなら、マッカーサー元帥の許可が必要だとされました。多分政府は、まさかマッカーサー元帥に直訴しに行くとは思いもよらなかったのでしょう。
身体と心を鍛え、他者と競い、高峰へと昇り詰めるのがスポーツの醍醐味です。/アクアプロ|心のビタミン・ホームページ
マッカーサーの後押し
(前略)マッカーサーはロサンゼルスで開かれた全米水上選手権の直前、GHQ総司令部に日本選手団を招きこう言ったという。
昭和39年物語(28)東京五輪「100日前」…マッカーサー死去に列島衝撃/産経ニュース.2018
「わたしは日本に住んでいる。だから日本人と同じ気持ちである。とにかく、アメリカ人を負かして帰ってきたまえ。わたしは日本に住む人間としてフジヤマのトビウオ(古橋広之進)たちを応援する」。そして、ウインクしながらこうつけ加えた。「アメリカ人に負けたら日本に入れないヨ」。
昭和39年物語(28)東京五輪「100日前」…マッカーサー死去に列島衝撃/産経ニュース.2018
元米国オリンピック委員会会長でもあるダグラス・マッカーサー元帥は粋なはからいで古橋たちを応援していたのである。
古橋廣之進 「古橋を責めないでください」-時代の不幸を思う 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】/笹川スポーツ財団
なんとか渡米!でもアメリカは日本に反感を持っていた
ロサンゼルスに渡ると、今度は日系二世のフレッド・イサム・ワダ(日本名・和田勇)と彼の家族、日系人社会の支援を得て、いよいよ古橋廣之進はその真価を発揮するのである。
古橋廣之進 「古橋を責めないでください」-時代の不幸を思う 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】/笹川スポーツ財団.2019
しかし、アメリカの対日感情はやはりよくありません。そこで選手団はブレザーの胸には日の丸ではなく日本水連のマークをつけていましたが、それでも現地のムードは悪く、地元の新聞は日本の記録にことごとくケチをつける記事を掲載し続けました。
【近代日本のスポーツ】″フジヤマのトビウオ″ 古橋廣之進:そのすごさと無念のオリンピック/歴人マガジン
世界新記録連発!
そんな中でも大会の初日の予選から新記録を連発した廣之進は、「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」の愛称をつけて称賛されるようになりました。町で会う人たちも記念品をポケットにねじ込んでくるほどでした。日本チームは出場した自由形(リレー含む)の6種目中5種目を制し、9つの世界新という大活躍をします。廣之進も400メートル、800メートル、1,500メートルの3種目をすべて世界新記録で泳ぎました。
【近代日本のスポーツ】″フジヤマのトビウオ″ 古橋廣之進:そのすごさと無念のオリンピック/歴人マガジン
対日感情をひっくり返し、一躍日本のスポーツが世界で認められる!!
「神宮プールは空襲で壊れて短くなった」などと記録に懐疑的だった米メディアを一変させた。この時の現地報道からフジヤマのトビウオの愛称が生まれている。
【ベテラン記者コラム(33)】国を背負った古橋広之進氏、日本スポーツ界最大のヒーロー/サンスポ.2020
「アメリカ人は実際に目で見たことは信じる。それまで『ジャップ』と呼ばれていたのが、『ジャパニーズ』に変わった」。
戦後スポーツの軌跡/JIJI.COM
いうまでもなく「フジヤマのトビウオ」古橋と橋爪、浜口嘉博らが次々に世界新記録を樹立するなどして大活躍、日本水泳界の力を世界に示した。田畑は賭けに勝った。
田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
Fred Isamu Wada
英雄「フレッド・イサム・ワダ(和田勇)」
アメリカで成功した日系人の実業家
アメリカの実業家。日系二世。実業家としてもさることながら、1964年の東京オリンピックや1984年のロサンゼルスオリンピック招致に関わるなど、スポーツ界に多大な功績を残している。和歌山県御坊市名誉市民、和歌山県スポーツ振興功労者。
フレッド 和田 – 東京五輪を実現させた日系アメリカ人/日刊サン.2013
フレッド・イサム・ワダ(日本名:和田勇)は1907年にワシントン州で生まれた。少年時代から住居を転々とし、さまざまな仕事に就いたが、オークランドでの青果店での仕事ぶりが認められ20代で独立、日系人社会で存在感を増していった。第2次大戦後はロサンゼルスに移り、スーパーマーケットの経営で大成功を収めた。
オリンピックビジネスをつかんだ男服部庸一(4)/電通を創った男たちNo.119 海老塚 修x長谷 昭 ウェブ電通報 .2015
1949年全米水泳選手権「日本人選手のために」
フレッド・イサム・ワダさんがスポーツの世界と関わりをもつようになったのは、終戦4年後の1949年の全米水泳選手権がロサンゼルスで開催されたときです。GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーに出国の許可を得ての遠征でしたが、旧敵国として日本人たちは「ジャップ」と蔑称で呼ばれ、ホテルへの宿泊も拒否されていました。現地の日系新聞が宿舎の提供を広告で呼びかけるとそれがワダ夫妻の目に止まりました。
1964年の東京オリンピックを実現させたフレッド・イサム・ワダと彼にまつわる2つの時計/HODINKEE.2021」
米国のホテルに宿泊拒否された日本の水泳選手ら8人を、ワダはローンで購入したばかりの自宅で受け入れ、練習場の手配や送迎、食事まで世話した。
奉仕の精神「日本の顔」/朝日新聞デジタル.2020
受け入れを進言したのは、和歌山・美浜出身の妻マサコ(日本名、正子)だった。慣れない米国でくつろいでほしいと、日本食も食卓に並べた。和歌山の郷土料理「おかいさん」(茶がゆ)は、橋爪も大変喜んだという。
奉仕の精神「日本の顔」/朝日新聞デジタル.2020
その後も和田氏は、日本からやって来る各種競技選手団の面倒を献身的に見続けました。
御坊市名誉市民/御坊市ホームページ
戦後の日本復興に尽力した人も少なくなく、政治家の尾崎行雄、東大総長・南原繁、西武鉄道の創業者・堤康次郎、日本画家・伊東深水らの名が和田家に残る。
和田勇=フレッド・イサム・ワダ 東京オリンピックへの無私の献身 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
田畑から東京オリンピック招致の相談をうける
1958(昭 和 33)年、和田は東京で、日本水泳連盟会長の田畑政治氏から、「1964 年のオ リンピックを東京で開催したいのだが…」 という相談を受けた。しかし、開催決定には各国代表者の投票による同意が必要である。
東京オリンピックを実現させた男 ~フレッド・和田 勇~/(財)和歌山社会経済研究所 主任研究員 /(公財)和歌山県国際交流協会 理事 谷 奈々
岸信介首相からの手紙
そのワダ氏に直接手紙を書き、中南米回りを依頼したのは当時の岸信介首相だった。岸は安保条約改定により、日本が米国との同盟を軸に生きていく道を確立しようとしていた。そのためにも、五輪招致により日本の地位を高めたいと必死だったのである
【産経抄】3月6日/産経ニュース
当時オリンピック開催候補地として東京のほかに名乗りを上げていたのは、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルの4都市。開催地の決定は、国際オリンピック委員会(IOC)の58人の委員たちによる多数決で決められます。東京開催の鍵を握っていたのは、中南米諸国の票でした。日本政府から中南米のIOC委員たちの説得を要請されたフレッドさんは、日本のためならと快く引き受けることになります。
1964年の東京オリンピックを実現させたフレッド・イサム・ワダと彼にまつわる2つの時計/HODINKEE.2021
日本のために自腹で中南米へ向けて説得する旅に出た
これらのことがきっかけとなり、和田は昭和34年、在米日系米国人として唯一人、「東京オリンピック準備招致委員会委員」に選ばれた。
東京オリンピック開催を実現させた日系実業家、フレッド・和田 勇/谷 奈々.和歌山社会経済研究所
1959 年、岸首相からの親書と藤山愛一郎外務大臣のサポートを得て、特命全 権大使並みの権限が与えられた勇は、正子夫人を伴って、約 40 日間の中南米歴訪の旅に出た。訪問国は、メキシコ・パナマ・キューバ・ベネズエラ・ペルー・ブラジル・アルゼンチン・チリ・ウルグアイ・コロンビアの 10 ヶ国 11 都市である。
東京オリンピックを実現させた男 ~フレッド・和田 勇~/(財)和歌山社会経済研究所 主任研究員 /(公財)和歌山県国際交流協会 理事 谷 奈々
IOC総会で過半数を獲得!東京オリンピックが開催決定!!
(前略)事前の予想を覆し、IOC総会で東京が2位以下を大きく引き離して過半数を獲得できたのは、日本への反発が少なかった中南米諸国10カ国を和田氏夫妻が1カ月以上も家業を放棄し、手土産等も私費負担するなどして各国を歴訪、東京オリンピック開催への支持を取り付けてくれたからです。
御坊市名誉市民/御坊市ホームページ
「日本人のために……」
彼はその思いを、「日本、東京でオリンピックを開けば、日本は大きくジャンプできる。日本人に勇気と自信を持たせることができる。僕はそのことが、僕に与えられた使命、責務だと思う」と語り、また、「僕はほめられたくて、やったのではない。日本人が好きなんだ。日本人は優秀な民族。その日本人のために何か、お役に立ちたいと思っただけ」と控えめに話したという。
東京オリンピック開催を実現させた日系実業家、フレッド・和田 勇/谷 奈々.和歌山社会経済研究所
東京オリンピックの開会式を見守った
64年10月、東京大会に招待されたワダは、感慨深く開会式を見守ったという。
招致へ 中南米で訴え/朝日新聞デジタル.2020
1964年10月10日、新宿区霞ヶ丘の国立競技場に、ついに聖火がともされた。
それは単なる点火ではなかった。敗戦後の日本、その灯りは、傷ついた、日本国民の心に希望の光となって灯された。
7万3千人の大観衆が見守る中、日本選手団による入場行進、深紅のブレザーに純白のスラックスとスカート。その堂々たる雄姿を目の当たりにして、和田はつぶやいた。
「日本はこれで一等国になったのや。戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った」
和田夫妻の目は涙でいっぱいだった。
フレッド 和田 – 東京五輪を実現させた日系アメリカ人/日刊サン.2013
女子バレーボール日本代表の試合では、金メダルの瞬間を会場で見届け、涙が止まらなかった。代表に多く名を連ねた日紡貝塚の選手が何度も米国のワダ邸に滞在していて、その厳しい練習ぶりを目の当たりにしていたからだった。
招致へ 中南米で訴え/朝日新聞デジタル.2020
和田勇は2001(平成13)年2月12日午前1時半、93年の人生に幕を引いた。日米の架け橋となり、民間の駐米大使のような存在であった人の葬儀は5日後、ロサンゼルスの西本願寺羅府別院で営まれた。そこには古橋や橋爪、浜口らの顔もあった。
和田勇=フレッド・イサム・ワダ 東京オリンピックへの無私の献身 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019