水泳から始まる戦後GHQ統治下の日本の国際スポーツ復帰 ── 東京オリンピック物語(3)

この記事では、第二次世界大戦後の日本のスポーツ界の復興と国際的な成功に焦点を当てています。ポツダム宣言受諾後、アメリカ軍の進駐と降伏文書署名により日本は連合国の占領下におかれました。その中で、GHQの主導のもと、武道などが禁止される中で野球が急速に復活し、日本社会にアメリカ文化を浸透させる役割を果たしました。

記事はさらに、1928年のアムステルダムオリンピックでの日本選手の快挙や、マッカーサー元帥のスポーツへの理解と支援についても触れています。特に、日本の水泳が国際水泳連盟に復帰し、初の海外遠征である全米水泳選手権への参加が決定したことが、日本国民に希望の光をもたらしました。

この記事を通じて、戦後の日本がスポーツを通じて復興し、国際舞台での成功を収めた姿を伝え、マッカーサー元帥の支援が日本人に勇気と希望を与えたことを強調しています。

戦火に散ったアスリートたちの夢と命の輝き ── 東京オリンピック物語(2)
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“フジヤマのトビウオ”古橋の活躍の陰に、フレッド・和田がいた。敗戦後の日本の奮闘をアメリカに印象づけ、熱き心で祖国を励ます日系実業家。オリンピックを東京で開催するために奔走し実現させた男。さらに日米の経済・文化交流を発展させた、知られざる日本の恩人を描く、異色のドキュメント・ノベル。(「BOOK」データベースより)

General Headquarters

終戦後にGHQの統治下

Douglas MacArthur and Lewis Puller, 17 September 1950

1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結した。この日を境に、日本は連合国による占領下に置かれ、その中心となるのがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)であった。GHQの指導の下、日本は急速に民主主義の道を歩み始めた。しかし、その一方で、連合国による厳格な検閲と統制が日本社会のあらゆる面に及び、スポーツの世界も例外ではなかった。

GHQの最高司令官として1951年4月11日まで在職していたのはアメリカのダグラス・マッカーサー元帥である。彼の指導の下、日本は戦後の復興を果たし、次第に国際社会に復帰していく道を探し始めた。

ダグラス・マッカーサー元帥の上陸「日本占領の始まりと戦後の展望」

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube

ポツダム宣言を受諾したわずか2週間後の1945年8月28日、アメリカ軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸した。その胸中にはどのような想いが交錯していたのか、我々には想像するしかない。彼らが目の当たりにしたのは、終戦直後の日本の姿であった。

そして、2日後の8月30日、連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となる人物、ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。マッカーサー元帥は、戦後日本の再建と民主化に向けた指導を行い、日本の社会や文化に深く影響を与えることとなった。

マッカーサーと日本の降伏

1945年9月2日、歴史の重要な瞬間が訪れた。東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリで、日本側代表として重光葵外相と梅津美治郎参謀総長、連合国を代表してダグラス・マッカーサー元帥が「降伏文書」に署名を行った。これにより、日本の降伏が公式に確定し、第二次世界大戦は終結した。

この結果、日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下に置かれ、連合国最高司令官であるダグラス・マッカーサーに、ポツダム宣言に基づいて占領管理を遂行する全権が与えられた。これは、日本の戦後復興と民主主義導入のための重要なステップであったと同時に、日本のスポーツ界にも大きな影響を与えた。

US National Archives/YouTube

GHQの指導と敵性スポーツの撤廃

戦後の日本社会は、GHQの主導のもとでスポーツが厳格にコントロールされた時期を経験した。その中でも特筆すべきは、剣道や柔道といった武道が一時的に禁止されたことである。これらは日本の伝統的な武道であり、国民の精神を鍛えるための重要な手段とされてきた。しかし、GHQはこれらを「軍国主義の遺物」とみなし、その禁止を決定した。

一方で、GHQは学校教育の場におけるスポーツの重要性を認識し、積極的にスポーツが行われるようになった。これにより、学校の体育の時間は単なる身体的な活動から、チームワークやフェアプレーといったスポーツ精神を学ぶ重要な場となった。

さらに、戦時中に「敵性」とラベル付けされていた野球をはじめとするさまざまなスポーツが再評価された。これらのスポーツは、日本のスポーツ文化を劇的に変化させる転換点となった。戦前の軍国主義的な価値観から一転して、国民が楽しみ、共有するものとしてスポーツが捉えられるようになったのである。

GHQの武道禁止とスポーツ文化の再編

戦後の日本におけるGHQの武道禁止政策は、まさに一大転換点でした。剣道や柔道などの武道は、戦前の日本社会においては重要な役割を果たしていましたが、GHQはこれらを軍国主義や国粋主義の養成につながると考え、その禁止を決定しました。

具体的には、「学校での武道禁止」、「社会体育における武道実施の制限」、「大日本武徳会の解散」などが行われ、日本の伝統的な武道は一時的に社会から姿を消すこととなりました。

しかし、その一方で相撲は例外的に禁止されず、戦後もその活動を続けることができました。相撲界は戦中に野球が敵性競技として弾圧を受けていたときには、その精神性や武道の精神を強調して生き残り、戦後は、そのスポーツ性や娯楽性を強調して生き残ることができました。

また、剣道を愛好する人々は新たな道を探求し、「撓(しない)競技」という新たなスポーツを考案しました。フェンシングなどを参考にして武道色を払拭したこの新競技は、学校でも採用され、新たなスポーツ文化の形成に寄与しました。

GHQ主導の下、野球の再興が急速に進む

GHQの占領政策は、日本の社会復興の一環として野球の復活に大きな力を入れました。昭和20年(1945年)11月16日には、日本野球連盟の復活が発表され、プロ野球の復興が急ピッチで進められました。

この野球の早期復活は、野球関係者の努力というよりも、終戦後の日本に対して強い影響力を持っていたアメリカの意向が大きかったと言えます。野球はアメリカの国技でもあり、GHQは野球を通じて日本社会にアメリカ文化を浸透させ、自国に対する警戒心を和らげようとしたのでしょう。

事実、戦後の野球に関する規則や組織の成立は、GHQ部局の一つであるCIE(民間情報教育局)が主導していました。他のスポーツが長く活動を制限され、武道などは競技そのものが禁止されていた中で、野球は1945年の11月にはすでに神宮球場でプロ野球の大会が開催されるなど、驚くほど急速に復活を遂げました。

戦後日本の心を支えたスポーツ観戦

太平洋戦争で大きな被害を受けた日本は、戦後急速に復興を遂げました。その中で、スポーツ界もまた大きな進歩を遂げ、再び盛り上がりを見せるようになりました。

戦後の混乱と困難を乗り越え、スポーツ観戦が大衆娯楽として広く受け入れられるようになるとともに、選手たちの活躍は人々の心の支えとなりました。日本人の誇りを取り戻す手段として、また日常生活の困難からの一時的な逃避として、スポーツは大きな役割を果たしました。

マッカーサーが目撃した日本人の金メダル

1928年8月2日、オランダ・アムステルダムで開催された第9回オリンピックにおいて、日本の女子選手人見絹枝が陸上女子800メートル決勝で2位となり、タイムは2分17秒6で、日本の女子選手として初のオリンピックメダルを獲得しました。この快挙に続いて、織田幹雄は三段跳び決勝で15メートル21の記録を出し、見事優勝を果たし、日本選手として初の金メダルを手にすることとなりました。

この時、国旗掲揚台のセンターポールには、手違いから外国のものよりも4倍ほど大きな日本の国旗が掲げられるというハプニングがありました。しかし、これらの結果は日本のスポーツ界に大きな影響を与え、国民に希望と誇りを持たせることとなりました。

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube
マッカーサーとIOCの繋がり

同じアムステルダムのスタジアムで、日本人初の金メダリストの瞬間を目撃した一人が、米国選手団のダグラス・マッカーサー団長でした。マッカーサーは1927年から2年間、アメリカ・オリンピック委員会の委員長を務めており、1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団の団長を務めていました。彼は他国のIOC委員や、当時のIOC副会長であったアメリカのアヴェリー・ブランデージとも親交があり、世界各国のスポーツの動向について広範に情報を得ていたと考えられます。

そのため、マッカーサーは日本のスポーツの可能性を理解し、戦後のGHQ占領下の日本におけるスポーツの振興にも一定の影響を与えたと考えられます。

織田幹雄の国際的な視野とスポーツ界への貢献

金メダルを手にした織田幹雄は、その後1949年にダグラス・マッカーサーの援助で米国を訪れ、米国だけでなく北欧も巡りました。彼は米国陸上代表チームのスウェーデン、ノルウェー、フィンランドへの遠征に同行し、豊富な視察経験を得ました。これらの経験を通じて、彼は国際的な視野を持つようになり、日本の国際スポーツ界への復帰に大きく寄与しました。

彼が特に重視したのは、オリンピックに参加する選手やコーチの姿勢です。

織田はオリンピックに単に参加するだけではなく、積極的に学び、技術を向上させ、力を伸ばすことの重要性を認識していました。彼の見解は、オリンピックの本質的な目的―つまり、世界の選手たちが競い合い、互いに学び、成長すること―を強く反映しています。

そして、1964年の東京オリンピックは、彼にとってその理想を具現化するための絶好の機会でした。彼はこの大会を通じて、競技を通じて知り合った世界中のコーチたちを集め、一緒に技術の向上に努める場を設けることができました。彼はまた、東京オリンピックの招致から深く関与し、陸上日本代表の総責任者としても競技強化に尽力しました。

織田幹雄の精神は、今日のスポーツ界でも引き継がれており、日本のスポーツ界の発展に大きく寄与しています。

「友情のオリンピック」1948年ロンドンオリンピックの背景と国際協力

1948年のロンドンオリンピックは、第二次世界大戦後初めて開催されたオリンピックであり、その歴史的な背景から「友情のオリンピック」とも称されました。戦火により世界中が混乱し、経済的困難に直面していたこの時期に、多くの国々が協力して大会の開催を支えました。

大会は、近代スポーツ発祥の地であるイギリスのロンドンで開催されましたが、当時のイギリスも戦後の困難な状況にあったため、他国からのさまざまな支援が必要でした。スウェーデンからは競技施設の建設に必要な木材が提供され、アルゼンチンからは馬術競技で使用する馬が送られ、カナダやオーストラリアからは参加選手全員の食料が送られるなど、各国からの協力によって大会は成功裏に行われました。

British Movietone/YouTube

田畑政治と日本水泳界が目指した「東京オリンピックへの道」

田畑政治(1903年 – 1993年)は、日本のスポーツ界で長年にわたり多大な影響力を持っていた人物であり、特に水泳界におけるその業績は顕著でした。彼は日本水泳連盟の会長を務め、日本の水泳界を世界的なレベルに引き上げる役割を果たしました。

また、彼の最も重要な業績の一つは、1964年の東京オリンピックの招致と開催に向けた活動でした。彼はオリンピックの日本開催を推進する中心人物の一人として、その成功に向けて尽力しました。

水泳界の絶対王者!古橋広之進と橋爪四郎の栄光

戦後の日本において、世界の舞台で戦えるスポーツは水泳でした。その中心にいたのが、日本大学の古橋広之進と橋爪四郎といった優れた選手たちで、彼らは度々世界新記録を更新するなど、その活躍が日本国内で大きな人気を集めました。

その人気は、現代から見ても驚くほどで、当時のプロ野球(1リーグ制だった時代)が試合日程を組む際に、水泳の大会のスケジュールを考慮するほどでした。

古橋広之進の躍進とオリンピックの光

1947年8月、神宮プール(明治神宮水泳場)で開催された日本選手権で、古橋広之進は400メートル自由形で4分38秒4という世界記録を達成しました。しかし、当時、日本水泳連盟は国際水泳連盟から除名されていたため、この記録は公認されず、幻の記録となってしまいました。それでも、「オリンピックで日本の力を示す」という希望の光は灯されました。

「オリンピック参加をめざして」田畑政治の闘い

「敗戦の悔しさを払拭し、未来への希望を示すのはオリンピックしかない」—この強い信念を持っていたのが、当時の日本水泳連盟会長でありオリンピック委員だった田畑政治でした。戦後の日本は経済の立て直しや復興が最優先課題でしたが、一方でスポーツによる国際的な活躍は国民の士気向上と日本の国際的地位回復に不可欠でした。田畑は日本がロンドンオリンピックに参加できるよう、全力で働きかけました。

当時、日本を統治していた連合国軍最高司令部(GHQ)に日参し、日本が国際オリンピック委員会(IOC)などに参加交渉できるように頼み込むという彼の努力は容易ではありませんでした。

KyodoNews/YouTube
オリンピックへの支援者マッカーサー

門前払いされ続ける中で、なんと最高司令官のマッカーサーはその話を聞き入れました、マッカーサーは1928年の第9回アムステルダムオリンピックでアメリカ代表団の団長を務めており、スポーツが国民の心を一つにする力を理解していました。

屈辱との闘い!田畑の決意と挑戦

マッカーサーの支持を受けて、田畑は本格的にIOCとの交渉に乗り出しました。しかし、ロンドン大会組織委員会から届いた返答は、彼の願いに水を差すものでした。

「われわれはプリンス・オブ・ウエールズを忘れていない」

第二次世界大戦下、日本海軍が英国海軍の象徴的存在である戦艦プリンス・オブ・ウエールズを撃沈した。これは英国にとって大きな屈辱であり、その記憶は未だに生々しいという意味が込められていました。その瞬間、田畑は初の戦後五輪への参加が叶わないことを痛感しました。しかし、田畑はただ落胆するだけの男ではありませんでした。

「水泳日本選手権とオリンピック」田畑が下したのは衝突

田畑は、GHQに接収されていた神宮外苑プールを借りることに成功し、全日本選手権を開催するための道を切り開きました。彼はその競技日程をロンドンオリンピックと同じに設定しました。

大会プログラムには、当時の日本水連会長である田畑の強い意志が記されていました。

「オリンピック大会は明らかに世界選手権大会を含むものであり、もし皆さんの記録がロンドン大会の記録を超えるものであれば、オリンピックのチャンピオンが実質的なワールドチャンピオンに相応しいとは言えないだろう……ワールドチャンピオンはオリンピックの優勝者ではなく、日本選手権の優勝者となるだろう」と。

彼の考えはシンプルで直接的でした。どちらが速いかを競うことで、日本の水泳選手が世界最高水準であることを証明すれば、世界は日本を無視できなくなるだろうと。これは、まさに田畑の賭けだったのです。

「オリンピックの記録を超えろ!」世界記録を次々と更新!

1948年8月、神宮プールは観客で一杯になっていました。ロンドンオリンピックに参加できなかった日本で日本選手権を開催されたのです。

大会の結果、400m自由形では日本大学の古橋廣之進が4分33秒4でゴールし、世界記録を”更新”しました。これは、ロンドン大会で同じ種目で優勝したアメリカのウィリアム・スミスの4分41秒0を大きく上回るタイムでした。

さらに、1500m自由形でも、ロンドン大会の優勝タイム19分18秒5を大幅に下回る18分37秒0という”世界新記録”を打ち立てました。

古橋の同僚である橋爪四郎も18分37秒8というタイムで、”もしオリンピックに出ていれば、金・銀独占”となったであろうことが、日本中に喜びをもたらしました。

喝采を浴びた橋爪は、「その雰囲気は絶対に忘れられない。あの時代、日本人には誇るべきものが何もなかった。食べるものも、着るものもなく、上野の地下道では、家族を失った子供たちが飢餓で亡くなっていた。誇るべきものが何もなかった。それが、日本が最も低く落ち込んでいた時期だった」と述べました。

日本水泳界の再生へ…。米国競泳チーム監督の主張

古橋と橋爪の驚異的な記録はすぐに世界に伝わりました。しかし、国際水泳界の反応は冷淡でした。「日本のプールの長さは正しいのか?」、「ストップウォッチが壊れていたのではないか?」といった疑問の声さえ上がりました。しかし、その中で米国競泳チームのロバート・キッパス監督だけが、日本水泳界の復活を信じ、その復帰を支援する手を差し伸べてくれました。

キッパス監督は、「日本水泳連盟が戦時中に会費を支払っていなかったことが、資格停止の原因だった。だから、会費を支払えば自動的に国際水泳連盟に復帰できるはずだ」と主張しました。キッパス監督は資格停止の理由を「会費の未払い」にすり替えて、国際水泳連盟に対して日本の復帰を働きかけました。

国際連盟からの認定!水泳復帰が日本のスポーツ界を前進させる

1949年6月15日、日本のスポーツ界は重要な節目を迎えました。この日、日本の水泳は国際連盟から正式に復帰を認められたのです。この快挙は、他のスポーツでは達成されておらず、水泳だけが国際連盟に復帰を果たしたという事実は、その時点での日本スポーツ界の成果として非常に価値がありました。

オリンピックへの参加は、各競技が国際連盟に復帰し、そして日本オリンピック委員会が国際オリンピック委員会(IOC)に認められることが必要条件となっていました。この水泳の国際復帰は、日本のスポーツ界が国際舞台へと進出するための重要な一歩となり、さらには日本全体の復興に対する大きな助けともなりました。

全米水泳選手権への招待は日本の再起を世界に示すチャンス

それから少しして、日本の水泳界に歴史的な招待がありました。ハワイ、日本人の多くが居住していた地域からの招待でした。それを受けて日本側は、「せっかくならアメリカ本土のロサンゼルスにも行き、全米選手権に出場したい」との思いを伝えると、アメリカ側からは歓迎の返事がありました。これにより、初の海外遠征が決定し、代表選考を兼ねた日本選手権の結果、6選手が選ばれました。

この全米水泳選手権への招待は、日本の水泳が国際水泳連盟に正式に復帰認められただけでなく、敗戦後の混乱と絶望の中で、日本国民に希望の光をもたらし、日本人の再起を世界に示す機会となりました。また、他のスポーツにおける国際復帰への道も開いたのです。

「負けたら帰りのビザは知らん」まさかまさかのマッカーサーのエール

しかし、内政上の問題がありました。当時の日本政府は、講和条約締結前の渡米を認めていませんでした。そのため、選手たちはマッカーサー元帥から直接許可を得ることとなりました。この許可が得られたことで、選手たちは全米水泳選手権への道を切り開くことができました。

マッカーサー元帥は、彼らに対して、「わたしは日本に住んでいる。だから日本人と同じ気持ちだ」「堂々と戦ってアメリカをやっつけて来い」「アメリカに負けたら帰りのビザは知らんよ」と冗談混じりにエールを送りました。

連合軍総司令官に直々に背中を押された選手たちは、こうしてロサンゼルスに旅立ちました。

冷たさと温かさが混ざる日本水泳選手団のアメリカ遠征

1949年8月、アメリカで開催された全米水泳選手権に参加するためにロサンゼルスに渡った日本の水泳選手団は、現地で日系二世のフレッド・イサム・ワダ(日本名・和田勇)と彼の家族、そして日系人コミュニティからの温かい支援を受けました。また、その大会には天皇・皇后両陛下もご臨席され、選手たちに対する励ましの言葉をお掛けになりました。これは日本の水泳選手たちにとって、大きな勇気と力を与えることとなりました。

一方で、冷たい扱いをされていたのも事実です。この当時は戦争の傷跡が新しい時期であり、アメリカの対日感情は決して良くありませんでした。そのため、選手団は胸に日の丸ではなく日本水連のマークをつけて参加しましたが、一部の地元メディアから否定的な報道を受けるなど、厳しい状況に直面していました。

そのため、選手団は胸に日の丸ではなく日本水連のマークをつけて参加しました。

冷え切った関係を変えた水泳選手団の大活躍

それでも選手たちはプールの中で圧倒的な力を発揮しました。大会初日、1500m自由形予選で、橋爪選手が18分35秒7の世界新記録を達成。そして、その後に出場した古橋選手は、さらにその記録を16秒短縮する18分19秒0という驚きの新記録を打ち立てました。

特に古橋選手は新記録を連発し、「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」という愛称で称賛を受けるようになりました。彼のパフォーマンスは、アメリカ国内だけでなく世界中から賞賛され、出場した自由形(リレー含む)の6種目中5種目を制覇し、9つの世界新記録を樹立。彼のスポーツウェアまでが記念品として求められ、最終的には下着まで差し出すほどでした。

勝利に賭けた日本水泳界の奇跡

この日本選手団の素晴らしいパフォーマンスは、戦争の後遺症によって冷え切っていた日米関係にも新たな風を吹き込むことになりました。大会前には「神宮プールは空襲で壊れて短くなった」といった反日的な記事を掲載していたアメリカの新聞が、日本選手たちの素晴らしいパフォーマンスを認め、「フジヤマのトビウオ」と題する称賛の記事を掲載しました。

さらに、当時のロサンゼルスで社会的差別を受けていた日系人コミュニティとの間にも和解の動きが見られました。「アメリカ人は実際に目で見たことを信じる」という言葉通り、古橋選手を中心とした日本水泳選手団の活躍により、アメリカ人の中での日本人へのイメージが、「ジャップ」から「ジャパニーズ」へと大きく変わりました。

そして何よりも、古橋選手や橋爪選手、浜口嘉博選手らが次々と世界新記録を樹立し、その才能と努力を見せつけたことで、日本の水泳界の力を世界に示すことができました。これらの結果は、日本水泳界の復興を賭けていた田畑政治氏にとって、まさに賭けに勝ったと言える結果でした。

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アメリカが仕掛けた「焚書=歴史書の没収」は日本消滅の時限爆弾だった! 7000冊以上を抹消させられたことで日本現代史に生じた巨大な空白を問う、著者渾身の歴史検証シリーズ、待望の連続刊行第1弾。秘密裏に行なわれた帝国図書館館長室と首相官邸での「没収リスト」作成の現場から、アメリカに移送された「焚書」文書の行方、歴史から消された一兵士の従軍記が克明に記録していた侵略戦争の本来の姿など瞠目の真事実を白日にする。(「紀伊國屋書店」データベースより)

Fred Isamu Wada

「オリンピックの成功と復興を導いた英雄」フレッド・イサム・ワダ

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日系二世のフレッド・イサム・ワダ(日本名:和田勇)は1907年にワシントン州で生まれた。少年時代から住居を転々とし、さまざまな仕事に就いたが、オークランドでの青果店での仕事ぶりが認められ20代で独立、日系人社会で存在感を増していき、第2次大戦後、ロサンゼルスへ移住。そこで始めたスーパーマーケット経営で大成功を収めた。

スポーツ界との出会い

ワダがスポーツの世界と関わりを持つきっかけは、1949年の全米水泳選手権。終戦から4年後、ロサンゼルスで開催されたこの大会に日本代表として参加した選手たちは、当時の状況下で宿泊の拒否という困難に直面していた。

救済の手

ワダ夫妻の目に止まったのは、現地の日系新聞が宿泊先提供を広告で呼びかけたことだった。ワダは、ローンで購入した自宅で宿泊拒否された日本の水泳選手8人を受け入れ、練習場所の手配や送迎、食事まで世話した。受け入れを進言したのは、和歌山出身の妻マサコだった。

日本復興への貢献

その後もワダは、日本から来る各種競技選手団の面倒を献身的に見続け、戦後の日本復興に尽力した人々の名が和田家に残る。その中には政治家の尾崎行雄、東大総長・南原繁、西武鉄道の創業者・堤康次郎、そして日本画家・伊東深水など、数々の名が含まれていた。

ワダの家では、選手たちが快適に過ごせるよう、日本食も食卓に並べられた。特に、妻マサコの故郷和歌山の郷土料理「おかいさん」(茶がゆ)は、選手たちから大変喜ばれたという。

1964年東京オリンピック開催の提案

1958年、和田は日本水泳連盟会長、田畑政治から「1964年のオリンピックを東京で開催したい」という相談を受ける。しかし、開催決定には各国代表者の投票による同意が必要であった。

首相からの依頼

当時の岸信介首相がワダ氏に直接手紙を書き、中南米への働きかけを依頼。岸首相は、日本の国際的地位向上を図るため、五輪招致に全力を尽くしていた。

オリンピック開催候補地

当時、オリンピック開催候補地として名乗りを上げていたのは、東京の他にデトロイト、ウィーン、ブリュッセルの4都市。開催地の決定は、国際オリンピック委員会(IOC)の58人の委員たちによる多数決で決められる。中南米諸国の票が東京開催の鍵を握っていた。

招致活動の開始

ワダ氏は、日本政府から中南米のIOC委員たちの説得を要請され、日本のためならと快く引き受けることに。これがきっかけとなり、和田は昭和34年、在米日系米国人として唯一、「東京オリンピック準備招致委員会委員」に選ばれた。

中南米歴訪

1959年、岸首相からの親書と藤山愛一郎外務大臣のサポートを得て、特命全権大使並みの権限が与えられたワダは正子夫人とともに約40日間の中南米歴訪の旅に出た。訪問国はメキシコ、パナマ、キューバ、ベネズエラ、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、コロンビアの10ヶ国11都市だった。

東京招致成功の鍵

事前の予想を覆し、IOC総会で東京が2位以下を大きく引き離して過半数を獲得できたのは、ワダ氏夫妻が1カ月以上も家業を放棄し、手土産等も私費負担するなどして中南米諸国10カ国を歴訪、東京オリンピック開催への支持を取り付けたからである。

ワダの思い

ワダはその思いを、「日本、東京でオリンピックを開けば、日本は大きくジャンプできる。日本人に勇気と自信を持たせることができる。僕はそのことが、僕に与えられた使命、責務だと思う」と語った。さらに、「僕はほめられたくて、やったのではない。日本人が好きなんだ。日本人は優秀な民族。その日本人のために何か、お役に立ちたいと思っただけ」と控えめに話したという。

聖火の点火と日本の復興

1964年10月10日、新宿区霞ヶ丘の国立競技場に、聖火がともされた。敗戦後の日本にとって、その灯りは国民の心に希望の光となった。7万3千人の観衆が見守る中、日本選手団が堂々と行進し、和田は感慨深くつぶやいた。「日本はこれで一等国になったのや。戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った」と。和田夫妻の目は涙でいっぱいだった。

女子バレーボール金メダルの感動

女子バレーボール日本代表の金メダル獲得の瞬間を見届け、和田の涙が止まらなかった。代表に多く名を連ねた日紡貝塚の選手たちが何度もワダ邸に滞在し、その厳しい練習ぶりを目の当たりにしていたからだった。

和田勇の訃報と葬儀

和田勇は2001年2月12日に93歳で亡くなった。彼は日米の架け橋となり、民間の駐米大使のような存在であった。5日後にロサンゼルスの西本願寺羅府別院で営まれた葬儀には、古橋や橋爪、浜口らの顔もあった。

東京オリンピックの成功と愛国心の象徴

和田勇は、1964年東京オリンピックの成功を通じて、日本の復興を促し、国民に希望を与えた英雄である。彼の献身的な努力が、日本が再び世界の舞台で活躍するきっかけとなった。彼の愛国心と奉仕精神は、日本と日本人への尊敬と感謝の念でいっぱいであった。

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