東京オリンピック物語(29)── 感動の閉会式!!世界が一つになった「平和の行進」

東京オリンピック物語(29)── 感動の閉会式!!世界が一つになった「平和の行進」

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1964 Summer Olympics closing ceremony

1946年東京オリンピック 閉会式

Olympics/YouTube

オリンピックの開会式と閉会式はセレモニーの域をこえた格別なものだ。参加国の選手団の入場行進に始まり、聖火の点火や選手宣誓にいたる開会式は、オリンピックの華といえる。閉会式は2週間の戦いの後、選手たちが会場の観客と世界に別れを告げ、4年後の再会を約束する場でもある。

【東京五輪1000日前】(上)1964年の記憶-衝撃だった閉会式「これが世界」…現役最年長サッカーライター、賀川浩氏寄稿/産経ニュース.2017

閉会式当日にイギリスから独立した国「ザンビア」

ザンビア共和国は南部アフリカの8ヶ国に囲まれた内陸国です。日本の2倍の国土に70以上の部族からなる1,800万人近い人々が平和に暮らしています。

所長あいさつ| ザンビア事務所/JICA – 国際協力機構

オリンピックの開会式では「イギリスの保護領北ローデシア選手団」として、閉会式では「ザンビア選手団」として新しい国旗を掲けて行進したという珍しいエピソードがあります。

日本・ザンビア共和国友好協会/ECCの社会貢献活動

 国際オリンピック委員会(IOC)には、北ローデシアとして登録されていた。開会式の際には独立前であったことから、ザンビアとしての参加は認められなかった。しかし当時のIOCのアベリー・ブランデージ会長の配慮によって、開会式では北ローデシア旗、閉会式ではザンビア旗を掲揚することが認められた。

東京オリンピックとザンビア(『ザンビアを知るための55章』より)/webあかし.2020
<1964年10月24日>ザンビア独立

オリンピック初参加となった開会式は別の国名だった。英領北ローデシア。女性1人を含む選手団12人は、左肩に英国旗ユニオンジャックを頂き、右に国章が描かれた紺地の旗を掲げて行進せざるを得なかった。

【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(9)長い五輪史上初 閉会式当日に生まれた新国家ザンビア/産経ニュース.2015

1964年10月24日にイギリスから独立し共和国となりました。

「ザンビア独立50周年」記念展示 開催/品川区.2014

独立の日は奇しくも東京オリンピックの最終日と重なった。北ローデシア代表として大会に参加していた選手団は、この日、ザンビア代表となった。彼らは閉会式にザンビア国旗を掲げて会場を行進し、これがザンビア国旗が世界に発信される最初の場となった。

『ザンビアを知るための55章』――東京オリンピックと同時に独立したアフリカの国/じんぶん堂.2020
国旗担当専門職員「吹浦 忠正」

私は早稲田大学の2年生の秋から約2年余、競技部式典課というところで、国旗担当専門職員として勤務しました。

【寄稿】NHK大河ドラマ「いだてん」、「吹浦青年」の物語|吹浦忠正(AAR特別顧問)/AAR Japan[難民を助ける会]:日本生まれの国際NGO.2020

当時、東京大会開催に向け、オリンピック組織委員会式典課の森西栄一氏が、国旗に強い人材を探していました。実は東京大会に遡ること6年前、日本で行われたアジア競技大会の表彰式で、当時は国連安保理常任理事国だった中華民国(台湾)の国旗を逆さまに掲揚してしまうという事件が起こっていたのです。

国旗は私にとって永遠の恋人——1964年東京オリンピック〝国旗担当専門職員〟の国旗愛/致知出版社.2020

危機感を募らせた式典課が、外務省や文部省をはじめ国際機関を尋ね回ると、行く先々で挙がってきたのが私の名前だったといいます。すでに国旗の本を2冊出していたこともあり、国旗関係者にはいくらか名前が通っていたことが幸いしました。

国旗は私にとって永遠の恋人——1964年東京オリンピック〝国旗担当専門職員〟の国旗愛/致知出版社.2020

森西さんも初めは私の実力に半信半疑だったようですが、大学2年生にすぎない私を国旗の専任職員として迎えてくださったのです。依頼を受けた時は大きな責任を感じ、また嬉しさで興奮しました。任せていただいたご恩に報いよう、そう心に決めた私は、以後約2年間は大学の授業をほっぽり出して、組織委のあった迎賓館を根城に一心不乱に仕事にあたりました。

国旗は私にとって永遠の恋人——1964年東京オリンピック〝国旗担当専門職員〟の国旗愛/致知出版社.2020
独立を事前に知っていた!

 独立はザンビア時間の午前0時。日本では閉会式の日の午前6時でした。事前にイギリスを通じて国旗の情報を入手していた私は、まさにその時刻、代々木にあった選手村の宿舎に新しい旗を持って向かいました。

大河「いだてん」で注目、当時の最年少職員が明かす東京五輪「国旗」秘話/デイリー新潮

「閉会式当日、北ローデシアが英国から独立すると情報を得て、新国旗も怠りなく準備していた」。組織委員会国旗担当職員の吹浦(ふきうら)忠正は首都ルサカの現地時間24日午前0時(東京と時差-7時間)に合わせて、選手村へお祝いに駆けつけた。「競技の終わった解放感も手伝ってか、すでに盛り上がった宴の後だった」

【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(9)長い五輪史上初 閉会式当日に生まれた新国家ザンビア/産経ニュース.2015

 宿舎に入ると、祝宴をしたのか、部屋にはウイスキーの空き瓶が転がっていました。ほとんどは寝ていましたが、起きていた2~3名の選手に「Congratulations! Zambia comes into being!」と声をかけながら新しい国旗を渡すと、彼らは私の手から奪うようにそれを取り上げ、歓声を上げて喜びました。最後はみなで抱き合ったものです。

大河「いだてん」で注目、当時の最年少職員が明かす東京五輪「国旗」秘話/デイリー新潮

(前略)同時に、選手村をはじめ、国立競技場その他、全ての北ローデシアの旗を降納し、新国旗を掲揚したのでした。陸上自衛隊練馬師団、ボーイスカウト、ガールスカウト、スポーツ少年団がよく協力してくれました。

【寄稿】NHK大河ドラマ「いだてん」、「吹浦青年」の物語|吹浦忠正(AAR特別顧問)/AAR Japan[難民を助ける会]:日本生まれの国際NGO.2020
プラカードの順番も変更

また国名のプラカードも、閉会式の際には「ZAMBIA」のプラカードに変更され、開催国として最後に入場する日本を除いて、アルファベット順で最後の93番目の入場に変更された。選手団はこの異例の取り扱いに感謝し、世界が見守る閉会式の場で、新しい国旗を掲げられることに誇りをもっていた。

東京オリンピックとザンビア(『ザンビアを知るための55章』より)/webあかし.2020

「平和の行進」

basisoffree/YouTube

 15日間にわたる熱戦の末、東京五輪は10月24日、閉会式を迎えた。夕闇が迫り小雨が混じる午後5時、東京オリンピックマーチが響くと7万人の観客で埋まった国立競技場のトラックにギリシャを先頭に各国の選手代表が掲げる旗が次々と登場した。93番目に入場したのはこの日に独立を果たしたアフリカの小国、ザンビアの新しい国旗だった。

10月24日 メキシコで会おう、閉会式/産経ニュース

1964年東京五輪では、閉会式への選手の参加は自由。大会運営者も何人の海外選手が参加するか事前には分からなかったそうです。

東京五輪秘話!閉会式の自由な入場は1964年から始まった 東京 新宿区/NHK 東京2020オリンピックサイト.2019

 最後に日の丸が入場した。その直後、誰もが目を見張った。

10月24日 メキシコで会おう、閉会式/産経ニュース
世界が文字通り1つになった瞬間!!

青空の下で整然と行進を繰り広げた開会式とは対照的に、各国・地域の選手、役員約4000人が入り乱れた集団で姿を現した。

10月24日 メキシコで会おう、閉会式/産経ニュース

(前略)各国の選手たちは、性別も人種も関係なく、腕を組み、手をつなぎ、踊ったり走ったり、ついには日本の旗手を肩車した。

特集 東京2020オリンピック・パラリンピック目前!「東京2020大会を盛り上げよう!」/C-magazine | キヤノンマーケティングジャパン.2020

ザンビアなど各国旗手も集団に次々のまれた。

自由で開放的な閉会式 1964年10月24日 「再現日録 東京五輪の10月」(24)/47NEWS.2020

そして日本旗手を担いだ一行の後に続く海外の選手たちも、性別や人種に関係なく腕を組んで笑顔をはじけさせ、中にはマラソンのユニホーム姿で走る選手もいるなど、実に和気あいあいな雰囲気で入場は進み、会場は大歓声に包まれました。

東京五輪秘話!閉会式の自由な入場は1964年から始まった 東京 新宿区 こころのレガシー 1964→2020 vol.23/NHK 東京2020オリンピックサイト

 無秩序、混沌(こんとん)。ただし誰もが笑顔にあふれていた。スーツ姿もジャージーの選手も入り乱れ、誰がどこの国の選手かさえ定かではない。競技を終えた解放感、大会が終わろうとする寂寥(せきりょう)感、そうした気持ちが入り交じってお祭り状態を作り上げたのだろう。

【オリンピズム】1964東京(14)混沌の閉会式、誰もが笑顔 「これがオリンピックです」/産経ニュース.2017

国・地域や人種、言語などに関係なく腕を組んで肩を抱き合う光景は「世界平和の象徴」と表現された。

安倍マリオ、子グマが涙…記憶に残る過去のオリンピック閉会式/琉球新報.2021

競技の緊張から解放された選手たちが笑顔で熱狂する光景は平和の象徴と受け止められ、目撃した文豪らも「無秩序の美しさ」(三島由紀夫)「最高のお祭り気分の数十分」(大江健三郎さん)と激賞している。

五輪の幕引き、どんな演出? 64年から続く「東京式」とは―コロナ禍の閉会式/JIJI.COM.2021

海外の選手たちに肩車された「日本選手団の旗手“福井誠”」

担がれた旗手の福井誠さんは、担がれながら見た光景を「スポーツの中に平和を感じた瞬間」と振り返っています。

東京五輪秘話!閉会式の自由な入場は1964年から始まった 東京 新宿区 こころのレガシー 1964→2020 vol.23/NHK 東京2020オリンピックサイト

旗手を務めた福井誠さん(平成4年逝去)は、生前の講演会で、「海外の選手はお酒を飲んで酔っていた」と驚きの事実を語っています。閉会式に参加した海外選手はお酒を飲んで、陽気な気持ちのままに入場したことが伺えます。

東京五輪秘話!閉会式の自由な入場は1964年から始まった 東京 新宿区 こころのレガシー 1964→2020 vol.23/NHK 東京2020オリンピックサイト

NHKディレスクター「片倉道夫」の証言

 太平洋戦争から復員後、関西大を経てNHKに入った片倉さんは、53年夏に全国高校野球選手権の最初のテレビ中継に関わり、多くのスポーツ中継の基礎を作った。東京五輪では閉会式の中継を取り仕切ることになったが、日本初の五輪開催だっただけに大学の先輩の大島氏を訪ねて「どのような放送をすべきですか」と教えを請うた。

大島鎌吉スポーツ賞 片倉さん受賞 64年NHK番組制作/毎日新聞.2018

「君はオリンピックのテレビ放送をどう考えておるんだ」と大島に聞かれた片倉は「オリンピックは友情と平和の祭典です。単なる世界選手権ではありません」と力説した。大島も「その通りだ」とうなずいた。ただ、片倉には不安も残った。友情の映像は撮れても、平和の映像のイメージが湧かなかったからだ。

終戦記念日に考える東京五輪-「幻の1940年大会」と重なる時代の空気/nippon.com.2020

当日に向けて、片倉は何枚もの絵コンテを用意し、入念に準備した。

終戦記念日に考える東京五輪-「幻の1940年大会」と重なる時代の空気/nippon.com.2020
まさかの事態に台本は白紙(笑)

1964年10月24日夕方。東京五輪の閉会式がある国立競技場には、10台のテレビカメラが設置されていた。3カ月かけて練り上げた台本には、整然と行進する選手たちを撮影するため、ひとカットずつ段取りが決まっていた。

(東京五輪物語)わたしの一枚 想定外の閉会式、世界に中継 「本当の平和はいまや」/朝日新聞デジタル.2020

ところが、程なく始まった行進の光景は、全くの想定外。選手たちは国・地域の別を問わず、自由に気ままに和気あいあいと歩き、笑顔また笑顔…。今も語り草のシーンを、93歳の片倉さんは鮮明に覚えている。

TVが伝えたフィナーレ【リメンバー1964】/JIJI.COM

 片倉さんは当時の日記に、こう書いたという。「えっ? えっ? どうしたの? オリンピックで世界は一つになったのか…。土門ちゃん(実況した土門正夫アナウンサー)は『えらいことになりました』なんていう調子でしゃべっていた」

TVが伝えたフィナーレ【リメンバー1964】/JIJI.COM

 中継チームの守備範囲は変わらない。練り上げてきた台本は白紙。それでも、司令塔の片倉さんは即座に「アドリブで撮っていこう」と呼び掛けた。映像は「異変」のシーンに切り替わる。「カメラマンはベテランで、勘が良かった。あうんの呼吸だった」。無我夢中の状況下でも「オリンピックって、すごいな。友情と平和の裏返しで、笑顔と歓喜になっている」。そんな感慨を覚えた。

TVが伝えたフィナーレ【リメンバー1964】/JIJI.COM
アドリブで実況した

国も地域も関係なく笑顔でにぎやかに歩く選手たちを見ながら、土門正夫アナウンサーは、「そこには国境を超え、宗教を超えた美しい姿があります。このような美しい姿を見たことがありません」とアドリブ名実況したのだ。

東京五輪の閉会式が示した1964年大会へのリスペクト 当時のTV名場面は/NEWSポストセブン.2021

大会が終わった後、大島は「世界平和のためにオリンピックが必要というのは、ああいうことなんだよ」と片倉に言ったという。片倉が撮りたかった「平和の映像」は思わぬ形で成功したのだ。

終戦記念日に考える東京五輪-「幻の1940年大会」と重なる時代の空気/nippon.com.2020

元TBSアナウンサ「山田二郎」の証言

 開会式を中継したテレビ局はNHKだけだったが、閉会式は他に民放全5局もそれぞれ放送した。山田は当時28歳での大抜てき。

定番となった和気あいあいの閉会式、モデルは64年東京大会…目撃者が振り返る五輪事件簿/スポーツ報知.2021

 元TBSアナウンサー、山田二郎は当時28歳、東京五輪閉会式の実況に抜擢(ばってき)された。

【オリンピズム】1964東京(14)混沌の閉会式、誰もが笑顔 「これがオリンピックです」/産経ニュース.2017

ゲストは、美空ひばりの「悲しき口笛」や淡谷のり子の「別れのブルース」などで知られる作詞家の藤浦洸(たけし)。夕闇が迫る中、各国の旗手が入場し、最後に日本の福井誠(競泳)が競技場に入ってきた。

定番となった和気あいあいの閉会式、モデルは64年東京大会…目撃者が振り返る五輪事件簿/スポーツ報知.2021

 「ワーッ、と大歓声が上がった。何の騒ぎなんだろうと見たら、(福井の後ろは)国別ではなくて、選手たちが混然として入ってきた。福井さんは外国人選手に騎馬戦のように担ぎ上げられているし、ランニング姿の選手もいるし、写真を撮ってる選手もいる。そこで『これは何なのでしょう』と言ったら、藤浦さんが『これがオリンピックです』とおっしゃったんです。あの人、やっぱり詩人だなと思いましたよ」

定番となった和気あいあいの閉会式、モデルは64年東京大会…目撃者が振り返る五輪事件簿/スポーツ報知.2021

「放送している感じじゃないんです。自分も一緒になって、興奮の中に入っちゃっているんですよ。後にも先にも、こういう実況はやったことがない。福井さんが担ぎ上げられていたのは、オリンピック精神から日本選手をたたえようという外国人選手の気持ちの表れだった。あれは良かったですね。藤浦さんも『いいね』を連発していました」

定番となった和気あいあいの閉会式、モデルは64年東京大会…目撃者が振り返る五輪事件簿/スポーツ報知.2021

意図的だった!?平和の行進の仕掛け人「松澤一鶴」

 「仕掛け人」になったのは当時、開閉会式典の責任者を務めていた松澤一鶴だ。松澤は東大の学生時代から競泳選手として活躍し、卒業後は水泳界の指導者に。戦前は日本代表チームの監督。1932年のロサンゼルス五輪、36年のベルリン五輪で金メダルを量産して「競泳ニッポン」の名を世界にとどろかせた。

東京五輪閉会式「コロナ禍」での演出 64年大会で始まった「平和の行進」あるか/J-CAST ニュース.2021
吹浦忠正の証言

式典課の国旗担当で、例のロープを外す実働部隊にも加わった吹浦忠正(今回の東京五輪でも国旗を担当)は、東京五輪の会期中に中国が初めて原爆実験を行ったとき、松澤が見せた絶望の表情が忘れられないと証言している。松澤はまた、競泳の指導者として多くの教え子たちを戦争で失った無念さをずっと胸に抱えていた。

《五輪閉会式》57年前のIOC会長スピーチはわずか2分だった!「天皇陛下も見ておられる…」本当はNGだった“伝説の演出”/Number Web.2021

台湾は参加しているのに、中国は参加していない。南ベトナムの選手はいるが、北ベトナムの選手はいない。そして、中国の核実験。悲惨な戦争を経てもなお争いをやめない世界を、松澤は心底悲しんでいたという。

五輪選手たちを「戦地」へ送るしかなかった…ある名コーチの知られざる「真実」/現代ビジネス | 講談社.2020

「まるで学徒出陣のようですね」

 吹浦さんはある出来事を鮮明に覚えている。大学生を集めて国立競技場で五輪開会式のリハーサルをやったときのことだ。皆、学生服に学生帽。一糸乱れぬ行進によって、現場は異様な緊張感に包まれていった。吹浦さんがニュース映画などで観た映像を思い起こして、「まるで学徒出陣のようですね」とつぶやいたときのことである。

1964東京オリンピック「伝説の閉会式」はこうしてつくられた/J-CAST BOOKウォッチ.2020

 「お前は黙ってろ。軽々しく口に出すもんじゃない。おまえに何がわかるんだ」

1964東京オリンピック「伝説の閉会式」はこうしてつくられた/J-CAST BOOKウォッチ.2020

ふだんは穏やかな松澤の怒気に圧倒され、言葉を失ったという。

1964東京オリンピック「伝説の閉会式」はこうしてつくられた/J-CAST BOOKウォッチ.2020

記録映画 監督「市川 崑」の証言

  天皇皇后が出席された64年の閉会式。本来は、整然と厳粛に行われる予定だった。ところが五輪が始まり、終盤に近づいたある日、スタッフのミーティングで、記録映画の撮影を担当している市川崑監督が突然、「もっとくだけた、各国選手が互いに打ち解けたような、競技を終えてリラックスした選手の姿を撮りたい」と注文をつけた。奇想天外な演出は考えられないか、と言い出したのだ。

東京五輪閉会式「コロナ禍」での演出 64年大会で始まった「平和の行進」あるか/J-CAST ニュース.2021

   賛同の声はなかったが、その様子を黙って聞いていた松澤が一計を案じた。

東京五輪閉会式「コロナ禍」での演出 64年大会で始まった「平和の行進」あるか/J-CAST ニュース.2021
「ロープをはずせ」

(前略)吹浦さんは松澤にこんな指示を受けた。

五輪選手たちを「戦地」へ送るしかなかった…ある名コーチの知られざる「真実」/現代ビジネス | 講談社.2020

「入場する直前に、国同士を仕切るロープを外し、各国の選手が入り混じった状態を作り出して、会場に突入させよう」

五輪選手たちを「戦地」へ送るしかなかった…ある名コーチの知られざる「真実」/現代ビジネス | 講談社.2020

   閉会式当日、選手たちは入場口の外で整列する。その列が乱れないように、各国選手団の間にロープが張られる。20メートルほどのロープは、鉤型フックのついたポールに引っ掛けて張られている。そのフックを直前にはずそうというのだ。

東京五輪閉会式「コロナ禍」での演出 64年大会で始まった「平和の行進」あるか/J-CAST ニュース.2021

当然、閉会式にそんな演出は予定されていない。閉会式は、昭和天皇・皇后両陛下も臨席されている。そんななかで、松澤のゲリラ的なアイデアは許されるものなのだろうか。葛藤した吹浦さんだったが、最終的に震える手でロープを外した。

五輪選手たちを「戦地」へ送るしかなかった…ある名コーチの知られざる「真実」/現代ビジネス | 講談社.2020
結果的には大成功!!そして伝説へ

 松澤の行動は式典課の意向に反するもので、下手をすれば懲戒問題になりかねなかった。そんなことは彼も重々承知していた。それにもかかわらず、各国の選手が入り交じった入場行進にこだわったのは、閉会式を通じて平和の尊さを伝えたかったからである。

《五輪閉会式》57年前のIOC会長スピーチはわずか2分だった!「天皇陛下も見ておられる…」本当はNGだった“伝説の演出”/Number Web.2021

ロイヤルボックスの前であいついでおじぎをする選手たちに対し、昭和天皇も笑顔でうなずき、帽子を振って応えた。「天皇陛下も見ておられる……」との懸念から式典課では却下された“整然ではない行進”は、ふたを開けてみれば当の天皇からも喜びをもって受け止められたのである。

《五輪閉会式》57年前のIOC会長スピーチはわずか2分だった!「天皇陛下も見ておられる…」本当はNGだった“伝説の演出”/Number Web.2021
それから88日後に「松澤一鶴」は亡くなった

松澤は大会の成功を見届けるように閉会式の88日後に亡くなった。

五輪選手たちを「戦地」へ送るしかなかった…ある名コーチの知られざる「真実」/現代ビジネス | 講談社.2020

以後、閉会式の行進はこの方式に定着したことが、松澤の類い希なる先見性を示している。

『幻のオリンピック:戦争とアスリートの知られざる闘い』を読んで、スポーツと平和について考える/HONZ.2020
後世に残るオリンピック・レガシー

今は当たり前になった閉会式の自由な入場は、東京1964大会が生んだレガシーだ。

特集 東京2020オリンピック・パラリンピック目前!「東京2020大会を盛り上げよう!」/C-magazine | キヤノンマーケティングジャパン.2020

IOC会長は日本を絶賛

閉会式で当時の国際オリンピック委員会(IOC)会長、アベリー・ブランデージ(1887-1975年)は「東京大会の運営に金メダルを贈りたい」と日本を絶賛した。

「選手ファースト」からかけ離れていた東京五輪『黒い輪』に見る近代スポーツ大会の病巣/WEDGE Infinity.2021

ブランデージは、昭和天皇と日本国民に感謝の意を表し、4年後のメキシコシティ五輪にすべての国の若人が参集されるよう呼びかけたあと、《この大会が 人類の喜びと親しみのもととなることを祈り 世界の幸福のために いっそうの熱意と勇気と栄誉をもって 世代をこえ 永遠に オリンピックのこころが伝えられんことを――》と結んだ(記録映画『東京オリンピック』字幕より引用)。『第18回オリンピック競技大会公式報告書』によれば、閉会宣言は午後5時28分30秒に始まり、同5時30分30秒には聖火を消す段取りに移ったというから、わずか2分で終わったことになる。

《五輪閉会式》57年前のIOC会長スピーチはわずか2分だった!「天皇陛下も見ておられる…」本当はNGだった“伝説の演出”/Number Web.2021

東女体大の学生による「松明の光のダンス」

閉会式が終盤に差し掛かるころ、いよいよ本学学生の出番です。会場が闇のように暗くなると、黒一色に身を包んだ学生たちはトラックを囲み、松明に火を付けました。その瞬間、会場からは一斉に大きな歓声と拍手が湧起りました。松明を振っている学生たちもあまりの美しさに見とれるくらい、美しいものであったそうです。

【東女体大トリビア】1964年アジア初の東京五輪に学生が参加?/東京女子体育大学.2013

この松明の演技は、観客や選手に大きな感動と興奮を与え、歴史に残るフィナーレとして今も語り継がれています。

【東女体大トリビア】1964年アジア初の東京五輪に学生が参加?/東京女子体育大学.2013

電光掲示板には「SAYONARA」ともう一つの言葉が。

最後に大会の成功を祝う花火が打ち上げられ、電光掲示板には「SAYONARA(さようなら)」「MEET AGAIN IN MEXICO 1968(メキシコでまたお会いしましょう)」と表示されました。

【東女体大トリビア】1964年アジア初の東京五輪に学生が参加?/東京女子体育大学.2013

幻想的な松明の光、蛍の光の大合唱……幕を閉じた

選手たちは掲示板を背に、名残惜しそうに退場していく中、観客は白いハンカチを振り、『蛍の光』の大合唱でオリンピック東京大会の全日程が終了しました。

【東女体大トリビア】1964年アジア初の東京五輪に学生が参加?/東京女子体育大学.2013

1964年の東京オリンピック閉会式では照明を落とした後も大合唱「蛍の光」は中々消え入ることがなかった。

社長の呟き 2021年8月号 「蛍の光」/小堺化学工業株式会社.2021

 そして10月24日、夜の暗がりのなかで行われた閉会式では、松明の火によって競技場のフィールドにつくられた五つの輪が、やがて大きな一つの輪になり、普段着のままごちゃ混ぜになってなだれれこんできた世界中の選手たちが、別れを惜しんでいつまでも手を振り続けた。

60年代のスポーツ――その「光」と「陰」と…/玉木正之公式WEBサイト『カメラータ・ディ・タマキ』.2012

『第 18 回オリンピック競技大会東京都報告書』にその様子が書かれている。

《蛍の光》とオリンピック閉会式の別れの歌について(p.61)/野曽原 紗綾.東京音楽大学大学院博士後期課程 2019年度博士共 同研究A報告書 : 《オリンピックと音楽》.2020

「別離の哀愁がただようなかに礼砲 5 発が闇にとどろく。やがて別れのうた“ほたるの光“の合唱。フィールドに輪を描き、静かにゆれるたいまつのほのほ(ママ)。 別れのうたのテンポが行進曲に変わったとき、フィールドの各選手は、夢からさめ たように退場の行進に移った。7 万 5 千人が手拍子をとり、ハンカチをふる。選手 もこれにこたえて別れを惜しむ。 電光掲示板は大きく MEXICO、またメキシコ・シチーで会いましょうと輝いている。 (1965 東京都: 45)」

《蛍の光》とオリンピック閉会式の別れの歌について(p.61)/野曽原 紗綾.東京音楽大学大学院博士後期課程 2019年度博士共 同研究A報告書 : 《オリンピックと音楽》.2020

「国境を超え、人種の違いや宗教の違いを超え……、もしも世界平和というものが存在するなら、それは、このような光景のことをいうのではないでしょうか……」
 そんな実況アナウンサーの言葉に、誰もがうなずいたものだった。

60年代のスポーツ――その「光」と「陰」と…/玉木正之公式WEBサイト『カメラータ・ディ・タマキ』.2012
「サヨナラ・パーティ ー」

さらに《蛍の光》は閉会式後に開かれた、五輪組織委員会主催の「サヨナラ・パーティ ー」においても歌われたという記録がある。この会は 1964 年 10 月 24 日の夜に新宿御苑で 1 万 2 千人の関係者を招いて開催された。参加者には焼き鳥や天ぷらが振舞われたり、 「SAYONARA」と書かれた舞台では坂本九が《上を向いて歩こう》を披露すると白人選手た ちが手拍子を打って喜んだといった記録があり、賑やかなパーティーであったことがうか がえる。その最後に《蛍の光》は流れ、日本国民の参加者だけではなく、海外からの参加 者も一緒になって歌ったことが記録されている。なぜ《蛍の光》を海外からの参加者が歌 うことができたのかという点については、《蛍の光》の旋律はスコットランドの歌《Auld lang syne》のものであることから、日本国民以外の参加者にも馴染みのある歌であったこ とが考えられる。

《蛍の光》とオリンピック閉会式の別れの歌について(p.62)/野曽原 紗綾.東京音楽大学大学院博士後期課程 2019年度博士共 同研究A報告書 : 《オリンピックと音楽》.2020
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2020年の開催まであと1年に迫った東京五輪。1964年に開催された前回の東京五輪は、戦後復興と高度経済成長の象徴的なイベントだった。 東海道新幹線や東名高速道路といったインフラも、五輪に備えて建設・開業するほか、1964年に行われた20競技の舞台となった建物は、 代々木オリンピックプール、日本武道館などが健在である。(「紀伊國屋書店」データベースより)
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