東京オリンピック閉会式の感動の瞬間!選手たちの国境を超えた絆 ── 東京オリンピック物語(29)

1964年、日本は世界の舞台に立つこととなった東京オリンピックを主催し、国民の結束と復興への意欲を示した。この時期は高度経済成長期であり、国内外から注目される日本は、卓越した技術力と努力を背景に、成功を収めることができました。この記事では、感動的な閉会式と、その象徴的なハイライトであった「平和の行進」について触れてみます。

体操ニッポンが世界に見せた実力と感動の瞬間 ── 東京オリンピック物語(28)
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2020年の開催まであと1年に迫った東京五輪。1964年に開催された前回の東京五輪は、戦後復興と高度経済成長の象徴的なイベントだった。 東海道新幹線や東名高速道路といったインフラも、五輪に備えて建設・開業するほか、1964年に行われた20競技の舞台となった建物は、 代々木オリンピックプール、日本武道館などが健在である。(「紀伊國屋書店」データベースより)

1964 Summer Olympics closing ceremony

1946年東京オリンピック 閉会式

Olympics/YouTube

オリンピックは、その誕生以来、スポーツの祭典だけでなく、各国間の和解と友情、平和への希求を象徴する場として位置付けられてきました。開会式と閉会式はその象徴性を一層強調し、華やかさと感動を世界に伝える重要な役割を果たしています。

オリンピックの開会式は、まさに祭典の「華」であると言えます。参加国の選手団の入場行進は、各国の独自性と多様性を示すと同時に、全世界の結束を象徴します。各選手団が自国の旗を掲げながらスタジアムを歩く光景は、視聴者の心を高揚させます。そして、その高まりは聖火の点火と選手宣誓によって頂点に達します。選手たちは一人ひとりが自身の最高のパフォーマンスを発揮し、フェアプレーを誓うとともに、世界の平和を願います。

対して、閉会式は2週間の競技を終えた選手たちが別れを告げ、再会を約束する場です。その場面は深い感動を誘います。各選手が描く喜びや悲しみ、達成感や満足感、そして新たな目標への熱意が交錯する中、個々のストーリーが重なり合い、大きなドラマを形成します。

1964年の東京オリンピックでも、これらの開会式と閉会式は非常に印象的でした。特に閉会式では、「平和の行進」が実施され、全世界の人々が感動的な瞬間を共有しました。選手たちが一緒に手をつなぎ、一つになって歩いたその姿は、我々が目指すべき世界の理想像を具現化していました。

1964年東京五輪閉会式の感動的な瞬間:新国家ザンビアの登場。

15日間にわたる熱戦の末、東京五輪は1964年10月24日に閉会式を迎えました。夕闇が迫り、小雨が混じる午後5時、7万人の観客で埋まった国立競技場で東京オリンピックマーチが響き始めました。

そしてギリシャを先頭に、各国の選手代表が掲げる旗手が次々とトラックに登場しました。なお、この1964年東京五輪では閉会式への選手の参加は自由で、大会運営者も何人の海外選手が参加するか事前には分からなかったと言います。

閉会式当日にイギリスから独立した国「ザンビア」国名が変わったオリンピック

この中には、特別なエピソードを持つ国もありました。その一つが、南部アフリカに位置するザンビア共和国です。

実はザンビアは開会式では「イギリスの保護領北ローデシア選手団」として行進していましたが、閉会式では新生「ザンビア選手団」として行進することになったのです。

ザンビアは北ローデシアとして国際オリンピック委員会(IOC)に登録されており、1964年の開会式時点ではまだ独立前でした。しかし、開会式から閉会式までの期間に、ザンビアはイギリスからの独立を達成し、新たに共和制を採用しました。

しかもこの独立は、東京オリンピックの最終日である1964年10月24日に起こったのです。開会式では、女性1人を含む12人の選手団が北ローデシア旗を掲げて行進しました。この旗は紺地に左肩に英国旗ユニオンジャック、右に国章が描かれていました。しかし、閉会式では、彼らは新たに誕生したザンビアの国旗を掲げ、自国の独立を世界にアピールしました。

この一件は、当時のIOCのアベリー・ブランデージ会長の対応により可能となりました。彼の配慮によって、オリンピック開会式では北ローデシア旗、閉会式ではザンビア旗を掲揚することが認められたのです。

こうして、1964年東京オリンピックは、ザンビアの独立を象徴する特別な舞台となりました。ザンビアの選手たちは、この歴史的な瞬間を、自身の競技とともに、世界と共有することができました。そして、これがザンビア国旗が世界に初めて発信された瞬間となったのです。

「国旗のガーディアン」:1964年東京オリンピックと吹浦忠正の貢献

オリンピックとは、世界各国の選手が一堂に会し、スポーツを通じて国際的な友情と理解を深める場であります。その中心的なシンボルの一つが、各国の国旗です。そして、それぞれの国旗が正確に、そして尊重をもって扱われることは非常に重要なことです。1964年東京オリンピックでは、その責任を担ったのが当時早稲田大学の学生だった吹浦忠正氏でした。

吹浦氏は、東京オリンピックの開催に向けて組織委員会式典課が国旗に詳しい人材を求めていた際、その名前が挙がりました。事の発端は6年前、日本で行われたアジア競技大会で中華民国(台湾)の国旗を逆さまに掲揚してしまうというミスが生じたことにありました。これにより、式典課は危機感を感じていました。

しかし、吹浦氏がその答えとなったのです。彼は早くから国旗に強い興味を持ち、その知識を深めていました。その結果、彼の名前は国旗関係者の間で広く知られていました。さらに、彼は既に国旗に関する本を2冊出版しており、その知識は一般の人々にも認知されていました。

そして、吹浦氏は大学2年生の時、オリンピック組織委員会から国旗担当専門職員としての依頼を受けました。彼は大きな責任感と喜びを感じ、その後の2年間、大学の授業を放棄して、迎賓館にあった組織委員会で一心不乱に仕事に励みました。

独立を事前に知っていた!

ザンビアは、オリンピック開会式時点ではまだイギリスの保護領北ローデシアとして存在していました。しかし、東京オリンピックの最終日にあたる1964年10月24日にザンビア共和国として独立を遂げました。この独立の瞬間はザンビア時間で午前0時、日本時間で閉会式の日の午前6時でした。

そのタイミングに合わせて、早稲田大学の学生であり、オリンピック組織委員会国旗担当職員だった吹浦忠正氏が活躍しました。彼は事前にイギリスから新国旗の情報を入手し、その独立の瞬間に選手村に新しい国旗を持って向かったのです。

選手村では既に祝宴が終わった後で、部屋にはウイスキーの空き瓶が散らばっていました。起きていた2~3名の選手に吹浦氏が新しい国旗を手渡し、「Congratulations! Zambia comes into being!」と声をかけると、彼らは歓声を上げてその国旗を手に取り、大いに喜びました。

その後、吹浦氏の指示により、選手村を始めとする全ての施設で北ローデシアの旗が降ろされ、新しいザンビアの国旗が掲揚されました。その過程で、陸上自衛隊練馬師団、ボーイスカウト、ガールスカウト、スポーツ少年団が協力しました。

さらに、閉会式の際には国名のプラカードも「ZAMBIA」に変更され、アルファベット順で最後の入場となりました。これは最後に入場する、開催国の日本の前に当たります。この一連の行為にザンビア選手団は感謝し、新しい国旗を掲げられることに誇りを感じました。

「平和の行進」

最後に日本の旗手が入場しました。その直後には、誰もが目を見張る光景が展開されました。青空の下で整然と行進した開会式とは対照的に、各国・地域の選手や役員約4000人が入り乱れた集団でスタジアムに姿を現しました。

この瞬間、各国の選手たちは性別や人種を超えて腕を組み、手をつなぎ、踊ったり走ったりして楽しんでいました。中には日本の旗手を肩車にした選手たちもおり、ザンビアをはじめとする各国の旗手も集団に次々と飲み込まれていきました。旗手であった福井誠は、この時見た光景を「スポーツの中に平和を感じた瞬間」と振り返っています。

そして日本の旗手を肩車にした一行に続いて、性別や人種に関係なく腕を組み、笑顔を浮かべる海外の選手たちが続きました。中にはマラソンのユニフォームに身を包んだ選手が走る姿もあり、会場全体は和気あいあいとした雰囲気に包まれました。ここにはスーツ姿の選手からジャージーを着た選手までが入り乱れ、どの国の選手であるのかさえ判別するのが難しいほどの状況が広がっていました。

これは無秩序、混沌とした光景でしたが、それぞれが笑顔に溢れていました。競技を終えた解放感、大会が終わろうとする寂寥感が混ざり合い、まるでお祭りのような状態を作り上げました。この瞬間、スポーツを通じた国際的な一体感が具現化され、五輪の真髄である平和と友情が具現化されました。

basisoffree/YouTube
文豪も感嘆した東京オリンピック閉会式!

東京オリンピックの閉会式は、選手たちが競技から解放されて笑顔で熱狂する、平和の象徴としての光景を描き出しました。その場に居合わせた文豪たちもこの一幕を大いに称賛しました。三島由紀夫はその様子を「無秩序の美しさ」と表現し、大江健三郎は「最高のお祭り気分の数十分」と賛辞を送りました。

閉会式に旗手を務めた福井誠さんは、選手たちのユーモラスな様子について「海外の選手はお酒を飲んで酔っていた」と語っています。海外の選手たちは、閉会式に参加する前にお酒を飲み、陽気な気分のままスタジアムに入場したようです。

その無秩序ながらも楽しげな雰囲気は、スポーツの祭典がもたらす平和と友情、そして国境を越えた一体感を象徴していました。

NHKディレスクター「片倉道夫」の証言

太平洋戦争から復員した後、関西大学を経てNHKに入社した片倉さんは、1953年の夏に全国高校野球選手権の最初のテレビ中継に関わり、多くのスポーツ中継の基礎を築いた。そして、東京五輪では閉会式の中継を取り仕切ることになった。

日本初のオリンピック開催という大きな責任を背負っていた片倉さんは、大学の先輩である大島氏を訪ね、「どのような放送をすべきか」と教えを請いました。「君はオリンピックのテレビ放送をどう考えているのか」と大島氏に問われた片倉さんは、力強く「オリンピックは友情と平和の祭典です。単なる世界選手権ではありません」と返答しました。大島氏もその思いを肯定し、「その通りだ」と頷きました。

しかし、片倉さんの心には一つの不安が残りました。友情の映像は撮れるだろうと確信していましたが、平和の映像をどのように捉えて伝えるべきか、そのイメージが湧き上がらなかったからです。閉会式の日を前に、片倉さんは数枚の絵コンテを用意し、その放送を細心の注意を払って準備していました。

まさかの事態に台本は白紙(笑)

1964年10月24日の夕方、東京五輪の閉会式が開催される国立競技場には、10台のテレビカメラが設置されていました。整然と行進する選手たちを撮影するための台本は、3ヶ月の間に丹念に練り上げられ、一つ一つのカットの段取りが決まっていました。

しかしながら、行進が始まると、その光景は全くの想定外でした。選手たちは国や地域の枠を超えて、自由で楽しげに歩き、笑顔が絶えませんでした。この記憶に残るシーンを、93歳の片倉さんは今でも鮮明に覚えています。

片倉さんは当時の日記に「えっ? えっ? どうしたの? オリンピックで世界は一つになったのか…。土門ちゃん(実況した土門正夫アナウンサー)は『えらいことになりました』なんていう調子でしゃべっていた」と綴ったと言います。片倉さんは即座に「アドリブで撮っていこう」と決断し、その命令が中継チームに伝えられました。そこから映像は「異変」のシーンに切り替わりました。

片倉さんは「カメラマンはベテランで、勘が良かった。あうんの呼吸だった」と振り返ります。その中で、「オリンピックって、すごいな。友情と平和の裏返しで、笑顔と歓喜になっている」と感慨深く思ったと言います。同時に、土門正夫アナウンサーは、「そこには国境を超え、宗教を超えた美しい姿があります。このような美しい姿を見たことがありません」とアドリブで実況しました。

大会が終わった後、大島さんは「世界平和のためにオリンピックが必要というのは、ああいうことなんだよ」と片倉さんに言ったといいます。片倉さんが捉えようとしていた「平和の映像」は、思わぬ形で成功したのです。

元TBSアナウンサ「山田二郎」の証言

開会式を中継したテレビ局はNHKだけでしたが、閉会式では民放全5局もそれぞれ中継を行いました。その中の一つ、TBSからは当時28歳だったアナウンサーの山田二郎さんが東京五輪閉会式の実況を担当しました。ゲストは、「悲しき口笛」の美空ひばりや「別れのブルース」の淡谷のり子などの作詞を手がけた藤浦洸さんでした。

閉会式は夕闇が迫る中、各国の旗手が入場しました。そして最後には、日本の福井誠さん(競泳)が競技場に入ってきました。山田さんは「ワーッ、と大歓声が上がった。何の騒ぎなんだろうと見たら、(福井の後ろは)国別ではなくて、選手たちが混然として入ってきた。福井さんは外国人選手に騎馬戦のように担ぎ上げられているし、ランニング姿の選手もいるし、写真を撮ってる選手もいる。そこで『これは何なのでしょう』と言ったら、藤浦さんが『これがオリンピックです』とおっしゃったんです。あの人、やっぱり詩人だなと思いましたよ」と振り返ります。

山田さんはさらに「放送している感じじゃないんです。自分も一緒になって、興奮の中に入っちゃっているんですよ。後にも先にも、こういう実況はやったことがない。福井さんが担ぎ上げられていたのは、オリンピック精神から日本選手をたたえようという外国人選手の気持ちの表れだった。あれは良かったですね。藤浦さんも『いいね』を連発していました」と続けます。これらのエピソードからは、山田さんと藤浦さんが見た閉会式がいかに感動的で特別なものであったかが伺えます。

「仕掛け人」松澤一鶴とその功績

閉会式で観客と選手たちを驚かせた「仕掛け人」は、当時、開閉会式典の責任者を務めていた松澤一鶴さんでした。松澤はその軌跡から見ても、スポーツと深いつながりを持つ人物でした。

松澤一鶴は東京大学の学生時代から競泳選手として活躍し、卒業後は水泳界の指導者になりました。彼の指導力は、特に戦前の日本代表チームの監督として明らかになりました。1932年のロサンゼルス五輪、1936年のベルリン五輪では、その指導のもとで日本の選手たちは金メダルを次々と獲得し、「競泳ニッポン」の名を世界に轟かせました。

彼のリーダーシップと独自のビジョンが、1964年東京オリンピックの閉会式を特別なものにしたのです。

吹浦忠正の証言

式典課の国旗担当であった吹浦忠正さん(2020東京五輪でも国旗を担当)は、松澤一鶴さんのある表情を今でも鮮明に覚えていると証言しています。それは、1964年東京オリンピックの会期中に中国が初めて原爆実験を行った時、松澤さんが見せた絶望の表情でした。

松澤は、戦争中に多くの教え子たちを失った無念さをずっと胸に抱えていました。その時代の痛みと悲しみは彼の心に深く刻まれ、平和への強い願いを育てました。

台湾が参加している一方で、中国が参加していない。南ベトナムの選手はいるが、北ベトナムの選手はいない。そして、中国の核実験。松澤さんは、悲惨な戦争を経てもなお争いをやめない世界を心底悲しんでいたと言います。

学徒出陣に例えられた瞬間…。

吹浦忠正が今でも鮮明に覚えているのはあるリハーサルの日の出来事です。その日、一群の大学生たちが五輪開会式の練習のために国立競技場を行進していました。彼らは学生服と学生帽を身につけており、その一糸乱れぬ行進は現場を異様な緊張感で包み込んでいました。

その光景を見て、「まるで学徒出陣のようですね」と吹浦さんがつぶやいた時、松澤さんは激怒しました。彼は普段は穏やかな人物でしたが、その一言に対しては怒りを隠すことができませんでした。「お前は黙ってろ。軽々しく口に出すもんじゃない。おまえに何がわかるんだ!」と、彼は吹浦さんに向かって言い放ちました。

普段から温和で優しい松澤からの出たその言葉に、吹浦は驚き言葉を失ったと証言しています。

「平和の行進の」舞台裏

1964年の東京オリンピックの閉会式は、日本の天皇皇后の出席のもと、整然と厳粛に行われるはずでした。しかし、五輪が始まり終盤に近づいたある日、スタッフのミーティングで一つの提案がなされます。その提案者は、記録映画の撮影を担当していた市川崑監督でした。彼は「もっとくだけた、各国選手が互いに打ち解けたような、競技を終えてリラックスした選手の姿を撮りたい」と注文を出し、奇想天外な演出は考えられないかと言い出したのです。

「ロープをはずせ」

賛同の声はなく、その様子を黙って聞いていた松澤一鶴が一計を案じました。式典課の国旗担当であった吹浦忠正さんは、松澤から次のような指示を受けました。「入場する直前に、国同士を仕切るロープを外し、各国の選手が入り混じった状態を作り出して、会場に突入させよう」

閉会式当日、選手たちは入場口の外で整列します。その列が乱れないように、各国選手団の間にはロープが張られています。そのロープは20メートルほどの長さで、鉤型フックのついたポールに引っ掛けて張られていました。そのフックを直前に外すという松澤の提案は、閉会式には全く予定されていない演出でした。

昭和天皇・皇后両陛下も臨席されている閉会式で、松澤のゲリラ的なアイデアが許されるのか。その疑問と葛藤の中、吹浦は最終的に震える手でロープを外す決断を下しました。

結果的には大成功!!そして伝説へ

松澤一鶴の行動は式典課の意向に反し、懲戒問題に発展する可能性もありました。松澤自身もそのリスクを十分に理解していました。しかしながら、彼は各国の選手が入り交じる入場行進に固執しました。その背後には、閉会式を通じて平和の尊さを世界に伝えたいという強い願いがあったからです。

そして、その結果は予想外のものでした。ロイヤルボックスの前で次々とおじぎをする選手たちに対し、昭和天皇は笑顔でうなずき、帽子を振って応えました。「天皇陛下も見ておられる……」との懸念から式典課では却下された“整然ではない行進”は、実際には天皇自身からも喜びとして受け止められたのでした。松澤の予想外の演出は、閉会式の新たな可能性を示し、それぞれの国の選手たちが混ざり合う形で平和のメッセージを体現したのです。

東女体大の学生による「松明の光のダンス」

平和の行進の後、1964年東京オリンピックの閉会式が終盤に差し掛かりました。それは、東京大学の学生たちの出番であった時でした。会場が闇に包まれると、黒一色の服を着た学生たちはトラックを囲み、松明に火をつけました。

その瞬間、会場全体からは一斉に大きな歓声と拍手が湧き起こりました。その松明の光があまりにも美しいもので、火を振っている学生たち自身もその美しさに見とれていたと言われています。この松明の演出は、観客や選手たちに大きな感動と興奮を与え、歴史に残るフィナーレとして今も語り継がれています。

電光掲示板には「SAYONARA」ともう一つの言葉が。

そして、閉会式の最後には大会の成功を祝う花火が打ち上げられました。電光掲示板には「SAYONARA(さようなら)」と「MEET AGAIN IN MEXICO 1968(メキシコでまたお会いしましょう)」と表示されました。これは次回のオリンピック開催地であるメキシコへの期待と、再会を願うメッセージでした。この瞬間、東京オリンピックは大いに成功した大会として幕を閉じ、未来への希望を残しました。

人々の絆と再会への願い

別離の哀愁がただようなかに礼砲5発が闇に鳴り響きました。

選手たちは電光掲示板を背に、名残惜しそうに退場していく。観客は白いハンカチを振り、『蛍の光』の大合唱が響き渡り、そうして1964年の東京オリンピック東京大会の全日程が終了しました。

照明を落とした後も、「蛍の光」の合唱は心に深く響き、選手たちが別れを惜しんでいつまでも手を振り続けました。それはとても幻想的な雰囲気でした、競技場のフィールドには、松明の火によって描かれた五つの輪が見え、やがてそれらが一つの大きな輪に結合しました。それはまるで、世界中の選手たちが普段着のまま混ざり合い、一つの大きな家族のように見えました。

別れの歌のテンポが行進曲に変わった時、フィールドの選手たちは、夢から目覚めたように退場の行進に移りました。7万5000人が手拍子を取りハンカチを振り、選手もこれに応えて別れを惜しんでいました。

「国境を越え、人種の違いや宗教の違いを越え……、もしも世界平和というものが存在するなら、それはこのような光景のことを指すのではないでしょうか……」そんな実況アナウンサーの言葉に、誰もが深くうなずきました。その言葉は、スポーツを通じて世界の絆を結び、再会への願いを紡いだオリンピックの真髄を示していました。

さよならパーティーと共有の歌声

「蛍の光」の旋律は、閉会式だけでなく、オリンピック組織委員会が主催した「サヨナラ・パーティー」でも歌われた記録が残っています。このパーティーは1964年10月24日の夜に、新宿御苑で12,000人の関係者を招いて開催されました。

参加者には焼き鳥や天ぷらが振舞われ、「SAYONARA」と書かれた舞台では坂本九が「上を向いて歩こう」を披露しました。白人選手たちが手拍子を打ち、喜びを表現する様子などが記録に残っており、賑やかなパーティーだったことが伺えます。

パーティーの最後には、再び「蛍の光」が流れました。日本国民の参加者だけでなく、海外からの参加者も一緒になって歌ったとの記録が残っています。なぜ海外からの参加者が「蛍の光」を歌うことができたかというと、その旋律はスコットランドの歌「Auld Lang Syne」のものであり、日本国民以外の参加者にも馴染みのある歌だったからです。この一夜限りの共有の歌声は、スポーツを通じて国境を越えて結ばれた絆の象徴となりました。

IOC会長の称賛と閉会宣言

当時の国際オリンピック委員会(IOC)会長、アベリー・ブランデージは、東京オリンピックの運営に対して高い評価を示し、「東京大会の運営に金メダルを贈りたい」と日本を絶賛しました。ブランデージは、昭和天皇と日本国民に感謝の意を表明し、4年後のメキシコシティオリンピックに全ての国の若者たちが参加することを願いました。

彼の閉会宣言は次のように結ばれました:「この大会が人類の喜びと親しみのもととなることを祈り、世界の幸福のために、いっそうの熱意と勇気と栄誉をもって、世代を超え、永遠に、オリンピックの心が伝えられることを――」。これらの言葉は、記録映画『東京オリンピック』から引用されています。

『第18回オリンピック競技大会公式報告書』によれば、閉会宣言は午後5時28分30秒に始まり、わずか2分後の同5時30分30秒には、聖火を消す段取りに移ったと記されています。この短い時間の中に、オリンピックの精神とその影響力が詰まっていました。

松澤のレガシーと死去

松澤は、閉会式から88日後に亡くなりました。松澤が生み出した閉会式の自由な入場の形式は、その後のオリンピックでも受け継がれ、現在では当たり前の光景になりました。選手たちが自由に行進することで、国や地域の違いを超えた連帯感や一体感を促進し、オリンピックの理念を強く象徴するものとなったのです。

松澤の先見性と創造力が生み出した「平和の行進」は、1964東京オリンピックの重要なレガシーとなり、オリンピックの歴史に深く刻まれています。彼の死後も、その革新的な視点は、オリンピックの進化と発展を続けて促進する力となっています。

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2020年の開催まであと1年に迫った東京五輪。1964年に開催された前回の東京五輪は、戦後復興と高度経済成長の象徴的なイベントだった。 東海道新幹線や東名高速道路といったインフラも、五輪に備えて建設・開業するほか、1964年に行われた20競技の舞台となった建物は、 代々木オリンピックプール、日本武道館などが健在である。(「紀伊國屋書店」データベースより)

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