1964年東京オリンピックは、世界中のアスリートが一堂に会し、競技の最高峰を追求する舞台でありました。その中でも、日本の体操チームが見せた、圧倒的な実力と感動の瞬間は日本中の心を打ちました。
彼らは「体操ニッポン」として知られ、東京の舞台で自国の期待に応え、世界にその実力を示したのです。
不敗の伝説…無敵の女子バレーチーム「東洋の魔女」が挑む栄光の戦い。 ── 東京オリンピック物語(27)
Gymnastics-Japan
「体操ニッポン」日本男子が個人・団体総合で圧勝
1964年10月20日、東京体育館で開催された東京五輪の体操男子競技で、日本が個人総合の金メダルを悲願の初獲得。
また、団体総合では連覇を達成し、強大なライバルであったソ連を圧倒。この日、日本は「体操ニッポン」の実力を世界に示した。
同日、団体総合でもローマ大会に続き日本が見事な優勝を飾った。表彰台には日本選手団全体の主将でもある小野喬(おの・たかし)選手が姿を見せた。
小野選手は選手団主将として、以前のメルボルン大会、ローマ大会での個人総合2位の経験を活かし、肩の痛みに耐えながらチームを支えた。
この日、新エースの遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)選手が小野選手の分までチームを引っ張った。遠藤選手は熟練の技巧と固い精神力でチームを牽引し、個人総合のタイトル獲得に大いに貢献した。
跳馬では、「ヤマシタ跳び」の名で知られる山下治広(やました・はるひろ)選手らが見事なパフォーマンスを披露。
山下選手は「ウルトラC」の技という最高難度を上回る難易度の技を次々と決め、観客と審判団を驚かせた。
日本人初の男子個人総合で金!「遠藤幸雄」
東京体育館で行われた体操男子個人総合では、遠藤幸雄選手が日本人として初の金メダルを手にした。
小野喬の華麗な演技から始まった遠藤選手の体操人生
遠藤選手は秋田市の久保田中学2年の時に体操を始め、その後秋田工業高校で電気科を選択しました。そこでの体操の経験が彼の成長の基盤となりました。
ヘルシンキ五輪の1952年、市内で行われた郷土出身選手による体操の五輪壮行会で、遠藤選手は「体操ニッポン」を支えた小野喬選手の華麗な演技に目を奪われました。この“出会い”が彼の体操に対する情熱の源となったのです。
高校を卒業後、遠藤選手は小野選手の母校である東京教育大学(現筑波大学)に進学し、体操への専念を深めました。
卒業後、彼は日本大学の助手となり、1960年のローマ五輪代表に選ばれ、日本初の団体総合優勝に貢献しました。
個人総合は遠藤選手にとって特別な種目でした。
その理由は、彼の目標であった先輩、小野選手が1956年のメルボルン大会と1960年のローマ大会で、わずか0.05点の差でソ連選手に金メダルを阻まれ、タイトルを逃していたからです。
運命の糸が織りなす勝利!母への祈りと金メダル
迎えた東京オリンピックの個人総合決勝では、遠藤選手が新たなエースとして成長し、着実に得点を伸ばしていきました。5種目を終えてトップでしたが、最終種目は苦手なあん馬でした。
9.00以上の得点を出せば金メダルが確定する状況の中、遠藤は最後のあん馬で尻もちをついてしまいました。
しかしながら、その重要な瞬間に遠藤選手が頼りにしたのは、亡くなった母親でした。「ボクに9点台をください」と彼は母に向けて祈りました。
「演技を終えたあと、なぜか子供のころに結核で亡くなった母の顔が浮かび、心の中で『何とかしてくれ』と祈ったことを覚えている」と彼は語ります。
9歳で母親を亡くし、中学、高校と保育院で育った遠藤選手。最終種目、重大な瞬間に、彼が母に頼った結果、長い審議の末、9.10点を獲得し、見事な優勝を遂げました。
その結果、彼は「因縁」の0.05差をつけて金メダルを手にしました。
遠藤選手の輝く平行棒!金メダルと東洋の魔女との特別な縁
体操男子の種目別決勝で、跳馬、平行棒、鉄棒の3種目が行われた。
その中で遠藤幸雄選手(日本大学教員、秋田市出身)は平行棒でほぼ完璧な演技を披露し、9.90をマークしました。
鶴見修治選手やソ連勢の追い上げを振り切り、団体総合、個人総合に続き、遠藤選手はこの大会で三つ目の金メダルを手にしました。
しかし、その平行棒での金メダルには特別な後日談がある。
「会場が沸いてね。理由を確認してもらうと、女子バレーボール(東洋の魔女)が金メダルを取ったという。『河西さんやったな』と思ったら、ふっと肩の力が抜けてね。そのお陰かな…」と、遠藤選手は人懐っこい笑みを浮かべながら語りました。
界に響く体操のスーパースターの勇姿と遺産
1968年メキシコオリンピックでも団体優勝に貢献した遠藤幸雄氏は、オリンピックで5個の金メダル、2個の銀メダルの計7個、世界選手権で金3個、銀5個、銅2個の合計10個のメダルを獲得するなど、「体操ニッポン」の中心選手として活躍しました。
現役を退いた後も、日本体操協会の専務理事、副会長、日本オリンピック委員会(JOC)理事などを歴任し、日本大学の教授としても後進の指導に当たりました。
1996年に紫綬褒章を受章し、さらに前年には旭日中綬章も受章するなど、その業績は広く認められました。日本大学名誉教授であり、日本体操協会の顧問も務めていました。
遠藤幸雄は2009年3月25日、食道がんのため亡くなりました。享年72歳でした。
60歳を超えても、授業中に鉄棒の大車輪を披露していた遠藤は、その生涯を体操に捧げました。彼の影響力は、現役を引退した後も体操界に深く根付いており、その功績はこれからも引き継がれていくでしょう。
遠藤幸雄が築いた伝説の技「前方開脚浮腰回転倒立 a.k.a エンドー」
1964年の東京オリンピックで個人総合優勝を果たした遠藤幸雄選手は、その卓越した技術力で体操界に新たな風を吹き込みました。
その中でも特筆すべきは彼が考案した、鉄棒の技「前方開脚浮腰回転倒立」、通称「エンドー」です。
この技の名前は日本語で「前方開脚浮腰回転倒立」と表され、前方に回転しながら脚を広げてバーをくぐり、最終的にバーの上で倒立する、という動きが特徴です。
難度としてはBに分類され、比較的易しい部類に入るものの、回転でスピードを付けた後に倒立で完全に静止するという部分が非常に難易度が高いとされます。
国際体操連盟(FIG)はこの技を公式に「エンドー」と命名し、遠藤氏の功績を世界に広く知らしめました。
この技はその後、昨年引退した冨田洋之氏を始めとする多くのトップ選手たちによって取り入れられ、現代の体操競技における基本的な技の一つとなりました。
遠藤が考案したこの「エンドー」技は、その斬新な構成と美しい完成度で、体操競技の鉄棒に新たな可能性を示しました。
これからもこの技は、体操競技を愛する多くの選手たちにとって、目指すべき一つの目標となり続けるでしょう。
感動の絆!「遠藤」と「ベラ・チャスラフスカ」の世界的な友情と競争
1964年の東京オリンピックでは、体操王国ニッポンが男子団体総合で連覇を果たし、男子個人総合では遠藤幸雄が日本選手初の金メダリストとなる一方、女子団体総合でも銅メダルを獲得し、日の丸を掲げる活躍を見せました。
そして、女子個人総合ではチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカが金メダリストとなり、彼女はその後「東京の恋人」と称されるようになりました。
遠藤とチャスラフスカは、1962年のプラハで開催された世界選手権で互いに2位となり、東京五輪での優勝を誓い合いました。
彼らは互いにこの誓いを口外しないよう約束し、文通を始めました。
しかし、その文通は大部分が絵はがきの近況報告であり、恋愛感情や金の誓いについて触れることは一切ありませんでした。これは彼らの間の暗黙の了解でもあったと言われています。
遠藤氏は生涯を通じて、チャスラフスカとの関係については「ライバル意識だけだった」と語り続けていました。
しかし、それでも二人の間には深いつながりがあり、遠藤氏はチャスラフスカが新技「山下跳び」を取り入れる際には、さまざまな助言を与えていました。
この「山下跳び」は、当時日本の体操選手・山下治広が考案した新技で、一世を風靡していました。
跳馬の上で前転した後、体をV字に折り、ジャックナイフと呼ばれる体勢を取るこの技は、柔軟性に優れた女子選手には特に適していました。
チャスラフスカが新技に挑戦する意志を固めた際、遠藤氏は彼女に「山下跳び」の教示を行いました。そして結果、チャスラフスカは女性として初めてこの難技を成功させ、金メダルを獲得することとなりました。
共に戦い、共に祈り、共に支え合った二人
遠藤幸雄とベラ・チャスラフスカとの間には、ただの競技者同士以上の深い絆が存在していました。遠藤が重い病に侵され、生命が危ぶまれていた時、遠いチェコから激励の手紙が届きました。
それはチャスラフスカからで、彼女はその手紙に遠藤の主治医へ向けて「私の大切な友人であるエンドーをどうか助けて下さい」という切実なメッセージを添えていました。
遠藤が亡くなった後もチャスラフスカは彼を忘れることはありませんでした。
彼女は遠藤夫人と日本体操協会常務理事を務める長男、幸一氏と共に遠藤の墓を訪れ、日本の伝統に倣って手を合わせて祈りを捧げました。
また、遠藤の死から2年後に発生した東日本大震災では、チャスラフスカは被災した岩手県の子どもたちを自国チェコに受け入れるなどの支援を行いました。
さらに、東京オリンピックの招致が決定した際には、彼女は一貫して東京への支持を表明しました。
このように、遠藤幸雄とベラ・チャスラフスカとの間には、共に競技を戦い、共に成長し、共に歩んだ長い時間を経て生まれた深い友情と相互理解が存在していました。
それは競技者だけでなく、人間としての尊敬と愛情に満ちた関係であり、二人の間の強い絆を象徴していると言えるでしょう。
「鬼に金棒、小野に鉄棒」小野喬のリーダーシップが輝く瞬間
1964年東京オリンピックでの体操男子団体総合において、日本は10月20日に優勝を果たしました。
その栄光の瞬間に表彰台に立ったのは、選手団全体の主将である小野喬選手でした。彼の姿は、チーム全体の結束と努力、そして彼自身が負った重大なリーダーシップの役割を象徴していました。
家族の絆と努力の証!小野喬の体操道への厳しい道程
体操競技の強豪地域である秋田県能代市出身の小野喬選手は、体操への情熱を早くから抱いていました。
彼は小学生の頃から校庭で鉄棒に親しむ一方、旧制能代中学体操部が明治神宮大会(現在の国民体育大会、以下国体)で優勝する演技に憧れました。
新制能代南高校(現・能代高)時代には国体で優勝を果たし、その後、体操の名門である東京教育大学(現在の筑波大学)に進学。競技会での外国人選手の優れた技を見て、世界レベルの体操へのヒントを掴みました。
その後の厳しい練習が、戦後初のヘルシンキオリンピック(1952年)での活躍につながったのです。
小野選手の進学と並行して、彼の家族生活には困難が伴いました。大学1年生の終わりごろに父親が亡くなった後、彼は屋根瓦を張るアルバイトをしながら競技を続けました。
栄光と驚異の数!小野喬が刻んだ最多記録の13個のオリンピックメダル
さらに小野喬選手は、1956年のメルボルンオリンピックと1960年のローマオリンピックに出場しました。
彼はこれらの大会で、鉄棒、跳馬、団体総合で金メダルを、あん馬、個人総合、団体総合で銀メダルを、跳馬、平行棒、つり輪で銅メダルを獲得するという輝かしい結果を達成しました。
その功績は、彼を日本の体操界における「栄光の架け橋」の一人と位置づけ、日本体操の地位を確立するのに貢献しました。
また、1952年ヘルシンキ大会から1964年東京大会まで、彼は4大会連続でオリンピックに出場しました。
その間に獲得したメダルは驚愕の13個(金5個、銀4個、銅4個)で、これは日本のオリンピック出場選手の中で最多記録です。その圧倒的な強さから「鬼に金棒、小野に鉄棒」と称えられました。
「東京オリンピック開会式の感動」小野喬の選手宣誓が青空に響き渡る
1964年10月10日、東京オリンピック開会式の日に、日本選手団主将に指名された小野喬選手が、選手宣誓を務めました。
「私はここに全競技者の名において、スポーツの栄光とチームの名誉のために、真のスポーツマン精神をもって大会に参加することを誓います」という、その高らかな声は青空に響き渡りました。
その後、青い空には航空自衛隊のブルーインパルスが五つの輪を描きました。
小野喬選手が東京オリンピックでの日本選手団主将と選手宣誓指名されたのは、なんと開会式の約1ヵ月前のでした。
群馬県内での合宿中に、監督から「主将就任と選手宣誓に指名された」と言われ、突然のことに驚いたといいます。
しかし、任命を引き受けた後、小野選手は選手宣誓をしっかりと果たしたいと考え、体操の練習の合間に宣誓の練習を行っていました。
彼は当初、宣誓台の上に宣誓文を置いてほしいと依頼したものの、これは最初は断られたとのことです。しかし、本番では台の上に置かれていましたが、彼は最終的には宣誓文を見ずに宣誓を行いました。
自分の名前である「オノ・タカシ」を読み上げた瞬間、ハトが空に飛び立ち、一段落した後は、彼は体操に集中しました。
麻酔注射を受けたままの演技…小野喬の東京オリンピック奮闘記”
小野喬選手は、1964年東京オリンピックにおいて、注射による肩の痛みの鎮静化を必要としながらも出場していました。
大会前に肩を傷めており、その痛みを鎮めるために麻酔注射を打つ苦しい状況にありましたが、「われわれの練習量は世界一。
普段通りの演技をすれば絶対負けない」とチームを励ましたことが報告されています。新エースの遠藤幸雄選手は、小野選手の分までチームを引っ張り、他の各選手も最高難度を上回る「ウルトラC」の技を次々と決めました。
小野選手は大会前の合宿中にじん帯を痛め、その痛みは増す一方でした。
しかし、初日は何とか乗り切りました。しかし、自由演技の日には、痛みが我慢できないほどになりました。
その日の朝、彼は練習会場で麻酔注射を受け、本番に臨んだものの、麻酔のために感覚がなく、とても演技ができる状況ではありませんでしたが、「われわれの練習量は世界一。普段通りの演技をすれば絶対負けない」とチームを励ましていました。
最初の種目のつり輪はm順番を最後にしてもらい、演技までの時間に、倒立や腕立て伏せを懸命にすることで痛みと感覚を徐々に取り戻しました。
その後の昼休みに再度注射を打ち、夜の鉄棒と床演技に臨みました。
文化功労者に輝く体操のレジェンドの偉大な功績
現役を退いた後、小野選手は学校法人二階堂学園の常務理事を務め、2016年には文化功労者に選出されました。彼の献身的な努力と達成は、日本の体操競技の歴史において重要な役割を果たしました。
感動の瞬間:日本体操女子団体が偉業達成!初のメダル獲得!!
体操女子団体総合では、前半の規定で4位に付けメダル獲得への希望を抱いて後半の自由演技に挑みました。
秋田市出身で慶應義塾大学教育学部に所属していた小野清子(おの きよこ)選手が、段違い平行棒と床運動で9.600点という高得点をマーク。
また、大館市出身で日本体育大学教育学部に所属していた千葉吟子(ちば ぎんこ)選手も安定した演技で高得点を収めました。
この結果、前半規定で3位だったドイツを逆転。日本チームは、オリンピックの体操女子団体総合で初の銅メダルを獲得しました。
なお、体操女子団体総合での日本のメダル獲得は、この時が唯一となっています。しかし、その輝きは今も色あせず、日本体操界の誇りとして受け継がれています。
夫婦の絆と競技の輝き「小野清子」の体操人生
小野清子選手は1936年2月4日に宮城県岩沼市で生まれましたが、生後3カ月で父が他界し、生後約11ヶ月頃に一家は秋田市の伯父の家に移りました
秋田市の久保田中学時代にはバレーボールをやっていたが、バレーボール部の先生が体操部も兼ねており、先生から「体操もやってみないか?」と誘われ、中学2年から体操を始め、秋田北高校1年時にはインターハイの個人優勝を達成しました。
愛と努力の結晶!」小野清子」と「小野喬」の夫婦体操チーム
高校2年生のとき、山形国体に出場した小野清子選手は、そこで後に結婚することになる小野喬選手と出会いました。
小野喬選手は彼女より4学年上で、その時は1952年のヘルシンキオリンピックから帰国してすぐに、模範演技をするために参加していました。
清子選手の高校は女子校(現在は共学)だったので、当時は男性による指導自体が珍しかったと回想しています。
その後も喬選手は手紙やハガキで彼女に体操のアドバイスを送り続け、自身が進学した東京教育大学(現・筑波大学)に女子体操部を作るためのスカウティングも行っていました。
そして、清子選手に対しても「受験してもらいたい」と問題集を送ってきたりしました。
1958年に喬選手と結婚した清子選手は、慶應義塾大学体育研究所に勤めながら体操を続け、1960年のローマ五輪に夫婦そろって出場しました。その後、1961年に長女を出産しました。
このとき彼女は引退を考えていましたが、郷里の秋田で開催される国民体育大会に出場するよう依頼を受け、出産からわずか4カ月で復帰しました。
「母として、体操選手として」オリンピックへの挑戦」
小野清子選手は、1963年に長男を出産し、その後本格的に引退を考えていました。しかし、若手選手の育成に難しさがあり、彼女の経験が求められました。
その結果、彼女は再び日本代表に選ばれることになりました。
小野選手は以前、モスクワの世界選手権やローマオリンピックなどで活躍し、一旦は競技生活に一区切りをつけ、引退して家庭に入るつもりでした。
しかし、東京オリンピックの開催が決まり、その機会に人生が再び変わってしまいました。
「子どもがいてまで、また逆立ちをしろというわけです。当時、普通は子どもを産んでまでスポーツをするなんて『バカじゃないの』と言われてしまう。だから、主人(小野喬氏)も呆れていましたよ」と彼女は回顧します。
それにも関わらず、彼女は体操選手としての役割を果たすことを決心し、再び五輪の舞台に立つことになります。
驚異のママ選手!二児の母が銅メダル獲得!東京五輪の感動ストーリー
二児の母でありながら、小野清子選手はトレーニングと子育ての両立を模索しながら自身の体操への献身を続けました。跳び箱の最上段を逆さにしてゆりかご代わりにするなど、独自の工夫を凝らしていました。
東京五輪では、「さくら変奏曲」に乗せた日本らしさを表現する床運動で見事な演技を披露しました。これにより、彼女は池田敬子さんらとともに団体で銅メダルを獲得し、日本のママさん選手の先駆けとなりました。
前回のローマ大会では団体4位となり、メダル獲得にわずかに及ばなかった経験から、「日の丸を揚げたかったね」という気持ちを共有し、4年間全員で努力を続けた結果、東京大会で銅メダル獲得を果たしました。
小野選手は「冷静に準備してがんばったから、メダルが獲得できた、来るべきものが来たという感じで、表彰台ではとても爽やかで清々しい思いでした」と振り返っています。
メダルを手にした瞬間の感情は喜びよりも「ホッとした」気持ちだったと語ります。
そして、彼女はこの結果を通じて夫の小野喬選手と共にメダルを獲得した選手となり、夫婦で60年と64年の五輪2大会に連続出場するという記録を打ち立てました。
銅メダルから政治家へ!小野清子の輝かしい二つのキャリア
現役引退後の小野清子選手は、女性アスリートの社会進出を先導し、地域スポーツの振興にも携わりました。1965年には夫の小野喬選手と共に、「池上スポーツ普及クラブ」を設立。
このクラブは民間スポーツクラブの草分けとなり、地域スポーツの振興に大きな影響を与えました。
3男2女を育てる一方で社交的な性格を活かし、NHKの体操番組などに出演しました。さらに、末っ子が自立したタイミングで、1986年の参議院選挙に自由民主党から立候補。
初当選を果たし、3期務めるなど、政治の世界でも活躍しました。
彼女が政治家に転身した理由の一つは、選手たちの練習環境を改善したいという強い思いがあったからです。そのために施設を充実させるだけでなく、スポーツ振興くじの導入に尽力しました。
今日では、このスポーツ振興くじが選手たちの強化のための重要な財源となっています。
小野清子選手は、体操選手としてのキャリアだけでなく、社会人としても幅広い貢献をしてきたことがわかります。
コロナ感染のため急逝…。体操界に大きな悲しみ
小野清子が、2021年3月13日に85歳で亡くなりました。
死去の発表は3月18日に自由民主党からありました。小野さんは骨折で入院中、新型コロナウイルスに感染。治療を受けていましたが、急に容体が悪化しました。
同じ秋田県出身で、体操仲間の千葉吟子は「器量良しで頭も良い、まさに秋田美人で憧れのお姉さんだった」と小野さんを偲びました。
二人は今年の東京五輪で何か手伝いたいと話していたそうで、「それだけに残念で寂しい」と惜しんだと言います。
また、相原俊子は「(なかなか機会がなかったものの)会えば近況だけでなく、当時の話をしていた」と回想。「今年の東京五輪を一緒に見たかった。言葉がない」と、声を震わせて悲しみを語りました。
体操界を代表する偉大な先駆者の逝去に、関係者からは悲しみの声が相次ぎました。
ケガを乗り越えて輝く金メダル「早田卓次」の勇敢な挑戦
早田卓次(はやた たくじ)は和歌山県田辺市の出身で、子どもの頃から父親の漁師の仕事を手伝って自然と身体が鍛えられていきました。
この自然な生活の中での身体の鍛え方が、後の体操競技にとって大きな力となりました。
早田さんが体操競技を始めたのは、明洋中学校時代でした。その頃から早朝に体を動かすことが日課になっていきました。
ロシア語で「ザリアツカ」と呼ばれる早朝トレーニングを日々行い、競技に適した体重の維持に努めました。
早田さんの自身の最適な体重は57.5kgと分析し、「朝に体を動かすと、(体重調整が)うまくいった」と彼は回想しています。
中学3年生の時には県中学校大会で個人総合優勝を果たし、田辺高校に進学後も競技を続けました。昭和32年と33年の2年連続で県高校選手権で個人総合優勝し、3年生の時には近畿大会でも個人総合優勝を達成しました。
また、第13回富山国体では個人総合で2位、平行棒では1位に輝くという成績を収めました。
大学生活と日本大学への進学!競技を更に深める
早田卓次は、地元の和歌山県立田辺高校を卒業後、日本大学文理学部体育学科へ進学しました。ここでは、自身も体操競技に打ち込む助手、遠藤幸雄と出会います。
遠藤は教師であり、早田は学生でしたが、ともにオリンピックを目指す志を共有し、一緒に練習を積むことになりました。
遠藤は当時から早田の平行棒の技術を高く評価しており、「早田の平行棒は自分よりも上手い」と思っていました。
これにより、教師と学生という立場を超えて共に練習を行う関係性が築かれました。早田自身も後に日本大学の助手となり、東京オリンピックを目指す役割を果たしました。
早田は中学・高校時代には体育設備が限られており、屋外でマットや跳び箱を使って練習を行っていました。指導者もいない中での練習が普通であったと言います。
「それが当たり前と思っていましたので、大学入学後は、体育館の練習が嬉しくてたまりませんでした」と彼は述べています。
大学へ進学したことで練習環境が大きく変わり、その変化を喜びと感じながらさらなる技術の向上に努めたのでした。
挫折と再起!困難を乗り越えてオリンピックへ
オリンピックに向けての早田の準備は、決して平坦ではありませんでした。
1959年、日本大学2年生の時に、彼は右足のアキレス腱を断裂する重大な怪我を負い、長期間にわたり練習から遠ざかることを余儀なくされました。足の付け根から指先までギプスを装着し、身動き取れない状態に陥りました。
しかし、早田はこの困難な状況にもめげず、逆立ちを利用して移動するなど、自身の技術を活かして生活を続けました。
怪我によって練習ができなくなったことは、彼の中で更なる強い欲求を引き出す結果となりました。
彼は後に「けががなければ金メダルはとれなかったかもしれない。練習をやりたくてもできない。精神的にハングリーになった。練習に飢えや渇きがあるから、やれる時は目いっぱいやった。人一倍やってやる。そういう気持ちになれたよね」と語っています。
半年後にはトレーニングを再開しましたが、まだ走ることはできなかったため、彼はつり輪とあん馬に専念し、腕立て伏せや懸垂などのトレーニングを行い上半身を鍛え上げました。
この期間中に、つり輪の技術が飛躍的に向上し、世界一につながる土台となりました。
怪我からの復帰後、早田は全日本学生選手権大会で個人優勝を果たし、日本のトップ選手としての地位を確立しました。
運命の一日!東京オリンピック開会式で24歳の誕生日を迎える
1964年10月10日、東京オリンピックの開会式が行われました。
この日は特別な意味を持つ日でもありました。なぜなら、体操競技の日本代表選手である早田卓次が、この日に24歳の誕生日を迎えたからです。
早田は後にこの日を振り返り、「異様に盛り上がっていました。特に体操は、前回ローマ大会で金メダルを獲得し、期待が高く人気もありました。マスコミを含め周囲を警戒し、最終調整は名古屋で行いました。10月8日まで合宿して9日に東京入り、翌10日が開会式でした」と述べています。
その特別な日に彼が誕生日を迎えるということは、運命的な繋がりを感じさせました。「10月10日が誕生日というのも、縁かなと感じています」と早田は語りました。
そして、当時「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進氏(選手団団長秘書)に呼び出され、大島鎌吉団長から直々に誕生日の祝いとしてケーキを贈られたというエピソードも彼の記憶に新しく残っています。
「父への思いが力に変わる!」東京オリンピックでの金メダル
1964年10月22日、オリンピックの体操種目別つり輪決勝が行われました。6人中3人が日本選手で、ミスの出にくいこの種目には金メダルの期待が高まっていました。
しかし、遠藤幸雄、鶴見修治の二人が着地でミスを犯し、この日は床運動、あん馬でも日本選手の優勝は出なかった。既に団体、個人総合(遠藤)を制した「体操ニッポン」の勢いが一気に削がれる瞬間が訪れていました。
そんな中、早田卓次は最後の砦として立ち上がりました。
彼は後に「本番でつり輪を握ったら機械的に体が動いた。声援もよく聞こえて、リズムに乗って演技ができた。金メダルが決まった瞬間はうれしいというより、肩の荷が下りた」と振り返っています。
この東京オリンピックでの戦いには、父への思いが深く込められていました。早田は大会前に父を亡くし、その死が彼の中で深い影を落としていました。
「選手として恥じない働きをしようと必死でやった。その結果としての金メダルだった」と彼は語ります。また、「親孝行ができてよかった」とも述べています。
早田の父は胆石を患っていて、オリンピックを見に行きたいという願いから手術を受けていましたが、その手術に失敗し、1964年7月29日に亡くなりました。
その父への想いが、早田のオリンピックでの活躍に大きな力を与えていたのです。
ロシアに勝つ秘策は正露丸!早田卓次が明かす監督の一言
1964年のオリンピックの前夜、体操男子団体・男子つり輪金メダリストの早田卓次は、監督からとある言葉を聞かされました。
「正露丸を丸飲みしろ!」それは彼らが直面していた強大なライバル、ロシアに打ち勝つための秘策でした。「正露丸の『露』はロシアの『露』だと言って、全員で15粒ずつ飲んだんですよ」と早田さんは振り返ります。
しかし、戦いの困難さはそこだけではありませんでした。早田さんは「大変だったのはユニフォームの管理です」と語ります。
当時のユニフォームはウール製で、すぐに虫に食われてしまい、熱湯につけると縮んでしまうという特性がありました。
そのため、彼らはビール瓶をユニフォームの下につるして伸ばすなどの手段を用いて対処しなければなりませんでした。
東洋の魔女からの刺激!早田卓次が語るオリンピック前夜の驚愕の練習
早田はオリンピックに向けて、非常に厳しい自主練習を重ねました。
体育館を共有していたバレーボール女子日本代表チーム、通称「東洋の魔女」の献身的な練習ぶりを見て刺激を受け、自らも同様の情熱を注ぎました。
「五輪前、同じ体育館を使っていた東洋の魔女が、大声出しながら夜までガンガンやっていた。あんなにやって体が持つのかというくらい。それもあって私は4時間程度の規定練習の後、『さぁこれからだ』という気持ちで自主練に励んだ」と早田さんは語ります。
特に彼が力を注いだのは、体操の種目「つり輪」での「十字懸垂」の練習でした。「まっすぐで減点のない姿勢を作ることに人一倍、時間をかけた」と早田さんは振り返ります。
その練習方法は独特で、当時まだ普及していなかった動画撮影ではなく、「一回一回インスタントカメラでポーズを写して姿勢を確認」していました。
このような緻密な自主練習が、後の彼の金メダル獲得につながったと言えるでしょう。
そして、オリンピックの大会当日。「つり輪をグッと握った瞬間に『いける』と感じた」と彼は語ります。
その瞬間から、早田さんは自分がこれまでに磨き上げてきた技術と精神力を全て発揮し、見事に金メダルを手に入れたのです。
地元田辺市からの絶大なサポート!心に残る寄せ書き
1964年東京オリンピックで早田卓次選手が大活躍を見せたのは、彼を深く支えてくれた地元の人々の応援が大きな背景にありました。
特に彼の故郷、田辺市の母校の中学生たちから送られた、選手村への激励の寄せ書きは彼の心に深く残っています。
試合の会場には、母親や大学の仲間、先輩たちが駆けつけ、早田選手の演技を見守っていました。「かなり周りの人が応援してくれて私の演技を盛り上げてくれ、感謝しています」と早田選手は感謝の念を述べています。
また、母校の中学校では、クラス単位でシーツに寄せ書きを作り、それを選手村まで送ってくれました。その寄せ書きは今でも早田選手が大切に保管しています。
その寄せ書きの中には特別な一枚がありました。それは表彰台の1番に早田選手が立っていて、その上につり輪の絵を描いたもの。
当時、彼自身がつり輪で高評価を得られるとは思っていなかった時期に、1人の中学生が描いていたその絵には驚きを隠せませんでした。
「その子ももう52歳位になっている(笑)」と早田選手はユーモラスに述べ、郷里の人々の応援がどれだけ彼を励まし、支えたかを物語っています。
引退後も指導者として輝く早田卓次!日本体操界の発展に尽力
早田卓次選手は、その後も体操競技における日本の価値を世界に示すために、数多くの国際大会に参加しました。
昭和43年(1968年)のメキシコオリンピックにも日本代表選手として参加し、昭和45年(1970年)の世界選手権大会では個人総合7位、鉄棒で3位という成績を収めました。
昭和46年(1971年)に現役を引退した後も、日本大学に勤務しながら後進の指導に当たり、日本体操協会の主要役職に就いています。
国際大会のコーチ、チームリーダー、団長としても活躍し、日本の体操競技の振興に尽力しました。その貢献が評価され、平成14年(2002年)には紫綬褒章を授与されています。
現在は日本オリンピアンズ協会の理事長として、スポーツ界のリーダーシップを発揮しています。
「紀の国わかやま国体・大会」では式典専門委員長として、両大会の成功に大いに貢献しました。これまでの長いキャリアを通じて、早田選手は日本の体操競技の発展に対する深い献身と努力を示し続けています。
野球から陸上競技まで!「鶴見修治」の幅広いスポーツ活動
鶴見 修治(つるみ しゅうじ)は、東京の浅草で生まれ、戦時中には両親の出身地である静岡県引佐郡東浜名村(現在の浜松市北区三ヶ日町)へ疎開しました。
彼の児童期は都筑小学校で過ごされ、当時は特別に体操に取り組んでいたわけではありませんでした。むしろ、彼の活動は野球、陸上競技(特にマラソンや駅伝)、そして水泳に広がっていました。
また、スポーツ以外にも焚薪や枯れ木を集めたり、船を漕いだり、魚を釣ったりという自由な活動を通じて体を動かす機会に恵まれていました。
鶴見は7人兄弟の第4子として生まれ、年齢差が大きな兄弟の間で育ちました。彼はこのような「多様な世代との関わり」の中で育つことが、彼自身の成長にとって重要だったと述べています。
中学校時代には練馬区の豊玉中学校へ通い、軟式テニス部に所属しました。3年生の時には練馬区の軟式テニスの大会で優勝するなど、彼の運動能力はこの時期にすでに光を放っていました。
しかし、彼は軟式テニスだけでなく、野球部にも同時に所属しており、中学生になっても様々なスポーツを続けていました。
体操との出会いは将来の恩師
体操に初めて出会ったのは、鶴見さんが国学院高校に在学していた時でした。その時、運動会のイベントの一つとして、日本体育大学の竹本正男さんが体操の実演を披露したのを見て、鶴見さんはその魅力に取りつかれました。
その衝撃的な出会いは、後に師弟関係を結ぶきっかけとなり、鶴見さんが体操の道へ進む決定的なきっかけとなりました。
すぐに体操部に入部した鶴見さんは、体を動かすことが得意だったため、3年生の時にはすでに東京都選手権で優勝するほどの成績を収めていました。
彼が高校から体操を始めると、電車に乗る際にはつり革にぶら下がったり、つま先立ちでバランスを取ったりと、一分一秒を惜しむように練習に励んでいました。
このようにして高校2年から本格的に体操に取り組み始めた鶴見さんは、わずか4年後の22歳で1960年ローマオリンピックに出場しました。この大会で日本男子団体はソビエト連邦を破り、初めての優勝を飾りました。
鶴見さんは自身の成功を、「高校時代から大学のトップ選手と一緒に練習し、最新の技やトレーニング法を学ぶことができた」という東京で生まれ育った”地の利”にあると考えています。
モノも情報も乏しかった当時の状況下で、鶴見さんは常に最先端の情報と共に練習する機会に恵まれていました。
栄光のローマから連覇の東京へ!鶴見修治のオリンピックでの輝かしい実績
大学進学は、体操界の名門、日本体育大学に至りました。そこで鶴見さんは体操に没頭する日々を送り、その後の2つのオリンピック大会で最高の栄誉を手にすることとなります。
鶴見さん自身がその時期を振り返るとき、彼は「互いにライバルでありながら、それぞれが長所を生かす最高のチームだった」と述べています。
これは、彼が大学の体操部で経験した団体の一体感と、競争心の中にある個々の能力を最大限に引き出す能力を認める態度を反映しています。
日本体操界の誇り!オリンピック金メダルと驚異的な成果
体操は日本が誇る特技であり、鶴見さんはその分野で大いに光り輝きました。1960年のローマオリンピックで、彼は体操男子団体総合で金メダルを獲得し、あん馬では銅メダルを手にしました。
そして4年後、日本で開催された1964年東京オリンピックでは、全国民の期待とメディアの注目の中で、彼はライバルである旧ソ連を倒し、男子団体総合で連覇を達成しました。
個人総合、あん馬、平行棒でも銀メダルに輝くなど、驚くべき実績を達成しました。
彼はこれらの成果を、「驚異的なプレッシャーを練習に打ち込むことで跳ね返し、手に入れた」と語っています。
「地元の観客の前で勝つ姿を見せることができた。他の国際大会にも出たが、東京オリンピックは最高の舞台だった」と、鶴見さんは当時を懐かしく振り返ります。
彼の自宅には当時の新聞記事などが保管されており、「写真や記事を見るだけでも当時のことを思い出す」と、彼は笑顔で語ります。
また、鶴見さんは1960年のローマオリンピックに出場した経験から、「インターネットなどがない時代だったので、海外で試合をした選手が持ち帰った映像や写真で技を研究した」と語っています。
藍綬褒章と国際体操殿堂入り!鶴見修治の栄誉ある業績
鶴見さんは、1964年東京大会で体操男子団体の2連覇を達成し、個人総合でも2位になるなど、オリンピックの表彰台に計6回立つという卓越した成績を達成しました。
しかし、彼の手元に金メダルはありません。これは、当時の規定で体操団体のメダルはチームに1個とされ、そのメダルは現在、日本体操協会の金庫に保管されているからです。
「博物館などに展示し、みんなに見てもらえたらうれしいのだが」と、彼は語ります。これは、体操ニッポンの功労者としての彼の唯一の心残りとも言えます。
現役引退後は、鶴見さんは日本体育大学の講師や河合楽器の監督として後進の指導を行いました。
その後、彼は日本体操協会の理事や日本ドッジボール協会の理事などを歴任し、現在は日本オリンピアンズ協会の理事を務めています。
1998年には、彼の長年の功績が認められ、藍綬褒章を受章しました。
そして2008年には、日本人として11人目となる国際体操殿堂入りを果たしました。彼の達成した成績は、日本の体操界だけでなく、国際的にも高く評価されているのです。
跳馬の革命者「山下治広」の新技開発とその功績
下治広(やました はるひろ)は、愛媛県宇和島市出身で、体操の世界で多大な影響を与えた革新者として知られています。
彼の体操への道は、宇和島東高等学校で体操教師の野本迪甫(のもとみちお)からの指導によって始まりました。彼が卒業後、日本体育大学の助手であった河野昭の勧めにより同校へ進学。
ここで彼は体操選手として真価を発揮し、大学卒業後は全日本チームに参加しました。
山下は特に跳馬の分野で貢献をしました。それまでの跳馬では伸身跳びしかなかったのに対し、彼は前転跳びに屈伸を組み込むことで「山下跳び」と呼ばれる新たな技を自力で完成させました。
「ヤマシタ跳び」と「新ヤマシタ跳び」
山下治広が新技「ヤマシタ跳び」を初めて世界に披露したのは、1962年の世界選手権(チェコ・プラハ)でした。
勢いよく跳び上がり、跳馬に両手をついて倒立。空中で一度屈身し、最後は伸身姿勢で着地するという、その技は華麗で観客を驚かせました。しかし、この大会では残念ながら2位に終わりました。
それでも山下は「負けたという気はしなかった。その時から東京で金メダルを取ることばかり考えていました」と述べ、その後も一層の練習を重ねました
。特に新技の開発に注力し、7時間の全体練習が終わった後でも、1時間を新技に取り組む時間として確保しました。しかし、跳馬の練習は常に20メートル走らなければならず、スタミナの消耗が激しかった。
しかし、その状況は青森・八戸市の合宿所にあったトランポリンを利用することで改善されました。竹本正男コーチの勧めによりトランポリンでの練習を始め、これにより走るロスがなくなりました。
「ある時、ひねりができたんです。竹本さんが“手を上げて回ってたぞ”と言ってくれて、その練習を繰り返したんです」と山下は振り返ります。これが「新ヤマシタ跳び」の誕生でした。
オリンピック史に輝く二つのオリジナル技と金メダル
1964年10月23日、東京オリンピックの大舞台で山下治広は1回目に「ヤマシタ跳び」を決め、2回目にはひねりを加えた「新ヤマシタ跳び」を成功させて見事に金メダルを手に入れました。
彼は62年の世界選手権で初披露した「元祖ヤマシタ跳び」を他の海外選手が模倣することを予想し、新たなバリエーションを加えることでその差を示しました。
試合後、山下は「ひねりは何千回も練習しているので自信はあった」と述べました。「ヤマシタ跳び」と「新ヤマシタ跳び」はまだ完全に完成していませんでしたが、彼は金メダルを手に入れるために、思い切って挑戦しました。
「ヤマシタ跳び」の1本目は、審判から10点満点の評価を得るものもおり、9.90点の最高点を獲得しました。「新ヤマシタ跳び」も9.80点を得て、金メダルを獲得しました。
その栄光の証、金メダルは現在、山下治広の出身地である愛媛県宇和島市の総合体育館に展示されています。
山下治広の遺産!優れた選手の育成と愛媛の誇り
山下治広が競技から退いた後、彼は日本体育大学の教授に就任し、次世代の育成に尽力しました。
彼の指導のもと、多くの優秀な選手が育成され、その中にはオリンピックメダリストの監物永三や塚原光男らの名も含まれています。選手としての功績だけでなく、指導者としても山下は日本体操界の黄金期を支える一翼を担いました。
これらの業績により、山下治広は愛媛人物博物館にて、愛媛の偉人として展示される栄誉を受けています。彼の人生と功績は、後世の体操選手たちにとって貴重な学びの場となっています。
体操ニッポンが世界に見せた実力と感動の瞬間 ── 東京オリンピック物語(28)