1964年の東京オリンピックで、女子バレーチーム「東洋の魔女」は新たな伝説を刻みました。彼女たちの勇姿は、世界中の注目を浴び、国際的な認知をもたらしました。
この壮絶な戦いの裏には、選手たちの情熱とチームワークが息づき、日本を象徴する勇気と栄光が生まれました。彼女たちの偉業は、日本が持つ可能性を示し、女子スポーツの発展への道を切り拓きました。感動のバレーボール競技と、彼女たちの強さに満ちた物語が、あなたを虜にすること間違いありません。
「柔道がJUDOになった日」1964年東京オリンピックでの柔道の敗北 ── 東京オリンピック物語(26)
Oriental Witch
感動の女子バレーチーム「東洋の魔女」がオリンピックで世界を魅了!
このオリンピックで日本中の注目を浴びたチームがありました。それが無敵の女子バレーチーム「東洋の魔女」の活躍でした。彼女たちはただのスポーツ選手ではなく、日本が国際的に認知され、自信を持つきっかけを提供したヒロインたちでした。
1964東京オリンピックで新たに「柔道」「バレー」が新競技に!
1964年の第18回夏季オリンピック東京大会開催に際し、開催国である日本には、オリンピック憲章に基づき、新競技を2競技まで選ぶ特権がありました。この機会を活かすべく、東京オリンピック組織委員会は、日本がメダル獲得の可能性が高いと見込んだ2つの競技を選びました。
それが、伝統的な日本の武道である男子柔道と、その時点で無敵の強さを誇っていた女子バレーボールでした。
特に注目すべきは、女子バレーボールの採用でした。これにより、女子バレーボールはオリンピック競技として採用された最初の女子団体競技となりました。この決定は、女子スポーツの重要性と可能性を全世界に示す大きな一歩であり、後の女子スポーツの発展に対する貢献は計り知れないものになりました。
「東洋の魔女」の誕生とその背景
東京五輪の女子バレーボールで日本は決勝でソ連を下し、団体競技としては日本初の金メダルを獲得しました。この偉大な達成は、大松博文監督率いる強固なチームによって可能にされました。その力と技術は圧倒的で、5試合で落としたのはわずか1セットのみ。そのため、彼女たちは「東洋の魔女」と称えられました。
しかし、東洋の魔女とは一体何者なのでしょうか。この愛称は、実は1964年の東京オリンピックよりも3年前の1961年に既に付けられていました。当時の日本代表は、1つの企業チームから多数の選手を集めて構成することが一般的ででした。
その中心となったのが、大松博文監督率いる大日本紡績株式会社貝塚工場の女子選手たち、通称「日紡貝塚」でした。
紡績企業「大日本紡績株式会社貝塚工場」の実業団チーム
女子選手たちは日本の基幹産業であった日紡の繊維工場で働いていました。しかし、彼女たちは『女工哀史』に象徴されるような厳しい労働環境の中で、バレーボールに打ち込んでいました。
「日紡貝塚」チームは初めて結集した時、決して順風満帆ではありませんでした。「女工に負けたら恥じよ」と、当時の強豪女子校チームから野次られ、「女工」という烙印を押されたことで、しどろもどろになり、試合にも負けてしまいました。
しかし、この悔しさが彼女たちを奮起させ、一丸となって努力する原動力となりました。強豪校との差を感じつつも、自身を信じ、互いを信じ、一つひとつの試合を経験と成長の機会として捉え、困難を乗り越えていきました。
そして、大松監督の指導の下、彼女たちは1961年にプラハで開かれた三大陸選手権で全勝し、強豪ソ連を破り、優勝を果たしました。
その活躍は地元の新聞で「東洋からきた台風」「東洋の魔女たち」と評され、ここから「東洋の魔女」の名が生まれました。この一連の出来事は、一企業の実業団チームがナショナルチームを撃破したという驚くべき事実とともに、親善試合を含めて22戦全勝という圧倒的な成績を残した「東洋の魔女」の誕生を象徴しています。
しかし、最も注目すべきことは、「東洋の魔女」はもともと一企業のチームの呼び名だったという事実です。彼女たちは一般の女性工員から世界のトップアスリートへと成長し、日本のバレーボール界だけでなく、世界のバレーボール界に大きな影響を与えたのです。
国内外258戦無敗
その「日紡貝塚」は、1959年から始まる一連の驚異的な勝利を収めました。単独チームとして6年間にわたり無敗を誇り、なんと175連勝という前人未到の記録を達成したのです。その記録は、名将・大松博文監督と、河西昌枝をはじめとするチームメンバーが築き上げた金字塔と言えます。
そして日紡貝塚の連勝記録は止まることを知らず、その後も記録は伸び続け、ついには驚異的な258連勝という大記録を打ち立てました。
Women’s volleyball. Nichibo’s team
世界最強「日紡代表女子バレーボールチーム」誕生物語
1953年11月27日、一つの重要な決定が下されました。大日本紡績株式会社貝塚工場は日紡代表女子バレーボールチームを設立することとなり、後に「東洋の魔女」と称えられる選手たちを育て上げた大松博文が監督に就任しました。大松の野望は「2年で日本一のチームを作る」ことであり、その思いを胸に1954年3月15日、貝塚工場に女子バレーボールチーム(通称「日紡貝塚」)が誕生したのです。
しかし、チームの旅路は決して平坦なものではありませんでした。新卒生を中心に編成された結成当初のチームは、苦戦の日々を送っていました。負けては猛練習、また負けては猛練習を繰り返し、小さな大会では活躍を見せましたが、全国的な大会では8位に入るのがやっとという、まだまだ未熟な実力しかありませんでした。
夢を追い続ける熱き魂!大松監督のスパルタトレーニング
チームの監督に選ばれたのは、関学大バレー部時代に尼崎でコーチ経験があった大松博文でした。当時32歳だった彼は、「会社の代表チームなら当然、勝たなきゃいけない。勝つ苦しさは知ってるし、『やめたい時にはいつでもやめる」という条件でやっと引き受けた」と後に振り返っています。結局、社長の命令により、彼は初代監督に就任しました。
大松監督はスパルタトレーニングで知られていました。彼の指導の下、当時企業で働いていた選手たちは、16時の退社後から深夜まで練習に励みました。深夜とはいえ、実際には朝方まで練習を続けることも珍しくありませんでした。時には早朝5時まで練習していたとも言われています。
大松監督の指導は厳しかった。「相手が”10″練習してるならこっちは”15″練習しろ!」というスローガンの元、選手たちは常に超えられない壁に挑戦し続けました。
大松監督の軍人時代が育んだ「東洋の魔女」の闘志
大松博文監督の指導スタイルは、彼自身の軍隊経験に大きく影響されていました。彼が若き陸軍少尉だった頃、部下はみんな年上で、「今ごろ学校出てきて、よう指揮は執らんだろう」という声が聞こえたと言います。そこで彼は率先垂範を心がけ、身の回りのことも馬の世話も、何でも自分でやりました。危険な斥候(せっこう)任務も自らが引き受けました。まさに「オレについてこい!」というスタンスで部下たちに示しました。
そして、彼はインパール戦線で英軍の捕虜となり、そこで「やるからには勝たねばならない」という思いが身に染みました。当時、大松監督がチームのメンバーに言った「俺についてこい」というセリフは、国民的な流行語にまでなりました。
彼の率いた部隊が食べ物が尽き、マラリアやアミーバ赤痢に苦しみながらも敗走する経験もありました。そんなとき、「死守せよ」との無理な命令が下った時、誰もが命令を果たすことはできないことを理解していました。「これで死ぬ」という限界状況の心理状態は彼の心に深く刻まれ、その経験は彼の指導スタイルを形成する大きな要素となりました。
「鬼の大松」が導く「東洋の魔女」の無敵の壁
大松博文監督の指導は選手たちにとって容赦ないものでした。「守備は最大の攻撃なり」という彼の信条に基づき、全体の練習の70%をレシーブ練習が占めました。練習の間に投げ込まれるれるボールは、あえて手の届かないところに落とされ、選手たちは必死に追いかけたと言われています。大松監督の練習では、レギュラー6人が主に鍛えられ、補欠選手たちはほとんど練習に参加しなかったといいます。
レシーブ練習では、1人が10本ボールを上げることが求められました。ただし、1本見逃すとマイナスとなり、9本まで上げても最後の1本が上げられなければ8本、7本とカウントが減っていきました。倒れていてもボールは次々と投げ込まれ、やがてはマイナスにカウントされてしまいました。それでも選手たちはコートから出ることは許されず、「できるまで」練習が続けられました。
選手たちは午後3時から始まる練習を終えるのは早くても午前0時、時には明け方までと言われています。選手たちは全身にあざをつくりながらも練習に励み、丸山選手は「猛練習に次ぐ猛練習。年に1、2日しか休まなかった」と振り返ります。選手たちは骨折しても当て木をつけたまま練習を続け、生理中でも休むことは許されませんでした。大松監督の厳しさから、彼は「鬼の大松」と呼ばれるほどでした。
大松監督の指導スタイルを現代の視点で振り返る
大松博文監督のスタイルで現在のスポーツ環境に適用すると、確かに様々な問題が生じる可能性があります。その厳格で過酷な指導方法は、現代のスポーツ界や働く環境で一般的に容認されるものとは大きく異なっています。
- パワーハラスメント(パワハラ):大松監督の厳しい指導方法は、今日ではパワーハラスメントと見なされる可能性があります。これは、権力のある立場から他人を精神的または物理的に追い詰める行為を指します。
- セクシャルハラスメント(セクハラ):選手が生理中でも休むことが許されなかったなどの事例は、性別に関連する問題としてセクシャルハラスメントの一形態と見なされるかもしれません。
- ブラック企業:選手たちは早朝までの過酷な練習に耐え、年間休日がほとんどなかったと伝えられています。このような過労状態は、「ブラック企業」の一例と見なされ、現在では労働法に違反すると考えられます。
- 過労死:過度のストレスと長時間労働は、身体的および精神的健康に深刻な影響を及ぼし、過労死という悲劇的な結果をもたらす可能性があります。
それにもかかわらず、大松監督の時代にはこれらの問題があまり認識されていませんでした。しかし、その指導方法は「女性の敵」「会社の敵」とまで非難され、日紡貝塚の労働組合からも厳しく批判されていました。
働きながら競技の頂点へ!「東洋の魔女」が追い求めた夢とは?
大松博文監督指導のもと、日紡貝塚バレーボールチーム、別名「東洋の魔女」は、働きながらスポーツの高いレベルを追求するという二重の役割を果たしていました。
「金メダル」と「寿退社」
当時の繊維工場では、教育水準が低く、賃金も低い「女工」の労働力が重要な役割を果たしていました。しかし、「東洋の魔女」たちは、高校バレーボールの有力選手を中心に選ばれ、チーム作りに注力されました。
大松監督は、これらの選手たちを同じ勤務時間で働かせ、同じ寮に住まわせることで、工場内の共同体意識を維持しようと努力しました。この工場内の共同体意識の維持が、彼の過酷なトレーニングの原動力となったと言えます。
「東洋の魔女」たちは「選手」と「女工」の間の存在として、一日を過ごしました。朝6時頃に起床し、午後3時半までの勤務時間を経て、深夜0時までの練習をこなすという、非常に過酷な日々を送っていました。
これらの過酷な日々を支えたのは「寿退社」という夢でした。彼女たちは、スポーツと仕事の両立により、一般の女工から解放され、更に金メダルを獲得すれば社会の冷たい視線を覆すことができるという希望に燃えていました。そして、成功すれば、一般の女工も「あの工場で働いている」というプライドを持つことができると信じていました。
そのため、彼女たちは団結し、共に目標に向かって努力しました。そして実際、金メダルを獲得した多くの「魔女」たちは、半年から数年で結婚し、競技生活から引退しています。これは彼女たちが追い求めていた「寿退社」の夢が実現した証ともいえます。
「スパルタ」と「ホトケ」大松監督の指導法を支えた選手たちとの深い絆
大松監督の厳しい指導法は時に労働組合から「女性の敵」と非難されることもありましたが、その一方で彼と選手たちとの間には深い信頼関係が存在していました。
選手たちは大松監督の練習に対する取り組みを認めており、それが単なる厳しさではなく、選手たちの成長を目指す本気の指導であったことを理解していました。このことは、練習中に水分補給を許可していたことや、時代に先駆けてケガや病気の状況を懇意の医師との連絡を通じて管理していたことからも伺うことができます。
確かに、大松監督が怒ると強いボールが飛んできたというエピソードもありますが、彼が直接手を上げることはありませんでした。選手は「できるまでやるというのが、大松先生の練習でした。だから、時間がかかり、気がつくと、明け方になっていることはありましたけど、それは決して一方通行ではなく、選手たちは納得してやってましたし、練習中に笑いが起きることもありました」と回想しています。
大松監督自身もレシーブ練習のボール打ちや投げ込みを自身でこなすなど、選手と一緒に汗を流していました。1日に打ったり投げたりするボールの数は数千本にも及びました。「尊敬こそあれ、向かっていこうなんて気持ちには全くなりませんでした」と、当時の選手は彼への尊敬の念を述べつつ、その過酷さを振り返っていました。
「ホトケの大松」優しさと人間味あふれる監督
「鬼の大松」の名で知られた大松監督ですが、彼自身は「俺はホトケの大松だぞ」と自称し、笑いながら否定していました。彼の指導は厳しかったものの、それは決してスパルタ式ではなく、選手たちとの深い絆や家族のような関係性に裏打ちされていました。選手の一人は「今から思うと、私も『ホトケの大松』だったと思うんです。本当に家族のようでした」と語っています。
彼は選手たちとの親睦を深めるために、月に一度はみんなで南海電車に乗り、ミナミの繁華街へ遊びに行く時間を設けていました。西部劇が好きだった大松監督は、映画の新聞広告を見せられると優しい表情で「用意せえ」と返し、映画や食事をおごって選手たちとの絆を強めていました。
また、洋画好きの大松監督は、月に一度、人気映画を見に連れて行く日を設けていました。「ベン・ハー」などの映画を選手たちと一緒に観賞し、その後はレストランで食事を楽しむというのがその日の流れでした。「今日は疲れているなという時は、5時頃に練習を終えて難波へ。映画を見てレストランで食事して、帰りは貝塚駅から寮まではタクシーでした」と、選手はその日を楽しみにしていました。
国内最強のチーム誕生!大松監督率いる「東洋の魔女」が3冠を達成
1955年(昭和30年)に入ると、大松監督の厳しい指導と猛練習の成果が徐々に現れ始め、チーム発足から約1年余りで全日本9人制バレーボール実業団女子選手権大会で初優勝を遂げました。同年には、全日本バレーボール女子9人制総合選手権大会と国民体育大会でも優勝を果たし、国内の3大タイトルを獲得しました。
この結果は、日本一を目指すチームの目標を達成したものでした。しかし、その一方で、世界的な舞台ではソビエト連邦が圧倒的な強さを誇っていました。
24時間稼働の工場と厳しい指導!
はじめ日紡貝塚には、専用の体育館は存在しませんでした。しかし、1957年に女工たちのための大食堂を改装し、体育館を完成させることができました。これにより、天候や日暮れに左右されることなく、いつでも練習することが可能となりました。
そして、工場は24時間稼働しており、食事や風呂がいつでも準備されていたため、時間を気にする必要はありませんでした。このような恵まれた環境が、選手たちの充実した練習を支え、大松監督の深夜まで及ぶ指導を可能にしました。
こうした環境整備と、大松監督の厳しい指導、選手たちの努力が重なり、「日紡貝塚」が国内無敵の強さを誇るまで、それほど時間はかかりませんでした。
6人制バレーボールへの移行と連勝記録の開始
チーム結成から5年後の1958年、日紡貝塚の強さは確固たるものとなりました。都市対抗、実業団、国体などの国内タイトル5つを制し、国内5冠を達成しました。しかし同時に、チームは重要な転換期を迎えていました。
当時の日本では9人制バレーボールが主流でしたが、世界的には6人制が標準でした。最初は「6人制は遊び」と否定的だった大松博文監督も、「日本の次は世界。世界で戦うには6人制だ」という考えに至りました。そして1959年に入ると、日紡貝塚は本格的に6人制の練習を開始しました。
しかし、同じバレーボールとはいえ、ネットが約10センチも高くなり、コート上の動きも異なっていました。この新しい形式に戸惑う選手たちを見て、大松監督は米国とフランスからルール説明書を取り寄せ、新しい形式について研究を重ねました。そして協会も6人制への移行を推奨し、他のチームもこれに続いていきました。
そして、1959年11月14日の全日本総合の試合で明治生命を2-0で下した試合が、日紡貝塚の258連勝のスタートとなりました。それ以降、チームは新たな形式のバレーボールに順応し、その強さを維持していきました。
「半分は日紡貝塚の選手」世界選手権初出場とその成果
1960年10~11月、ブラジルで開催された第3回世界バレーボール選手権大会に日本からは全日本女子代表として12名が選ばれ、そのうち6名が日紡貝塚から選抜されました。これは日紡貝塚の国内での圧倒的な実力が認められ、その実力が世界に向けて試される機会となりました。
初出場となったこの世界選手権で、日紡貝塚は見事2位に躍進し、世界にその存在を大いに示すことができました。その勝因は、9人制で鍛え上げられた変化球サーブと粘り強い守備力でした。攻撃面では、正確なオーパーパスとトスから繰り出される堅実なフォーメーション攻撃が見事に機能しました。特に、日紡貝塚のサーブは相手のミスを連発させ、ジャンプトスは相手の前衛を惑わせました。
日紡代表女子バレーボールチーム単独でヨーロッパ遠征!
この活躍により、1961年(昭和36年)8~10月には日紡貝塚単独チームが欧州遠征に派遣されることになりました。遠征ではチェコスロヴァキアで開催された三大陸選手権大会で優勝するなど、22戦全勝という記録を打ち立てました。
しかし、彼女たちは9人制のルールでしか試合をしてこなかったため、新たなルールに対応するのは困難を伴いました。反則とされる「ホールディング」や、抗議によるペナルティなど、過酷な状況の中で彼女たちは自身の技術を磨き上げることを選びました。
この海外遠征の成功は、国内での圧倒的な強さという事実だけでなく、東京オリンピックでの女子バレーボール正式競技化を目指す日本バレーボール協会の思惑と、海外での宣伝効果を狙う会社側の思惑が一致した結果ともいえます。彼女たちの活躍は日本バレーボール協会から大いに喜ばれ、また、大日本紡績も国内需要が落ち込み、海外への売り込みを図る中で、日紡貝塚の活躍を”ヒット商品”としアピールする材料として活用することができました。
“東洋の魔女” の誕生
ソ連の地元メディアは、当初は日紡貝塚チームに対して挑戦的な姿勢を示していました。しかし、次第にその圧倒的な強さを認めざるを得なくなり、賞賛の言葉を送るようになりました。
「太平洋の台風を前に、まるで葦の細茎のようにポロポロと折れてしまった。彼女たちのテクニックはゴツゴツして美しさに欠けているが、ほとんどミスがない。いかなる時も精神の均衡を失わないのも大きな長所である」「台風だと思っていたら台風はつぶれない。あれは東洋の魔法使いだ」といった賛辞が寄せられました。
この評価が「東洋の魔女」という名前の起源となりました。この称号は、当初は全日本代表チームではなく、具体的にこの日紡貝塚チームを讃えるために生まれたものでした。彼女たちの技巧と精神力、そして折れない強さが、まさに魔法使いのように見えたのかもしれません。
世界的注目とプレッシャー
日紡貝塚の世界での活躍により、チームは大きな注目を集めるようになりました。帰国したメンバーを待つ大阪駅は人であふれ、貝塚では市中パレードが行われました。練習時には見学する社員で人だかりができ、練習を終えた選手が深夜に部屋に戻ると、同部屋の社員が湯たんぽで布団を温めて待っていたというエピソードもあります。
しかし、この注目度の高さは、プレッシャーとして選手たちに影響を及ぼしていました。特に海外遠征時には、食事の違いなどが選手たちに大きなストレスとなりました。「スープに枯れ葉が入ってる!こんなの食べられない!」と当初は戸惑っていましたが、これがローリエであったことを後に知り、またパンも黒く酸味があるものばかりだったため、白いパンにバターやジャムをつけたものが恋しくなるほどでした。
その他、チームが海外で勝ち進むにつれて、待遇が改善されることで「勝つということは大事なことなんだ」と気付かされました。それと同時に、「追われる身」となり、一時も気が抜けなかった。事実、ソ連のバレー関係者に尾行されて、試合の様子をあらゆる方向から8ミリカメラで撮られるなどし、選手、監督ともども精神的にダメージを受けていた。しかし、そのような状況下でも彼女たちはハードな練習を続け、絶えず高みを目指しました。
「回転レシーブの開発」打倒ソ連を目指した戦略
1960年、大日本紡績貝塚バレー部はブラジルの世界選手権で2位という結果を残しました。しかし、その勝利に満足することなく、次の目標は「打倒ソ連」でした。
当時のソ連代表は大柄な選手が多く、そのパワフルな攻撃は他国を圧倒していました。それに対抗するため、大松監督は選手たちがボールを拾うという基本的な戦略を強化しようと考えました。その結果生まれたのが、大松監督独自の技「回転レシーブ」でした。
コートの守備と回転レシーブの誕生
体格差が攻撃に影響を及ぼすことはよく知られていますが、大松監督はそれ以上にバレーボールの守備面に焦点を当てました。バレーボールはボールを床に落とさないことが最大の前提です。そのため、体格が小さく、手足の短い日本の選手たちは、同じコートを6人でカバーすることに不利を感じていました。
しかし、大松監督には解決策がありました。「ゴロゴロ転がってみい」「そっから起きてみい」と彼は選手たちに指導しました。これが「回転レシーブ」という革新的な技術の誕生でした。
大松監督は、子供のおもちゃである「起き上がり小法師」からヒントを得て、この技術を考え出しました。選手たちは床に転がり、すぐに立ち上がり、ボールを受け取るという動作を行います。これにより、彼らは床にボールがつくのを防ぎつつ、同時に広範囲をカバーすることが可能となるのです、
回転レシーブ習得までの日々
相手の打球に飛び込みパスを上げ、床に転がるとすぐに立ち上がり、攻撃の体勢を取る。このイメージを1961年初頭に大松博文監督が伝えたとき、主将の河西昌枝(後の中村)は「そんなこと…」と反応しました。
しかし、大松監督は選手たちに対して「できんことをするんが練習や」と返答しました。そして、「大変なのは私たちですよ。やり方を一から考えないといけないから」と言いました。
その言葉通り、選手たちは新たな技術を一から習得するための日々を送りました。大松監督の頭に描かれたイメージを具現化するため、選手たちは床を転がりながら練習に取り組みました。その経験を、谷田絹子は振り返ります。
谷田は「毎日、床を転がりながら新しい技術を追い求める日々は大変だったけど、その甲斐があった」と語っています。
選手たちの無尽蔵なる努力
時間が足りず、必要な手順を踏むことが難しい中でも、選手たちは完成に向けて急ピッチで努力しました。「1日1000本は上げたかな。コートの中ではみんな、女じゃなかったから」と河西昌枝は生前に笑って振り返っています。選手たちは厳しい練習を耐え、体を酷使し、倒れることなく立ち続けました。それは彼女たちの強い意志と絶えず挑戦し続ける勇気から生まれたものでした。
「過酷な訓練」吉田国昭が語る大松の極限の練習法
“男でもここまでしない。なぜ、女の子にこんなに厳しく…” 大日本紡績(日紡)貝塚バレー部の練習を初めて見たとき、その厳しい訓練方法に衝撃を受けたのは、吉田国昭だった。彼は後に1996年アトランタオリンピックの女子バレーボール日本代表監督となるが、そのとき彼はまだ75歳であった。
「回転レシーブ」の創造の代償はアザだらけの訓練
大松博文監督の率いる大日本紡績(日紡)貝塚バレー部の訓練法は、非常に厳格で過酷であった。大松は選手たちに体育館の硬い木製床に何度も飛び込むことを要求し、飛び込んですぐ起き上がらなければ、彼自身が打つボールが選手の顔を直撃した。
体育館の一端から他端まで、選手たちは回転しながら立ち上がる動きを繰り返した。その結果、選手たちの体はすぐに青あざや生傷だらけになった。ある時、練習を見学に来た高校生がこれを模倣しようとしたところ、鎖骨を骨折するほどの事故が起きてしまった。
一番早くこの訓練法を習得したとされる松村好子は、この練習法の始まりを振り返る。「大松先生が『これから秘密練習を始める。誰も体育館に入れてはならない』と言ったのがスタートでした。ギリギリまで飛んでくるボールを受けるために、床に体をぶつけなければならない。その結果、私たちはアザだらけになりました。その練習を一人300回も行ったのです」と彼女は語る。
選手たちは腰や背中に座布団を巻き、膝にはサポーターを付けて飛び込む訓練を続けた。時には夜明けまで行われた特訓の中で、大松監督は「できないことをやるのが練習だ」と言い続け、選手たちを鼓舞した。大松監督が考案した「肩から落ち、すぐに左右に回転するレシーブ」は、選手たちが理論よりも体で覚えていった新たな戦術だった。
回転レシーブの誕生!
長時間の過酷な練習は、非合理的だとの批判も受けました。さらには、柔道の受け身の習得を基にしてから始めるべきだとの意見も存在しました。しかし、大松監督はそれらの批判を「柔道はただ回って立つだけ」と一蹴しました。
そして、その厳格な練習の末に、大松監督と選手たちは世界の他のどのチームもできなかった、革新的な技術「回転レシーブ」を生み出しました。
異国の食卓と栄光の連勝!日本チームのヨーロッパ遠征
その後、1961年には日本チームはヨーロッパ遠征を行い、その地で22連勝を挙げるなど、大きな注目を集めました。
しかし、遠征の舞台である異国の地では、食事に苦労することも多かった。選手たちは現地のスープに枯れ葉が入っていると驚き、パンも黒くて酸味があるものばかりだったと語っています。現地の食事が合わず、選手たちはスーツケースに半分近くを日本から持ってきたインスタントラーメンやインスタントごはんで占め、それで夜食をとることもあったとのことです。
初めてヨーロッパに遠征した彼女たちは、現地の食事に困惑しながらも、白いパンにバターやジャムをつけたいという願いを持っていました。特に、チームメイトの神田は「白いパンにバターとジャム!」と日本語でリクエストし続けました。そして、連勝を重ねて地元の評価を高めるうちに、彼女たちの要求が通るようになったのです。
それは、無名の小さな国からやってきた見知らぬ客だった彼女たちが、連勝を続けて地元の評価を高めることで、待遇が変わった結果でした。選手たちは、これによって「勝つということは大事なことなんだ」と再認識しました。
その頃、日本バレーボール協会は、東京オリンピックでバレーボールが正式種目として採用されるよう、そしてさらには女子種目としても採用されるよう、副理事長の今鷹昇一を中心に、必死のロビー活動を行っていました。
バレーボールのオリンピック採用への道!ブランデージとの運命的な出会い
今鷹昇一は、バレーボールをオリンピックの正式種目にするために、IOC会長のエイブリー・ブランデージに直訴し、長い手紙を書いて彼の支持を取り付けました。バレーボールの採用は二転三転したが、1961年6月21日のIOC理事会の評決の前にブランデージが「バレーボールは純粋なアマチュア競技であり、しかも費用はあまりかからず、普及率も高い」と述べたことで、女子バレーボールの採用が認められました。
ブランデージと日本バレーボール界との関係は、東京オリンピックを契機に深まりました。
オリンピックへの夢が広がるアテネの出会い!今鷹副理事長とブランデージの交流
ちなみに当時の日本バレーボール協会副理事長であった今鷹がブランデージに初めて会ったのは、1961年にアテネで行われたIOC総会の時でした。この会議で、男子バレーボールがオリンピック種目になることが決定しましたが、女子についてはまだ話題に上がっていませんでした。
オリンピックに興味がなかった魔女たち
それどころか、当事者である選手たちもこの一連の動きについてほとんど関心を持っていませんでした。
その理由について、1962年の世界選手権と1964年東京オリンピックでエースアタッカーとして活躍した「東洋の魔女」の一員であった井戸川絹子は次のように語ります。
「実は、私たちは『へえ、東京でオリンピックがあるんだね。バレーボールもやるんだね』という感じで、他人事でした。それは、1962年の世界選手権でソ連を倒して世界一になったら、大松博文監督も私たちも全員引退するつもりだったからです」
この予想外の展開は、選手たちに新たな挑戦をもたらすことになります。彼女たちは、すでに目標を達成し、競技生活の終わりを予定していたのに、その計画を変更し、新たな目標であるオリンピックでの勝利を追い求めることを余儀なくされるのです。
待望の対決!東洋の魔女たちが挑む「打倒ソ連」の闘い!
1962年、全日本女子代表選手として、日紡貝塚の10名と2名の若き高校選手(後に日紡貝塚へ入部)を選出し、第4回世界バレーボール選手権大会に臨むことが決定しました。これが彼女たちにとっての新たな挑戦であり、目標でもありました。チームは「打倒ソ連」をスローガンに掲げ、意気込んで日本を出発しました。
9月14日、選手たちは日本を出発し、いくつかの親善試合を経て、10月12日にソ連で開催される世界選手権に参加しました。そして、10月20日の決勝リーグ3戦目で、待ち望んでいた宿敵ソ連との試合が訪れました。これが、四連覇を狙うソ連と、前回二位の日本との間で行われた事実上の優勝決定戦でした。
この試合は、東洋の魔女たちにとって、ただのバレーボールの試合以上のものでした。彼女たちは自分たちの技術、団結力、そして培ってきた精神力を試される究極の舞台に立ちました。そして、彼女たちはその挑戦を全力で受け止め、自分たちの信じるバレーボールを展開しました。
「回転レシーブ」を駆使した魔女たちがソ連を圧倒
この歴史的な試合には、ブレジネフ最高会議議長や、前年に人類初の宇宙飛行を成功させたガガーリン、そして約2万人の観衆が詰めかけました。試合開始、日本は初めてのセットを落としましたが、それを挽回するために、彼女たちは猛練習で身につけた得意技「回転レシーブ」を駆使して次の二つのセットを連取しました。そして、第4セットでは、見事なパフォーマンスで15-3と圧倒し、最終的に勝利を手に入れました。
この試合の後、大松監督は選手たちに胴上げされ、ガガーリンの目の前で舞い上がりました。後に彼は自著「おれについてこい!」で、「いま、わたしは死んでもいい!」と率直な喜びを表現しました。彼は二年後の東京五輪でも再びソ連を破って優勝しましたが、その時は無表情でした。しかし、このモスクワでの勝利の瞬間には、喜びの涙も見せています。
「木の葉落としサーブ」と「無回転サーブ」
優勝を飾った背後には、大松監督の革新的な戦術と厳格なトレーニングがありました。その一つが「木の葉落としサーブ」という特異なサーブ手法でした。このサーブは予測しにくいボールの軌道を生み出し、相手に取られにくいものでした。
大松監督自身がこのサーブを練習し、打つことができる唯一の人物だったといわれています。そのため、プレーヤーたちは練習が終わってからもサーブを学ぶために早朝に起きていました。ボールは通常ならアウトになる位置で急激に落ち、コート内に入るという特性を持っていました。サーブを打つ際、ボールに当たった瞬間に手を引くことでボールの回転が止まり、これが急激な落下を引き起こすのです。
選手たちは、ミスをした場合のリスクを避けるため、自分たちのサーブはただコートに入れることを最優先としていました。しかし、大松監督の「木の葉落としサーブ」は彼女たちのレシーブ技術を強化するのに一役買いました。この困難なサーブを受けることで、プレーヤーたちは高度なレシーブの技術を獲得し、それが彼女たちの優勝に大いに寄与しました。
日本女子バレーボールが世界制覇、名実ともに東洋の魔女
こうして世界選手権では、日本チームはブラジル、ルーマニア、チェコスロヴァキアといった強豪国を次々と破り、全勝で史上初の世界制覇を達成しました。この快挙は日本国内でも大きく報道され、チームの主力メンバーであった日紡貝塚の名前とともに称賛されました。これは団体競技の世界大会で日本が初めて得た優勝であり、「東洋の魔女恐るべし」というフレーズは世界中に広まりました。
目標を達成した魔女たちは引退を決めた
全日本女子代表チームと大松博文監督は、1962年の世界選手権での優勝をもって、引退を決めていました。「世界一になるまで」という約束を胸に、選手たちは猛練習を重ね、ついにその目標を果たしたのです。特に強豪のソ連を破った勝利は、悲願の世界一へと繋がる重要な一戦でした。
その偉業を成し遂げた後、井戸川は「これだけやって世界選手権も勝った。もう五輪を目指してやらなくていいじゃない」と言い、大きな満足感を感じていたといいます。
さらに、チームは世界選手権の優勝を祝って世界一周旅行に出かけました。これは、事前に約束されていた「世界一のご褒美」として与えられたもので、特にハワイの美しい海が印象的だったと言います。しかし、当時の選手は体を冷やすことが許されていなかったため、泳ぐことはできず、観光も制限されていました。それでも、選手たちは「みんな気持ち良さそうに泳いでいるね」「きれいな海ね」という会話を楽しむなど、普段行けない場所に連れて行ってもらえたことを喜んでいました。
旅行の後、選手たちは日本に帰国し、お祝いのパレードが開催されました。選手たちは大勢の人々から祝福を受け、その喜びを共有することができました。これは、長い間厳しいトレーニングを積み重ねてきた選手たちにとって、大きな報酬となったことでしょう。
「オリンピックなんて、私には関係のない」優勝後の決断とその背景
帰国から少し経った、1962年11月10日。全日本女子代表チームの監督であった大松博文は祝勝会の席で辞意を表明しました。それは日本全国に衝撃を走らせる出来事でした。「この2年間、ソ連を破って世界一になるためにやってきた。これで目的は達成できたし、体力も限界にきているので、監督は辞めたいと思っています」と大松は語りました。
大松の突然の辞意表明に、協会幹部は混乱し、報道陣は色めき立ちました。しかし、その決断の裏には、「結婚適齢期の選手を解放してあげたい」という親心がありました。主力選手であった半田百合子(結婚後の中島百合子)は当時22歳で、婚約者がいました。彼女は故郷の栃木へと帰ったのです。
主将の河西昌枝(結婚後の中村昌枝)も、「オリンピックなんて、私には関係のないこと」と語り、結婚への道を選びました。これは、当時の日本社会が、「女性は20代半ばで結婚する」という価値観を強く持っていたからです。1960年の統計によれば、平均初婚年齢は男性が27歳、女性が24歳でした。
五輪出場への期待と周囲の圧力
しかし、周囲は簡単に受け入れませんでした。バレーボールは東京五輪で新たに採用された競技で、女子の団体種目としては初めてのことでした。新たな金メダル候補として、周囲からの期待は想像以上に大きかったのです。
「みんなやめたかった。でも、出ないということは許されなかった」。選手たちの意見は一致していましたが、周囲の期待はその思いを無視していました。「是非東京まで…」と協会幹部が日紡貝塚に日参。さらに、一般ファンからは大松監督率いる東洋の魔女の続投を望む手紙が5000通も寄せられました。その中には「ここまでやり抜いてきたおまえたちが、この期に及んでやめるとはなにごとであるか。それは非国民というものだ。わたしたち国民を裏切らないでほしいーー」という内容も含まれており、全体の約4割が引退を否定する内容だったとされています。
田畑政治も直接説得に動く
1962年6月、女子バレーボールが東京五輪の正式種目に決定しました。これは五輪組織委の初代事務総長であった田畑政治の、国際オリンピック委員会(IOC)への猛烈なロビー活動の成果で、「金を期待できる」という判断が背景にありました。
その後、大松博文監督の引退意向が明らかになると、田畑は直ちに日紡の社長原吉平に直談判し、大松監督の慰留を試みました。田畑はすでに五輪組織委事務総長を退任して2ヵ月経っていましたが、彼の影響力はまだ大きかったのです。
田畑は大松監督が引退を考えていると聞くと、直ちに飛行機で大阪に向かい、日紡の社長と面談し、監督自身にも翻意を求めました。しかし、大松監督は固くその意志を保ちました。「選手たちは心身ともに使い果たし、これ以上続けさせることは自分としてはできない。そして、2年後に新たな選手を育てることは不可能で、オリンピックで勝てるとすれば現在の選手だけである」と説明しました。
しかし田畑は諦めず、女子バレーがオリンピック種目になった経緯を話し、大松監督を説得し続けました。結果、大松監督は「だれにいわれても、やめようと思っていたが、あなたが、それ程頼むのならやろう」と田畑に答え、引退を撤回する決意を固めました。さらに田畑は「ほしい選手がよその会社にいるなら、行って頼んでもらってくる、転勤させてもらうから、オリンピックはニチボーでやってくれ」とも述べ、大松監督とそのチームを全力でサポートすることを約束しました。
選手たちの決断と社会の期待
日紡の社長も選手たちを直接呼び出し、「会社の意のままにならなくなった。日本国民のためにあと2年、なんとかがんばって続けてもらえんかな」と説得しました。その時代、多くの女性が20代前半で結婚していました。主将の河西昌枝はすでに29歳で、他の主力選手たちも結婚する適齢期に差し掛かっており、「2年延期」には切実な思いがありました。
河西昌枝は自著「バレーにかけた青春」で、「私だけでなく、あのときは、みんながやめたかった。私たち6人は会社の偉い人を前にして、泣いてやめさせて下さいと頼んだ」と述べています。また、体力的にも下降線を辿りつつあることから、将来に対する不安も感じていました。
しかし、日本社会は、女性が情熱を燃やしてスポーツに打ち込む姿に驚嘆しながら、好意的な眼差しで見守っていました。日紡貝塚の労組が問題提起する動きはあったものの、社会全体の期待は「東京五輪」と「金メダル」に向けられていました。勝利への憧憬はすべてを駆逐し、選手たちは再び五輪の舞台に向けて立ち上がることになります。
挑戦か結婚か?魔女たちの葛藤と決断
1963年1月4日、正月休みに選手全員が大松家に集まりました。大松監督は、選手たちに対して東京五輪への参加について「わしがお前らに『やってくれ』とは言えない。みんなに決めてほしい」と意思決定を一任しました。この会話の中には、彼の深い尊敬と信頼が表れていました。
選手たちは話し合いの結果、「先生、みんなで話し合った結果、やります。だから、お願いします」と答えました。彼らは東京五輪を目指す覚悟を固め、その決意を大松監督に伝えました。大松監督もこれを受け入れ、うなずいたのです。
増尾光枝(現姓・高城)は腎臓病のため体調を崩し、唯一引退を決断しました。しかし彼女の代わりに、若干19歳の磯辺サタ(現姓・山)がチームに加わりました。全12人の日本代表メンバーの中で、近藤(倉紡)と渋谷(ヤシカ)以外の選手は全員が日紡(ニチボー)所属でした。
当時の半田百合子(現姓・中島)は、「私は当時婚約者がいて、もうやめるつもりで栃木へ帰りました。彼がもう少しやっていいと言ってくれたので、決心をしましたが、五輪までの2年間は正直しんどかった」と述べています。
また、「オリンピックなんて私には関係のないこと」と言っていた主将の河西昌枝も、長い迷いの末に翻意しました。1963年1月4日、大松監督の家に全員が集まった時、「先生、皆で話し合った結果、やります。だから、お願いします」と頭を下げました。
井戸川は、「私は(主軸の)6人が残るならやろうと決めていました。私が右手でボールを受けたら、どのあたりをカバーすればいいとか、左手で弾いたら、このあたりに球が行くとか全員が知り尽くしていた。それを一からやり直すということは難しかった」と語りました。
健康面での問題で増尾が引退せざるを得なかったにもかかわらず、他のレギュラーメンバー5人は現役を続行することを決断しました。
これが可能となったのは、選手たちと大松監督の間に築かれた強固な信頼関係があったからです。この信頼関係がなければ、1年後に訪れる歴史的瞬間は決して実現しなかったでしょう。選手たちは自分たちの生活を一旦横に置き、国民の期待に応えようと全力を尽くしました。この覚悟と決断が、彼女たちを世界の頂点に導くことになるのです。
「俺についてこい」「金メダルを保証する」
東京オリンピックを目指して選手たちはより厳しい練習を開始しました。五輪に出場する以上、絶対に勝たなければならないという強い意識がありました。それは、自分たちが敗北を受け入れて出場するようなことは許されないという考えから生まれたものでした。その結果、練習はさらに厳格になりました。
さらに過酷さを増す練習!!監督まさに「鬼の大松」
練習の終わりは午後11時から午前1時に変わり、さらには監督が納得するまで続きました。練習が朝の5時まで延びることもありました。特にサーブレシーブの練習が長時間に及びました。
具体的には、大松監督がサーブを打ち、選手がそれをレシーブしてトスを上げるという流れが1本とカウントされました。それが1人あたり10本で、6人合わせて60本連続で成功しなければ練習は終わりませんでした。もし最後の6人目が9本目まで成功し、ラストの1本で失敗したら、全ての選手が最初からやり直さなければならなかったのです。これは非常に厳しい練習法でしたが、それが選手たちの強さを生み出しました。
大松監督からは「練習についていけない者は去れ。残れば金メダルを保証する」という強い言葉を選手たちは受け取りました。「俺についてこい」という彼の言葉は、その後「鬼の大松」と呼ばれる彼の指導を象徴するものとなりました。選手たちはそれに応えるように「よし、やろう」と心に決めました。大松監督のリーダーシップがあった一方で、それに応える選手たちの強い意志が無ければ、その猛練習を耐えることはできませんでした。
一人でも「私、しんどいから休みます」と言ってしまうと、それで全体のモチベーションが崩れてしまいます。全員が一致団結して厳しい練習に取り組まなければ、金メダルは取れないという強い思いがありました。
大松監督は、「練習にしても、おまえたちほど激しくやったチームは、世界のどこを捜してもないだろう。これは世界一だ。だから、どんなときでも、この練習時のプレーを試合で発揮することだ。そうすれば、オリンピックに必ず勝てる。おまえたちには、もう、調子が悪くて力が出せなかったなどというようなことは起こらない」と言い切りました。そして彼は、「苦労をかけた選手たちに金メダルを取らせてやるには、こうするしかない」という決意のもと、あえて「鬼」になったのです。
選手たちは厳しい練習に耐えつつ、日々の生活を送っていました。午前8時から事務員として働き、午後3時すぎに練習に集まりました。練習は年々長くなり、1964年の東京五輪の前年には、午前0時より前に終わった記憶がないと語ります。練習後の軽食としておにぎりを食べ、寮に帰って午前1~2時に冷めたおかずとご飯を食べて寝るという生活が続きました。そして朝食を抜きで職場に向かったのです。
東洋の魔女たちで構成された全日本のチーム
1964年(昭和39年)8月31日、日本バレーボール協会は東京オリンピックの女子代表となる全日本チームのメンバーを発表しました。監督は大松博文で、チームの主将兼コーチは河西昌枝でした。
以下は全日本チームのメンバーの一覧です:
- 大松博文(監督・日紡貝塚)
- 河西昌枝(コーチ兼主将・日紡貝塚)
- 宮本恵美子(日紡貝塚)
- 谷田絹子(日紡貝塚)
- 半田百合子(日紡貝塚)
- 松村好子(日紡貝塚)
- 磯辺サタ(日紡貝塚)
- 藤本佑子(日紡貝塚)
- 松村勝美(日紡貝塚)
- 佐々木節子(日紡貝塚)
- 篠崎洋子(日紡貝塚)
- 渋木綾乃(ヤシカ)
- 近藤雅子(倉紡倉敷)
このように12人の選手の中で、レギュラー全員を含む10人が日紡貝塚の選手でした。
東洋の魔女とオリンピックのプレッシャー
オリンピックという大舞台でのプレッシャーは避けられません。そして、世界女王として称えられた「東洋の魔女」たちにとって、1964年の東京オリンピックはそのプレッシャーが頂点に達した瞬間でした。なぜなら、この大会は彼女たちにとってオリンピック初出場であり、さらにその大会が自国である日本で開催されるという事実が、その重圧をさらに増大させました。
すでに世界チャンピオンとしての名声を確立していた彼女たちは、金メダル獲得という前人未到の期待に応えるべく、練習に打ち込む一方で、その重圧と戦っていました。誰もが「絶対に金メダルを取らなければならない。もしも金メダルが取れなかったら、もう日本にはいられないかもしれない」という思いを胸に秘め、そのプレッシャーと向き合っていたと言われています。
目指すは勝利のみ!東洋の魔女たちの東京五輪体験
大松監督率いる女子バレーボールチームは、大会期間中も厳しい練習を欠かしませんでした。選手村ではなく、いつもの遠征時に泊まる日本旅館を拠点に、大会前と変わらぬ日々を過ごしていました。選手たちは朝から練習し、その終了後すぐに試合会場へ駆けつけました。
開会式では、ブルーインパルスが空に五輪を描く様子や、鳩が飛び立つ様子を覚えていますが、入場後はすぐに旅館に戻り、マスゲームなどは見ることなく過ごしたと述べています。選手村に泊まったのは開会式の前日だけで、食事すらとらなかったと言います。国際交流が盛んで、世界中の美食が振る舞われる選手村の生活については、彼女たちはほとんど知りません。
「東洋の魔女」として東京五輪の主役でありながら、彼女たちはその感動をあまり味わうことはありませんでした。「実は感動を味わっていない。(大会中は)練習ばかりしていたから。新聞もテレビも見ることがなくて」と述べており、自分たちへの注目やメディアの注目を、すべて五輪が終わってから初めて知ったと語っています。
金メダルへの執念とプレッシャー
女子バレーボールチームは、金メダルが唯一の目標とされ、その期待感とプレッシャーは絶大だった。「私たちは一生懸命だけど、周りは『取って当たり前』。負けたら日本にいられないと思った」。恐怖とともに背負った使命感は、選手たちにとって、試合の難しさを一層増大させました。
しかし、本番が始まると、彼女たちは圧倒的な強さを発揮しました。6チームのリーグ戦を順調に勝ち進み、決勝では宿敵であるソ連(現ロシア)と対戦しました。「ソ連に負けるとは考えたことがありませんでした。でも、勝てるかは分からん。そんな相手でした。『もし』なんて考えない。『もし負けるかも…』と考えたら、そっちに引っ張られる。だから、考えません」と語り、選手たちは勝つための意志の強さを示しています。
しかし、プレッシャーは選手たちに身体的な影響を及ぼしました。エースアタッカーであった谷田絹子(現姓・井戸川)は、「3日ほど前から食事が思うようにのどを通らなくなっていました」と述べ、試合への緊張が食欲に影響を及ぼしたことを明かしています。金メダルへの執念と恐怖が、彼女たちの心身にどのように影響を与えていたかを物語っています。
金メダルへの瞬間!「東洋の魔女」vs「ソ連」の壮絶なバトル
1964年10月23日、午後7時半すぎ。東京オリンピックの閉会式の前夜、女子バレーボールの決勝戦が東京都世田谷区の駒沢屋内球技場で始まりました。ゴールドメダルがかかったこの試合は、無敗同士のソ連と日本の対決となりました。
試合は日本が2セットを先取し、リードを保ちました。第3セットでも11-3と大量リードを築いたものの、ソ連が一点差まで追い上げました。それでもコートサイドで指揮を執っていた「鬼の大松」こと大松博文監督は、無表情で腕を組んだまま、何も動じることなくコートを見据え続けていました。
歴史的瞬間の緊張…金メダルポイントに挑む
第3セットは果敢な攻撃が続き、ついには14対13という、マッチポイントに突入しました。会場は大きな声援と喚声で包まれ、NHKの鈴木文弥アナウンサーが「金メダルポイント」と繰り返す声が響き渡りました。
ソ連の強烈な粘りにより、何度もマッチポイントが訪れました。その度に鈴木アナウンサーが「金メダルポイント」と叫び、息もできないほどの緊張感が会場全体を覆っていました。
しかし14-13というマッチポイントからなかなか試合を決められず、大松監督がフェイスタオルを片手に持ち、おもむろに腰を上げ、タイムを取ることを決めました。「おまえら、なに慌ててんのや。落ち着けや」と、普段から口数が少ない彼は選手たちにそう諭し、再び引き揚げていきました。コート上にいた松村好子はその言葉を今でも鮮明に記憶しています。
ベンチにいた最年少の19歳、田村(旧姓・篠崎)洋子は「ちょっと嫌でしたね。ソ連が息を吹き返してくるんじゃないかと思って。絶対にあのセットは取らないといけないと思っていました」と振り返ります。
セットカウント3-0の快勝
セットカウントが2対0で、第3セットで14対13になったとき、6度目のマッチポイントが訪れました。「お願い、ボールを上げて。最後の一本を打ちたいんや」とアタッカーだった谷田絹子が主将の河西昌枝に声を張り上げました。
しかし次の瞬間、ソ連(当時)がオーバーネットの反則を犯し、日本に得点が入りました。谷田はバレーボールを打つことなく、試合は終了。日本の優勝が決まりました。それはセットカウント3-0という圧倒的な快勝だったのです。
「解放感」。その言葉が、谷田が試合終了時に感じた率直な感情を最もよく表しています。その瞬間、彼女たちは世界の頂点に立ったのです。
「やっと終わった」東洋の魔女たちの喜びと安堵
その瞬間、「やっと終わったあーっ」と感じたのは主将の河西昌枝でした。「勝ったんだという満足感、日本中の皆さんの期待に応えることができたという喜び、2度とこういうところで試合することはないんだという寂しい気持ち…いろいろなことが頭をよぎった。もう、あんな厳しい練習をしなくていいんだと思ったのは、もっと後かもしれない」と彼女は振り返ります。
また、ベンチ入りしていた最年少の田村洋子も「良かったというより、ホッとしました。期待を裏切らないで良かった」と金メダル獲得の感想を述べています。
彼女にとっても、金メダルを取ることが当然という重圧がありましたが、「目の前の一本を絶対に諦めない」という気持ちが支えていたと言います。「鬼の大松」といわれた大松博文監督の厳しい練習を乗り越えたからこそ持てる感情だったのです。
また、宮本恵美子はスポーツ紙の取材に「金メダルが決まった瞬間は、もう泣けて泣けて……。勝利はもちろん、あの苦しい練習から逃れられたのもうれしくてね」と答えています。
谷田絹子が振り返る勝利の瞬間とその後のエピソード
1964年東京オリンピックの女子バレーボール金メダル獲得は、日本全国を喜びで包んだ歴史的な瞬間でした。その舞台で活躍した”魔女”の一人、井戸川絹子(旧姓・谷田)がその時のエピソードを語ります。
「サーブを打つ人はみんな『私のサービスエースで決めてやる』と思っていましたし、アタックを打つ人もそう。最後は、宮本(現姓・寺山)恵美子さんのサーブで、私は前衛レフトに上がってきていたんですけど、絶対私が打って決めてやるって思ってました。『河西さん、お願い私にトスを上げて!』って。」と語ります。
結局、勝利は宮本のサーブから始まり、ソ連がオーバーネットと、後衛の選手が前衛で攻撃をした二重の反則によって手に入れました。しかし、最初は何で得点したのか分からず、選手たちは驚き、「みんなきょとんとしちゃいました。一拍おいてからワーって」という場面がありました。
さらに、「実はね、6回の金メダルポイントなんですけど、そのうちの1回、相手のアウトサーブを触っちゃった人がいたんです。最近になって笑い話で、『あなたがあのサーブを触らなかったら、もっと簡単に勝てたのに』って茶化せるようになったんですけど、当時はとてもそんなことを言える雰囲気ではなくて」と、現在では笑い話として語られるエピソードも明かしています。
涙と孤独が交錯した瞬間…大松監督の金メダルに寄せる複雑な感情
選手たちは涙を流しながら喜びを爆発させましたが、一方で、鬼のような指導で知られる当時43歳の大松博文監督は、放心したようにじっと宙を見つめていました。
日本の金メダルが決まり、喜びが湧き上がる中、大松監督は立つでもなくガッツポーズするでもなく、ベンチに座ったまま所在なさそうにしていました。
その姿を主将の河西(のち中村)昌枝は忘れられず、「なんかこう、なにもかもが終わったような、それでいてやっぱり満足しきっているような…。(略)あの映画を見ていると、わたしは何度でも泣けてくる。そして、あのときのわたしたちの気持ちはうまく説明がつかないけれども、大松先生の気持ちは、かえってよくわかる。ほんとうに、『終わる』ということは空虚なものだ」と後の自著に記しました。
大松監督のその姿は、指揮官としての孤独を映していたと同時に、スポーツの持つはかなさを、苦楽をともにした主将は感じ取っていました。大松監督は、「苦しかった。つらかった。選手たちの金メダルを見た瞬間、とめどもなく涙が出てきた」と第18回オリンピック競技大会の報告書に言葉を残しました。
そして、「選手たちの根性に、わたしは敬謙な気持ちで頭をさげたい。今後、これだけの根性を持った選手が再び現れるかどうか、わたしには疑問である。日ソ戦の第3セット後半ーあれこそいい例である。あれはまさに根性と根性の戦いだった。その結果が3対0となって現れたといえるだろう」と回顧しています。
視聴率66.8%!東京五輪で描かれた感動の絆と栄光
東京オリンピックでの金メダル獲得後、手脚が傷だらけになるほどの猛練習をこなした6人の”東洋の魔女”たちは、我先に大松博文監督の元へ駆け寄りました。その後、胴上げの儀式が始まり、主将の河西、宮本、半田、松村、谷田、磯辺の6人が高く掲げた手の上で、大松監督が両手を広げて空を舞いました。
しかし、その顔には、鬼と言われた彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちていました。同様に、6人の魔女たちも声をあげて泣いていました。この瞬間は、日本全国の視聴者にも強く印象付けたことが、その後の視聴率からも明らかです。
視聴率については、95%(NHK最大, “日本放送技術発達小史”による)、85%(NHK放送博物館による)、66.8%(平均, ビデオリサーチ調査, 関東地区)と3種類の数字が出ていますが、66.8%を採っても、52年経った現在でも第1位の記録を保持しています。この数字は、その試合のドラマチックな展開と、日本女子バレーボールチームの努力と根性が、いかに多くの視聴者を引きつけたかを示しています。
バレーボール界を支えた功労者!西川政一の感動的な金メダル授与
昭和39(1964)年の東京オリンピックで、バレーボールが初めて正式種目となった際、日本女子代表チーム”東洋の魔女”は金メダルを獲得しました。その表彰台で涙する12人の選手たちに金メダルを授与したのは、日商社長であり、日本バレーボールの発展に大いに貢献した西川政一でした。
西川政一は神戸高等商業学校(現在の神戸大学)在学中に排球(バレーボール)を始め、その才能を見出されて日本代表となりました。彼の情熱はそのまま普及活動へと繋がり、自宅を事務所にして関西排球協会を結成。その組織は後に日本バレーボール協会となり、その会長に西川自身が就任しました。
1964年のオリンピックで、西川が自ら金メダルを授与したこの瞬間は、彼のバレーボールへの情熱と貢献の象徴であり、日本バレーボール史において重要なエピソードとなりました。
『ひざまずく東洋の魔女』 心遣いの形
“東洋の魔女”と称えられた日本女子バレーボール代表チームには、海外メディアから与えられたもうひとつの“勲章”が存在します。それは彼女たちの姿勢や態度に対する賛辞で、その一部は一枚の写真と共に語り継がれています。
表彰台に立った時、主将の河西昌枝は金メダルを受け取るために、プレゼンターである西川政一に敬意を表してひざまずき、小さく頭を下げました。この姿が海外メディアによって捉えられ、《ひざまずく東洋の魔女》というタイトルがつけられた写真は、世界中に広まりました。
この写真はただのスポーツの瞬間を記録したものではなく、”東洋の魔女”たちが猛練習を通じて身につけたものが何かを示しています。それは、技術や体力だけではなく、敬意と尊重の精神、そして「しなやかな心遣い」でした。彼女たちは、競技の結果だけでなく、その態度と振る舞いで世界から敬意を集めました。
その後、監督の引退ともに魔女たちも引退していく
オリンピックが終わった後、大松監督が代表監督の座を降りました。後を追うように、日本の女子バレーボール代表チーム”東洋の魔女”の6人の選手のうち5人が引退しました。
このときまだ22歳だった神田選手は、「もし大松先生が監督を続けると言っていたら、私も4年後のオリンピックまでプレーを続けたかもしれません。でもすでに世界選手権とオリンピックで金メダルを獲得していたので、それ以上は求めていませんでした。今でもその決断に全く後悔はありません」と振り返っています。
退任した大松監督と引退した選手たちですが、バレーボールから離れても彼らの間には深い絆が続きました。東京オリンピック後も現役を続けた磯辺選手は、年に2、3回は大松監督のもとを訪れていました。
そして、大松監督は選手たちの新たな人生の支えになるため、彼女たちの結婚の世話を奔走しました。例えば、すでに31歳と、当時の女性の平均初婚年齢(24.4歳)を大幅に超えていた主将の河西昌枝も、大松から相談を受けて、当時の首相夫人である佐藤寛子の世話により自衛官と見合いをし、結婚しました。その披露宴は大変盛大で、テレビでも生中継されました。
東洋の魔女の新たな人生とママさんバレーの軌跡
1964年の東京オリンピックでは、日本の女子バレーボールチーム「東洋の魔女」が金メダルを獲得し、その歓喜の中で監督の大松博文が深い内省的な瞬間を過ごしたことは記憶に新しい。大松監督はベンチに座ったまま、全てが終わったかのような表情を浮かべていた。その一方で、彼の表情は満足感も含んでいた。主将の河西(のちの中村)昌枝はその瞬間を捉え、自身の著書にその一瞬を記録している。
「終わる」ということの虚無感、そしてそれがスポーツにおける指導者の孤独感を象徴していたかもしれない。しかし、それ以上に、主将はスポーツのはかなさ、そしてその喜びを共有することの深さを感じ取ったのだ。
東京オリンピック終了後、「東洋の魔女」たちは新たな人生のステージに進んだ。多くが結婚をはじめとする新たな人生を歩み始めた一方で、バレーボールから離れることはなかった。「わたしたちは、終わってはいけないのではなかろうか?」という思いから、「東洋の魔女」たちは新たなバレーボールのチームを結成しました。
そのチームは、後に「ママさんバレー」と呼ばれる社会人バレーボールの起源となりました。ママさんバレーは、主に主婦や社会人女性が楽しみながら参加できるスポーツとして、日本中に広まりました。
バレーボールの伝説を称えて!東洋の魔女と大松監督へ最優秀賞
2021年9月21日、ベルリンで行われた国際バレーボール連盟(FIVB)の授賞式で、「東洋の魔女」と称された1964年東京オリンピック優勝の日本女子バレーボールチームとその監督、故大松博文がそれぞれ最優秀チーム賞と女子最優秀監督特別賞を授与されました。
この式典は、バレーボールの世界で「20世紀の最優秀賞」を称えるもので、国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長も出席するなど、その重要性が示されています。授賞式には、1964年東京五輪の時のチーム主将であった中村(旧姓河西)昌枝さんを始めとする11人の「元魔女」が出席し、FIVBのアコスタ会長から記念のトロフィーと賞状を受け取りました。
この授賞は、東洋の魔女たちの偉大な貢献と影響力、そして故大松博文監督の卓越したリーダーシップが国際的に認められたことを示しています。彼女たちはバレーボールの歴史にその名を刻み、その業績は今もなお広く称えられています。
体操ニッポンが世界に見せた実力と感動の瞬間 ── 東京オリンピック物語(28)