柔道の舞台は1964年、東京オリンピックで輝きました。この記事では、柔道が初めてオリンピックの正式競技となり、その発祥地である日本でのデビュー戦が大きな波紋を広げた様子をお伝えします。
無差別級決勝でオランダのアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫に勝利し、柔道界に衝撃を与えました。体重別階級制の導入とともに、日本の柔道家たちは「打倒ヘーシンク」への挑戦を始めました。当時の柔道界の激動の舞台裏をのぞいてみましょう。
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JUDO
柔道は無差別級だった時代
1964年、夏。その日本は世界から注目を集め、東京オリンピックの舞台となりました。それから半世紀以上が経過した今でも、この年の意義は、特に日本の柔道界にとって、計り知れないものがあります。その理由は、柔道が初めてオリンピックの正式種目として採用され、その舞台が日本だったからです。
しかし、この柔道の発祥地でのデビュー戦は、想像を超える展開を見せました。発祥国の日本は敗れ、その記憶は今も深く刻まれています。無差別級決勝では、日本の神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクに敗れました。
柔道が五輪競技に加わった引き換えに、体重別を含む4階級制が導入されました。しかし、体重無差別が本来の柔道であるという意識が強く、その時代の精神を色濃く反映していました。
オランダの柔道スター!「ヘーシンク」が日本の金メダルを脅かす
ヘーシンクという名前を知らない多くの日本人は、柔道が日本発祥の武道であるからには、オリンピックのすべての階級で金メダルが取れると確信していました。「いくら体格が大きくても、外国人に日本人が負けるわけがない」というのが、当時の一般的な考え方だったのです。しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。
オランダのアントン・ヘーシンクは、初めて日本を訪れたのが1956年で、第1回世界選手権に出場するためでした。しかし、このときは準決勝で吉松吉彦七段に敗れました。その後、1958年の第2回大会にも参加しましたが、この大会でも準々決勝で山鋪公義六段に敗れました。
しかし、ヘーシンクの名が柔道界の一大舞台に躍り出たのは、1961年にフランス・パリで開かれた第3回世界選手権大会でした。この大会では、日本のエースである神永昭夫、古賀政男、曽根康治を倒し、初優勝を飾りました。そして、その後も無差別級の頂点を保ち続け、東京オリンピックでは最有力の優勝候補と目されていました。
その圧倒的な強さを証明するかのように、ヘーシンクは1964年のヨーロッパ柔道選手権大会において重量級と無差別級の両方に出場し、見事に両方で優勝しました。その勢いをもって、彼は東京オリンピックに参戦しました。
挑戦の幕が上がる!日本柔道界の壮大な闘い、打倒ヘーシンク
1959年、国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1964年東京オリンピックの正式競技として柔道が加わることが決定されました。しかし、この頃になると、一つの雲行きが怪しくなっていました。その名前はアントン・ヘーシンク。既に彼は世界選手権で日本選手を破り、その強さを世界に知らしめていました。
そして、ヘーシンクに敗れたこの時から、日本柔道界の「打倒ヘーシンク」への本格的な動きが始まりました。誰もが知っているように、柔道は戦略と技術のスポーツであり、勝つためには相手を理解し、自分の強さを最大限に引き出す必要があります。ヘーシンクという新たな挑戦者が現れ、日本の柔道家たちは、彼の技術を研究し、対抗策を練ることになります。
金メダルを巡る戦い!体重別階級制導入の舞台裏と日本の決断
1961年12月、国際柔道連盟(IJF)の総会で、東京オリンピックの柔道競技の種目について議論が交わされました。イタリア、ドイツ、アメリカなどは体重別の階級制の導入を強く主張していました。一方、フランス、イギリス、ベルギーなどは、伝統的な体重無差別での競技を主張しました。
もし体重別の階級制がなく、全ての選手が1つの金メダルを争った場合、ヘーシンクがその金メダルを獲得する可能性が非常に高いと思われました。柔道の発祥地である日本にとって、それだけはなんとか防ぎたかったのです。
しかし、もし体重別の階級制が導入されれば、ヘーシンクが出場しない階級では、日本が金メダルを獲得する確率が非常に高くなります。このような観点から、日本は柔道のオリンピック競技としての初出場に際し、体重別の階級制を受け入れることにしました。
Nakamura Takehide
軽量級の英雄!「中谷雄英」が見せた柔道競技の壮絶な勝利
1964年10月20日、東京の日本武道館のセンターポールに、オリンピック柔道競技の初の日の丸が掲げられました。これは、日本の柔道家、中谷雄英(なかたに たけひで)が軽量級で見事な勝利を収めた結果でした。
中谷は全5試合をオール一本勝ちで制し、合計試合時間はわずか9分。準決勝では優勝候補のステパノフ(旧ソ連)、そして決勝ではヘンニ(スイス)を見事な合わせ技で破りました。中谷は表彰台の最上位に立つと、その場にいた1万5000人の観客からは地響きのような歓声が響き渡りました。
しかし、彼自身はその喝采の音すら耳に入らなかったといいます。彼の集中力と決意が、その日の勝利へと繋がったのでしょう。この勝利は、日本柔道のオリンピック初日に華々しい締めくくりをもたらしました。
小さな体に秘めた大きな力!中谷雄英と「姿三四郎」の精神
中谷雄英は広島市出身で、黒帯を持つ兄弟4人という柔道一家の一員でした。彼の柔道への情熱は深く、一度入学した高校を中退し、柔道の名門である広陵高校に1年遅れで入学し直すほどでした。その絶対的な柔道への献身ぶりから、彼は「広島の姿三四郎」という異名を取るようになりました。
「姿三四郎」は、富田常雄の同名の小説から取られた名前で、その主人公は柔道に情熱を燃やす少年でした。この小説は、戦後の日本の柔道人口増加に大きく貢献したと言われています。実際、その後の柔道の大先輩たち、神永昭夫や猪熊功も、姿三四郎に憧れて柔道を始めたと語っています。
しかし、「○○の三四郎」と呼ばれるのは小兵の柔道家だけでした。三四郎のモデルとなった明治時代の柔道家、西郷四郎は160センチにも満たない身長でしたが、その小さな体格から繰り出される豪快な投げ技が、この異名の条件となりました。そして、中谷雄英もまた、その精神を受け継いでいました。
小さな体、大きな夢体重別制度が交差する五輪代表への道
1941年7月に広島で生まれた中谷雄英は、広陵高から明治大学に進学しました。身長は165cm、体重68kgと柔道選手としては比較的小柄な体格の選手でした。そのため、体重無差別の団体戦のレギュラーメンバーになることはできませんでした。
しかし、1964年東京オリンピックの採用により、体重別制度が導入されることとなり、運命が大きく変わりました。大学4年生の時、中谷はこの大舞台で戦う機会を掴みました。彼が初めて代表候補に選ばれたのは、明治大学2年生の時、つまり五輪の2年前でした。
選抜合宿の軌跡!軽量級で五輪代表の座を賭けて闘う
柔道の根幹となる理念、「柔よく剛を制す」に基づき、体重別という概念は当初存在しませんでした。事実、世界選手権も体重無差別で行われていました。しかし、東京オリンピックで体重別が初めて導入されることになり、普段73キロの中谷は軽量級で五輪を目指すことになりました。
当時は現在のように代表選考大会があるわけではなく、年間を通じて開催される強化合宿と選考試合の成績で代表が選ばれました。そのため、選手たちは一瞬たりとも気を抜くことができませんでした。五輪までの3年間に実施された強化合宿は58回。参加選手は合計で17,603人に上りました。しかしその中から選ばれる五輪代表は各階級1人、非常に厳しい選考の中で中谷は代表を座を賭けて戦いました。
氷上の勝利!中谷雄英がモスクワでの試練を乗り越え五輪代表へ
1964年2月、モスクワ国際大会で中谷雄英はサンボ出身のステパノフに勝利しました。ステパノフは、体格が軽量級ながら身長176cmもあり、関節技や帯取り返しを武器に、日本の大会で強豪選手を破っていた選手でした。しかし、モスクワの試合会場は畳ではなく硬いマットの上にじゅうたんが敷かれており、足が滑りやすく、試合は非常に困難でした。
試合はアイススケート場に設営されたもので、その枠の外は氷でした。そのため、中谷は思い切り踏み込むことができず、じゅうたんの縁に置かれた濡れた雑巾で足を湿らせて試合に挑みました。畳の代わりに氷の上に板を置き、その上にじゅうたんを敷いたこの特殊な状況での試合は、日本の強化選手にとって大きな試練でした。
しかし、中谷はステパノフの独特の関節技に立ち向かい、試合に勝利。この勝利が東京オリンピック代表選考の決め手となりました。代表が正式に決定したのは、五輪開幕のわずか1ヶ月前だったのです。
中谷雄英の闘志!東京オリンピック柔道軽量級で燃える戦い
1964年の東京オリンピックで初めて採用された柔道。当時は軽量級、中量級、重量級、無差別級の4階級が設けられ、その先駆けとなったのが軽量級の中谷雄英選手でした。23歳の中谷は全試合での勝利という重責を担い、日本柔道の先陣を切りました。
軽量級は18カ国から25人が出場。選手たちは8組に分けられ、総当たりの予選リーグが行われ、各組の1位が決勝トーナメントに進む方式で競われました。中谷選手は予選リーグでタイとイギリスの選手を抑え、準々決勝ではアメリカ選手を出足払いで破りました。
一本勝ち!ステパノフとの激戦を制して決勝へ
1964年東京オリンピックの柔道競技では、「金」以外は敗北という厳しい視線の中、中谷雄英選手は予選リーグから準決勝までの4試合を全て一本勝ちで勝ち進みました。特に、代表選考の過程を思い返すと、オレグ・ステパノフ(ソ連)との準決勝は絶対に負けるわけにはいかない試合でした。
ステパノフの得意技は「帯取り返し」で、長い手足を生かして釣り手の右で背中越しに帯を取り後ろに投げる技で、右組みで相四つの日本選手は手を焼いていました。しかし、中谷選手は左組みで、右組みのステパノフとはけんか四つとなりました。身長がステパノフより約10センチ低い中谷選手でしたが、ステパノフが伸ばしてくる右手を左手で封じ、奥襟や背中越しの帯を取らせなかったのです。
ステパノフとの準決勝では、4分25秒で「小外刈りと大外刈り」の合わせ技で一本勝ちを収めました。得意の投げ技でステパノフを仕留め、決勝進出を果たしたのです。
ヘンニ選手を圧倒しオリンピック柔道金メダルを獲得!
決勝では、中谷雄英選手はスイスのエリック・ヘンニ選手と対決しました。ヘンニ選手は素直な柔道をする選手として知られていました。
その試合では、中谷選手が極度の緊張状態にあったにもかかわらず、主審が「始め!」と声を掛けた瞬間に自然と体が反応しました。得意の足技で攻め続け、試合開始わずか30秒で小外刈りで技ありを奪いました。さらに1分15秒で大内刈りでヘンニ選手を畳に叩きつけました。しかし、主審の手は上がらず、副審がアピールし、審判団の話し合いが長時間にわたり続きました。
この間、中谷選手は静かに正座し、判定を待ち続けました。審議が始まってから5分後、審判団の話し合いがようやく終了しました。そのとき、主審の手がすっと真横に上がり、技ありが宣告されました。これにより合わせ技で一本勝ちが確定しました。柔道がオリンピックで初めて金メダルを獲得した歴史的な瞬間に、約1万5000人の観客から割れんばかりの拍手が送られました。
約1万5000人の観客から割れんばかりの拍手が送られ、金メダルを手に入れました。
誓いと奮闘…京オリンピックでの金メダル獲得への道
1964年10月20日、日本武道館で開催された東京オリンピックの柔道競技。柔道の母国である日本にとって、この日は記念すべき日となりました。センターポールには、柔道で最初の日の丸が揚がり、日本の柔道選手・中谷雄英が最初の金メダルを手に入れました。
この当時、日本の柔道界には「全4階級優勝が当たり前」「柔道=無差別」という風潮が存在していました。つまり、日本の選手が全階級で優勝し、また、体重差に関わらず強い者が勝つべきという考え方が一般的でした。そのような厳しい期待の中、中谷選手は金メダルを獲得。しかし彼が表彰台の真ん中に立ったとき、彼の心情は「俺の任務は終わった」というものでした。金メダルはもちろん喜ばしいものでしたが、「涙が出るほどでもなかった」と後に彼は振り返っています。
彼が表彰台に立ったとき、感じたのは「責任を果たした」という安堵感でした。「僕が負けたら他の日本人選手の士気に影響が出るし、『負けたら故郷の広島に生きて帰れない』と思っていましたから」と述べています。また、彼は「五輪に出れば勝てるという思いはあった。海外勢よりも国内の代表争いの方が厳しかったですから」とも語っています。引退後も柔道選手の育成に尽くした
引退後も指導者として輝き続ける
現役を引退した後も、中谷雄英は柔道界から離れることなく、その経験と知識を活用して、引き続き大きな影響を及ぼし続けています。彼はコーチ、審判員、全日本柔道連盟理事として五輪柔道に携わり、さらに世界各国で競技の普及に貢献してきました。
現在九段に昇進している中谷さんは、引退後も柔道への情熱を燃やし続けています。広島県柔道連盟の理事長として活動を行う一方で、母校である広陵高等学校で後進の指導に励んでいます。全国各地へ応援に出向き、新たな才能を育て、競技の普及に力を注ぐ彼の姿は、柔道への情熱が決して衰えていないことを示しています。
Isao Okano
中量級の頂点へ!昭和の三四郎「岡野功」の勇姿
岡野 功(おかの いさお)は1944年1月20日に茨城県龍ヶ崎市で生まれました。身長170センチメートル、体重80キロ以下という小柄な体格ながら、大型選手を圧倒し、鮮やかな「一本」勝ちを連発するその姿はマスコミによって「昭和の三四郎」と称され、柔道史において一時代を築きました。
ケンカから柔道へ…岡野功の柔道への入門と情熱
岡野 功は小学5年生の頃に地元の青年部の大会を見て、柔道に魅了されました。当時は体重関係なく対戦が行われ、小さな体格の選手が大きな選手を投げるその美しさに惹かれたと語っています。
また、彼が柔道を始めた動機の一つは「ケンカが強くなりたいから」というものでした。最初に買ってもらった柔道着は彼にとっての宝物で、その大切さは、穴が開いてもつぎ当てをして修理し、寝る時には枕元に置くほどでした。道場に通う他の子供たちも同じように自分の柔道着を大切にしていたということで、これは当時の時代背景を反映しています。
学生時代の輝かしい柔道業績
岡野 功は龍ヶ崎中学校に入学と同時に柔道部に所属し、早速その才能を発揮しました。彼は茨城県主催の第1回中学柔道大会で個人戦と団体戦の両方で優勝しました。
その後、県立龍ヶ崎第一高等学校に進学した岡野さんは、1年生で早くも全国高等学校総合体育大会(インターハイ)に出場し、3年次には個人戦で3位に入賞するという偉業を達成しました。
岡野は「私たち子どもは地面に丸さえ描けば遊べる相撲に興じていましたが、中学に進むとすぐに柔道部に入りました。70人はいましたか。高校進学後も20人が続けたと思います。」とこの頃を振り返っています。
「運命の分かれ道」法学の道と柔道の道
岡野は法律の勉強をするために中央大学法学部に進学しました。初めは真剣に弁護士を目指していた彼でしたが、柔道の合宿所生活はそれを許さなかったのです。入学時の雑用、6時間の稽古、先輩からの厳しい指導が数時間続き、法律の勉強などは時間が許さない状況でした。
この厳しい状況の中、岡野さんは大きな決断をします。「2つに1つなら柔道だ」と。入学1年時にその決断をし、以降は柔道一筋に生活を送ります。この決断が、彼を稀代の、歴史に名を刻む柔道家へと導きました。
岡野はこの時期を「学生時代は青春の真っ盛り。若いときには憧れを抱き、年齢を重ねてくると苦悩の日々も全て浄化し、美化した思い出のみを回想しがちだが、内実はそんなにさわやかなものではない」と振り返っています(『中大柔道百年史』より)。「青春時代の真ん中は胸にとげ刺すことばかり」という歌があるように、彼の青春は決して簡単なものではありませんでした。しかし、その選択が彼を柔道家としての道へと導きました。
東京オリンピック直前に右膝負傷
1964年春、岡野 功は東京五輪前の稽古中に右膝を負傷しました。この負傷により約3ヶ月間稽古が出来ず、大きな不安を抱えることとなりました。「『負けたらどうしよう』と、ナーバスになって不安に襲われた」と振り返っています。
この状況の中で、岡野さんは選手村に入ってからも稽古以外は部屋にこもり、他の人との接触を避けるような生活を送りました。彼の集中力と自己管理能力が試される時間でしたが、その困難を乗り越えることで、更なる成長を遂げることとなります。
不屈の闘志!右膝負傷を乗り越えた金メダル
1964年の東京五輪では、岡野 功は初戦と2戦目でポルトガル選手とベネズエラ選手を背負い投げや合わせ技で完勝しました。準々決勝ではフランスのグロッサン選手に送り襟絞めで「一本」を取りました。
五輪では攻めに徹する本来の柔道は出来なかったが、本番に向けて強化した寝技を多用し、勝利を重ねました。事実上の決勝戦と見られていたのが準決勝での韓国の金義泰選手との対戦でした。
この試合では岡野さんは序盤から攻めに出るものの、4月に痛めた右膝の影響もあり決めきれず、試合は判定にもつれ込みました。しかし、終始攻め続け、小外掛けで相手を横転させて優勢勝ちを収めました。
そして決勝では当時西ドイツのホフマン選手と対戦。横四方固めで一本勝ちを収め、期待通りに金メダルを獲得しました。この活躍により、岡野 功は1964年東京五輪の柔道競技で日本を代表する金メダリストとなりました。
五輪勝利と内なる喜びの葛藤
岡野 功は、1964年東京五輪での金メダル獲得にも関わらず、その勝利に対する喜びをほとんど表現しませんでした。彼にとって、その勝利は「責任を果たした」という一言にすぎませんでした。大会前からあった緊張と重圧は大きかったといいます。
彼は全日本選手権での体重無差別での勝利を最も価値のあるものと見ており、階級制の五輪柔道には価値がないと考えていました。それゆえ、五輪柔道はあくまで全日本選手権を制覇するための通過点であったと語ります。
彼は80キロに満たない体で、大きければ強いのかという問いを持ちつつ、必殺の背負い投げに磨きをかけていました。それはオランダの巨漢選手ヘーシンクに対抗するためでしたが、五輪では彼との対戦の機会は得られませんでした。
中量級から無差別級へ!「全日本選手権」への挑戦
1965年、岡野 功は初めて体重別で行われたリオデジャネイロ世界選手権の中量級で圧勝しました。この時点で、彼はすでに中量級の選手の中では国内外に敵がいないほどの存在となっていました。
しかし、当時の柔道界では無差別級こそが真の柔道という考えが強く残っていました。五輪が体重別で行われるのとは異なり、全日本選手権は体重無差別で行われ、世界一を決める舞台とも見なされていました。これは当時、より大きな注目を集めていた舞台でした。
このような状況の中、岡野も目標を全日本選手権に置いていました。彼は「柔よく剛を制す」の理想を追求し、重量級以外の選手が多く挑む体重無差別で日本一を決める全日本選手権に挑戦しました。そして1967年から全日本選手権で巨漢選手を投げまくり、3年連続で決勝に進出しました。67年大会と69年大会では2度優勝を果たし、その実力を証明しました。
体重約80kgの柔道家が達成した“伝説の3冠”
日本の柔道界では、全日本選手権、世界選手権、オリンピックの3つのタイトルを獲得した選手を「3冠」と称しています。そのうち、岡野 功もその一人であり、その他には猪熊功、上村春樹、山下泰裕、斉藤仁、井上康生、鈴木桂治という選手がこの称号を持っています。女子では、オリンピックの正式採用が1992年バルセロナ大会からであるため、阿武教子と塚田真希の2人だけが「3冠」の称号を持つことになります。
その中でも、岡野 功は特に注目すべき存在です。なぜなら、彼は「3冠」の中でも最も体重が軽い選手であり、約80kgしかないにもかかわらず、体重無差別の全日本選手権で2度も優勝し、その後にオリンピック金メダルを獲得したからです。このような成績は、全日本選手権では通常不利なはずの軽量選手が、オリンピックの金メダルを最初に獲得し、その後に全日本選手権で優勝するという、一般的な考えを覆すものでした。
柔道の原則「柔能制剛」(柔らかいものが強いものを制す)が現代柔道でほとんど見られない中、岡野はその体で超級を倒し、3冠を達成した唯一の柔道家となりました。そのため、彼の存在は「柔能制剛」が現代柔道でも成り立つことを証明しています。
後進の育成に尽力!岡野 功の教育活動とその影響
岡野功は、全日本選手権で2度目の優勝を果たした後の25歳の若さで、”体力の限界”を理由に突如として現役を引退しました。しかし、その後も柔道界への情熱は続き、自身の道場「正気塾」を設立し、後進の育成に尽力しました。
その後は流通経済大学の柔道監督として活動し(その後、教授になり、現在は名誉教授)、さらに慶應義塾大学、東京大学、中央大学の柔道部でも師範を歴任しました。全日本コーチ時代に彼が著した「バイタル柔道」は、柔道技術史上に残る名著として高く評価されています。
岡野の技術と指導法は、後に「バイタル柔道ビデオ版」の3部作に映像化され、2012年にはDVD版としてまとめられ、広く公開されました。これにより、岡野の技術と指導法は広く伝えられ、次世代の柔道家への影響力を持つこととなりました。
Isao Inokuma
体重を超越した才能!重量級の帝王「猪熊功」の人生
猪熊功(いのくまいさお)さんは1938年2月4日、神奈川県横須賀市で生まれました。父は海軍将校であり、母は小学校教諭でした。猪熊さんは幼少時代に結核、自家中毒、ヘルニアなどの様々な病気に苦しむ病弱な子供でした。
受動の聖地!渡辺道場で生まれた偉人たちの闘魂
猪熊さんが不入斗中学の2年生だったとき、彼は汐入にある渡辺利一郎先生の道場に入門しました。
渡辺利一郎の教えが生んだ輝かしい門下生たち!
道場の主宰者である渡辺利一郎は栃木県足利市出身で、飯塚国三郎十段の門下生として修行を重ねました。1941年には全日本選士権大会で3位に入賞し、その後は多くの青少年を育成し、戦後の柔道の発展に尽力しました。
渡辺道場からは多くの優秀な門人が輩出されました。その一人である森徹氏(故人)は、早稲田大学から中日ドラゴンズに入団し、1959年にはセ・リーグ本塁打王・打点王の2冠に輝くなどの実績を残しました。引退後は柔道修行に戻り、六段まで昇段しました。また、大相撲にスカウトされた廣川泰三氏(故人)は小結まで昇進し、後に宮城野親方となって部屋を継承しました。
さらに、渡辺は軍基地の外国人にも柔道を教え、その中からアルセイカ七段などがアメリカ代表として世界選手権大会に出場するなど、柔道の普及にも一役買っていました。こうして、開国の地横須賀の渡辺道場は、数々の偉大な人物を輩出する聖地となっていました。
「力必達」の教えと「闘魂」の育成
渡辺道場での稽古は厳格なものでした。生徒たちは、力一杯戦う姿勢と困難に立ち向かう精神を身につけるよう指導されました。猪熊功さんもその一人で、体格的には他の生徒たちに比べ劣っていました。そのため、稽古の初期段階では、彼は頻繁に投げ飛ばされていました。
しかし、猪熊さんは自身の不屈の精神と成長への意欲を武器に、特に背負投を活用し、次第に強くなっていきました。この成長は、渡辺利一郎師範の指導理念である「力必達」の影響が大きかったと言えます。力必達とは、努力すれば目標は必ず達成されるという意味の言葉で、柔道の創始者・嘉納治五郎の教えの一つです。この教えは「努力は人を裏切らない」「努力なくして真に貴重なものはない」とも表現されます。
渡辺師範の指導のもとで、「闘魂」が培われた猪熊さんは、持ち前の負けん気と向上心を糧に、徐々に自分自身を鍛え上げていきました。
肉体と技術の進化!ボディービルディングが柔道に与えた影響」
猪熊功さんが神奈川県立横須賀高校に進学すると、新たな挑戦を始めました。地元横須賀に駐留するアメリカ兵からボディービルディングを学び、肉体を鍛えることに励みました。その結果、彼は140キログラムのベンチプレスを持ち上げるまでに成長しました。
この新たに身につけた力強さと持久力は、猪熊さんの柔道技術、特に得意とする背負投にさらなる磨きをかけることとなりました。高校3年時には、彼の技術と努力が認められ、国体に出場することとなりました。
その後、彼は東京教育大学(現在の筑波大学)に進学し、引き続き柔道の修行を続けました。ここでも彼の負けん気と向上心が彼を突き動かし、さらなる高みを目指す原動力となっていました。
史上初の快挙!小柄な大学生ながら全日本選手権制覇
東京教育大学に入学した猪熊功さんは、1年先輩であり後に日本一の座を争うこととなる長谷川博之の家に下宿しました。同じ大学の同期生には、竹内善徳といった柔道家もいました。
そして1959年、猪熊さんが大学4年生だった時に、彼は全日本選手権に初出場し、その年のチャンピオンに輝きました。これにより21歳にして日本一の座を手に入れました。学生でありながら、また体重86キログラムという小柄な体格で全日本選手権を制したのは、史上初の快挙でした。
「猪熊vs神永」全日本選手権の悔しさが東京オリンピックへの闘志を燃やす
猪熊功さんと神永昭夫は、かつて”神永、猪熊時代”とも称されるほどの強力なライバル関係を築きました。全日本選手権では3年連続で決勝で対戦しました。
当時、猪熊さんは東京オリンピックの無差別級で出場することを目指していました。その理由は、無比の強さを誇っていた無差別級の選手、アントン・ヘーシンクを倒すためでした。しかし、その道に立ちはだかったのがライバルである神永昭夫でした。
1964年の全日本選手権で、猪熊さんは3位に終わりました。その結果、日本柔道強化委員会の選考により、神永昭夫が無差別級、猪熊功が重量級で東京オリンピックに出場することが決まりました。これは猪熊さんにとっては悔しい結果だったかもしれませんが、それでも彼は自分の部門でオリンピックに臨む決意を固めました。
巨漢達を圧倒!無敵の一本背負い投げによる金メダル獲得
1964年の東京オリンピックでは、無差別級に無敵とも称されるアントン・ヘーシンクが出場していたため、80kg超級にはメダルを狙う巨漢の選手たちが名を連ねていました。しかし、彼らの野望は、闘志満々の日本の小さな柔道家、猪熊功によって打ち砕かれることとなりました。
猪熊の一本背負い投げは、パワーを活かして相手を無理矢理投げるという豪快なものでした。また、体落としは、横から相手の懐に入り込むという非常に高度な技でありました。
1964年10月22日、猪熊は重量級で30kg以上重いダグ・ジャース(カナダ)に優勢勝ちし、メダルを獲得しました。準決勝までの3試合は全て一本勝ちという圧勝で、軽量級、中量級に続き、3日連続でセンターポールに日の丸が掲げられました。
猪熊功と神永昭夫…ヘーシンクに挑む柔道界の二人の運命の交差点
1964年、東京五輪の無差別級で日本代表の神永昭夫がヘーシンクに敗れたとき、全ての柔道愛好者は頭を抱え、その中にいた猪熊功もまた、涙を流し、うつむいた。猪熊は金メダルを獲得したにも関わらず、「日本柔道が負けた」という思いが猪熊を押し潰し、神永昭夫がヘーシンクに敗れたことが痛みとして残っていました。
それからの猪熊の目標は一つ、「打倒・ヘーシンク」だった。そしてその好機は1965年のリオデジャネイロ世界選手権だと思われていた。しかし、ヘーシンクは重量級で優勝した直後、大会途中で引退を表明し、猪熊との待ち望んだ対決を避けた。猪熊は当然のように無差別級で優勝したが、その後「戦う相手がいなくなった」と27歳で第一線から引退した。
猪熊は、日本伝統の柔道の誇りを取り戻すためにヘーシンクとの対決を熱望していた。その熱望が叶わぬまま引退した彼は、戦うモチベーションを失った。「人の運は分からない。私が五輪でも世界選手権でも金メダルを取り、神永さんに一つもないとは。だが、ヘーシンクに敗れた神永さんと、戦えなかった私と、どちらが不運だったのかは分からない」と振り返っています。
「猪熊功の後進育成」東海大学柔道部の栄光と彼の指導哲学
27歳で第一線から退いた猪熊は、警視庁を退職し、東海大学を母体とする東海建設の重役に迎えられた。この新たな環境で、彼は再び自身のエネルギーを東海大学の柔道部強化に向け、後進の指導にあたることとなった。
彼の指導の下、東海大学柔道部は瞬く間に強豪へと成長し、彼自身もその成果を収め、1993年には東海建設の社長にまで上り詰めた。その間に、彼は東海大学の教授にも就任し、柔道の普及と育成に尽力した。
猪熊功の豪快な生き方と終焉…命を絶った柔道界の英雄
猪熊は横須賀高の後輩が新宿の東海建設の社長室を訪ねた時、壁に飾られた松前の写真を見ながら海外の柔道事情について語っていてという。そして仕事が終わると、夕方になるとホテルニューオータニの久兵衛に行き、寿司をつまみにしながら酒を飲み、その後は、銀座の高級クラブに足を運ぶ、まさに豪快な生き方をしていました。
しかし、バブル崩壊で東海建設の経営は急速に悪化していきました。さらに信頼していた松前総長が1991年に亡くなりました。これが猪熊を追い込むことになりました。
「なーに、円谷にだってできたんだ。俺にできないはずはない」。この言葉を猪熊が口にしたのは、自身が命を絶つ約2週間前だった。彼が言及した円谷とは、1964年東京オリンピックのマラソン銅メダリスト、円谷幸吉である。円谷は1968年1月、カミソリで首の頚動脈を切り、自らの命を絶っていた。
2001年9月28日午後7時35分、猪熊は東海建設の社長室で命を絶った。「介錯なき切腹」をイメージさせるその壮絶な死は、彼自身の机の上に大書された“怨念”という文字とともに語り継がれている。
柔道界のスーパースターが遺した不滅の足跡
だが猪熊は、その悲劇的な終焉以上に、柔道界に多大な足跡を残した存在だった。彼は全日本選手権大会を1959年と1963年の2度制覇し、1964年の東京オリンピックでは金メダルを、そして1965年の世界選手権では無差別で優勝し、史上初の柔道三冠を達成した。
彼の存在感は絶大で、天才とも称されるその技術力と、一方で怒涛の精神と統率力を持つ努力家であった彼は、「柔能く剛を制する」という柔道の精神を体現していた。日本の柔道界においては、スーパースターともいえる存在だった。
猪熊の技は非常にキレがあり、その語り口も明快で力強かった。自らが日本の柔道を背負っているという自負が彼からは常に感じられた。彼は、その全てを持って日本の柔道界、そして日本そのものを代表する英雄であり続けた。
Akio Kaminaga
無差別級の巨人「神永昭夫」の輝き
仙台で昭和11年に生まれた神永昭夫は、その時代の日本において異例の体格を持つ少年だった。彼の存在感は幼少期から周囲に認識され、その体格は後の彼の柔道キャリアに大きな影響を与えることとなる。
稽古の鬼!遅咲きの柔道家の猛進
東北高校時代に始めた柔道は神永昭夫にとって遅いスタートであった。しかしながら、その遅れを取り戻すかのように彼は猛稽古を重ね、自己を鍛え上げた。彼と稽古することは命がけと恐れられ、実際に神永との稽古後には、相手がしばらく立ち上がることができないほどだったと言われる。
そのキャリアの浅さは珍しいもので、日本代表選手としては一風変わった道のりであった。しかし彼はそれを物ともせず、東北高校3年生の時に講道館の昇段試験に挑戦。驚くことに19人を一気に倒し、一挙に三段に昇進した。
神永昭夫が明治大学を日本一に導く
神永昭夫の類稀な才能は、全国でもトップクラスの強豪校である明治大学への道を切り開いた。大学では学生団体の日本一を懸けた試合が行われ、代表戦までもつれ込んだ。その中心に立ったのはもちろん、神永だった。
初の代表戦では引き分けとなり、判定制度がなかったため、再び代表戦が行われることになった。そして再び、明治大学は神永を代表に選出。試合を終えたばかりの選手を再度送り出すことは稀有な出来事であり、それは他の選手が頼りなかったからではない。それほどまでに神永を信頼し、頼りにしていたのである。
そして、その信頼は見事に報われた。神永は2度目の代表戦で勝利を収め、明治大学を日本一の座に導いたのである。その成果は彼の非凡な力と、明治大学に対する深い信頼と尊敬の念が生み出したものであり、神永昭夫の柔道人生の一大節目となったのです。
全日本優勝から東京オリンピックへの飛躍
明治大学卒業後、神永昭夫は全日本柔道選手権で見事優勝し、名実ともに日本一の柔道家となりました。その非凡な才能と研鑽の成果は国内だけでなく、国際的な舞台でも認められ、東京オリンピック柔道競技の無差別級日本代表に選ばれました。
神永昭夫が担った日本柔道の使命
1964年、柔道は東京オリンピックで初めて正式競技として採用され、全世界がその結果を注視していました。柔道の発祥地である日本で行われるこの競技は、日本の伝統的な格闘技が世界にどのように評価されるかを試す舞台であり、その期待は国内外から集まりました。軽量級、中量級、重量級の各階級で日本が金メダルを獲得した後、残された最後の舞台は無差別級でした。
この無差別級は、体重による制限がなく、純粋に技術と力量だけで勝負するため、柔道の本質を見ることができると言われていました。この競技が日本のお家芸である柔道の真骨頂とされていたため、これが世紀の大一番となることは間違いありませんでした。
しかし、大会直前、神永昭夫は左膝の靭帯を断裂するという不運に見舞われました。通常であれば、これほどの重傷で競技に臨むことは難しい状況でしたが、彼は一切の情報を隠し、靭帯断裂の痛みを押して戦う決断をしました。この姿勢は、神永昭夫の強い決意と、日本の柔道を世界に示す任務への誇りを物語るものでした。
無差別級の激闘!神永昭夫とアントン・ヘーシンクの決戦
1964年10月23日、日本武道館で行われた柔道無差別級の決勝戦、日本全体が緊張に包まれる中で、先に入場したのはオランダのアントン・ヘーシンクでした。身長2メートル、体重120キログラムという圧倒的な体格を誇る彼は、ここまでの試合をすべて勝利していました。さらに、既に予選の段階で神永を破っており、その力量を見せつけていました。
次に会場に現れたのは神永昭夫。身長180cm、体重102kgと、ヘーシンクに比べると明らかに体格では劣る彼は、しかし、柔道の技術と精神力に秀でていました。そして何より、大怪我を押してまで戦いに臨む彼の姿は、日本人の心を掴んで離しませんでした。
会場には、明仁皇太子と美智子妃も含む観客が集まり、その中には多くの日本人が含まれていました。誰もが神永が予想を覆して勝利することを願っていましたが、一方で2人の柔道家が並んで立つ姿を見て、心配も募らせていました。体格の差は明らかで、この差をどう克服するかが、神永の勝利への鍵となることは明らかでした。
「神永昭夫の敗北」日本柔道界に衝撃を与えた瞬間
決勝戦の開始は、ベアトリクス王女と皇太子殿下御夫妻が見守る中で始まりました。予選で神永に勝利していたヘーシンクは精神面でも優位に立つとされていましたが、一方で神永の心・技・体のバランスが整っていることは否応なく認めざるを得ませんでした。
試合はスタートから8分を過ぎた頃、神永が大外刈りから体落としで崩す動きを見せました。しかし、ヘーシンクはその技を巧みに交わし、神永の体に覆いかぶさると押さえ込みに転じました。その一瞬、ヘーシンクのけさ固めが決まり、神永は身動きが取れなくなりました。力なく両足を動かすだけの神永の姿に、観客席からは悲鳴が上がりました。
そして、ヘーシンクは30秒間神永を押さえ続けると、試合開始から9分22秒後、袈裟固で一本勝ち。オランダのヘーシンクが金メダルを手にしたのです。
畳に仰向けに倒れた神永は、そのまま高い天井を見上げていました。その姿は、かつての彼の勇猛さとは対照的な、まさに戦士の終焉を象徴していました。
控え室の重い空気…本柔道界の沈黙
無差別級という体重制限のない階級での敗北。これは、日本が最も重視し、最も自信を持っていたカテゴリでの完全敗北でした。本家ニッポンの目指すはずだった、お家芸での完全制覇が達成されず、それは日本の柔道界にとって大きな衝撃だったのは間違いありません。
銀メダルを獲得したとはいえ、「日本柔道が負けた」という報道が続出したこともあり、金メダル3個を取ったにもかかわらず、控え室の雰囲気は重く、まるでお通夜のように静まり返っていたと伝えられています。
悔しさからの再生!講道学舎の設立と日本柔道の復興
東京オリンピックにおいて、神永昭夫選手の惜しい銀メダルは日本柔道界に一時の悔しさをもたらしました。しかし、その一方で柔道が世界に広く認知される契機となったことは否応なく事実であり、これにより柔道は新たなステージへと進出することとなりました。
当時の講道館のトップであった三船久蔵十段は、敗戦に対する質問に「これでいい。これで柔道は世界のものになった」と答えました。この発言は、ある意味で日本独占から柔道が解放され、全世界のスポーツ「JUDO」として成熟する契機となったことを示しています。
東京五輪で金メダルを獲得したアントン・ヘーシンクは、「自分が勝ってよかった。4階級すべて日本選手が制したら、柔道はローカルな競技として五輪種目から外されていただろう」と述べています。彼の言葉は、柔道が五輪競技として成立するためには国際的な競争が必要であること、またそれによって柔道が真に世界のスポーツとして認知されることを示しています。
この悔しさをバネに、1976年には講道学舎が設立されました。中学・高校一貫指導の全寮制の柔道私塾で、初代会長の故横地治男さんや財界人が、本来の日本柔道を取り戻すべく設立したこの学舎は、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻をはじめとする海外からの著名人の訪問も多く、さらにバルセロナ五輪金メダルの古賀稔彦さんや吉田秀彦、瀧本誠など名だたる柔道家を輩出しました。
神永昭夫の柔道精神を受け継ぐ者!上村春樹と次世代の柔道家たち
神永昭夫選手の競技生活は、東京オリンピックでの銀メダルを最後に幕を閉じました。しかし、その柔道に対する情熱は一切衰えず、指導者として新たな道を歩むことを選びました。そして、彼がその手で育て上げたのが、1976年モントリオールオリンピックで柔道無差別級金メダルを獲得する上村春樹選手でした。
明治大学時代に神永昭夫氏から直接指導を受けた上村選手は、神永氏から「俺は一生懸命戦った。それで負けたのだから悔いはない」という言葉を胸に刻み、その言葉通り、一生懸命に柔道に打ち込み続けました。そしてその結果、上村選手は、1976年モントリオール大会で、日本に初めて無差別級の五輪金メダルをもたらすという、素晴らしい成果を収めました。
その功績は大きく、後の講道館館長として、上村選手自身が指導者となり、次世代の柔道家たちに神永氏から受け継いだ精神を伝え続けています。悔いなき闘いの姿勢、そして敗戦から学び、次世代につなげる思い――これこそが、神永昭夫氏の真の柔道への道と言えるでしょう。
Antonius Johannes Geesink
柔道国際化を牽引したオランダの英雄「アントン・ヘーシンク」
1964年の東京オリンピックで歴史的な勝利を収めたアントン・ヘーシンク。彼の名前は、日本柔道の故郷で勝利を収めた男として、また柔道の国際化を加速させた一人として、今も語り継がれています。
ヘーシンクはその大会で見せた技術的な力量だけでなく、勝利の瞬間に表現した対戦相手への深い敬意で、世界中の柔道家から尊敬の念を受けています。彼は技を極め、試合に臨む勇気を見せた一方で、その全てが相手を尊重し、理解する心から生まれることを示していました。
ヘーシンクの勝利と柔道の真の精神
1964年東京オリンピックの柔道無差別級の決勝戦。1万5000人の観衆が日本武道館に詰めかけ、神永昭夫対アントン・ヘーシンクの試合を見守っていました。この試合は、9分22秒に及ぶ激しい戦いで、最終的にヘーシンクが袈裟固めで一本勝ちを収めました。
この時までの軽、中、重量級で日本は3つの金メダルを獲得していました。しかし、無差別級の王者となったのはヘーシンクであり、これは柔道の発祥の地である日本が世界の舞台で敗れたことを象徴していました。
日本国民全員を包んだ無差別級決勝戦の結末
ヘーシンクの勝利が確定した瞬間、武道館には一瞬の静寂が訪れました。これは武道館だけでなく、全国に中継されたテレビの前で見守っていた日本国民全員を包み込みました。無差別級での決勝戦で、日本の選手が敗れた衝撃と、それに続くオランダ選手の勝利の実感が同時に広がったのです。
ヘーシンクの行動が伝えた礼節と敬意
その瞬間、ヘーシンクと選手村で一緒だったオランダのボクシング代表選手2人が、感極まって畳に駆け上がろうとしていました。彼らは母国の英雄を祝福しようとしたのです。
しかし、ヘーシンクはそのままの体勢で右手を挙げ、彼らを制止しました。彼は無表情ではなく、深く重く受け止めるような表情を見せ、その後、畳を降りるまで礼を尽くしました。この行為は、「礼に始まり礼に終わる」柔道の精神を具現化する行為であり、ヘーシンクの行動はその精神を体現するものでした。
ヘーシンクの礼節を尊ぶ行動によって、ヘーシンクはただ強いだけではなく、本物の柔道家であるということを日本中が理解しました。
国際社会で称賛を浴びた柔道の真の精神
その後、ヘーシンクの姿勢は、勝負の結果を超えて人々の心を動かしました。彼の行動は、力と技術だけでなく、礼節と敬意という武道の本質を体現したものであり、そのことが柔道の国際化の象徴となりました。
彼が見せた敬意ある姿勢は、敗北を受け入れる日本の柔道界にも深い影響を与えました。当時の日本柔道選手団監督の松本安市氏は、「日本が負けたことは悔しいが、不思議なことに、ヘーシンクには怒りが湧かない」と述べました。彼の言葉は、ヘーシンクの技量と精神が同時に尊重されたことを示していました。
ヘーシンクの勝利は、単に一つの試合の結果を超えて、柔道の真の精神、すなわち「礼に始まり礼に終わる」という道徳的な原則を国際社会に示すものであり、柔道の価値と普遍性を世界に広める契機となりました。
日本柔道界の裏側!ヘーシンクを育てた日本人「道上伯」
道上伯(みちがみはく)は日本の柔道家であり、その批判的な立場と、柔道をスポーツではなく武道として見る視点から、彼はしばしば注目を浴びていました。
道上は1912年に愛媛県八幡浜に生まれ、幼少期から各種スポーツに秀でていました。相撲、剣道、空手など様々な競技で頭角を現しましたが、特に柔道では異例の速さで進歩を遂げました。中学生の時には既に三段を取得し、地元愛媛県で度々話題になるほどの存在でした。
京都の武専を経て旧制高知高校を卒業後、上海の東亜同文書院で柔道を教え始めました。その後、ヨーロッパに渡りました。身長173 cm、体重75kgの道上は、生涯無敗の柔道家として知られていました。
しかし、道上の最も特筆すべき点は、その独自の哲学と柔道に対する見方かもしれません。彼は日本至上主義、権威主義、伝統主義の講道館や日本柔道界を批判し、柔道のJUDO化(スポーツ化)を危惧していました。道上は柔道を競技スポーツとしてではなく、精神的な訓練と人間形成の道具としての武道と捉えており、この視点から柔道を普及し続けました。
道上伯が挑んだ日本柔道の弱点と刺客「ヘーシンク」
1953年、戦後の混乱がまだ残る中、道上伯はフランス柔道連盟から「本格的な柔道の指導者を」という依頼を受け、1年契約でフランスへ渡りました。しかし、契約終了後も帰国せず、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカなど世界54カ国で柔道の指導を行い、各国の最高技術顧問として活動しました。
道上伯の指導の下で成長した選手の一人がアントン・ヘーシンクでした。ヘーシンクは、道上伯の鍛錬によって技術を大いに伸ばしました。また、武徳会出身であり、柔道史上最強と謳われた木村政彦を最後に破った阿部謙四郎も、ヘーシンクに稽古をつけていました。そのため、ヘーシンクが強くなるのは当然の結果とも言えます。
道上伯や阿部らは、「打倒講道館」という強いモチベーションを持っていました。ヘーシンクは、彼ら武徳会の生き残りたちが日本に送り込んだ刺客だったのです。彼らは戦後の日本柔道の弱点に気付いていた。それは寝技の研鑽不足でした。そのため、彼らはヘーシンクに寝技を徹底的に教え込みました。
貧困と戦争の時代に生まれた英雄「アントン・ヘーシンク」の物語
1934年、アントン・ヘーシンクはオランダの貧しい家庭に生まれました。彼は12歳から建築現場で働かなければならず、それは1946年、第二次世界大戦直後の時期に相当します。当時、ナチス・ドイツに占領されていたオランダは、『アンネの日記』で知られるような悲惨な状況に見舞われていました。さらに、海外の植民地が次々と独立し、オランダの経済状況は厳しいものとなっていました。
運命が変わる!アントン・ヘーシンクと道上伯の運命的な出会い
アントン・ヘーシンクは14歳で地元の柔道教室に通い始め、その後彼の生涯は柔道に大きく影響を与えることになる運命的な出会いを待っていました。
1955年、彼はまだ20歳であり、建設現場でレンガ積みなどをして生計を立てていました。その夏、道場の片隅で黙々と稽古を積む顔色の悪い青年に、オランダ柔道連盟の招きで指導に赴いていた日本の柔道家・道上伯の目が留まりました。
当時のヘーシンクは198cmの長身で、体重は85kg、手足が長く、技にはスピード感がありました。この姿が道上伯の目にとまり、彼の人生は大きく変わることになりました。
オランダ柔道の一選手から無敵の存在へ!
ヘーシンクは「生涯の恩人」と言える道上伯に出会うまで、オランダの柔道界では単なる一選手にすぎませんでした。しかし、それは道上伯の目にとまるまでの話でした。道上伯はヘーシンクを見出し、彼の才能を引き出すために自らの知識と技術を惜しげもなく注ぎ込みました。
道上伯はヘーシンクについて次のように評価しています。「彼は何でも従う、素晴らしく素直な選手だった。酒もタバコも慎み、休日は自然と触れ合いながら体力作りに専念するなど、感心するところは枚挙に暇がない」と。
道上伯は2ヶ月に1度のペースでオランダを訪れ、その都度約20日間滞在し、その間ヘーシンクの指導にあたりました。柔道の技術だけでなく、サッカー、レスリング、水泳、ランニングといった多方面から彼の身体を鍛え上げ、さらに当時としては珍しいバーベルを使ったウエイトトレーニングも行いました。その結果、ヘーシンクは鉄壁の肉体を手に入れ、ヨーロッパでは無敵の存在となりました。
道上伯の指導が実を結ぶ!ヘーシンク、初の世界選手権での栄冠
ヘーシンクが初めて日本を訪れたのは1956年で、初の世界柔道選手権に出場するためでした。しかし、この時は準決勝で吉松吉彦七段に敗れてしまいます。続く1958年の第2回世界選手権でも、山鋪公義六段に準々決勝で敗れてしまいました。
そして1961年、第3回世界選手権がパリで開催されることになりました。ヘーシンクはその年の1月に再度日本を訪れ、2カ月間滞在し、講道館や警視庁で練習を積みました。この時間が彼の成績向上にとても大きな影響を与えたことでしょう。
そして、遂に迎えた第3回世界選手権。大会では前述の通り、ヘーシンクが初の世界一に輝きました。その瞬間、道上伯はオランダの柔道関係者により試合場まで運ばれ、駆け寄ってきたヘーシンクと握手を交わし、至上の喜びを味わいました。
ヘーシンクの初の世界一は、彼自身だけでなく道上伯にとっても大きな成果であり、二人の絆をさらに深める出来事となりました。
師と弟子、監督と選手の因縁!松本安市とヘーシンクの東京オリンピック
ヘーシンクが五輪に挑む前、彼が日本で武者修行をした場所は天理大学でした。そこで彼を指導したのは初代師範であり、東京オリンピックの日本代表監督を務めることになる松本安市でした。
松本は厳格な師範として知られ、学生だけでなくヘーシンクに対しても一切妥協することなく厳しく指導しました。しかし、その後のオリンピックでは松本は日本の監督となり、ヘーシンクとは敵味方に分かれることとなりました。
松本安市監督の選択は「神永vsヘーシンク」
天理大学での練習風景から、ヘーシンクの力の圧倒的さを目の当たりにした柔道関係者たち。そして彼を指導した松本安市監督もまた、「ヘーシンクには誰も勝つことができないのではないか?」という懸念を抱いていました。
その後、松本監督は東京オリンピックに向けて、重要な決断を迫られます。無差別級に出場するヘーシンクに対抗する選手を選ぶこと。前回の世界選手権ですでに対戦経験がある神永昭夫を選ぶか、あるいは一度も対戦していない猪熊功を選ぶか。それは簡単な決断ではありませんでした。
しかし最終的に、松本監督は重量級に猪熊、無差別級に神永を出場させるという決断を下します。これにより、地元日本でのオリンピックで神永がヘーシンクに雪辱を果たし、日本柔道の覇権を奪還することへの期待が国内に広がりました。
しかし、その期待を背負う神永には大きなプレッシャーがのしかかります。同時に、ヘーシンクもまた自身の強さを証明し続けるために、困難な挑戦を待ち受けていました。
無差別級での壮絶な戦い!ヘーシンクの金メダルと日本への感謝
無差別級のエントリーは、9カ国からのみの9人という限られた規模でした。そのため変則的な方式が採用され、予選リーグでいきなり神永対ヘーシンク戦が実現したのです。この戦いでは、ヘーシンクが優勢勝ちし、神永は敗者復活戦へと回りました。
そして迎えた決勝戦で再び対峙した神永とヘーシンク。この戦いでもヘーシンクが勝利し、金メダルを獲得しました。無差別級の頂点に立った彼は、その場で全世界にその強さを証明しました。
感動のシーン!オリンピックの舞台裏で交わされた言葉
このオリンピックで全階級制覇を目指していた松本監督は、大会終了後、失意のうちに頭を丸めました。その姿を見て、ヘーシンクはすぐに全てを察知し、松本の傍に駆け寄りました。彼が最初に発した言葉は、「先生、すみません」というものだったと言います。
「日本の四つ目の金メダル」
さらに、ヘーシンクは自身が獲得した金メダルについて、「日本の四つ目の金メダル」と語っています。その言葉は、彼が自身の勝利を日本の勝利と同等に捉え、日本の柔道文化への敬意を示していることを象徴しています。そして、それは彼が自身の勝利を単なる個人の成功とは捉えておらず、自身の成果が松本監督や日本の柔道への感謝の表現でもありました。
ヘーシンクの輝かしい終焉!世界選手権での完全勝利と新たな道への挑戦
1965年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された第4回世界選手権。ヘーシンクは80kg超級と無差別級にエントリーしていました。しかし、80kg超級での優勝を果たした後、最終日の無差別級の出場を辞退し、引退を表明しました。彼の世界選手権での最後の試合は、まさに完全なる勝利で幕を閉じたのです。
しかし、ヘーシンクの柔道への情熱はそこで終わることはありませんでした。1967年、彼はヨーロッパ選手権で現役復帰を果たしました。準決勝で次代を担うフランスのウィルム・ルスカを破るなどし、見事に金メダルを獲得。その後、彼は柔道の指導者として、また石油会社の経営者として活動しました。
さらに、1973年には全日本プロレスに入り、プロレスラーとしてもデビューしました。1978年には引退し、その後は柔道の指導に専念しました。そして1987年には、その功績を認められ、国際オリンピック委員会(IOC)の委員に就任しました。
ヘーシンクの視野の広さ!柔道界におけるカラー柔道衣の導入
ヘーシンクは柔道界に大きな影響を及ぼし続けました。国際柔道連盟の役員を長年にわたり務め、数々の改革を推進しました。その中でも、最も大きな影響を与えたのが、カラー柔道衣の導入提案でした。
ヘーシンクは「見る人に分かりやすく、審判の誤審も防げる」と考え、柔道の試合に色彩を導入することを提唱しました。それまでの柔道は、どちらも白い衣で行われていました。しかし、ヘーシンクの提案により、1997年の世界選手権からカラー柔道衣が採用され、一方の選手が「青」の柔道衣を着ることとなりました。この改革は、視覚的に対戦者を区別しやすくなるだけでなく、審判の誤審も防ぐ効果がありました。
そしてこの革新的な提案は、その後のオリンピックでも採用され、2000年シドニーオリンピックからは、一方の選手が「青」の柔道衣を着ることとなりました。
ヘーシンクのこの提案は、観客が試合をより理解しやすくし、柔道の普及に大きく貢献しました。それは彼が競技者だけでなく、柔道の発展を常に考えていたことの証であり、その視野の広さと革新性を示すものでした。
オランダでの柔道普及と国民的称賛
ヘーシンクの影響力は、時代を超えて今も感じることができます。彼の功績を称えて、2004年には国際柔道殿堂に彼の名が刻まれました。そして、彼が1964年東京五輪で金メダルを獲得した時に使用した柔道着が、オランダの駐日大使館で展示されています。
ヘーシンクは自国オランダで国民的英雄とまで言われ、その名を広く知られています。大使館の文化担当バス・バルクスさんは、「彼の活躍でオランダでも柔道が知られるようになった。国民的英雄」とヘーシンクを称えています
ヘーシンクの日本への愛と尊敬が込められた一枚の写真
ヘーシンクは、晩年になってもたびたび日本を訪れていました。その人柄と愛すべきエピソードが、彼の生涯を通じて記憶されています。
1964年の東京大会から連続してオリンピックの写真取材を続けていたフォート・キシモトが、2004年に東京で開催した「東京オリンピック40周年記念写真展」は、そのエピソードの一つです。
この展覧会でヘーシンクは、一枚の写真の正面に静かに立ちました。その写真は、開会式での日本選手団のもので、そこには、ヘーシンクが現役時代に来日した際に指導を受けていた天理大学の初代師範、松本安市が小さく写っていたのです。
ヘーシンクは、当時を懐かしむ表情を浮かべながら、その写真に向かって深々と頭を下げました。これはただの礼ではなく、選手時代に彼に与えられた多大なる影響と敬意、そして感謝の表現でした。
不敗の伝説…無敵の女子バレーチーム「東洋の魔女」が挑む栄光の戦い。 ── 東京オリンピック物語(27)