伝説のボクシング選手「桜井孝雄」オリンピック金メダルからプロの輝き ── 東京オリンピック物語(25)

今回は、日本のボクシング界を席巻した伝説的な選手、桜井孝雄の生涯と戦い方について紹介します。彼の唯一無二の「ヒット・アンド・アウェイ」スタイルは、打たれずに打つ、打たせずに打つという理想的なアウトボクシングでした。

その安全運転スタイルは一部で批判を浴びましたが、彼は自身の信念を貫き通し、22連勝を達成し世界タイトルの挑戦権を手に入れました。しかし、彼が唯一奪ったダウンがあるにも関わらず、世界タイトルには届かず、後に物議を醸すことになります。

記事では彼の勇気と信念に満ちた戦いを通じて、彼がボクシング界に与えた影響や後世に受け継がれる遺産についても触れます。さらに、彼の引退後の活動やジムの設立によって、彼がボクシングを通じて多くの人々に魅力を伝え続けた姿勢も紹介します。

created by Rinker
1964年の東京オリンピック。戦後日本の一大イベントに臨んだ選手たちは、国を背負い輝ける星となった。しかし、参加した日本選手357人の中には、その後、4人の行方不明者がいた…。選手たちは人生と格闘し何を得たか。選手たちの生涯を追った迫真のルポルタージュ。(「BOOK」データベースより)

Tokyo 1964 Olympic Boxing「Takao Sakurai」

バンタム級金メダリスト「桜井孝雄」

AP Archive/YouTube

1964年、東京オリンピックの舞台で、日本ボクシング史上初となる金メダリストが誕生しました。その名は桜井孝雄。この名前は今や日本ボクシング界にとって伝説となっています。

1941年(昭和16)桜井孝雄 誕生

昭和16年9月25日、日中戦争の最中、千葉県佐原市に桜井孝雄が生まれました。子供時代は野山を駆け回る日々を送っていましたが、桜井とボクシングが出会うのは高校時代のことでした。

AQUA Geo Graphic/YouTube

自己流独学で高校ボクシング王者!桜井のハードな道のり

桜井が進学した千葉・佐原高(定時制)では、体育の選択科目としてボクシングが存在しました。この出会いが彼のボクシングとの運命の始まりでした。学校にはボクシング部がありましたが、指導者は不在。しかし、思うままに練習に取り組める自由な環境が桜井にとって魅力だったようです。

自己流でボクシングの技術を磨き、最終的には高校王者にまで上り詰めました。手作りのサンドバッグでの練習、使い回しのリングシューズを履いて、ほぼ独学で全国高校総体(インターハイ)のバンタム級を制しました。しかし、最初の頃、桜井はボクシングをしていることを両親に隠していたそうです。実力がついていくにつれて隠しきれなくなり、ついには両親に打ち明けましたが、「学生の間だけ」という約束が交わされたといいます。

天性の勘とボクシング感覚が融合!中央大学で輝く桜井のアウトボクシング

インターハイでバンタム級を制した功績が評価され、全国の強豪大学からスカウトが殺到しました。

しかし、彼が選んだのは名門・中央大学でした。当時、大学選手権で4連覇の偉業を達成していた日本一の大学です。本格的にボクシングを教わり始めた桜井は、生まれ持った勘とボクシング感に磨きをかけ、アウトボクシングのスタイルを確立していきました。

「あのすばしっこさはまるでネコ科の動物だと思った」と、中央大の先輩であり’60年ローマ五輪の銅メダリストである田辺清は、桜井のカンのよさに舌を巻いた。桜井自身は「千葉の田舎育ちで自然児のように遊びまくっていたのがよかったのかな」と言っていました。彼は中央大学の在学中にバンタム級で2連覇を果たし、代表選考会を勝ち上がり、1964年東京オリンピック日本代表のチケットを手に入れました。

桜井が挑んだ東京オリンピックボクシング競技

そして1964年、桜井は大学4年生、23歳の時に東京オリンピックに参加します。その東京五輪では20競技が実施され、参加国が最も多かったのが陸上競技でした。その次に多かったのがボクシング(10階級実施)で62カ国が参加しました。桜井が出場したバンタム級には32人がエントリーしました。

活躍が有望視されていたのはフライ級の吉野洲太、フェザー級の高山将孝、ライト級の白鳥金丸、そしてバンタム級の桜井の4選手でした。中でも接近戦を得意とする白鳥選手へのメダルの期待が高かったのですが、白鳥は3回戦で敗退しました。この大会では判定を巡るトラブルが相次ぎました。

スペインの選手は反則負けとされたことに怒ってレフェリーを殴り、韓国の選手はリング上に1時間近くも座り込みました。選手やコーチの責任を問う声の一方で、レフェリー技術の未熟さや人種差別意識の影響も指摘されていました。

家族の期待に応える!桜井が準決勝で見事な判定勝ち

1回戦、2回戦ともに順調に判定勝ちを収めた桜井は、準々決勝でも右フックや左ストレートが決まり、5-0の判定で1回戦より危なげなく勝ち上がりました。そして準決勝では強豪のワシントン・ロドリゲス(ウルグアイ)を迎えました。

ロドリゲスはウルグアイ代表として強さを誇っており、試合は激しい打ち合いとなりました。しかし桜井はその中でフットワークを生かし、主導権を握ることに成功。見事に判定勝ちを収め、金メダル決定戦へと駒を進めました。

前の試合まで心配のあまり、息子の勇姿を直視できなかった両親も、この試合からは会場から感動の拍手を送りました。この瞬間、桜井の勇姿は全国の視聴者にも伝わり、多くの人々が彼の金メダル獲得に期待を寄せることとなりました。

万歳の声が響く!桜井の実家で喜びに包まれた金メダル獲得!

1964年10月23日、ボクシングバンタム級決勝戦が行われる舞台は、東京五輪唯一の民間商業施設、普段はアイススケート場として使用されていた後楽園アイスパレスでした。

この日、桜井孝雄は鄭申朝(韓国)と対戦しました。試合開始早々、初回1分過ぎにダウンを奪い、その後も計4度のダウンを奪います。2回1分18秒、レフェリーストップコンテスト(RSC)により桜井が完勝しました。

金メダルが決まると、千葉県佐原市の桜井の実家に駆け付けた近所の人たちからは、「万歳」の声がこだましました。準決勝で痛めた両コブシが負担となったが、桜井は「手が心配だったけど試合になったらすっかり忘れてしまった。今度はメキシコ大会を目指し、この一瞬の喜びをもう一度味わうことが目標です」と次の五輪連覇を誓いました。

桜井は「打たせないで打つ」をモットーとし、その天才的とも言える防御技巧が光りました。その頂点に立った瞬間、青コーナーにいた監督の田中宗夫、コーチ、そしてライト級の白鳥金丸らが駆け寄り、桜井の日本初の金メダルボクサー誕生を祝いました。

涙を見せなかった桜井に対して、その理由を問われると、「水を飲んでいないから涙も出ない」と笑顔で答えました。その答えには彼の堅実さと堂々とした人柄が垣間見え、多くの人々を感動させました。

23歳で得た世界の頂点とその影響

桜井孝雄が23歳の若さで東京オリンピックのバンタム級で金メダルを獲得したとき、彼の出身地は一瞬で熱狂の渦に巻き込まれました。その偉大な快挙は地元新聞である千葉日報でも「ついにとったぞ王者のメダル 果たした県民への約束」と大きく報じられました。

周囲が大いに賑わう中、桜井自身は冷静さを保っていました。彼の長男、大佑が証言するには、「1回でも勝てれば」という謙虚な心持ちで試合に臨んだ父は、対戦相手の研究もあまりせず、金メダル獲得後も周囲の熱狂を見るまで自身の成し遂げた「事の大きさ」に気付かなかったと言います。

当時、復帰を目指していた海老原が桜井の快挙について「根性と自信。この2つが技巧と強打を生み、金メダルへつながった」と評しました。また、「常に右のリードで射程距離を保ち、カンのいい動きでここぞと思う時にカウンターを決めるあたりは天才的素質と努力の積み重ねだった」と桜井の技術と努力を称えました。

さらに、「桜井君の金メダルはどの種目より高価なもの。日本のボクシングは五輪に参加するようになって、ただ1個のものだからだ。プロの王座に匹敵する、生涯の誇りに残る偉大なものだ」と語り、その快挙の価値を力説しました。

ボクシング界の伝説!桜井孝雄の感覚とテクニックの魅力

1964年東京オリンピックのボクシングバンタム級でゴールドメダルを獲得した桜井孝雄は、その戦術と技術、特に敵のパンチを避ける技術においては圧倒的な存在でした。彼はそのテクニックと感覚で試合を制し、その後48年間もの長い時間、誰一人としてその記録を超えることができないほどの記録を達成しました。

彼のボクシングは、まるでアートのようで、技巧派ボクサーとしてその名を馳せました。相手の攻撃を見事にかわす彼のスタイルは、”アートフル・ドジャー”と形容され、その名の通り、彼はまさに「日本のアートフル・ドジャー」でした。アマチュアでもプロでも、後輩選手がパンチを受けるのを見て、「相手が打ってくるとき、感覚でわからないのか」「どうして避けないのか」と尋ねたと言います。

しかし、彼が持っていたのは単なる技術ではありませんでした。それは感覚、直感、勘といったもので、人に教えることができるものではないと彼は語っています。それはボクシングリングでしか得られない、桜井自身が積み重ねてきた経験と研鑽の産物だったのです。

半世紀以上にわたりボクシングを見続けてきた人々から見ても、桜井のテクニシャンぶりは別格でした。その達成した偉業は日本ボクシング界の誇りであり、彼の名前は日本ボクシングの歴史に深く刻まれています。

ヒット・アンド・アウェイの天才!プロボクサー「桜井孝雄」

1964年の東京オリンピックでの金メダル獲得後、桜井孝雄のアマチュアとしてのキャリアか、プロへの転向かが大きな話題となりました。当時のマスコミはその未来を熱く取り上げ、期待の高まりとともに議論が加熱しました。

結果として、桜井は過去最高額ともいえる契約金を提示された三迫ジムとプロ契約を結ぶ道を選びました。

桜井孝雄がプロに転向した後もその強さは衰えませんでした。何より驚くべきは、彼がボクシングスタイルを変えずに強さを保ち続けたことで、そのスタイルは「ヒット・アンド・アウェイ」、つまり打たれずに打つ、打たせずに打つという理想的なアウトボクシングでした。「安全運転」とも言われたその戦法により、彼は22連勝を達成し、世界タイトルの挑戦権を手に入れました。

「ダウンを奪いながらも手が届かず」世界バンタム級タイトルマッチ

そして1968年7月、桜井は日本武道館で行われた世界バンタム級タイトルマッチで、当時のチャンピオンであったライオネル・ローズ(オーストラリア)に挑戦しました。軽快なフットワークで好調に試合を進め、2ラウンドには左ストレートでローズから早々とダウンを奪いました。しかしながら、その後の試合展開では「安全運転」となり、僅差の判定負けを喫しました。そのため、世界チャンピオンにはなれませんでした。

この世界タイトル戦は、桜井が試合中唯一奪ったダウンがありながらもベルトに手が届かなかったことから、後に物議を醸す一戦となりました。

批判に負けず、自分のスタイルを信じ続ける

1964年東京オリンピックのバンタム級金メダリスト、桜井孝雄には、大いなる夢が託されていた。しかし、世界タイトル挑戦の舞台ではわずかなポイント差で敗れた。試合終盤で逃げ切る指示を出した桜井の判断は、一部から批判された。それでも桜井は「間違いなく自分が勝っていた」と信じ続け、自身の信念を終生貫き通した。

「安全運転」ボクシングと人気のパラドックス

桜井孝雄はその一風変わったボクシングスタイルと態度から、時の人気選手とは言えなかった。試合後の新聞では必ずといっていいほど「安全運転」という言葉が彼の戦いを特徴づけていた。彼の勝利は大半が判定によるもので、KOでの勝利は少なかった。

桜井は「殴られるのは誰だって嫌でしょ。打たれて後遺症が残ったら、誰が責任とってくれるんですか」と述べ、そのボクシングスタイルについては「変えられないし、変えるつもりもなかった。自分の形を貫いたまでのことです」と語っている。彼は相手に打たせないで打つ、という理想的なアウトボクシングを採用し、引退後の体のことや、生活を考えた結果だった。

彼の戦い方が無理に打ち合わなかったことは、彼の戦績である30勝中わずか4KOという数字にも表れている。しかし、このスタイルは当時の敢闘精神を好む日本のボクシングファンにとっては受け入れがたいものであった。桜井孝雄は自分の信念と健康を維持するために選んだ「安全運転」スタイルと、そのスタイルが彼の人気を阻害したという事実は、スポーツとエンターテイメントの間の緊張とパラドックスを示している。

「かえる跳び」桜井孝雄と三迫ジムの新しい挑戦

桜井のスタイルを何とかしようと試みた三迫ジムの会長、三迫仁志は、一つの新しいテクニックを考案した。それは、「かえる跳び」、つまり、大きくダッキングしてすぐに反撃する動きだった。しかし、アマチュアボクシングで身につけた相手のパンチを避けるために身体を左右に振るウィービングの癖が強く、桜井はこの新しいテクニックを習得することができなかった。

misakoTV/YouTube
桜井孝雄からの影響!輪島功一の成長と自身のスタイルの確立

その後、「かえる跳び」を体得し、世界チャンピオンとなったのが、三迫ジムの後輩である輪島功一だった。

元々輪島は、ジムの隣の建設会社で働いていた土木作業員だった。1964年東京オリンピックの金メダリスト、桜井孝雄選手を見るために人だかりがジムの前に集まっていた中の一人だった。ボクシングを始めるきっかけとなったのは、通常ならボクシング選手が引退を考える25歳のときだった。

そして、1971年10月31日、僅か3年の練習期間を経て、輪島は世界王座に登り詰めた。その瞬間、彼は建設現場からスポットライトの中へと飛び出した。

彼が世界スーパーウェルター級王者カルメロ・ボッシ(イタリア)とのタイトルマッチで見せた「かえる跳び」は、観客を大いに楽しませ、「あれほど観客を笑わせた試合はない」と評された。この新しいテクニックは、一部では奇策と見なされ、すっかり固有名詞として認識されるようになった。

そして、面白いことに、この「かえる跳び」のアイデアを思いついたのは、東京五輪の金メダリストであり先輩の桜井孝雄選手の練習を見ていたときだったという。桜井が自身のスタイルを変えることができなかったテクニックを、輪島は自分のものとして体得し、さらにそれを進化させ、自身のスタイルを作り上げたのです。

haNZAgod 2/YouTube

ボクシングの道を開拓!桜井孝雄のジムとボクササイズの普及活動

桜井孝雄は、その後東洋チャンピオンとなり2度の防衛を成功させましたが、再び世界タイトル挑戦の機会は得られませんでした。その結果、世界王者以外の地位に価値を見いだせなかった桜井は、1971年に現役を引退しました。

引退後の桜井は、東京・築地にボクシングジム「ワンツースポーツクラブ」を開設。その当時、プロボクシング志向が強いジムが多かった中、桜井はプロの選手を育てつつも、健康志向の高い一般練習生にはボクササイズを教えるという新たなアプローチを取り始めました。

彼が会長を務める「ワンツースポーツクラブ」は、中高年層を含む多様な年齢層にボクシングの魅力を伝えるジムとなりました。その思いは、アマチュアボクシングへの情熱にも繋がっており、「いつか2人目(の五輪金メダリスト)が誕生してほしい」との願いを持ち続けていました。このように桜井孝雄は、現役時代の経験と思いを活かして、引退後の人生にもボクシングを織り交ぜ、多くの人々にその魅力を伝え続けたのです。

日本のボクシングの悲劇…桜井孝雄の早すぎる別れ

ロンドン五輪が迫る2012年1月10日、桜井孝雄は食道がんのため70歳で亡くなりました。彼が自身に続く五輪王者の誕生を心待ちにしていたことは、多くの人々によく知られていました。

created by Rinker
1964年の東京オリンピック。戦後日本の一大イベントに臨んだ選手たちは、国を背負い輝ける星となった。しかし、参加した日本選手357人の中には、その後、4人の行方不明者がいた…。選手たちは人生と格闘し何を得たか。選手たちの生涯を追った迫真のルポルタージュ。(「BOOK」データベースより)

桜井孝雄から村田諒太へ!受け継がれる未来への意志

桜井孝雄の家族葬が終わった後、日本のアマチュアボクシング史上唯一の金メダリストの偉業を称えるため、アマチュア・プロの関係者による「送る会」が催されました。この日、桜井がプロ転向後所属した三迫ジムの三迫仁志会長が葬儀委員長を務め、弟弟子である輪島功一・輪島スポーツジム会長が副委員長を務めました。喪主は故人の長男でワンツースポーツジム会長の桜井大佑でした。

この「送る会」は3月3日に千葉・船橋で行われ、そこで村田諒太選手への期待と夢を託す声が多く上がりました。日本プロボクシング協会(JPBA)の大橋秀行会長も出席し、「桜井さんに、村田君が五輪で戦う姿を見てもらいたかった。東京五輪は僕が生まれる前年ですからね。それだけの時間を要して村田君が現れた」と語りました。

大橋会長自身も専門学校時代に1984年ロサンゼルス五輪出場を逃し、プロに転向。その後、WBAとWBCの世界ミニマム級王者となるなど、プロボクシング界で成功を収めています。

CSPark/YouTube
48年ぶりの輝き!桜井孝雄の遺志を受け継いだ村田諒太の金メダル

1964年東京オリンピックのバンタム級で桜井孝雄が金メダルを獲得して以来、48年の時を経て、日本のアマチュアボクシング界に再び金字塔が打ち立てられました。2012年8月11日、ロンドン五輪のボクシングで村田諒太選手が日本人選手として48年ぶりの金メダルを手に入れたのです。

日本選手の出場自体が16年ぶりで、しかもミドル級という世界で最も競争が激しいクラスでの金メダル獲得は、その価値を一層高めています。

特に注目すべきは、この金メダル獲得が桜井孝雄の死からわずか7カ月後というタイミングだったこと。まるで村田選手が桜井の遺志を受け継いだかのように見えました。これこそが、日本のアマチュアボクシングが新たな歴史を刻む瞬間であり、桜井孝雄の精神が後世に引き継がれた瞬間でした。

KyodoNews/YouTube
「アマチュアとしてオリンピック」「プロ」「東洋大学」村田諒太の選択

村田諒太選手は、金メダルを獲得した後、プロとアマチュアボクシングの間で揺れ動いていました。彼は、再度オリンピックに出場する、プロになる、あるいは東洋大学の職員になるなど、いくつかの道を選択肢として検討していたのです。

村田諒太の選択肢とアマチュアへの誇り

村田諒太選手は、金メダルを獲得した後の決定的な時期に、プロとアマチュアボクシングの間で揺れ動いていました。彼は、再度オリンピックに出場する、プロになる、あるいは東洋大学の職員になるなど、いくつかの道を選択肢として検討していました。

しかしながら、彼の一夜明けた会見での発言は、「アマチュアはプロの下にあるわけではない」と明言し、アマチュアとしてのプライドを改めて強調しました。これは、金メダルの追求が世界チャンピオンのベルト以上に厳しいと語ることで、その誇りを示すものでした。

アマチュアボクシングの葛藤…村田諒太のプロ転向と新たなルール

当時、日本アマチュアボクシング連盟は、国際連盟(AIBA)が設立する新たなプロ団体(APB)への日本選手の参加を認める方針を固めていました。村田諒太はその団体への参加を要請されていたが、2度辞退します。

さらに、村田自身が全日本社会人選手権出場に意欲を見せながらも、同時にプロ転向を模索していたことが判明すると、日本ボクシング連盟はの村田諒太にアマチュア選手として引退勧告を与えました。

アマチュアボクシング連盟が作った新ルールの波紋

それだけでは終わりませんでした。村田のプロ転向に、激怒した日本アマチュアボクシング連盟の山根会長は、全てのアマチュアボクサーにプロと関与しないとの誓約書の提出を義務付ける新ルールを作りました。

しかし、このルールは全国のアマチュアボクシング関係者を困らせることになりました。中高生のアマチュアボクサーの中には、プロのジムに通いながらも、アマチュアとしてのキャリアを積んでいる少年少女が多くいました。彼らは、ジム主催のジュニア大会とアマチュアの大会に並行して参加し、ボクシングのスキルを磨きながら成長していました。

新ルールの導入により、彼らは五輪に繋がる公式アマチュア大会への参加を望む場合、プロのジムとは全く関ってはいけなくなりました。この問題は、アマチュアとプロボクシングの境界線と、若いボクサーたちのキャリアパスについての深刻な問題を浮き彫りにしました。

プロ転向への決断とアマチュアボクシング連盟との対話

アマチュア選手としての引退勧告を受けて9日後、村田諒太は自身のキャリアにおける重大なステップ、プロ転向を決断しました。2013年2月2日、一部のメディアが彼のプロ転向を報じ、それを受けて村田は急遽東京から大阪へと向かいました。ここで彼は日本アマチュアボクシング連盟の山根会長と会談し、彼に謝罪をしました。

会談後、村田は山根会長とともに待ち構えていた報道陣の前に現れ、自身のプロ入りの意向を明らかにしました。しかし、どのジムに所属するかなど具体的な詳細はまだ決まっていないことを明言し、「(プロになったら)負けることは許されない、プロ入りを決める前にまずみなさんに応援してもらえるような環境作りをしないと」と述べました。

同席した山根会長も、村田に対する期待と応援の意志を示しました。「村田には選手として特に愛情を注いできた、プロでも大成してほしい」とエールを送ったのです。

KyodoNews/YouTube
村田諒太と「三迫ボクシングジム」の結びつき

プロ入りを決定した村田諒太は、その後、三迫ボクシングジムに所属することとなりました。この決定は、彼のプロボクシングキャリアの新たなスタートとなりました。

村田諒太のプロ転向を後押しする桜井大佑

彼のプロ入りを見守っていたのは、1964年東京オリンピックバンタム級金メダリストで、プロの世界戦では涙をのんだ桜井孝雄さんの長男、桜井大佑も含まれていました。2012年に70歳で亡くなった孝雄さんの後を継いで東京都内でジムを経営する大佑さんは、村田選手への期待を寄せていました。

世界王座挑戦へ向けて!「帝拳ジム」との新たな体制

2014年8月29日、帝拳と三迫の両プロモーションは記者会見を開き、ロンドン五輪金メダリストでWBCミドル級12位の村田諒太が、9月5日のプロ第5戦(東京・代々木第二体育館)から帝拳ジムの所属となることを発表しました。

記者会見には、三迫プロモーションの三迫仁志会長(当時)と帝拳プロモーションの浜田剛史代表が同席しました。彼らは村田が三迫ジムの所属でありながら、海外に強いネットワークを持つ帝拳のサポートを受け、村田を育てていくことを明らかにしました。

この体制変更は、2015年に予想される世界王座挑戦に向けて最良の形で世界王座獲得という目標を達成するためのもので、両プロモーションはこの新体制について詳しく説明しました。

三迫プロモーションは今後も国内活動を中心に共同プロモーターとして村田をサポートすることを明言しました。一方で、村田諒太も次のようにコメントしました。「デビューから支えてくださった三迫ジムには大変感謝しています。これからも国内の活動をサポートしていただくことに変わりはありません。所属ジムは変わりますがやることは変わらないので、これまで通り練習して強くなるだけです」。

桜井孝雄の挑戦から49年ぶりの世界挑戦

2017年5月20日、村田諒太の待望の世界王者挑戦の日がついに訪れました。この試合は東京・有明コロシアムで開催され、ロンドン五輪同級金メダリストで同級2位の村田諒太(当時31歳、帝拳ジム所属)が、同級1位のアッサン・エンダム(当時33歳、フランス)と対戦しました。

桜井孝雄の長男である桜井大佑は「金メダリストがプロで通用することを証明してもらいたい。おやじも村田選手がチャンピオンになった姿を見たかったと思う」とコメントし、村田を力強く応援しました。

試合は全12ラウンドが行われ、村田は4回、カウンターの右ストレートでダウンを奪いました。しかし、全体的に見ると攻撃の手数が少なかったため、その影響がジャッジの評価に繋がったかもしれません。最終的には、1対2の判定負けとなり、村田の世界初挑戦での王座戴冠は叶いませんでした。ジャッジ3人の採点は111-116、112-115、117-110でした。

村田諒太にとって初の敗北

この試合により、村田はプロ13戦目で初の敗北を喫しました。日本人の五輪金メダリストでは1964年東京大会バンタム級の桜井孝雄が1968年に判定で敗れて以来、49年ぶりとなる世界挑戦での敗北は厳しい結果でした。

村田の通算戦績は13戦12勝(9KO)1敗となり、一方のエンダムは38戦36勝(21KO)2敗となりました。

見事にリベンジ!ミドル級世界王座獲得で桜井孝雄の夢を受け継ぐ!

2017年10月22日、東京の両国国技館においてボクシングのトリプル世界戦が開催されました。その一環として、WBAミドル級1位の村田諒太(帝拳ジム所属)が、現王者アッサン・エンダム(フランス)と再戦を果たしました。

この試合で村田は7回終了後、エンダムに対してTKO勝利を収める見事なパフォーマンスを発揮しました。村田が勝利の瞬間に泣き出すことはなかったものの、インタビューで声を震わせながらファンへの感謝の言葉を述べました。これは、前回の対戦でエンダムに判定負けした彼にとってのリベンジマッチとなり、その復讐を見事に果たした結果でした。

この勝利は、五輪金メダリストがボクシングの世界王者となった日本初のケースであり、ミドル級では竹原慎二以来、2人目の快挙となりました。それと同時に、桜井孝雄が届かなかった「金メダリストで世界王者」という夢を、村田諒太が達成した瞬間でもありました。

created by Rinker
小6で両親が離婚、反抗を重ねた少年時代。「おまえの拳には可能性があるんだ」と言ってくれた生涯の恩師・武元先生との出逢い。北京五輪出場の夢破れ、「海外では通用しない」と引退を決意した22歳の春。カムバック直後の恩師の死―。波瀾万丈の人生を歩み、決してメンタル的に強くなかった男が、「日本人には不可能」とまでいわれた種目で、なぜ金メダルを獲得できたのか。知られざる過去と、勝利の秘訣を初めて明かす(「BOOK」データベースより)
「柔道がJUDOになった日」1964年東京オリンピックでの柔道の敗北 ── 東京オリンピック物語(26)

You might be interested in …

当サイトではプロモーションが含まれています。また、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、これらの設定や使用に同意したことになります。詳細はプライバシーポリシーをご覧ください

X