燃え尽きるまで走り抜いた男…伝説のランナー「円谷幸吉」の運命 ── 東京オリンピック物語(24)

この記事では、日本の陸上競技界に大きな衝撃を与えた若きランナー、円谷幸吉選手の壮絶な生涯と、彼の自殺に至る背景について詳しく解説しています。円谷選手は、東京オリンピックでの活躍後、様々な困難に立ち向かいながらもメキシコ五輪への夢を抱き続けましたが、心身の疲労と苦悩によって彼の人生は暗転していきます。

文豪三島由紀夫の独自の見解や、遺書から窺える彼の深い思い、そして最期の別れや遺産についても触れられています。また、君原健二との友情や、円谷選手をモチーフにした楽曲「一人の道」についても紹介されています。福島県須賀川市のメモリアルホールや、バジル・ヒートリーとの交流についても触れられており、円谷幸吉選手の短いながらも輝かしい人生を改めて振り返ることができます。ぜひ、彼の人間ドラマに触れ、彼の偉大な足跡をたどってみてください。

挫折と復活、駆け抜けた陸上競技の道「依田郁子」の軌跡 ── 東京オリンピック物語(23)
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多くの方がご存じのように、円谷幸吉は1964年東京五輪のマラソンの銅メダリストです。当時テレビでレースを観戦した人なら、陸上競技場に入ってからの最後の一周で、英国のヒートリー選手に抜かれ、3位に終わった口惜しさを記憶しているでしょうし、次のメキシコ五輪を目前にした68年1月、謎の自死をとげたことも、世に大きな衝撃を与えました。その際に残した、家族や知人に宛てた心に沁みる遺書は、今なおその朴訥で誠実な人柄を偲ばせます。(「Books」出版書誌データベースより)

The Kokichi Tsuburaya Story

円谷幸吉 物語

きぼうチャンネル/YouTube

1964年の東京オリンピックでは、男子マラソン代表には寺沢徹(てらさわ とおる)、君原健(きみはら けんじ)、そして円谷幸吉(つぶらや こうきち)の3人が選ばれました。特に君原と円谷は同い年であり、競争が非常に厳しいものとなりました。

このマラソン競技は、当時の五輪チャンピオンである「はだしの王者」と称されるエチオピアのアベベ・ビキラの存在により、世界中の注目を集めました。それにもかかわらず、我々の代表選手たちは「6位に入り、さらに3位以内を目指す。そのために練習を積んできた」と公言し、日本全国の期待を背負いました。

23歳で代表として出場した君原は、当時を振り返りながら「戦後19年で奇跡的な復興を遂げた東京での五輪には、国民の期待が大きかったです。私自身、23歳の立場で日本代表という役割は非常に重圧でした。そのため『楽しめばいい』という気持ちと『日本のために頑張らなければ』という気持ちで揺れ動いていました。冷静さを欠いていたと思います。」と語っています。

また、君原は円谷の走りについても話しました。「円谷選手の走りはいつも全力でした。真っすぐ前を見据え、常に力を出し切る姿勢は、彼の人生そのものでした。真面目で実直な幸吉が大切にしていた言葉は「忍耐」でした。「マラソンは自分との戦いで、苦しみや弱い心にどれだけ耐えられるかが重要だ」とよく口にしていました。」

東京オリンピックのマラソンに出場した寺沢、君原、円谷の中で、銅メダルを手にしたのは、マラソン経験が最も浅かった円谷幸吉でした。

「円谷幸吉の足跡」栄光と挫折が織りなす昭和から戦後の物語

円谷幸吉の名は、栄光と悲劇というまったく異なる二つの面から記憶されています。彼の生涯は、長距離走者としての彼の挑戦と勝利、そして彼が直面した困難と挫折、それぞれが彼の名を伝説的なものにしました。

円谷幸吉の生涯は、昭和あるいは戦後という時代を象徴しているかもしれません。彼が直面した栄光と悲劇、成功と挫折、そしてそれらを乗り越えていく過程は、その時代の日本の社会と文化を反映しています。

彼の足跡は今も我々にさまざまな問いを投げかけています。彼が築き上げたレガシーは、現在のランナーたちにとっても強い影響を与えています。円谷幸吉の物語は、挑戦と成功、そしてそれに続く困難を乗り越えるための力強いメッセージを我々に送っています。

小中学校のマラソン大会などで上位入賞

円谷幸吉は、1940年5月13日、福島県岩瀬郡須賀川町に生まれました。彼は戦中、戦後の厳しい時代を、農家の大家族として過ごしました。家庭は厳格な父のもと、農作業を手伝う日々を送っていました。

幼少期から彼の運動能力は目立ち、特に長距離走において才能を示しました。須賀川一小の運動会での1分間競走では5位に入賞。また須賀川一中の校内マラソン大会でも3位という結果を残しました。これらの初期の成功が、彼のマラソンランナーとしての道を開く一歩となりました。

それはまだ彼が男子マラソンでオリンピックメダリストとなる遠い未来のことでしたが、少年時代の円谷にはすでにその片鱗が見られました。

少年時代のけがが生んだ独特な走り方

少年時代の円谷は、活発に友人と遊び、一方で家業の農作業も熱心に手伝っていました。また、飼っていたイヌの散歩も日課となっていました。

しかし、ある日、イヌの散歩中にイヌに引きずられ、転倒してしまった経験がありました。その際に腰を痛めてしまったのです。このけがが後の彼の生涯に影響を及ぼし、特に彼の走り方に大きな影響を与えました。

円谷選手の走りは独特で、やや腰をかがめながら走るスタイルは彼のトレードマークとなりました。このフォームは、初めて見る人々には奇妙に思えるかもしれませんが、それは彼が自身の身体と闘いながらも、自身の限界を超えて走り続けた証でした。

夢の始まり!陸上競技への情熱と挑戦

円谷幸吉の陸上競技への興味は、高校2年生の夏に始まりました。兄・喜久造と友人が陸上の練習をする姿を見て感銘を受け、彼もまた走り始めました。その後、円谷選手は陸上部に入部し、福島縦断駅伝の代走を務めた際に区間新記録を出すという快挙を成し遂げました。これが彼の本格的な陸上競技への道の始まりとなりました。

県大会、東北大会で健闘し、インターハイに出場できたのは、彼がひたすら生真面目に練習を積み重ねた結果だったと言えます。しかし、インターハイでは5000mで予選落ちに終わりました。この時点では、彼が何年もたたないうちに日本のトップランナーに上りつめ、さらにはオリンピックで活躍するとは、誰も予見していませんでした。

諦めきれない夢への道!自衛官募集と人生の転機

高校卒業後、円谷選手は陸上競技を継続することを望み、当時陸上で活躍していた常磐炭鉱に入社しました。しかし、その時期には炭鉱業界は不況に見舞われており、彼の夢は叶いませんでした。

失意の中で、彼の目に留まったのは道端の自衛官募集の看板でした。当時の自衛隊には陸上競技をする環境はなかったため、半ばあきらめもあったかもしれません。しかし、父・幸七は「若いもんは2、3年教育を受けてくるのもええんだ」と述べ、入隊を快諾しました。これが円谷選手の次なる人生の節目となりました。

仲間との絆が生んだ「陸上クラブ」自衛隊時代の躍進

高校卒業後、円谷選手は陸上自衛隊に入隊し、3カ月の訓練後、福島県郡山市の自衛隊に配属されました。しかし、当時の自衛隊には正式な陸上部がなく、走ることは主に訓練の一環として行われていました。

そんな中で円谷選手は斉藤章司三等陸曹と出会い、一緒に陸上クラブを立ち上げることに成功しました。厳しい訓練の後、彼らは毎日20㌔を走る能力を身につけました。また、彼らは地元のマラソン大会に積極的に参加し、次第に実績を積み上げていきました。その結果、「郡山自衛隊の円谷幸吉」という名前は徐々に人々の間で知られるようになりました。

円谷選手は毎日斉藤の個室をノックし、「練習していただけませんか」とお願いしました。その熱意に負け、斉藤も一緒に走ることを決意しました。夕方の練習だけでは飽き足らず、「朝練やりませんか」と提案するほど、円谷選手は走ることに全力を注いでいました。

斉藤も円谷選手とともに成長し、彼らはやがて青森-東京駅伝の県代表選手を目指すようになりました。この段階で、円谷選手はすでにマラソンランナーとしてのポテンシャルを見せ始めていたのです。

伝説の「円谷幸吉の15人抜き」

円谷選手は入隊した1959年から3年連続で青森-東京駅伝(青東駅伝)に出場し、1961年の大会では、3回の区間走りで合計15人を抜いて大健闘しました。この活躍は「円谷幸吉の15人抜き」として伝説となり、今も語り継がれています。

また、円谷選手は1960年に福島県総体で優勝し、熊本国体では5位に入りました。翌年には日本陸上選手権で6位、秋田国体で2位(君原選手は3位)という成績を残しました。このような記録により、円谷選手はわずか3年で県内トップランナーへと成長しました。

しかし、その激しい競争と練習の過度な負荷が彼の身体に大きな影響を及ぼし、腰椎のカリエス(骨の感染症)を発症しました。この病気はその後彼の生涯にわたり悩みの種となりました。

故障との闘いからの復活撃!自衛隊体育学校での成長と五輪への道

1962年、東京オリンピックに向けて前年に発足した自衛隊体育学校は、オリンピック候補選手の育成を目的とした特別課程の隊員を募集しました。

円谷選手は、持病の腰痛が原因で入学選考会を回避しましたが、彼のこれまでの実績は高く評価され、第一期生として入学することとなりました。円谷選手の実力を見込んで強く推薦したのは、ここからさらなる飛躍を二人三脚で支えることとなった畠野洋夫コーチでした。

しかし、体育学校でも練習環境は厳しいものでした。60年安保闘争などの影響を受けて、選抜選手全員がトラック造成に駆り出されるほどでした。それにも関わらず、円谷選手は、これまでにない専門的なトレーニングを受ける機会を手に入れることができました。

もちろん、それは簡単なことではありませんでした。腰痛が治らず、満足に走ることができない状態が続いていましたが、円谷選手と深い信頼関係で結ばれていた畠野コーチが根気よく指導し、同時に治療を続けた結果、レースへの復帰を果たすことができました。

その復帰の結果が、同年10月の日本選手権での5000メートルで日本歴代2位の記録であり、それがきっかけとなって日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれました

中央大学夜間部への進学とオリンピックへの道

1963年、円谷選手は「世界のスピードマラソンに対抗できる」という信念を胸に、織田幹雄東京五輪陸上総監督の紹介で箱根駅伝の名門、中央大学夜間部に入学しました。当時の中大陸上部の合宿所は東京都練馬区にあり、自衛隊体育学校がある埼玉県朝霞市に近い場所に位置していました。円谷選手は中央大学練馬グラウンドを主練習場とし、畠野コーチと共に、生涯の練習パートナーである宮路道雄と南三男と共に、全国トップレベルへと驚異的なペースで駆け上がりました。

円谷選手は「速くなるには練習しかない」という信念を持って、日々グラウンドに向かいました。しかし、彼は持病の腰痛を抱えながらの日々を送っていました。「オリンピックまでは自衛隊埼玉で走り、その後は中大の部員として関東学生陸上競技連盟に登録を移す」という、当事者間の口約束があったとされています。しかしながら、その後防衛庁から「円谷は自衛隊の選手である」という声が上がり、他大学からも抗議が出た結果、大問題に発展してしまい、円谷選手の箱根駅伝参加の道は閉ざされてしまいました。

中央大学

7カ月でのマラソンデビューがオリンピックへの切符

東京オリンピック候補選手記録会では、円谷選手が1万メートルで日本新記録を出し、マラソンでは第2位という素晴らしい成績を達成しました。これにより、マラソンを始めてわずか2回で彼のオリンピック出場が決まりました。

1年前に1万メートル代表に選ばれ、そのスピードに注目したのは、日本人として初の金メダリストであり、当時日本陸上競技連盟の強化本部長だった織田幹雄でした。織田の勧めにより、円谷選手が初めてマラソンに挑戦したのは1964年3月の中日マラソンで、これは東京オリンピックのわずか7カ月前のことでした。

彼の初マラソンの結果は2時間23分31秒で5位入賞という成績でした。そのわずか3週間後に行われた毎日マラソンでは、五輪最終選考会を兼ねて本番と同じコースで競われました。円谷選手は2時間18分20秒で優勝した君原選手に次ぐ2位となり、マラソン代表に選ばれました。

アベベに続く驚異の走り「東京オリンピンク マラソン」の感動

1964年10月21日、東京オリンピックマラソンが開催されました。68選手が参加し、15万人の慣習が埋め尽くした甲州街道を調布市で折り返す42.195キロのコースで争われました。

まず、優勝候補のアベベ・ビキラ選手が、2時間12分11秒2の世界最高タイムで独走のまま見事な優勝を果たしました。前回のローマ大会でははだしで走ったビキラ選手でしたが、東京ではシューズを履き、ゴール後も「まだ走れる」と余裕を見せていました。

そして、午後3時過ぎ。日の丸を胸につけ、ゼッケンナンバー77をつけた円谷幸吉選手が国立競技場ゲートを2番目に通過しました。約4分前に世界新記録でゴールしたトップ選手を上回る歓声が日本全国から上がりました。163センチの小さな体、苦痛に歪む顔。その姿に、陸上界の重鎮も誰もが涙を流しました。

レース前、誰一人として、アベベに続いて円谷選手が帰ってくるとは想像していませんでした。優勝候補に挙げられたのは君原健二選手や、前年にアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で走った寺沢徹選手で、円谷選手は3番目の評価に留まっていました。

勝利をかけた一騎討ち!円谷とベイジル・ヒートリーの最終盤の緊張と興奮

東京オリンピックマラソンのクライマックスは、何とも壮絶で、観客全員が緊張感に包まれました。70000人の観客が総立ちになるほどの熱気が国立競技場を包みました。しかしその中で、英国のベイジル・ヒートリー選手が円谷選手を追い詰める展開となりました。

「円谷来ました。円谷見えました。後方にヒートリー。頑張れ、円谷!」NHKのアナウンサー、北出清五郎の声は、観客の耳に届き、彼らの緊張をさらに高めました。円谷選手の後ろにはヒートリー選手がぴったりとついており、その勢いの差は歴然としていました。

特に、国立競技場に戻ってきて最後のトラック勝負の中、第2コーナーでの10メートルの差、そして運命が決まる第3コーナーに入る頃には、「危ないぞ」「近づいたぞ」そんな絶叫や悲鳴、興奮や怒号が、競技場を包んでしました。

観客の感情が一変する瞬間…波乱の結末

全ての瞬間が頂点に達していました。ラジオの実況アナウンサーが「円谷がんばれ!円谷がんばれ!」と熱く叫び、7万人もの観衆から「あーっ」という声が湧き上がりました

この日、アベベ・ビキラに世界記録を更新されるまで、その記録を保持していた英国のベイジル・ヒートリー選手が、ゴールまで後200メートルの地点でついに円谷選手を抜き去りました。大観衆の喝采が一瞬で悲鳴に変わったのです。

後ろを振り返らず、全力で駆け抜ける!

しかし、円谷選手には何もかもを投げ捨てて逃げ出す余力はなく、逆に父親からの教えを胸に、一度も後ろを振り返ることなく、最後まで走り続けました。そして、見事な3着でゴールに辿り着きました。ヒートリー選手との差はわずか3秒だったとされています。最後の力を振り絞って走りきった円谷選手に対する、観客からの喝采と感動の拍手はしばらく鳴り止むことがありませんでした。

円谷選手の父は、彼がまだ幼い頃から「みっともないから走り出したら振り返るな」という教えを彼に刻み込んでいました。その教えは厳格な軍隊教育を受けた父親の言葉だったのです。「勝っても負けても一生懸命やれ」というのが、父親からのメッセージでした。

円谷選手は、その厳しい教えを胸に、全力で走り続けました。そして、もしも彼がその教えを破って後ろを振り返っていたら、違った展開があったかもしれないと、後年ヒートリー選手は語っています。

しかし、円谷選手が「男は後ろを振り向くな」という父の教えを守り続けたおかげで、レースには駆け引きが生まれることはありませんでした。それはあくまで真剣勝負の結果だったのです。

二つの競技での偉業

円谷幸吉選手の東京オリンピックでの輝かしい成績は、マラソンだけにとどまりませんでした。彼は実は1万メートル走でも6位入賞を果たしているのです。実際、円谷選手のメイン種目は1万メートルであり、陸上競技の初日にその種目で6位入賞を達成しました。

そして、その一週間後、円谷選手はマラソンにも出場し、3位という快挙を成し遂げたのです。このような二つの競技での高成績は、当時苦境に立たされていた日本の陸上界に一筋の光を投げかけるものであり、円谷選手の多才さと努力を象徴しています。

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須賀川町で迎えられた「円谷幸吉」の祝賀パレード

1964年11月、円谷幸吉選手は須賀川町へと帰郷しました。帰郷は地元住民による温かな祝賀パレードとなり、多くの笑顔で彼を出迎えました。円谷選手も、ふるさとの温もりに包まれ、「どの場所よりも穏やかな笑顔」を見せていたと伝えられています。

その後、地元で開催された講演会には多くの人々が集まりました。その中には、円谷選手を目の当たりにしたいと思っていた須賀川高校のOBも含まれていました。彼は「郷土の誇りである円谷先輩をひと目見ようと、ものすごい人が集まっていた」と振り返っています。講演会では、円谷選手の実直でまじめな性格が垣間見え、聞いていた人々は彼に親しみを感じることができたと言います。

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東京オリンピックで日の丸を!日本陸上界の悲願は、円谷幸吉という不世出のランナーの出現で叶えられた。だが、それから4年後、円谷は自らの手で人生に幕を下ろしてしまう。自殺の原因は何か?自衛隊という巨大組織とスポーツ選手としてのアイデンティティの軋轢に悩む円谷、そんな円谷を陰で支える女性、そして、円谷の人間形成に大きな影響を与えた厳父の密かな苦しみ。30年後の新証言を加えて、橋本克彦が真相に迫る。解説・君原健二(メキシコオリンピック・銀メダリスト)。(「BOOK」データベースより)

The Tragic Tale Of Kokichi Tsuburaya

「もう……走れません」英雄の悲痛な最後

カルティベータ cultivator/YouTube

東京オリンピックで日本陸上競技の入賞者は、マラソンで3位となった円谷幸吉選手と、依田郁子選手の2人だけでした。しかし、彼らの後年は悲劇的な結末を迎えました。

昭和43年(1968年)1月9日、円谷幸吉選手は自らの命を絶ちました。「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」という遺書を残し、東京都練馬区の自衛隊体育学校宿舎で自殺しました。円谷選手の突然の死は、日本全国に衝撃を与えました。

そして、昭和58年(1983年)10月14日には、もう1人の東京オリンピック入賞者である依田郁子選手が、茨城県の自宅で自らの命を絶ちました。

円谷幸吉選手の情熱と責任感

東京オリンピックのマラソンが終わった直後、控え室に姿を現した円谷幸吉選手は無言で、ゼッケン「77」を着けたまま簡易ベッドで横たわっていました。その表情から、彼が感じていた深い責任感と失望が見て取れました。

円谷選手は非常に真面目な人物でした。彼は自衛官としての職務に対して強い責任感を持ち、その思いは競技者としての自分にも引き継がれていたのです。東京オリンピックでは、国立競技場で大勢の国民の目の前で抜かれてしまったことに、彼は「国民に申し訳ないことをした」と感じていました。

しかし、その失敗は彼の情熱を一層燃え上がらせる結果となりました。「次のメキシコ五輪でもう一度メダルを取るんだ。それは国民との約束だ」と誓い、東京オリンピックを終えてリフレッシュする時間もなく、すぐに次の目標に向けて走り出していたのです。

結婚破談と暗転する円谷幸吉の人生

1966年の初夏、これまで二人三脚で歩んできた円谷選手と畠野コーチの人生に影が落ちました。きっかけは、円谷選手と自衛隊職員の女性との婚約にまつわるトラブルでした。

当時、畠野コーチの妻、由美子が夫から聞いた話によると、円谷選手と女性の両家が顔を合わせた場で、体育学校長が「メキシコ・オリンピックに出る円谷を支えることができるんですか?」と女性に問い詰め、自らが「私は反対です」と口にし、縁談を壊そうとしたのだという。オリンピックで金メダルを取るためには、恋愛に心を奪われる余裕はない。彼には訓練に全力を尽くすべきだというのがその理由だったのです。

しかし、この上官の行為は、女性の母親の反発を強め、結果的に縁談は破談となってしまいました。「あれさえなければ…。式場も、温泉への新婚旅行も決まり、すべてが整っていたのに…」。この悔しさを語るのは、円谷選手の四男、喜久造です。

事実、君原敏春によれば、東京五輪前年の海外遠征で円谷選手がダイヤモンドの指輪を買う姿を見ていたといいます。それほど彼はこの結婚を真剣に考えていたのだと思います。しかし、その夢は突然打ち砕かれ、これが円谷の人生を一変させることとなりました。

愛と夢を奪われた円谷幸吉選手の孤独

円谷幸吉選手の結婚が破談になった後、結婚を勧めていた畠野コーチは北海道へと左遷され、円谷選手は競技に専念し、次のメキシコオリンピックを目指すことが求められました。

畠野のような信頼関係を築き、支え合っていた相手がいなくなり、円谷選手は孤独に陥りました。「話し相手がいない。寂しかったんです。孤独だったんです。それが致命傷でした。」と語るのは、彼の身近な人物です。

また、円谷選手はその頃、体調も思わしくなかった。力が落ち、アキレス腱と腰を痛めていました。それでも上官からは競技に専念するように「やれ」と命じられました。「機械ならできるけど、生身の人間でしょ。酷な話ですよ。」

しかし、彼が結婚を進めていた最中にも、自衛隊の上官からは「メキシコオリンピックという大事な試合の前に結婚する奴がいるか」と冷たい言葉を浴びせられ、結局、結婚は破談になり、結婚に賛成していたコーチも異動になってしまうという、悲劇的な状況が続きました。

円谷幸吉選手の過酷な練習と体調不良

円谷幸吉選手は、コーチ不在の中、福岡・久留米の幹部候補生学校で半年間の教育を受けていました。しかし、その間に練習不足が生じ、それをカバーしようとするあまり、過度の練習に陥ってしまいました。そのような状況を抑えるべき畠野コーチはもはやいませんでした。

円谷選手は5歳の時、犬の散歩中に転んで腰を打ち、腰骨がずれる重傷を負っていました。この持病が東京オリンピック前から悲鳴を上げており、ジョギングがやっとの状態で、鍼・灸やマッサージを施していたとされています。

オリンピック後も、表彰ラッシュという過密スケジュールの中、駅伝を3区間も走るなどし、次第に体力が削られていきました。円谷選手は、東京オリンピック以降、体調が上がらず、自衛隊員という生真面目な性格から、余計に練習を重ねるうち、完全にオーバーワークとなっていたのです。

そして最悪の事態が起こります。その結果として、円谷選手は左アキレス腱を断裂してしまいました。これにより彼の競技生活は一層厳しさを増していきました。

円谷幸吉選手の病状とメキシコ五輪への決意

今度は、アキレス腱の治療が終わった後、遅れを取り戻そうとオーバーワークを重ねた結果、腰痛に悩まされるようになりました。診断の結果、それは椎間板ヘルニアだったのです。円谷選手は3ヶ月間も入院生活を送りながら、その後再びトレーニングを開始しましたが、彼の体が完全に元に戻ることはありませんでした。

「メキシコで金メダルを」という目標は遠のいてしまいます。円谷選手が自隊校に出した手紙には、「1カ月は天井を向いたままの生活。立つことさえ困難」と書かれていました。この時点では、円谷選手の眼前にメキシコの空は描かれていませんでした。

しかし、それでも正月明け、約3年前の東京オリンピックの時に誓った「国民との約束」が円谷選手の心から離れることはありませんでした。その思いが彼を前へと進め続けさせたのです。

度重なる負の連鎖と責任感

このように、円谷幸吉選手は、東京オリンピックでの注目を浴びた後、多くの困難に直面しました。新しく任命された自衛隊体育学校の校長の横暴な態度、それに関連して畠野コーチの解任、そして一方的な婚約破棄により精神的に打撃を受けるばかりか、椎間板ヘルニアやアキレス腱断裂などの身体的な問題も重なりました。

それらの困難により彼の体調は万全とは言えず、さらに手術を受けなければならない状況となりました。このような状況の中、「東京オリンピックで彗星のごとく現れた円谷は、いま消えていこうとしている」との一部報道が出るという厳しい状況にも直面しました。

彼が最も気に病んでいたのは、「国民との約束」と自身で呼んでいたメキシコオリンピックでの成功への約束でした。その期待の重みとマラソン競技のレベルが国際的に上がりつつある中で、円谷選手自身の成績も振るわなかったことから、この呪縛が彼をさらに追い詰めていったのです。

1968年メキシコオリンピックの年!!正月に実家に帰省

1968年、メキシコオリンピックの年が明け、円谷幸吉は退院後、福島県須賀川市の実家に帰省しました。父親、母親、兄弟、親戚たちによって暖かく迎えられました。この時点で彼が自身の死を意識していたのかははっきりしませんが、彼が帰省中に過去の自分と見慣れた顔ぶれを思い出していたことは確かです。そして、その帰省中に彼は元婚約者が結婚したという報せを聞くこととなります。

親族が集まった宴席で、円谷は一人で暗闇の部屋に座っていました。円谷の姉である岩谷富美子は、この様子をはっきりと覚えています。彼女の勧めで宴席に戻った円谷は、歌を歌い始めました。その歌詞は、自らを奮い立たせるかのような勇壮さで、それは三橋美智也の「武田節」でした。

彼がどこへ向かっているのかは明らかではありませんでしたが、富美子を含む親族たちはその時、円谷に特別な異変が起こっているとは感じていなかったのです。

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「三日とろろ」

円谷幸吉は正月の締めくくりとなる山芋ご飯「三日とろろ」を食べた後、1月4日に東京に戻りました。そして1月7日の朝、自衛隊体育学校の練習に姿を現した円谷は生気が失われていました。

「三日とろろ」は、円谷の遺書にも記されている言葉で、福島をはじめとする東北地方の一部などで、新年の3日目にとろろご飯を食べる風習を指します。これは「長く伸びるから縁起が良い」とされ、また「松の内にとろろを食べると風邪をひかない」という言い伝えもあります。これは円谷の生まれ育った風習を表しており、彼の故郷への思いを伝えています。

1968年1月9日「円谷幸吉 死去」

そして、1968年1月9日、自衛隊体育学校幹部宿舎の自室で。遺書と共に死亡しているのが発見されました。

円谷幸吉の死は自殺であり、死因は自室で見つかった剃刀を使用して右頚動脈を切ったことによる大量出血とされました。死亡時刻は1月8日と推定されています。円谷幸吉はたった27歳という若さでこの世を去りました。彼の突然の死は、日本中に衝撃を与え、国民の悲しみを引き起こしました。

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遺書から読み取れる深い思いと日本全国への衝撃

円谷幸吉の自殺は国内外で衝撃的なニュースとなりましたが、特に彼が遺した遺書が話題となりました。円谷の心情を伝える遺書は、一般の便箋に書かれ、テープで机に貼り付けられていました。その文面には感謝と謝罪の言葉が並び、彼の孤独と苦悩が深く表れていました。

遺書は2通の残されていました。1通は体育学校の関係者へ宛てたもので、「何もなし得ませんでした」という言葉で彼の失望感と謝罪の意図が示されています。そしてもう1通は家族への手紙でした。

家族への遺書は次のような内容でした。「父上様、母上様、三日とろろ美味しく頂きました。干し柿、もちも美味しく頂きました。敏雄兄、姉上様、お寿司美味しく頂きました。勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しく頂きました。巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しく頂きました。喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しく頂きました。またいつも洗濯ありがとうございました。幸造兄、姉上様、往復車に便乗させていただきありがとうございました。モンゴイカ美味しく頂きました。……父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まることなく、ご苦労、ご心配をおかけし申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしたいでした」。

この遺書で円谷が家族の名前を一つ一つ挙げながら、美味しく食べさせてもらった食べ物について感謝の気持ちを述べている様子や、最後に「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と述べている点などは、彼が抱えていた疲労感と絶望感を強く表現しています。これらの言葉は日本全国に大きな衝撃を与え、多くの人々に深い悲しみをもたらしました。

遺書の文章は後に様々な場面で引用される

円谷幸吉の遺書から始まる一文は、その悲しみと美しさから、多くのメディアや作品で引用されました。それは円谷の深い感謝の念と心の疲労を強く象徴しています。

たとえば、高倉健が主演した映画『駅 STATION』(1981年公開)においては、円谷の遺書が重要な役割を果たしています。映画の主人公は五輪のピストル競技に参加する警察官という設定で、円谷の自殺報道に大きな衝撃を受けます。その心の深い傷を癒すためにランニングで汗を流す主人公の背景に、遺書の朗読があるのです。このシーンは、円谷の遺した深いメッセージがどのように広範に影響を与えたかを示しています。

AzjaFilm/YouTube
当時、文豪たちは遺書を絶賛

円谷幸吉の遺書は、その素朴さと深い悲しみの表現で、川端康成や三島由紀夫などの文豪たちから絶賛を受けました。彼らもまた、円谷と同じく自殺を選びました。

川端康成「千万言も尽くせぬ哀切である」

川端康成は、円谷の遺書について「相手ごと食べものごとに繰りかへされる『美味しゆうございました』といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐやる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」「千万言も尽くせぬ哀切である」と評価しました。彼は、円谷の遺書に見られる素朴で真摯な感謝の表現に深い感動を覚えたのです

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三島由紀夫の見解

多くの解釈がなされた円谷幸吉の自殺の原因について、文豪三島由紀夫は独自の見解を述べてます。彼は1968年1月13日付けの産経新聞夕刊への寄稿の中で、円谷の自殺を「崇高な死」と評価しました。三島は、「円谷選手の死のような崇高な死を、ノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上りの醜さは許しがたい」と厳しく批判しました。

この中で、三島は円谷の自殺を「自尊心による自殺」と位置付け、他の一般的な解釈とは異なる視点を提示しました。この発言は、その後の円谷についての議論に新たな視点を提供し、自殺の動機に対する理解を深めるきっかけとなりました。

中日映画社/YouTube

数千の一般市民に見送られた最後の別れ

円谷幸吉の遺体は、1964年1月10日に友人である斎藤章部が郡山駐屯地から朝霞駐屯地に到着した際に発見されました。その後、1月13日の葬儀までに火葬されたと思われます。葬儀は正午から、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東京都新宿区)で行われました。自衛隊関係者や、体育協会と陸上連盟などのスポーツ関係者約千人が参列し、円谷のために追福を祈りました。

その翌日、1月14日の正午過ぎに、円谷の遺骨は須賀川駅に到着しました。遺骨は、父親の幸七にしっかりと抱かれ、兄弟が涙ながらに持つ自衛隊姿の遺影、位牌、そして東京オリンピックで三位に入賞した栄光の銅メダルとともに帰郷しました。その様子は、「都山自衛隊清水英範一等陸尉の指揮する二十七人の音楽隊員が、悲しみの葬送曲をかなでる中で、自衛隊員や地元高校生、一般市民五千人が出迎えました。」と報じられました。

兄の敏雄は、「幸吉がただいま帰ってきました。みなさまのご期待に添えず本当に申し訳ありません」と声をつまらせながら挨拶しました。その後、鈴木貞夫後援会長(須賀川市長)、服部三寿市議会議長などを先頭に、沿道を埋めた市民に見送られながら、円谷幸吉の遺骨は生家に戻りました。

福テレ公式チャンネル/YouTube

須賀川市と円谷幸吉の遺産

現在、円谷幸吉は福島県須賀川市内の十念寺に眠っています。市内のスポーツ施設、須賀川アリーナ内には、「円谷幸吉メモリアルホール」が設けられています。ここには、遺書やオリンピックで獲得した銅メダル、競技用のシューズなど、円谷幸吉の遺品が展示されています。

一時期は、円谷が遠征帰りの香港で購入したダイヤモンドの指輪も展示されていました。これは婚約者のために購入されたものでしたが、結局、彼女の左手を飾ることなく、メモリアルホールで公開されていました。

須賀川市は、円谷幸吉の遺志を受け継ぎ、彼の業績を讃えるために、毎年秋に「円谷幸吉メモリアルマラソン」を開催しています。

君原健二と円谷幸吉の友情とメキシコ五輪での感動の瞬間

昭和43年、円谷幸吉が「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という遺書を残して亡くなった時、君原健二とそのコーチの高橋進が連名で弔電を送りました。「ツブラヤクン、シズカニネムレ、キミノイシヲツギ、メキシコデ、ヒノマルヲアゲルコトヲチカウ」という文面は高橋が考えたもので、君原には相談もなかったといいます。

まだオリンピック代表に選ばれていなかった君原は、その気持ちにはなれなかったと言います。しかし、実際にメキシコ五輪のマラソンのスタートラインに立った時、「このスタートに本当に立ちたかったのは、円谷だ。今日は、円谷のために走ろう」と思ったそうです。

君原と円谷は高校時代から同学年のライバルだったのです。メキシコ五輪に出場した君原は、「円谷の分も」と意気込み、最終盤まで2位につけていました。しかし、ゴール直前で後続に迫られ、ふと後ろを振り返ったそうです。普段は後ろを向かない君原だったが、この時だけは3位を走っていたニュージーランドの選手が猛烈な追い上げを見せており、それを確認すると新たなパワーが湧き上がり、2位を死守し銀メダルを獲得しました。

「なぜあの時、普段はしない『振り返り』をしたのか、実は今でもわかりません。きっと、天国からの円谷のメッセージだったと思います」と君原は語っています。

君原は毎年須賀川市に墓参りをし、1983年から始まった「円谷幸吉メモリアルマラソン」にも参加しています。毎年のように須賀川市のマラソン大会に参加してきた君原にとって、須賀川市は「第二の故郷」となっているのです。

NPO法人科学映像館/YouTube

バジル・ヒートリーと円谷幸吉の遺族との交流

東京五輪後、英国のマラソンランナーであるバジル・ヒートリーは何度も日本を訪れました。2014年には、円谷幸吉の故郷である福島県須賀川市を訪れ、円谷の兄、喜久造とともに円谷の墓に花と線香を供えました。また、円谷が好きだったまんじゅうを食べ、円谷との思い出を振り返りました。

ヒートリーは、東京五輪での表彰台で円谷と話さなかったことを後悔し、「ゆっくり話す時間があれば」「競り合った2人のランナーとして、いろいろ話してみたかった」と語っています。彼は円谷とのデッドヒートを繰り広げた仲間であり、円谷の遺族と親交を結ぶようになりました。そして、2020年の東京オリンピックを楽しみにしていたそうです。

しかし、残念ながらヒートリーはその前の夏に亡くなりました。生前の取材で彼は、「86歳になるけど、2020年の東京五輪に行ってみたいね」と語っていたといいます。「彼とはもっと話したかった」と悔いていたヒートリーは、東京五輪での銀メダルと円谷の家族からの手紙を「人生の宝物」として大切に保管していたと伝えられています。

Team GB/YouTube

円谷 幸吉をモチーフにした楽曲「一人の道」

フォークデュオ、ピンク・ピクルスが発表した『一人の道』は、円谷選手の死を題材にした楽曲で、日本中が彼を忘れていない証拠となりました。楽曲の冒頭で東京五輪のマラソン実況録音を使用し、円谷選手とイギリスのベイジル・ヒートリー選手との熾烈な2位争いを描いたこの楽曲は、全国から大きな反響を呼びました。

ピンク・ピクルスは、同志社女子大学に在学中だった茶木みやこと小林京子によって1970年に結成されました。もともと1年限定の活動を予定していましたが、1971年に発表した「僕にさわらせておくれ」が大阪MBSラジオで紹介され、リクエストが殺到したことがきっかけでメジャーデビューを果たしました。その後、1972年に「天使が恋を覚えたら」を発表した後、解散しました。

ピンク・ピクルスが作成したアルバムには、「一人の道」が収録されています。この曲は当初、アルバムの曲が足りなかったために入れられました。その後、シングルカットされた際に、ディレクターが実況録音を楽曲の冒頭に挿入しました。これが話題となり、フォークソングのブームが起こる一因となりました。

「一人の道」は、円谷の遺書を題材にした曲で、曲作りの経験がなかった茶木が、高校3年時のフォーク仲間、今江真三郎から渡された詩に曲をつけました。茶木は、「知っているコードを並べて、なんとか作った」と回顧しています。

風の風来坊/YouTube
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