東京オリンピック物語(23)── 80mハードル専門の女子オリンピアン「依田郁子」

東京オリンピック物語(23)── 80mハードル専門の女子オリンピアン「依田郁子」

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Ikuko Yoda

依田郁子

陸上Maniacs 【TFM】/YouTube

依田郁子(昭和 13 年~昭和 58 年・長野県)は日本の陸上競技選手で、元女子 80mハードル日本記録保持者、1964 年 第 18 回東京オリンピックの同種目で 5 位入賞。また、依田の指導者・吉岡隆徳(明治 42 年~昭和 59 年・島根県)は日 本の陸上短距離選手。〈暁の超特急〉と称せられ世界の強豪と渡り合い、第 10 回ロサンゼルスオリンピック 100mの決勝に進出した。これは、歴代の日本人選手で唯一の快挙である。

北の文脈ニュース 第 82 号/弘前市

独特のルーティン「依田劇場」

スタート前に、自分のレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱ぐとでんぐり返し、逆立ち。こめかみと首筋にサロメチール軟膏をベッタリと塗り付け、レモンをガブリと齧ってレーン表示台に置く…こうした一連の“儀式”は「依田劇場」と呼ばれ、当時では珍しい個性的なパフォーマンスでした。

【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会/豊大先生流・陸上競技のミカタ.2016

頭にはトレードマークの「ハチマキ」。レース前に宙返りするなど、独特の振る舞いでも知られていた。

86歳長老記者が見た1964年東京五輪の記憶/JIJI.COM

決勝のときフライングをした黒人選手を怒鳴りつけたという話も残っています。

こきょうの空 東京オリンピック/依田逸夫の読むろぐ

インターハイの89メートルハードルで連続優勝!

依田郁子は80メートルハードルを専門とした、稀有なオリンピアンだった。

【陸上競技】自殺した名ハードラー 依田郁子さんが試合前に行った儀式/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

依田選手は昭和13年現丸子町生まれ。インターハイにて2、3年ともに優勝。その後リッカーミシンに所属し「暁の超特急」吉岡隆徳監督のもとたびたび日本新記録を更新しオリンピックへと出場した。

上田ゆかりの偉人/長野県上田染谷丘高等学校 関東同窓会.2021

リッカーミシン社に入社の陸上競技部に所属

NOSUKAPI/YouTube

 最初のオリンピックが東京で開催されたのは1964年であったが、このときリッカーミシンも尋常ならざる貢献をこのオリンピックの開催に向けて果たしている。

不易流行と武士道――君たちを路頭に迷わせない/中見利男事務所

 かつて150名の選手を抱え、東京オリンピックには10名もの選手を送り込み、実業団選手権総合7連覇を成し遂げるなど、戦後の日本陸上界を牽引したリッカー陸上競技部。

夢、未だ盡きず・平木信二と吉岡隆徳/陸上競技のブックガイド
創業社長「平木信二」の夢

 その輝かしい歴史は、「スポーツによって日本を再興したい」と考えた、リッカーミシン創業社長の平木信二の壮大な夢から始まった。

夢、未だ盡きず・平木信二と吉岡隆徳/陸上競技のブックガイド

 一代でリッカーミシンを日本有数のミシン製造メーカーに押し上げた創業者・平木信二は、一度不渡りを出し、倒産寸前まで追い込まれた伝説の人物で梶山季之氏が「小説現代」(講談社)に『小説平木信二』として発表。また『男たちの大和』で有名なノンフィクション作家の辺見じゅん氏が『夢、未だ盡きず』(文藝春秋)というタイトルでその人生を描き上げるほど魅力と異彩を放った企業家である。

不易流行と武士道――君たちを路頭に迷わせない/中見利男事務所
陸上部の成長

 通常の仕事を終えてから、工場周辺を練習場所とし、選手集めにも奔走した草創期。たった一人の長距離ランナーでスタートを切ったチームではあったが、拡大路線を走る平木社長の号令の下で、会社を牽引するかのように陸上部は急成長を遂げていく。

夢、未だ盡きず・平木信二と吉岡隆徳/陸上競技のブックガイド

 1948年に19万5000円の資本金で発足したリッカーミシンは、一度倒産するも奇跡的に復活。1963年には30億円の資本を有する一大企業となり、支店も500余、従業員数も約1万6000人を擁するまでになった。

不易流行と武士道――君たちを路頭に迷わせない/中見利男事務所

陸上部コーチ「吉岡隆徳」

 1909年生まれ。32年ロサンゼルス五輪100メートルで6位に入った。後半失速しがちな吉岡だったが、決勝では海外の選手に遅れることはなかったという。35年に、手動時計ながら10秒3の世界タイ記録をマークした。

吉岡隆徳(よしおか・たかよし)/JIJI.COM

 幼少時から足が抜群に速く、「カラスが鳴かない日があっても、吉岡の走らない日はない」と言われるほど努力を重ねたという。

五輪ファイナリスト、「暁の超特急」こと吉岡隆徳さんの素顔とは/毎日新聞.2021

35年には10秒3の世界タイ記録(当時)をマークした。ロス五輪の100メートルで金メダルに輝き、「深夜の超特急」と呼ばれたエディ・トーラン(米国)にちなんで「暁の超特急」の異名で親しまれるようになった。

五輪ファイナリスト、「暁の超特急」こと吉岡隆徳さんの素顔とは/毎日新聞.2021

1940年に決まっていた東京オリンピックが返上されて目標を失った吉岡は、それでも39年に日本選手権6回目の100m優勝(当時最多記録)を果たすまで、いや、その後もさらにずっと、走り続けました。

飯島秀雄/豊大先生流・陸上競技のミカタ
リッカーミシン陸上部のコーチに!

終戦後は、広島県での国体誘致など体育行政に関わる期間を経て、実業団の強豪リッカーミシンにコーチとして招かれ、飯島秀雄(所属は早稲田大学)、依田郁子という男女の逸材を指導することになりました。

<連載>100m競走を語ろう ⑰~“暁の超特急”吉岡隆徳/豊大先生流・陸上競技のミカタ.2016

「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」と情熱を注ぐ吉岡にとって、飯島と女子の依田郁子は秘蔵っ子とも呼べる存在となり、二人はともに64年東京オリンピックの短距離最大のホープとして注目を浴びることとなるのです。

飯島秀雄/豊大先生流・陸上競技のミカタ.2017

「私の夢は、おまえをオリンピックに出場させることだ。それを実現させたいんなら、恋愛禁止だ。私とおまえは親子関係だと思え。恋人はスパイクシューズだ……」

【陸上競技】自殺した名ハードラー 依田郁子さんが試合前に行った儀式/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

 その言葉に依田はうなずき、マンツーマンで指導する吉岡に従ってきたのだ。

【陸上競技】自殺した名ハードラー 依田郁子さんが試合前に行った儀式/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

1960年ローマ・オリンピックで代表になれず自殺未遂

名スプリンターの指導を受けた依田選手は、メキメキと実力を上げ、日本を代表するアスリートに成長した。しかし、21歳で迎えたオリンピック・ローマ大会の予選会で、代表選手から漏れてしまう。栄光への入り口に立てなかった依田選手は、ショッキングな事件を引き起こす。

ベルリンから続く夢《2020に伝えたい1964》/READING LIFE prezent by 天狼院書店.2019

何と、睡眠薬のオーバードーズ(摂取過剰)による自殺未遂だった。しかも、自殺を図った日が、日本のオリンピック選手団が日本へ帰国した当日だった。

ベルリンから続く夢《2020に伝えたい1964》/READING LIFE prezent by 天狼院書店.2019
吉岡コーチの元で復活

その後、吉岡隆徳監督の熱心な指導で、再び第一線に復帰すると東京オリンピックの、有力メダル候補といわれるまでに復活した。

ベルリンから続く夢《2020に伝えたい1964》/READING LIFE prezent by 天狼院書店.2019

1963年東京国際スポーツ大会で優勝!!

 そんな依田が、世界にその名を馳せたのは、東京オリンピック開催1年前の63年10月。34カ国が参加した国立競技場でのプレオリンピック(東京国際スポーツ大会)のときだった。80メートルハードル予選で、その年の最高記録10秒6をマーク。決勝でも世界の強豪選手を寄せ付けず、難なく優勝を決めたのだ。

【陸上競技】自殺した名ハードラー 依田郁子さんが試合前に行った儀式/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

東京オリンピック

依田は予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に0.1秒と迫る10秒6の持ちタイムからもメダルが期待され、スタートよく最初のハードルをトップで越えたところで場内の興奮は上がりましたが、結局5位となりました。

【短期集中連載】オリンピック回想 ①~1964年東京大会/豊大先生流・陸上競技のミカタ.2016

外国勢に比べて体が小さいため、後半になると追い込まれる。スタートでいかに速く飛び出すかに勝負をかけて練習を重ねたが、メダルにはつながらなかった。

1964東京五輪の問題集/時事ドットコム
決勝の舞台に立った、日本人女子陸上で唯一選手!

全選手がスタート前に並んだときに驚いたことは依田郁子選手の素晴らしく発達した下半身であった。それは、隣コースの外国人選手にも負けない迫力ある下半身であった。結果は5位であったが、日本女子陸上選手が短距離競技で世界大会で決勝まで進んだことは未だに依田郁子選手一人である。その後、大和中の男子は運動会でサロメチールを塗ることが流行った。遅い生徒も塗っていた

生涯学習情報紙/大和村教育委員会事務局・中央公民館 第321号.2020

引退後は大学で指導

依田郁子選手は、オリンピック東京大会後、1965年に結婚された。その後、教育委員を務めたり、大学(東京女子体育大学)で後進の指導に当たったりしていた。

ベルリンから続く夢《2020に伝えたい1964》/READING LIFE prezent by 天狼院書店.2019

右膝の手術を受ける……が

既に第一線を退いているにもかかわらず、1983年になって痛めていた右膝の手術を受けている。

ベルリンから続く夢《2020に伝えたい1964》/READING LIFE prezent by 天狼院書店.2019

膝の膝内症の手術を受けるが手術中に麻酔のショックが起きて手術は中断し、結局手術は完了しなかった。

自殺したアスリート・スポーツ選手有名人の真相【三輪田勝利、伊良部秀輝、大下弘ほか】/心霊スポットや事故物件の怖い話まとめ

1968年1月9日「依田郁子 死去」

東京オリンピックから19年後の1983年、自宅にて自ら命を絶った。

 「依田郁子」という当時のスーパースターをご存知ですか?/織田裕二ふうに云えば 「きたぁ~!」.2009

〈依田(旧姓)郁子さん自殺 東京五輪で大活躍 ヒザ関節の痛み続き〉

【陸上競技】自殺した名ハードラー 依田郁子さんが試合前に行った儀式/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

こんな見出しで全国紙が5段抜き、写真入りで報じたのは、1983年10月15日だった。前日の14日夕方、茨城県つくば市の自宅8畳間の鴨居にネクタイを巻き付け、首つり自殺を図ったのだ。享年45。

【陸上競技】自殺した名ハードラー 依田郁子さんが試合前に行った儀式/日刊ゲンダイDIGITAL.2020
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1964年の東京オリンピック。戦後日本の一大イベントに臨んだ選手たちは、国を背負い輝ける星となった。しかし、参加した日本選手357人の中には、その後、4人の行方不明者がいた…。選手たちは人生と格闘し何を得たか。選手たちの生涯を追った迫真のルポルタージュ。(「BOOK」データベースより)

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