挫折と復活、駆け抜けた陸上競技の道「依田郁子」の軌跡 ── 東京オリンピック物語(23)

今回は、日本の陸上競技界を彩ったアスリートである依田郁子選手の人生と競技歴を紹介します。彼女の独特なパフォーマンスやフェアプレー精神、そしてリッカーミシン陸上競技部との関わりも取り上げます。また、彼女の東京オリンピックでの挑戦と感銘を与えたプレオリンピックの優勝にも触れます。

しかし、成功と困難の繰り返しであった依田選手の人生は、膝の痛みに悩まされる中、早すぎる結末を迎えることとなりました。この記事を通じて、彼女の偉大なる姿と日本スポーツ界への貢献を称え、心に深い感銘を与える物語をお伝えします。

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1964年の東京オリンピック。戦後日本の一大イベントに臨んだ選手たちは、国を背負い輝ける星となった。しかし、参加した日本選手357人の中には、その後、4人の行方不明者がいた…。選手たちは人生と格闘し何を得たか。選手たちの生涯を追った迫真のルポルタージュ。(「BOOK」データベースより)

Ikuko Yoda

「依田郁子」挫折と復活、駆け抜けた陸上競技の道

陸上Maniacs 【TFM】/YouTube

1964年、日本は夏のオリンピックを東京で開催し、その輝かしい歴史のページを彩る数多くのアスリートが競演した。今回注目するのは、その一人で、80mハードル専門の女子オリンピアン、「依田郁子」選手である。

独特のルーティン「依田劇場」

依田英男は、競泳におけるスタート直前の独特な儀式やパフォーマンスで有名です。彼女がレーンを竹ぼうきで掃き清め、ジャージを脱いで逆立ちをする、そしてこめかみと首筋にサロメチール軟膏を塗り付け、レモンを噛んでレーン表示台に置いたり、レース前に宙返りをするなど、他の選手とは一線を画した行動を取っていました。

この独特なパフォーマンスは「依田劇場」と称され、観客や他の選手から注目を浴びていました。さらに、彼女はフェアプレー精神を重んじる選手で、決勝のときフライングをした黒人選手を怒鳴りつけたというエピソードも残っています。

インターハイの80メートルハードルで連続優勝!

依田郁子は昭和13年、長野県小県郡丸子町(現・上田市)に生まれ、やがて彼女は80mハードル専門の稀有なオリンピアンとして名を馳せることになります。学生時代、彼女はインターハイで2年、3年と連続で優勝。その才能が認められ、リッカーミシン社に所属しました。

リッカーミシン社に入社の陸上競技部に所属

依田郁子が所属していたリッカーミシンの陸上競技部は、1964年の東京オリンピックに尋常ならざる貢献を果たしました。その頃、同社は150名もの選手を抱え、その中から10名の選手が東京オリンピックへと出場。リッカーミシンの選手たちはオリンピックの舞台で活躍し、戦後の日本陸上界を牽引していきました。

また、リッカーミシン陸上競技部は、国内の実業団選手権で7年連続総合優勝という快挙を成し遂げました。

NOSUKAPI/YouTube

リッカーミシン創業者平木信二、スポーツで日本再興を目指す

リッカーミシンの輝かしい歴史は、創業者平木信二の夢から始まりました。彼は「スポーツによって日本を再興したい」という壮大な理念を持ち、一代でリッカーミシンを日本有数のミシン製造メーカーに押し上げました。一度は倒産寸前まで追い込まれましたが、その後奇跡的に復活し、リッカーミシンを30億円の資本を有する一大企業に成長させました。

その人生は、梶山季之氏が「小説現代」(講談社)で『小説平木信二』として、またノンフィクション作家の辺見じゅん氏が『夢、未だ盡きず』(文藝春秋)というタイトルで描かれるほど、魅力と異彩を放つものでした。

リッカーミシンの成功と平木信二の熱い情熱

平木信二は、工場周辺を練習場所にし、選手集めに奔走した。そして、陸上部は彼の号令の下で急成長しました。初めはたった一人の長距離ランナーでスタートしたチームでしたが、平木社長の指導とリーダーシップにより、陸上部はやがて会社を牽引するような存在になりました。

1948年に資本金19万5000円で発足したリッカーミシンは、1963年までには30億円の資本を有し、支店も500以上、従業員数も約1万6000人を擁するまでに成長しました。その中心には、スポーツを通じた日本の再興という平木信二の夢がありました。

「日本陸上界の伝説」吉岡隆徳の光速ラン

吉岡隆徳は1909年生まれで、幼少期から足が抜群に速く、日々の努力を重ねることでその才能を開花させました。彼の日々の努力は、「カラスが鳴かない日があっても、吉岡の走らない日はない」と言われるほどでした。1932年のロサンゼルス五輪100メートルでは6位に入り、その後1935年には、手動時計ながら10秒3の世界タイ記録を達成しました。この偉業から、「深夜の超特急」と称されたエディ・トーラン(米国)にちなみ、「暁の超特急」の異名で親しまれるようになりました。

1940年の東京オリンピックが返上されて目標を失ったものの、吉岡はその後も走り続けました。1939年には日本選手権で6回目の100m優勝(当時最多記録)を達成しました。

熱い指導と弟子たちの挑戦、東京オリンピックへの道

終戦後、吉岡は広島県の国体誘致など体育行政に関わった後、実業団リッカーミシンのコーチとして招かれました。その中で、飯島秀雄(所属は早稲田大学)と女子の依田郁子を指導しました。「日本記録は自分の育てた弟子に破らせたい」という吉岡の情熱は、飯島と依田に向けられ、二人は彼の秘蔵っ子となりました。

吉岡の夢は、弟子をオリンピックに出場させることでした。「私の夢は、おまえをオリンピックに出場させることだ。それを実現させたいんなら、恋愛禁止だ。私とおまえは親子関係だと思え。恋人はスパイクシューズだ……」この言葉に依田は頷き、64年の東京オリンピックを目指し、吉岡のもとでマンツーマンの指導を受けることとなりました。

依田郁子の挫折からの復活!東京オリンピックへの再挑戦

依田郁子選手の人生は、成功と困難の繰り返しでした。彼女は、日本の著名なスプリンターである吉岡隆徳の指導を受けて、日本を代表するアスリートに成長しました。しかし、21歳で迎えたローマオリンピックの予選会で、代表選手から漏れてしまったことは彼女にとって大きな打撃でした。その結果、彼女は睡眠薬のオーバードーズによる自殺未遂を起こし、その日は日本のオリンピック選手団が日本へ帰国した当日でした。

しかし、彼女は吉岡隆徳監督の熱心な指導を受け、再び第一線に復帰しました。その結果、彼女は東京オリンピックで有力なメダル候補とされるまでに回復しました。

レオリンピックでの優勝に世界が注目 !

依田郁子選手は、1963年のプレオリンピック(東京国際スポーツ大会)で世界にその名を轟かせました。彼女は80メートルハードルの予選でその年の最高記録10秒6をマークし、決勝では世界の強豪選手たちを寄せ付けずに優勝を決めました。

東京オリンピックでの奮闘と感銘の軌跡

その後、1964年東京オリンピック本番でも予選・準決勝をともに2位で通過し、世界記録に迫る自己最高記録を持つ彼女からはメダルが期待されました。

しかし、体が小さい依田選手は、スタート後の後半で外国勢に追いつかれ、結局5位となりました。スタートでいかに速く飛び出すかということに勝負をかけて練習を重ねていた彼女でしたが、残念ながらメダル獲得には至りませんでした。

それでも、その発達した下半身や、日本女子陸上選手として初めて短距離競技で世界大会の決勝まで進んだ功績は、多くの人々に感銘を与えました。それほどまでに彼女は影響力を持っていました。

依田選手の影響はその後も続き、大和中の男子達は運動会で「サロメチール」を塗ることが流行しました。それは彼女の迫力ある走りを真似し、自分自身も速く走ることを目指した結果だったと考えられます。依田選手の活躍は、多くの人々にスポーツに対する情熱を感じさせ、日本の陸上競技の発展に大きく寄与しました。

東京女子体育大学での指導活動に貢献

依田郁子選手は1964年の東京オリンピック後の翌年の1965年に結婚し、その後の人生でも多くの役職を務め、教育や指導者としての活動に尽力しました。

彼女は教育委員として地域の教育に貢献し、若者たちの育成に力を注ぎました。また、彼女自身の経験と知識を生かして、東京女子体育大学で後進の指導にも当たりました。

手術の中断、依田郁子選手の膝の痛みは消えず

1983年、依田郁子選手は長年悩んでいた右膝の問題を治すために手術を受けることを決意しました。この手術は、彼女が競技から引退してからも幾年もの間にわたって彼女の日常生活に影響を及ぼしていた痛みを取り除くために行われました。

しかし、手術は問題が発生し、未完了に終わりました。手術中に彼女は麻酔のショックを起こし、これにより医師は手術を中断せざるを得なくなりました。手術は完了しなかったため、彼女の右膝の問題は治療されませんでした。

日本スポーツ界を悲しみに包んだ早すぎる死

1983年10月14日、田郁子選手の突然の訃報は、日本全国を悲しみに包みました。彼女は自宅で自ら命を絶つという悲しい決断をしました。全国紙は「依田(旧姓)郁子さん自殺 東京五輪で大活躍 ヒザ関節の痛み続き」という見出しで報道しました。彼女はその時45歳でした。

彼女が取ったこの極端な行動の原因については、彼女が長年にわたって直面していた膝の痛みが一因とされています。彼女は競技生活の間、そして引退後も痛みと戦っていました。

彼女の死は、スポーツ界全体、特に日本のスポーツ界に深い悲しみと衝撃をもたらしました。彼女は東京オリンピックでの輝かしいパフォーマンスを通じて、国民の心に深く刻まれたアスリートであり、その死は大きな喪失感をもたらしました。

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1964年の東京オリンピック。戦後日本の一大イベントに臨んだ選手たちは、国を背負い輝ける星となった。しかし、参加した日本選手357人の中には、その後、4人の行方不明者がいた…。選手たちは人生と格闘し何を得たか。選手たちの生涯を追った迫真のルポルタージュ。(「BOOK」データベースより)

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