銃規制の国からの快挙!日本のピストル射撃が銅メダル獲得 ── 東京オリンピック物語(22)

この記事では、日本の射撃競技の歴史と現状について探っています。厳格な銃刀法による銃の所有制限と使用規制が存在する中で、射撃競技者たちは限られた環境の中で輝かしい成果を上げ続けています。

特に注目すべきは、吉川貴久選手のオリンピックでの快挙や日本のピストル射撃競技の偉業です。また、日本ライフル射撃協会の取り組みやデジタルシューティングシステムの導入により、競技者の育成や練習の機会の拡大が試みられています。

さらに、クレー射撃の起源と進化、射撃競技の普遍的な魅力についても触れています。日本の射撃競技は厳しい法律の制約の中でも成長を続け、競技者たちは最高のパフォーマンスを引き出すために努力し続けています。

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Shooting

感動の舞台!厳しい銃規制下での東京オリンピック射撃競技

朝日新聞社/YouTube

1964年、国際的なスポーツの祭典「東京オリンピック」。この年、日本は多くの勇気と感動を世界に与え、多くの偉大な成果を達成しました。その中で見逃せない競技があります。それは世界有数の厳しい銃規制の国、日本の射撃競技での成績でした。

射撃競技の歴史とその魅力

射撃競技は、その起源をオリンピックの第1回大会、1896年のアテネ大会まで遡ることができます(セントルイス1904大会、アムステルダム1928大会を除く)。

近代オリンピックの父「クーベルタン男爵」の肝煎り

その起源は、オリンピックの提唱者であるピエール・ド・クーベルタン男爵がフランスのピストルチャンピオンであったことによるものです。

アテネ大会では、水泳、陸上、体操、レスリング、射撃、フェンシング、自転車、テニスの8つの競技が行われました。これらの競技には男子のみが参加し、合計280名の選手が14カ国から集まりました。

射撃競技が含まれたのは、クーベルタン男爵自身が射撃の魅力を深く理解していたからです。彼はフランスのピストルチャンピオンとしての経験を活かし、この競技をオリンピックの一部として位置付けることで、その普及に大いに貢献しました。

The Baron Pierre de Coubertin Statue
500万人以上が魅了される射撃競技の不思議な魅力とは?

それ以来、射撃はオリンピックの定番として位置づけられ、その競技人口は世界で500万人を超えるとも言われています。

射撃競技は、他の競技とは一線を画した独特の魅力を持っています。物理的な動きは最小限に抑えられ、体力よりもメンタルの強さが重要とされています。この競技では、集中力をどれだけ高め、それを維持するかが勝敗を左右します。ライバルと直接対決するのではなく、各選手が自分自身と戦うという特性から、射撃競技は一種の心身のバトルとも言えます。

射撃競技の種目数は豊富で、最初のアテネ大会では17種目(クレー射撃の種目を含む)が行われました。これは陸上46、水泳42、体操18、自転車18、レスリング18に次いで6番目に種目数が多いということです。このように射撃競技は、その歴史と独特な特性から、多くの人々に愛されてきました。

精密と速さの対決!「ライフル射撃」と「クレー射撃」の魅力を探る

射撃競技はその実施形態によって、さまざまな種目に分けられます。大きく分けると、固定された標的を撃つ「ライフル射撃」と、散弾銃で空中を飛ぶ標的を撃つ「クレー射撃」の2種類が存在します。

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精密な瞬間を駆け抜ける、ライフル射撃競技の極致
Olympics/YouTube

ライフル射撃競技は、その実施形態やルールの違いによってさまざまな部門に分けられます。この競技では選手は一定の距離から固定された標的に向けて射撃を行います。その際、使用するライフルの種類、射撃の姿勢(立って、ひざまずいて、または横になって)、そして標的までの距離などが競技の形を決定します。

ライフル射撃競技は、選手が標的の中心に近い部分を撃ち抜くほど高い得点を獲得します。そのため、この競技は集中力と精密さが求められます。選手は標的と自分自身との距離を適切に計算し、風の向きや速度を考慮しながら、最も効果的なショットを狙わなければなりません。

ライフル射撃競技には、使用する銃や射撃距離によってさまざまな種目が存在します。以下に主な種目をいくつか挙げてみます。

50メートルライフル

この種目では、選手は50メートル離れた標的に向けてライフルを用いて射撃します。

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10メートルエアライフル

ここでは、選手は10メートル離れた標的に向けてエアライフル(空気圧で銃弾を発射するライフル)を使用します。

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25メートルラピッドファイアピストル

この種目では、選手は25メートル離れた標的に向けてピストルを用いて射撃します。この種目の特徴はその”ラピッド(迅速)”という言葉にあり、選手は制限時間内に複数回射撃を行う必要があります。

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25メートルピストル

ここでも選手は25メートル離れた標的に向けてピストルを使用しますが、ラピッドファイアと違い、こちらは一定の時間を置いて一発ずつ射撃を行います。

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10メートルエアピストル

選手は10メートル離れた標的に向けてエアピストル(空気圧で銃弾を発射するピストル)を使用します。

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的確な瞬発力が試される!クレー射撃競技の「トラップ」「スキート」の魅力

クレー射撃は、選手が散弾銃を用いて空中に放たれたクレー(土製の円盤)を撃つ競技です。クレー射撃競技もライフル射撃競技と同様、その実施形態やルールの違いによってさまざまな部門に分けられます。主な部門には「トラップ」種目と「スキート」種目があります。

的確な狙いと瞬時の反応力が試される「トラップ射撃」

トラップ射撃は名前の通り「罠(トラップ)」から飛び出すクレーを撃つ競技です。この種目の名前は、その起源にちなんでいます。欧州の貴族が青鳩を罠籠に入れ、扉を開けることで飛び立つ鳩を撃つ射撃を楽しんでいたことから生まれたものです。選手は射台の15メートル先からランダムに飛び出すクレーを撃ちます。クレーは左右、高さがランダムに飛び出し、1ラウンド25枚の射撃。1枚のクレーに対し2発以内で撃破することができれば、得点となります。

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“瞬間の決断「スキート射撃」で求められる的確な射撃技術

スキートとは古いスカンジナビア語で「撃つ」という意味です。狩猟用の猟銃を使って、猟の練習用にアメリカで考案されたのがスキート射撃です。スキート射撃では、半円形の射撃場に配置された8つの射台を移動しながら射撃を行います。クレーは射手のコール後、最大3秒以内にランダムに放出されます。放出されるクレーは左、右、左右同時の3パターンがあります。トラップ射撃とは異なり、1枚のクレーに対して1発しか撃つことができません。1ラウンドでは合計で25回の射撃を行います。

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魅了する射撃競技!集中力と競争性が引き寄せる観客と選

どちらの種目も、選手の集中力と精密さ、そして反射神経を試すもので、それぞれが独自の戦略と技術を要求します。これらの競技は、その独特の魅力と高い競争性によって、多くの観客と選手を引きつけています。

静と動の融合!射撃競技の美しいバランスと視覚的な興奮

射撃競技はその本質から「精神のスポーツ」とも呼ばれます。選手は脅威の精度を誇るライフルを使って、遠くの標的を撃つため、極度の集中力と精密さが要求されます。かつては静寂に包まれた会場で競技が行われていましたが、近年ではその様子が大きく変わってきました。

現在の射撃競技はエンターテインメント性が高まっています。大音量の音楽が会場に鳴り響き、実況者の熱い実況や観客の熱狂的な拍手が飛び交います。その背景には、国際射撃連盟が「決勝での音楽演出の実施を義務付ける」「予選でも可能であれば実施すべきだ」と規則に明記したことが影響しています。

こうした演出の導入によって、射撃競技は単なる競技から視覚的な興奮を提供するエンターテインメントへと進化しました。その目的は、観客やテレビ中継の視聴者に楽しんでもらうこと。結果として、射撃競技の試合はただの競技ではなく、一種のショーとして楽しまれるようになりました。

しかし、それでも変わらないのは選手たちの集中力と技術の高さです。彼らは音楽や実況の騒音に惑わされることなく、目の前の標的に全力を尽くします。その姿はまさに、静と動、精神性とエンターテインメント性が融合した美しいバランスを見せています。

ISSF – International Shooting Sport Federation/YouTube

警察官メダリスト!「吉川貴久」の東京オリンピック

日本の射撃競技は、その歴史の中で数々の輝かしい瞬間を刻んできましたが、その中でも特筆すべきは、60年ローマオリンピックでの吉川貴久選手の快挙です。フリーピストル60発の競技で、彼は日本勢として初のオリンピックメダル、銅メダルを獲得しました。

当時23歳で福岡県警に所属していた彼は、58年の世界王者ウマロフ(ソ連)と同点に並び、シュートオフの末に僅差で敗れるものの、日本射撃競技の初メダル獲得という大快挙を成し遂げました。

東京オリンピックでの複数メダル獲得

そして4年後の東京オリンピックでも、吉川選手は大会の重圧と期待を背負いつつ、再び表彰台に立つことができました。序盤は苦しんだものの、終盤に復調して554点を記録しました。ドイツのガレー選手と同点でしたが、10点圏の命中数で勝り、2大会連続で3位に入りました。これは今までの日本の射撃競技では吉川選手だけの複数メダル獲得という偉業であり、彼の名前は射撃競技の歴史に刻まれました。

射撃界のレジェンド!吉川貴久のオリンピックと社会貢献”

さらに吉川選手は、68年メキシコオリンピックと72年ミュンヘンオリンピックにも出場しました。そして76年モントリオール大会では、選手としてだけでなく、日本代表の監督としても活躍しました。その後も彼は警察官としての職務に勤しむ中で、福岡県警西八幡署長を務めるなど、社会貢献にも熱心に取り組みました。

禁止されながらも輝く!日本のピストル射撃競技の偉業

吉川貴久選手のローマオリンピックでのメダル獲得は、日本のピストル射撃における重要な出来事で、その後の競技人口や人気に大きな影響を与えました。しかし、日本では一般人のピストルの所持が法律で禁止されており、そのために実際の競技に参加できるのは、日頃から訓練が課されている警察官や自衛官など、限られた人々だけとなっています。

それにも関わらず、ピストル射撃の競技者たちは素晴らしい成果を上げ続けています。1984年ロサンゼルスオリンピックで、蒲池猛夫選手が25mラピッドファイアピストルで金メダルを獲得しました。蒲池選手は自衛隊に入隊後に射撃の才能を開花させ、その才能を最大限に活かして初の金メダル獲得という偉業を達成しました。

また、1988年ソウルオリンピックでは、長谷川智子選手が25mスポーツピストルで銀メダルを獲得しました。彼女は大阪府警に所属していた警察官で、その正確な射撃技術が評価されました。

これらの成果は、警察官や自衛隊員といった特殊な職業に従事している選手たちが、日々の訓練や経験を活かして、競技の高度化に貢献してきた証でもあります。ピストル射撃の競技者たちは、限られた環境の中で最大限のパフォーマンスを引き出し、国際競技での成績向上に努めています。

新潟ニュース NST/YouTube
銃の所有と射撃競技!日本の厳格な法律と競技者の挑戦

日本における銃の所有と使用に関する法律は、世界でも最も厳格なものの一つで、これが日本の射撃競技の特異な環境を生んでいます。この法律は一般的には安全性と公共の秩序を維持するために必要なものとされていますが、射撃競技者にとっては特に大きな挑戦をもたらしています。

銃刀法により、一般的に銃を所有または操作することができるのは20歳以上(エアガンは18歳以上)であり、さらに射撃競技に参加するためには日本ライフル射撃協会からの推薦が必要になります。このような厳格な規制は、競技者が厳しい選考を経て選ばれ、練習に専念することを必要とします。

具体的には、ピストルの所有に関しては、まずエアライフルまたはハンドライフルで一定の成果を出し、次に日本ライフル射撃協会からの推薦を受け、日本体育協会の推薦状を得なければなりません。さらに、エアピストルの所有は500人に、火薬を用いる銃の所有は50人に制限されています。

したがって、ピストル射撃とは、非常に限られた人々だけが参加でき、競技者は引き金を引くたびに最高度の集中力を必要とする競技であるといえます。これは日本の射撃競技の特異性を示しており、その高い技術レベルと競争力を保つためには特別な努力が求められています。

銃刀法に挑む!日本射撃競技の未来を切り開く「デジタルシューティング」

日本の射撃競技の現状は、厳格な銃刀法による銃の所有制限と使用規制により選手育成が困難であるという課題を抱えています。特に、ピストル射撃に参加できるのは、全国で18歳以上の500人に制限されており、その他の人々はこの競技に参加することができません。

また、厳しい規制により、選手たちは練習の機会に制約があり、必要な技術の習得が難しいという問題があります。結果として、射撃競技の参加者は増えにくい状況にあります。

これらの問題を解決するために、日本ライフル射撃協会は大学の射撃部や学生選手を支援する取り組みを進めています。しかし、学生会員が進学や就職を機に住居を変更し、銃の所持が不可能になるために競技をやめてしまうという課題も存在します。全会員のうち学生は約4千人で、そのうち7割以上がこのような状況に直面しています。

そこで、日本ライフル射撃協会は、NECパーソナルプロダクツと協力して2002年にデジタルライフルとデジタルピストル、専用の的を開発しました。これらのデバイスは単三形電池1本で動き、弾丸の代わりに赤外線レーザーを発射します。得点や着弾点は、的とLANケーブルで接続されたPCに表示され、銃口の動きの軌跡も確認することができます。また、安全上、レーザーは的に向けた時にしか発射しない仕組みになっています。

このようなデジタルシューティングシステムの開発と普及は、厳しい銃刀法による制限下での選手育成や練習の機会拡大に一役買っています。また、NECカスタムテクニカが開発したクラス1レーザーを用いたデジタルスポーツシューティングシステムも2007年まで生産され、普及を図った経緯があります。現在は、興東電子製のビームライフルが主流となり、製造が続けられています。

NCC長崎文化放送/YouTube
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世界各国の警察や軍隊では、さまざまな銃が利用されています。狩猟が盛んなカナダや永世中立国のスイスでは、一般家庭に銃があるケースもめずらしくありません。本書では、科学的に銃を見つめ、銃の基本から、銃に使われる弾薬の話、さまざまな銃の仕組み、打ちだされる弾の弾道まで、ていねいに解説。(「BOOK」データベースより)

古代から現代まで!射撃の歴史と進化

射撃の歴史は非常に古く、古代から遠くの目標物に投射物を当てる競技が行われてきました。最初は投石や弓矢が使用されていましたが、銃の発明とともに射撃競技も変化しました。銃の原型は中国で発明され、ヨーロッパで発展しました。

19世紀からオリンピックへ!射撃競技のスポーツ化と展開

記録に残されている最も古い射撃大会は、1477年にドイツのアイヒシュテットで開催され、200メートル先の標的を狙うものでした。また、1463年にドイツのケルンにあるセント・セバスティアヌス射撃クラブで競技が始まったという説もあります。

射撃がスポーツとして発展したのは19世紀で、1824年にスイスで射撃協会が設立されました。それを皮切りに、1859年には英国ライフル協会、1871年には全米ライフル協会(アメリカ合衆国)が設立されました。

近代オリンピックが始まった1896年のアテネ大会では、射撃競技が行われ、男子25mラピッドファイアーピストルと男子50mピストルなどの種目がありました。またクレー射撃の男子トラップは、1900年の第2回パリ大会で行われています。

そして1907年には、国際射撃連盟(ISSF)が設立されました。女子種目は1968年のメキシコシティ大会から採用となり、男女共に幅広い射撃競技が行われるようになりました。

鉄砲から射撃競技へ!日本の射撃の歩みと成長

日本への銃の伝来は1543年で、台風で種子島に漂着した南蛮船が起源とされています。その時に南蛮人たちは火縄銃の射撃実演を行い、雷のような発射音に驚いた種子島の人々が火縄銃を目の当たりにしました。その名称は火薬と弾丸を銃口から詰め、火縄に点火する前装式であったことから「火縄銃」、そして種子島に伝来したことから「種子島」とも呼ばれました。

mokimoki/YouTube
日本の銃器技術の巧妙さと戦略的な運用の歴史

日本で初めて鉄砲が戦闘に使用されたのは1549年の「黒川崎の戦い」で、その後、鉄砲は日本の合戦において大きな影響力を持つようになりました。前装銃は欧米では南北戦争頃まで、日本では幕末まで使用され、その後は猟銃として使用されるようになりました。

日本は、16世紀から銃器を大規模に生産し、運用し、そして輸出するまでに至った、欧米諸国以外の唯一の国として特筆されます。この歴史は日本の鉄砲・火縄銃製造技術の高さと、それを軍事的に活用した日本の戦略の成功を示しています。

日本の射撃競技の新時代!関東学生射撃大会からの躍進

射撃スポーツが日本で親しまれ始めたのは、明治時代に近代的な銃が導入されてからで、その基盤となったのは1924年に第1回関東学生射撃大会が東京赤羽射撃場で開催されたことです。このイベントは、スポーツとしての射撃競技の普及と成長を促す契機となりました。

戦日本のオリンピック射撃競技のデビュー

日本がオリンピックの射撃競技に初めて参加したのは、戦後の1952年のヘルシンキ大会です。この時、日本からは安齋實がコーチとして、そして猪熊幸夫が選手として参加しました。彼はライフル伏射種目に参加し、139名の参加者の中で31位という結果を残しました。

その後、日本は1980年のモスクワ大会を除いて、毎回射撃競技に参加し続けています。1980年のモスクワ大会は、アメリカを始めとする多くの西側諸国がソビエト連邦のアフガニスタン侵攻を理由にボイコットを行ったため、日本もこれに従い、参加を見送りました。

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「クレー射撃のルーツと未来」変わらぬ本質と進化の軌跡

クレー射撃(またはクレイピジョン射撃)は、スポーツとして人気のある射撃の一つで、その起源は狩猟の実践と伝統に深く根ざしています。

散弾銃は16世紀から存在し、その後、鳥猟などの用途で発展しました。元々、これらの銃は猟師が動く獲物を狙うのに使用されました。

生きた鳩の射撃競技が引き起こした論争と反省

18世紀後半、ヨーロッパの貴族たちは王族の狩猟を模倣する新たなスポーツとしてクレー射撃を考案しました。この競技は、鳩を放して撃ち落とすことで始まりました。しかし、1900年のパリオリンピックで行われた生きた鳩の射撃競技は、批判を浴びる結果となりました。この競技では、ベルギーの選手が金メダルを獲得し、約300羽の鳩が犠牲になりました。

British Pathé/YouTube
倫理的な観点から見たクレー射撃の変遷

クレー射撃の発展過程は興味深いものです。この歴史的な変遷により、このスポーツは生命を尊重する現代社会の基準に適合するように進化しました。

その起源を辿ると、実際に生きた鳩を標的にしていた頃から、このスポーツは貴族間で人気を博しました。しかし、その結果、鳩の数が急減し、さらに動物愛護の視点からの批判も強まりました。これに対処するため、鳩の代替となる何かが必要でした。

ガラス玉がもたらしたクレー射撃の進化と多様化

そこで登場したのがガラス玉です。これは、その当時のエンターテイメントであったバファロービルのウェスタンショーでも使用されていました。このガラス玉を用いた射撃は、1860年代以降に登場したと推定されています。

British Pathé/YouTube
材質の革命!焼き物からクレーへの射撃競技の大躍進

その後、1870年頃、射撃競技をより難易度の高いものにするため、薄い皿状の標的が考え出されました。しかし、この焼き物の標的は焼け具合によって弾が当たっても割れないものであったため、さらなる改良が求められました。

そこで1880年代に、イギリスのマッカスキーが現在使用されているのと同様の材質の標的、つまり「クレー」を考案しました。そして、1885年にはニューオーリンズで、この新型クレー標的を使用した最初のトラップ射撃競技が開催されました。

クレー射撃の歴史から見える普遍的な魅力

こうしてクレー射撃は、その起源から現在までの形に進化しました。生きた鳩から始まり、ガラス玉、焼き物の皿、そして現在のクレーへと、その形状や素材は変わりつつも、その本質、つまり「狙った標的を正確に撃つ」ことという点においては一貫して変わることはありませんでした。これこそが射撃競技の魅力であり、その普遍的な価値でもあるのです。今後もこの歴史を胸に、射撃競技はその発展を続けていくことでしょう。

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