1964年の東京オリンピック後、日本の水泳界は大転換を迫られました。期待外れの結果により、新たな指導方法とトレーニング環境が求められ、全国にスイミングクラブが設立されました。
特に代々木スイミングクラブや後藤忠治選手のセントラルスポーツクラブの活躍は注目され、竹宇治聡子選手の喘息児への奉仕も感銘を与えました。彼らの情熱と努力に触れ、日本の水泳界が抱く未来への期待をご紹介します。スポーツクラブの発展がもたらした水泳界への影響に注目しましょう。
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Bronze medal in men’s swimming 800M relay
男子水泳800Mリレーで銅メダル
1964年、明るく活気に溢れる東京。この年、日本は世界中から注目を集め、記念すべき東京オリンピックを開催した。この大会における日本の選手たちは、多くの種目で勇敢な闘いを繰り広げ、世界のトップ競技者と肩を並べた。しかし、期待が高まる中、一つの種目で結果が出なかった。それが水泳だった。
東京五輪の開幕から一週間以上が過ぎた10月18日、その日、国立代々木競技場のプールは特別な日となりました。水泳の男子800メートルリレーで、日本が見事に3位に入賞し、初めて日の丸が泳池に映りました。
東京オリンピックの競泳種目で行われたリレー種目は3種目あり、それぞれが一流の競技者たちによる熾烈な戦いとなっていました。その全てで金メダルはアメリカが、銀メダルは東西統一チームとなったドイツが獲得。そして4X100mリレーとメドレーリレーの銅メダルは、強豪のオーストラリアチームが手にしていました。
だが、その強固なラインナップの中で、800mリレーで日本チームは躍進を遂げたのです。彼らはソ連やオーストラリアといった強豪チームを倒し、見事な3位入賞を果たしました。しかしこれは、お家芸とまでいわれていた”水泳ニッポン”にとっては残念な結果でした。
日本のお家芸!水泳で世界に挑み続けた古橋廣之進の驚異的な記録
それは、おそらく今の若い世代の人々には想像もつかないと思いますが、確かにかつて競泳競技は日本の”お家芸”とまで称され、世界のステージで頻繁に輝かしい結果を残していました。
日本のオリンピック水泳競技での成功は1928年のアムステルダム大会から始まり、その後も参加したすべてのオリンピックでメダルを手にしています。特に1932年のロスアンゼルス・オリンピックの男子競泳では、開催されたわずか6競技中、日本選手団は5個の金メダルを獲得するという驚異的な成績を達成しました。これは、競技数に対する勝率で見ると83%以上という圧倒的な数値でした。
さらに、この5つの金メダルのうち、リレーを除いた4競技では、金・銀を日本が独占するという大快挙も達成しています。
海に囲まれた国、日本では自然と水泳が盛んになり、数々の優れた選手を輩出してきました。中でも、「フジヤマのトビウオ」と称された古橋廣之進はその代表格で、自由形で何度も世界記録を塗り替え、日本の水泳界を牽引してきました。
敗戦からの復活!世界に示した日本の水泳力
しかし第二次世界大戦の影響で、日本は一時的にオリンピックから離れざるを得なくなりました。だが、その間も日本の競泳陣は決してその実力を失うことなく、むしろさらなる高みを目指して日々の訓練に励んでいました。
その努力の甲斐あって、敗戦からわずか4年後の1949年、全米水泳選手権で日本の選手たちは世界にその力を見せつけることに成功しました。その中でも古橋広之進と橋爪四郎は特に注目され、世界新記録を連発する活躍を見せ、日本全国を大いに盛り上げました。
彼らの活躍は、国民の心に深く刻まれました。「あれほどの感動はなかった。スポーツが世の中を明るくできる」と信じられたのです。その時、多くの人々が再び競泳競技への情熱を取り戻し、その後の日本の水泳界に大きな影響を与えました。
水泳ニッポンの挫折…東京オリンピックでの悲劇的な結果
“水泳ニッポン”が1964年の東京オリンピックに臨んだとき、その背中には国民の高まる期待が詰まっていました。ところが、水泳競技の最終日までにメダルを手にすることはできず、最後の希望は男子800メートルリレーだけにかかったのです。
それまでの1960年のローマオリンピックまでに、日本が競泳競技で獲得した金メダルはなんと11個もありました。その実績と、世界各国との記録を比較した時の優位性から、日本チームには多くのメダルが期待されていました。
しかし、その期待とは裏腹に、結果は男子4×200mリレーの銅メダル1つだけに留まり、総入賞数も10にとどまりました。この結果に、日本競泳チームは”惨敗”とまで揶揄されたのです。実績のあるベテラン選手に頼った結果、台頭してきた欧米の若手選手に屈してしまったと言われました。
象徴的だったのは、前回のローマオリンピックで銅メダルを獲得した田中聡子選手が、女子100メートル背泳ぎで日本新記録を出しながらも、惜しくも4位に終わったことでした。
挫折から始まった水泳界の大変革!スイミングクラブの誕生
1964年の東京オリンピックでは、競泳競技に対して多くのメダル獲得という国民の期待が寄せられていました。しかし、結果は一つの銅メダル獲得に留まりました。この結果を受けて、競泳関係者の有志らは、日本の水泳の将来を見据えた行動を起こしました。
それは、全国各地で民間のスイミング教室、すなわち「スイミングクラブ」の設立でした。この動きは、競泳競技の普及とともに、新たな才能を発掘し、育成することを目的としていました。それまで競泳がエリートスポーツとして扱われ、一部の選手だけが競技に参加できる状況を変えるための斬新な試みだったのです。
敗北から学ぶ!日本水泳界が挑む新たな改革
1950年代、欧米諸国では1年中練習可能な温水プールの利用が広がっていました。対照的に日本では、当時屋内プールは東京の1つしかなく、基本的に夏の暑い時期だけが泳ぐ機会でした。そのため、競泳の練習は主に夏季に集中し、冬場は温泉地に遠征しなければならないほどの厳しい環境でした。また、当時の日本では「根性論」が主流で、とにかく長い距離を泳ぎ続けるという練習が当たり前とされていました。
5つの改革指針
しかし、1964年の東京オリンピックでの”惨敗”を受けて、日本の水泳界は大きな変革を求められました。それに応える形で、以下の5つの改革指針が掲げられました。
- 底辺の拡充:全国民が泳げるようにすることを目指し、水泳の普及を図る。
- プール施設の拡充:一年中練習可能な温水プールを増やし、選手たちの練習環境を改善する。
- 指導者の充実と組織化:水泳を広めるための指導者と、競技者を指導するコーチを育成し、その組織を整備する。
- 泳法改良および研究:競泳の技術や戦略の改良と研究を進め、選手たちの競技力向上を図る。
- 基礎体力および専門筋力の強化、練習法の充実と組織化:選手たちの基礎体力や特定の筋力を強化し、練習法を充実させ、その運用を組織的に行う。
これらの改革を通じて、日本の水泳界は過去の教訓を活かし、次なる飛躍を目指しました。
「代々木スイミングクラブの誕生」村上監督の情熱が生んだ水泳界の転機!
東京オリンピックの競泳日本代表のヘッドコーチだった村上監督は、東京オリンピックの競泳のメダルが800mリレーの銅1個だけに終わったことを嘆き、日本の水泳界の未来を憂いていた。
そして、これからの日本の水泳を強くするためには、将来を担う子どもたちにしっかりと教えることが必要だと考え、村上監督は立ち上がりました。
村上監督は、プールの入場料を支払い、既に56歳という年齢でありながら、ウェットスーツのベストを着て、気温27度の水の中で子供たちに一生懸命指導しました。
村上監督は子供たちにとってはただの「親切なおじさん」でしたが、その姿は彼らに水泳の技術だけでなく、尊敬と敬意、そして努力と情熱の価値を教えていました。そして、その活動が親たちからも評価され、村上監督の正体を知った親たちから贈り物が始まり、これが結果として月謝制へと繋がっていきました。
それが「代々木スイミングクラブ」誕生(1965年3月)に繋がりました。これは日本国内初のスイミングクラブであり、その設立は日本の競泳界にとって新たな章を開く重要な出来事となりました。
代々木スイミングクラブは、東京オリンピックの教訓を活かし、新たな指導方法やトレーニング環境を導入することで、日本の競泳界のレベルアップに大いに寄与しました。それは、民間のスイミングクラブが増えるきっかけともなり、それによって底辺の拡大と競泳選手の技術向上が図られることとなりました。
また、スイミングクラブは子供たちにとってスイミングの技術を学ぶだけでなく、健康維持や運動能力の向上、そしてチームワークや根性を育む場所としての役割も果たしました。これによって、より多くの人々がスイミングを通じて成長し、社会に貢献できる人材を育てる基盤ができました。
さらに全国でも次々とスイミングクラブが誕生!
代々木スイミングクラブの設立に続いて、多摩川スイミングクラブ、広島のフジタドルフィンクラブ、大阪の山田スイミングクラブなど、日本全国に次々とスイミングクラブが設立されるようになりました。これにより、日本国内に選手育成・強化のためのインフラが広がり、競泳のレベル向上に大いに貢献しました。
その結果、全国には1,053カ所ものスイミングクラブが存在するようになり、多くの国民が競技目的、趣味、健康維持・向上など、さまざまな目的で水泳を行うようになりました。
失意から新たな目標へ!「後藤忠治」の挑戦とセントラルスポーツクラブの誕生
1964年の東京オリンピックに出場した後藤忠治選手は、自由形100mと400mリレーに出場しましたが、準決勝で敗退、リレーでも4位に終わりました。この結果を受けて、彼は周囲の説得にもかかわらず競技からの引退を決めました。
後藤忠治の引退と営業マンとしての新たな道
後藤が引退後に感じたのは、トレーニングの科学的側面、特に指導の重要性でした。米国などでは既に心拍数を測ったり、流体力学に基づいて泳ぎを研究したりと、科学的なアプローチを取り入れたトレーニングが行われていました。これは、当時の日本のトレーニング方法とは大きく異なっていました。
実際に、海外の選手たちは現在の選手と比較しても同水準の体格で、これは日本の選手たちよりも一回り大きな体格でした。
競泳の世界から引退した後、後藤忠治は建設機械の営業マンとして新たな人生を歩み始めました。それは父の「社会人になったら仕事をしろ」という教えと、オリンピックでの結果に対する自身の感情が、水泳から離れることを決めた要因でした。
オリンピックで結果を出せなかったという気持ちは、営業活動を行う上でも影響を与えました。後藤はオリンピック選手として紹介されることが嫌で、それが彼大きな負担になっていたのです。
村上監督と後藤忠治の再会!水泳指導と明るい未来を目指す瞬間”
1969年の夏、営業活動の合間に国立代々木競技場のサブプールに足を運びました。後藤の日本大学時代の指導者であった村上勝芳監督が、子供たちに水泳を教えているという話を聞いていたからです。ここで水泳と再び繋がることになります。
後藤がその場に到着すると、村上勝芳監督が子供たちに水泳を教えている光景を目にしました。
村上監督は、日本代表のヘッドコーチだったのにも関わらず、プールに足がつかない小さな子供たちに対し、優しく水泳の指導をしていたのです。
そのシーンはとても衝撃的なものでした。それまで競泳の世界は後藤にとって失望と挫折の象徴でした、しかし村上監督は子供たちと共に明るい未来を作ろうとしていたのです。後藤は、競泳というスポーツが、ただメダルを獲得するだけでなく、次世代への教育と指導、そして社会への貢献を通じて価値を持つことを理解しました。
新たな道への転機!後藤忠治がスポーツ振興と後進育成に立ち向かう
失意の中で水泳を離れた自分、未来を作ろうとしている恩師の村上監督。後藤は自問自答の末に新たな方向を見つけました。その答えは、「多くの子供たちがスポーツに触れられる環境づくり」でした。
オリンピックでのメダル獲得に失敗した時、その結果は選手自身の努力不足にあったものの、その責任を全うする形で村上監督は一身に引き受けました。それは、監督が自分の職を辞し、再び選手の育成に全力を尽くすという行動となって現れていました。
その状況を見て、後藤は自己反省しました。「選手であった私が逃げて良いのか」、「後進の育成、さらにはスポーツの振興こそが私の持てる力を傾注し、やるべき仕事ではないか」と。こうして、彼は自身の道を見つけ、新たな目標に向かって行動を始めました。
「未来の選手を育てるために」後藤忠治とセントラルプールの挑戦
後藤忠治は、子供たちが一年中水泳を学べる室内プールの建設を思い立ち、そのためのパートナーを探し始めました。そして、二つの学校がそのための屋根設置に協力し、1970年にセントラルというプールを開業することができました。会員募集のためにはわら半紙のチラシを用いていました。
彼はまた、東京五輪代表で体操教室を始めていた小野喬と清子の夫妻、そして遠藤幸雄と協力関係を築きました。創業当時はまだ自分たちの設備を持っていなかったため、学校の施設を空き時間に借りて、水泳や体操の指導を始めました。
村上監督が始めた「代々木スイミングクラブ」と同じように公営プールで個々の指導を行うスイミングクラブが次々と出始めていた時代でしたが、後藤は更なる目標を立てました。優秀な選手を見つけるためには、自前のプールで多くの子どもたちを集め、育てる必要があると考えたのです。
後藤は自前のプールの確保やコーチの整備などに365日を費やしましたが、それは決して苦痛ではありませんでした。「何とか成功させよう」という強い意志が彼を支えていました。
事業の拡大と成功
もう一つの室内プールを建設したのは、京成電鉄が所有する千葉の谷津遊園プールでした。ここでは「企業としての視点で利益を求められ、最低でも会員を600人集めること」という要求に直面しました。この経験が、後藤にビジネスとしてのスポーツに対する意識をもたらすきっかけとなりました。
その半年後の1970年5月には、東京都新宿区に株式会社セントラルスポーツクラブを設立し、スポーツクラブの法人化とともに、杉並区内にスイミングスクールを開校しました。
セントラルスポーツクラブは、世界を目指すアスリートをスポーツ奨励社員としてサポートし、1988年ソウルオリンピック競泳競技で金メダルを獲得した鈴木大地選手(現スポーツ庁長官)をはじめ、2004年アテネオリンピック男子団体で金メダルを獲得した冨田洋之選手、鹿島丈博選手ら、述べ25名のオリンピアンを輩出してきました。
「スクールはスポーツを食い物にしている」という批判が存在する中で、鈴木大地選手の金メダル獲得は大きな影響を与えたと、ソウル五輪競泳ヘッドコーチを務めた青木剛・日本水泳連盟会長は述べています。
竹宇治聡子と「風の子会」喘息の子供たちのための新たな光
1964年当時、柔道やレスリング、ソフトボールといったメダルを期待される女子の種目はまだ存在せず、女子は水泳や陸上などの個人種目が中心でした。その中で特に注目されていたのが、女子100メートル背泳ぎの田中聡子(現姓竹宇治、当時22歳、八幡製鉄)でした。
現在では立派なスイミングスクールに通う子供たちも多いですが、竹宇治が泳いでいたのはプールではなく、故郷・熊本のため池や温泉でした。近所の池や川に毎日潜って遊んでいた彼女は、地元の嘉島中学校に進学して水泳部に入部します。
小学6年の時には校内大会で得意の背泳ぎで優勝し、1年の夏には熊本選手権でも優勝しました。3年時には100メートルの中学校記録を塗り替えました。
竹宇治聡子と脚気の闘い
中学校卒業後、”水泳王国”と称された筑紫女学園高等学校へ進学します。入学して間もない1958年5月、東京で開催されたアジア大会に出場し、100メートル背泳ぎで日本新記録を打ち出しました。その後、筑紫女学園に通い始めたのは大会終了後でした。
しかし、その年の9月頃から体調を崩し、スランプに陥りました。体が重く、記録が伸びずに困惑する彼女は病院で診察を受けたところ、診断結果は「脚気」でした。彼女は遺伝の可能性を疑いましたが、脚気は主にビタミンB1不足が原因であり、これが水泳に対する新たな挑戦となりました。
黒佐年明との出会いとイメージトレーニングの導入
脚気で泳げなくなった時、八幡製鉄所(現新日鉄住金)のコーチであった黒佐年明は彼女の素質を見抜き、自らの手で指導を始めました。黒佐コーチは竹宇治に「君にも世界記録が出せるよ」「魔法をかけるから」と意外な言葉をかけました。竹宇治は、「病人に向かって何を言っているんだ、この人は」と思いつつも、黒佐の説得に応じて、言われる通りのトレーニングを始めました。
そのトレーニングとは、目を閉じて、スタートの合図で自分が50メートル泳いでいる姿を思い浮かべ、何掻きかしたらゴールにタッチしたら手を叩くというもの。それを世界記録の、たとえば36秒でタッチするようにイメージするというものでした。
最初の50メートルは36秒。次の50メートルは38秒。竹宇治は頭の中で自分の手足を動かし、50メートルに達したところで手を叩きました。するとすぐにコーチから「何だ、今のは38秒もかかっているぞ」と怒声が飛び、設定タイムで泳げるようになるまで毎日同じトレーニングが繰り返されました。
そして、彼女が設定タイムで泳げるようになったときのご褒美は、大好物のケーキだったのです。このように、黒佐コーチは竹宇治にイメージトレーニングを教え、彼女の水泳に対する考え方を変えました。
竹宇治聡子の奇跡!イメージトレーニングからの世界新記録
黒佐コーチは竹宇治聡子にイメージトレーニングを指導し続けました。それを3~4カ月続けたところ、季節は冬になり、医者からようやく泳ぐ許可が出ました。
そこで竹宇治は、ちょうど新しくできた別府の温泉プールで練習を再開しました。そして春が来て高校2年生になった彼女は、7月12日に200メートル背泳ぎで世界新記録を出すことができました。
6ヶ月間、病気でプールで泳げなかった竹宇治でしたが、頭の中では常に泳いでいました。このピンチの時に続けていたイメージトレーニングが、新たな挑戦への気持ちを育むことができたといいます。
世界記録保持者としての成功とプレッシャー
竹宇治聡子の成績は、本当に素晴らしいものでした。彼女は1960年のローマオリンピックの100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得し、その時点で1932年の前畑秀子以来、2人目の日本人女子競泳メダリストとなりました。
しかし、その成功は、注目とプレッシャーをもたらしました。特に、1964年の東京オリンピックが迫ると、報道陣からの注目度は一層高まり、彼女は頻繁にメディアの取材を受けることになりました。彼女はその時の状況について、「カメラが凄く嫌でした」とストレスを感じていたと語っています。
八幡製鉄所での培われた強さ!厳しいトレーニング環境下での奮闘
その後、彼女は筑紫女学園高等学校時代からコーチを務めていた黒佐年明が勤めている、八幡製鉄所(現在の新日鉄住金)に入社しました。彼女は日中に働き、夜にはトレーニングを行うというハードなスケジュールを続けました。そのトレーニング環境も必ずしも理想的ではなく、夏は暑さ、秋は冷たい水、そして工場から出る煤がプールに浮くという厳しい条件下で訓練を積んでいました。冬には大分県別府の温泉プールで練習を行うなど、季節に応じてトレーニング環境を工夫していました。
200メートル背泳ぎとオリンピックの制約
東京オリンピックが近づくと、竹宇治聡子は増大するプレッシャーを感じ始めました。特に気になったのは、海外の若手選手たちのタイムの伸びでした。1年前になると、16歳から18歳の選手たちが記録を次々と更新していました。一方で、竹宇治自身のタイムはなかなか伸びず、彼女の苦しみを増大させました。当時は、水泳選手としてのピークは約20歳までだと言われていました。
また、竹宇治が得意とした200メートル背泳ぎがオリンピックの正式種目ではなかったことも彼女にとっては残念な事実でした。彼女は1959年から1963年までの約4年間で、女子200メートル背泳ぎの世界記録を更新し続けましたが、その間に開催されたオリンピックでは、女子200メートル背泳ぎは正式種目とはならず、競泳種目は100メートル背泳ぎのみでした。
彼女の得意種目である200メートル背泳ぎがオリンピックの正式種目になったのは、1968年のメキシコシティオリンピックからで、竹宇治がその舞台で競う機会はありませんでした。
力尽きるまで…竹宇治聡子の挑戦と自己ベスト更新
竹宇治聡子は世界との差を感じつつも、「勝っても負けてもいいから、ベストタイムで泳ごう」という目標を立てて1964年の東京オリンピックに挑みました。
10月14日の決勝戦、彼女は50メートルまではトップと互角の戦いを繰り広げましたが、「75メートルでエネルギー切れになった」と振り返っています。「その後は必死でタッチしたことしか覚えていない」という彼女の努力にもかかわらず、結果は4位。
優勝したのはアメリカのキャシー・ファーガソンで、彼女は1分7秒7の世界新記録を出しました。なお、この競技では3位までが世界記録を上回るタイムを出していました。
竹宇治のタイムは1分8秒6で、自己記録を0.8秒更新する成果を上げました。「それだけで安心した」と語っている彼女の言葉からは、メダルには届かなかったものの、自己ベストを更新したことへの満足感が伝わります。
競技終了後、水から出ることなく放心状態の彼女に、観客からは感激の拍手が送られました。そして誰もが「あと100メートルあったら…」と思っていました。それは、彼女の得意種目が200メートル背泳ぎということを皆が知っていたらかでした。
「風の子会」竹宇治聡子の喘息児への奉仕と新たな人生の道
聡子は東京オリンピックから2年後の1967年5月に竹宇治清高と結婚し、3人の娘の母親となりました。その後、1973年に夫が東京に転勤となった際に、彼女は再び社会に戻り、一般の水泳教室のコーチとして活動を始めました。
やがて、彼女は自身の長女が喘息(ぜんそく)であることから、喘息の子供たちを対象とした教室の指導に携わるようになりました。水泳は、高い温度と湿度の温水プールで行われ、水の中では重力の影響が少なく、ホコリも少ないため、喘息の子供たちにとって有益だとされています。
また、水泳を通じて頭部が冷やされる効果もあると言われています。こうした理由から、竹宇治聡子は喘息の子供たちを対象とした水泳教室の運営に力を入れることになったのです。
さらに、竹宇治の人生は、夫が福岡に再度転勤した後に新たな方向へと進みました。飯倉先生の紹介により、国立療養所南福岡病院の西間三馨先生と出会った彼女は、西間先生が抱いていた「喘息の子供たちのための水泳教室を開きたい」という構想に賛同しました。その結果、1977年11月に「風の子会」を設立し、喘息の子供たちの水泳教室を開始することになりました。
その後、「風の子会」の活動は拡大し、竹宇治聡子自身が東京の江戸川区で喘息の子供たちの水泳教室を運営するまでになりました。自身の娘の病気を通じて出会ったこの水泳教室は、彼女にとって重要な「めぐり合わせ」となり、竹宇治聡子としての新たな人生のスタートを切るきっかけとなりました。
スポーツクラブが導く“水泳ニッポン”の復活
メダルがひとつに終わったという悔しさから、“水泳ニッポン”の復活を目指し、立ち上がった先人たち。その願いはスイミングクラブとなり、全国に広まりました。それが、今日の世界で金メダルを争う選手たちを育成するシステムへと発展しました。
水泳界の再生!数々のメダリストを輩出した功績
1988年のソウルオリンピックでは、代々木スイミングクラブ出身の鈴木大地が、革新的なバサロ泳法を使って金メダルを獲得しました。鈴木はその後、スポーツ庁長官に就任し、水泳界だけでなく、日本のスポーツ全体を支えています。
また、1992年のバルセロナオリンピックでは、当時14歳だった岩崎恭子が金メダルを獲得し、その若さと才能で世界を驚かせました。
そして、2000年のシドニーオリンピックでは、日本の競泳選手が計4個のメダルを獲得し、その後もアテネオリンピック以降は、北島康介選手などの活躍により、メダルを比較的コンスタントに取得する時代に突入しています。
東京オリンピックがもたらしたスポーツクラブのレガシー
1964年の東京オリンピックをきっかけに広がった、このようなスポーツクラブは、「世界」を知るきっかけとなった日本において、子供たちに「上達する喜び」を与え、スポーツの基盤を拡大する役割を果たしました。戦後の焼け野原から立ち上がり、高度経済成長を遂げた時期に開催された東京オリンピック。その時にオリンピアンたちが中心となり全国に設立したスポーツクラブは、そのレガシー(遺産)の一部となりました。
このようなスポーツクラブの発展とレガシーが、日本のスポーツ界、特に競泳の分野での成功につながっていると言えるでしょう。それは、国民一人ひとりがスポーツに親しむ機会を増やし、子供たちが自分自身の能力を追求する場を提供し、そして国全体が競技スポーツに対する情熱を持つための土台となっています。
銃規制の国からの快挙!日本のピストル射撃が銅メダル獲得 ── 東京オリンピック物語(22)