1964年の東京オリンピック、日本はレスリング競技で金メダルを連続して獲得。
無敵の「金メダルトリオ」として呼ばれた選手たちが生み出した「日の丸ラッシュ」に、日本中が歓喜の輪に包まれました。
奮い立つ魂!ウエイトリフティング選手の活躍が日本人選手団を鼓舞する ── 東京オリンピック物語(19)
Japanese Wrestling
レスリングで怒涛の金メダルラッシュ!!
東京オリンピックで、日本のレスリング界がかつてない興奮を巻き起こしました。中でも、一人の選手が特に注目を集めました。
「アニマル渡辺」その名前だけで相手に恐怖を抱かせる、日本史上最強のレスリング選手です。
1964年(昭和39年)の東京オリンピック。この大会は、日本のレスリング界にとって記念すべきものでした。
競技は男子のみで、「グレコローマン」と「フリー」の2つのスタイルが大会2日目の10月11日から、駒沢体育館で行われました。
そして、その中心にいたのが一人の選手、吉田義勝。彼はレスリング・フリースタイルのフライ級で、圧倒的な力を見せつけました。
その試合は10月14日に行われ、その日、駒沢体育館は日の丸ラッシュに沸きました。
吉田義勝はその技巧とスピードで次々と相手を圧倒し、ついには決勝リーグに進出。そして、決勝リーグで見事に金メダルを獲得しました。その勇姿に、観客は感動と喜びで一杯になりました。
道産子の誇り!「吉田義勝」の金メダルが築いた新たなレスリング伝説
1950年から60年代、北海道からは千代の山、吉葉山、大鵬という大相撲の道産子横綱が誕生しました。
多くの少年たちが相撲取りに憧れ、その中には、64年東京五輪レスリング・フリースタイル・フライ級王者の吉田義勝も含まれていました。
「体一つでお金を稼げて、腹いっぱい飯が食える」そんな明快な理由でスポーツに身を投じることを選びました。
貧困からの挑戦者、道産子レスラーの挑戦と勝利
吉田は旭川市生まれ、7人きょうだいの5番目。暮らしは決して楽なものではありませんでした。新聞配達、肥料の運搬、薪割りが日課となり、自然と足腰は鍛えられました。
貧しさゆえに、吉田は中学を卒業後も地元の薬局で働きながら定時制高校に通い、そこでレスリングと出会いました。
天井の隙間から雪が入り込む体育館でレスリングの練習を重ね、全国大会での活躍を経て東京の大学に進学しました。五輪開催が決まっていたものの、当時の彼の目指すものは教職免許でした。
そして、中学、高校と皆勤できたのは素晴らしい先生と巡り合えたからこそでした。
大学では貧乏学生ゆえに練習後はアルバイトを掛け持ち。
建設現場で夜間警備をし、新聞社で朝刊をトラックに積み込む日々を送りました。周囲も同じ苦学生で、「日本は再び立ち上がろう」という高揚感に満ちていました。
驚きの五輪代表選出とフライ級の英断
東京大会で、日本レスリングチームは驚異的なパフォーマンスを発揮し、5個の金メダルを獲得しました。優勝候補と目されていた渡辺長武や市口政光に比べ、吉田義勝は伏兵と見られていました。
しかし、この年の全日本選手権で初めて優勝した彼は、そのチャンスをつかむこととなりました。最初のうちは、自身が五輪に出場するなど考えてもみなかったと言います。
フライ級の第一人者は、全日本で3度優勝し、前年のプレ五輪で優勝していた今泉でした。経験豊富で、確実にメダルを狙える選手としてその名が知られていました。
そして、東京五輪の2カ月前、フライ級の代表争いが勃発します。吉田は8月の代表最終選考会を兼ねた日本選手権で、3連覇中の今泉と引き分けに持ち込み優勝。
しかし、吉田の実績は今泉に比べて劣っていたため、再試合することになりました。ところが、試合直前になって「吉田に決めた」と、日本協会の第3代会長であった八田一朗が代表入りを宣言します。
この決定は、当時最強と言われたロシアのアリエフとの対策だったとされます。
今泉はアリエフに対し、過去に勝った経験がなかったのに対し、吉田はまだアリエフと対戦していませんでした。「首をかけて選んでくれた」と吉田は回想します。
多くの人がこの大英断に反発すると思われましたが、実は今泉自身が「私ではメダルを取れても金は取れなかった。納得していました」と語っていたのです。
体調不良を乗り越えた勝利への道
1964年10月、東京の世田谷にある会場、駒沢体育館は、2千人を超える観客で溢れていました。「吉田、がんばれ」という声援と無数の日の丸が吉田義勝を応援し、「ものすごい熱気が大きな支えになった」と彼は回想します。
しかし、吉田は五輪直前に体調を崩し、開会式には参加できませんでした。
選手村で寝込んでいる彼のところへ、レスリング総監督の八田一朗が訪れます。ベッド横に飾っていた国旗を見て、八田は吉田に語りかけました。
「こういうものを見ているから気が高ぶって熱が下がらない。試合はいい。メダルもいらない。お前の体が大事だ」と。
しかし、これが逆に吉田の闘志を湧き立たせました。「冗談じゃないって。病み上がりでフワフワしていましたが、初戦でフランス選手にフォール勝ちして調子が戻った」と彼は述べています。
強豪選手であるアリエフは、長い腕と強い力を持っていました。試合終盤、吉田の左腕をつかまれました。彼は場外に逃げるふりをしました。
それに反応したアリエフが強く引いてくる瞬間、吉田は左足へタックルを決めたのです。
アリエフが相手を引き寄せるとき、重心が軸足にかかって守りがおろそかになるという彼の弱点を、吉田は試合を観察して見つけていました。
吉田はその瞬間、相手がかかとに体重をかけるクセを逃さず、高速タックルで仕留めました。そして、1-0で最大の敵であったアリエフを突破し、優勝を果たしたし金メダルに輝きました。
失われた金メダルとその奇跡的な回復
しかし、その金メダルはある出来事で紛失してしまいました。
それは1965年3月、吉田義勝は日本大学の卒業式へ向かう途中、総武線の網棚にあろうことか五輪の金メダルを置き忘れてしまいました。
彼はすぐに届け出たものの、金メダルは既に誰かに持ち去られていたのです。吉田はこの件について、当時の日本協会会長であった八田一朗から激しく叱責されたと語っています。
「報告のために協会に行った。再発行ができるのかなと思ってね。でも、八田さんに怒られて…。『3日待つから捜せ』って言われたけど、手がかりなんて一切ない。」と彼は振り返ります。
しかし、その後の出来事は驚くべきものでした。3日後、金メダルを持ち去った人がそれを返しにきてくれたのです。吉田義勝の金メダルは無事に彼の元へ戻ったのです。
レスリングからビジネス界へ
吉田義勝は1965年の卒業後、明治乳業に入社し、その後本社取締役や明治乳業販売の社長を務めました。彼がこの道を選んだきっかけは、日本レスリング協会会長であった八田一朗からの提案によるものでした。
当時、吉田は日本大学の4年生であり、東京オリンピックの金メダリストでした。彼は五輪を最後にレスリングを引退し、北海道で教員免許を取得する予定でした。
しかし、八田一朗が「まだです」と言って進路の話を持ちかけ、「一流企業を紹介してやる」と述べたとき、彼の運命は変わりました。
「八田会長の一言で、企業に就職することにしました。最初は3年だけ働き、その後教職に就くつもりだったのですが、営業職を通じて取引先との人間関係が構築され、仕事が楽しくなりました。
その結果、家庭をおろそかにして多忙な仕事をこなし、最終的には本社の部長職に戻りました。レスリングで身につけた戦略を練る力が営業職に活かせたのです」。
1995年には日本レスリング協会の理事に就任し、全日本選抜選手権大会の「明治杯」開催に尽力しました。現在は日本マスターズレスリング連盟の会長として、レスリング界への貢献を続けています。
「渡辺長武」の無敵のパフォーマンスと金メダル獲得の秘話
東京オリンピックでレスリングのフェザー級で金メダルを獲得した渡辺長武は、北海道の和寒町育ちです。彼が子供の頃、両親が営む石材店での重い石を運ぶ仕事が彼の足腰を鍛えました。
しかし、その体験は渡辺が得た筋力の一部に過ぎませんでした。
彼の父親が病に倒れた後、家業は豆腐店に移り、渡辺の日常はさらに過酷なものとなりました。彼は毎朝、石臼で豆を挽いてから学校へと通う日々を送りました。
そして、雪が窓の隙間から吹き込む体育館でレスリングの練習に励む時間もありました。
「父が倒れてから、母は豆腐屋を始めました。そうすると、豆を挽くのが私の役目になりました。それにより、特に引く力が身につきました。私の日々の生活が、レスリングで必要な揺さぶり、戦略の練習になっていたのです」と渡辺は語ります。
高校時代の猛練習と厳しい規律
渡辺長武は士別高校でレスリングを始め、その頃から彼は猛練習に耐え抜いてきました。氷点下30度の厳しい寒さの中でも、彼は上半身裸でぶつかり合うレスリングの練習に励んでいました。
そして、標高150メートルの九十九山をうさぎ跳びで上るという過酷なトレーニングもこなしました。
「うさぎ跳びができないような選手はいらない。」という厳しい言葉を持つ渡辺ですが、彼自身がそれを体現してきたからこそ、言えるのでしょう。
その訓練法は現代では故障の危険性が高いとされているかもしれませんが、渡辺にとってはタックルの練習にはうさぎ跳びが一番だったのです。
そして彼は、中大に進んだ1960年以降も猛練習を続けました。
「練習では立て続けに10人を相手に戦う。ぶっ倒れると水をかけられる。門限を破ると外の砂利の上で朝まで正座させられる。まあ、ひどいものでしたね」と、渡辺は当時を振り返っています。
「ワイルド・アニマル」の誕生!レスリング界の新星
大学2年生のときに初めて全日本選手権で優勝し、学生選手権も獲得した渡辺長武。彼の進歩は著しく、その力量は日本国内だけでなく海外でも注目を集めるようになりました。
1963年、彼が大学4年生だった時に開催された世界選手権はアメリカで開催されました。その際に、当時日本レスリング協会会長だった八田一朗の助けを借りて、渡辺は全米選手権に特別参加する機会を得ました。
そして彼は、その全米選手権で見事に6戦すべてをフォール勝ちで制覇。最短の試合では20秒、トータルでも10分かからなかったといいます。
その圧倒的な強さから、アメリカのマスコミは彼を「ワイルド・アニマル」、つまり「野生の獣」と評し、ニックネームとしてつけました。
この称号は、彼の恐るべき力と速さ、そして無慈悲なまでの競技への取り組み方を象徴するものでした。
「アニマル勝ったあ!」圧倒的なパフォーマンスと大衆文化への影響
渡辺長武が試合で勝つたびに、日本全国の家庭では新たに普及し始めたカラーテレビの前で歓声が上がりました。
彼の圧倒的なパフォーマンスとそのニックネーム「アニマル」は日本国内でも広く知られるようになり、彼が試合に勝つたびに人々は「アニマル勝ったあ」と叫ぶほどでした。
その影響は映画にも及び、1964年公開の映画「三丁目の夕日 ’64」では主演の堤真一が「アニマル勝ったあ」と叫ぶシーンが描かれました。
これは、当時の日本社会がどれだけ渡辺長武に注目していたかを示す一例でしょう。
さらに、1968年メキシコ五輪前には、渡辺をモデルにしたテレビアニメ「アニマル1(ワン)」がヒットしました。これにより、彼の影響力はスポーツ界だけでなく、大衆文化全体に広がりました。
アニメは特に若い世代に大きな影響を与え、新たなレスリングのファンを生み出す一因となりました。
あの「アニマル浜口」の名付け親
その後、この称号は浜口京子選手の父親、アニマル浜口に譲られました。浜口は、国際プロレスに入門した際に、吉原功社長からこのリングネームを付けられました。
彼自身、そのニックネームの由来を知らなかったと述べていますが、渡辺は後年のインタビューで、日本レスリング協会の八田一朗会長と早稲田大学レスリング部OBでもある吉原社長の依頼により、自身のニックネームを浜口に譲ったと語りました。
技が正確すぎる!!?「スイス・ウォッチ」
渡辺長武が二つ目のニックネーム、「スイス・ウォッチ」を得たのは、彼の技の正確さと緻密さからです。
スイス製の時計は、精度と耐久性で世界的に高く評価されており、その比喩は彼のレスリングスキルに対する最高の賛辞でした。
「霊長類最強」他を全く寄せ付けない圧倒的な力で金メダル
1964年の東京オリンピックで渡辺長武は、その力強さで全ての試合を一方的に進めて金メダルを獲得しました。彼は6試合全てで勝利し、そのうちの3試合ではフォール勝ちを収めました。
彼は対戦相手に対し1ポイントも与えない圧倒的な強さを見せつけ、最終的にはソ連のホハシビリ選手との試合で判定勝ちを収めています。
彼のパフォーマンスは、異次元の力と精神力を示していました。外国人選手からは「ワイルド・アニマル」(野獣)とあだ名され、そのパワフルなプレイスタイルで誰もが畏怖の念を抱きました。
金メダルを獲得した後、彼は「決勝は、勝てばいいと思って慎重にやった。そして、大和魂を世界に示したかった」と語りました。
彼はその後も世界選手権で3年連続の世界一に輝き、186連勝の驚異的な記録を打ち立て、これはギネスブックにも掲載されるほどの偉業でした。
引退後は電通に就職も……なんと46歳で現役復帰!!
渡辺長武は、オリンピック金メダリストとしての活動を終えた後、大手広告代理店である電通に就職しました。そこでは週に3日も会社に泊まるほどの厳しい勤務を経験しました。
44歳で退社した後、彼はスポーツ用品会社の役員として働き、自分でイベント会社を設立しましたが、残念ながら両方とも成功には至らず、多額の負債を抱えることになりました。
「連勝記録を189に更新」46歳での現役復帰に挑む渡辺長武の姿勢と決意
しかし、彼の闘志はそこで消え去ることはありませんでした。失意の中で、再びレスリングで勝負したいとの思いが湧き上がり、46歳で現役復帰を果たしました。ソウルオリンピックを目指し、1年で10キロ以上の減量を達成し、全日本社会人選手権に挑みました。しかし、準々決勝で若手選手に敗れ、彼の公式戦連勝記録は189で止まりました。
その後も彼は毎日ジムに通い、体を鍛え続けていました。
彼は1日500回の腹筋運動や、50~60キログラムのベンチプレスをこなすなど、彼の競争心と高い目標設定は衰えることがなく、「何歳になっても勝つことに拘り続けていきたい。これは金メダルを獲ったものの宿命かもしれません」と元気に語っていました。
日本が誇る金メダルトリオの最後の一人!「上武洋次郎」の熱き闘志
1964年の東京オリンピックでのレスリング競技では、吉田義勝、渡辺長武、そして上武洋次郎の3人がそれぞれ金メダルを獲得し、「金メダルトリオ」を形成しました。
吉田義勝選手はフライ級で競争し、ソビエト連邦のアリ・アリエフ選手を倒して金メダルを獲得しました。彼のタックルは「必殺のタックル」と呼ばれ、これによってソビエト連邦の選手を制覇しました。
渡辺長武選手はフェザー級で競争し、その圧倒的な力と技術で金メダルを獲得しました。彼は日本レスリング史上最強とも言われており、その活躍は広く認められています。
上武洋次郎選手はバンタム級で競争し、彼の金メダル獲得の秘密は「火事場の馬鹿力」にありました。すべての力を試合に出すために、彼は準備運動なしで試合に臨んでいたと言われています。
彼の自由奔放で無鉄砲なスタイルは、対戦相手を圧倒し、結果として金メダル獲得につながりました。
当時は無差別級しかない柔道……限界を感じていた
小幡(旧姓上武)洋次郎が格闘技への道を歩むきっかけは、中学生の時に始まりました。
生まれながらに熱い血を持つ彼は、中学3年生の秋に自分の情熱をぶつけるためには格闘技が適していると感じ、進学希望先である群馬県立館林高等学校の柔道部で稽古を始めました。
しかし、当時柔道は無差別級のみの世界であり、自分自身が軽量であることから、その限界を感じてしまいました。それが、彼が柔道部の隣にあるレスリング部に興味を持つきっかけとなりました。
小幡は中学時代にテニス部に所属していましたが、彼にはその活動が物足りなく感じられていました。
そこで彼は、夏休みに館林高校で行われていた柔道の練習に参加し、その際にレスリングの練習も見学するようになりました。
その館林高校ではレスリングが伝統的に強く、高校生だけでなく大学生や社会人も全国から指導や練習に来ていました。
その光景を見て、小幡はレスリングが自分にとって面白そうなスポーツだと感じ、次の日から弁当を持参して柔道の練習の後にレスリングを見学するようになりました。
こうして、小幡洋次郎のレスリングへの道が始まったのです。
高校でレスリングをはじめ、3年でインターハイを制覇
小幡洋次郎は館林高等学校に入学後、すぐにレスリング部で目覚ましい活躍を見せました。小幡は高校2年生で国民体育大会、3年生でインターハイにおいて優勝し、その才能を広く認識されることとなりました。
早稲田大学出身の正田文男氏(群馬県レスリング協会初代会長)に見出され、早稲田大学に進学する道を選びました。
1962年4月に早稲田大学第二商学部に入学した小幡は、同年の全日本選手権においてフリースタイルバンタム級で3位に輝きました。
レスリングのため!強豪校オクラハマ州立大学に留学
早稲田大学2年時、小幡洋次郎氏は日本レスリング界の巨星である八田一朗の勧めにより、米国オクラホマ州立大学に留学しました。この大学はレスリングの強豪として知られていました。
留学生活を通じて、彼は異国の地で競技に専念するとともに、孤独な練習の重要性を理解する機会を得ました。
留学中の夏休みには、全体練習ができない3か月間のオフシーズンを利用して、牧場で働きながら足腰を鍛えました。
練習相手がいないときには、グラウンドの片隅にあったアメリカンフットボールのトレーニング器具を使ってタックルの練習に励みました。
さらに、大学の成績が悪いと試合に出場できないルールのため、レスリングの練習の後には毎日約5時間を勉強に費やしていました。
このような厳しいスケジュールと厳格なルールに従う経験は、小幡の精神的な強さを鍛えるのに一役買いました。
帰国後の全日本選手権で優勝!!オリンピック選手に!
1964年の夏に小幡洋次郎は帰国し、全日本選手権で見事に優勝しました。その結果、彼は東京オリンピック出場の資格を手に入れました。
決勝の相手「アクバッシュ」は障害を背負っていた
1964年10月14日、東京オリンピックのバンタム級レスリングの決勝戦が駒沢体育館で行われました。この試合で小幡洋次郎氏は、トルコのアクバシュ選手と対決しました。
小幡は試合中に左肩を脱臼するアクシデントに見舞われましたが、試合の終盤にタックルでライバルを倒し、2-1で逆転勝利を収めました。
これにより彼は、先に金メダルを決めていたフライ級の吉田義勝氏とフェザー級の渡辺長武氏に続く、1964年東京オリンピックのレスリング金メダルトリオの一員となりました。
一方、対戦相手であったアクバシュ選手は、ポリオ(小児麻痺)により左足が極度に細い障がいを持つレスラーでした。
しかし、その彼が世界王座に就き、五輪で銀メダルという栄冠を手にするほどの強さを示したことは、スポーツ界において障がい者が有能であることを示す重要な例となりました。
アクバシュ選手は、激しいレスリングの世界で障がいを持つ選手として強さを発揮しました。
オリンピックの後アメリカに戻り大活躍
小幡は、1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した後、再びアメリカに戻り、そこでさらなる成果を挙げました。
1964年から1966年にかけて全米選手権で3連覇を達成し、1966年の世界選手権ではアメリカチームのアシスタントコーチとして帯同しました。
その才能と成果はアメリカでも広く認められ、彼が卒業したオクラホマ州立大学では、卒業生の偉人として殿堂入りを果たしました。
男子日本人レスリング選手唯一!オリンピック二連覇を達成
上武洋次郎は、1968年のメキシコシティーオリンピックでも優勝し、日本人史上初となる2大会連続の金メダルを獲得しました。
その後小幡は、スポーツとはまったく違う業界へと足を踏み入れました。それは妻の実家が営むホテル業でした。
小幡はオリンピック連覇を果たすことで自身の目標を達成したと感じ、新たな挑戦として、まったく知らない業界への参入を決意したのです。
日本人初の2大会連続金メダリスト・上武洋次郎さんが明かす偉業を達成できた理由(ENCOUNT) – Yahoo!ニュースhttps://t.co/KaMabBtcgt
— 館林くらし (@tatebayashi) August 8, 2021
来夏に延期された東京五輪に関連する事象を取り上げる連載。今回は、金メダリストからのメッセージ。レスリング男子フリースタイルバンタム級で1964年東京五輪、68年メキシコ五輪を連覇した小幡(旧姓・上武)洋次郎さんが五輪を目指す選手に説いたこととは-。記事はこちら→https://t.co/irHlz53cU8 pic.twitter.com/MVPdUKJnbe
— サンスポ五輪パラ (@sanspo2020) May 18, 2020
グレコローマンスタイルでも日の丸ラッシュ!!
さらに市口政光選手と花原勉選手が、グレコローマンスタイルのレスリングで金メダルを獲得し、日本の名誉を高めました。
レスリングには「フリースタイル」と「グレコローマンスタイル」という2つのスタイルがありますが、両者には大きな違いが存在します。
フリースタイルは全身を使った攻防が認められていますが、グレコローマンスタイルは下半身での攻防が禁止されているため、上半身のみで技を競います。
このスタイルの起源は古代ギリシャ・ローマにまでさかのぼります。
そのため、その名称は「ギリシャの」を意味する「グレコ」と、「ローマの」を意味する「ローマン」から取られています。
古代の戦士たちが戦闘の訓練として行っていたとされ、近代オリンピックの第1回大会から現在に至るまで競技として行われています。男子のみが参加する競技であり、技の美しさと力強さが求められます。
「市口政光」社会人とアスリートの二刀流
1964年東京五輪での金メダル獲得のフリースタイルの切り札が渡辺長武なら、グレコローマンは市口政光でした。市口のレスリングへの道は関大に入学してから始まる。
市口の信念は「基礎体力をつければ何とかなる」であり、これを胸に父親の経営する鉄鋼業の工場でバーベルや鉄アレイを自ら作り、創意工夫によるトレーニングを積みました。
「基礎体力をつければ何とかなる」市口はこの信念を胸に、鉄鋼業を営む父の工場でバーベルや鉄アレイを自ら作り、創意工夫でトレーニングに取り組み続けました。
体力を試すべく行われた東京五輪候補の体力測定では、彼の背筋力は驚異の220キログラムを記録し、周囲を驚かせる。
さらに市口は、高校時代から習っていた柔道の投げ技が外国人選手に対して有効で、東京五輪2年前の世界選手権で優勝し、自信を深めていきました。
大学卒業後、市口は貿易商社の辰野株式会社に入社。仕事と競技の両立を模索し、サラリーマン・アスリートとして生きることを決意。このようなライフスタイルは、今では一般的だが、当時としては珍しかったようです。
しかし、その才能に期待を寄せる企業が出現したことで、市口は活動を続けることができました。
市口の闘志は、「フリーに負けるな」という合言葉からも伝わる。1960年ローマ大会までに7個ものメダルを獲得しており、その気迫はグレコローマンスタイルの選手にも影響を与えました。
市口は東京五輪では1回戦をフォール勝ち、2回戦から5回戦までを危なげなく判定勝ちを収めました。そして、当時は持ち点が0になると失格となる方式が採用されていたため、この段階で市口の金メダルが決まりました。
午前中は仕事をこなし、午後からは練習に打ち込むという生活を送り続ける市口は「これで一人前の社会人になれました」と語っていましたが、その背後には会社に迷惑をかけ続けているという強い自責の念もあったといいます。
それでも自分の道を進み続け、その結果、社会人としてもアスリートとしても成功を収めることができました。
日本スポーツ界に刻んだレスリングの新たな地位
この1964年東京オリンピックにおいて、日本のレスリングチームは圧倒的な強さを示し、フリースタイルとグレコローマンスタイルで合計5個の金メダルを獲得した。
その活躍は、国内外にレスリングが日本の「お家芸」であるという認識を強く印象付け、日本のスポーツ界におけるレスリングの地位を一気に引き上げたのです。
“水泳ニッポン”の復活へ!日本水泳界の未来を切り開いた「スイミングクラブ」 ── 東京オリンピック物語(21)