戦火に散ったアスリートたちの夢と命の輝き ── 東京オリンピック物語(2)

嘉納治五郎の死後、第二次世界大戦の激化により、1940年東京オリンピックの開催は実現できませんでした。日中戦争や戦時体制下での資源制約が進み、組織委員会は改築計画や工事中止を余儀なくされました。

日本政府の主導のもと、東京オリンピックの返上が決定され、国際オリンピック委員会もヘルシンキでの開催を決定しましたが、戦争の影響により実現しませんでした。戦争の激化や戦局の悪化により、多くの人々が犠牲となり、日本は戦争の過ちを痛感し、戦後復興と平和への道を歩み始めました。

この記事では、嘉納治五郎の死後の東京オリンピックに関する事実や戦争の影響を詳しく紹介しています。戦時下でのオリンピック開催の困難さや戦争の悲惨さについて知りたい方にとって、興味深い内容になっています。また、日本が戦後復興を果たし平和国家への転換を遂げる過程も触れており、日本の歴史を深く理解する上でも重要な記事になっています。

日本オリンピックの父・嘉納治五郎の功績 ── 東京オリンピック物語(1)
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関東大震災からの復興をアピールし、「皇紀二千六百年」を記念して構想された一九四〇年の東京オリンピックは、ヒトラーやムソリーニとの取引で招致に成功したものの、「満州国」参加の可否、天皇の開会宣言など問題は山積みだった。そして日中戦争が勃発、ついに返上を余儀なくされる。戦争と政治に翻弄された五輪の悲劇と、尽力した人々の苦悩を描く。(「BOOK」データベースより)

Pacific war

戦争の影…嘉納治五郎の死と東京オリンピックの返上

Magrocker/YouTube

嘉納治五郎の死後、日本は日中戦争の激化により、1940年東京オリンピックの開催権を返上せざるを得なくなりました。その後、日本はさらに拡大する戦争へと突き進み、結果的には第二次世界大戦、または太平洋戦争へと突入しました。この戦争は、多くのアスリートたちの命をも奪い去りました。

鉄資材不足と東京オリンピックの施設建設計画

この頃、明治神宮外苑競技場を改築しメインスタジアムにするという計画が進められていましたが、組織委員会は内務省との合意が得られなかったため、1940年4月にこの案を放棄しました。次に決定したのは、駒沢のゴルフ場跡地に新たなスタジアムを建設することでした。また、神田駿河台には室内プールなどを備えた体育館を新設することも計画されました。

これにより、東京オリンピックのための施設建設がようやく動き出したかに思われましたが、当時の日本の状況はそれを許さなかったのです。鉄は非常に貴重な資材であり、スタジアム建設のために大量に使うことはほぼ不可能でした。

重要物資の制限と東京オリンピックの工事中止

1940年6月には「重要物資需給計画」の改定が承認され、東京五輪関連の工事の中止も明記されました。7月には、鋼鉄と羊毛が戦時重要物資として消費が制限され、統制は厳しさを増していきました。東京オリンピックのメーンスタジアムには1000トンもの鉄材が必要とされていましたが、その鉄材は使用制限の33品目に含まれていました。

1940年6月、「重要物資需給計画」の改定が承認され、東京五輪関連の工事中止が明記されました。

さらに7月に入ると、鋼鉄と羊毛の消費が制限されるなど、統制は厳しさを増していきました。使用制限の33品目に鉄材も含まれたが、東京オリンピックのメインスタジアムには鉄材1000トンが必要とされていました。

当時は「オリンピックの競技場を造るか、駆逐艦1隻を造るか」の状況で、海軍次官だった山本五十六は「競技場新設に要する鉄鋼の量はさほどではないが、それでも駆逐艦2隻は建造できる」と笑っていたといいます。

東京オリンピックの返上と大会中止

このような状況の中で、五輪を所管する厚生省が大会中止を決めました。1940年7月14日、木戸幸一厚生大臣がこの悲報を公に発表し、続く日には、東京オリンピックの正式な返上が閣議決定されたのです。

アイエム[インターネットミュージアム]Internet Museum/YouTube
副島道正と日本政府の主導による東京オリンピックの返上

通常、オリンピックの返上は主催者である組織委員会の決定によるものですが、1940年の東京オリンピックの中止は日本政府の主導により行われました。その背後には、IOC委員であった副島道正の存在がありました。

この時点で、日本のオリンピック関係者は困難な状況に直面していました。東京大会組織委員長でありIOC委員でもあった徳川家達は病で活動ができず、嘉納治五郎も船上で急逝していました。そのため、IOC委員としての責任を一身に担っていたのが副島でした。

副島道正と東京市の熱意と返上の皮肉な展開

副島は近衛文麿首相と連携をとりながら東京大会の返上決定に導きました。ムッソリーニとの交渉など、東京開催に向けた奔走を続けていた彼が、開催返上の中心人物となったのは皮肉な展開でした。

一方で、東京市は開催に向けた熱意を持ち続けていました。そのため、組織委員会が返上を決定するとは考えにくかったのです。しかし、直前に返上という結論が出れば、代替の開催地を探す時間もなく、日本はオリンピック史に汚点を残すことになります。その危険を避けるべく、副島は政府に返上を働きかけました。

閣議決定と組織委員会への通知

その結果、1940年7月15日、オリンピックの返上が閣議で正式に決定されました。この決定は組織委員会にとって驚きのニュースでした。組織委員会の副会長である下村宏(体協会長)と事務総長の永井松三、そして東京市長の小橋一太は厚生次官から大会中止の勧告を受けました。

副島道正の孤立とIOCからの評価

大会返上を決議した組織委員会の緊急総会では、副島道正は孤立無援の状態に置かれました。その両隣には誰も座らず、委員たちは彼を裏切者とみなしたのです。副島はこのあと、IOC委員を辞任する意思を示し、会長のラトゥールに辞任の意志を伝える電報を送りました。

しかし、ラトゥールからは「あなたは自国およびIOCにとって正しいことをしたのに、なぜ辞任しなければならないのか」という留任を促す返答がありました。IOC執行委員会でも、副島の行動は「オリンピック理念ならびに自国に対するすばらしい行動」と評され、辞任は認められなかったのです。

嘉納治五郎への警告…オリンピック中止の危機と戦争の影響

実は、戦争によるオリンピック中止は生前の嘉納治五郎も危惧していました。

IOC総会に出席していた嘉納治五郎は最終日にラツール会長からある文書を受け取りました。その文章は「1940年までに日中戦争が終結していなければ、各国は選手を派遣せず、返上決定が遅れれば、どの都市でも開催できなくなる」というものでした。

つまりこれは、オリンピックのためにも迅速な返上決定が必要というものでした。

Tetsuro KASHIMA/YouTube

アスリートたちの破壊された夢とスポーツの消失

アスリートたちの夢は突如として終わりを告げた。以降、他府県間でのスポーツ大会は基本的に禁止され、全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)も毎年甲子園で開催されることはなくなりました。これにより、スポーツに情熱を注ぐ若者たちからは、その活動の場と時間が奪われました。

その後、太平洋戦争が勃発し、これまでオリンピックでメダルを獲得したり、プロ野球や学生野球で活躍していた選手たちも、厳しい時代に巻き込まれていくことになります。

第二次世界大戦の勃発と太平洋戦争の開戦

1939年の9月1日、ドイツのポーランド侵攻が始まりました。これに対して、わずか2日後にはイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、ここに第二次世界大戦の火蓋が切られました。

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube
真珠湾攻撃と太平洋戦争の勃発

1941年12月、日本はマレー半島でイギリスに、そしてハワイの真珠湾でアメリカに攻撃を開始し、太平洋戦争が始まりました(これには既に続いていた中国との戦争も含まれます)。当時の日本では、この戦争を「大東亜戦争」と呼んでおり、東条英機内閣の閣議決定によるものです。日本は、欧米の植民地支配からの脱却と東アジア諸民族による共存共栄を目指す「大東亜共栄圏」の樹立を目標として戦争に臨みました。戦後は、「太平洋戦争」という表現が一般的に使われるようになりました。

BBC News Japan/YouTube

第二次世界大戦と中止されたオリンピック

東京大会の開催返上に対して、国際オリンピック委員会はヘルシンキでの第12回大会開催を決定しましたが、第二次世界大戦の影響で実現しませんでした。さらに、1939年のIOC総会で1944年のロンドン大会開催が決まっていましたが、これも同様に開催不可能となりました。

戦争に巻き込まれる日本の学生たち

戦争産業が優位となると共に、多くの学生が動員される事態となった太平洋戦争の開始時期には、日本は東南アジアや南太平洋の多くの島々を制圧しました。しかし、資源面で日本を上回るアメリカが反撃を始めたため、次第に日本の戦況は厳しさを増していきました。

国立競技場で繰り広げられた学生たちの出陣

1943年、日本の戦局が逼迫してくると、大学生や高等学校の生徒までもが徴兵されるようになりました。全国7都市と満州を含む各地で、文部省の主導による壮行会が開催されました。

東京では、秋の冷たい雨が降る中、明治神宮外苑競技場(後の国立競技場)で首都圏の77校からの学生たちによる出陣学徒壮行会が行われました。皮肉なことに、かつてオリンピックの開催を目指して嘉納治五郎によって建てられたこの競技場で、平和の祭典とは真逆の出陣壮行会が開かれ、約2万5千人の学生たちの足音が響き渡りました。

atoms699/YouTube

敵性スポーツの禁止と抵抗…。戦時下のスポーツ界の模索

第二次世界大戦中、多くのスポーツが敵性スポーツとみなされ、中止されました。

アメリカ生まれの野球は特に弾圧を受け、1925年から始まった東京六大学野球は1943年4月に解散命令を受けました。同年9月には法文系学生の徴兵猶予も解除され、選手たちは前線に送られました。しかし、野球界はその存続を試み、戦闘帽をかぶり、ユニフォームは国防色にし、チーム名を漢字化し、ストライクを「よし1本」と表現するなど、戦時下でも活動を続ける方法を模索しました。

同様に、イギリス発祥のラグビーも敵性スポーツと見なされ、”トライ”という用語の使用が禁じられ、「略陣」に改められました。それはおそらく、敵の陣地を「攻略」し、「陥落」させるという意味合いであったと思われます。

アメリカンフットボールも1943年から1945年までの3シーズン、敵性スポーツとして禁止されました。この時期、選手たちは様々な制約に直面しながらも、その精神は揺るがなかったでしょう。

一方、プロボクシングは、イギリス発祥でありながらアメリカで発展したという背景から、日本軍部から敵性スポーツとみなされました。ボクシング用語の無理な日本語化や、興行への介入に直面しながらも、ボクシング界は存続を試みました。しかし、戦況が悪化する中、1943年にはついに活動を休止せざるを得なくなりました。

戦争体制下の日本社会におけるスポーツと武道の役割

第二次世界大戦中の日本では、いわゆる「敵性スポーツ」への弾圧と並行して、武道と体操が国民生活の一部として推奨されました。これらの活動は、日本の伝統や国民の精神的統一を重視する戦時体制と相性が良かったと言えます。

武道は、その歴史と精神的な要素が日本の伝統的価値観と一致していたため、戦争の時期には国民の士気向上や訓練の一環として重視されました。武士道精神を体現する活動として、武道は国民に対する忠誠心や献身性を強化するための手段と見なされました。

体操もまた、その身体的な健康効果と規律性から、国民の身体的な強化や団結の象徴として推奨されました。体操は集団で行うことが一般的で、これが戦時下の集団主義や団結精神を促進する役割を果たしました。

このように、スポーツや身体活動は戦時体制下の日本社会において、単なる娯楽だけでなく、国民の精神統一や身体強化の手段として利用されました。

アメリカ軍の日本本土空襲開始への道

1944年の7月、サイパン島が陥落しました。これはアメリカ軍が日本本土への空襲を可能にする重要な出来事でした。サイパン島はアメリカ軍にとって重要な前線基地になり、そこからの飛行距離は日本本土までとどきました。

これにより、B-29という重爆撃機が日本本土まで到達し、空襲を行うことが可能となりました。

焼き尽くされた都市、戦争末期の東京空襲とその被害

アメリカ軍による東京への最初の大規模な空襲は、1944年11月24日に開始されました。これは、B-29爆撃機による昼間の高高度爆撃で、主に軍需工場を狙って行われました。しかし、B-29爆撃機が高高度から投下する爆弾の精度は低く、効果は限定的でした。

より効果的な戦術として、アメリカ軍は1945年3月から、B-29爆撃機による夜間の低高度爆撃を開始します。これらの爆撃では焼夷弾が使用され、大規模な火災が引き起こされました。

このような焼夷弾による空襲は、日本の他の都市に対しても行われ、戦争末期の日本の都市とその住民に大きな被害を与えました。

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「硫黄島の戦い」アメリカ軍の制圧と日本本土空襲の加速

硫黄島の戦いは、太平洋戦争中の1945年2月から3月にかけて行われた戦闘で、日本軍とアメリカ軍の間で繰り広げられました。

硫黄島は、日本本土から南へ約1,250キロメートルの地点に位置する島で、アメリカ軍にとって日本本土への空襲の基地とするには理想的な位置にありました。

アメリカ軍はこの島を制圧することで、B-29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を効率的に行うことが可能となりました。また、硫黄島の制圧は、日本軍の早期警戒拠点の無力化と、護衛戦闘機の配備、および緊急着陸基地の確保という重要な戦略的意義も持っていました。

この戦闘は非常に激しく、アメリカ軍は21,000人以上の兵力を投入し、日本軍は約21,000人が守備していました。日本軍は地下壕と洞窟を利用した防御体制を敷き、これがアメリカ軍の攻撃を難航させました。最終的にアメリカ軍は島を制圧しましたが、その過程でアメリカ軍は6,821人の戦死者と19,217人の負傷者を出し、日本軍はほぼ全滅しました。

その後、硫黄島は日本本土への中継地点として重要な役割を果たし、B-29の護衛戦闘機や緊急着陸基地として活用されました。これにより、日本本土への空襲はより激しくなり、戦局はさらに悪化していきました。

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「東京大空襲」夷弾による火災地獄と市民の犠牲

1945年3月10日未明、B29爆撃機による東京への大規模攻撃が始まりました。

約1700トンの焼夷弾が東京中心部に投下され、東京の台東区、墨田区、江東区など、いわゆる下町地区の住宅密集地が焼き尽くされました。その被害は、死者約10万人、重軽傷者約10万人、焼失家屋約27万棟、被災者は100万人及び、多くの人々が生活の基盤を失いました。そして犠牲者の多くは一般市民でした。

東京の大部分が木造建築物であったことから、大規模な火災が発生したのです。それはまさに火の海と化しました。

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「東海道大空襲」死傷者と焦土化がもたらした傷痕

その後の3月12日と13日には、名古屋と大阪も同様の無差別爆撃を受け、これらの攻撃は「東海道大空襲」とも称されました。このような空襲は全国206都市のうち98市に及び、死傷者は約66万5千人、焼失家屋は約236万戸にも上り、日本は文字通り焦土と化しました。

これらの空襲は、戦争の終結に向けたアメリカの戦略の一環であり、日本の戦意を喪失させることを狙ったものでした。しかし、これによって生じた大量の死者と被災者、そして都市の大規模な破壊は、戦後の日本社会に深い傷痕を残しました。

「10・10空襲」沖縄戦争の始まりと那覇市の壊滅

1944年10月10日の「10・10空襲」は、沖縄戦争の始まりを告げる出来事でした。アメリカ海軍による大規模な空襲で、南西諸島全体が攻撃対象となりましたが、特に那覇市は大きな被害を受け、「那覇空襲」とも称されるほどでした。

この空襲では、アメリカ海軍の空母から出撃した約1400機の航空機による波状攻撃が9時間にわたって行われました。爆弾、焼夷弾、銃弾が併用され、軍事施設だけでなく、学校や病院といった市民生活に必要な施設も含めて那覇市はほぼ完全に焼き尽くされました。

この攻撃により、軍民合わせて約1500人が死傷しました。特に那覇市では、民間人の犠牲者が255人を含む330人に上り、市の約9割が焼夷弾などで焼失しました。

沖縄戦争は、この空襲を皮切りにして地上戦に移行し、結果的に20万人以上の犠牲者を出す悲惨な戦闘に発展しました。日本本土への侵攻を阻止するための防衛線と位置づけられた沖縄は、住民を巻き込んだ戦闘によって甚大な被害を受け、多くの命が奪われました。

未来に残す 戦争の記憶/YouTube

「広島・長崎への原子爆弾」壊滅的な被害と大量の犠牲者

1945年(昭和20年)8月6日と9日には、アメリカ軍による世界初の原子爆弾投下が行われ、広島と長崎に壊滅的な被害がもたらされました。

8月6日午前8時15分、広島市上空でアメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が投下されました。爆弾は約600メートルの高度で爆発し、TNT火薬2万トン分のエネルギーを一瞬にして放出しました。この爆発により、広島市は一瞬にして焼け野原と化し、無数の人々が死傷しました。

その3日後の8月9日、別のB-29爆撃機「ボックスカー」が長崎市上空でプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下しました。こちらも大量の人々が死傷し、都市自体が壊滅的な打撃を受けました。

広島と長崎の原爆投下による死者は、同年12月までにそれぞれ約14万人と7万4000人に上り、さらにその後も放射能による健康被害で多くの人々が亡くなりました。

HISTORY CHANNEL/YouTube

「ポツダム宣言の決断」広島・長崎と日本の無条件降伏

日本政府は当初、1945年7月26日に発表されたアメリカ、イギリス、中国の三カ国によるポツダム宣言を黙殺していました。しかし、広島と長崎への原子爆弾投下や、8月8日に始まったソビエト連邦の対日参戦を受けて、日本政府は状況が一変しました。

8月14日、日本はついに「ポツダム宣言(無条件降伏)」を受諾することを決定しました。

social studies Channnel/YouTube
「玉音放送」昭和天皇の終戦の詔書と戦争終結の決意

そして1945年8月15日正午、昭和天皇(裕仁)はラジオを通じて全国に向けて「終戦の詔書」を朗読しました。この放送は、「玉音放送」として広く知られています。この放送で昭和天皇は、「ポツダム宣言」を受諾し、太平洋戦争の無条件降伏を宣言しました。

この「終戦の詔書」には、天皇が戦争を続けると日本国民の滅亡に繋がると認識していること、そしてそのために戦争を終結する決意を表明しています。

毎日新聞/YouTube
戦後の復興と平和への願い…戦争の悲劇と国家の再生

日本の戦争は、非常に多くの犠牲を伴った悲劇的な出来事でした。戦争の期間中、日本の国民だけでも約310万人が亡くなりました。これには軍人だけでなく、非戦闘員である一般市民も含まれています。

また、生き残った人々も戦争の結果、その後の生活が困難になるなど深い傷跡を残しました。戦争による物資の不足やインフラの破壊、人々の心理的なトラウマなど、戦争の影響は終戦後も長く続きました。

しかし、1945年の終戦を経て、日本は戦争の過ちを痛感し、平和国家としての道を歩み始めました。憲法の下で戦争放棄を明記し、国際社会との和解を図ることで、戦後復興を達成しました。

「戦没オリンピアン」戦争で命を失った競技者たちの悲劇

戦時中の日本では、オリンピック選手であっても兵役から免除されることはありませんでした。その結果、多くの優れたアスリートが戦地へ送られ、悲劇的な運命を辿りました。彼らは、日中戦争や太平洋戦争での激戦地で戦死・戦病死したり、国内での空襲によって命を落としたりしました。

これらの戦没オリンピアンは、平和な時代において国の代表として競技に専念し、栄光を追求することができるはずでしたが、戦争のためにその機会を奪われたのです。

戦場に消えたメダリストたち

1932年のロサンゼルス大会と1936年のベルリン大会では、日本の競泳選手たちは金9個、銀7個、銅7個のメダルを獲得し、世界を驚かせました。しかし、戦争が本格化すると、水泳選手たちは軍の水泳指導に動員されるようになりました。その中には、1936年のベルリン大会で史上最年少の代表に選ばれた児島泰彦も含まれていました。

東京、ヘルシンキ、そして1944年のロンドン大会が中止となり、彼のオリンピックでの金メダル獲得の夢は戦争によって打ち砕かれました。児島は海軍士官として沖縄に向かい、1945年6月の沖縄戦で戦死しました。

馬術の西竹一と水泳の河石達吾も、戦死したメダリストでした。河石は、生まれたばかりの長男に会うことなく亡くなりました。

1936年のベルリンオリンピック代表のサッカーチームからも多くの選手が戦死しています。このチームは、スウェーデン代表を3-2で破り、「ベルリンの奇跡」と呼ばれたのですが、その試合でゴールを決めた選手たちのうち2人が戦死しました。

消えたオリンピックの輝き

1940年東京オリンピックに出場するはずだった多くのアスリートも戦場で命を落としました。

その中には、東京商科大学(現在の一橋大学)のOBである竹本克己も含まれています。竹本はホッケー選手としてオリンピック代表候補に名を連ねていましたが、シベリア抑留中に死亡しました。

戦争のシンボルとして利用されたアスリートたちの命

命を失ったアスリートの中には戦争の「シンボル」として利用された者もいました。

ベルリンオリンピックで陸上短距離代表として出場したランナーは、その競技場を戦場に変え、国のために命を捧げました。彼の死は陸軍大将から「皇国青年の士気を昂揚す」と称賛され、戦意高揚の一部とされました。

また、ベルリンオリンピックで、強豪スウェーデン相手に「ベルリンの奇跡」と呼ばれる大番狂わせを果たしたサッカー日本代表も、その中に含まれていました。そのエースストライカーは、最後の瞬間まで「サッカーがしたい」という願いを口にし、短い人生を終えました。

戦場と爆撃で命を落としたオリンピックの英雄たち

多くの戦没オリンピアンが戦場で亡くなった一方で、空襲や原子爆弾で命を奪われた選手も存在しました。その一人がベルリンオリンピックの砲丸投げ代表、高田静雄です。

高田は、被爆時に36歳で、その後も原爆症に苦しみながらも54歳まで生き抜きました。彼は、大会開催中に敵国であったアメリカの選手と肩を組んで写真を撮るなど、スポーツの普遍的な力を示していました。これは、国や人種、立場の違いを超えて互いに理解し合えるスポーツの力を伝えたかったのかもしれません。

戦争が奪ったスポーツアスリートの命

オリンピアンだけでなく、多くのスポーツアスリートたちもこの戦争で命を落としました。

競泳選手の片山崇は、自由形1500mでヘルシンキ五輪代表候補に名を連ねていましたが、五輪が中止となったため、その夢は果たされませんでした。代わりに彼は海軍飛行科予備学生としてパイロットになり、台湾・宜蘭から沖縄周辺へと特攻し、戦死しました。

自転車界のホープだった岡山県出身の出宮順一さんもまた、その速さが評価され、陸軍の銀輪部隊としてビルマに送られ、戦死しました。

戦死したアスリートの中には多くのプロ野球選手も含まれており、73人のプロ野球選手の命を失いました。彼らの名前は東京ドーム敷地内にある『鎮魂の碑』に刻まれ、今日までその思い出が語り継がれています。

「平和の鐘」ベルリン・スポーツ博物館の戦争犠牲オリンピック選手への追悼

The Olympic Bell, Berlin

1936年のベルリンオリンピックで鳴らされた鐘は、戦後の混乱期にハーケンクロイツなどのナチス・ドイツの象徴である刻印が削られ、地中に埋められていました。しかし、1956年にそれが掘り起こされ、「戦争と暴力行為によって命を落とした、すべてのオリンピック選手への追悼のための記念碑」として再利用されました。その鐘は「平和の鐘」として知られ、ベルリン・スポーツ博物館で展示されるようになりました。

そのような経緯から、ベルリン・スポーツ博物館では、「戦没オリンピアン」を「戦争と暴力によって亡くなったオリンピック選手」と定義しています。

戦没オリンピアンの名前を「平和の鐘」に刻む」

陸上選手でロサンゼルスオリンピックの銅メダリスト、大島鎌吉は、戦没オリンピアンの記憶を後世に残すために重要な役割を果たしました。ベルリンのオリンピックスタジアム近くに設置される「平和の鐘」の台座に、世界の戦没オリンピアンの名前が刻印されることを知り、彼は日本人戦没オリンピアンの名簿を作成しました。そして1982年7月に、その名簿を自らベルリンに持参しました。

これにより、戦争で命を落とした日本人オリンピアンの名前が「平和の鐘」に刻まれ、彼らの記憶が永遠に保存されることになりました。大島さんの行動は、戦没したオリンピアンたちへの敬意とともに、戦争の悲惨さを後世に伝える重要なメッセージともなりました。

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