日本のウエイトリフティングの英雄、三宅義信選手の感動のストーリーをお伝えします。苦境を乗り越え、困難な環境での努力と創意工夫で東京五輪の金メダルを手にした彼の軌跡には、家族への感謝とスポーツを通じた世界平和への願いが込められています。
彼の競技人生や金メダル獲得の瞬間、そして一ノ関史郎選手との連携によって紡がれた東京五輪の栄光もお伝えします。感動と勇気に満ちた物語をお楽しみください。
ブルーインパルスの挑戦と感動の成功!空を彩る驚異のアクロバット飛行 ── 東京オリンピック物語(18)
Yoshinobu Miyake
重量挙げのレジェンド「三宅義信」
1964年、東京オリンピック。まさにこの年が、日本のウエイトリフティング界にとって大きな転換点となった。国民全体が注目する中、日本のウエイトリフティング選手団は、あらゆる困難を乗り越えて戦った。
選手団の中で最も注目されたのが、日本が世界に誇る強力なリフター、三宅義信でした。彼の活躍は、日本選手団全体に勇気を与え、戦意を高めたのです。
三宅は、順調な成長を遂げてきた期待の星で、東京オリンピックでは若さとパワーを武器に、世界のトップリフターたちと競り合った。トレーニングは過酷で、毎日、鍛え上げられた体で重量物を持ち上げるために限界まで追い詰められた。
宮城県村田町生まれの小さな巨人「三宅義信」
三宅義信選手、身長は僅か150センチ余り。しかし、その小さな体から繰り出される力強いウエイトリフティングは、彼を「小さな巨人」と称えられました。
三宅は1939年(昭和14年)、宮城県村田町沼辺に位置する一家に、7人兄弟の5番目として生まれた。家庭環境は決して恵まれたものではなく、一家は父の実家近くの納屋で暮らしていた。
貧しさは食事にも影響を及ぼし、食事はジャガイモや大根の葉が主で、米を食べることはほとんどなかったと言われています。
困難を乗り越えて…三宅義信の力強い子供時代
三宅義信選手は、子供のころから新聞配達と農作業を通じて体を鍛え上げた。貧しい家庭環境に生まれた彼にとって、家の田畑で働くことは当然のことであった。彼は6歳下で後にメキシコ五輪で一緒に表彰台に立った弟、義行をおんぶし、兄として子守も務めていた。
野菜を収穫し、それを売り物にする生活は厳しかった。自分たちが育てた野菜を食べたいのに、それができないことが常に心に重くのしかかっていた。しかし、彼は少しずつお駄賃をもらうようになり、自分でお金を稼ぐという経験を積んだ。この生活は、彼に責任感と自立心を教え、後のウエイトリフティングへの道を切り開く土台となった。
彼の体格は小さかったが、その心は大きかった。いつも整列の先頭に立ち、取っ組み合いのけんかが絶えなかった彼は、教師からは厳しい指導を受けた。バケツを持って廊下に立たされたり、雪の積もった校庭を裸足で走らされたりした。放課後は家の手伝いが待っていたため、大好きだった野球に参加することは難しかった。
小さな体格からの大きな挑戦「三宅義信」の中学時代
三宅義信は中学に進学した頃も、生活環境は変わることはなかった。彼の学費はほとんどが自分のアルバイトで賄われていた。農作業の手伝いや新聞配達など、放課後も終わりの見えない労働が続いた。しかし、彼にはスポーツへの深い情熱があった。空き時間を見つけてはドッジボールやバレーボール、野球、柔道などの練習に飛び入りで参加していた。
バレーボールは特に影響を与えた。個人の力でいくら点を取っても、チームワークの良い相手には勝てないことを実感し、チームプレーの重要性を学んだ。また、授業で学んだ柔道は技が楽しく、彼に自分自身を見つめ直す機会を与えた。当時の柔道は体重の階級制がなく、大きな体格の人と小さな体格の人が混ざって戦っていた。50キロしかなかった三宅が100キロの相手と当たったとき、力の差を如実に感じた。
体重というハンディキャップをどんなに頑張っても乗り越えられないと感じた彼は、小柄な自分に向いたスポーツは何かと考えるようになった。そして、その思考は彼をウエイトリフティングという競技に導くことになる。
運命の分かれ道「三宅義信」の普通科進学への決意
三宅義信選手は、中学時代にはすでに柔道の選手としてその名を知られており、県大会にも出場していた。しかし、彼の進学先については意見が分かれていた。力強さを評価され、農林高校への進学が勧められた一方で、彼自身は普通科の宮城県立大河原高等学校(現・大河原商)への進学を決意していた。
この決断は、彼の運命を大きく動かす一つの転機となった。自らの意思で進路を決め、新たな環境でチャレンジを続ける三宅の姿勢は、後のウエイトリフティングでの成功を予感させるものであった。
高校進学を諦めた「三宅義信」の苦悩と母のサポート
三宅義信選手は幅広い学びが重要だという理解を持ちつつも、家庭の経済的な困難から高校への進学は容易な道ではなかった。彼の父は、高校へ行かせる金がないと言い、養子として東京の親戚の家に送ることを決めた。それでも彼は高校を受験し、東京の工場を営む親戚の家へ向かった。
しかし、彼はすぐにその生活に馴染むことができなかった。家事や庭掃除といった雑用ばかり任され、雨漏りのする部屋で寝かせられる日々。その環境の中で三宅は「自分の人生は自分のもの、自分で決めなければ後悔する」と決意しました。友人からの手紙で高校合格の知らせを受け取った彼は、養子先を飛び出し故郷に帰った。
帰郷した彼は父親から厳しく叱られたが、母親は無言で高校の入学金5000円を工面してくれた。彼自身の固い決意と、母親の深い思いやりがあったからこそ、三宅義信は自分を見つけることができたのです。
柔道から重量挙げへ!「三宅義信」の新たな挑戦
大河原高等学校(現・大河原商)に入学した三宅義信は、柔道部に所属しました。柔道部では部員が体力をつける一環として重量挙げも行っていました。しかし、当時の柔道は無差別級しかなく、彼のように体重が軽い者は遅れを取ることが多かった。
柔道での怪我からの回復と重量挙げへの転向
三宅義信は、短い柔道生活で一本背負いなど多くの技を習得しました。しかし、有段者の柔道家との手合わせの際、彼は右腕を捕まれ、右肩脱臼と肩甲骨にひびが入る重傷を負ってしまいました。全治三カ月と宣告され、それまで一生懸命に練習してきた柔道が一時的にできなくなる絶望を味わいました。
しかし、彼はこの挫折を乗り越えるために、異なるスポーツを探し始めました。そして先輩の紹介で見学に行った近隣の柴田農林高校の重量挙げ部に、新たな可能性を見いだしました。また、1956年のメルボルン五輪のラジオ実況を聞いて、福島県出身の古山征男が8位に入賞したニュースに感動。この報道から「自分も」という強い意志を新たにし、高校2年生の時に重量挙げへの転向を決断しました。
「自分が練習した分だけ力がつく競技。施設は特にいらず、バーベルさえあればいい。」そんな考えが彼を引き寄せたのです。
重量挙げ選手としての飛躍
三宅選手は、重量挙げの練習を始めて半年で高校選手権に出場し、見事3位に輝きました。その結果に満足せずにさらなる成長を遂げ、3年生の時には大会で優勝を果たしました。
しかし、試合ごとに記録を更新し続ける彼に対して、練習場所であった柴田農林高校では次第に反感が生まれ始めました。そこで彼は自宅での一人練習を開始。砂利で作った自作のバーベルやトロッコの車輪を使って、自分だけのトレーニングを続けました。
夢のためのバイト生活「三宅義信」の大学進学の道への苦労
三宅義信の家庭環境は困難でした。貧しい家庭に生まれ、隣町の大河原高(現大河原商高)在学中に重量挙げを始めた彼は、アルバイトをしながら家計を支える厳しい生活を送っていました。しかし、その中でも彼は同年代の中で頭角を現し、指導者たちは彼の将来を一生懸命に考えてくれました。
三宅の理想は、企業で働きながら競技を続けることでしたが、当時は重量挙げの実業団は存在しませんでした。そこで彼は、大学に進学するという全く新たな道を考えました。しかし、7人兄弟の家庭で金銭的な余裕がなかったため、父親は大反対でした。
それでも三宅は、家族に迷惑をかけずに競技を続けるためには大学進学しかないと決意しました。「絶対に家族には迷惑をかけないから」と父親を説得し、最終的には「米だけは送るけど学費は一切出さないからな」という父親の許しを得ました。
入学金のためのバイトの日々
しかし、これで人生が順風満帆に進むわけではありませんでした。大学の入学金として5万円が必要だったのです。当時のサラリーマンの月収が1万円程度だった時代に、それは非常に大きな額でした。入学金の締め切り日の4月25日までに、必死のバイト生活が始まりました。
その中でも、船で砂糖や塩などを積み替える作業は特に実入りが良かった。1袋30キロ以上の重さがあったため、それは体を鍛える絶好の機会でもありました。また、パルプ工場でパルプを運んだり、後楽園でホットドッグを売ったりと、働きながらも練習ができないため、重量挙げに役立つ仕事しかしないという鉄則を持っていました。
挑戦の日々!「三宅義信」の大学生活と日本記録の樹立
三宅義信は、1958年に文学部日本文学科に入学しました。彼は国際的なスポーツステージに立つためには、日本の言葉に磨きをかけ、人格を高めることが重要であると考えていました。それゆえ、彼は学問とスポーツの両方に全力で取り組みました。
しかし、彼の練習環境は必ずしも恵まれていたわけではありませんでした。大家族で育ち、小さい頃から学費を稼ぎながら練習していた彼は、大学に入ってもアルバイトをしながら競技生活を送ることになりました。
彼は小学5年生の頃から新聞配達をしていたため、アルバイトに追われる生活には慣れていました。大学生になっても朝は5時に起き、始発の電車で仕事先へ。授業の合間に仕事をし、練習場へ向かうのは夜の8時頃でした。
彼が練習場へ向かう時には部員は誰もいませんでした。隣の高校から漏れてくる明かりだけを頼りに、真剣にバーベルと向き合いました。
そして、彼が家に帰るのは深夜0時を過ぎていました。「肉が食いたい、肉が食いたいと思いながら練習していた。18歳まで宮城で育った環境が心の中で生きていた」と彼は語っています。今でも衰えない力こぶには彼の反骨心が詰まっています。
重量挙げの記録の伸びはとどまることを知りませんでした。学費と生活費を稼ぎながらの大学生活でしたが、彼は法政大1年生の10月には日本記録を樹立しました。これは彼の持ち前の努力と根性が結実した瞬間でした。
銀メダルの教訓!「三宅義信」とローマオリンピックの挑戦
1960年のローマオリンピックには、三宅義信は木暮と共にバンタム級で出場しました。前年に世界記録を更新した三宅に対する期待は大きかったものの、彼は調子を崩し、結果として銀メダルに留まりました。
この結果に大いに悔しい思いをした三宅は、次の4年間を明確な目標と詳細なスケジュールを立てて過ごしました。当時の重量挙げでは、プレス、スナッチ、ジャークの3種目が行われていました。しかし、初の国際試合となったローマオリンピックでは、力を出し切ることができず、成功したのは3種目とも最終の3回目の試技だけでした。
彼はその時点で法政大学の2年生で、ローマ五輪が初の国際舞台でした。「試合運びや精神面の統一の仕方が分からなかった。9本の試技中3本しか成功できなかった。5時間の戦い方は知っていても9時間の戦い方は知らない。金メダルを取れる力を持ちながら、銀になってしまった。
それでも『参加することに意義がある』ではなく『勝つことに意義がある』と考えるスタートの試合になった」と彼は述べています。この経験は彼にとって、競技における勝利への意志と目標設定の大切さを教えた重要な節目となりました。
東京オリンピックに向けた1460日間の取り組み
1960年ローマオリンピックの終了後、三宅義信は4年後の東京オリンピックに向けての「1460日の行」を開始しました。彼は試合で力を出すために、日々試行錯誤しながら、その時代の常識にとらわれない独自の調整法を編み出しました。その練習ぶりは現在でも語り草となっています。
彼のモットーは、宮本武蔵の「鍛錬千日之行、勝負一瞬之行」。つまり、長い期間の鍛錬が一瞬の勝負に結びつくという考え方でした。当時は科学的な調整法が確立されていなかったため、自らの体を知り、適切な調整を行うための方法を自身で探し出す必要がありました。
その結果、三宅は1年を4つの期間に分けて練習内容を細かく管理し、自身で独自の調整法を開発しました。
1460日の自己管理と精神鍛錬
三宅義信は栄養学や解剖学の本を買い込み、理論的な知識を身につけました。食事のカロリー計算から始まり、疲労回復に最適な風呂の温度まで、自身の生活全体を細かく管理していました。そしてそのすべてを自分自身で考え、行動に移していました。
彼の練習法は調整だけでなく、「野性的な力が必要」という考えから、木登りや田植え、穴掘りといった日常の活動を通じて力を鍛えるという独自の手法を採りました。「精神面が重要」という信念のもと、山にこもって座禅を組み、滝に打たれることで心身を鍛えました。また、戦略的な思考を身につけるために囲碁や将棋も行いました。
技術と体づくりは大会の1年前にはすでに完成していたため、残りの1年間は精神を鍛えることに専念しました。その一環として、滝行や座禅を組むだけでなく、「精神修業とストレス解消にはこれが一番」として、コーチ陣や同僚と毎晩のよう囲碁や麻雀をプレイしながら勝負勘を養いました。
その行動は新聞で批判されることもありましたが、三宅は全く気にしませんでした。
情熱とディテール…五輪に向けた準備のすべて
三宅義信は、自身の競技に対する情熱と研究熱心さで知られていました。その一環として、高級なカメラを購入し、自身の運動フォームを入念にチェックするなど、ディテールにこだわって練習に取り組んでいました。その結果、彼は一日に100トンもの重量を挙げることができるほどの力をつけました。
五輪直前、全ての準備が整った彼は「できることはすべてやった」と開き直り、心身ともに万全の状態で挑むことができたといいます。
挑戦の舞台は自衛隊体育学校!「三宅義信」が追い求めた究極の練習環境
法政大学卒業後の1962年春、三宅義信は東京オリンピックで金メダルを目指し、トレーニング時間を確保するために自衛隊体育学校に入隊しました。
この体育学校は陸上・海上・航空自衛隊の共同機関で、1961年に創設されました。この学校は3年後に開催される東京オリンピックで開催国にふさわしい結果を出すための選手養成機関として設立されました。また、自衛隊における体育・格闘の調査、研究、指導者の育成も目指していました。
この学校は陸上自衛隊朝霞駐屯地の西側の一角に位置しています。地図上では埼玉県朝霞市域にありますが、正式な所在地は駐屯地と同じ「東京都練馬区」です。また、冬季競技のバイアスロンとクロスカントリースキーの拠点「冬季特別体育教育室」は、札幌市の陸自真駒内駐屯地内にあります。
広報担当者によると、「部隊における体育・格闘指導者の育成が目的の一つです。また、五輪などで活躍する選手を育てることは、隊員の士気高揚につながり、さらにはスポーツ振興にも貢献できるという意義があります」とのことです。当時のオリンピックの強豪国では、軍人が大活躍していたという背景から、自衛隊がその任を担ったのも理解できます。
最悪の環境!?三宅義信が切り拓いた新たな練習環境
しかし、当時の自衛隊体育学校での練習環境はお世辞にも良いとは言えませんでした。三宅によれば、「専用道場もなく、風呂場の軒下で練習をしていました。
食事は麦飯に菜っぱ汁で、自衛隊員と同じ食堂で食べるために何百人もが並び、結果として練習に遅れてしまいしばしば叱られました。これでどうやってメダルを取ることができるのだろうと思い、一度は辞めようとまで考えたようです。
しかしそれでも彼は「創意工夫する」ことを決意し、他の競技の選手たちも同様に困難を乗り越えていたと述べています。周囲の説得により三宅は自衛隊体育学校に復帰し、少しずつ練習環境も改善していきました。
マラソンの円谷幸吉選手が走るグラウンドは、第2教育課の選手職員が全員で造成を手伝い、それがさらに団結と機運を高めました。
世界選手権での連勝が東京五輪への期待を高める!
三宅義信の努力は、1962年の世界選手権(ブダペスト)で初めての優勝という形で報われました。その後、彼はフェザー級に移行し、1963年の世界選手権(ストックホルム)でも勝利を収めました。これは東京五輪へのプレシーズンでの成果であり、三宅への期待はますます高まっていきました。
感動の東京五輪開会式!自衛隊出身の三宅義信が感じた誇りと決意
1964年10月10日、東京は秋晴れに恵まれました。7万2千人の観客が詰め掛けた東京五輪の開会式には、24歳の重量挙げフェザー級選手、三宅義信も参加していました。自衛隊所属の三宅義信は、自衛隊の飛行チーム「ブルーインパルス」が空に五輪マークを描く様を見つめ、誇らしく感じていたといいます。
労働者の心意気!三宅義信の体育設備整備やトラック造成への貢献に感動
三宅は開会前に渋谷公会堂を訪れ、一晩中工事を続ける人々を見て、「一番上のものを見せたい」と心に誓ったといいます。
前述した通り、三宅義信は日本の体育学校の設立初期生であり、体育設備の整備を自ら始めました。また、三宅義信は円谷幸吉選手らが使うトラックの造成作業を手伝い、 モッコ(持ち籠)を担いで土を運んだことがありまし。
このように、三宅自身が労働者としての経験を持つからこそ感じる、共感と尊敬が込められていたのでしょう。
勝利のみが許される!「三宅義信」にかかる金メダルへの要求
当時の三宅義信は、「不安だらけだった」と回顧しています。五輪の1週間前になると、心臓がドキドキと鳴り、眠れないほどの緊張感があったと言います。彼のパフォーマンスは圧倒的で、彼が挙げればそれは世界記録になるほどで、頻繁に優勝を飾っていました。しかし、五輪には予想できない要素が含まれており、何が起こるかは誰にもわからなかったと言います。
それでも三宅は絶対に勝たなければならないという重圧を感じていました。銀メダルや銅メダルではダメで、金メダルが求められていたのです。オリンピック前年の世界選手権では、彼は世界新記録を達成し優勝し、東京オリンピックの本命と見なされていました。
試合の日は大会の2日目で、期待の大きさは、「金メダル第1号は三宅」という声が集まるほどでした。
「金メダル第1号は三宅」との期待の裏には、組織委員会との計画も!
「金メダル第1号は三宅」との期待の裏には、実際には組織委員会や日本オリンピック委員会の周到な計画が存在していました。
実は前回のローマオリンピックでは重量挙げは後半の日程でしたが、三宅選手が金メダルを取ることで日本選手団全体を盛り上げようと考え、国際競技連盟などに働きかけていたのです。
しかし、三宅選手はこのプレッシャーに立ち向かう決意を持っていました。「お前が取らなくて誰が金を取るんだ」というような期待を感じつつも、彼は「金の上の〝ダイヤモンド〟」を目指しました。これは試技をすべて成功させるパーフェクトゲームを意味します。三宅選手は、「成功すれば天から恵みがある」と自信を奮い立たせました。
眠れない日々に打ち勝つ!試合前の麻雀と緊張のコントロール
とはいえ、そのプレッシャーは計り知れないものでした。試合が迫るにつれて緊張感が増し、眠れない日々が続いたと述べています。それは彼のパフォーマンスに影響を及ぼす可能性がありました。そこで彼が取った対策は独特で、試合前々日に深夜まで起きていることで、試合前日には眠くなり、緊張していても眠れるようにするというものでした。
この対策として彼が選んだのがマージャンでした。賭け事ではなく、これは駆け引きの練習とストレス解消のための方法でした。彼はマージャンを「素晴らしい精神修養」と形容し、相手の点数を読みながら我慢の時と、一か八か攻める時の勝負根性を身につけることができ、それがウェートリフティングと共通するところがあると考えていました。
また、彼は映画鑑賞もストレス解消法として用いていました。開会式前日には、一人で渋谷の映画館に足を運び、「座頭市」を見入りました。これらが彼独自のストレス解消法、いわゆる「三宅流」だったのです。
「今挙げてやるから、黙って見ていろ」覚悟と意志の力
試合当日、1964年10月12日、三宅義信選手はたっぷりと眠り、心身ともにリフレッシュして当日を迎えました。朝6時に目覚め、1キロほど走った後にシャワーを浴びてストレッチを行い、再び少し休息をとりました。午後12時20分に再び起きて、検量時間に合わせて会場である渋谷公会堂に到着しました。
公会堂に押し寄せた観客、日本中が三宅の金メダルを信じていました。なんと皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)も観戦に訪れていました。
試合では期待の大きさを裏切らぬ強さを見せつけ、一つ一つの試技を成功させ、圧勝の勢いを見せていました。コーチからは重量を下げるよう進言されましたが、三宅選手はその提案を無視しました。「何のために今までやってきたんだ」と自問し、彼の中の戦闘意欲は高まっていました。
そして、試技の直前、強烈な動悸に襲われ、心臓が高鳴りました。それでも、会場に見に来ていた母の顔を見た瞬間、その動揺は静まりました。「今挙げてやるから、黙って見ていろ」と自分に言い聞かせ、バーベルを挙げた。その一つ一つの試技は、母のため、観戦に来てくれた皇太子ご夫妻のため、そして応援してくれるファンのため、という思いを込めて挙げました。
圧倒的な差をつけての勝利!「三宅義信」の金メダルに歓喜の声
三宅義信選手は圧倒的なパフォーマンスを発揮しました。
プレス(1973年から廃止)、スナッチ、ジャークの3種目で、それぞれ3回ずつ試技を行い、全9回の試技すべてに成功したこと自体が驚くべき成果であり、それによって合計397.5キロの世界新記録を樹立したことは、彼の技量と精神力を示しています。
この結果は、2位のアイザック・バーガー(米国)に対して15キロの差をつけるという圧倒的な優位性を示しました。
三宅選手が達成した金メダルは、1964年東京オリンピックの日本代表団にとって最初の金メダルであり、「自衛隊体育学校」の創設当初の目標である“国際的なトップアスリートの育成”が実を結んだ瞬間にもなりました。
1964年10月12日、三宅義信さんが重量挙げフェザー級優勝を飾り、東京オリンピックでの日本選手団初となる金メダルを獲得しました🥇 #今日は何の日 #OnThisDay pic.twitter.com/wqW6iPE3WS
— オリンピック (@gorin) October 11, 2017
56年前の10月12日、東京1964の開会式から2日目✨
— オリンピック (@gorin) October 12, 2020
三宅義信さんが重量挙げ当時の世界新記録で日本人選手団金メダル第1号を獲得しました‼️ pic.twitter.com/NkskV5TSSj
オリンピックムード最高潮!三宅義信の金メダル獲得で町中が沸き立つ!
1964年東京オリンピックで三宅義信選手が獲得した最初の金メダルは、オリンピックムードを高揚させるための大成功となりました。彼の達成した成果は国民の目に焼き付けられ、重量挙げの用語、ジャークやスナッチといった、そして実技の模様を身振り手振りで再現する「にわかわけ知り」が町中で見られるようになりました。
三宅選手は、「20歳で出場したローマは自分のことだけを考えればよかった。でも東京は違った。国民みんなの『大会を成功させよう』という思いがあふれ、私自身も海外の仲間に『日本は素晴らしいな』『お前らはすごいよ』と感じて帰ってもらいたかった。それが、スポーツを通じて世界平和を目指す五輪ムーブメントであり、誰しもが関わることのできる開催国の特権。やっぱり東京五輪は格別で、今でも強く胸に残っている」と述べています。
貧しい農家からの躍進!金メダルは家族への感謝の印
三宅選手は宮城県村田町の農家出身で、東京の大学で競技に打ち込むためには、両親が月に1度、リヤカーで駅まで米を運んで送り、彼の支えとなっていました。このような背景から、彼が手にした初めての金メダルは、初めて観戦に来てくれた父親への感謝の意を込めて渡されました。
三宅選手は、「両親も初めて観戦に来てくれた。開幕前の報道や応援を見て、会場に行かなければと思ったのだろう。9人兄弟を育てた家計は決して楽ではない。飼育していた豚を売って切符を買ったという。満席の会場でおやじとおふくろを見つけ、『ありがとう。今、挙げるぞ』と。プレッシャーをはね返す大きな力になった」と述べています。
これは、彼の家庭の貧しい背景と、両親が彼を支えるためにどれほど努力を重ねてきたかを示しています。金メダルは単なる競技の成果だけでなく、家族の労苦と支えへの感謝の印でもあったのです。そのメダルを手にして彼が言った「ありがとう。今、挙げるぞ」という言葉は、彼の両親への深い感謝と愛情を表しています。それは、プレッシャーをはね返す大きな力となり、彼が勝利に向けて力を発揮する原動力となったのです。
ウエイトリフティングの至宝!4大会連続出場と2度の金メダル
三宅義信選手は素晴らしい競技生活を送り、4度のオリンピック出場で金メダル2個と銀メダル1個を獲得しました。特に、1968年メキシコ市大会では、銅メダルを獲得した弟の義行氏と一緒に表彰台に立つという、きょうだいが個人種目で同時にメダルを獲得した日本唯一の例を作りました。
ローマオリンピックから4大会連続で出場し、ローマでは銀メダルを獲得した三宅選手は、その後の東京オリンピック(1964年)とメキシコシティオリンピック(1968年)で連覇を果たし、2大会連続のゴールドメダリストとなる偉業を達成しました。現在でも、ウエイトリフティングでの日本の金メダルは三宅義信選手が獲得した2個だけとなっています。
メキシコ五輪の表彰式後、記者から「次は3連覇ですね」と問われたとき、三宅選手は「指導者の勉強をしながら、もし(選手として)チャンスがあればチャレンジしたい」と答えていたそうです。その時点で競技の第一人者としては体力的な衰えを感じており、弟にバトンをつなげていくこと、また次は金メダルを取れる選手を自分の手で育てたいという夢が芽生えていたのです。
競技者から指導者への転身!スポーツ界への貢献
三宅にとっての最後の五輪、1972年ミュンヘン五輪でのテロ事件は、オリンピックの歴史上でも非常に悲惨な事件でした。11人の選手団が犠牲となり、そのうち4人は三宅義信選手と同じウエイトリフティングの仲間だったのです。金メダルを獲るのは命がけの競技とはいえ、その結果に人生を懸けることができるのは生きてこそです。この悲惨な事件は、スポーツ界全体に大きな衝撃を与え、安全性の重要性が再認識されるきっかけとなりました。
三宅選手は現役引退後、自衛隊体育学校の校長に就任し、同校のレベルアップと施設の拡充に貢献しました。そして退官後も、現在に至るまで重量挙げ関連の競技団体や五輪関連組織の役員を務め、幅広い活動を展開しています。選手としてだけでなく、指導者や競技団体の役員としても活動している三宅選手は、スポーツ界におけるリーダーシップを示しています。
「三宅義信」と「一ノ関史郎」東京オリンピックで煌めく銅と金の輝き
1964年東京オリンピックでは、他にも重量挙げバンタム級の一ノ関史郎選手とミドル級の大内仁選手が銅メダルを獲得し、出場した全7選手が入賞するという素晴らしい成果を上げました。
「一ノ関史郎」の挑戦!法政大学生が目指す金メダルへの道
渋谷公会堂で行われたバンタム級の一ノ関史郎選手の試合では、東京五輪の競技開始から間もない10月11日に、一ノ関選手が日本選手団のメダル第1号となる銅メダルを獲得しました。一ノ関選手は当時法政大学3年生の20歳で、体はまだ華奢でした。
この時点で、彼はすでに4年後のメキシコ五輪での金メダル獲得を目指していました。その上、その次の五輪では、フェザー級(60キロ以下)の三宅義信(東京、メキシコ両五輪金メダル獲得者)と同じ階級で競うつもりだったとのことです。
東京五輪までの調整はうまくいきました。代表合宿ではホテルに泊まり、中央大学で練習しました。開幕1週間前には代々木の選手村に入りました。
東京五輪での苦悩と栄光の瞬間
しかし、一ノ関選手は東京五輪で、最初のプレスという苦手な種目でつまずく結果となりました。100キロの記録はクリアしたものの、105キロに挑戦した2回ともに失敗してしまいました。
それにもかかわらず、一ノ関選手は試合に挑み続け、スナッチで五輪新記録となる110キロを記録しました。その後、ジャークの2回目に137.5キロを挙げ、大逆転の金メダル獲得を目指しました。
しかし、3回目に挑んだ147.5キロの挙上には失敗しました。それでも一ノ関選手は、「結果や過程よりも、自分が未知の領域に果敢に踏み込んでいったことを最大の誇りと思っている」と述べ、彼の挑戦者としての強い精神を見せつけました。
銅から金へ!一ノ関と三宅の連携が紡いだ東京五輪の栄光
1964年東京オリンピックの日本の金メダル第1号は、重量挙げフェザー級の三宅義信が取りましたが、これは大会の第3日、10月12日のことでした。彼は後の年、2019年に文化功労者の受章を祝う会で、「私が金メダルを取れたのは、ここにいらっしゃる一ノ関さんが前日に銅メダルを取ってくれたからです」と挨拶しました。
三宅選手にとって、一ノ関選手が先にメダルを獲得したことは大きな励みになりました。たとえ金メダルの大本命であっても、初めてのメダルを獲得するまでの間は思わぬプレッシャーがかかる可能性があるからです。
三宅選手は次のように語りました。「重量挙げは個人競技だけど、一緒に練習していて、チームプレーと同じなんです。最初こけると責任が次の人にかかってくる。そういう意味で、私は心に余裕が持てたんです。だから、違う競技でも選手団はチームなんです」。
このようなチームスピリットが日本選手団全体に広がり、東京大会では史上最多の16個の金メダルを獲得するという結果につながりました。これは選手個々の努力はもちろん、選手たちが互いに支え合った結果であり、一ノ関選手や三宅選手のような選手たちがチームとしての結束を重視した姿勢が大きな影響を及ぼしたと言えます。
1964年東京オリンピックの選手村で撮影された写真です。
— Tokyo 2020 (@Tokyo2020jp) April 11, 2013
マラソン銅メダリストの円谷 幸吉選手とウエイトリフティング金メダリストの三宅義信選手です。
写真提供:フォート・キシモト pic.twitter.com/z5EREb2zOe
金メダルトリオの輝き!五輪で魅せたレスリングの日の丸ラッシュ! ── 東京オリンピック物語(20)