ブルーインパルスの挑戦と感動の成功!空を彩る驚異のアクロバット飛行 ── 東京オリンピック物語(18)

今回は、1964年の東京オリンピックで起こった感動のエピソードを紹介します。ブルーインパルスの精鋭たちが五輪を空に描くために挑んだ空中アートの舞台裏から、予行演習の困難さ、開会式当日の驚きの展開までをお伝えします。

彼らの覚悟とチームワークが試されたこの挑戦は、一度も成功しないまま本番を迎えた結末となりましたが、その絶妙なタイミングと見事な輪の描画によって、喜びと感動が全国に広がりました。この記事で、五輪マークを描くまでの苦闘と成功の喜びを、詳細にお伝えします。東京五輪の歴史的瞬間をぜひお楽しみください。

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昭和39年、東京オリンピックで大空に五輪マークを描いてデビューしたブルーインパルス。26年ごしの取材でアクロバット飛行チームの栄光と苦悩の歴史を余さず描く。7万人が目撃した浜松基地航空祭の墜落事故の秘められた核心、そして命名にまつわる原爆との因縁とは?限界を超えるアクロバットに命をかけた男たちの全軌跡。(「BOOK」データベースより)

1964 Blue Impulse

空に舞い上がる五輪「ブルーインパルス」の鮮烈なパフォーマンス

GE Japan/YouTube

まるで映画のワンシーンのように、1964年の東京オリンピック開会式で、ブルーインパルスは五輪マークを描いて、観客の息をのませた。このエピソードは、日本がオリンピックステージで鮮やかに国力の復興を宣言した象徴的な瞬間として、語り継がれている。

その日、人類は初めて空に五輪を描いた

1964年10月10日、昭和39年の快晴の日に、東京オリンピックの開会式が行われました。この日、航空自衛隊のアクロバットチーム、ブルーインパルスが、その卓越した飛行技術を世界に示す一大ショーを披露しました。午後3時過ぎ、5機の編隊が青、黄、黒、緑、赤のスモークを後尾から噴出させ、東京の晴れ渡る空に五輪マークを鮮烈に描いたのです。

ブルーインパルスのこの飛行は、空に五輪を描くという前例のないパフォーマンスで、その斬新さと華麗さで、開会式を見ていた全世界の視聴者を驚かせました。開会式が衛星を使った生中継で全世界に放送されていたため、そのブルーインパルスの名は、一瞬にして日本国内だけでなく世界中に広まりました。

そのパフォーマンスは、技術的な精度と絶妙なタイミングによって可能になりました。五機一組の編隊が、各色のスモークを織り成すために精密に計算されたルートを飛行しなければならなかったのです。

その時の機体はF86戦闘機

1964年の東京オリンピックの開会式で使用された機体は「F-86F セイバー」で、これはアメリカ合衆国のノースアメリカン社が製造したジェット戦闘機で、当時日本の航空自衛隊が主力として使用していました。

この戦闘機は第二次世界大戦後の1950年代から活躍し、その速度と機動性から「トランソニック(音速近く)の戦闘機」として知られています。ブルーインパルスは1981年までこのF-86Fを使用し続け、その後はより進んだ技術を持つ機体に更新されていきました。

North American F-86F Sabre ’02-7966 / 966’

伝説の5人のパイロット

それぞれの機体が色の違う煙を出すことで、オリンピックの五つのリングが空に描かれ、その壮大な光景は多くの人々に記憶されています。

1番機の松下治英、2番機の淡野徹、3番機の西村克重、4番機の船橋契夫、そして5番機の藤縄忠、それぞれが異なる色のリングを担当し、この歴史的なパフォーマンスを成功させました。

当時のパイロットたちは非常に高度なスキルと集中力を持っており、彼らのパフォーマンスは今でも多くの人々にとって鮮烈な記憶となっています。

プロジェクトはオリンピックの一年前に開始

ブルーインパルスが1964年の東京オリンピック開会式で飛行することが決まったのは、前年の1963年のことでした。

ブルーインパルスの秘話、源田實と山田良市の影響、そして戦争と平和へのメッセージ

このパフォーマンスの背後には、源田實参議院議員と山田良市二等空佐のような特別な人々の影響がありました。彼らは、かつて「紫電改」部隊、第三四三海軍航空隊の関係者であり、1963年にブルーインパルスが東京オリンピック開会式で飛行することを決定しました。

「ブルーインパルス」の名前の由来は、広島・呉で原爆を体験した隊員が山越に見た「青い閃光」の強烈な印象から名付けられたといわれています。その名前には、戦争の痛みと平和への希望が混ざり合っているように思えます。

源田實議員は、戦前にアクロバット飛行を披露していた経験から、その国民への好影響と隊員の士気高揚効果をよく理解していました。そして、オリンピックの開会式でブルーインパルスを飛ばすことは彼の夢であり、その夢が現実となった時、それはただの曲技飛行以上のものでした。それは過去の戦争からの復興と未来への希望、そして平和への強い決意を象徴するものでした。

一方、山田良市二等空佐は、三四三空戦闘第七〇一飛行隊分隊長としての経験と、航空幕僚監部教育課飛行教育班長としての役職を活かし、開会式でのブルーインパルスの飛行を支えました。

難題の解決と成功への道のり 「 山田良市二等空佐」の記憶

源田實参議院議員がブルーインパルスの開会式での飛行をオリンピック実行委員会に提案し、その実施が決まった後、具体的な飛行指導には山田良市二等空佐が選ばれました。彼は地上からの指揮官として、国立競技場の天皇陛下の天覧席の斜め後ろ、40メートルほど上に設置された箱型の通信室から指示を出しました。彼の役割は、天候や会場の進行状況を見ながら、無線で飛行機に最適な飛行ルートを指示することでした。

山田二等空佐は、自身の経験とブルーインパルスとの関係について次のように振り返っています。「ブルーインパルスは当時、浜松基地にいて、浜松に関係があるのは教育課、しかも私は、その前に浜松でブルーインパルスの飛行隊長をやっていましたから。源田さんも、ブルーインパルスとなると私が出てくることは承知の上で提案されたんでしょう。」

開会式で一番苦労したのは、五輪のスモークの色をきれいに出すことでした。スモークはエンジンの排気口にオイルの噴出ノズルをつけ、排気温度で気化した油が再び凝固することで煙のように見えますが、これに濁りのない色をつけるのは大変だったようです。浜松の整備小隊長が、業者と試行錯誤しながら、やっと開会式に間に合わせてくれました。

山田二等空佐は、自身の役割について次のように述べています。「開会式のタイムスケジュールが大幅に変わることはあり得ないから、私がやることといえば、無線機が一つあるだけの通信室から、タイミングを見て最小限の指示を飛ばすだけです。パイロットのことは全員よく知っていて、技術を信頼していますから、心配するのは天候ぐらい。それで、本番のときに一番きれいな輪が描けた。私もやれやれ、と安心しました。あとで源田さんから褒められた憶えがありますが、飛んだのはパイロットですから、彼らの腕がよかったんです。」

五輪描写への挑戦 – パイロット松下治英の提案

組織委員会からの依頼はブルーインパルスに対して開会式での飛行を行うというものでしたが、その具体的な内容は「五輪を描く」というものではありませんでした。しかし、パイロットの一人であった松下治英は、これだけでは物足りないと感じていました。そのため、彼は自身の提案として空中に五輪の形を描くというアイデアを提出しました。

松下の同僚パイロット、西村は次のように述べています。「皆さんもご存じのように、ブルーインパルスは大会の時間に合わせて、球場やグラウンドの横をまっすぐ飛ぶ。最初は、57年前の五輪もそういう依頼だったと思う。まっすぐ飛ぶことは大きな負担でもないものですから『これじゃあなぁ(物足りない)』という話がどことなく湧いてきて、(1番機の)松下さんが言い出したのかな。『空に五輪でも描こうか』と」

松下自身は次のように述べています。「机上案を何度か飛んで試した結果、速度二百五十ノット(時速約四百六十キロ)、二Gの荷重倍数で旋回して出来る、直径六千フィート(約千八百メートル)の輪が最適でした。高度は季節風を考慮しつつ一万フィート(約三千メートル)とし、東京都内の各所から見えるようにしました」

このように、松下治英の創造的な提案と技術的な洞察により、ブルーインパルスは開会式で五輪の形を描くという壮大な演出を行うことが可能となったのです。

前代未聞のチャンレンジに訓練と失敗を繰り返す

五輪を描くための訓練は伊良湖岬沖で行われました。

しかし、アクロバット飛行を得意とするブルーインパルスの精鋭たちにとっても、五輪を空に描く挑戦は前代未聞のことで、初めて基地上空で試みたときの結果は満足のいくものではありませんでした。

当時、機体にレーダーはなく、パイロットたちは自分の直感だけを頼りに正確な位置とタイミングを守ることが求められました。東京五輪スモーク作戦の技術的なハードルは、何と言っても五輪を描くことそのものでした。

編隊長の松下は冷静にこの挑戦に取り組みました。「骨子が決まれば完成したようなもんだ」と、悠長に語っていたと、淡野徹は振り返ります。しかし、初めて飛んでみたとき、思った以上に困難であることが明らかになりました。「輪を描くなんて大したことはないと思っていたが、実際に飛んでみると、予想以上に難しかった」と藤縄は語っています。

特に難しいと感じられたのが、五輪の形を保つために5機の間隔を一定に保つことでした。間隔がばらつくと、輪が離れすぎたり、重なりすぎたりするからです。「定点で同じ距離を保って、旋回するのがことのほか難しかった」と西村さんは語ります。「前方機との距離は約2キロで点のような存在。レーダーはないので、目測と勘だけが頼り」と、淡野と西村は口をそろえます。

カラースモークの開発と予行演習

開会式のために開発されたカラースモークの顔料は、東京下町の化学メーカーに依頼して作られたもので、その価格は非常に高かった。淡野徹さんは、「もったいなくて色つきのスモークは練習に使わせてもらえなかったんですよ。スピンドル油と混ぜて使うカラー顔料が、なに せウィスキーの『ジョニ黒』と同じ値段だと聞かされて、そんなに高いのかとびっくりした」と語ります。

ブルーインパルス機が煙を出すためには、スモーク油を10秒間で約4リットル消費します。その半分が顔料であり、その価格は当時の彼らの月給、約三万三千円と比べても高価なものでした。「飛んでは飲み、飲んでは飛ぶ」という豪快な時代の彼らがその顔料の値段を聞いて驚くのも無理はないでしょう。

開会式を約二ヶ月後に控えた1964年7月31日、航空幕僚監部はOOCの幹部らを招き、入間基地の上空で”完成披露”を兼ねた予行演習を行いました。この演習は、長期間にわたって発煙油の配合や混合方法、あるいは吐出パイプの太さなどを研究してきた防衛庁技術研究本部第一研究所がその成果を見せる機会でもありました。

煙の色は、まだできていない黒色以外はまずまずでした。しかし、関係者は空に描かれたいびつな五輪を見上げ、一様にため息まじりで黙り込む結果となりました。

一度も成功しないまま本番を迎える

大会組織委員会からアクロバット飛行の打診があったのは開会式の1年半前でした。メンバーの発案で五輪マークを描くことが決まったものの、その実行は予想以上に困難だったと藤縄さんは述べています。彼らは目視だけで約2000メートル先の前方機を確認し、一定の間隔を保ちながら同時に旋回することが求められました。これは、一つの輪を描くのとは比較にならないほどの難しさでした。

結局、練習では一回も成功しないまま本番を迎えることとなりました。

開会式前夜と本番日の展開

そんな状態で迎えることになった本番当日、パイロット達の体調はもちろん万全の状態…ではありませんでした。なんと彼らは二日酔だったのです。

「雨の夜」パイロットたちの飲み会

開会式前日の午後、パイロットたちは埼玉県の入間基地に移動ししました。その後、新橋の第一ホテルに宿泊した彼らは、以前から会合の約束をしていた映像製作会社のスタッフと食事に出かけました。その時、都心は大粒の雨に見舞われていました。

淡野徹は、「普段でもショーの前日はビールを少し飲む程度ですが、あの日は食事を始める頃には雨が本格的に降り始めて、誰かが『明日は雨だから開会式はノーフライ』と言いました。それを聞いて、私たちは次の飛行は閉会式になると思い込み、飲み会を楽しむことになったのです」と語ります。

「大変だ!晴れてる!」青空に包まれたブルーインパルスの出発

翌朝、彼らが目覚めると、前日の大雨がうそのように青空が広がっていました。「おい大変だ!」「晴れてるぞ!」松下さんが仲間を急いで起こし、「これは成功させなければ」という強い決意を持って、駐機場に向かいました。

本番は「午後3時10分20秒」とタイミングを細かく指定され、世界中にテレビ中継されるという重圧ものしかかりました。西村さんは、「搭乗前に機体を点検しながら、失敗は許されない、世界に見せないといけないという気持ちでいっぱいだった」と振り返ります。

藤縄も、「前方機と2キロの距離を保ち、どうやって失敗しないで輪を描くか頭の中でイメージし、飛行場に着く前に覚悟を決めた」と述べています。基地に車で移動した彼らは、戦闘機の操縦席に収まりエンジンを始動し、酔いを醒まそうと冷たい酸素を思い切り吸い込みました。

上空で待機するも予定時刻が遅れていく

5色の煙を吐き出す時間は、会場の国立競技場で聖火が点火され、ハトが飛び立った後の午後3時10分20秒でした。彼らは神奈川・江の島上空で旋回し、待機していましたが、予定がずれ込んでしまいました。そのため江の島上空で待機していました。

リーダーの松下は、ラジオの実況を頼りに出発のタイミングを図っていました。待機していた江ノ島上空から目的地の競技場上空に到達するまでは約5分です。前日の雨で空気中のほこりが洗い流され、遠くまで競技場のグラウンドが見えていたといいます。

「レッツゴー!絶妙なタイミングでブルーインパルスが始動

ラジオ放送を聞いていた松島は、アナウンサーが「最終ランナー坂井選手が今、ゲートから入場してきました」と伝えたタイミングで全員にゴーサインを出します。「レッツゴー!」機体は江の島上空から国立競技場近くの赤坂見附の上空へ向かいました。

ちょうど会場でハトが放たれ、観客の視線が向かったその先に、5機の編隊が姿を現しました。1964年では、ブルーインパルスの五輪描画開始は15時10分20秒に設定されていました。この定時定点到着は航空自衛隊のお家芸ともいえる飛行技術ですが、そのTOT(Time Over Target=目標到着時刻)が式典の進行によって遅れることは当然想定されていました。

地上からその遅れを無線連絡して時間調整が行われるのが通常ですが、この日は異例の調整が行われました。松下治英編隊長がNHKラジオの実況中継を機上で聞き、進入のタイミングを計るという時間調整は、草創期のブルーインパルスの特異な職人芸であり、まさに神技とも言えるものでした。

五輪マークの描画!イチかバチかの挑戦

開会式の入場行進が予定より遅れるなどのアクシデントがあったものの、5機が描いた五輪マークは、これまでになく美しいもので、タイミングも完璧でした。イチかバチか、うまくいくか分からい状況の中で、パイロット達は目と勘だけを頼りに隊形を整え、命運を賭けました。

「スモーク・ナウ」の合図とともに、それぞれの機体が五色の煙を出し、一気に旋回しました。

しかし、驚くべきことに、輪を描いている最中、パイロットたちは自分たちが出した煙、つまり自分たちが描いた輪を見ることができません。そのため、彼らは成功したのかどうか、自分たちで確認することは不可能でした。だからこそ、その瞬間の成果は、観客の反応から初めて知ることになりました。

喜びの報告:!無線越しの完全成功

五輪マークの描画を終えてから、スタッフからの無線が入りました。「パーフェクトだ」との報告が飛び込んできた瞬間、5人のパイロットはいっせいに上昇し、上空から自分たちが描いた五輪マークを目の当たりにしました。

リーダーの松下は、その見事な輪を見て、恥をかかなくて本当によかったとほっとしたといいます。「描き終わって下を見ると、見事な五つの輪が目に入った。『やったー』。酸素マスクの中で何度も快哉を叫んだ。」彼の喜びは、あの時の興奮をそのまま伝えていました。

他のメンバーも同じく感動していました。「お客さんがみんなこっちを見ていた。パーフェクトだったのでは」と、西村は照れながら振り返ります。「1機で空に円を描くことは難しくないが、5機で一緒になって、一点も狂わず重ねて正確に描くことが難しい。当時、入間基地に帰って、飛行機の整備士たちに祝福されてほっとした。みんなに『恥をかかせずに済んだ』と思った。」彼の言葉からは、その難易度と達成感がうかがえます。

また、藤縄はこう語ります。「地上で指揮を取っていたパイロットから『うまくいった』という報告が無線で入りました。そこで本番でちゃんと綺麗にできたんだと知って、本当にうれしかったですね。マスクの中で大声を上げて『うまくいったぞ、成功した』と叫びました。」成功の報告を受け取った瞬間の喜びと、それを同じく経験した仲間たちと共有した充実感が伝わってきます。

成功の余韻と戦後復興への象徴

大役を果たした5機は基地に戻る途中、渋谷や他の山手線周辺をなぞるように飛行しました。時折スモークを引きながら飛ぶ姿は、まるで成功のアピールのようでした。

この成功はただ単に飛行ショーの成功だけでなく、日本の戦後復興を象徴する出来事でもありました。特に、戦時中の経験を持つ藤縄と西村にとっては、その感慨は一層深いものでした。

藤縄は戦時中、栃木県に疎開していました。一方の西村は、父親の仕事の関係で旧満州で暮らし、終戦後に苦労して引き揚げました。「五輪飛行の成功を通じて復興を果たした日本を見てくださいという気持ちにもなった」と、西村さんは振り返ります。

抜けるような青空に描かれた五輪マークは、競技場だけでなく、新宿、渋谷、さらには銀座あたりからもはっきりと見ることができました。道行く人々は皆、空を見上げ、「おおっ!」と感嘆の声を上げ、拍手を送りました。

1964年10月10日、第18回東京オリンピックの開幕は日本中を喜びで満たしました。戦後復興を遂げた日本の象徴として、ブルーインパルスの飛行ショーは歴史に名を刻んだのです。

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