東京オリンピック物語(17)──国内外で254戦連続勝利!無敵の女子バレーチーム「東洋の魔女」

東京オリンピック物語(17)──国内外で254戦連続勝利!無敵の女子バレーチーム「東洋の魔女」

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東京オリンピック物語(16)──奇跡!ブルーインパルスが空に描いた幻の五輪
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Oriental Witch

東洋の魔女

International Film Festival Rotterdam/YouTube

1964東京オリンピックで新たに「柔道」「バレー」が新競技に!

1964年の第18回夏季オリンピック東京大会開催に当たって、当時のオリンピック憲章の規定で開催国が新競技を2競技まで選ぶことが出来ました。東京オリンピック組織委員会は、日本でメダル獲得の可能性の高い競技は、柔道(男子のみ)とバレーボールを選びました。女子バレーボールはオリンピック競技で採用された最初の女子団体競技でした。

オリンピック出場の歴史/NPO法人日本バレーボール・オリンピアンの会

伝説の女子バレーチーム「東洋の魔女」

 東京五輪の女子バレーボールで日本がソ連を下し、団体競技としては日本初の金メダルを獲得した。大松博文監督率いるチームは「東洋の魔女」と呼ばれ、5試合で落としたのは1セットのみという強さを見せた。

東京五輪の女子バレーボールで日本がソ連を下し、金メダル/JIJI.COM
「東洋の魔女」って?

そこまでにも国民を熱狂させた「東洋の魔女」とは、そもそも何者なのか。

なぜ、東洋の魔女は「非国民」と呼ばれたのか。五輪をめぐる“誹謗中傷”が、彼女たちを追い込んだ/BuzzFeed.2021

東洋の魔女という愛称は、1964年の東京オリンピックより3年前の1961年に付けられている。当時の日本代表は1つの企業チームから多数の選手を集めて構成することが多く、その中心チームが日紡貝塚だった。

バレーボール女子日本代表”東洋の魔女”を振り返る/SPAIA.2016
紡績企業「大日本紡績株式会社貝塚工場」の実業団チーム

圧倒的な強さで優勝を掴み,国民を歓喜の渦に巻きこんだのは,大松博文監督率いる,大日本紡績株式会社貝塚工場に編成された通称「日紡」の若い女子選手たちであった。

貝塚市における高度経済成長期の繊維工業労働者 : 『貝塚市の70年』編纂の調査を通して(P.1)/今井 小の実.社会科学.同志社大学人文科学研究所.2018
選手は過酷な労働環境で働いていた「女工」

彼女たちが在籍した繊維工場は、当時多くの女性が従事した日本の基幹産業であり、戦前には『女工哀史』に象徴されるような悲惨な労働環境も抱えていた(後略)

書籍詳細 – 「東洋の魔女」論/イースト・プレス

当時,繊維工場で働く「女子工員」は「女工」として差別の対象になっていたことは事実である。そして二交替制で働く寮生活にあって,一般的には市民との交流は閉ざされていた。

貝塚市における高度経済成長期の繊維工業労働者 : 『貝塚市の70年』編纂の調査を通して(P.26)/今井 小の実.社会科学.同志社大学人文科学研究所.2018

「女工に負けたら恥じよ」と当時強豪の女子校チームに野次(やじ)られ、「女工」という烙印(らくいん)を押されたことで、しどろもどろになった日紡チームは負けてしまう。

『「東洋の魔女」論』(イースト・プレス)/https://好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS.2017
国の代表チームを圧倒する世界最強の実業団チーム「東洋の魔女」

「大松博文監督が率いる日紡貝塚チームが一九六一年にプラハで開かれた三大陸選手権で世界一の強豪ソ連を破って全戦全勝で優勝したときに、地元の新聞は『東洋からきた台風』『東洋の魔女たち』と書いた」(『一九六四年東京オリンピックは何を生んだのか』青弓社・2018年所収のスポーツ社会学・高岡治子の小論の一節)

菅義偉首相(72)がよく話に出す「東洋の魔女」とは何だったのか…農村育ち宰相の“苦労人神話”と“金メダル実業団チーム”って関係ある?/Number Web.2021

 しかし上記の一文を読むとき、奇妙なことに気づくだろう。「日紡貝塚チーム」が「ソ連」を破ったとあるからだ。そう、一企業の実業団チームがナショナルチームを撃破したのである。しかも親善試合を含め22戦全勝の活躍ぶりであった。

菅義偉首相(72)がよく話に出す「東洋の魔女」とは何だったのか…農村育ち宰相の“苦労人神話”と“金メダル実業団チーム”って関係ある?/Number Web.2021

 すなわち「東洋の魔女」とは、もともと一企業のチームの呼び名であったのだ。

菅義偉首相(72)がよく話に出す「東洋の魔女」とは何だったのか…農村育ち宰相の“苦労人神話”と“金メダル実業団チーム”って関係ある?/Number Web.2021
国内外258戦無敗

そのニチボ−貝塚は、単独チームとして1959年から6年間無敗を誇り、175連勝を遂げた。それは名将・大松博文監督、そして河西昌枝をはじめとするニチボー貝塚チームが築き上げた金字塔である。

日本中が応援、そして感動した女子バレーボール「東洋の魔女」/日本オリンピック委員会: JOC.2004

なお、日紡貝塚はその後も記録を258まで延ばした。

大松博文/月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識

Women’s volleyball. Nichibo’s team

世界最強「日紡代表女子バレーボールチーム」

渋谷昶子/YouTube

1953年(昭和28年)11月27日、大日本紡績株式会社貝塚工場に日紡代表女子バレーボールチームを編成することが決定し、のちに「東洋の魔女」とよばれる選手たちを育てた大松博文氏が監督に就任しました。大松氏の「2年で日本一のチームを」という思いをもとに、1954年(同29年)3月15日、貝塚工場に女子バレーボールチーム(通称「日紡貝塚」)が発足しました。しかし、結成当時のチームは新卒生を中心にしたチームで、負けては猛練習、負けては猛練習の連続で、小さな大会では活躍しましたが、全国的な大会では8位に入るのがやっとの実力でした。

日紡貝塚チームの誕生/貝塚市

監督「鬼の大松」

中日新聞デジタル編集部/YouTube

監督として白羽の矢が立ったのが、関学大バレー部時代に尼崎でコーチ経験があった大松博文(当時32歳)だった。大松はのちに「会社の代表チームなら当然、勝たなきゃいけない。勝つ苦しさは知ってるし、『やめたい時にはいつでもやめる」という条件でやっと引き受けた」と振り返っている。渋ったものの、最後は社長命令で初代監督に就任した。

鬼の大松の「日本一苦しい練習」に女性社員から抗議殺到/日刊スポーツ.2007

大松博文はスパルタトレーニングが有名で、当時企業で働いていた選手たちは16時に退社してから深夜まで練習に励んだ。深夜と言っても朝方までの練習も珍しくなく、早朝5時まで練習していた時もあったと言われている。大松は「相手が”10”練習してるならこっちは”15”練習しろ!」といったやり方だった。

バレーボール女子日本代表”東洋の魔女”を振り返る/SPAIA.2016
軍人時代の経験から生まれた「強靭なメンタルと覚悟」

 監督の大松博文は軍隊経験が原点になっている。若き陸軍少尉は、部下はみんな年上で「今ごろ学校出てきて、よう指揮は執らんだろう」という声が聞こえた。そこで率先垂範、身の回りのことも馬の世話も、何でも自分でやった。斥候(せっこう)も危険なところは自ら行った。まさに「オレについてこい!」。そして、インパール戦線で英軍の捕虜となり、「やるからには勝たねばならない」が身に染みた。

五輪・お家芸の系譜(7)東洋の魔女、回転レシーブで頂点…女子バレーボール/産経新聞.2016

 当時大松監督がチームのメンバーに言ったとされる「俺についてこい」というセリフは、国民的な流行語になった。

二度目の東京五輪は喜劇として――小田嶋隆/デイリー新潮.2015

大松少尉ら40人の部隊は、「山を越え、食べ物はすでになく、マラリア、アミーバ赤痢で四十度の熱でぼうっとなりながら敗走」する。

“鬼”の大松、“逆転”の松平…バレーボール名将の素顔/読売新聞オンライン.2016

 「友を呼ぶ、というのか、ふっとさびしい気持ちになるとき、道ばたの死者の“かたまり”の横に行ってゴロリとなりたくなる」こともあった。

“鬼”の大松、“逆転”の松平…バレーボール名将の素顔/読売新聞オンライン.2016

 そんなとき、ある陣地を「死守せよ」との命令が下る。だれもがその命令を果たせないことを理解している。「命令を伝える大松少尉の顔も、部下の顔もムラサキ色に変わった。『これで死ぬ』限界状況の心理状態は彼の心にしっかりときざまれた」

“鬼”の大松、“逆転”の松平…バレーボール名将の素顔/読売新聞オンライン.2016
一度でも失敗すればやり直し!できるまで続くスパルタトレニーング

 大松監督の練習は容赦なかった。「守備は最大の攻撃なり」が信条で、レシーブ練習が7割を占めた。次々と投げ込まれるボールは、ぎりぎり手の届かないところに落とされた。

東洋の魔女に魔法をかけた 「鬼」の大松は仏だった/日刊スポーツ.2016

 大松監督は補欠はほったらかし。しごくのはもっぱらレギュラー6人だった。レシーブ練習は10本返して1セット。そこにはルールがあった。

1964東京五輪“東洋の魔女”率いた鬼の大松 当時のエース・井戸川さんが明かす苛烈秘話/東スポWeb.2018

レシーブ練習なら1人10本上げれば交代できる。ただし1本見逃すと“マイナス査定”になる。9本まで上げても疲れてあと1本が上げられないと逆に8本、7本と減っていく。倒れていてもボールは次々と送られ、やがては0どころかマイナス1、2と容赦なくカウントは続く。それでもコートから出ることは許されず、「できるまで」練習は続く。

「東洋の魔女」田村洋子さん、厳しかったけど愛があった“鬼の大松監督”への感謝/Sponichi Annex.2019

 エースアタッカーの谷田絹子(79)は池田市生まれで、高校生の時から日紡の合宿に参加した。大松博文監督に「一番しごかれ、怒られた選手」を自認する。練習は仕事を終えた午後3時から早くて午前0時、時には明け方まで続いた。

「魔女」と呼ばれて 回転レシーブでバレー金 【わが街 オリンピアン 大阪府】/47NEWS.2021

それでも選手たちは文句一つ言わず、全身あざだらけになってコートの上をのたうち回った。

「東洋の魔女」田村洋子さん、厳しかったけど愛があった“鬼の大松監督”への感謝/Sponichi Annex.2019

 丸山さんは「猛練習に次ぐ猛練習。年に1、2日しか休まなかった」と振り返る。

「東洋の魔女」聖地、野球で熱気再び ニチボー貝塚の拠点、日生に売却/iza.2015

 遠征のバスで男子選手と話をしただけで監督ににらまれた。

「魔女」と呼ばれて 回転レシーブでバレー金 【わが街 オリンピアン 大阪府】/47NEWS.2021

ケガは日常茶飯事だが、骨折で当て木をしたままでも練習は続いた。

「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった!/デイリースポーツonline.2017

 当時の女子バレーチームは「鬼の大松」と呼ばれた大松博文氏の指導の下、練習が翌朝にまで及ぶことがあり、選手は生理中でも休むこともままならなかった、などと伝えられている。

菅首相が大好きな「東洋の魔女」に込められた時代遅れな思い/日刊ゲンダイDIGITAL.2021
さすがにやりすぎ!抗議がきたことも……。

はっきりいって今大松監督のスタイルでやったら、パワハラ、セクハラ、ブラック企業、過労死とあらゆる非難が巻き起こりそうな気がします。当時ですら「女性の敵」「会社の敵」と言われ、日紡貝塚の労働組合からもやり過ぎを非難されたりしています。

大松博文監督の「おれについてこい!」/知鳥楽/ Chichoraku.2019
過酷な仕事とスパルタ練習の日々……それに耐えたのは夢のため!

当時、繊維工場などでは低学歴・低賃金の「女工」の労働力が欠かせなかった。ただし「魔女」は勝つチームづくりのため高校バレーの有力選手で組織された。

『「東洋の魔女」論』新 雅史著/PRESIDENT Online.2013

大松博文は、「東洋の魔女」たちを、「女工」と同じ勤務時間で働かせ、「女工」と同じ寄宿舎に入れることで、繊維工場のなかの共同性を維持しようと努めた。この繊維工場における共同性の維持が、大松のハード・トレーニングの原因となっていた。

日本人が東京五輪に、いまいち「盛り上がれない」納得のワケ/現代ビジネス | 講談社.2020

彼女たちは「選手」と「女工」の間の存在として、朝6時頃に起き、午後3時半まで働き、さらに午前0時まで練習を重ねた。過酷な日々を支えたものは「寿退社」という夢だ。

『「東洋の魔女」論』新 雅史著/PRESIDENT Online.2013

仕事と練習を両立すれば、女工から清々しく解放される。金メダルをとれば、「低学歴の単純労働者」といった世間の冷たい視線を見返すことができる。そうすれば、一般の女工も「あの工場で私は働いている」というプライドを持てる。だから彼女たちは一丸となれた。事実、金メダルを獲得すると、多くの「魔女」は半年から数年で結婚し、競技生活から引退している。

『「東洋の魔女」論』新 雅史著/PRESIDENT Online.2013
選手と大松監督の強い信頼関係

 労働組合が大松監督を「女性の敵」と訴えたこともある壮絶な練習の日々。しかし、思い出を語る神田さんは笑顔だ。それほど師弟の信頼関係は強かった。

「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった!/デイリースポーツonline.2017

 単なるしごきでなかったことは、当時では珍しく練習中に水分を補給させていたことからもわかる。チームドクターなどいない時代に、ケガや病気の状況は懇意の医師とのホットラインですべて管理していた。怒ると強いボールが飛んできたが、直接手を挙げることはなかった。

「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった!/デイリースポーツonline.2017

選手は「できるまでやるというのが、大松先生の練習でした。だから、時間がかかり、気がつくと、明け方になっていることはありましたけど、それは決して一方通行ではなく、選手たちは納得してやってましたし、練習中に笑いが起きることもありました」と振り返る。

東洋の魔女にパワハラはなかった/スポーツ報知.2019

レシーブ練習でボールを打ったり、投げたりはひとりでこなし、1日に千数百本にも達したことがあったという

東洋の魔女にパワハラはなかった/スポーツ報知.2019

「尊敬こそあれ、向かっていこうなんて気持ちには全くなりませんでした」と当時の選手はしみじみと話した。

東洋の魔女にパワハラはなかった/スポーツ報知.2019
鬼じゃない!?「仏の大松」

「でも、『鬼の大松』というのはメディアの皆さんが呼んでいただけで、本人は『俺はホトケの大松だぞ』と言って笑っていました。厳しい練習でしたけど、スパルタじゃありませんでした。今から思うと、私も『ホトケの大松』だったと思うんです。本当に家族のようでした」。

カーテンコール 東京五輪金メダリスト・東洋の魔女のエース 井戸川(谷田)絹子さんを偲ぶ/バレーボールマガジン.2020

息抜きは月に1度、みんなで南海電車に乗ってミナミの繁華街へ遊びに行くこと。「西部劇が好きな大松先生に映画の新聞広告を見せると、優しい顔で『用意せえ』」。“仏の大松”のおごりで映画や食事を楽しみ、絆を強めた。

「魔女」と呼ばれて 回転レシーブでバレー金 【わが街 オリンピアン 大阪府】/47NEWS.2021

 選手には月に一度のお楽しみもあった。洋画好きの大松監督が「ベン・ハー」など人気映画を見に連れて行ってくれる日があったのだ。「今日は疲れているなという時は、5時頃に練習を終えて難波へ。映画を見てレストランで食事して、帰りは貝塚駅から寮まではタクシーでした」

「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった!/デイリースポーツonline.2017

一年で実業団女子選手権を制覇!3冠を達成!国内最強のチームに!

しかし、1955年(昭和30年)に入ると、日々の猛練習の成果がしだいに見えはじめ、チーム発足後約1年余りで、全日本9人制バレーボール実業団女子選手権大会で初優勝を遂げました。同年には、全日本バレーボール女子9人制総合選手権大会、国民体育大会でも優勝し、国内の3つのタイトルを獲得しました。

日紡貝塚チームの誕生/貝塚市

 目標の日本一にはなったが、世界ではソ連が圧倒的な強さを誇っていた。

五輪・お家芸の系譜(7)東洋の魔女、回転レシーブで頂点…女子バレーボール/産経新聞.2016
体育館が完成!!練習に明け暮れる日々

当時、日紡貝塚には体育館はありませんでした(後に女工たちのための大食堂を改装して体育館を造った。

中江利忠氏 顧問退任へ(p.4)/東京大学社会学研究室 同窓会 クローネ会.人文社会系研究科.2019

57年には体育館が完成。天候や日暮れに左右されなくなると、大松の指導は深夜にまで及ぶようになる。24時間稼動の工場はいつでも食事、風呂が準備されており、時間を気にする必要もない。充実した練習を支える恵まれた環境。 「日紡貝塚」が国内無敵の強さを誇るまで、時間はかからなかった。

鬼の大松の「日本一苦しい練習」に女性社員から抗議殺到/日刊スポーツ.2007

「9人制バレー」から「6人制バレー」に移行

addshot13/YouTube

チーム結成から5年が過ぎ、日紡貝塚の強さは際立っていた。58年には都市対抗、実業団、国体などを制し国内5冠を達成。だが同時に、1つの転換期を迎えていた。

東洋の魔女を生んだ2カ月の海外遠征「あれは東洋の魔法使いだ」/日刊スポーツ.2007
世界のバレーに合わせる

当時、日本国内は「9人制バレー」が主流。しかし世界では「6人制」が標準でした。

東洋の魔女 寺山恵美子さん – 日立市/いばナビ

当初は「6人制は遊び」と否定的だった大松博文も「日本の次は世界。世界で戦うには6人制だ」と決断する。

東洋の魔女を生んだ2カ月の海外遠征「あれは東洋の魔法使いだ」/日刊スポーツ.2007
やがて日本のバレーも6人制が基本に!

59年に入り本格的に6人制の練習は始まった。同じバレーとはいえネットは約10センチも高くなり、コート上の動きも勝手が違う。ぎこちない動きの選手を見て、大松はひそかに米国、フランスから説明書を取り寄せて研究した。協会も6人制移行を勧め、他チームも続く。同年11月14日、全日本総合で明治生命を2-0で下した試合が、日紡貝塚258連勝のスタートになった。

東洋の魔女を生んだ2カ月の海外遠征「あれは東洋の魔法使いだ」/日刊スポーツ.2007

第3回 世界バレーボール選手権「半分は日紡貝塚の選手」

1960年(昭和35年)10~11月、ブラジルで第3回世界バレーボール選手権大会が開催され、全日本女子代表選手12名中6名が日紡貝塚から選抜されました。

日紡貝塚チームの欧州遠征と第4回世界バレーボール選手権大会/貝塚市.2020
当時世界最強だったソ連に敗北、惜しくも2位

1960 年(昭和35 年),女子の日紡貝塚は,第 3 回世界選手権に初出場し, ソ連につぎ第 2 位となり世界を驚かせた。勝因は 9 人制で、鍛えた変化球サ ーブと粘り強い守備であった。攻撃は正確なオーパーパス, トスから繰り 出す堅実なフォーメーション攻撃であった。特ーにサーブは相手のミスを連発させ,ジャンプトスは相手の前衛を肱惑させた。

バレーボールの歴史に関する研究日本における攻撃技術・戦術の発展と推移一一(p.47)/清川勝行.天理大学

日紡代表女子バレーボールチーム単独でヨーロッパ遠征!

しかし、そこでの活躍が評価され、1961年(同36年)8~10月には日紡貝塚単独チームが欧州遠征に派遣されました。この遠征では、チェコスロヴァキアで開催された三大陸選手権大会で優勝、親善試合でもソ連を破るなど、22戦全勝という記録を打ちたてました。

日紡貝塚チームの欧州遠征と第4回世界バレーボール選手権大会/貝塚市.2020

私たちは9人制でしかやったことがなかったので、ルールに対応するのが大変でした。アタックをしたら、審判が「ホールディング」っていう反則を取ります。ボールを手でつかんでいるという理由で。「ちょっと待って!」と文句を言ったら、抗議したということでまた1点取られて。厳しいんですよ。どうやって打てばいいのか悩みましたけど、手をグーにして打ったりして慣れていきましたね。海外は遊びに行くわけではなく、自分の技術を磨きに行くところ。海外遠征は世界で一番になるための特訓だったんです。

話の肖像画 東京五輪 女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(6) 父親代わり「仏の大松」/産経新聞.2020

日紡貝塚単独の海外遠征を実現できたのは、国内での圧倒的な強さもさることながら、東京オリンンピックでの女子バレーボール正式競技化を狙う日本バレーボール協会が中心となっての思惑と、海外での宣伝効果を狙う会社側の思惑が結びついたがためです。彼女たちの海外での活躍に日本バレーボール協会はすごく喜び、大日本紡績もかつての主要産業から国内需要が落ち、海外へと売り込みを図る中、〝ヒット商品〟として日紡貝塚を表に出していきます。

中江利忠氏 顧問退任へ (p.4)/人文社会系研究科
「東洋の魔女」と呼ばれるきっかけ

当初は挑戦的だったソ連の地元紙も、次第にその強さを賞賛するようになった。 「太平洋の台風を前に、まるで葦(あし)の細茎のようにポロポロと折れてしまった。彼女たちの テクニックはゴツゴツして美しさに欠けてるが、ほとんどミスがない。いかなる時も精神 の均衡を失わないのも大きな長所である」「台風だと思っていたら台風はつぶれない。あれは東洋の魔法使いだ」などと報じた。これがその後「東洋の魔女」と呼ばれるきっかけ になった。

東洋の魔女を生んだ2カ月の海外遠征「あれは東洋の魔法使いだ」/日刊スポーツ.2007

「東洋の魔女」は当初、日本代表ではなく、このチームを称賛する言葉だった。

猛練習で勝ち取った金/朝日新聞デジタル.2020
日本でも一気に注目を浴びる

世界で強さを見せ、日紡塚は大きく注目されるようになる。帰国したメンバーを待つ大阪駅は人であふれ、貝塚では市中パレードが行われた。練習時は見学する社員で人だかり ができるようになり、練習を終えた選手が深夜に部屋に戻ると、同部屋の社員が湯たんぽ で布団を温めていてくれたという。周囲の期待は強まるばかり。それでもチームは、ハー ドな練習を続けるだけだった。

東洋の魔女を生んだ2カ月の海外遠征「あれは東洋の魔法使いだ」/日刊スポーツ.2007
世界中から一目置かれる存在

「遠征の時は、食べ物が合わなくて大変でした。スープに枯れ葉が入ってる! こんなの食べられない!って。今から考えるとローリエだったんですけど、当時は分からなかったですから(笑)。パンも黒くて酸味があるものばかりで。白いパンにバターやジャムをつけたのがいいねって言い合いながら、夜食で日本から持ってきたインスタントラーメンや、インスタントごはんを食べていました。ちょうどその頃インスタントラーメンが新しく発売されたばかりで、喜んで持って行きましたね。スーツケースの半分は日本から持って行った食べ物でした」

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013

 チームメイトの神田さんがいつも「白いパンにバターとジャム!」と日本語でリクエストして、最初はまったく取り合ってもらえなかったのが、あちこちで相手を倒していくうちに、要求が通るようになった。

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013

「白いパンもジャムもバターもあったんですよ。でも、最初は出してもらえなかった。無名の小さな国からやってきたどうでもいいお客さんだったのが、勝ち進むうちに待遇が変わっていったんです。そういうことでも『ああ、勝つということは大事なことなんだ』と思い知りました」

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013
ソ連には監視され徹底的に分析される

それからは、「追われる身」となり、一時も気が抜けなかった。事実、ソ連のバレー関係者に尾行されて、試合の様子をあらゆる方向から8ミリカメラで撮られるなどして調べつくされ、選手、監督ともども精神的にダメージを受けていた。

和歌山ゆかりの金メダリスト/わかやまスポーツ伝承館

世界選手権でソ連を倒すため!!秘技「回転レシーブ」の誕生

 1960年、ブラジルの世界選手権で2位。そこから打倒ソ連を目標に編み出されたのが、回転レシーブだ。

東洋の魔女・谷田絹子、いま明かす「回転レシーブ」誕生秘話/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018

大柄な選手が多いソ連の強打に勝つためには、ボールを拾いまくるしかないと考えた大松監督は手を伸ばして回転しながらボールを上げる「回転レシーブ」という秘策を編み出した。

バレーボール volleyball/神戸新聞NEXT.2013
6人制バレーだと日本人は体格差で不利……それを跳ね除けるため

大松監督は守備に危機感を抱いた。体格差は攻撃に表れると思われがちだが、バレーはボールを床に落とさないことが大前提。9人制と同じコートを6人でカバーするのに、小柄で手足の短い日本選手は不利だった。

「東洋の魔女」あの時と今 【リメンバー1964】/JIJI.COM
転んでもすぐに立ち上がる!おもちゃ「起き上がり小法師」から着想
NctNishiaizu/YouTube

大松には秘策があった。「ゴロゴロ転がってみい」「そっから起きてみい」。玩具の「起き上がり小法師」から思いついた「回転レシーブ」だった。

五輪・お家芸の系譜(7)東洋の魔女、回転レシーブで頂点…女子バレーボール/産経新聞.2016

 相手の打球に飛び込んでパスを上げ、床に転がるとすぐに立って攻撃の体勢を取る。61年初め、大松博文監督がイメージを口にすると、河西(のち中村)昌枝主将は「そんなこと…」と返したが、「できんことをするんが練習や」と大松監督。

「東洋の魔女」あの時と今 【リメンバー1964】/JIJI.COM

 「大変なのは私たちですよ。やり方を一から考えないといけないから」。大松が頭に描くイメージを、部員みんなで床を転がりながら追った日々を、谷田絹子(80)が振り返る。

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(5) 世界一狙う未知の技/東京新聞 TOKYO Web.2020
 常軌を逸した訓練「男でもここまではせん。女の子をなんであそこまで」

 そこから回転レシーブの発想が生まれ、完成を急ぐには手順を踏む時間がなかったが、選手たちの血みどろの努力が可能にした。「1日1000本は上げたかな。コートの中ではみんな、女じゃなかったから」。河西は生前、朗らかに笑った。

「東洋の魔女」あの時と今 【リメンバー1964】/JIJI.COM

 「男でもここまではせん。女の子をなんであそこまで」

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(5) 世界一狙う未知の技/東京新聞 TOKYO Web.2020

 大松博文率いる大日本紡績(日紡)貝塚バレー部の練習。初めて目にした時の衝撃を、吉田国昭(75)=一九九六年アトランタ五輪女子バレー日本代表監督=は忘れられない。

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(5) 世界一狙う未知の技/東京新聞 TOKYO Web.2020
アザなんか当たり前!顔面にボールが飛んでくる!!

大松はまず、体育館の硬い木製床へ何度も飛びこませた。飛び込んですぐ起き上がらないと、大松の打つボールが顔面目掛けて飛んできた。体育館の端から端まで回転しては起き上がる動きを繰り返す選手の体は、あっという間に青あざやナマ傷だらけとなった。ある時、練習見学に来た高校生がマネしたところ、鎖骨を骨折したという。一番のみ込みが早かったという松村好子が振り返る。

「回転レシーブ」誕生へ 青あざにナマ傷、壮絶すぎる練習/日刊スポーツ.2007

松村「先生が『これから秘密練習をする。誰も体育館に入れるな」と言うのが始まりでした。ギリギリのボールが飛んできて床に体をぶつけないといけないから、アザだらけ。それを1人300本でした」。

「回転レシーブ」誕生へ 青あざにナマ傷、壮絶すぎる練習/日刊スポーツ.2007

選手は腰や背中に座布団を巻きつけ、ひざにはサポーターをして飛び込み続けた。時には夜明けまで行われた特訓の中、大松は「できないことをやるのが練習だ」とハッパを掛け続けた。肩から落ち、すぐに左右に回転するレシーブ。選手は理論でなく、文字通り体で覚えていった。

「回転レシーブ」誕生へ 青あざにナマ傷、壮絶すぎる練習/日刊スポーツ.2007

 長時間の苛烈な練習は、非合理的とも批判され、柔道の受け身を習得してからやるべきだとの声もあったが、大松監督は「柔道は回って立つだけ」と退けたという。

「東洋の魔女」あの時と今 【リメンバー1964】/JIJI.COM

そこから、世界のどのチームもできなかった得意技「回転レシーブ」は生まれた。

「東洋の魔女」聖地、野球で熱気再び ニチボー貝塚の拠点、日生に売却/iza.2015
やがて「回転レシーブ」を武器に無敵のチームに変貌する

この回転レシーブを軸とした守りのバレーを展開し、連戦連勝を果たして公式戦258連勝を達成したのだ。

バレーボール女子日本代表”東洋の魔女”を振り返る/SPAIA.2016

 「守りは最大の攻撃」を合言葉に回転レシーブを習得した魔女たちは東京五輪の決勝戦でもソ連の強打をことごとく拾いまくった。

「東洋の魔女」田村洋子さん、厳しかったけど愛があった“鬼の大松監督”への感謝/Sponichi Annex.2019

バレーボールが東京オリンピックの種目として採用!

ブランデージ氏と日本バレーボール界は、東京オリンピックを契機として結ばれた。故今鷹昇一氏(当時の理事長のちにJVA副会長)が同氏に初めて会ったのは昭和 36 年にアテネで行われたIOC総会の時のことである。この会議で、男子バレーボールがオリンピック種目になることが決定したが、女子については話題にも上がらなかった。日本協会は、女子バレーボールを加えたいという意向で総力を結集して働きかけた。協会は田畑政治氏らの力を借り、リボーIF会長、ソ連バレーボール界と緊密な協力体制をとり、ついに東京オリンピック(昭和39年 10月10日開催)でテストケースとして種目に加えることに成功した。

ブランデージ・トロフィー物語/Vリーグ
……選手の反応は冷めていた

 しかし、一連の動きについて、選手たちはほとんど気にしていなかった。

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013
「東洋の魔女」たちは世界選手権で優勝してから引退するのが目標

「東京でオリンピックが開催されると決まったとき、実は、私たちは『へえ、東京でオリンピックがあるんだね。バレーボールもやるんだね』という感じで、他人事でした。というのも、1962年の世界選手権でソ連を倒して世界一になったら、大松(博文)先生も私たちも全員引退するつもりだったからです」

東洋の魔女「金メダルが取れなかったら日本にいられない」重圧を越え、栄光を手に/Olympics.2020

1962年の世界選手権と東京1964オリンピックでエースアタッカーとして活躍した「東洋の魔女」の一人、井戸川(旧姓谷田)絹子さんは、当時を思い出しながらこう語る。

東洋の魔女「金メダルが取れなかったら日本にいられない」重圧を越え、栄光を手に/Olympics.2020

第4回 世界バレーボール選手権「宿敵ソ連との対決」

1962年(昭和37年)、日本バレーボール協会は、ソ連で開催される第4回世界バレーボール選手権大会に出場する全日本女子代表選手として、日紡貝塚10名を主力とし、2名の高校選手(のちに日紡貝塚へ入部)を加えることを発表しました。9月14日、選手達は日本を出発し、いくつかの親善試合をこなした後、10月12日、第4回世界バレーボール選手権大会に臨みました。

日紡貝塚チームの欧州遠征と第4回世界バレーボール選手権大会/貝塚市.2020

「打倒ソ連」に燃えたチームは、宿敵と20日の決勝リーグ3戦目で激突する。

大松監督が突然の辞意 五輪あと2年、日本バレーに衝撃/日刊スポーツ.2007

四連覇を狙うソ連と、前回二位の日本がリーグ戦中盤で対戦し、事実上の優勝決定戦となった。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6)頂点極め続投の重圧/中日新聞.2020
「回転レシーブ」を駆使した魔女たちはソ連を圧倒する

会場にはブレジネフ最高会議議長や前年に人類初の宇宙飛行を成功させたガガーリンら、約2万人の観衆が詰めかけた。第1セットを落とした日本だが、猛練習で身につけた「回転レシーブ」で守り抜き、第2、第3セットを連取。第4セットは15-3で圧倒した。

大松監督が突然の辞意 五輪あと2年、日本バレーに衝撃/日刊スポーツ.2007

 大松は選手に胴上げされ、ガガーリンの目前で宙に舞う。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6)頂点極め続投の重圧/中日新聞.2020

 「いま、わたしは死んでもいい!」

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6)頂点極め続投の重圧/中日新聞.2020

 翌年、出版された自著「おれについてこい!」で、率直に喜びを記している。二年後の東京五輪で再びソ連を破り、優勝したときは無表情だったが、モスクワでは涙も見せている。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6)頂点極め続投の重圧/中日新聞.2020
完全優勝!!圧倒的な強さで世界制覇

(前略)続けてブラジル、ルーマニア、チェコスロヴァキアを降し、完全優勝で史上空前の世界制覇を成し遂げました。この世界制覇は日本でも大きく報道され、日本チーム=日紡貝塚と評されたのでした。

日紡貝塚チームの欧州遠征と第4回世界バレーボール選手権大会/貝塚市.2020

 これは団体競技の世界大会で日本が初めて得た優勝でもあり「東洋の魔女恐るべし」のニュースが世界に走った。

【Tokyo1964秘録】女子バレー・東洋の魔女 社業後、夜中3時まで練習は“当たり前”/zakzak.2020
そして目標を達成した魔女たちは引退を決めた

 翌62年の世界選手権に優勝。このとき選手たち、そして大松博文監督は引退を決めていた。「世界一になるまで」の約束で猛練習を重ね、目標を果たしたからだ。

東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実/デイリー新潮.2020

 62年の世界選手権では日紡貝塚の選手を中心とする日本代表が優勝し、宮本が最高殊勲選手に選ばれた。世界一を達成したことで、監督や宮本ら選手の多くは引退するつもりだった。

猛練習で勝ち取った金/朝日新聞デジタル.2020

この年の世界選手権で強豪ソ連を破って悲願の世界一。「これだけやって世界選手権も勝った。もう五輪を目指してやらなくていいじゃない」。井戸川さんには満足感があった。

東洋の魔女、井戸川絹子さん語る 64年東京五輪女子バレーのエース/JIJI.COM
ご褒美に「世界一周旅行」

 世界選手権で優勝した帰りは世界一周旅行に連れて行ってもらいました。世界一のご褒美として事前に約束していました。ハワイの海はきれいでした。でも、当時は選手が体を冷やすことはダメでしたから、海岸をはだしで走るわけでもなく、観光もゼロ。「みんな気持ち良さそうに泳いでいるね」「きれいな海ね」と会話するだけでしたが、普段行けないところに連れて行ってもらえたことはうれしかったです。ホテルでおいしいものを食べてのんびりと過ごしました。日本に帰ったら優勝パレードをして、みなさんにお祝いしてもらいました。

話の肖像画 東京五輪 女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(7) 世界一にも満足せず/産経新聞.2020

日本中が騒然!!帰国後の祝勝会での引退を表明

世界選手権優勝から凱旋(がいせん)帰国した同年11月10日、思わぬ騒動が持ち上がった。祝勝会の席で突然、監督の大松博文が辞意を表明したのだ。

大松監督が突然の辞意 五輪あと2年、日本バレーに衝撃/日刊スポーツ.2007

「この2年間、ソ連を破って世界一になるためにやってきた。これで目的は達成できたし、体力も限界にきているので、監督は辞めたいと思っています」

大松監督が突然の辞意 五輪あと2年、日本バレーに衝撃/日刊スポーツ.2007

協会幹部は混乱し、報道陣は色めきだった。

大松監督が突然の辞意 五輪あと2年、日本バレーに衝撃/日刊スポーツ.2007
選手の結婚させてあげたい

その決断の裏には「結婚適齢期の選手を解放してあげたい」という親心もあった。主力の1人で当時22歳だった半田(結婚後は中島)百合子には婚約者がおり、故郷の栃木へと帰った。主将の河西(結婚後は中村)昌枝も「オリンピックなんて、私には関係のないこと」と腹をくくっていた。

「東京五輪」で蘇る東洋の魔女 新伝説へ導く日本女子バレーのDNA/日刊スポーツ.2021

それは、当時は「女性は20代半ばで結婚する」という価値観が、社会に根強かったからだ。1960年の平均初婚年齢は男性が27歳、女性が24歳だった。

なぜ、東洋の魔女は「非国民」と呼ばれたのか。五輪をめぐる“誹謗中傷”が、彼女たちを追い込んだ/BuzzFeed.2021
「魔女」たちの引退は認められない?

しかし、周囲がそうはさせない。バレーボールは東京五輪で採用された新競技。女子の団体種目としては初めてだった。新たな金メダル候補への周囲の期待は、想像以上に大きい。「みんなやめたかった。でも、出ないということは許されなかった」。

東洋の魔女、井戸川絹子さん語る 64年東京五輪女子バレーのエース/JIJI.COM
5000通の手紙が届く……出場しないのは非国民

(前略)「是非東京まで…」と協会幹部が日紡貝塚に日参、一般ファンからも大松監督率いる東洋の魔女続投を望む手紙が5000通も寄せられた。

【Tokyo1964秘録】女子バレー・東洋の魔女 社業後、夜中3時まで練習は“当たり前”/zakzak.2020

うち4割は、引退を否定する内容だった。大松監督の自著にはその内容の一部が紹介されている。

なぜ、東洋の魔女は「非国民」と呼ばれたのか。五輪をめぐる“誹謗中傷”が、彼女たちを追い込んだ/BuzzFeed.2021

「ここまでやり抜いてきたおまえたちが、この期に及んでやめるとはなにごとであるか。それは非国民というものだ。(…)わたしたち国民を裏切らないでほしいーー」

なぜ、東洋の魔女は「非国民」と呼ばれたのか。五輪をめぐる“誹謗中傷”が、彼女たちを追い込んだ/BuzzFeed.2021
田畑政治も直接説得に動く

 女子バレーは六二年六月、五輪の正式種目に決まったばかり。五輪組織委の初代事務総長、田畑政治(まさじ)が「金を期待できる」とそろばんをはじき、国際オリンピック委員会(IOC)へ猛烈にロビー活動した成果だった。

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6) 続投へ 狭まる包囲網/東京新聞 TOKYO Web.2020

(前略)その田畑が大松の慰留に向け、日紡社長の原吉平に直談判する。

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6) 続投へ 狭まる包囲網/東京新聞 TOKYO Web.2020

大松はこのときの田畑の肩書きを事務総長と書いているが、実際にはすでに退任して2ヵ月が経っていた。田畑は、大松が引退すると聞くとあわてふためき、さっそく飛行機で大阪に飛んで日紡の社長と会談し、当人も呼んで翻意を要請する。しかし彼は頑として聞かなかった。

「いだてん」まーちゃんは死せず!大松監督の説得と奮闘「おれに…おれについてこい!」45話/エキサイトニュース.2019

世界選手権で宿敵のソ連を破るまでに心身ともに使い果たしたうえに、選手も年齢の関係でこれ以上続けさせることは自分としてはできない。といってあと2年でこれに代わる選手の養成は不可能で、オリンピックで勝てるとすればいまの選手のみである……と、大松は説明したという。これに対し、田畑はさらに女子バレーをオリンピック種目に加えた経緯を話して説得し、最後にようやく《だれにいわれても、やめようと思っていたが、あなたが、それ程頼むのならやろう》という言葉を引き出した(田畑政治「感無量 東京大会」、「朝日新聞」1964年10月25日付朝刊)。再び大松の著書によると、田畑はこのとき、《ほしい選手がよその会社にいるなら、行って頼んでもらってくる、転勤させてももらうから、オリンピックはニチボーでやってくれ》とまで言ったという(『おれについてこい なせば成る』)。

「いだてん」まーちゃんは死せず!大松監督の説得と奮闘「おれに…おれについてこい!」45話/エキサイトニュース.2019
日紡社長自ら選手を説得

河西選手の自著によると、「日紡」の社長も選手たちを呼び出し、「会社の意のままにならなくなった。日本国民のためにあと2年、なんとかがんばって続けてもらえんかな」と説得したという。

なぜ、東洋の魔女は「非国民」と呼ばれたのか。五輪をめぐる“誹謗中傷”が、彼女たちを追い込んだ/BuzzFeed.2021

 当時は20代前半で結婚する人が多かった。主将の河西昌枝(故人)は29歳。他の主力も適齢期で“2年延期”には切実な思いがあった。河西は自著「バレーにかけた青春」の中で「私だけでなく、あのときは、みんながやめたかった。私たち6人は会社の偉い人を前にして、泣いてやめさせて下さいと頼んだ」と記している。体力的にも、下降線をたどる不安も抱えていた。

現役2年延期で金メダル「東洋の魔女」から悩む選手へ「気持ちを強く持って頑張ってほしい」/スポーツ報知.2020
世間の声はなによりも金メダルだった

(前略)日本社会は、女性がそこまで情熱を燃やしてスポーツに打ち込む姿に驚嘆しながら、好意的な眼差しが大勢を占めていた。日紡貝塚の労組が問題にする動きはあったが、社会の空気は“東京五輪”“金メダル”。勝利への憧憬はすべてを駆逐した。

東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実/デイリー新潮.2020

東洋の魔女たちは決断する

1962年の正月休み。大松監督は東京五輪への判断を、選手たちに「わしがお前らに『やってくれ』とは言えない。みんなに決めてほしい」と一任した。

猛練習で勝ち取った金/朝日新聞デジタル.2020

年が明けた1月4日、大松家に全員が集まった。

「東京五輪」で蘇る東洋の魔女 新伝説へ導く日本女子バレーのDNA/日刊スポーツ.2021

「先生、みんなで話し合った結果、やります。だから、お願いします」

「東京五輪」で蘇る東洋の魔女 新伝説へ導く日本女子バレーのDNA/日刊スポーツ.2021

選手たちは、東京五輪を目指す覚悟を伝えた。大松もうなずいた。強固な信頼関係がなければ、1年後に歴史的瞬間は訪れなかった。

「東京五輪」で蘇る東洋の魔女 新伝説へ導く日本女子バレーのDNA/日刊スポーツ.2021
選手たちは当時のことを振り返り

腎臓(じんぞう)病で体調が悪かった増尾光枝(現姓・高城)だけが引退。代わって19歳の若い磯辺サタ(現姓・山)が加入した。日本代表12人のうち、近藤(倉紡)渋谷(ヤシカ)以外は全員ニチボーだった。

辞意に5000通の手紙 世論に覆され選手とともに東京五輪へ再出発/日刊スポーツ.1995

【証言】半田百合子さん(55=現姓・中島)「私は当時婚約者がいて、もうやめるつもりで栃木へ帰りました。彼がもう少しやっていいと言ってくれたので、決心をしましたが、五輪までの2年間は正直しんどかった」。

辞意に5000通の手紙 世論に覆され選手とともに東京五輪へ再出発/日刊スポーツ.1995

「オリンピックなんて私には関係のないこと」と言っていた河西も、迷った末に翻意した。年が明けた正月4日、大松家に全員が集まった時、「先生、皆で話し合った結果、やります。だから、お願いします」と頭を下げた。

現役2年延期で金メダル「東洋の魔女」から悩む選手へ「気持ちを強く持って頑張ってほしい」/スポーツ報知.2020

 「私は(主軸の)6人が残るならやろうと決めてました。私が右手でボールを受けたら、どのあたりをカバーすればいいとか、左手で弾いたら、このあたりに球が行くとか全員が知り尽くしていた。それを一からやり直すということは難しかった」と井戸川。健康面の問題で1人は引退せざるを得なかったが、他のレギュラー5人は現役を続行した。

現役2年延期で金メダル「東洋の魔女」から悩む選手へ「気持ちを強く持って頑張ってほしい」/スポーツ報知.2020
「俺についてこい」「金メダルを保証する」

 2年後を目指そうと決めた日から、さらに厳しい練習が始まった。

【東京五輪回顧1964】東洋の魔女河西さん/サンスポ.2013

 五輪に出るからには絶対に勝たなあかん。負けると分かっていて出るのはダメ。だから練習はもっと厳しくなりました。終わりが午後11時から午前1時になり、さらに先生が納得するまで続く。朝5時までやることもありました。特にサーブレシーブの練習が長かったですね。大松先生がサーブを打って、レシーブして、トスを上げたらそれで1本。1人10本、それが6人で60本連続で成功するまで終われませんでした。最後の6人目が9本までいってラスト1本が取れなければ最初からやり直しです。

【話の肖像】画東京五輪女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(9)五輪目指し増す一体感/産経新聞.2020
さらに過酷さを増す練習!!監督まさに「鬼の大松」

 大松先生からは「練習についていけないやつは去れ。残れば金メダルを保証する」と言われた記憶があります。「俺についてこい」とも言っていたかな。よく耳にする「鬼の大松」ですね。それを聞いて「よし、やってやろうやないか」と思いましたね。先生にはリーダーシップがありましたが、私たち選手が「よし、やろう」と思わなければバレーはできません。一人でも「私、しんどいから休みます」と言ってしまうと、それで終わりです。全員が猛練習をやらないと金メダルは取れないと思っていました。

【話の肖像】画東京五輪女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(9)五輪目指し増す一体感/産経新聞.2020

「練習にしても、おまえたちほど激しくやったチームは、世界のどこを捜してもないだろう。これは世界一だ。だから、どんなときでも、この練習時のプレーを試合で発揮することだ。そうすれば、オリンピックに必ず勝てる。おまえたちには、もう、調子が悪くて力が出せなかったなどというようなことは起こらない」

大松博文と松平康隆 オリンピックを身近なものにした 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019

「苦労をかけた選手たちに金メダルを取らせてやるには、こうするしかない」と思いきわめて、監督はあえて「鬼」になったのである。

大松博文と松平康隆 オリンピックを身近なものにした 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2019
当時のことを振り返り……

 「先生の機嫌が悪ければ朝五時まで」及んだ猛練習の日々を、元日本代表の松村好子(78)は思い起こす。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(4)「社運」のため 猛練習/中日新聞.2020

松村ら部員は午前八時から事務員として働き、午後三時すぎに練習に集まる。入社したころは午後九時に終わったが、年を追うごとに練習は長くなる。一九六四(昭和三十九)年東京五輪の前年になると、午前零時より前に終わった記憶がない。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(4)「社運」のため 猛練習/中日新聞.2020

 午後七時ごろに軽食のおにぎりを食べ、寮に帰って午前一~二時に冷めてかたくなったおかずとご飯をかき込んで寝る。朝は朝食抜きで職場に向かった。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(4)「社運」のため 猛練習/中日新聞.2020

全日本チームを発表

1964年(昭和39年)8月31日、日本バレーボール協会は、東京オリンピックの女子代表となる全日本チームのメンバーを発表しました。

1964年東京オリンピック/貝塚市.2020

 大松博文(監督)、河西昌枝(コーチ兼主将)、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、藤本佑子、松村勝美、佐々木節子、篠崎洋子(以上、ニチボー貝塚)、渋木綾乃(ヤシカ)、近藤雅子(倉紡倉敷)

1964年東京オリンピック/貝塚市.2020

「東洋の魔女」と呼ばれた12人のうち、レギュラー全員を含む10人が大阪府南部の貝塚市で活動した日紡貝塚の選手だった。

「魔女」と呼ばれて 回転レシーブでバレー金 【わが街 オリンピアン 大阪府】/47NEWS.2021

金メダルをとって当たり前!そんな状況下でオリンピックが始まる

オリンピックにプレッシャーはつきものだ。当然のように、世界女王の「東洋の魔女」には、オリンピック初出場の東京1964大会で金メダル獲得という、かつてないほどの重圧がのしかかった。誰もが、「絶対に金メダルを取らなければ。もしも金メダルが取れなかったら、もう日本にはいられないかもしれない」と思い詰めていたという。

東洋の魔女「金メダルが取れなかったら日本にいられない」重圧を越え、栄光を手に/Olympics.2020

実はオリンピックに出場するつもりはなかった

 大松監督率いる女子バレーボールは、選手村を使わず、いつも遠征時に泊まっていた日本旅館を拠点にしていた。大会前からいつもどおりの練習漬けの毎日。「朝から練習し、終わってすぐに駆けつけた。長時間待って、とにかく暑かった。ブルーインパルスがすごくはっきりと空に五輪を描いたこと、鳩がバーッと飛んでいったことは覚えている。でも、入場して退場してマスゲームなどは見ずにすぐに旅館へ帰った」

東洋の魔女・神田好子さん 57年ぶり東京に聖火 すごく幸せな開会式だった/デイリースポーツonline.2021

 選手村に泊まったのは「開会式の前だけだったかな。でも、食事はしなかった」と、世界中のごちそうが振る舞われ、国際交流も盛んだった選手村の生活は知らない。東京五輪の主役でありながら、「実は感動を味わっていない。(大会中は)練習ばかりしていたから。新聞もテレビも見ることがなくて」と自分たちへの注目も、すべて五輪が終わってから知ったという。

東洋の魔女・神田好子さん 57年ぶり東京に聖火 すごく幸せな開会式だった/デイリースポーツonline.2021

絶対負けられない戦いが始まる

 迎えた本番は、プレッシャーとの闘い。期待されるのは金メダルだけだった。「私たちは一生懸命だけど、周りは『取って当たり前』。負けたら日本にいられないと思った」。恐怖と背中合わせの使命感を抱きながら、いざふたを開けてみれば強さは別格だった。

東洋の魔女、井戸川絹子さん語る 64年東京五輪女子バレーのエース/JIJI.COM
順当に決勝へ……その相手は

6チームで競った五輪で順調に勝ち進むと、決勝では宿敵ソ連(現ロシア)とぶつかった。

「東洋の魔女」期待背負い金 1964年東京五輪/日本経済新聞.2019

「ソ連に負けるとは考えたことがありませんでした。でも、勝てるかは分からん。そんな相手でした。『もし』なんて考えない。『もし負けるかも…』と考えたら、そっちに引っ張られる。だから、考えません」

「東京五輪」で蘇る東洋の魔女 新伝説へ導く日本女子バレーのDNA/日刊スポーツ.2021

 「3日ほど前から食事が思うようにのどを通らなくなっていました」。こう明かすのは、エースアタッカーだった谷田絹子(79)=現姓・井戸川=だ。

今だから語れる「東洋の魔女」 もし負けたら、日本に…/朝日新聞デジタル.2019

オリンピック決勝!!!宿敵ソ連との運命の決戦!!!

TMsports/YouTUbe

 1964(昭和39)年10月23日午後7時半すぎ、東京五輪閉会式の前夜、女子バレーボール決勝が駒沢屋内球技場(東京都世田谷区)で始まった。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1)孤高の「鬼」大松監督/中日新聞.2020

 金メダルを懸け、無敗同士の対戦となったソ連との大一番は日本が2セットを連取。

10月23日 東洋の魔女/サンスポ

3セット目も11-3と大量リードしながら、1点差まで追い上げられる。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1)孤高の「鬼」大松監督/中日新聞.2020

 コートサイドの指揮官は、腕を組んだまま動じない。彫りの深い顔は、無表情でコートを見据える。「鬼の大松」こと大松博文、このとき43歳だった。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1)孤高の「鬼」大松監督/中日新聞.2020
「金メダルポイント」あと少しで勝利が決まる!

(前略)第3セットも果敢な攻撃で、愈々(いよいよ)14対13の、マッチポイントを迎えました。会場は割れんばかりの大声援、大喚声、NHKの鈴木文弥アナの『金メダルポイント』が名言となったあのシーンです。

昭和39年の東京オリンピック 女子バレーボール金メダル獲得で大感激、大感涙/grape.2021
ソ連の粘り!!そこから中々決めきらなかった

大詰めでソ連の粘りがすごく、何度マッチポイントを迎えたことか。そのたびに「金メダルポイント」とアナウンサーが繰り返したこと、息もできない緊張でした。

五輪実況/東海テレビ|空言舌語

 14-13のマッチポイントから、なかなか試合を決められない。大松はフェースタオルを片手におもむろに腰を上げ、タイムを取る。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1)孤高の「鬼」大松監督/中日新聞.2020

 「おまえら、なに慌ててんのや。落ち着けや」。普段から口数の少ない大松は、諭すようにそれだけ言って引き揚げていったと、コート上にいた松村好子(78)は記憶している。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1)孤高の「鬼」大松監督/中日新聞.2020

ベンチにいた最年少19歳の田村(旧姓・篠崎)洋子は「ちょっと嫌でしたね。ソ連が息を吹き返してくるんじゃないかと。絶対にあのセットは取らないといけないと思っていました」。

【世紀をつなぐ提言】64年大会女子バレー金・篠崎洋子<上>一本をあきらめない「鬼の大松」の教え…/スポーツ報知.2019
結末は突然に……ソ連の反則“オーバーネット”で優勝が決定!
sportnotv 4/YouTube

 セットカウント2対0の第3セット、14対13から6度目のマッチポイントでソ連がオーバーネットし、日本の優勝が決まった。

東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実/デイリー新潮.2020
アタッカー「谷田絹子」

 「お願い、ボールを上げて。最後の一本を打ちたいんや」

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(8) 「鬼」の裏に繊細さ/東京新聞 TOKYO Web.2020

 東京五輪女子バレーボール金メダルが決まるマッチポイント。アタッカーだった谷田絹子(80)は、主将の河西(かさい)昌枝(故人)に声を張り上げたのを覚えている。

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(8) 「鬼」の裏に繊細さ/東京新聞 TOKYO Web.2020

 次の瞬間、ソ連(当時)がオーバーネットの反則をして日本に得点。谷田は肩透かしを食ったが、試合終了。セットカウント3-0の快勝だった。「解放感」。谷田はそのときの率直な感情を記憶している。

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(8) 「鬼」の裏に繊細さ/東京新聞 TOKYO Web.2020
エースアタッカー「井戸川絹子」

今回、”魔女”の1人、井戸川(旧姓・谷田)絹子さんにインタビューすることができた。

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013

「サーブを打つ人はみんな『私のサービスエースで決めてやる』と思っていましたし、アタックを打つ人もそう。最後は、宮本(現姓・寺山)恵美子さんのサーブで、私は前衛レフトに上がってきていたんですけど、絶対私が打って決めてやるって思ってました。『河西さん、お願い私にトスを上げて!』って。結局、宮本さんのサーブから、ソ連がオーバーネットと、後衛の選手が前衛で攻撃をした二重の反則で勝ったんですけど、最初は何で得点したのか分からずに、みんなきょとんとしちゃいました。一拍おいてからワーって」

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013

「実はね、6回の金メダルポイントなんですけど、そのうちの1回、相手のアウトサーブを触っちゃった人がいたんです。最近になって笑い話で、『あなたがあのサーブを触らなかったら、もっと簡単に勝てたのに』って茶化せるようになったんですけど、当時はとてもそんなことを言える雰囲気ではなくて」

1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音/web Sportiva.2013
主将「河西昌枝」

「やっと終わったあーっ」。その瞬間、河西の胸に万感の思いがわき上がった。

【Tokyo1964秘録】女子バレー・東洋の魔女 社業後、夜中3時まで練習は“当たり前”/zakzak.2020

 「勝ったんだという満足感、日本中の皆さんの期待に応えることができたという喜び、2度とこういうところで試合することはないんだという寂しい気持ち…。いろいろなことが頭をよぎった。もう、あんな厳しい練習をしなくていいんだと思ったのは、もっと後かもしれない」

【Tokyo1964秘録】女子バレー・東洋の魔女 社業後、夜中3時まで練習は“当たり前”/zakzak.2020

宮本はスポーツ紙の取材に「金メダルが決まった瞬間は、もう泣けて泣けて……。勝利はもちろん、あの苦しい練習から逃れられたのもうれしくてね」と答えている。

猛練習で勝ち取った金/朝日新聞デジタル.2020
控え選手「田村悦智子(旧:前田悦智子)」

良かったというより、ホッとしました。期待を裏切らないで良かった」。控えの田村にも、金メダルを取って当然という重圧は押し寄せていたが「目の前の一本を絶対に諦めない」という気持ちが支えていた。「鬼の大松」といわれた大松博文監督の厳しい練習を乗り越えたからこそ持てる感情だった。

【世紀をつなぐ提言】64年大会女子バレー金・篠崎洋子<上>一本をあきらめない「鬼の大松」の教え…/スポーツ報知.2019
大村監督

“東洋の魔女”たちが泣き崩れる中で、当時43歳の鬼監督・大松博文だけは、放心したようにじっと宙を見つめていた…。

「東洋の魔女」の鬼監督・大松博文の真実/連載まとめ/日刊スポーツ.2021

日本の金メダルが決まり、喜びが爆発する日本コートの横で、大松博文監督が立つでもなくガッツポーズするでもなく、ベンチに座ったまま所在なさそうにしていた時間がある。

日常と非日常の逆転 スポーツ界を待つ現実〔五輪〕/JIJI.COM.2021

わずかな一瞬だが、その姿を主将の河西(のち中村)昌枝は忘れられずにいた。のちの自著に記している。

日常と非日常の逆転 スポーツ界を待つ現実〔五輪〕/JIJI.COM.2021

 「なんかこう、なにもかもが終わったような、それでいてやっぱり満足しきっているような…。(略)あの映画を見ていると、わたしは何度でも泣けてくる。そして、あのときのわたしたちの気持ちはうまく説明がつかないけれども、大松先生の気持ちは、かえってよくわかる。ほんとうに、『終わる』ということは空虚なものだ」

日常と非日常の逆転 スポーツ界を待つ現実〔五輪〕/JIJI.COM.2021

 大松監督の姿に映ったものは、指揮官の孤独でもあったが、それ以上にスポーツの持つはかなさを、苦楽をともにした主将は感じ取っていた。

日常と非日常の逆転 スポーツ界を待つ現実〔五輪〕/JIJI.COM.2021

 大松監督は、「苦しかった。つらかった。選手たちの金メダルを見た瞬間、とめどもなく涙が出てきた」と第18回オリンピック競技大会の報告書に言葉を残した。そして「選手たちの根性に、わたしは敬謙な気持ちで頭をさげたい。今後、これだけの根性を持った選手が再び現れるかどうか、わたしには疑問である。日ソ戦の第3セット後半ーあれこそいい例である。あれはまさに根性と根性の戦いだった。その結果が3対0となって現れたといえるだろう」と回顧している。

日本中が応援、そして感動した女子バレーボール「東洋の魔女」/日本オリンピック委員会: JOC.2004
監督を胴上げ!

手脚、猛練習で傷だらけの6人の魔女達は、我先きに大松監督の元へ駆け寄り、大感激の胴上げが始まりました。

昭和39年の東京オリンピック 女子バレーボール金メダル獲得で大感激、大感涙/grape.2021

主将の河西、宮本、半田、松村、谷田、磯辺、6人の高く掲げた手の上で、鬼と言われた大松監督が両手を拡げて空を舞う… しかしその顔には、鬼の眼に大粒の涙です。6人の魔女も声を挙げて泣いています。

昭和39年の東京オリンピック 女子バレーボール金メダル獲得で大感激、大感涙/grape.2021
脅威の視聴率

視聴率は 95%(NHK 最大,日本 放送技術発達小史による),85%(NHK 放送博物館による),66.8%(平均,ビデオリサーチ調べ, 関東地区)と 3 種類の数字があるが,66.8%を採っても 52 年経った今でも第 1 位である.

スポーツとメディア:作り手と受け手(p.5)/掛水通子(東京女子体育大学)
金メダル授与式

昭和39(1964)年の東京オリンピックで初めてバレーボールが正式種目となり、日本女子代表”東洋の魔女”は金メダルを獲得したが、その表彰台で涙する12人の選手たちに金メダルを授与したのは日商社長の西川政一であった。

“東洋の魔女”に金メダルを授与した西川政一/双日歴史館

西川は神戸高商時代に排球(バレーボール)を始め、日本代表となる。自宅を事務所に関西排球協会(日本バレーボール協会のルーツ)を結成し、普及活動に奔走。その後、日本バレーボール協会会長に就任した。

“東洋の魔女”に金メダルを授与した西川政一/双日歴史館
ひざまずく東洋の魔女

東洋の魔女には海外メディアから与えられたもうひとつの“勲章”がある。

東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実/デイリー新潮.2020

 表彰台に立った河西主将はプレゼンターに配慮し、ひざまずいて小さく頭を下げた。《ひざまずく東洋の魔女》。写真にはそう添えられた。猛練習で培われたのは、「しなやかな心遣い」だった。

東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実/デイリー新潮.2020
その後、監督の引退ともに魔女たちも引退していく

 東京五輪が終わって大松監督が退くと、6人の内5人が引退。神田さんはまだ22歳だった。「大松先生がやると言ったら4年後までついて行ったかもしれないけど、世界選手権と五輪で金メダルを獲ったので、もういいと思いました。全然後悔はないです」

第4回 師弟の信頼の絆が生んだ「東洋の魔女」/特定非営利活動法人ソシオ成岩スポーツクラブ.2008

 東京五輪後、魔女たちの多くが引退し、大松監督も代表監督を退いた。しかし、バレーボールから離れても強い絆で結ばれた師弟の関係はずっと続いた。東京五輪後も現役を続けた磯辺は年に2、3度は大松のもとを訪れた。

東洋の魔女に魔法をかけた 「鬼」の大松は仏だった/日刊スポーツ.2016
大松監督は選手たちの結婚のために尽力

 このあと、大松は今度は選手たちの結婚の世話に奔走した。すでに31歳と、当時の女性の平均初婚年齢(24.4歳)を大幅に超えていた河西も、大松から相談を受けた時の首相夫人の佐藤寛子の世話により自衛官と見合いをして、結婚にいたる。披露宴の模様はテレビでも生中継された。

「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか?/Number Web.2021
今のママさんバレー文化に繋がる
サンテレビ/YouTube

 「東洋の魔女」たちは五輪後に結婚などで新しい人生を歩み始めたが、立ち止まった。「わたしたちは、終わってはいけないのではなかろうか?」。クラブチームを結成し、それが今日のママさんバレーの礎になった。

日常と非日常の逆転 スポーツ界を待つ現実〔五輪〕/JIJI.COM.2021
「東洋の魔女」「鬼の大松」時を超えて表彰!!

国際バレーボール連盟(FIVB)は21日、ベルリンで「20世紀の最優秀賞」(女子部門)の授賞式を開き、「東洋の魔女」と呼ばれた1964年東京五輪優勝の日本に最優秀チーム賞を、監督の故大松博文氏に女子最優秀監督特別賞をそれぞれ授与した。

「東洋の魔女」が最優秀/20世紀の女子バレー/四国新聞: 香川県のニュース.2001

 式典には、国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長も出席。主将を務めた中村(旧姓河西)昌枝さんら11人の「元魔女」が顔をそろえ、FIVBのアコスタ会長から記念のトロフィーと賞状を受けた。

「東洋の魔女」が最優秀/20世紀の女子バレー/四国新聞: 香川県のニュース.2001
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1964年東京五輪で金メダル。東洋の魔女たちの素顔。「鬼の大松」、実は「ホトケの大松」だった!?魔女のことを知ってる方にも子どもたちにも読んでほしい、ユーモアあふれる青春ストーリー。(「BOOK」データベースより)