今回は、東京オリンピック開会式での感動の瞬間をお届けします。日本の誇りを胸に走り抜けた聖火ランナー、坂井義則の勇姿が描かれます。彼が背負った聖火は世界平和の象徴であり、その使命を果たすために全国を巡りました。開会式当日、競技場に入場するまでの心境や聖火台への道のり、そして聖火が燃え上がる瞬間まで、一連の感動の瞬間が詳細に描かれています。
坂井選手の背負ったトーチは、日本の再生と平和の象徴となりました。さらに、坂井義則の考えるオリンピックの本来の理念や彼が目撃した悲劇についても触れられています。最後には、彼の遺志とトーチが今後も多くの人々に希望と勇気を与えることを期待しています。ぜひこの感動の物語をお楽しみください。
世界の注目を集めた1964年東京オリンピック開会式の感動 ── 東京オリンピック物語(16)
Sakai Yoshinori
「坂井義則」
1964年、世界が固唾をのんで注目した東京オリンピック。その開会式で聖火を持って走った最終走者は、19歳の学生であった坂井義則でした。彼の名前は今でも多くの日本人にとって忘れられない記憶として残っています
総距離6700キロのリレー
全都道府県をつなぐ長大な聖火リレーは、総距離6700キロに及びました。10万人がつないだ聖火は、開幕前日の10月9日に東京都庁舎に到着しました。四つの聖火灯に分かれていた火は、皇居前広場の二重橋前で2万人以上が集まった「聖火集火式」で一つにまとめられました。
聖火リレーについては、「金をかけすぎ」や「これほどの分火は許されるのか」などの議論もありましたが、全国を覆った熱気により、この議論も押し切られました。
聖火集火式と最終聖火リレー
都庁に集められた各コースの聖火は「集火式」の後、開会式当日の午後、皇居前から国立競技場へ男性5人・女性2人によってリレーされました。
そして、ついに聖火は国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で10万713人目の最終聖火ランナー、坂井義則選手(当時、早稲田大学1年生)の手に渡されました。
坂井選手が聖火を燃やし導く!感動的なオリンピック開幕式
坂井選手が聖火を手に入れたとき、彼は国立競技場のトラックに入りました。その瞬間、会場は静まり返りました。彼がゆっくりと進み、最後に聖火台に火をつけた瞬間、それは東京オリンピックが正式に開始された合図でした。
「究極の瞬間」坂井義則が聖火を掲げる東京五輪開会式の感動
1964年の東京オリンピック開会式のクライマックス。雲一つない秋空の下、国立霞ヶ丘競技場は緊張感に包まれていました。全ての観衆とテレビ視聴者(私も含めて)の視線は、千駄ヶ谷門に注がれました。
そこから入場してきたのは、聖火を掲げた坂井義則。彼は400m走を専門とする陸上選手らしい流れるようなストライドでトラックを駆け抜け、聖火台へと向かう階段を駆け上りました。彼は紛れもなく五輪の象徴であり、開会式の主役でした。
「彼が右手に聖火を高く掲げたとき、その白煙に包まれた胸の日の丸は、誰の目にも深く刻まれたでしょう。しかし、このような感情は誇張せず、そのままそっとしておくべきです。」と、坂井義則の姿を見て記したのは、『仮面の告白』や『金閣寺』などの小説で知られる作家、三島由紀夫でした。三島はいくつかの新聞社から依頼を受け、東京五輪で特派員記者のような役割を果たしていました。
広島の奇跡からオリンピックの舞台へ!坂井義則の感動的な人生物語
坂井義則は、1945年8月6日、広島への原爆投下の日に生まれました。彼は原爆投下の1時間半前に、震源地から70キロ以上離れた広島県三次市で誕生しました。父親は被爆者健康手帳を持っており、坂井自身は「被曝二世」でした。
中学で陸上競技を始め、早稲田大学では日本陸連の強化指定選手に選ばれました。そして1964年、早稲田大学1年生のときに、400m走で東京オリンピックを目指しました。
東京五輪代表選出を逃すも、その闘志は消えない
しかし、坂井選手の選考会の結果は6位で、惜しくも代表の座をつかむことはできませんでした。「東京五輪は陸上を始めた中学生のころからの目標でした。とにかく出たい。それだけを思い、競技を続けました」と彼は述べています。
無念の代表落ちからの奇跡!坂井義則の聖火ランナーへの再起
坂井義則が最終聖火ランナーに選ばれたのは、大学1年の時でした。組織委員会が坂井の誕生日や背景に着目し、聖火ランナーとして選出されたのです。
しかし、代表選手になれなかった坂井にとっては予想外のものでした。その時点で彼にとって、オリンピックはすでに終わったも同然だったからです。
そんな彼の元に、大学の先輩から一枚の葉書が舞い込みます。「聖火最終ランナーの候補者に君の名前がある。これからは自重するように」と書かれていました。「行動を慎むようにと言われても……何だか聖火ランナーなんてピンとこなかったというのが、あのときの感想です」と坂井は苦笑します。
マスコミのスクープ合戦に振り回された坂井義則の葛藤と絶望
しかし、マスコミは、まったく坂井を見過ごすことはありませんでした。聖火の点火者をめぐるスクープ合戦は激しかったと言われています。坂井が聖火を手にすることが決まった瞬間、彼は突如としてメディアのスポットライトに晒されました。彼自身がどれほど重要な役割を担っているのか、その瞬間に初めて認識し、その重圧と直面することとなりました。
報道の罠に囚われた坂井義則の悲劇
当時のマスコミは、オリンピックへの期待を煽りながら。オリンピック日本代表選手が決まった後からは、マスコミの注目は全て「誰が聖火の最終ランナーになるか」に向けられており、各社が我先とそのスクープを追い求めていました。
ある日、とある新聞社が、どこから坂井が最終聖火ランナーに選ばれたこという情報を仕入れました。そのスクープを独占しようと企んだその新聞社は、坂井を極秘に東京行きの列車に乗せ、大阪で降ろしてセスナ機で羽田空港に連れていきました。
そして、国立競技場で写真を撮影したあと、坂井を送り返しました。
しかし、帰った途端に、坂井が「不穏当な行動」をとったとNHKニュースで報じられていしました。それを見た坂井は、「もう自分が聖火ランナーに選ばれることはないだろう」と諦めてしましました。
高校生のライバルを抑えて聖火リレーの最終ランナーに!
坂井は、夏が始まる前からひたすら聖火リレーの練習に励んでいました。その中には、坂井義則氏より一つ年下の長身の高校生も含まれていました。その彼は身長185cmと見栄えが良く、合宿のメンバーの間では、その高校生が聖火の最終ランナーになるだろうと噂されていました。
しかし、事態は突如として変わります。合宿の最終盤になって、坂井だけに階段の登り降りの練習が課せられました。それは坂井が聖火リレーの最終ランナーに内定した証でした。坂井はその瞬間、何が起こったのかを理解しました。そして、合宿メンバー全員も坂井が選ばれたことを歓迎しました。
聖火リレー最終ランナーへの厳しい特訓と挑戦
練習は日々厳しさを増し、トーチを掲げ続ける右腕は既に痛みを覚えていました。コーチは坂井氏に対し、腕を絶対に下げてはならないと厳命しました。更に、通常の練習メニューに加えて、階段登りの特訓が追加されました。
「それはただただ厳しいという言葉では表現しきれないほどだった。私はもともと400m走の選手で、トラック以外を走った経験が無い。全力疾走でさえ、400mを越えるともう限界だ。そんな中、走ったこともない階段を登るなんて、地獄のような練習だった」と坂井は振り返ります。
戦後復興の高度成長期に生きた彼は、努力と結果が直結する時代の象徴とも言える存在でした。トーチを持つ手の角度から歩数まで、全てが厳しく指導され、聖火台までの長い階段で息が切れたり、フォームを乱したり、疲れて手をついたりすることは一切許されませんでした。
それほどまでに坂井は聖火リレーの最終ランナーとしての役割を全うするために自己を鍛え上げました。それは彼にとって、同時に過酷な挑戦でもありました。
朝日新聞のスクープ報道と坂井義則
1964年8月10日、開会式まで2ヶ月を切った日に、朝日新聞はスクープ記事を掲載しました。「東京オリンピックの閉会式の最終走者には、1945年8月6日に広島で生まれた19歳が選ばれた」と報じたのです。その19歳とは、坂井義則でした。朝日新聞は坂井について、「広島を一瞬にして灰に変えた原爆投下の日に同じ広島県の三次市で生まれた、いわば“原爆っ子”である」と記述しました。
この報道によって大騒ぎとなり、陸上連盟は坂井をマスコミから遠ざけるために隠れ家を用意することを余儀なくされました。その当時について坂井は、「喜びと同時に、なぜこんなことに…と思った」と後に語っています。
「アトミック・ボーイ」の名で世界に響く!
「アトミック・ボーイ(原爆の子)」というラベルを貼られ、19歳の坂井青年は平和の象徴として世界にその名を発信されました。敗戦からの復興というメッセージを伝えるには彼が最適な人物と見られ、海外メディアは彼を「アトミック・ボーイ」と称しました。
しかし、坂井自身は、「戦争は僕には何の関係もありません。過去のイメージより、今の、いや、きょうの僕の姿を見てください」と外国人記者に対して語りました。
坂井義則の出自報道がもたらした家族の心の葛藤
その頃、早稲田大学の1年生であった坂井は広島県三次市の実家で、自身の出自を詳細に報じた新聞記事を読んでいました。彼の弟、孝之は、坂井が無表情で新聞を読む様子を今でも覚えています。「なんとなく機嫌が悪かった」と述べています。家族内でも、この件については話しにくい雰囲気があったようです。
坂井義則、国民一人一人の参加意識とオリンピックへの熱狂
坂井は、『東京五輪1964』(佐藤次郎著、文春新書)で、その当時の思いを語っています。「僕は直接被爆したわけじゃない。ちょっと無理があるんじゃないか。なんでそこに結びつけるんだろう」と。
それでも坂井は走る決意をしました。「あのとき日本中の人々がオリンピックを成功させようとしていたんです。日本が平和国家となったことを世界に示すんだ、とね。当時、東京オリンピックのために国民が寄付をしたんですよ。寄付付きの切手を買ってね。5円でも10円でも寄付をすることによって、自分もオリンピックに参加しているんだと思うことができた。ある意味、みんなが参加選手だったと思うんです」。
メディアの注目が追い詰める最終走者!坂井義則、報道陣に追われる過酷な日々
最終走者に決まった後も、新聞や雑誌は彼の出自に注目し、大々的に報道しました。開会式当日、国立競技場近くで坂井に聖火をつないだ鈴木久美江は、坂井が所属していた早大競走部の合宿所に報道陣が押し寄せ、坂井がその場所を離れることを余儀なくされたと聞いています。
反米主義への批判との闘い!坂井義則の選出と田畑政治の決断
東京五輪の聖火リレー最終走者として坂井が選ばれたことには、政治的な意味合いが含まれていました。当時、アメリカの著名な日本学者エドワード・サイデンステッカーは、「いまさら聖火ランナーになぜ原爆を結びつけるのか、アメリカ人はいやな思いをさせられた」と述べ、最終ランナーの人選は反米主義的なもので、日本人の「自己嫌悪」だと主張しました。
組織委員会側でも、坂井が最終走者になることが政治的な反応を引き起こすのではないかという懸念がありました。一部には「アメリカが悪い感情を持つのではないか」という意見も存在しました。
しかしながら、そのような議論を終結させたのが、田畑政治、いわゆる「ミスター・オリンピック」でした。彼は次のように述べたと伝えられています。「最後の走者の坂井君が、原爆投下の日に広島県下で生まれた青年であることが象徴的であった。坂井君が最終ランナーであることがアメリカに悪感情を与えるとの批判も一部にあったようだが、われわれが憎むのはアメリカではなく、原爆そのものである。……アメリカにおもねるために、原爆に対する憎しみを口にしえない者は世界平和に背を向ける卑怯者である」。
田畑氏の強い意向により、聖火最終ランナーが若者に任され、そして原爆投下日に生まれた最終点火者が選ばれることとなったのです。
左手から右手へのトーチの取り替えと本番前の練習
坂井義則の名が最終ランナーとして発表されてからも、彼のオリンピック物語には予想外のハプニングが待ち構えていました。「1週間前まで左手でトーチを持っていたんですよ。それが、世界的な平和の祭典でイスラム教の“不浄の手”に当たる左手で持つのはどうか、というので急きょ右手で持つことになったんです」と坂井は回想します。
本番前の練習も彼にとっては挑戦の連続でした。リハーサルは前日に2度、そしてそれ以前にコースを2回走っただけだったという。「当日も自分の判断でスタートして競技場に入りました。火をもらってから3分で点火というのが決まっていたから、そればかり考えてましたね。周りを見る余裕はなかったです」と彼は語ります。
そして、大会の1週間前から、坂井は合宿所ではなく先輩の家に滞在することになりました。「大会本番の一週間前から、合宿所では落ち着かないだろうと配慮をしていただいて、先輩の家で寝泊りさせていただきました。おかげでマスコミからも逃げられたし、ずいぶんリラックスできました」と彼は感謝の意を述べています。
全世界の注目が集まる開会式!坂井義則が聖火を掲げて競技場入場
1964年8月21日、聖火はオリンポスのヘラ神殿で採火され、その後イスタンブール、テヘラン、ラホールからバンコク、ホンコングといった地を経て、9月7日に沖縄へと到着しました。9日からは4つのコースに分かれた聖火は日本全国を回り、東京都庁前でひとつのトーチとなりました。そして、皇居前の聖火台で揺らめく炎は男子5人、女子2人の手を渡りました。
そして、ついに迎えた10月10日の開会式。最終ランナー、坂井義則へと聖火が手渡されるという瞬間が訪れます。
聖火は先ほどまで皇居前で輝きを増していましたが、今は坂井義則の手に。彼が持つトーチは、世界平和の象徴であり、その役割を果たすために全国、そして世界を旅した火でした。この瞬間、彼はその重要な役割を担い、日本の誇りを高く掲げるために走り出します。
坂井義則の聖火ランナーとしての感動的な瞬間、競技場に入場
開会式の日、坂井は競技場ではなくその外にある建物の一室で待機していました。窓の外には入場行進を待つ各国の代表たちがひしめいていました。テレビをつけると、すぐ隣で始まった開会式の様子が放映されていました。彼は通算して10万713人目のランナーで、胸に東京大会のマークを戴いた白のランニングシャツを着ていました。
「窓から見ていると、どんどん選手たちの数が減っていきます。いよいよ行進の順番が最後の日本選手団が入場口へ向かったとき、僕も部屋を出たんです」と坂井は語ります。
そして彼が聖火を掲げて国立競技場に入って来た時、整列していた各国の競技者が一斉に列を離れて、走行中の坂井選手の元へ群がり、写真を撮り始めました。「お互いに譲り合いながら、原爆の惨禍の中に生まれながら立派に成長して最終走者に選ばれた坂井選手にみな感動して撮りたかったと言います。
速く、高く、力強く!坂井義則が聖火台に到達!
そして坂井は163段を上って聖火台に点火しました。ちょうど午後3時3分のことでした。
「32mの高さを誇る聖火台への道は、163段の階段と28度の勾配で構成されています。菊の花が香るこの花道で、坂井君は登り始めました。力強く、緑のじゅうたんを踏みしめて登っていきます。速く、高く、力強く、未来に向かって前進することを象徴するかのように登っていきます」と、アナウンサーは実況しました。
アトミック・ボーイが平和の火をともす!
胸に日の丸のエンブレムが付いた白いランニングシャツを着て、坂井は右手で聖火を高く掲げ、聖火台を見つめ、炎を献上し、豪快な炎が現れました。この炎は、1964年の東京オリンピックの開催を告げるものであり、また、第二次世界大戦の焼け跡から日本が復興したことを示す象徴でもありました。競技者として日本代表に選ばれなかったことなど、すべてがこの圧倒的な瞬間に吹き飛んでしまったのです。
全ての段階を上り終えて、満員の観客席を見下ろしたとき、坂井は言葉にできない程の興奮に包まれました。7万人以上が詰め掛けたスタンド、グラウンドに立つ各国の選手たち、そして、何も言うまでもなく、青く晴れ渡った空。坂井がトーチを聖火台に差し伸べると、強烈な炎が立ち昇りました。
堂々としたトーチの掲げられた姿は、敗戦国として傷ついた日本の立派な再生を世界に向けて力強く発信しました。その様子は海外メディアにより、「アトミック・ボーイ(原爆の子)が平和の火をともした」と報じられ、世界中にその象徴的なメッセージが広がりました。
人生最高の3分間!坂井義則が語る聖火台への点火の瞬間
坂井義則は、この時のことを振り返り、「組織委員会からは『きれいなフォームで、見栄えよく、3分でやれ』と言われていた。聖火台の下には4機のガスボンベがあり、バルブを開くとガスが上がってくる音がかすかに聞こえた。そこで『やってやる!』という気持ちでトーチを近づけて点火した。後で映像を見たら、私は笑顔だったし、聖火台からは富士山がはっきりと見えた。あの光景は忘れられない」と語ります。
彼が走ったのはわずか3分間でしたが、「でもそれは人生で最高の3分間でした。私だけでなく、国民一人一人にとっても人生の思い出になっているはずです。現在の日本はつかみどころがないと感じることがあります。もう一度、国民全体が目標にできるような出来事があるといいなと思います。それが東京五輪なのです」と、彼は熱く語ります。
競技場に入った時に観衆から湧き上がった大歓声、トラックを走ると思いの外冷静になれたこと、そして秒刻みで進行していたスケジュールを守ることへのプレッシャーなど、彼の記憶は今でも鮮明です。
「真っ青な空、まだ高層ビルもない風景は、まさに特等席で、本当にきれいでした。遠くには秩父の山々が見え、下を見れば、色とりどりの民族衣装を着た選手たちが緑の芝生に映えて、素晴らしい光景でした。現在はビルのせいで山は見えないでしょうが、だれもが見たくとも見ることができない特等席でした。それはこれまで見たこともないような光景でした」と彼は振り返ります。
そして彼は、「確かに緊張しましたが、覚悟を決めたら人間は何でもできます。実は、トーチの炎を私に渡してくれた女の子がにっこりと笑ってくれて、その瞬間、気持ちがすっかりほぐれました」と振り返ります。しかし、いよいよ走り出そうとしたその時、「鼓笛隊の演奏がまだ終わっていなかったんです。彼らが演奏を終えるまで、私はトラックを走ることができませんでした。演奏が終わるのを待って、さらに数十秒待ってから走り始めました。私がアドリブで“間”を作ったんです」と笑います。
「3分間で人生が変わった」坂井義則と東京五輪の象徴的な瞬間
坂井だけでなく、あの日聖火を見上げた日本人全てにとっても、それは忘れられない3分間だったでしょう。割れんばかりの歓声の中、彼は颯爽として競技場から日本、さらには世界へと聖火を運びました。「その颯爽とした姿は今でも私の心に焼きついています」と、多くの人々が語り継いでいます。1メートル75のスラリとした体形と流れるようなランニングフォームは、見るもの全てを魅了しました。五輪後、新宿の人混みの中でも坂井を見つけ、「あの聖火の…」という言葉と共に多くの人が振り返るほどのオーラを放っていました。
その後、彼はどこへ行っても見知らぬ人から声をかけられるほどの存在になったそうです。
「お前、走っているときの目線の位置は意識していたのか」、「リハーサルは何回やったのだ」、「階段は163段とか182段とか言われているが、本当は何段あった?」という質問に対し、坂井は「もう忘れたよ」と笑って答えていたそうです。彼はアスリートとして大きな名を残すことはありませんでしたが、一世を風靡したその瞬間を決して見せびらかすことなく、素晴らしい人物でした。
坂井は、「3分間で人生が変わった」と語っています。敗戦から立ち直った日本が五輪を通じて世界にその復興をアピールした瞬間、彼はその一部となりました。「国民一人一人が自分も参加しているという意識が強かった。だから、僕は変な生き様は見せられないと今でも思う。当時を知る人たちの、あの時感じた希望を失わせたくない」と彼は語ります。
そして彼は、「聖火ランナーになって期待や注目されたことが、必ずしも楽しいことばかりでなかったことは事実です。その後も僕は競技を続けましたが、必ず『聖火ランナーの坂井』という枕詞がついてきましたからね。だけど、このおかげで多くの方々と出会うことができました。」と語っていました。
#Tokyo2020 オリンピックの開会式は7月23日🎆
— Tokyo 2020 (@Tokyo2020jp) April 8, 2021
それまで、過去の開会式を振り返ります✨
🗼今回は東京1964大会🗼
最終聖火ランナーは、広島に原爆が投下された1945年8月6日生まれの坂井義則さん。平和の祭典を世界に印象付けました🕊️ @gorin #Throwback pic.twitter.com/AgIgeBP5wg
スポーツと平和のテーマ…坂井義則の考える未
坂井義則は、オリンピックの本来の理念について強い意見を持っているようです。彼は「平和の祭典」という美しいフレーズを捨てるべきだと主張し、五輪がアマチュアの祭典や平和の祭典でなくなったと感じています。彼の意見では、現代のオリンピックは金もうけのための祭典に変わってしまったというのです。
「皮肉な巡りあわせなんですが、僕がジャーナリストとして初めてオリンピックを取材した1972年のミュンヘン大会では、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件が起こっています。その次に取材した1996年のアトランタ大会で爆破テロ事件があって人が命を落としました」
オリンピックイヤーには、これまでも商業主義やアマチュアリズムの在り方、ドーピング問題など数々の課題が投ぜられてきた。だが昨今の国際情勢を鑑みれば、28回目の開催にあたるアテネ大会ほど「平和」が真実味を持って語られるべき大会も珍しい。
「オリンピックで、もうこんな凄惨な事件を絶対に繰り返してはいけない。今こそオリンピックを平和の祭典として再認識することが大事です。だけどその一方で国際社会における『平和』の持つ意味は限りなく複雑だし重い。アテネオリンピックを機に、僕たちはもう一度平和の意味を考え直す必要があるでしょう」
坂井は原子爆弾が広島に投下された日に生を受けた。この事実が聖火最終ランナー選考に大きな要素となったのは想像に難くない。「スポーツと平和」は誰もが願う永遠のテーマだ。
オリンピック経験がマスメディアへの道の足掛かりとなった
坂井義則はその後、アジア大会で千六百メートルリレーの金メダルと四百メートルでの銀メダルを獲得した後、アキレス腱の故障により競技生活を断念せざるを得なくなりました。しかし彼の人生はそこで終わることはありませんでした。生まれ持ったポジティブな性格からマスコミに興味を持つようになり、早稲田大学を卒業後、フジテレビに入社しました。
彼のオリンピック聖火リレーでの経験は、彼が後にマスメディアの世界に足を踏み入れるきっかけになりました。マスコミのスクープ合戦の新鮮さと興奮が、彼のフジテレビ入社の動機となったのです。
坂井はフジテレビでスポーツ局スポーツ部専任部長などを務め、2005年8月からはフジクリエイティブコーポレーションのエグゼクティブプロデューサーとして活動しました。彼は自身には誕生日が二つあると言っていました。一つは彼自身の誕生日である8月6日、もう一つは東京オリンピック聖火リレーが行われた日、10月10日です。37年間にわたり報道部とスポーツ部に在籍し、現場でオリンピックを取材するなど、彼の生涯はスポーツと深く結びついています。
取材現場で目撃した悲劇…ミュンヘン大会とアトランタ大会での事件
坂井義則は、オリンピックの真実を伝えるために現場取材を重ね、さまざまな悲劇を目の当たりにしました。彼が取材した中でも特に衝撃的だったのは、1972年のミュンヘン大会でのパレスチナゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件と、1996年のアトランタ大会での爆弾テロ事件でした。
ミュンヘン五輪での襲撃事件では、イスラエル選手団の11人が無惨に命を奪われました。この出来事に対して、坂井は「なぜ何の罪もない運動選手が、犠牲にならなきゃいけないんだ、平和の意味、五輪の意味をもっと深く考えなければならない」と悔しさを感じ、その後もその思いを胸に、オリンピックに銃は要らないと主張し続けました。
アトランタ大会でも、坂井は白人至上主義を唱えるキリスト教過激派の男による爆弾テロを現地で取材しました。そのテロでは2人が死亡し、100人以上が負傷する大惨事となりました。彼はこの時も「こういうことが起きない世の中を、オリンピックでやろうとしているのに…」とつぶやいたと言われています。
これらの取材を通じて、坂井はオリンピックというイベントが、理想と現実のギャップ、政治の影響、そして無実の人々が犠牲になる悲劇に翻弄されていることを実感し、その現状を伝えるために尽力しました。
「東京オリンピックが最後だったかもしれない」純粋な平和の祭典の終焉
坂井義則は、オリンピックがその本来の理念から遠ざかっていることを深く憂いていました。「東京が、古き良きオリンピックの最後だった」と彼が語る理由は、その後のオリンピックが、アマチュアリズムから商業主義へと移り変わり、政治的な影響も大きくなってきたからです。
彼はオリンピックが「金もうけのための祭典」と化してしまったと指摘しています。これは、プロ選手の参加が認められるようになったことで、商業主義が盛んになり、スポーツそのものよりも金銭的な利益が優先される傾向が強まったからです。
また、「お金や政治に振り回される負の面も見た」との彼の言葉は、オリンピックが国家間の対立や政治的な意図に利用され、無垢な競技者がその犠牲になる様子を見てきたからだと思われます。
「純粋な平和の祭典は東京が最後だったかもしれない」と語った坂井の視点から見れば、オリンピックは理想と現実の間で揺れ動く、複雑なイベントとなってしまっているようです。その現状に対して、彼は深い憂慮と警鐘を鳴らしていたのです。
「スポーツを通じた平和の願い」坂井義則の遺志を継ぐ
1964年の東京オリンピックの聖火リレー最終走者であった坂井義則が、10日午前3時1分に、脳出血のため都内の病院で亡くなりました。享年69歳でした。
2013年1月、東京五輪招致の企画の一環として、坂井は再び旧国立競技場の聖火台に上がりました。19歳のときにさっそうと駆け上がった163段を、今度は体力の衰えを感じさせる形で登りました。前年に腎臓を摘出したこともあり、体力が大きく落ちていたようです。
「若者たちにとって五輪は大きな目標になり、励みになる。私自身は観客席でゆっくりと開会式を見るのが夢です」と、坂井義則は言っていました。「スタンドの隅っこでいいから、2人の孫と一緒に2020年東京五輪を見たい」という希望は、残念ながら叶わなかったようです。
妻の朗子さんは、「それが心残りだったのでは」と寂しげに語りました。聖火をともしたトーチは、生前から講演などで持ち歩かれ、今後も多くの人の目に触れることでしょう。
坂井義則は72年ミュンヘン五輪で起きたテロ事件について取材し、「2020年東京五輪は平和の祭典になってほしい。東京だからできる」と何度も言っていたと伝えられています。
その言葉は、坂井がスポーツを通じて見つめ続けた世界の平和への願いを象徴しています。彼の遺志とそのトーチが、今後も多くの人々に希望と勇気を与え続けることでしょう。
ご冥福をお祈りします。
— 産経ニュース (@Sankei_news) September 10, 2014
東京五輪最終聖火ランナーの坂井義則氏が死去 69歳http://t.co/poJrRCtz5s pic.twitter.com/LCGvYr0TLQ
【訃報】坂井義則さん死去 東京オリンピック最終聖火ランナー、69歳 http://t.co/P5ReL45uQ2 pic.twitter.com/B7c8qq7gxi
— ハフポスト日本版 / 会話を生み出す国際メディア (@HuffPostJapan) September 10, 2014
ブルーインパルスの挑戦と感動の成功!空を彩る驚異のアクロバット飛行 ── 東京オリンピック物語(18)