東京オリンピック物語(17)──伝説の1964年聖火リレー最終走者「坂井義則」

東京オリンピック物語(17)──伝説の1964年聖火リレー最終走者「坂井義則

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東京オリンピック物語(16)──奇跡の復活劇に世界が驚愕!伝説の1964年東京オリンピック開会式!!
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東京五輪が開催され、高度成長の象徴としてノスタルジックに語られる1964年。しかし、その実態はどうだったのか。膨大な記録映像と史資料を読み解き、見えてきたのは、首都の「闇」。すなわち、いまも残る、この国の欠陥だった―。(「BOOK」データベースより)

Sakai Yoshinori

坂井義則

東京新聞チャンネル/YouTube

集火式から国立競技場へ向けて最後の聖火リレー

 全都道府県で総距離6700キロ、10万人がつないだ聖火は開幕前日の10月9日、東京都庁舎に到着した。四つの聖火灯に分かれていた火は、皇居前広場の二重橋前で2万人以上が集まった「聖火集火式」で一つにまとめられた。聖火リレーについては「金をかけすぎ」「これほどの分火は許されるのか」などの議論もあったが、国内を覆った熱気に押し切られた。

オリンピック結果:東京五輪・パラリンピック特集/京都新聞

都庁に集められた各コースの聖火は「集火式」ののち、開会式当日の午後、皇居前から国立競技場へ男性5人・女性2人によってリレーされた。

64年東京五輪聖火ランナー「頑張りすぎず、走り続ける」/タウンニュース.2019

聖火は国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で10万713人目の最終聖火ランナーの坂井義則選手(当時、早稲田大学1年生)の手渡されました。そして、国立競技場のトラックに入ってきました。

1964東京オリンピックの聖火の点火/ニフティニュース.2021
東京オリンピック物語(15)──アメリカ統治下の沖縄から聖火リレーは始まった

開会式のクライマックス!聖火が灯る!

 あの日、雲一つない秋天の国立霞ヶ丘競技場。開会式のクライマックス、観衆とテレビ桟敷(当然、私はこちら)の全ての目が千駄ヶ谷門に注がれた。そこから入場してきたのが聖火を掲げた坂井義則さん。400㍍走を種目とする選手らしい流れるようなストライドでトラックを走り、聖火台への階段を駆け上った。彼は紛れも無く、五輪の象徴であり、開会式の主役だった。

聖火に託した五輪の〝理念〟/警備保障タイムズー掲載記事ー.2014
東京オリンピック物語(16)──奇跡の復活劇に世界が驚愕!伝説の1964年東京オリンピック開会式!!

三島由紀夫はその時のことを

「彼が右手に聖火を高くかかげたとき、その白煙に巻かれた胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思ふが、かういふ感情は誇張せずに、そのままそつとしておけばいいことだ」

台風から一変、晴天で始まった1964年東京五輪ではあの文豪が特派員記者を務めた/Olympics

聖火の最終ランナーとして選ばれた陸上選手の坂井義則の姿を見てこのように記したのは、『仮面の告白』や『金閣寺』という小説で知られる作家の三島由紀夫だ。三島はいくつかの新聞社から依頼を受け、大会中、東京五輪の特派員記者のような役割を果たしている。

台風から一変、晴天で始まった1964年東京五輪ではあの文豪が特派員記者を務めた/Olympics

最終ランナー「坂井義則」

 1964年、前回の東京オリンピックの開会式で、国立競技場の聖火台に火をともしたのは、1945年8月6日に生まれた、当時19歳の早稲田大学陸上部の坂井義則さんだった。

1964年東京五輪の最終走者知ってる? 政治にも翻弄された聖火リレーの歴史【前編】/THE ANSWER.2021

原爆投下の日の広島で生まれた

 1945年8月6日は、広島への原爆投下の日だ。坂井さんは原爆投下の1時間半前に、震源地から70キロ以上離れた広島県三次市で誕生している。

1964年東京五輪の最終走者知ってる? 政治にも翻弄された聖火リレーの歴史【前編】/THE ANSWER.2021

父親が被爆者健康手帳を持っており、つまり自身は“被曝二世”である。

五輪とヒロシマ/二宮清純の追球カープ/広島アスリートマガジン.2021

早稲田大学在学中に聖火のリレー最終ランナーに抜擢

中学で陸上競技を始め、早稲田大学では日本陸連の強化指定選手に選ばれた。

児童の学習を深める教材研究児童の見方・考え方を育てる教材とは(p.137)/山田 均.児童の学習を深める教材研究
東京オリンピック出場を目指していたアスリート

早大1年の64年には陸上400メートルで東京五輪を目指したが、選考会の結果は6位。惜しくも代表の座はつかめなかった。

広島で聖火リレー 64年東京大会の最終走者、坂井義則さんの弟・孝之さん「兄も一緒に走ってくれた」/スポーツ報知.2021

 「東京五輪は陸上を始めた中学生のころからの目標でした。とにかく出たい。それだけを思い、競技を続けた」

【TOKYO2020】1964年に坂井義則さんが見た光景 最終聖火ランナーは誰だ!? /zakzak.2020
出場の夢は敗れたが……

聖火台に灯をともす最終ランナーに選ばれたのは大学1年の時だ。

五輪とヒロシマ/二宮清純の追球カープ/広島アスリートマガジン.2021

しかし、組織委が義則さんの誕生日などに着目し、聖火ランナーとして白羽の矢が立った。

広島で聖火リレー 64年東京大会の最終走者、坂井義則さんの弟・孝之さん「兄も一緒に走ってくれた」/スポーツ報知.2021

(前略)代表選手になれなかった坂井にとっては、その時点でオリンピックは終わったも同然だった・・・・・・そんな彼の元に大学の先輩から一枚の葉書が舞い込む。そこには、「聖火最終ランナーの候補者に君の名前がある。これからは自重するように」と書かれていた。

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

 「行動を慎むようにといわれても・・・・・・何だか聖火ランナーなんてピンとこなかったというのが、あのときの感想です」

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

 こう坂井は苦笑する。だがマスコミは彼を放っておかなかった。

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

マスコミの報道が過熱!

聖火の点火者をめぐるスクープ合戦はすごかったという。

【ベテラン記者コラム(148)】故坂井義則さんの弟、孝之さんが広島で聖火リレー/サンスポ.2021

報道陣もまた、オリンピックの喧騒と高揚感を追いながら、自らもその渦中で加熱の度を高めていたのだった。代表選手が出揃った後、彼らの注目は、誰が聖火の最終ランナーになるかということで持ちきりだった。

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

実家には、どこで聞きつけたのか報道陣が殺到する。新聞社のなかには坂井を独占するため東京に連れ出したところもあった。このとき有無を言わさず東京行きの列車に乗せられたかと思ったら、大阪で降ろされセスナ機で羽田空港まで飛んだ。そして国立競技場の前で写真を撮られたのち、そのまま郷里に帰されたという。帰った途端、「坂井君には不穏当な行動があり」とNHKニュースで報じられているのに接し、「もうランナーに選ばれることはない」と覚悟を決めた。

坂井義則――東京オリンピック聖火最終ランナーの真実/一故人.cakes.2014

聖火ランナー候補を集めて合宿!最終ランナーに決定

1964(昭和34)年10月10日に国立競技場周辺を聖火リレーするランナーの候補10数人は、夏前から一同に集められ合宿して聖火リレーの練習をさせられることになったそうだ。合宿メンバーの中に、坂井氏より一つ歳下で長身の高校生が居た。身長185cmと見栄えが良いことから、メンバー内ではすでに、その高校生が聖火の最終ランナーとのコンセンサスが出来ていたそうだ。

聖火最終ランナーの孤独《2020に伝えたい1964》/天狼院書店

ところが、合宿の最終盤になって急に坂井氏に、階段を登る練習が課せられた。

聖火最終ランナーの孤独《2020に伝えたい1964》/天狼院書店

一転して、坂井氏が聖火最終ランナーに内定した証拠だった。

聖火最終ランナーの孤独《2020に伝えたい1964》/天狼院書店

過酷すぎる聖火をつける練習

聖火リレーの練習は激しさを増し、トーチを掲げる右腕を下げない様にコーチから檄が飛ばされたそうだ。その上、坂井氏には通常のメニューの他に、階段登りの特訓も加えられた。
「そりゃ、キツイなんてものじゃ無かったよ。元々僕は400mの選手で、トラックしか走ったことが無い。全力疾走だって、トラック一周(400m)を越えると無理なんだよ。そこに、走ったことが無い階段を登るなんて、練習が地獄の苦しみだったよ」

聖火最終ランナーの孤独《2020に伝えたい1964》/天狼院書店

 戦後復興の高度成長期で、努力と結果が求められた時代。義則さんはトーチを持つ手の角度から歩数まで厳しく指導され、聖火台までの長い階段で息が切れてフォームを乱すことや疲れて階段に手をつくことなど許されなかった。

TBS「世界陸上」プロデューサーが語る父の思い 64年聖火最終ランナー坂井義則さんが駆け抜けた道/Sponichi Annex.2019

新聞のスクープによって一躍時の人に!

東京五輪の閉会式の最終走者には、1945年8月6日に広島で生まれた19歳に決まったーー。そう朝日新聞がスクープしたのは、開会式まで2ヶ月に迫った、1964年8月10日のことだ。

最後の聖火ランナーになった「原爆の子」。あの日、広島に生まれた彼が背負ったもの/BuzzFeed.2021

大騒ぎになり陸連が用意した隠れ家暮らしを余儀なくされた。当時について「うれしい半面、なんでこんな目に…と思った」と話したのを思い出す。それでもマスコミのスクープ合戦は新鮮で興味深かったようで、後のフジテレビ入社につながった。

甘口辛口「聖火の人」坂井さんの訃報…2度目の「人生で最高の3分間」とはいかず/iza.2014

海外の報道では「アトミック・ボーイ」

 「アトミック・ボーイ(原爆の子)」と50年前の海外メディアは報じている。当時19歳の坂井青年は、惨禍の地で九死に一生を得た平和の象徴として、その名を世界に発信された。

よむスポーツ 希望の火をともした人 「東京五輪1964」で被爆の苦い思い吐露した坂井義則さん/産経ニュース.2014

敗戦からの復興を訴えるには適役で、海外メディアは「アトミック・ボーイ」と呼んだが「戦争は僕には何の関係もありません。過去のイメージより、今の、いや、きょうの僕の姿を見てください」と外国人記者に答えた。

最終聖火ランナー・坂井義則氏「次の世代、子供たちに何が残せるか」/スポーツ報知.2018
本人はあまりノリ気ではなかった

 「アトミック・ボーイ」「原爆犠牲者の生まれ変わり」。早稲田大一年の坂井義則(故人)は広島県三次(みよし)市の実家で、自らの出自を詳しく報じる紙面を手にしている。

<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(2)「原爆の子」と呼ばれ/中日新聞.2020

 二歳年下の孝之(73)には、居間のちゃぶ台に置かれた新聞に無表情で見入る兄の姿が印象に残っている。「なんとなく機嫌が悪かった」。家族で話題にもしづらい雰囲気があった。

「被爆国の理念」大義あらがえず葛藤<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(2)/東京新聞 TOKYO Web.2020
「……被曝したわけじゃない。」

『東京五輪1964』(佐藤次郎著、文春新書)に、当時の苦い思いを吐露している。

よむスポーツ 希望の火をともした人 「東京五輪1964」で被爆の苦い思い吐露した坂井義則さん/産経新聞.2014

 〈僕は直接被爆したわけじゃない。ちょっと無理があるんじゃないか。なんでそこに結びつけるんだろう〉

よむスポーツ 希望の火をともした人 「東京五輪1964」で被爆の苦い思い吐露した坂井義則さん/産経新聞.2014

それでも坂井さんは走る決意をした。「あのとき日本中の人々がオリンピックを成功させようとしていたんです。日本が平和国家となったことを世界に示すんだ、とね。当時、東京オリンピックのために国民が寄付をしたんですよ。寄付付きの切手を買ってね。5円でも10円でも寄付をすることによって、自分もオリンピックに参加しているんだと思うことができた。ある意味、みんなが参加選手だったと思うんです」。

聖火がつなげる“絆”/TOKYO HEADLINE.2012
その後も続く報道

 最終走者に決まってからも、新聞や雑誌がその出自にも注目して大々的に取り上げた。開会式当日、国立競技場近くで坂井に聖火をつないだ鈴木(現姓・井街(いまち))久美江(71)は、坂井が所属していた早大競走部の合宿所に「報道陣が押し掛け、いられなくなった」と聞いている。

「被爆国の理念」大義あらがえず葛藤<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(2)/東京新聞 TOKYO Web.2020

組織委員会も最終ランナーについて揉めていた

また、組織委側には、坂井さんが最終走者を務めることが、「政治的」な受け止めをされるのではないかとという不安もあったようだ。

最後の聖火ランナーになった「原爆の子」。あの日、広島に生まれた彼が背負ったもの/BuzzFeed.2021

「いまさら聖火ランナーになぜ原爆を結びつけるのか、アメリカ人はいやな思いをさせられた」

「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる/現代ビジネス | 講談社.2017

サイデンステッカーはそう語り、最終ランナーの人選は反米主義的なもので、日本人の「自己憐憫」だと主張した。

「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる/現代ビジネス | 講談社.2017

これを制したのが、「ミスター・オリンピック」とも言われる田畑政治氏だ。以下のように述べた、と伝えられている。

最後の聖火ランナーになった「原爆の子」。あの日、広島に生まれた彼が背負ったもの/BuzzFeed.2021

「最後の走者の坂井君が、原爆投下の日に広島県下で生まれた青年であることが象徴的であった。坂井君が最終ランナーであることがアメリカに悪感情を与えるとの批判も一部にあったようだが、われわれが憎むのはアメリカではなく、原爆そのものである。……アメリカにおもねるために、原爆に対する憎しみを口にしえない者は世界平和に背を向ける卑怯者である」

「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる/現代ビジネス | 講談社.2017

聖火最終ランナーが若者に任されたのも、アメリカの悪感情をあおるという批判を跳ね返して原爆投下日に生まれた最終点火者が選ばれたのも、田畑の強い意向が活かされたものだった。

オリンピック聖火リレーと最終点火者 -聖火リレーの歴史- 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2020

大会一週間前

 「大会本番の一週間前から、合宿所では落ち着かないだろうと配慮をしていただいて、先輩の家で寝泊りさせていただきました。おかげでマスコミからも逃げられたし、ずいぶんリラックスできました」

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

最終ランナーに決定してからもこんなハプニングが。「1週間前まで左手でトーチを持っていたんですよ。それが、世界的な平和の祭典でイスラム教の“不浄の手”に当たる左手で持つのはどうか、というので急きょ右手で持つことになったんです」。

聖火がつなげる“絆”/TOKYO HEADLINE.2012

開会式当日は会場ではなく、競技場の外にある建物の一室で待機していた。窓の外には入場行進を待つ各国の代表たちがひしめいている。テレビをつけるとすぐ隣で始まった開会式の様子が放映されていた。

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

 「窓から見ていると、どんどん選手たちの数が減っていきます。いよいよ行進の順番が最後の日本選手団が入場口へ向かったとき、僕も部屋を出たんです」

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏/JOC – 日本オリンピック委員会

いよいよ本番!東京オリンピック開会式が始まった!

前日は雨だった。それが一転して開会式当日はこれ以上ない快晴となった。

前回東京五輪最終走者の坂井さん 敗戦から復興象徴/産経ニュース.2021

「開会式の日は、青山に住んでいた先輩の家から車で来て、千駄ヶ谷門近くにある『水明亭』で着替えました」

東京五輪聖火最終ランナー「責任の重さすごく感じた」と述懐/マイナビニュース.2014

 本番前の練習は、前日のリハーサルが2度、その前にコースを2回走っただけだったという。

東京五輪聖火最終ランナー「責任の重さすごく感じた」と述懐/マイナビニュース.2014

「当日も自分の判断でスタートして競技場に入りました。火をもらってから3分で点火というのが決まっていたから、そればかり考えてましたね。周りを見る余裕はなかったです」

東京五輪聖火最終ランナー「責任の重さすごく感じた」と述懐/マイナビニュース.2014
国立競技場に聖火を!

彼が聖火を掲げて国立競技場に入って来た時に起きた出来事、整列していた各国の競技者が一斉に列を離れて走行中の坂井選手の元へ群がって駆け寄り写真を撮った。お互いに譲り合いながら。原爆の惨禍の中に生まれながら立派に成長して最終走者に選ばれた坂井選手にみな感動して撮りたかったと言う。

2020 エッセー(東京発):幻のオリンピック聖火最終ランナー/LAメール交換 by Cultural News
独断で少しスタートを遅らせた

そして迎えた10月10日の開会式。「確かに緊張はしましたけど覚悟を決めたら人間なんでもできますね。実は、僕に炎を渡してくれた女の子がニコッと笑ってくれて、その瞬間すっかり気持ちがほぐれました(笑)」。ところがいよいよ走り出そうというとき。「鼓笛隊の演奏が終わっていないんです。彼らが終わるまでトラックを走ることができない。演奏が終わるのを待ち、さらに数十秒、数えてから走り始めました。僕がアドリブで“間”を作ったんです(笑)」。効果はてきめん。割れんばかりの歓声のなか、競技場、いや日本中、世界中の人に見守られて聖火台へと駆け抜けた。その颯爽とした姿が今も目に焼き付いている、と多くの人が語る。

聖火がつなげる“絆”/TOKYO HEADLINE.2012
聖火台までの階段を登る

開会式で、坂井は163段を上って聖火台に点火。ちょうど午後3時3分のことでした。

東京1964トーチ – オリンピック聖火/Olympics

「高さ32mの聖火台まで、登る階段は163段、勾配は28度。菊の花が香る花道であります。坂井君、登り始めました。緑のじゅうたんを踏んで力強く登っていきます。未来に向かって限りなく前進を象徴するかのように、速く高く力強く登っていきます」。アナウンサーはそう実況しました。

至誠通天(75)/マイ広報紙.2020
階段の段数は諸説存在!「163段 or 182段」

 「お前、走っているときの目線の位置は意識していたのか」、「リハーサルは何回やったのだ」、「階段は163とか182とか言われているが、本当は何段あった?」何年かの後、体育会同期の合同OB会があった。こちらの遠慮なしの問い掛けに坂井は「もう忘れたよ」と笑って多くを語らなかったのを思い出す。アスリートとしては名を残せなかったが、一世一代の華舞台で脚光を浴びたことを少しも鼻にかけないイイ男だった。

聖火に託した五輪の〝理念〟/警備保障タイムズー掲載記事ー.2014

日本の復活へ!聖火台に聖火を灯った

胸に日の丸のエンブレムが付いた白いランニングシャツを着て、坂井は右手で聖火を高く掲げ、聖火台に直面し、炎をかざして点火し、炎の塊が表れた。この聖火は、1964年の東京オリンピック開催を伝えるものであり、第二次世界大戦の焼け跡から日本が復興したことを伝えるものでもあった。

世界的に認められた広島のランナーが、1964年東京オリンピックの聖火台に点火/ARAB NEWS.2020

競技者として日本代表に選ばれなかったことなど、すべて吹っ飛ぶような瞬間だった。

スポーツの聖地、国立競技場の最後の日父と息子の半世紀の物語/東洋経済ONLINE.2014

点火の瞬間は戦後復興と世界平和の理念を世界に伝え、大会を象徴するシーンとして語り継がれている。

聖火リレー25日スタート 1964年大会で最終走者・坂井義則さんの弟・孝之さん意気込み語った「胸の中で一緒に兄と走りたい」/スポーツ報知.2021
聖火台からの風景はまさに絶景

いざ上りきって満員の観客席を見たとき、坂井は言いしれぬ興奮に包まれる。7万人以上を飲み込んだスタンド、グラウンドに立つ各国の選手たち、そして、無条件に青い秋晴れの空。坂井がトーチを聖火台へと差し伸べると、勢いよく炎が上がった。

スポーツの聖地、国立競技場の最後の日父と息子の半世紀の物語/東洋経済ONLINE.2014

「真っ青な空。高層ビルもまだない。まさに特等席で、本当にきれいだった」

前回東京五輪最終走者の坂井さん 敗戦から復興象徴/産経ニュース.2021

 「遠くの秩父の山々が見えた。下を見ると、フィールドには色とりどりの民族衣装を着た選手たちが緑の芝生に映えて、素晴らしい光景でした」

坂井義則さん死去…2度目の東京五輪「2人の孫と見たい」夢叶わず/サンスポ.2014

 「今はビルで山も見えないでしょうが、だれもが見たくとも見ることができない特等席でした。これまで見たこともないような光景でしたね」

【TOKYO2020】1964年に坂井義則さんが見た光景 最終聖火ランナーは誰だ!? /zakzak.2020
海外の報道「アトミック・ボーイ」

堂々とトーチを掲げた姿は、敗戦国だった日本の再生を世界にアピール。海外では「アトミック・ボーイ(原爆の子)が平和の火をともした」と報じられた。

TBS「世界陸上」プロデューサーが語る父の思い 64年聖火最終ランナー坂井義則さんが駆け抜けた道/Sponichi Annex.2019
歴史に刻まれた3分間

「組織委員会からは『きれいなフォームで、見栄えよく、3分でやれ』と言われていた。聖火台の下には4機のガスボンベがあり、係員がバルブを開くとガスが上がってくる音がかすかに聞こえる。そこで『やってやる!』という思いでトーチを近づけ、点火したわけだね。後で映像を見たらぼくは笑顔だったし、聖火台からは富士山がはっきりと見えた。あの光景も忘れられない」

64年東京五輪で最終聖火ランナー務めた坂井義則さんの最期/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

坂井さんだけではなく、あの日聖火を仰ぎ見た日本人にとっても忘れがたい3分間だったろう。1メートル75のスラリとした体形と流れるようなランニングフォームが格好よかった。五輪後、新宿の雑踏の中で坂井さんを見かけたが「あの聖火の…」と多くの人を振り返らせるオーラがあった。

甘口辛口「聖火の人」坂井さんの訃報…2度目の「人生で最高の3分間」とはいかず/iza.2014
「人生最高の3分間」

「聖火を受け取って点火するまで、わずか3分ですが、人生で一番の思い出です」

坂井義則さん死去…2度目の東京五輪「2人の孫と見たい」夢叶わず/サンスポ.2014

 走ったのはわずか3分間。「でも人生最高の3分でした。私だけでなく、国民一人一人が人生の思い出になっているはず。いま日本はつかみどころがない国になっている。もう一度、国民全体が目標にできることがあった方がいい。それが東京五輪ですよ」

【TOKYO2020】1964年に坂井義則さんが見た光景 最終聖火ランナーは誰だ!? /zakzak.2020

その後はどこに行っても見知らぬ人からも声をかけられたという。「(聖火を手に走った)3分で人生が変わった」

世界に自信得る装置 オリンピック/朝日新聞デジタル

 敗戦から立ち直ったと世界にアピールした五輪。「国民一人ひとりが自分も参加しているという意識が強かった。だから、僕は変な生き様は見せられないと今でも思う。当時を知る人たちの、あの時感じた希望を失わせたくない」

世界に自信得る装置 オリンピック/朝日新聞デジタル
その後……オリンピックの認識は変化していくことに

しかし、後年、坂井は現在のオリンピックについて「平和の祭典などという美しい言葉は捨てた方がいい。 五輪はアマチュアの祭典でも平和の祭典でもなくなった。 金もうけのための祭典じゃないか」と述べている。 

CineTech(シネテック):第180回紹介作品/九州工業大学附属図書館

第二の人生はスポーツ記者!フジテレビに入社!!

 その後昭和四十一年のアジア大会では千六百mリレーで金メダル、四百mで銀メダルを獲得するが、アキレス腱の故障で競技を断念。だが生来のポジティブな心性からマスコミに興味を抱き、卒業後はフジテレビに入社し、スポーツ報道で大いに活躍する。

坂井義則が果たした大役・東京オリンピック最終聖火ランナー/本の話

スポーツ局スポーツ部専任部長などを務め、2005年8月からフジクリエイティブコーポレーションのエグゼクティブプロデューサーに就いていた。

東京五輪最終聖火ランナー坂井義則氏が死去 69歳/ORICON NEWS.2014

早稲田大卒業後にフジテレビに入社した坂井は、同僚に言っている。

64年東京五輪で最終聖火ランナー務めた坂井義則さんの最期/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

「ぼくには誕生日が2つあるんだ。8月6日と10月10日なんだよね」

64年東京五輪で最終聖火ランナー務めた坂井義則さんの最期/日刊ゲンダイDIGITAL.2020
オリンピックの取材

 フジテレビに入社した坂井は、37年間にわたり報道部とスポーツ部に在籍。現場でオリンピックも取材している。

欲のない純粋なテレビマンは「商業五輪」を強く批判した/日刊ゲンダイDIGITAL.2020

平和のためのオリンピックのはずが……テロ事件に遭遇

AP Archive/YouTube

しかし同時に、厳しすぎる現実にも直面した。大学卒業後、坂井さんはフジテレビに入社し、記者やディレクターとして五輪に関わった。パレスチナゲリラがイスラエル選手団を殺害するという選手村襲撃事件の起きた1972年ミュンヘン大会、爆弾テロ事件で100人以上が死傷した1996年アトランタ大会も現地で取材した。

安倍首相が東京五輪聖火ランナーの原爆との関わりや平和への思いを無視/LITERA.2020

ミュンヘンオリンピック事件

現地取材した72年ミュンヘン五輪では、ゲリラに襲撃されたイスラエル選手団の11人が殺害される事件が発生。

【聖火リレー アラカルト】 平和と復興、願い炎に 64年最終走者の弟/47NEWS.2021
オリンピックの取材が事件の取材に

オリンピックの取材が一転、坂井さんは事件現場を取材することに。この時、大学時代からの親友に、こう語ったと言います。

第4ルート東京都日時:2019年7月23日(火)/フジテレビ

「なぜ何の罪もない運動選手が、犠牲にならなきゃいけないんだ、平和の意味、五輪の意味をもっと深く考えなければならない」

第4ルート東京都日時:2019年7月23日(火)/フジテレビ

帰国後、居酒屋で義則さんは父と弟に「五輪に銃は要らない」と語った。

【聖火リレー アラカルト】 平和と復興、願い炎に 64年最終走者の弟/47NEWS.2021

「もう大ショックだった。平和の祭典であるオリンピックに政治が介入したことでね。早い話、オリンピックは政治に殺されたよね……。その後も同じ。76年のモントリオールのときは人種差別問題でアフリカ勢が参加をボイコットし、80年のモスクワの際はソ連(当時)のアフガンへの侵攻で、アメリカに従って日本も不参加。JОCも選手も政治家に逆らえず、翻弄された。今もオリンピックは政治に汚されているけどね」

欲のない純粋なテレビマンは「商業五輪」を強く批判した/日刊ゲンダイDIGITAL.2020
アトランタオリンピック爆弾テロ

爆弾テロが起きた九六年のアトランタ五輪も、坂井さんは現場で取材した。

平和五輪 原点もう一度 1964年聖火最終走者・故坂井さんの妻「夫の願い」/中日新聞.2018

この時も五輪会場近くの屋外コンサート場で爆破が起き、二人が死亡、百人以上が負傷する大惨事となった。白人至上主義を唱えるキリスト教過激派の男によるテロだった。

記者で見た舞台「東京が古き良き五輪の最後だった」<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(3)/東京新聞 TOKYO Web.2020

 「こういうことが起きない世の中を、オリンピックでやろうとしているのに…」。現地の取材で一緒だった坂井のつぶやきを、元本紙記者満薗文博(70)が耳にしている。

記者で見た舞台「東京が古き良き五輪の最後だった」<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(3)/東京新聞 TOKYO Web.2020

「東京が、古き良きオリンピックの最後だった」

 「東京が、古き良きオリンピックの最後だった」。坂井は次第に周囲にそう語るようになり、休みになると自宅で新聞の隅々にまで目を通す。陸上や五輪関係の記事を切り貼りする姿を、妻の朗子(73)は思い出す。

記者で見た舞台「東京が古き良き五輪の最後だった」<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(3)/東京新聞 TOKYO Web.2020

「平和の祭典などという美しい言葉は捨てた方がいい。五輪はアマチュアの祭典でも平和の祭典でもなくなった。金もうけのための祭典じゃないか」
「アマチュアリズムの理念に立っていた五輪そのものもプロ参入による商業主義が幅を利かせ、金もうけの道具になっています」
「お金や政治に振り回される負の面も見た。純粋な平和の祭典は東京が最後だったかもしれない」

安倍首相が東京五輪聖火ランナーの原爆との関わりや平和への思いを無視/LITERA.2020

2020東京オリンピック招致が決定した1年後、2014年に死去

 1964年に開催された東京オリンピックの最終聖火ランナーを務めた坂井義則さんが10日午前3時1分、脳出血のため、都内の病院で死去した。69歳だった。

坂井義則氏が死去 東京五輪の最終聖火ランナー/日本経済新聞.2014
2020東京オリンピック招致に協力していた

2013年1月には、東京五輪招致にあたっての企画で、坂井さんに旧国立競技場の聖火台に再びのぼっていただいた。19歳のときはさっそうと駆け上がった163段だが、「ちょっと休ませてくれ」と座席に腰かけて休むこと2回。前年に腎臓を摘出されていたこともあり、かなり体力が落ちていたようだった。長身痩躯。あまり食べずに酒を飲むから、心配していたものだった。

【ベテラン記者コラム(148)】故坂井義則さんの弟、孝之さんが広島で聖火リレー/サンスポ.2021
観客席で開会式を見るのが夢だった

(前略)国際オリンピック委員会(IOC)総会で2020年東京五輪開催が決定したときには「若者たちにとって五輪は大きな目標になり、励みになる。私自身は観客席でゆっくりと開会式を見るのが夢です」などと話していた。

東京五輪最終聖火ランナーの坂井義則氏が死去/産経ニュース.2014

 「スタンドの隅っこでいいから、2人の孫と一緒に(2020年東京五輪を)見たいと、ずっと言っていました。それが心残りなのでは…」。妻の朗子さん(67)は、寂しそうにつぶやいた。

坂井義則さん死去…2度目の東京五輪「2人の孫と見たい」夢叶わず/サンスポ.2014

2度目の東京五輪開会式を2人の孫と見ることを楽しみにしていたが、かなわなかった。だが、聖火をともしたトーチは生前から講演などに持ち歩き、今月10日からは三次市で展示されるなど、今後も多くの人の目に触れることになる。

最終聖火ランナー・坂井義則氏「次の世代、子供たちに何が残せるか」/スポーツ報知.2018
「平和の祭典になってほしい。東京だからできる」

(前略)取材した72年ミュンヘン五輪でテロの襲撃があったこともあり、2020年東京五輪は「平和の祭典になってほしい。東京だからできる」と何度も口にしていたという。

【東京五輪開幕から50年】メダリストからの金言!/サンスポ.2014
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東京五輪が開催され、高度成長の象徴としてノスタルジックに語られる1964年。しかし、その実態はどうだったのか。膨大な記録映像と史資料を読み解き、見えてきたのは、首都の「闇」。すなわち、いまも残る、この国の欠陥だった―。(「BOOK」データベースより)

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東京オリンピック物語(18)──奇跡!ブルーインパルスが空に描いた幻の五輪
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