世界の注目を集めた1964年東京オリンピック開会式の感動 ── 東京オリンピック物語(16)

東京オリンピックの開会式は、1964年に衛星中継で世界中に放送され、日本の復興と新たなスタートを象徴する瞬間となりました。この記事では、開会式の舞台裏や重要な役割、皇室の退席と閉幕、そして文化人たちの評価などを詳しく紹介しています。

また、当時のチケット価格やその価値、開会式の視聴率、体育の日の制定など、東京オリンピックにまつわる興味深いエピソードも取り上げています。この記事を通じて、往時のオリンピックの盛況さや日本の復興の姿、そして開会式の象徴的な意義を知ることができます。ぜひご一読ください。

歴史的瞬間!アメリカ統治下の沖縄で聖火リレーが始まる ── 東京オリンピック物語(15)
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東京五輪が開催され、高度成長の象徴としてノスタルジックに語られる1964年。しかし、その実態はどうだったのか。膨大な記録映像と史資料を読み解き、見えてきたのは、首都の「闇」。すなわち、いまも残る、この国の欠陥だった―。(「BOOK」データベースより)

Tokyo 1964 Opening Ceremony

「復興から光へ」1964年東京オリンピックの奇跡

Olympics/YouTube

終戦からわずか19年後、焼け跡から立ち上がった日本は目覚ましい再建を遂げていた。その象徴とも言えるのが、アジア初となった「東京オリンピック」である。この大会は、日本が戦後を乗り越えて国際社会に復帰したという事実を、全世界へ力強く発信する格好の舞台となった。

晴れゆく日本!1964年東京オリンピック開会式の奇跡的な天候変化

1964年の10月10日、半世紀以上前のこの日、多くの国旗が東京の青空に揺れ動いていた。その日の東京の空は、無尽蔵の青さと広さを誇示していた – まるで全世界の青空を一つに集めたかのような、完璧な秋晴れだった。この好天には、前日まで続いた激しい雨とは打って変わり、実況放送のアナウンサーさえも「まるで世界中の青空が全部東京に集まったかのような素晴らしい秋日和」と形容した。

前日は土砂降りの雨……中止の可能性もあった

開会式の前日、10月9日は午後3時頃から大雨が降り出し、開会式は荒天の場合中止となるため、組織委員会のメンバーは全員が打ちひしがれていた。特に大雨が続く夜には、「この2年間の準備は何だったのか」という絶望感に打ちのめされた。

10月10日は晴れが多い?

しかし、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)10月10日から24日までの15日間では、開会式当日の抜けるような青空に祝福され、オリンピックが「晴れる特異日を選んで開催された」という神話が誕生した。過去の統計から晴天率が高い日が選ばれたという説が存在するものの、気象庁の資料によれば、10月10日が特に晴天率が高い日であったわけではなかった。この奇跡的な天候変化が、1964年東京オリンピック開会式をさらに特別なものにした。

「オリンピック序曲」の演奏で開会式がスタート!

第18回オリンピック東京大会の開会式は、7万5千人の観客が集う国立競技場で熱狂的に迎えられた。開会式の開始は、作曲家團伊玖磨の力強い「オリンピック序曲」の演奏で幕を開けた。この開会式の序曲は、團伊玖磨自身の手によって演奏され、金管のファンファーレに続く四つの鐘の音が印象的な壮麗な作品であった。

この歴史的な演奏には、自衛隊、警察、消防庁、皇宮警察、そして神奈川県警の音楽隊が全力で取り組み、初演時の指揮は中央音楽隊第2代隊長の斎藤徳三郎が担当した。彼らの演奏により、開会式は感動的な開始を刻み、世界の人々に深く印象を残すこととなった。

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「旗揚げ」参加国の誇り高く舞う旗

続いて、競技場の観客席後部には参加各国の国旗が掲揚されました。これらの旗は、それぞれの国と選手たちの誇りを象徴するもので、世界の平和と友情を表現する一方で、各国の熱意と闘志を示す存在となりました。

電子音楽が流れる中で昭和天皇が来会

オリンピック序曲が終わると、電子音楽が流れ始めました。この音が合図となって香淳皇后や上皇ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)を始めとする皇族方がロイヤルボックスにご臨席された。昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに移動する間に流れたこの音楽は、電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」であり、これは現代音楽や映画音楽を多数手がけていた黛敏郎の作品でした。

黛敏郎(作曲)「カンパノロジー・オリンピカ」

黛は市川崑が監督した東京大会の記録映画『東京オリンピック』の音楽も担当し、そのことを知った組織委員会から開会式の作曲を依頼されました。この音楽はNHK音楽スタジオで制作され、日本の伝統的な響きを表現する「梵鐘(ぼんしょう)」と最新の音色である「電子音」を組み合わせて作り上げられた。鐘の音は、奈良東大寺、高野山金剛峯寺、京都知恩院、日光輪王寺、妙芯寺、方広寺、金戒光明寺のものを使用していました。

「カンパノロジー」とは、鐘に由来する音響学の用語であり、黛は1951年からテープ音楽や電子音楽に取り組み、この手法を用いて「カンパノロジー・エフェクト」を生み出し、楽曲「カンパノロジー」が誕生しました。

この東京オリンピックは、戦後初めて世界から注目を集める舞台であり、黛が先進的な「電子音楽」で「国際化に向かう日本」を表現した意義は大きかった。新しいものに常に敏感だった黛が可能にしたことで、TV中継を通じて全世界に響き渡ったこの作品は、おそらく世界で最も多く聴かれた電子音楽の一つでしょう。

両陛下の前で吹奏された国歌「君が代」

両陛下が着席されると、次に鳴り響いたのは日本の国歌「君が代」だった。その厳かな音色は競技場全体を包み込み、参加者と観客全員が一瞬で国の誇りを感じる瞬間となった。

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圧巻の各国選手団の入場行進!

午後2時、古関裕而作曲の東京オリンピックマーチが流れ始め、94カ国・地域から集まった選手団の入場行進が始まった。これは当時としては史上最大規模の参加国数でした。その先頭に立ったのは、オリンピック発祥の地であるギリシャの選手団だった。

日本の赤白ユニフォーム

そして、最後に登場したのが紅白のユニフォームに身を包んだ日本の選手団だった。その瞬間、競技場全体から大歓呼が上がり、すべての観客が立ち上がった。男子は赤のジャケットに白のパンツ、女子は同じ赤のジャケットに白のプリーツスカートを身に纏った日本の選手たちは、その姿で日本の代表としての誇りと団結を表現した。この日本のユニフォームは、その後のスポーツ国際大会で赤と白の2色が多く用いられるきっかけともなったと言われています。

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小野喬:五輪四大会で獲得した金塊と肩の傷

東京オリンピックの日本選手団の主将であった小野喬は、その時点で33歳で、メルボルンとローマ五輪で鉄棒で2連覇を達成していました。彼の技の冴えは「鬼に金棒、小野に鉄棒」と称されるほどで、その後の東京とメキシコの五輪でも活躍。合計で4つの大会に出場し、金5個、銀4個、銅4個を獲得するという素晴らしい業績を築き上げました。

しかし、東京大会では既にピークを過ぎており、さらに大会前に肩を傷めるという困難に直面しました。それでも彼は麻酔注射を打つという苦痛を耐えて出場し、「われわれの練習量は世界一。普段通りの演技をすれば絶対負けない」という信念でチームを励ましました。

日本選手団はこの日のために何度も予行演習

1964年の東京オリンピックの開会式に向けて、日本選手団は一丸となって厳しい練習を重ねていました。その日の朝も、代々木の選手村にあるグラウンドで行進の練習を行っていました。彼らは「必ず左足から踏み出し両手を肩と水平の高さにあげる」という細かい指示を受けました。

そして、「あたまー右」の号令が掛けられると、「あたまー」の声で右手に帽子を取り、真上に掲げて行進し、「右」の掛け声で帽子を胸に当て、頭を右に向けるという行進のルールが定められていました。

他の各国代表選手が散歩や競技の練習に励む中、日本選手団は行進の練習に追われました。最前列にいた女子バレーボール選手の宮本(現・寺山)恵美子は、後列の女子体操選手から「背筋をちゃんと伸ばして!」と注意されたことを今でも覚えています。

開会式の練習は1964年の9月19日、27日、10月1日、3日、7日、9日と何度も行われ、ついに当日を迎えることになりました。このような入念な練習のおかげで、選手団の一丸となった行進は観客を感動させ、国威発揚に寄与したと言えるでしょう。

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東京オリンピック参加国数の混乱と教科書の記述について

東京オリンピックでは、世界から94カ国、約5500人の選手・役員が一堂に会し、史上最大のオリンピックとなりました。それまでにこれだけの海外からの訪問者が一度に日本に訪れたのは初めてのことでした。

しかしながら、参加国数については混乱が生じています。大会組織委員会は参加国数を94カ国と報告していましたが、国際オリンピック委員会(IOC)は参加国数を93カ国としています。これは競技不参加国の取り扱いによるとされています。

さらに混乱を招いているのが教科書の記述についてです。『新しい歴史教科書』(自由社)は、2014年度に文部科学省の教科書検定に合格し、その中に1964年の東京オリンピックのコラムが掲載されています。ここには、「93カ国」が参加したと書かれており、これは文部科学省の教科書検定で合格した記述です。しかし、2019年度の教科書検定で、同じ「93カ国」の表現が使われたところ、検定意見(クレーム)がつきました。その理由は「生徒が誤解するおそれのある表現である。(93カ国)」とされ、つまり「93」は間違いだと指摘されました。

この問題は、参加国の定義や競技への参加という観点から見ると複雑で、どの数字が「正確」であるかは、その定義に大きく依存します。このような問題は、教科書を使って歴史を教える際には注意が必要であり、また教科書検定の問題としても議論されるべきです。

魅惑の「東京オリンピック・マーチ」

開会式のハイライトのひとつである入場行進が始まると、競技場全体を包み込むのは、古関裕而作曲の壮大な『東京オリンピック・マーチ』の響きだった。”心も浮き立つようなオリンピック・マーチが鳴り響きます”と、NHKの北出清五郎アナウンサーが視聴者に向けてこの感動的な瞬間を伝え始めた。

開会式の序曲が始まり、ギリシャを先頭に、最後の日本選手団まで、全ての選手団がこのメロディに乗って堂々とした入場行進を行った。初めて聞くこのマーチに対して観客と視聴者は一瞬の驚きを覚えつつも、すぐにその軽快なリズムと明るいメロディに馴染んでいった。

そして、各国の選手団が入場してくる様子と、その明るい表情とともに、これから始まる世紀の祭典への大きな期待感が観客、視聴者の心を躍らせた。

東京マロニエ吹奏楽団【公式】/YouTube
「古関裕而」多彩な才能を持つ伝説の作曲家

この壮大な『オリンピック・マーチ』を作曲したのは、昭和を代表する作曲家、古関裕而である。彼の名を聞けば、多くの人が夏の全国高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」や、阪神タイガースの「六甲おろし」を思い浮かべるでしょう。しかし、彼の才能はそれだけに留まらない。

「長崎の鐘」や「君の名は」などの大ヒット曲を生み出した彼は、また、スポーツテーマ、ラジオ、舞台音楽、校歌といった幅広いジャンルの音楽を手掛け、作品総数は驚くべき約5000曲にも及ぶとされています。

そして、彼の才能が発揮されたのが、1964年開催の東京五輪の行進曲「オリンピック・マーチ」です。

古関裕而 生誕100年記念モニュメント
戦時と平和時の音楽活動

作曲家の古関裕而は、戦前・戦中、戦地に向かう若者の気持ちを高揚させる曲を数多く作曲しました。「若鷲の歌」「露営の歌」など、彼が作った軍歌は多くの若者を戦地へと送り、無数の命が失われました。1938年には慰問のために中国の戦地に派遣され、兵士たちの「露営の歌」の大合唱を目の当たりにしました。彼の自伝「鐘よ鳴り響け」では、この時の深い感慨を綴っています。

古関の長男、古関正裕によると、「父は自分が作った軍歌を聴いて、特攻隊に志願して亡くなった若者の話を聞くと、なんともいえない思いをしてたようです」と語っています。

「日本的な行進曲を」戦後の作曲家古関裕而の代表作

古関裕而が東京オリンピックの入場行進曲を手掛ける依頼を受けたのは、1963年2月、彼が53歳の時でした。オリンピック組織委員会からは「日本的な行進曲を」と要望され、制作の猶予は約1年という難題に直面しました。

その時の古関の様子を、長女の染谷雅子はこう語ります。「父が大変興奮して戻ってきたとき、オリンピックの行進曲を書くことになったと、母と私に話しました。私は父の喜びが尋常ではないと、その時感じました」

「オリンピック・マーチ」に込められた「君が代」のメロディ

NHKの「日本的なものを」との要望を受けた古関は、初めこそ雅楽や民謡の要素を取り入れることを検討しましたが、そのアプローチは若者たちの祭典には適合しないと判断しました。しかし、彼は日本的な要素を織り込む方法を見つけだしました。それは「君が代」の後半のメロディを曲の終わりに入れるというアイデアでした。

実はこの手法、スポーツ音楽のパイオニアである山田耕筰が1932年のロサンゼルスオリンピックのために作曲した応援歌「走れ大地を」で使用したテクニックに影響を受けています。古関は山田を尊敬しており、そのテクニックを取り入れることで、一種の敬意表現とも言えるでしょう。

そして1963年6月には曲が完成しました。古関は「考える時間が長く、ペンをとったら一気に書き上げました」という彼の言葉からは、「少しでもこの大会を成功させたい」と語っており、彼の強い意志が感じられます。

壮大なメロディーが紡ぐ平和への道

古関裕而の「オリンピック・マーチ」は、1964年の東京オリンピックで鳴り響き、日本の戦後復興を世界に示す象徴となりました。その壮大なメロディは、全ての参加国の選手団が入場する際の背景音楽となり、国立競技場を一体感で満たしました。

古関裕而の長女である染谷雅子は、「父はこの曲には苦心したが、会心の作だ、と言っておりました」と回想します。終戦を境に、古関裕而の音楽は戦争の痛みを癒す、平和を希求する方向に大きく舵を切りました。「戦争で傷ついた人たちを励まし、勇気づける曲を作ることが、自分の責務だと思っていたんだと思います」と、染谷雅子は父の音楽への姿勢を語ります。

しかし、演奏は最後の日本選手団が行進を終えると同時に終了し、「君が代」のメロディーが取り入れられたエンディング部分は、残念ながら本番では演奏されませんでした。その事実は、この名曲の歴史において、少し寂しいエピソードとして記憶されています。

世界が目撃した奇跡の復活劇

豪華な行進曲「オリンピック・マーチ」に合わせ、国立競技場の400メートルトラックを一周した各国の選手団。熱気と興奮が交錯する中、選手たちはフィールド中央に整然と縦列をなし、世界に誇るその一体感を見せつけました。

そして、その光景を見守る者たちの視線は、式台に移った。国際オリンピック委員会(IOC)のアベリー・ブランデージ会長と、オリンピック東京大会組織委員会の安川第五郎会長が登壇したのです。

安川第五郎会長の開会式における挨拶

オリンピック東京大会組織委員会の安川第五郎会長は、会場を埋め尽くす観客へ向けて熱い言葉を送りました。「本日より15日間にわたり開催されることになった待望久しい第18回オリンピック競技会の開催は、誠に喜ばしい限りです。特に本年は近代オリンピック復興70周年にあたる年であり、この機会に近代オリンピックの父であるクーベルタン男爵の業績を想起し、敬意を表したいと存じます」と彼は述べました。

さらに安川会長は、「オリンピック東京大会はアジアで開催される初の大会という重要な歴史的瞬間であり、これまでにない多数の選手団の参加を見ることができたのは、非常に嬉しいことです。競技に参加する全ての選手たちに、オリンピック精神にのっとった正々堂々とした競技が展開されることを心から期待しています」と、参加選手たちへの期待を述べました。

そして彼の挨拶は、「最後に、ここにおられる国際オリンピック委員会のアベリー・ブランデージ会長に、天皇陛下より第18回オリンピック競技大会の開会宣言を賜りますようお願い申し上げます」と、ブランデージ会長への丁重な依頼で締めくくられました。

クーベルタン男爵の言葉が会場に響く

挨拶の途中、近代オリンピックの父とされるクーベルタン男爵の録音が会場に流れました。選手たちが一堂に会するこの特別な瞬間に、男爵の言葉が国境、民族、風土を越えて参加者たちの心に響きました。その言葉は「オリンピックで一番重要なことは勝つことではなく参加することである。人生で最も重要なことは勝利者であるということではなく、その人が努力したかどうかということである」というもので、その精神は今日も変わることなくオリンピックの根底にあります。

会場中央の電光掲示板には、このクーベルタン男爵の言葉が投影され、選手たちの心に深く刻まれました。

ブランデージ会長のスピーチと開会宣言への依頼

国際オリンピック委員会(IOC)のアベリー・ブランデージ会長は、開会式での挨拶で「オリンピック運動は、今や7つの海を結びつけ、オリンピックが全世界のものである証として、ついにここ東洋で行われようとしている」と力強く宣言しました。この言葉は、オリンピックが全世界の共有物であり、その精神がどの地域にも属することを明確に示しています。

さらに、ブランデージ会長は祝辞の最後に「ワタクシハ 1896ネン ピエール・ド・クーベルタン ダンシャク ニ ヨッテフッカツサレタ キンダイオリンピック ノ ダイ18カイ キョウギタイカイ ノ カイカイセンゲン ヲ ココニツツシンデ テンノウヘイカ ニ オネガイモウシアゲマス」と述べ、天皇陛下へ開会宣言を依頼しました。この瞬間は、東京オリンピックの歴史的な一瞬となりました。

第18回オリンピックの開会宣言と天皇の役割

1964年10月10日、天気が快晴であった日、昭和天皇は、「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」という歴史的な発言をしました。この言葉は約7万4千人が詰めかけた旧国立競技場(東京・新宿)に響き渡りました。

オリンピック憲章では、五輪開会式の開会宣言は開催国の国家元首が行うこととされています。外交儀礼上、日本の国家元首に相当する天皇が五輪の名誉総裁を務めるのは慣例となっています。

日本の戦後の憲法や法律では、元首の規定はないものの、1988年10月の参議院内閣委員会における内閣法制局の答弁によれば、「天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」と述べています。したがって、対外的には天皇が元首とされています。

東京オリンピックの特別なファンファーレとその初演

午後2時58分に昭和天皇が開会の宣言を行うと、オリンピック賛歌とともに特別なファンファーレが演奏されました。

自衛隊・アメリカ空軍音楽隊チャンネル/YouTube
予定外のオープニング!熊本県立高校と東京オリンピックのファンファーレ

オリンピックのファンファーレは大会ごとに新しく作られ、1964年の東京オリンピックでは、その演奏を陸上自衛隊中央音楽隊が担当しました。その時の衣装、楽器、フラッグ(トランペットを装飾する「旗」)は現在でも中央音楽隊に保管されています。

この特別なファンファーレの作曲者は、日本初の社会人アマチュア交響楽団とされる諏訪交響楽団(長野県)の名誉会長、今井光也でした。彼の作品は公募により412編の中から選ばれたもので、その曲はわずか8小節で、短調の作品でした。これが、「東京オリンピック・マーチ」を引き立てる効果を持つとされています。

しかし、このファンファーレが東京五輪の開会式で初演されるはずだったにも関わらず、その直前に熊本県のある県立高校の体育祭で流れていたというエピソードもあります。1964年10月4日、6日前のこと、熊本県玉名市の県立玉名高校の体育祭の開会式で、この8小節の五輪ファンファーレがグラウンドに響き渡りました。演奏を行ったのは、器楽部の部員たちでした。

オリンピック賛歌

昭和天皇による開会宣言が鳴り響いた後、全ての視線は次の演目、あの「オリンピック賛歌」へと移った。伝統と熱情、勇気と希望が混ざり合うその歌声は、会場に詰めかけた観客全員を一体化させ、彼らの心を一つに結びつけた。

heFlagandAnthemGuy/YouTube
オリンピック賛歌の復元と日本語訳詞

「オリンピック賛歌」は1896年の第一回アテネ大会のために、ギリシャのコステス・パラマが詩を作り、スピロ・サマロが作曲した。しかし、大会後に譜面は消失し、その存在は一時的に忘れ去られた。

しかし、時が経つにつれ、「オリンピック賛歌」の楽譜が再び日の目を見ることとなった。その消失していた楽譜が1958年、東京で開かれる国際オリンピック委員会総会を前に、ギリシャで発見されたのだ。当時のIOC委員・東龍太郎がこの楽譜を日本に持ち帰り、作曲家・古関裕而にオーケストラ用の編曲を依頼したのです。

その結果、古関は荘厳さに華麗さを併せ持つオーケストラ用の「オリンピック賛歌」を作り上げた。そしてこの新たな「オリンピック賛歌」は、1960年のスコーバレー冬季オリンピックで初めて演奏された。

日本語訳を手掛けたのは徳島県出身の文筆家・野上彰です。彼は詩人としても名高く、また多くのオペラやシャンソンの歌詞を手掛けていた。その力強くも美しい詩の言葉は、日本人の心に深く響き、1964年の東京五輪開会式で初めて披露されたときには、多くの感動を呼びました。

Ako Fujiwaka/YouTube

「五輪旗掲揚」故・織田幹雄選手を称える

いよいよ五輪旗が掲揚される瞬間がやってきました。競技場内を半周した旗は、「織田ポール」と呼ばれる特別な旗竿へと掲揚され、3発の祝砲が鳴り響きました。

「織田ポール」とオリンピックの象徴」

この「織田ポール」は、日本スポーツの英雄・織田幹雄選手を称えて建てられたものです。

織田選手は1928年のアムステルダム五輪で、日本選手団の主将として出場。三段跳びで日本人初の金メダルを獲得しました。さらに、1931年には15m58cmという、当時の三段跳びの世界記録を樹立。その功績を讃え、この旗竿の長さも彼の世界記録と同じ15m58cmとされました。

しかし、彼の名前を冠したものはこの「織田ポール」だけではありません。当時の代々木公園内にあった、選手村の練習用フィールドも「織田フィールド」と名付けられ、彼の功績が讃えられていました。

1964年の東京オリンピックでは、「織田ポール」がオリンピック旗を掲げる象徴的な存在でした。その旗がはためく様子は、日本のスポーツ界が進んできた道のりと、これから進むべき道を示す象徴でもありました。

そして、「織田ポール」は2014年に、国立競技場の解体を前に、東京都北区西が丘のNTC陸上トレーニング場に移されました。その姿は現在も日本スポーツの記憶と誇りを伝え続けています。

オリンピック旗の引継ぎ:歴史的なバトンタッチ

そして次に待たれていたのは、前回開催地であるローマからのオリンピック旗の引き継ぎです。イタリアの若者がオリンピック旗を携えて、小学生の鼓笛隊と共に競技場に入場しました。目指すは中央の式台、そこで待ち構えていたのはローマ市長でした。

彼は重厚なオリンピック旗を受け取り、IOCのブランデージ会長へと渡しました。そしてついに、ブランデージ会長から東京都知事・東龍太郎へと旗が引き継がれました。この瞬間は、東京がオリンピックの主役となる瞬間であり、世界の注目が一堂に集まりました。

カラフルな風船と小学生鼓笛隊:開会式の終章

そして、開会式のクライマックスとして、オリンピックカラーの風船が大量に空へ放たれました。競技場内は一瞬にして五色の虹となり、観客席からは歓声が湧き上がりました。

その間、選手団と共に入場していた小学生の鼓笛隊が静かに競技場を退場。彼らの明るい演奏と笑顔が、開会式の華麗な幕引きを告げました。オリンピック開会式の一部として参加した彼らの演奏は、世界中の視聴者に感動を与え、これから始まるオリンピックの壮大な舞台を盛り上げました。

広島生まれの英雄「坂井義則と聖火リレー」

続いて聖火リレーの最終ランナー、坂井義則が登場しました。坂井は、広島への原爆投下の日に生まれたという、象徴的な人物でした。

坂井は、力強くトラックを半周し、そして国立競技場の聖火台までの長い階段を見事に登りきり、聖火を点火しました。その姿は、かつて焦土と化した東京が、日々立ち止まることなく復興の道を進んできたことを象徴していました。

敗戦国であった日本にとって、遠い海の向こうで揺れる五輪の聖火は「国際社会」の象徴であり、その火を自国でともすことは、名実ともに「一等国」への仲間入りを果たすことと同義でした。そして坂井青年が聖火台に向けて刻んだ一歩一歩は、日本国民全体が刻み続けた精勤の歩みを象徴していました。

炎と音の共演!火炎太鼓の演奏!

そして、宮本卯之助商店製造の雅楽用大太鼓(だだいこ)が舞台に登場しました。これは東京オリンピック(1964年)のために特別に提供されたもので、なんと高さは8メートルもあります。その大きさに比例して、太鼓の音は大迫力。これと同時に燃え上がる火炎と共演し、会場を包み込みました。

提供した宮本卯之助商店が語るには、「ずいぶん思い切ったことをしたな」という感想を持つ一方で、「見返りはなかった」とも。しかし、20年ほど経った今では、この大太鼓は一転して大活躍。宮内庁の演奏旅行などで年数回使われているとのことです。さらに何が幸いするかは予測できないという事実を再認識させられたと振り返っています。

東京オリンピック賛歌

その次に「東京オリンピック賛歌」が織りなされました。この賛歌は、詩人であり作詞家の佐藤春夫が詩を書き、作曲家の清水脩がメロディを添えたものです。

全体が一つとなる大合唱によって、開会式の舞台は一層の熱気に包まれました。佐藤春夫の詩と清水脩のメロディーが織りなす賛歌は、東京オリンピックの祝典的な雰囲気を更に高め、参加者たちに深い感動を与えました。この場に立つすべての者が、その歌声に耳を傾け、一緒になって歌い上げる姿は、開会式の目玉の一つとなりました。

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「選手宣誓」真のスポーツマン精神を誓う小野喬

聖火台が灯されると、次にスポットライトを浴びるのは日本選手団主将を務めた体操の小野喬選手でした。彼は、「私はすべての競技者の名において、オリンピック競技大会の規約を尊重し、スポーツの栄光とチームの名誉のために、真のスポーツマン精神をもって大会に参加することを誓います」と高らかに選手宣誓を行いました。

青空へ響くその宣誓は、満員に埋め尽くされた国立競技場を一層緊張感で包み込みました。後に彼は、「選手宣誓は暗記で言わなくちゃいけなくて、覚えるのがとても大変だったよ」と回想。さらに、「今みたいに日本選手団主将というプレッシャーはなかった」と振り返りました。

それでも小野選手は、アスリートとして特別な思いを抱いていました。「本当は(60年の)ローマ五輪で(現役を)やめようと思ったけど、東京が決まって(代表に)入ってうれしかった」と、自国でのオリンピック開催への深い喜びを語りました。

宣誓と8000羽のハトの飛翔!一呼吸に込められた重要な役割

午後3時10分過ぎ、体操の小野喬が堂々と選手宣誓を終えた瞬間、「オノ、タカシ」と、名字と名前の間に一呼吸置いた。その一呼吸が、平和の象徴である8,000羽の鳩が青空へ飛び立つサインだったのです。

国立競技場からは放たれた8000羽のハトは、グラウンドに並ぶ選手たちの頭上をかすめるように飛び上がり、雲一つない青空に大きく旋回しました。その壮大な光景は、平和と友好のメッセージを世界に伝える象徴でした。

宣誓の舞台裏!平和の象徴が響く瞬間

この計画された瞬間を振り返り、小野は、「2カ月くらい前に言われて、名誉に思うと同時に頭が痛かった。一生懸命に暗記をして、開会式当日は競技場の中に入っても、それしか頭になかった。」と語りました。

宣誓の最後の部分については、「名字の後に少し間を置いて名前を言うよう頼まれた。ハトを飛ばす係の人たちは『オノ』でかごに手を掛けて、『タカシ』でぱっと飛ばす合図だった。」と明かしました。

この厳粛な一呼吸は、彼の名を世界に響かせ、同時に平和の象徴を空へ放つ重要な役割を果たしました。そして、本番では意外とすらすらと言えたといいます。「最後は『オノ、タカシ』ってちゃんと間を空けて言えた」と彼は自信満々に語ります。

白じゃない?灰色のハトだった

実はこの時放たれたハトは、一般的な白いハトではなく、”灰色”のシマバトという種類でした。

一般的に、灰色や黒いハトの方が体力があり、飛行能力が高く、知能も高いとされています。そのため、東京オリンピックの開会式では、日本鳩レース協会の関係者が集めたこの灰色のシマバトが選ばれました。それは、長距離を飛行するこの鳥の能力と、その強靭な生命力が、新たなスタートを切るオリンピックのシンボルとして適していたからです。

さらに、1964年の東京オリンピックでは、この伝書鳩が新聞の速報の手段としても活躍しました。これは、当時の通信技術がまだ発展途上であったことを反映しています。開会式で放たれたシマバトの姿は、平和の象徴だけでなく、当時の情報伝達の形象でもありました。

tvasahi/YouTube
平和の象徴の変遷:ハトの飛翔から今では風船へ

伝統的にオリンピックでハトは、雄大な空を背景に舞い上がり、その美しいシーンは世界中の人々に感動を与え続けてきましたた。しかし、この伝統的な儀式は1998年ソウルオリンピックで予期せぬ悲劇を引き起こしました。

ソウルオリンピックでは、聖火台の火によりハトが焼け死ぬという事態が発生。この事件は、世界中の動物愛護団体から強い抗議を引き起こしました。この悲劇的な出来事は、オリンピック開会式の伝統を大きく変える契機となりました。

その後のオリンピックでは、ハトの放鳥の代わりに風船などが使用されるようになりました。この新たな表現は、平和の象徴を維持しつつ、動物の安全を確保するための変化であり、オリンピックの開会式の新たな伝統となりました。

日本国歌「君が代」の斉唱

その後、国立競技場全体が静寂に包まれ、日本国歌「君が代」の斉唱が始まりました。それぞれの国の代表選手たちも、スタジアム内に集まった観客も、テレビやラジオでこの瞬間を見守る全世界の人々も、この瞬間は一体になりました。

「君が代」は、日本の国歌として、多くの重要な公式な場で演奏されます。歌詞は、古代の万葉集から引用されており、日本の皇室を賛美し、長寿を願っています。

オリンピックの開会式で国歌が歌われる瞬間は、その国の文化や歴史、そして国民の結束を表現する重要な瞬間です。そしてその歌声は、ただの式典以上のものを示しています。それは国民の一体感、誇り、そして前向きな希望を示しているからです。

1964年の東京オリンピックの開会式では、「君が代」の斉唱は、そのすべてを象徴する一つの瞬間であり、全世界へ向けた日本のメッセージでもありました。

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ブルーインパルスが空に五輪を描いた!

君が代の直後、見事な五輪のマークが航空自衛隊のブルーインパルス5機の編隊飛行により、青空に描かれた。この瞬間は、練習を含めて初めてとのことで、航空ショーとしては一種の挑戦でもあった。競技場だけでなく新宿、渋谷、さらに銀座あたりからもはっきりと見え、道行く人々は仰ぎ見て感嘆の声をあげ、拍手を送った。日本中が東京オリンピックの開幕に湧き立った瞬間であった。

ブルーインパルス
ロイヤルボックスから見る五輪のマーク

開会式で描かれた五輪のマークは、国立競技場のロイヤルボックスに座る天皇皇后両陛下からもっとも見栄えのするように計算されていた。ブルーインパルスのチームと空幕(航空幕僚監部)は、どのくらいの大きさの円をどのような間隔で五つ空に描けば効果的かを何度も作図し、検討を重ねた。

その結果、ひとつの輪の直径は約1800メートル(6000フィート)とし、輪と輪の間は約300メートル(1000フィート)あけることに。さらに、三つの輪がならぶ第一列から約1200メートル(4000フィート)離れた位置に、互い違いのようにして二つの輪を並べることにした。これらの計算と設計が、その後のブルーインパルスによる印象的な五輪マークの飛行表現を可能にしたのであった。

皇室の退席と開会式の閉幕

開会式は、昭和天皇と香淳皇后がロイヤルボックスから退席したことで幕を閉じました。彼らの姿が視界から消えると、参加選手団も次々と競技場を後にし、豪華絢爛な開会式は静かに終わりを告げた。

世界が目の当たりにした、復興した日本

しかし、その閉幕の瞬間には特別な意義がありました。この1964年の東京オリンピック開会式は、五輪史上初めて衛星中継で世界中に放送されたのです。つまり、世界が初めて日本の国立競技場を認識した瞬間でもありました。

それ以上に、この開会式は敗戦国として苦難の道を歩んできた日本が、自らの復興を世界に誇示する絶好の機会でもありました。戦争の爪痕から立ち上がり、新たな時代を切り開いた日本。その姿を、全世界が初めて目の当たりにしたのが、この開会式だったのです。

1964年東京オリンピック開会式:文化人たちの視点

三島由紀夫、芥川也寸志、生沢朗、堀川弘通――1964年東京オリンピック開会式を目の当たりにしたこれらの作家や芸術家たちは以下のように語っています

「火の神」三島由紀夫

三島由紀夫は、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」と開会式を評価しました。彼は特に聖火の点火セレモニーを高く評価し、「聖火台に火が移され、青空を背に、ほのおはぐらりと描いて立ち上がった。地球を半周した旅をおわったその火の、聖火台からこぼれんばかりなさかんな勢いは、御座に就いた赤ら顔の神のようだ」と表現しました。

「上出来の成績」芥川也寸志、生沢朗、堀川弘通

芥川也寸志、生沢朗、堀川弘通は開会式を観戦した後の座談会で、「まず上出来の成績」と評価しています。芥川はブラスバンドの演奏に対して「軍隊調が過剰」と指摘するなど、苦言を呈する場面もありましたが、全体的には高評価でした。

世界が見た日本の新たなスタート

1964年の東京五輪は、アベリー・ブランデージIOC会長から「最高級のオリンピック」と評価されるなど、大いに成功した大会でした。開会式当日、街頭から人々が消え、家庭のテレビの前に集まりました。NHKの調査によれば、視聴率は84.7%で、およそ6500万人が見たと推定されています。この日、スタンドで結婚式を挙げるカップルもいました。抜けるような青空の下で行われた開会式は、新たなスタートを切った日本の姿を世界に示す象徴的な瞬間でした。

当時のチケット価格とその価値

開会式のチケットは、抽選により当選した人に販売されました。当時の価格は500円から8000円で、現代の価値に換算するとどの程度になるのでしょうか。

チケット価格の換算

当時の大卒初任給が約1万9800円で、現代の大卒初任給が21万円とすると、約10倍程度の価格上昇が見られます。これを基に換算すると、現代の価値では開会式のチケット価格は5300円から8万4800円となります。これは、その当時の価格の約半額以下となります。初めてのオリンピックということもあり、比較的手頃な価格設定だったのかもしれません。

チケットの人気

初の東京オリンピックのチケットは非常に人気があり、原案では全競技通して260万枚のチケットが販売予定で、収益は12億5000万円を見込んでいたとされています。しかし、実際の入場料収入は18億7100万円で、見込みよりおよそ1.5倍の収益となりました。これはチケットが予想以上に売れた結果であり、マイナースポーツでも発売枚数の90%が売れたと言われています。

「五輪へまっしぐら」という映像には、競技の種類が分からないながらも、チケットを求める長い列が映し出されています。これは、当時のオリンピックチケットがいかに人気だったかを示す一つの証拠と言えるでしょう。

1964年東京オリンピックと「体育の日」の制定

1964年10月10日、東京オリンピックの開会式が行われたこの日は、その2年後の1966年から「体育の日」として国民の祝日に制定されました。体育の日の目的は、体を動かすことの楽しさを知り、体力の増進を図ることであり、東京オリンピックの開会式の日を選んだことはその象徴的な意義を持ちます。その後、「ハッピーマンデー制度」の導入により、2000年からは10月の第2月曜日に移動しました。

なお、東京オリンピック開会式で国立競技場の聖火がLPガス(プロパンガス)で点火されたことから、「10」と「10」の日付が火で料理をしているときの音「ジュージュー」と読め、また、LPガス自動車の進化の勢いを「ドンドン」と表現する語呂合わせもなされました。これらは体育の日制定の背後にあるエピソードとして、また、当時の社会状況や技術進化を象徴するエピソードとして語り継がれています。

TOKYO MX/YouTube
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東京五輪が開催され、高度成長の象徴としてノスタルジックに語られる1964年。しかし、その実態はどうだったのか。膨大な記録映像と史資料を読み解き、見えてきたのは、首都の「闇」。すなわち、いまも残る、この国の欠陥だった―。(「BOOK」データベースより)
「坂井義則」伝説の1964年聖火リレー最終走者 ── 東京オリンピック物語(17)

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