歴史的瞬間!アメリカ統治下の沖縄で聖火リレーが始まる ── 東京オリンピック物語(15)

この記事では、1964年の東京オリンピックの聖火リレーに焦点を当て、その歴史的なイベントの舞台となった沖縄での出来事に焦点を当てています。

聖火リレーの歴史は、太平洋戦争末期から始まり、1964年の東京オリンピックに至るまでの道のりをたどります。沖縄の特殊な状況や復帰前の軍政下での出来事、そして沖縄での聖火リレーの感動的なエピソードに焦点を当てています。宮城勇氏などのリレーランナーのエピソードや、聖火が沖縄を一周して九州へ向かう様子など、当時の熱気と感動、そして1964年の東京オリンピックの聖火リレーの魅力について紹介します。

アジアを照らす聖火!空輸されたオリンピックのシンボルと国旗 ── 東京オリンピック物語(14)
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東京五輪が開催され、高度成長の象徴としてノスタルジックに語られる1964年。しかし、その実態はどうだったのか。膨大な記録映像と史資料を読み解き、見えてきたのは、首都の「闇」。すなわち、いまも残る、この国の欠陥だった―。(「BOOK」データベースより)

1964 Olympic torch relay

東京にむけて聖火リレーがスタート

なんじょうデジタルアーカイブ/YouTube

1964年の東京オリンピックの聖火リレーは、非常に規模の大きなイベントでした。正走者1人、副走者2人、随走者20人以内の隊列が組まれ、各走者は1〜2キロメートルの距離を走りました。

参加者は胸にマークの入ったランニングシャツ(女子は半袖シャツ)、白パンツ、白い運動靴という服装規定に従って走りました。この統一された服装は、リレーの一体感を表現するためのものでした。

聖火リレーは、2日から9日までの間にすべての都道府県を巡回しました。この期間中、参加者の総数は10万713人にものぼりました。聖火は全国各地をめぐり、オリンピックの開会式で点火台に到着するまで、多くの人々の手から手へと渡されました。

この聖火リレーは、東京オリンピックの開催地である日本全国におけるオリンピックへの期待と興奮を高める大切なイベントでした。

米国施政権下の沖縄と日本の潜在主権

1964年の東京オリンピックへ向けた聖火リレーは、当時まだ米国施政権下にあった沖縄から始まりました。

当時の沖縄は米国施政権下にあり、厳密には「日本の国土」ではない状況でした。日の丸の自由な掲揚も許されていませんでした。しかし、東京オリンピックの開催が決まった直後から、沖縄側は聖火リレーを自地でも実施するよう、オリンピック東京大会組織委員会をはじめとする関係機関に強く働きかけました。

聖火リレーへの願い

沖縄は米国施政権下にあり、日本の「潜在主権」が認められるに過ぎないあいまいな地位にありました。しかし、1953年に沖縄体育協会が日本体育協会の支部として認可を受けていたことが、聖火リレー開催の大きな根拠となりました。

沖縄、聖火リレーの出発点

1962年7月4日、聖火リレー特別委員会は、国内聖火リレーは全都道府県をカバーし、走者は青少年になること、そして日本の最初の着陸地は沖縄になることを決定しました。この決定により、沖縄は聖火リレーのスタート地点としての役割を果たすこととなりました。

〈沖縄の歴史〉太平洋戦争末期から東京オリンピックへの道

東京オリンピックへ向けた聖火リレーが始まった沖縄は、戦争と占領の影響を深く受けた地域でした。その歴史は、1945年の太平洋戦争末期から始まり、1964年の東京オリンピックに至るまでの道のりに繋がります。

太平洋戦争末期と「ニミッツ布告」

1945年、太平洋戦争の末期、アメリカ軍は3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸しました。同時に、アメリカは「ニミッツ布告」を公布し、沖縄における日本の行政権と司法権の停止、そして占領の開始を宣言しました。上陸したアメリカ軍は、日本軍と地上戦を繰り広げ、多くの住民が犠牲となりました。生き残った住民の大半は、米軍が設置した民間人収容所に入れられました。

対日平和条約と日本の主権回復

1952年4月28日、対日平和条約が発効しました。この条約は、1951年9月8日に日本と連合国48カ国により調印され、サンフランシスコ会議で公布されました。サンフランシスコ平和条約、または対日講和条約とも呼ばれ、この条約は1952年4月28日に発効しました。この日により、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下から脱し、国際社会に復帰し主権を回復しました。

【沖縄の屈辱の日】アメリカ軍政下の経験と「琉球住民」の区別

Omaha World-Herald/YouTube

太平洋戦争の終結後、日本はサンフランシスコ条約の発効により独立を回復しましたが、その一方で沖縄は日本本土から切り離され、引き続きアメリカの軍政下に置かれることとなりました。これにより、沖縄は27年間、米施政権下にある状況が続きました。

基地移転と「琉球住民」の定義

この間、日本本土から沖縄への基地移転が進行しました。1952年7月、日本政府はアメリカ民政府との連絡を担当するため、那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置しました。しかし、南連は沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していました。この区別は、南連の沖縄政策に影響を及ぼし、”日本人”は保護の対象とされる一方で、「琉球住民」は対象外とされました。

「屈辱の日」サンフランシスコ講和条約発効

サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日は、沖縄県民にとって「屈辱の日」とされています。これは、日本が主権を回復した一方で、沖縄が引き続きアメリカの軍政下に置かれたこと、そして「琉球住民」としての区別が生じたことによるものです。

沖縄の「キャラウェイ旋風」と聖火リレー

1961年、ポール・キャラウェイが沖縄の第3代高等弁務官として任命され、復帰前の沖縄の最高責任者として、1961年から1964年まで在任しました。陸軍中将だった彼は、琉球政府を信用せず、親米派を重用する一方、沖縄の自治権を「神話だ」と評するなど、強硬な立場を示しました。キャラウェイの沖縄経済改革と民衆を縛り付ける施政、本土復帰運動の弾圧は、「キャラウェイ旋風」と名付けられ、沖縄のメディアによってその猛威が伝えられました。

沖縄の反発と聖火リレー

キャラウェイの施政に対して、沖縄の住民は激しく反発しました。これは祖国日本への復帰熱を一気に高まらせる結果となりました。その混乱に対して米本国は恐怖を感じ、キャラウェイは1964年7月末に解任されました。そしてその約1ヶ月後、聖火が那覇空港に到着することになります。

「日の丸を掲げる」沖縄における挑戦と許容

聖火リレーの日に向けて、沖縄県のリーダーシップはその地で日の丸を掲揚する許可を求めました。当時、アメリカ軍統治下にあった沖縄では、祝祭日以外に日の丸を掲げることは禁じられていました。しかし、聖火リレーの日だけは例外とされ、日の丸を掲げることをアメリカ軍も黙認しました。

この過程でのやりとりが後に沖縄県知事となる屋良朝苗の回顧録に記されています。彼が当時の琉球列島米国民政府高等弁務官、ドナルド・ブースに日の丸掲揚の許可を求めた際、ブースは「国旗は行政権のシンボルだ。星条旗を立てさせてよいのだが、それをしないのはせめてもの慈悲だ」と反論したとされます。

しかしながら、屋良は強く反論しました。「日の丸は民族のシンボルだ。沖縄には日本の潜在主権があるのだから立てても良いはずだ」と。

予定より1日遅れで聖火が沖縄に到着!

1964年の東京オリンピックにおいて、ギリシャのオリンピアで採火された聖火が、1964年年の9月7日に那覇空港に到着しました。

「オリンピック東京大会聖火沖縄リレー式典要項」によれば、聖火は当初、1964年9月6日に台北から那覇空港に到着し、那覇空港から奥武山競技場へとリレーされる予定でした。しかし、台風の影響で聖火の到着が1日遅れ、9月7日となりました。

遅れにもかかわらず、当時、まだ米国統治下にあった沖縄の人々は、日の丸の小旗を手に、聖火を熱烈に歓迎しました。当時の毎日新聞によれば、「歓迎の人波十五万」と報じられ、その規模の大きさがうかがえます。

沖縄で聖火を待っていた東京オリンピック組織委員会の与謝野秀事務総長は、聖火の到着について「沖縄は日本の国土であるから、聖火の日本最初の上陸地点である。と同時に、また本土とまったく同じというわけにもいかないので、外国コースの終着点でもある」とコメントしました。

これは、沖縄がアメリカの統治下にあった事実と、それでもなお日本の一部であるという両面性を認める言葉でした。聖火の到着は、沖縄の人々にとって大きな希望となり、国際社会に向けて自身たちの存在を示す象徴的な瞬間となったのです。

予定変更とその反対

この1日の遅れにより、五輪組織委員会は沖縄でのリレー日程を短縮しようとしましたが、その提案は沖縄での聖火リレー実行委員長を務めていた当間重剛氏から猛反対を受けました。当間氏は、当時琉球政府行政主席を退いていたが、組織委員会の提案に対して彼は「本土での予定を遅らせることはできない」との理由を挙げて反論しました。

沖縄の喜び!!

聖火の到着を祝う盛大な式典が沖縄で行われました。この瞬間、沖縄は「あたかも日本に『復帰』したかのような喜びにわきかえった」と報道され、その喜びは深く感じられました。米軍の支配という重苦しい状況を忘れ、祝祭的な時間が沖縄全体を包み込みました。

「本土並みの社会や生活の到来を願う声」全国最初の走者・宮城勇

1964年の東京オリンピックで、全国最初の聖火ランナーを務めた沖縄国際大名誉教授の宮城勇は、当時の大歓声を「本土並みの社会や生活の到来を願う声だった」と回顧しています。彼はその時、琉球大学の教育学部4年生で、体育教師を目指していました。

宮城さんにとって、この大役が舞い降りたのは、1964年6月のことでした。彼には突如として新聞社から「聖火ランナーに内定した」という知らせが入り、翌日の新聞にその事が紹介されました。選ばれた理由についてははっきりとは分かっていないが、選考委員であった教授からの推薦があったと推測されています。

第1走者の道のり

第1走者としての彼の役割は、那覇空港からの1・7キロを走ることでした。その道のりを何度も繰り返し練習し、予定時間である9分で走ることができました。その大役は短い距離であったにせよ、沖縄、そして日本全国の人々からの期待と祈りを背負った重大な任務でした。

「間違いなく人生最高のイベントだった」聖火リレーのスタートを振り返る

1964年9月7日の朝、聖火が到着する日。那覇市内の中学校で教育実習を終えた宮城勇は、生徒からの声援を背に開始地点の那覇空港へ向かいました。那覇空港で、彼はともされたばかりの聖火を受け取りました。

人であふれる那覇空港と4万観衆からの声援

空港は人々であふれ、万歳三唱が湧き起こるなか、宮城は「頭のてっぺんから足の先まで緊張した」と語っています。午後0時40分、那覇飛行場から第一走者として彼が第一歩を踏み出した瞬間、青空に勢いよく立ち上る白煙とともに、オレンジ色の炎が沿道で歓喜にわく観衆に向かって燃え続けました。

那覇市街に向け、彼はゆっくりと走り始めました。沿道に押し寄せた観衆がコースにはみ出たため、スピードを緩めたり、止まったりすることもありました。しかし、人々の興奮に包まれた中で、1.7キロを走った体験は「間違いなく人生最高のイベントだった」と彼は語っています。

彼が聖火を持って20分後に奥武山陸上競技場に着くと、4万観衆から拍手と声援がわき、日の丸が激しく揚げられました。全身で誇りを感じながら駆けた10分間の記憶は今も鮮明に彼の脳裏に刻まれているといいます。

沖縄での「記念すべき一夜」とその後のルート

奥武山陸上競技場でも式典と共に、壮大なエキシビションが行われました。聖火は午後9時まで聖火台で燃え続け、その後は安全灯に移されて琉球政府庁舎内の主席室で、沖縄での最初の夜を過ごしました。

翌日、9月8日に聖火は那覇から南部を巡り、現在の名護市の嘉陽まで北上しました。その地で盛大な式典の後、再び聖火は一泊しました。

沖縄県公文書館の記録によれば、聖火はその後、本島内を巡りながら再び那覇に到着しました。この間、正走者、副走者、随走者を合わせた約3400人が参加したとされています。

聖火は「平和の使者」と呼ばれた

聖火は、「平和の使者」とされ、住民の間で大きな感慨と喜びを引き起こしました。

特に、太平洋戦争の激戦地だった沖縄本島南部の沿道には、遺影を抱きしめた人々がランナーに手を合わせるという深い感動の場面が見られました。また、島全体を巡る聖火リレーの沿道は、喜びに満ちた島民で埋め尽くされました。聖火は、日の丸の旗とともに感極まった声で迎えられ、その象徴性は沖縄の人々に深い印象を与えました。

沖縄の聖火リレーと“聖火号”の旅

1964年東京オリンピックの聖火リレーは、沖縄では9月7日に始まりました。しかしリレーが完全に終了する前の9月9日の朝、特別に名付けられた“聖火号”という飛行機は既に沖縄を飛び立ち、鹿児島と宮崎を経由して北海道千歳に向かっていました。

1964年東京オリンピックの聖火リレーは、沖縄では9月7日に始まりました。しかしリレーが完全に終了する前の9月9日の朝、特別に名付けられた“聖火号”という飛行機は既に沖縄を飛び立ち、鹿児島と宮崎を経由して北海道千歳に向かっていました。

聖火の旅路は沖縄から九州へ

沖縄に残された聖火は、9日に予定通りに塩屋から西海岸に回り、普天間から浦添、西原、首里を抜けて再び那覇に戻りました。そして、聖火が247.1㎞の沖縄島一周を終え、九州での合火に向けて那覇空港を飛び立ったのは、11日午後3時50分でした。

永遠に記憶に刻まれたフライト

全日空のキャビンアテンダント(CA)として聖火輸送特別機に乗り込み、機内サービスを担当していた白木洋子は、「聖火が機内前方の安全装置台に置かれた姿を覚えている。聖火が消えないか、みんな心配していた」と語ります。白木さんが7年近くCAとして空を飛んだ中で、このフライトは「一番、記憶に残ったフライト」と話しています。この旅路は、1964年東京オリンピックの一部として、参加者だけでなく、見守ったすべての人々にとって、忘れられない体験となったのでしょう。

「4つのコースに分かれ東京を目指」聖火リレーの広大なルートと参加者

1964年の東京オリンピックでは、聖火リレーは鹿児島(第1コース)、宮崎(第2コース)と千歳(第3、第4コース)の3つの地点から始まりました。このリレーは日本全国を縦断し、多くの地域を結びつける象徴となりました。

コース紹介
  • 第1コース:鹿児島から始まり、九州の西部を北上し、中国地方の日本海側を進み、北陸地方を経て新潟から長野を抜け、山梨を経て神奈川から東京に至るルート。
  • 第2コース:宮崎から始まり、九州の東側を北上し、四国を周り、岡山へ進む。兵庫から近畿地方、東海地方を経て神奈川から東京に至るルート。
  • 第3コース:札幌からスタートし、渡島半島を下り、函館から津軽海峡を渡り、青森県庁で第4コースに聖火を分けた後、日本海側を下り、新潟から群馬、埼玉を経て東京に至るルート。
  • 第4コース:青森県庁で分火された聖火が、東北の太平洋側から栃木、茨城、千葉を経て東京に至るルート。

これらの4つのコースで、聖火リレーの空輸総距離は2,692km、地上リレーの総距離は6,755km(リレー総区間4,374区間)に及びました。参加したリレー走者の数はなんと10万713名。これはオリンピックの聖火リレー史上、最大の参加者数となっています。

この聖火リレーは、日本全国の人々をつなげ、東京オリンピックの開催を国内外に広く知らしめる象徴的なイベントでした。

【第1コース】鹿児島から東京へ

1964年東京オリンピックの聖火リレーは、日本各地で大勢の市民に迎えられました。特に印象的だったのは第1コースで、鹿児島から東京までのリレーの経路です。

Kagoshima
9月9日(水):沖縄から鹿児島へ

9月9日、沖縄を飛び立った国産機のYS-11「聖火号」が鹿児島空港に着陸しました。鹿児島市の鴨池にあった当時の空港には、各界代表やスポーツ団体の代表、児童代表ら約6000人が出迎え、歓迎式が行われました。

9月9日(水):聖火リレーのスタート

聖火は当時の鹿児島県知事、寺園勝志氏に手渡され、その後、陸上選手の第一走者に手渡され、県庁までのリレーが始まりました。聖火が鹿児島県庁に到着したのは9時39分で、その日は聖火は県庁で一夜を過ごしました。

9月10日(木):聖火リレーが北上

1964年9月10日、県庁を出発した聖火は、国道3号を北上し、東京へ向けて走り始めました。沿道には、伝統芸能や大漁旗など地方色が色濃く反映されたものが溢れていました。

第1コースの全ルート

聖火リレーは、鹿児島→熊本→長崎→佐賀→福岡→山口→広島→島根→鳥取→兵庫→京都→福井→石川→富山→新潟→長野→山梨→神奈川→東京と、日本全国を巡りました。

熊本で沖縄の聖火が到着!一つに合わさる!

沖縄に残った聖火は、沖縄本島の西側を南下して那覇市に戻り、その後空路で運ばれ、すでに熊本県を走っていた第1コースの聖火に合火しました。

【第2コース】宮崎から東京へ

東京オリンピックの聖火リレー第2コースは、宮崎県から始まり、東京まで全国を縦断しました。これは、選手たちの精神を高め、日本全国の人々を結びつけるための象徴的なイベントでした。

Miyazaki, Miyazaki
9月9日(水):宮崎県到着

沖縄から宮崎県に到着した聖火は、ファンファーレとともに歓迎され、多くの人々に迎えられました。聖火は宮崎空港から県庁前の楠並木通や橘通を経由し、宮崎神宮に向かいました。沿道では約15万人の県民が聖火を歓迎しました。

9月9日(水):宮崎神宮での祈願

宮崎神宮では、聖火が東京へ無事に到着することを願う祈願式が行われました。その夜、聖火は平和台公園に到着し、設置された聖火台に点火されました。

9月9日(水)~10日(木):聖火リレーが北上

その後、聖火は国道10号線を通って延岡市役所までリレーされ、翌11日には大分県へと引き継がれました。最終的に、聖火は県内で133.6km、96区間を、各市町村から選ばれた2,196人のランナーによりリレーされました。第2コースでは、台風接近のため、火を安全灯に収めて車で輸送されることもありました。

第2コースの全ルート

聖火リレーは、宮崎→大分→愛媛→高知→徳島→香川→岡山→兵庫→大阪→和歌山→奈良→京都→滋賀→三重→岐阜→愛知→静岡→神奈川→東京と、日本全国を縦断しました。

「平和の塔」 変遷と象徴の融合

平和の塔は、昭和15年の「紀元2,600年記念事業」の一部として、神武天皇の即位から2,600年を祝うために建設されました。その設計は、日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏のエンブレムをデザインした彫刻家、故日名子実三さんによるものでした。彼の塔は高さ36.4メートルで、当時の日本で最も高い石塔でした。

その塔は、「八紘一宇」という言葉を刻んでいました。これは、「世界を一つの国にする」という意味で、戦意高揚の象徴とされていました。塔の台座には、国内外から集められた石が使われ、昭和44年には、そのデザインが十銭紙幣に採用されました。

しかし、戦後の昭和21年には、GHQの指示により、国家神道、軍国主義、過激な国家主義から切り離すことができないとの理由で、「八紘一宇」の碑文と、荒御魂の像が塔から撤去されました。そして昭和32年には、その名前も「平和の塔」に改められました。

しかし、昭和40年には、「八紘一宇」の文字が復元されました。終戦後、GHQは塔の取り壊しを検討しましたが、県などが塔を「芸術品」と主張し、碑文を削除するなどの条件を満たすことで、その破壊を回避することができました。

りんごかりん/YouTube
【第3・第4コース】北海道から東京へ

東京オリンピックの聖火リレー第3コースと第4コースは、北海道から始まり、東京まで全国を縦断しました。これは、選手たちの精神を高め、日本全国の人々を結びつけるための象徴的なイベントでした。

New Chitose Airport Terminal.
9月9日(水):北海道に到着

那覇空港から3つに分かれた聖火は、1964年9月9日、千歳空港に到着しました。北から東京を目指す第3コースと第4コースの出発地点となった千歳空港では、盛大な歓迎式典が行われました。

9月9日(水)~17日(木):北海道での聖火リレー

札幌、小樽、長万部、函館などを経由して、聖火は大自然の中を8日間かけて繋がれました。総距離341.2キロは、47都道府県中で最長距離となりました。

9月17日(木):津軽丸による青森県への聖火の渡送

聖火は、当時最新鋭の青函連絡船・津軽丸に乗り、海上自衛隊の駆逐艦に護衛されながら青森県へと渡りました。この洋上での聖火の引き継ぎは、オリンピック史上初となりました。

青函連絡船
9月17日(木):青森県での聖火リレー

青森県の第一走者へと引き継がれた聖火は、津軽丸が青森港に入ると、花火とブラスバンドの演奏により歓迎されました。その後、市内1.2キロを移動し、青森県庁で二泊しました。そして、ここから、日本海側を回る第3コースと、太平洋側を回る第4コースに分かれて、東京を目指しました。

View of Aomori City from ASPAM (Aomori Pref. Tourist Information Center)
第3コースの全ルート

第3コースは、北海道→青森→秋田→山形→新潟→群馬→埼玉→東京と、日本海側を縦断しました。

第4コースの全ルート

第4コースは北海道→青森→岩手→宮城→福島→栃木→茨城→千葉→東京と、太平洋側を縦断しました。

ついに東京に聖火が到着!

1964年10月7日、全国を縦断した四つの聖火が東京に到着し、都市全体がその到着を祝いました。この興奮と祝福は、日本が世界のスポーツの舞台で新たな時代を切り開いているという事実を象徴していました。

聖火リレーの四つのコースが交差!ビル街が拍手とファンファーレで鳴り響く

最初に東京に入ったのは第4コースの聖火で、千葉県から新市川橋を通り、江戸川区に11時に入りました。その30分後、第3コースの聖火が埼玉県から戸田橋を渡り、板橋区に入りました。午後1時過ぎ、両コースの聖火は、当時、千代田区丸の内にあった東京都庁に到着しました。

その後、翌8日に第2コースの聖火が神奈川県の川崎市から大田区に、そして同じ8日に第1コースの聖火が神奈川県相模原市から八王子市に入り、武蔵野市で一泊した後、翌9日に東京都庁に到着しました。この四つの聖火は開幕までの間、東京都庁舎内で保管されました。

新聞は「ビル街、拍手のアラシ」「高らかにファンファーレ」などの見出しを飾り、都市全体が一つになってこの壮大な瞬間を祝いました。

Kazunobu TSUJIKAWA/YouTube

開幕式へ…。 聖火の集結と点火

そしてついに10月10日、聖火は九日夕方、皇居前広場で行われる集火式で一つにまとめられました。そして次の日、晴れた開会式で、結集したこの聖火が新国立競技場で高らかに点火され、第十八回オリンピック東京大会が華麗に開幕しました。これは、アジア初のオリンピックであり、規模も史上最大と言われていた1964年東京オリンピックの開幕を祝う瞬間でした。

知られざるもう一つの聖火リレー

東京オリンピックの聖火リレーが大団円を迎えた後、もう一つの知られざる聖火リレーが続けられました。その事実は広く知られていないかもしれません。開会式の翌日、10月11日、国立競技場の聖火台から分火された聖火は、特別な任務が待ち受けていました。

この分火された聖火はヘリコプターで神奈川県藤沢市の相模工業学園(現在の湘南工科大学)のグラウンドへと運ばれました。ここから、ヨット会場となる江ノ島までの約5.5キロを、5人の勇者たちが引き継いで走りました。しかし、残念ながらこの特別な分火リレーのランナーたちの名前は記録されていませんでした。

海への炎と聖火の最終地点

同日5時30分、国立競技場から分火された聖火が夜空を照らし、最終目的地である江ノ島に到着しました。聖火は船で運ばれ、内山知事の点火宣言と共にパッと燃え上がりました。その炎は海に映え、倒的な美しさを放っていました。

こうして、この特別な聖火リレーは完成し、その火は海上の競技場を照らし続けました。東京オリンピックの聖火は、一つの場所だけでなく、全ての競技会場で熱を持ち続け、選手たちの力となりました。

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