
東京オリンピック物語(15)──アメリカ統治下の沖縄から聖火リレーは始まった
1964 Olympic torch relay
東京にむけて聖火リレーがスタート
実施要項によると,リレー隊は1区間ごとに正走者1名,副走者2名,随走者20名以内で構成され,1~2㎞の距離を,胸にマークの入ったランニングシャツ(女子は半袖シャツ),白パンツ,白運動靴という規定の服装で走りました。
東京オリンピック聖火リレー/山口県文書館
聖火はすべての都道府県を回り、リレー参加者は計10万713人にのぼった。
「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる/現代ビジネス | 講談社.2017
各都道府県に割り当てられた日数は、2~9日間。
聖火リレー豆知識、1964年との違いは?/読売新聞オンライン.2021
1964年は正走者1人、副走者2人、随走者20人以内が隊列となり、集団でリレーを行った。
聖火リレー豆知識、1964年との違いは?/読売新聞オンライン.2021
アメリカの統治下の沖縄に聖火を!
当時の沖縄はまだ、米国施政権下にある。厳密には「日本の国土」ではない。日の丸の自由掲揚も許されてはいなかった。
【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(19)聖火は沖縄から走り始めた/産経ニュース.2015
東京オリンピック開催が決まった直後から、沖縄側は聖火リレーを沖縄でも実施するよう、オリンピック東京大会組織委員会をはじめとする関係機関に強く働きかけていた。沖縄は米国施政権下にあり、日本の「潜在主権」が認められるに過ぎないあいまいな領域だったが、沖縄体育協会が1953年に日本体育協会の支部として承認を受けていたことが大きな根拠となって、1962年7月4日、聖火リレー特別委員会は、国内聖火リレーは全都道府県をカバーすること、走者は青少年で、日本の最初の着陸地は沖縄とすることを決定した。
オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ― 1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって/豊見山和美
アメリカ統治下の沖縄
太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍は3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸すると同時に、沖縄における日本の行政権と司法権の停止、そして占領の開始を宣言する「ニミッツ布告」を公布しました。上陸したアメリカ軍は、日本軍と地上戦を繰り広げ、多くの住民がその犠牲となりました。そして、生き残った住民のほとんどは、米軍が各地に設置した民間人収容所に入れられました。
アメリカ統治下の自治のありさま/琉球政府の時代
日本が主権を回復!
1952(昭和27)年4月28日、「対日平和条約」が発効しました。この条約は、1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ会議において日本と連合国48カ国によって調印されました。
1952年4月28日 「対日平和条約」発効/沖縄県公文書館
サンフランシスコ平和条約、対日講和条約などとも呼ばれ、この条約は52年4月28日に発効しました。この日をもって、日本は連合国軍総司令部(GHQ)占領下から離れ、国際社会に復帰し主権を回復することになります。
【Q&A】サンフランシスコ平和条約 沖縄で「屈辱の日」と呼ばれる理由とは?/Yahoo! JAPAN
「屈辱の日」その日、沖縄は日本から切り離され、アメリカの統治下に
沖縄戦終結後、サンフランシスコ条約発効で日本が独立を回復する一方、沖縄は日本本土から切り離され、引き続きアメリカの軍政下におかれました。
沖縄戦と太平洋戦争/NHK 戦争証言アーカイブス
沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。
きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?/琉球新報デジタル.2016
日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙(じゅうりん)された。
きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?/琉球新報デジタル.2016
サンフランシスコ講和条約発効の1952年4月28日は、沖縄県民にとって「屈辱の日」とされています。
沖縄県民の「屈辱の日」記念撮影に米軍機が写り込む;本土復帰から半世紀も未だ米軍の面影消えず/Press Today.2021
キャラウェイ旋風
1961年(昭和36年)2月 第3代高等弁務官にキャラウェイ中将が就任する.
第3代高等弁務官にキャラウェイ中将が就任する/琉球政府の時代
ポール・キャラウェイ氏は復帰前の沖縄の最高責任者である第3代高等弁務官として、1961年~1964年に沖縄に在任しました。陸軍中将だったキャラウェイ氏は、琉球政府のことは信用せず、数少ない親米派を重用しました。沖縄の自治権を「神話だ」と評した発言が残り、今も沖縄では批判的なトーンで語られています。
沖縄人が嫌う男、キャラウェイ氏とは? 翁長知事の発言で注目/withnews.2015
キャラウェイ高等弁務官は、沖縄経済の改革に尽力したが、布令を何度も発令して民衆を縛り付け、本土復帰運動をも弾圧した施政を展開。沖縄のメディアはその猛威をキャラウェイ旋風と名付けた。
サンマデモクラシー/第七藝術劇場
聖火の到着前に解任
これに住民らは激しく反発。祖国日本への復帰熱が一気に高まった。米本国は沖縄の混乱を恐れ、キャラウェイは39年7月末に解任される。その約1カ月後に那覇空港に到着したのが、聖火だった。
「新型コロナ克服の証に」 1964年東京五輪第1走者、聖火リレー号砲待つ/SankeiBiz.2021
ついに聖火が到着!まるで日本に復帰したかのような盛り上がり!
1964年の前回東京五輪。ギリシャのオリンピアで採火された聖火が同年9月7日、沖縄の那覇空港に到着した。米国統治下にあった沖縄の人たちは、日の丸の小旗を揺らして熱烈に聖火を歓迎。当時の毎日新聞は「歓迎の人波十五万」と伝える。
聖火が走ったまち1964-2020 沖縄(その1) 奥武山陸上競技場 「祖国」思い焦がし/毎日新聞.2019
聖火を沖縄で待っていた組織委員会の与謝野秀事務総長は「沖縄は日本の国土であるから、聖火の日本最初の上陸地点である。と同時に、また本土とまったく同じというわけにもいかないので、外国コースの終着点でもある」と述べました。
1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー/沖縄県公文書館
1964年の沖縄。9月7日 聖火を乗せた飛行機「シティ・オブ・トウキョウ」号が那覇空港に到着。大歓声によって迎えられた。
— ホリーニョ (@horinyo) November 19, 2019
このあと第一走者へとトーチが受け渡され、歓迎式典会場の奥武山陸上競技場へ向けてリレーが開始。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/HYD23w5cTy
1964年の沖縄。9月7日 東京オリンピックの聖火を乗せた飛行機が那覇空港に到着。
— ホリーニョ (@horinyo) November 21, 2019
歓迎のため空港に集まった大勢の人々。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/Yg8oTDsGlk
聖火歓迎式典
盛大な聖火歓迎式典が挙行され、「沖縄があたかも日本に『復帰』したかのような喜びにわきかえった」と報道されたように、重苦しい米軍支配を忘れる祝祭的時間が始まりました。
1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー/沖縄県公文書館
1964年の沖縄。9月7日正午、聖火を乗せた飛行機「シティ・オブ・トウキョウ」号が那覇空港に到着。聖火到着式典に集まった大勢の人々。
— ホリーニョ (@horinyo) November 18, 2019
東京オリンピックのためギリシャで採火された聖火は11ヵ国の中継地を経由し沖縄へ。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/ThWli0B1Sk
1964年の沖縄。9月7日 東京オリンピック聖火を乗せた飛行機が那覇空港に到着。歓迎のため空港近辺に集まった大勢の人々。
— ホリーニョ (@horinyo) November 21, 2019
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/MboxpsyK4k
沖縄本島を一周
式典に引き続き壮大なエキシビションが行われ、 午後9時まで聖火台で燃え続けた聖火 は、 安全灯に移されて琉球政府庁舎内の主席室で沖縄での最初の夜を過ごした。 翌8日、 聖火は那覇から南部を回って現名護市の嘉陽まで北上し、 盛大な式典のあとそこで一泊した。
オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ― 1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって(p.31)/豊見山和美
沖縄県公文書館によると、9月8日に那覇を出発した聖火は本島内を巡り、再び那覇に到着。正走者、副走者、随走者計約3400人が参加した。
【聖火リレー アラカルト】 64年は沖縄からスタート 米統治下、祖国復帰願い/47NEWS.2021
1964年の沖縄。9月8日 東京オリンピック聖火リレー。
— ホリーニョ (@horinyo) November 29, 2019
糸満摩文仁を走る聖火ランナーたち。
ここで戦死された方の遺児である金城安秀さんがランナーを務めた。
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1964年の沖縄。9月8日 東京オリンピック聖火リレー。
— ホリーニョ (@horinyo) December 5, 2019
名護市嘉陽。聖火宿泊碑前での歓迎式典。
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アメリカの統治下の中で振られた日の丸
当時、アメリカ軍統治下にあった沖縄では祝祭日以外の日の丸の掲揚は禁じられていました。しかしこの日だけは、聖火を日の丸で迎えることをアメリカ軍も黙認。
55年前の聖火ランナー 聖火に託した祖国復帰/QAB 琉球朝日放送.2019
後に沖縄県知事となる屋良朝苗氏は回顧録で、34年末に日の丸を認めるよう要請した際の思い出をつづっている。屋良氏に対し、琉球列島米国民政府高等弁務官のドナルド・ブース氏は「国旗は行政権のシンボルだ。星条旗を立てさせてよいのだが、それをしないのはせめてもの慈悲だ」と言い放った。これに対し、屋良氏は「日の丸は民族のシンボルだ。沖縄には日本の潜在主権があるのだから立てても良いはずだ」と反論したという。
【沖縄取材の現場から】再び想定外の聖火リレー/産経ニュース.2020
1964年の沖縄。9月8日 東京オリンピック聖火リレー。
— ホリーニョ (@horinyo) December 2, 2019
南城市佐敷。聖火を歓迎する人々。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/8MW60CgB2M
1964年の沖縄。9月8日 東京オリンピック聖火リレー。
— ホリーニョ (@horinyo) December 6, 2019
沖縄本島北部。沿道の人々。
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伝説の聖火リレー
沖縄は太平洋戦争末期、国内最大の地上戦で、住民約9万4千人を含む日米約20万人が犠牲になった。敗戦から19年。五輪の象徴で「平和の使者」である聖火リレーを迎えたことが、沖縄の人々を高揚させた。激戦地となった沖縄本島南部の沿道には、遺影を抱きしめた人がランナーに手を合わせたという。
九州・沖縄から世界つなぐ 聖火とホストタウン、熱い思い/西日本新聞me.2020
島内を一周する聖火リレーの沿道は、歓迎する島民で埋め尽くされ、聖火は日の丸の旗と感極まったバンザイの声で迎えられました。そして、これを機に沖縄が本土へ復帰する機運は一気に高まりました。
オリンピック・パラリンピックと日本 第Ⅲ章(p.73)/オリンピック・パラリンピック 学習読本 高等学校編
1964年の沖縄。9月9日 東京オリンピック聖火リレー。
— ホリーニョ (@horinyo) December 10, 2019
恩納村を走る聖火ランナー。
白黒写真を、人工知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/W08gUkEK2m
1964年の沖縄。9月8日 東京オリンピック聖火リレー。
— ホリーニョ (@horinyo) December 3, 2019
沖縄本島中部、中城村からコザ市へ向かう聖火を沿道から歓迎する人々。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/fS4IT6WrDK
日本初の聖火ランナー「宮城勇」
全国最初の走者を務めた沖縄国際大名誉教授の宮城勇さん(78)は、当時の大歓声を「本土並みの社会や生活の到来を願う声だった」と振り返る。
「復帰願う島民の声」 米統治下の聖火リレー―64年第1走者、再び沖縄駆ける/JIJI.COM.2021
琉球大教育学部4年で、体育教師を目指していた宮城さん。6月に「聖火ランナーに内定した」と新聞社に知らされ、翌日の紙面に紹介された。はっきりした理由は分からないが、選考委員だった教授の推薦があったとみられるという。
1964→2020聖火つなぐ 前回東京五輪の沖縄第1走者、再びリレー/女性自身.2020
第1走者は那覇空港からの1・7キロ。その道のりを繰り返し練習し、何度も予定時間の9分で走った。
1964→2020聖火つなぐ 前回東京五輪の沖縄第1走者、再びリレー/女性自身.2020
【9月7日】聖火リレーがスタート!
リレーがスタートした64年9月7日の朝。体育教師を目指す琉球大生だった宮城さんは、那覇市内の中学校で教育実習を終えた後、生徒からの声援を背に開始地点の那覇空港へ向かった。
「復帰願う島民の声」 米統治下の聖火リレー―64年第1走者、再び沖縄駆ける/JIJI.COM.2021
(前略)那覇空港で聖火がともされたトーチを受け取った。空港は立錐(りっすい)の余地もないほど人であふれ、観客から万歳三唱が湧き起こった。責任の重さから「頭のてっぺんから足の先まで緊張した」。
1964年に聖火をつないだ男性が再びリレーへ 78歳、「平和を願う人たちの思いを背負って走る」/沖縄タイムス+プラス.2021
那覇飛行場から第一走者・宮城勇が第一歩を踏みだしたのは午後0時40分。
【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(19)聖火は沖縄から走り始めた/産経ニュース.2015
オレンジ色の炎。青空に勢いよく立ち上る白煙。沿道で歓喜にわく観衆。全身で誇りを感じながら駆けた10分間は今も鮮明に脳裏に刻まれている。
九州・沖縄から世界つなぐ 聖火とホストタウン、熱い思い/西日本新聞me.2020
那覇市街に向け、ゆっくり走り始めた。沿道に押し寄せた観衆がコースにはみ出たため、スピードを緩めたり、止まったりすることも。人々の興奮に包まれた中、1・7キロを走った体験は「間違いなく人生最高のイベントだった」と言う。
1964年に聖火をつないだ男性が再びリレーへ 78歳、「平和を願う人たちの思いを背負って走る」/沖縄タイムス+プラス.2021
20分後、奥武山陸上競技場に着くと4万観衆から拍手と声援がわき、日の丸が激しくうち振られたという。
【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(19)聖火は沖縄から走り始めた/産経ニュース.2015
1964年の沖縄。9月7日 聖火を乗せた飛行機が那覇空港に到着。
— ホリーニョ (@horinyo) November 19, 2019
歓迎式典会場の奥武山陸上競技場へ向けてスタートを切る直前の聖火リレー第一走者の男性。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/AWsXDJu0O5
1964年の沖縄。
— ホリーニョ (@horinyo) November 24, 2019
9月7日 東京オリンピック聖火リレー。歓迎式典会場の奥武山陸上競技場を走る聖火ランナーたち。
白黒写真を、人口知能+手動補正でカラー化しました。#沖縄1964聖火リレー pic.twitter.com/yDzy3JulMV
台風の影響で遅れて到着
「オリンピック東京大会聖火沖縄リレー式典要項」によると、聖火は、9月6日に台北から那覇空港に到着し、那覇空港から奥武山競技場へとリレーされることになっていました。
1964年(昭和39年)/琉球政府の時代
しかし、台風の影響で、沖縄への聖火の到着は、1日遅れの9月7日となりました。
1964年(昭和39年)/琉球政府の時代
聖火は1日遅れで沖縄に到着することになったが、五輪組織委員会は「本土での予定を遅らせることはできない」として、沖縄での日程を短縮しようとした。当時、琉球政府行政主席を退いていた当間重剛氏は、回顧録で、日程変更に猛反対したと書き残している。当間氏は沖縄での聖火リレー実行委員長を務めていた。
【沖縄取材の現場から】再び想定外の聖火リレー/産経ニュース.2020
沖縄の聖火リレーが終わる前に3つの都道府県に空輸
沖縄での聖火リレーは、7日にスタートしましたが、終了を待たず、9日朝には、“聖火号”と名付けられた飛行機が沖縄を飛び立ち、鹿児島、宮崎を経由し北海道千歳に向かっています。
Vol.270-1 記憶を記録する~昭和39年東京五輪 聖火リレー物語~/公益財団法人 山梨総合研究所.2021
(前略)沖縄に残された方の聖火は、 9日、 予定どおりに塩屋から西海岸に回り、 普天間から浦添、 西原、 首里を抜けて再び那覇に戻った。 聖火が247.1㎞の沖縄島一周を 終え、 九州での合火に向けて那覇空港を飛び立ったのは、 11日午後3時50分のことだった。
オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ― 1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって(p.31)/豊見山和美
全日空キャビンアテンダント(CA)として聖火輸送特別機に乗り、機内サービスなどを担った白木洋子さん(79)=兵庫県西宮市=は、聖火が機内前方の安全装置台に置かれた姿を覚えている。「聖火が消えないか、みんな心配していた」。7年弱、CAとして空を飛んで「一番、記憶に残ったフライト」と話す。
YS11開発時のエンジン搭載機が引退へ 前回東京五輪で聖火運搬の機体と同型/東京新聞 TOKYO Web.2021
4つのコースに分かれそれぞれが東京を目指す!
そして、この鹿児島(第1コース)、宮崎(第2コース=鹿児島から空路で運ばれ出発)、千歳(第3、第4コース)の3カ所が聖火リレーの起点となっています。
Vol.270-1 記憶を記録する~昭和39年東京五輪 聖火リレー物語~/公益財団法人 山梨総合研究所.2021
第1コースは鹿児島から九州西部を北上し、中国地方の日本海側を進み北陸地方を通って新潟から長野を 抜け山梨を経て、神奈川から東京に入るルートで、第2コースは宮崎から九州東側を北上し、四国をまわり 岡山へ、兵庫から近畿地方、東海地方を経て神奈川か ら東京に入るルート。第3コースは札幌から渡島半島 を下り、函館から津軽海峡を渡り、青森県庁で第4コー スに聖火を分火した後、日本海側を下り新潟から群馬、 埼玉を経て東京に入るルート。第4コースは青森県庁で分火された聖火で、東北の太平洋側から栃木、茨城、 千葉を経て東京に入るルートである。
神奈川県立歴史博物館だよりVol.20 No.1(2014年6月)(p.2)/平成26年6月13日発行 通巻196号
4コースの空輸総距離は2,692km、地上リレー総距離6,755km(リレー総区間4,374区間)、参加リレー走者は10万713名。これはオリンピックの聖火リレー史上、最大の人数である。
聖火リレー/東京オリンピック・パラリンピックガイド – Yahoo! JAPAN
【第1コース】鹿児島

第1コース 9月9日(水)~10月9日(金)
第96回 文化財めぐり/葛飾区郷土と天文の博物館
鹿児島→熊本→長崎→佐賀→福岡→山口→広島→島根→鳥取→兵庫→京都→福井→石川
→富山→新潟→長野→山梨→神奈川→東京
沖縄を飛び立った国産機のYS11「聖火号」は9月9日朝、当時まだ鹿児島市の鴨池にあった鹿児島空港に着陸。
【写真アーカイブ鹿児島】1964東京五輪 聖火リレー(1)到着/南日本新聞 – 鹿児島の情報サイト | 373news.com.2021
空港には鹿児島県の各界代表やスポーツ団体の代表、さらには児童代表ら約6000人が出迎え、歓迎式が行われた。
2020年11月(阿久根聖火台)/鹿児島商工会議所
南日本新聞夕刊1面は「聖火 しっかりと県民の手に/本土コースへ第一歩」の大見出しで伝えた。「十九年前、鹿屋、知覧とともに最後の特攻基地として戦火にあった鹿児島空港は、いま民族の“平和の火”をがっちりと受けとめたのだ」とのくだりもある。
【写真アーカイブ鹿児島】1964東京五輪 聖火リレー(1)到着/南日本新聞 – 鹿児島の情報サイト | 373news.com.2021
鹿児島県庁から東京へ!
聖火を受け取ったのは当時の知事である寺園勝志氏で、その後、陸上選手の第一走者に手渡されて県庁まで走り始めた。こうして鹿児島県庁に聖火が到着したのは9時39分のことであった。この日は、聖火は鹿児島県庁で一夜を過ごす。
2020年11月(阿久根聖火台)/鹿児島商工会議所
1964(昭和39)年9月10日、県庁を出発した聖火は東京へ向け国道3号を北上した。
【写真アーカイブ鹿児島】1964東京五輪 聖火リレー(4)国道3号北上/南日本新聞 – 鹿児島の情報サイト | 373news.com.2021
沿道で見守ったのは、日の丸の小旗にとどまらず、伝統芸能、大漁旗など地方色が色濃く反映されたものばかり。翌11日の南日本新聞朝刊は「太平橋を渡ると聖火は川内名物『大綱』に迎えられた。(中略)『聖火リレーがこの綱のように太くたくましく続け』という川内市民の願いが込められているという」と伝えている。
【写真アーカイブ鹿児島】1964東京五輪 聖火リレー(4)国道3号北上/南日本新聞 – 鹿児島の情報サイト | 373news.com.2021
当時、特別機を飛ばし街の様子を上空から取材した南日本新聞は、「聖火コースをうめつくした25万人もの人の波」と表現。知事室に入る聖火をひと目見ようと、県庁前の広場は日の丸を持った人々で埋め尽くされた。
【写真アーカイブ鹿児島】1964年東京五輪 聖火リレー(3)西駅前、天文館/南日本新聞 – 鹿児島の情報サイト | 373news.com.2021
途中、沖縄で聖火リレー中だった聖火が合流
沖縄に残った聖火は沖縄本島の西側を南下して那覇市に戻ったのち空路で運ばれて、すでに熊本県を走っていた第1コースの聖火に合流しました
沖縄県 | 聖火リレー1964 再現プロジェクト/NHK
【第2コース】宮崎

第2コース 9月9日(水)~10月8日(木)
第96回 文化財めぐり/葛飾区郷土と天文の博物館
宮崎→大分→愛媛→高知→徳島→香川→岡山→兵庫→大阪→和歌山→奈良→京都→滋賀
→三重→岐阜→愛知→静岡→神奈川→ 東京
9月9日に本県に到着した聖火は、ファンファーレが高らかに鳴り響き、多くの人に歓迎される中、宮崎空港から県庁前の楠並木通や橘通などを経由して、宮崎神宮へと向かいました。その際、沿道では約15万人もの県民が聖火を歓迎したと記録されています。
オリンピック聖火リレー 県内ルート/宮崎県
宮崎神宮では、聖火が東京へ無事到着するよう安全祈願式典が行われ、その夜、平和台公園へと到着し、設置された聖火台に点火されました。
オリンピック聖火リレー 県内ルート/宮崎県
平和の塔から東京へ!
1964年の東京オリンピックでは平和の塔が聖火リレーの第2スタート地点となった。
平和台/宮崎市観光協会
その後、聖火は国道10号線を通って延岡市役所までリレーされ、翌11日には大分県へ引き継がれました。
オリンピック聖火リレー 県内ルート/宮崎県
最終的に聖火は県内で133.6km、96区間を各市町村から選ばれた2,196人のランナーによりリレーされました。
オリンピック聖火リレー 県内ルート/宮崎県
第2コースでは神戸から大阪に向かう途中で、台風接近のため火を安全灯に収めて車で輸送した。
聖火リレー – 東京オリンピック/北國新聞
平和の塔って?
平和の塔は、「日本書紀」に記されている神武天皇の即位から2,600年に当たる昭和15年に「紀元2,600年記念事業」の一つとして建設されました。
県立平和台公園「平和の塔」内部公開のお知らせ/宮崎県.2019
設計は、日本サッカー協会のシンボルマークに採用された八咫烏(やたがらす)のエンブレムをデザインしたことで知られる大分県臼杵市出身の彫刻家、故日名子実三(1893~1945)さん。
「八紘一宇の塔」歴史学ぼう 内部レリーフも公開 15日、宮崎市で見学会/西日本新聞.2018
高さ36・4メートルは、石塔としては当時日本一。「世界を一つの国にする」を意味する「八紘一宇」の文字が刻まれ、戦意高揚の象徴とされた。塔の台座には、県内、国内をはじめ中国や朝鮮、台湾など集めた石も使われ、44年に発行された十銭紙幣の表デザインに採用された。
「八紘一宇の塔」歴史学ぼう 内部レリーフも公開 15日、宮崎市で見学会/西日本新聞.2018
GHQの影響
昭和21年、GHQの命で、国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離すことができないという理由から「八紘一宇」の碑文と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去され、昭和32年、「平和の塔」に改称されましたが、昭和40年に「八紘一宇」の文字が復元されています。
平和台公園・平和の塔/ニッポン旅マガジン
しかし終戦後、「八紘一宇」の4文字は削り取られた。GHQ側は塔そのものの取り壊しを検討したものの、県などが「芸術品」と主張して交渉し、この言葉を取り除くことなどを条件に破壊を免れたとされる。
宮崎市の「八紘一宇の塔」は、現在「平和の塔」と呼ばれている/Jタウンネット.2015
“君が代”だけじゃなかった!!?GHQにより封印された第2の国歌「海ゆかば」
【第3コース】千歳

第3コース 9月9日(水)~10月7日(水)
第96回 文化財めぐり/葛飾区郷土と天文の博物館
北海道 →青森→秋田→山形→新潟→群馬→埼玉→ 東京
那覇空港から3つに分かれた聖火は、1964年9月9日、千歳空港に到着しました。
北海道 | 聖火リレー1964 再現プロジェクト/NHK
北から東京を目指す第3、第4コースの出発地点となった千歳空港では、盛大な歓迎式典が行われました。
北海道 | 聖火リレー1964 再現プロジェクト/NHK
1964年9月9日、千歳空港に到着した聖火は、札幌、小樽、長万部、函館など大自然の中を8日間かけて繋がれた。総距離341.2キロは47都道府県中で最長距離となった。
【アーカイブ】1964年の聖火ランナー全掲載 北海道編 聖火は大自然を駆け抜けた後、五輪史上初の「海上輸送」/ベースボール・マガジン社: BBMスポーツ.2021
341.2キロを走り抜けた聖火は、9月17日午前9時、当時最新鋭の青函連絡船・津軽丸に乗り、海上自衛隊の駆逐艦に護衛されながら青森県へと渡ります。
北海道 | 聖火リレー1964 再現プロジェクト/NHK
史上初!船で上で聖火引き継いだ

青函連絡船は昭和39年の東京オリンピックで重要な役割を担っていました。というのは、北海道から青森へ聖火を運ぶことになったのです。しかも、聖火の引き継ぎを津軽海峡の連絡船上で行うことになりました。洋上での聖火の引き継ぎはオリンピック史上初であったといいます。
「あおもり歴史トリビア」第98号(2014年3月7日配信)/青森市公式ホームページ-Aomori City-.2015
9月17日、聖火は青函連絡船・津軽丸の上で北海道の最終走者・小沼選手(函館水産高校2年)から青森県の第一走者・小山内選手(市立第一高校〈現青森北高校〉3年)へと引き継がれました。そして、津軽丸が青森港に入ると花火が打ち上げられ、浦町中学校のブラスバンドが「聖火を迎えて」の演奏を行い、聖火を歓迎しました。
「あおもり歴史トリビア」第98号(2014年3月7日配信)/青森市公式ホームページ-Aomori City-.2015
【第4コース】青森

第4コース 9月9日(水)~10月7日(水)
第96回 文化財めぐり/葛飾区郷土と天文の博物館
北海道→青森→岩手→宮城→福島→栃木→茨城→千葉→東京
青森県庁から第3コースの聖火が二つに分かれ、それぞれ東京を目指す!
1964年9月17日、青函連絡船・津軽丸の船上で、北海道から引き継がれた聖火は、青森港の桟橋で大勢の観衆に迎えられ、市内1.2キロを移動し、青森県庁で二泊しました。そして、ここから、日本海側を回る第3コースと、太平洋側を回る第4コースに分かれて、東京を目指します。
青森県 | 聖火リレー1964 再現プロジェクト/NHK
ついに東京に聖火が到着!
4つの聖火の中で一番先に東京に入ったのは、第4コースの聖火。10月7日11時、千葉県から新市川橋を通って江戸川区に入りました。その30分後、第3コースの聖火は、埼玉県から戸田橋を渡り板橋区に入りました。2つの聖火は午後1時過ぎ、当時、千代田区丸の内にあった東京都庁に到着しました。
東京都 | 聖火リレー1964 再現プロジェクト/NHK 東京2020オリンピックサイト
翌8日に第2コースの聖火が神奈川県の川崎市から大田区に、同8日に第1コースの聖火が神奈川県相模原市から八王子市に入り武蔵野市で一泊。翌9日に東京都庁に到着した。
【アーカイブ】1964年の聖火ランナー全掲載 東京都編 4つの火が1つになり、坂井義則さんの手によって聖火台へ点火/ベースボール・マガジン社: BBMスポーツ.2021
到着した聖火は開幕までの間、都庁舎内で保管されていたという。
【詳報】トラブル続きの東京五輪、開幕の日 場外では「密」も抗議も/朝日新聞デジタル.2021
当時の新聞には「ビル街、拍手のアラシ」「高らかにファンファーレ」との見出しが躍る。記事には「ビルは窓も屋上も仕事を放り出したサラリーマンの顔、顔……。両側の歩道はほとんど交通止めになり、身動きもできない」と記され、沿道に集まった多くの市民の写真が紹介されている。
【詳報】トラブル続きの東京五輪、開幕の日 場外では「密」も抗議も/朝日新聞デジタル.2021
4つの聖火が1つに!
この日都庁の知事室に納められた聖火は、九日夕皇居前広場で行われる集火式で一つにまとめられ、翌十日晴れの開会式へ――こうして、昭和十一年のベルリン大会で誕生して以来、アジアでは初めての、しかも史上最大の規模といわれる今大会の聖火リレーも終り、第十八回オリンピック東京大会が、はなやかに幕を開ける。
聖火が東京に到着!/ことばマガジン:朝日新聞デジタル.2013
もう一つの聖火リレー
こうして東京都に受け継がれた聖火リレーは、ご存知の通り10月10日、国立競技場の聖火台へと点火されて大団円を迎えたわけだが、実はこの後、もう一つの聖火リレーが行なわれていた事実はあまり知られていない。
【アーカイブ】1964年の聖火ランナー全掲載 神奈川編 開会式後に行われたもう一つの聖火リレーの地/ベースボール・マガジン社: BBMスポーツ.2021
ヨット会場の江ノ島までを繋いだリレー
開会式の翌日である10月11日、国立競技場の聖火台から分火された聖火は、ヘリコプターによって神奈川県藤沢市の相模工業学園(現・湘南工科大学)のグラウンドに運ばれ、そこからヨット会場となった江ノ島までの約5.5キロを5人の聖火ランナーによってリレーが行なわれたのだ(小誌には残念ながらこの分火リレーの走者名簿は掲載されていなかった)。
【アーカイブ】1964年の聖火ランナー全掲載 神奈川編 開会式後に行われたもう一つの聖火リレーの地/ベースボール・マガジン社: BBMスポーツ.2021
同五時三十分、国立競技場から分火された聖火が夜空をこがしながら到着した。船で聖火台に運ばれ、内山知事さんの点火宣言でパッと燃え上がった火は海に映え美しかった。
村長日記(26) ナポリよりも江の島/カナロコ.2021
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