
東京オリンピック物語(14)──オリンピアの聖火を飛行機で空輸!!アジアを駆け抜けた聖火と日の丸
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Olympic flame for the 1964
ギリシャ・オリンピア遺跡で聖火が採火!いざ日本へ!!
開会式のおよそ2カ月前にあたる8月21日、東京オリンピックのための採火式がギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡で行なわれ、さらに古代オリンピアの競技場で安川組織委員会会長、高島文雄聖火空輸派遣団長らに聖火が引継がれた。
vol.1 開会式そして日本中を走った聖火リレー/JOC – 日本オリンピック委員会
聖火空輸特別機「シティ・オブ・トウキョウ」に聖火を乗せ日本へ出発!
翌22日には聖火リレーによりアテネに到着した聖火は、聖火空輸特別機“シティ・オブ・トウキョウ”号(日本航空/コンベア880M型ジェット)により、一路東京を目指すこととなった。
vol.1 開会式そして日本中を走った聖火リレー/JOC – 日本オリンピック委員会
「厳重に保管された聖火」
採火された聖火はランタンに似た形状の聖火灯と呼ばれる容器に収められ、機内客室中央部の「聖火台」に置かれた。
オリパラこぼれ話 1964年東京オリンピックの聖火 アジア国内をリレー/毎日新聞.2020
機内に特設された「聖火台」に、予備も合わせて3つの火が灯され、筒状の装置の中で厳重に保管された。
1964年東京五輪聖火リレー秘話 米統治下の沖縄「日の丸で埋まった」/産経ニュース.2019
佐藤卓三(フライトエンジニア):
佐藤さんはフライトエンジニアとしてエンジンに送る燃料のコントロールや着陸装置といった油圧系統の操作を担いました。「戦後19年経ち、聖火を運ぶことができる平和な時代がやってきたんだと感じた」と当時を振り返ってくれました
聖火に託した”平和への願い” 東京 羽田空港 こころのレガシー 1964→2020 vol.12/NHK 東京2020オリンピックサイト.2017
横尾政夫(客室乗務員):
横尾政夫さんは、客室乗務員として機内で聖火を見守りました。
聖火に託した”平和への願い” 東京 羽田空港 こころのレガシー 1964→2020 vol.12/NHK 東京2020オリンピックサイト.2017
横尾さんは聖火を運んだ当時の思い出を振り返りました。 「第1回近代オリンピックが開催されたオリンピック競技場(パナシナイコスタジアム)で聖火を日本側が引き受けたのですけれど、真っ暗な競技場に真っ赤な聖火が入って来て、その瞬間に何万人という方々が一斉に立ち上がり、拍手と大歓声があがって……そのとき私は全身が震えるほど感動しましたね」)
東京・八王子の「聖火リレー」点火セレモニー 新行市佳アナウンサー・取材レポート/ニッポン放送 NEWS ONLINE.2021
機体は「ダグラスDC-6B旅客機」
ダグラスDC-6B旅客機は, 日本航空がDC-4に続いて1953(昭和28)年2月より 使用開始したレシプロ・エンジンを装備した4発旅客機(後略)
DC-4を3.5mストレッチしたのがDC-6B旅客機で国際線に投入された/機械は動かないと… – livedoor.2005
巡航速度450km/h、航続距離4000km、座席数36~58席(国際線)、96席(国内線)。空気が薄い高高度を飛んでも機内の気圧を一定に保つ与圧機能が付いたDC-6Bは、DC-4に比べ快適性が格段に向上。「City of Tokyo」「City of Fukuoka」など国内都市の名が冠された
JAL、航空機の歴史(2) 黎明期を支えたプロペラ機/マイナビニュース.2012
大型長距用の飛行機で最後のプロペラ機
大型長距離用機材としては最後のプロペラ機だった。
今となっては嫌いな人はいないハワイ。55年前のホノルル空港とは?/LEON レオン オフィシャルWebサイト.2019
17日間の長旅となったのは、アジア初のオリンピックを共に喜んでもらおうと各都市を回ったこともあるようですが、プロペラ機の航続距離にもその理由のひとつがあったようです。
寄稿文のご紹介 ~「ミスター聖火」と呼ばれた先輩/養基同窓会(公式ホームページ)
聖火を乗せた飛行機はアジアの12都市を経由!!
開会式から遡ることおよそ2か月前の8月21日、聖火の採火式がギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡で行なわれました。その後、聖火はアテネ(ギリシャ)→イスタンブール(トルコ)→ベイルート(レバノン)→テヘラン(イラン)→ラホール(パキスタン)→ニューデリー(インド)→ラングーン(ビルマ)→ バンコク(タイ)→ クアラルンプール(マレーシア)→マニラ(フィリピン)→香港(当時、 英国領)→ 台北(中華民国台湾)を経由して、9月7日に沖縄へ到着しました。
第96回 文化財めぐり/葛飾区郷土と天文の博物館
田畑政治「太平洋戦争のアジア諸国への謝罪」
中東から東南アジアを通り、台北から沖縄へ向かう国外ルートを考案したのは、当時の組織委員会事務総長であった田畑政治。彼がオリンピック招致時に「アジアのオリンピックとして開催する」とアジア各国に宣言して東京への投票を依頼したこと、そして太平洋戦争で日本が被害をもたらしたアジア諸国への謝罪行脚の意味が、このルートにはこめられていた。
オリンピック聖火リレーと最終点火者 -聖火リレーの歴史- 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2020
東京オリンピック物語(5)── オリンピック招致のために尽力してきた「田畑政治」が直前で辞任
むしろ歓迎された?
1964年東京オリンピックの開催地へと向かう聖火リレーでは、紛れもなく日本の日の丸がアジアを駆け抜け、アジアの道を切り開いた。
ロイ・トミザワ – 1964年東京オリンピックの莫大な遺産:1964年が日本の最高に輝いた年である3つの理由/TOKYO UPDATES.2021
多くが第2次世界大戦で日本の侵略を受けた。国民感情が気になったが大歓迎された。
(8) 1964年聖火リレー秘話 久野明子さん/日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)
日本がこれらの国のいくつかに軍隊を進駐させていたのは、ほんの数十年前のことだった。日本はこれらの国のいくつかで戦争を行った。それでも、1964年には、日本はアジアの誇りとして称えられたのだ。
ロイ・トミザワ – 1964年東京オリンピックの莫大な遺産:1964年が日本の最高に輝いた年である3つの理由/TOKYO UPDATES.2021
経由するだけじゃない!聖火リレーも実施!!
リレーは各経由都市でも行われました。
東京1964トーチ – オリンピック聖火/Olympics
各地でセレモニーや聖火リレーが実施され、史上初めてアジアに向かう聖火が熱烈歓迎されたさまが報告され、世界が東京五輪を祝福している雰囲気が醸造されてゆく。
64年の開高健を意識しながら東京を追ってみる/論座 – 朝日新聞社の言論サイト.2018
世界中で東京オリンピックの期待が高まっていく
先ず、アジアの入口であるトルコでの熱狂ぶりは凄かったです。トルコは親日家が多いことでも有名ですが、アジア初の五輪への思いの強さがうかがえました。
増聖火リレー戦後復興の証/田明美’s Homepage
寄港地のひとつビルマ(現・ミャンマー)は1962年にクーデターが起きたばかり。当時の東南アジアには政情不安な国が多かった。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/日本でコレラ発生/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
ミャンマーでは沿道の市民たちが日の丸の小旗を振って、「日本、ビルマ、平和、万歳」と日本語で声援した。マニラ市民はみな笑顔だった。「ただただ、感激」と、後年、田畑は語る。
【いだてん外伝】田畑政治と聖火 「平和希求する日本を見てもらおう」と尽力/zakzak.2019
また、各国の聖火ランナーは東京五輪の大会エンブレムがデザインされたウエアを着て走り、見物する多くの人で盛り上がりを見せた。当時の毎日新聞は「インド人の女性ランナーが『トーチを握って走っている時、これが東京でともされるんだと思うと胸がいっぱいでした』と感激していた」と報じた。
オリパラこぼれ話 1964年東京オリンピックの聖火 アジア国内をリレー/毎日新聞.2020
実はネパールでもリレーが行われた!
当初、国外聖火リレーの計画では、滑走路が短くてすむYS-11の使用が想定されていた。しかし、途中でDC-6Bに変更され、着陸できないカトマンズ訪問の可能性が消えた。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/日本でコレラ発生/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
だが、ネパール側は聖火を熱望。そこで同国王室専用機でインドのニューデリーまで聖火を取りにきて、「分火」された聖火をカトマンズに輸送。リレーを行った後、「シティ・オブ・トウキョウ」号の次の寄港地カルカッタ(現・コルカタ)に聖火を戻すという難事をやってのけたのだ。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/日本でコレラ発生/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
アジアで初のオリンピックへの期待感の表れだったと解釈でき よう。しかし、東京オリンピックの報告書にはカトマンズの名はない。
聖火リレーへの思いとは⋯⋯ ――沖縄を中心に、聖火をめぐる話――(p.63)/佐野慎輔.昭和館
香港でまさかのトラブル

8月23日、日本航空の聖火空輸用特別機でギリシャを発った聖火は、中東・アジアの11中継地をリレーしたのち、9月6日に沖縄入りするはずだった。しかし4日、聖火が滞在中の香港を台風17号が襲う。
1964年の聖火リレー 10万人超が本気で繋いだ列島6755km/NEWSポストセブン.2020
台風が近づく中、聖火リレーがスタート
それでも聖火リレーがスタートし、シティ・ホール(香港大會堂)で歓迎イベントが行われた。だがその夜、事態は急変。台風が猛威を奮い出したのだ。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/不運に次ぐ不運/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
香港ではこの台風の直撃で、38人が死亡。
聖火は再び東京にともるのか 1964年の記憶/NHK NEWS WEB.2021
地元の新聞によると、聖火をともした器がオークションにかけられ、売り上げが犠牲者の支援にあてられました。
聖火は再び東京にともるのか 1964年の記憶/NHK NEWS WEB.2021
横尾政夫(客室乗務員)
「香港に着いたときに台風が来て、聖火を運んでいる機材が損傷してしまったんです。他の機材を使うことになったのですが、そのなかには聖火台はないんですよね。聖火を担当する方が膝に枕を敷いて、聖火を大切に持って次の台北まで飛んだというのがすごく印象に残っています」
東京・八王子の「聖火リレー」点火セレモニー 新行市佳アナウンサー・取材レポート/ニッポン放送 NEWS ONLINE.2021
「シティ・オブ・トウキョウ」が台風によって破損
天候の悪化を受けて、香港の啓徳空港は閉鎖となり、「シティ・オブ・トウキョウ」号の出発は24時間延期となってしまいました。天候が回復した翌朝は、すぐに次の目的地である台北へと飛ばなくてはなりません。ところが何と、「シティ・オブ・トウキョウ」号は前日の暴風雨のなかで野ざらし状態だったため、補助翼と操縦系統が破損して、飛行不能になったのです。
書き初め大会(1月8日(水))/坂出市立岩国中学校 学校だより No10 令和2年3月
さらにトラブルが重なる!
急遽、羽田空港からコンベア880Mショット機あやめ号を 呼び寄せ、一日遅れで六日に出発。しかし離陸直後、エンジン故障で引き返し、定期便として就航中の同型機かえで号に乗り換え、ようやく台北に到着する事態となった。一日遅れで、しかも夜になっていたが、台北・松山空港には数多くの市民が聖火の歓迎に訪れたという。
聖火リレーへの思いとは⋯⋯ ――沖縄を中心に、聖火をめぐる話――(pp.61-62)/佐野慎輔.昭和館
翌朝には、修理が終わった「シティ・オブ・トウキョウ」号も香港を出発。次の目的地である台北で一行と合流できた。次の目的地は、いよいよ沖縄である。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/不運に次ぐ不運/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
日本(沖縄)に到着!
九月七日、修理を終えたシティー・オブ・トウキョウ号が台北を出発 したのが、午前九時一〇分。一二時に沖縄・那覇空港に到着した。聖火 は熱烈な歓迎を受けた。
聖火リレーへの思いとは⋯⋯ ――沖縄を中心に、聖火をめぐる話――(p.62)/佐野慎輔.昭和館
横尾政夫(客室乗務員):
印象的だったのは、沖縄・那覇空港でのひとこま。「4千人もの大観衆が聖火を出迎えようと空港に押し寄せていました。屋上にも人があふれ、日の丸の旗を振り回し、みな涙を流しながら大歓迎してくれたのです」と話して頂きました。アメリカの統治下にあった当時の沖縄は、日の丸を掲げることが許されない状況でした。それでも横尾さんは「聖火を通して、沖縄の皆さんの気持ちが日本に返った一瞬だったのでは」と感じたのだそうです
聖火に託した”平和への願い” 東京 羽田空港 こころのレガシー 1964→2020 vol.12/NHK 東京2020オリンピックサイト.2017
しかし台風の影響で1日遅れてしまった
沖縄での日程短縮の可能性も浮上し、祖国復帰への希望を託して1961年から聖火の訪問を働きかけて実現に漕ぎつけた沖縄に激震が走った。代替機が用意される一方、特別機の整備も不休で行なわれ、聖火は1日遅れの9月7日正午に那覇に到着。
1964年の聖火リレー 10万人超が本気で繋いだ列島6755km/NEWSポストセブン.2020
このプロジェクトを実現させた影の立役者「オリンピックリレー調査隊」
敗戦からほぼ10年、田畑は1954年のマニラのアジア大会に日本チームの役員として出場した。だが、日本選手団は至る所で、「オイ、コラ、帰れ、バカヤロー」と罵声を浴びた。「彼らの反日感情を何とか緩和させねば」。その時から田畑はこのプランを温めていた。
【いだてん外伝】田畑政治と聖火 「平和希求する日本を見てもらおう」と尽力/zakzak.2019
発案者は朝日新聞記者「矢田喜美雄」
この壮大な聖火リレーを“発案”したのは朝日新聞記者、矢田喜美雄(やだ・きみお)である。事件記者として国鉄総裁の下山定則(しもやま・さだのり)が死体で発見された「下山事件」を追い、他殺説を唱えたことで知られる一方、矢田は1936年ベルリン大会陸上走幅跳5位入賞のオリンピアンでもあった。矢田は東京招致が決まると、朝日新聞の同僚であり組織委員会事務総長となる田畑政治(たばた・まさじ)に構想を打ち明けた。聖火をイスタンブールから古代シルクロードをたどり、日本に運ぶ「東西文化の交流の道」を往くスケールの大きな思いだった。
【オリ・パラ今昔ものがたり】むかし、「ビルマ」という国があった…/日本財団ジャーナル.2021
そのアイデアの発端は、1940年に開催予定だった「幻の東京五輪」での計画にさかのぼる。1936年のベルリン大会で聖火リレーを初めて生み出したカール・ディームが、シルクロードをたどる聖火リレーコースを提唱していたのである。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
大きいことが好きな田畑はすぐに乗った。しかし、当時はまだ中国との国交はなく、シルクロードを聖火が行くことは実現不可能。
【オリ・パラ今昔ものがたり】むかし、「ビルマ」という国があった…/日本財団ジャーナル.2021
まずは実際検証してみた!「聖火リレー踏査隊」
そんな折り、朝日新聞社がユーラシア大陸を自動車で走破する計画を立案し、日産自動車がクルマと人員を出すことで協力。この企画に、組織委員会が乗った。それが、「聖火リレーコース踏査隊」である。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
聖火リレー踏査隊は合計6人で構成され、その中にはスキー選手で登山家の麻生武治もいました。森西は運転技術を買われて所属することになったようです。
タクシー運転手が「聖火リレーコース踏査隊」/Japaaan.2019
タクシーバイトからオリンピック組織委員会に入った男「森西栄一」
その一員として「聖火リレー踏査隊」に参加し、アテネからシンガポールまで2万キロを自動車で走破、陸路での聖火リレーの可能性を検証したのが森西栄一だ。
「『タクシー運転手が五輪の組織委員会に入る』と聞き、思わず『どうやって?』と聞き返しました」角田晃広(森西栄一)【「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」インタビュー】/ウレぴあ総研.2019
「タクシー運転手を辞めてオリンピックの組織委員会に入る」なんて筋書きはいかにもフィクションのように思えますが、実話です。
タクシー運転手が「聖火リレーコース踏査隊」/Japaaan.2019
タクシーの中で立候補
陸路による聖火リレーの可能性を調べる踏査隊の6人のうち、最年少だったのが、当時28歳の森西栄一隊員だ。法政大学の夜間部に通い、タクシー運転手のアルバイトをしていた。
(東京五輪物語)開幕まで3年 聖火リレー踏査隊:4 ゴール、その後 2万キロの旅が導いた志/朝日新聞デジタル.2017
(前略)森西のタクシーに丹下健三と亀倉雄策が偶然乗り合わせ、そこで聖火リレーコース踏査隊の話を聞いてすぐに立候補したというのも嘘のような本当の話なのです。
タクシー運転手が「聖火リレーコース踏査隊」/Japaaan.2019
実際にアテネから陸路で走破……このままだとキツすぎる
調査隊は昭和三十六年(一九六一)六月二十三日、二台の車に分乗し てアテネを出発。六月二十八日にはイスタンブールに到着している。 スタンブールでは数日間滞在、現地の関係者とリレーの打合せを行った。 アンカラからバクダット、テヘランあたりまでは順調な旅だったが、アフガニスタンに入るとトラブルが続出。下痢や発熱に襲われたり、旅費を盗まれたり、治安の悪さから足止めをされ、反政府ゲリラの出没で思うように車を進めることもできない。カブールからニューデリー、カトマンズ、ラングーン(現ヤンゴン)、バンコクを経て、シンガポールに到着したのは十二月二十二日だった。一八〇日間、約二万キロの行程は、 麻生を含むふたりが途中で離脱する過酷旅となった。
聖火リレーへの思いとは⋯⋯ ――沖縄を中心に、聖火をめぐる話――(p.59)/佐野慎輔.昭和館
帰国後、隊員たちは組織委員会にレポートを提出。隊員たちの見解は「陸路でのリレーの道は開けた」「陸路走行は非常に困難」などまちまちだったが、組織委員会の最終判断は「陸路案は不適当」というものだった。ここから空輸という結論が出た。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
この結論をもとに、翌1962年3月、踏査隊が訪問した各地を再訪して空路案への変更を伝える旅が実施された。その任を買って出たのは、当時、組織委員会の総務委員会メンバーだった高島文雄である。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
高島は踏査隊最年少メンバーだったドライバーの森西栄一をともない、踏査隊が立ち寄ったユーラシア各地を再訪し、理解を求めた。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
本当は聖火を国産旅客機で運びたかった!?
1962年7月4日、「聖火リレー特別委員会」の第1回会合が開かれた。委員会のリーダーは、ユーラシア各地に空輸を依頼して回った高島文雄。そして、「ミスター聖火」中島茂の姿もあった。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/YS-11をめぐる暗闘/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
「ミスター聖火」中島茂って?
開幕2カ月前の8月半ばに日本を発(た)ち、ギリシャのオリンポスで太陽光から採った火を、約3週間かけて輸送機で運ぶ。その間、中東やアジアの11都市を中継し、各地で聖火リレーを行う。これらの行事万般を、数年前の計画段階から取り仕切っていたのが中島だった。
日曜に書く 論説委員・森田景史 聖火に宿る五輪の裏面史/日本経済新聞.2020
中島はギリシャで聖火を受け取った後、最初の寄港地であるイスタンブールで左の視力を失っている。
日曜に書く 論説委員・森田景史 聖火に宿る五輪の裏面史/日本経済新聞.2020
中島が不調を訴えることはなく、誰一人として失明に気付かなかった。
日本人と聖火/北軽井沢 虹の街 爽やかな風 – livedoor.blog
聖火を運ぶ予定だった!戦後初の国産旅客機「YS-11」

YS-11 の機種名は、『輸送機設計研究協会』の輸送機の頭文字Yと設計のS、エンジン候補番号10案の1、機体仕様候補1案の1をとって命名されたものでした。
レポート ・YS-11物語/ワシモ(WaShimo)のホームページ
戦後復興の象徴
日本は戦前、高い航空技術を持っていたが、連合国軍総司令部(GHQ)に航空機開発を禁止された。このため、敗戦から7年間の空白を経て開発されたYS11は、戦後復興の象徴とされた。
YS11よ、よみがえれ 戦後復興の象徴「日の丸旅客機」 オヤジ技術者、展示へ奮闘/東京新聞 TOKYO Web.2020
零戦の設計で知られる堀越二郎氏など、戦前の技術者らが設計に携わった。国や新三菱重工業(現三菱重工)、川崎航空機(現・川崎重工)などが1959年、半官半民の「日本航空機製造」を設立し、開発を目指した。
YS11よ、よみがえれ 戦後復興の象徴「日の丸旅客機」 オヤジ技術者、展示へ奮闘/東京新聞 TOKYO Web.2020
国産旅客機「YS-11」は1962年8月30日に名古屋空港で初飛行した。
8月30日 YS-11初飛行 東京五輪で聖火国内輸送/日本経済新聞.2018
官民出資会社、日本航空機製造が開発した全長26メートル、全幅32メートルの双発プロペラ機で、エンジンは英ロールス・ロイス製。
国産旅客機「YS-11」初飛行(1962年) 聖火輸送、戦後復興の象徴/日本経済新聞.2018
YS11はすべて人の力で操縦する機械で、操縦奸が重いのが特徴。
佐賀空港公園にある飛行機の正体は?/サガテレビ
時代の流れで引退へ
量産に着手して10年、その当時、YS−11は半官半民の特殊法人で開発されたため、多額の赤字問題がクローズアップされていた。抜本的な収入が改善する見通しもないまま、通産省は生産を止めてしまった。生産を中止する1972年までに生産機数は合計182機にものぼり、国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など、幅広く活躍することになる。
零戦を造った堀越二郎氏は戦後初の国産旅客機YS-11を設計した人!/所沢なび
民間定期航路や自衛隊、海上保安庁などで広く使われ、輸出もされましたが、採算が合わず生産は1973年に182機で終了。
YS11また1機ラストフライト 戦後初の国産旅客機、残り空自6機/withnews.2021
当オリジナルエンジンを積んだ最後の1機「YS-11」が引退
戦後初の国産旅客機YS11の現役機がわずかとなるなか、航空自衛隊の飛行点検隊に属する機体のラストフライトが17日、埼玉県の入間基地であった。飛行点検隊は自衛隊施設を空からチェックするのが主な役割だ。この日も双発プロペラ機が、最後の任務へ飛び立った。
空自飛行点検隊のYS11が最終飛行 現役は残り6機に/朝日新聞デジタル.2021
最後の空
空自は、YS11に開発当初から搭載されたオリジナルエンジンのロールス・ロイス製ダートエンジンを備えた機体で実際に運航するものとしては、最後の1機ではないかとしている。
飛行点検のYS11が引退 空自入間基地で最終飛行/日本経済新聞.2021
残すはエンジンを取り替えた機体は6機だけ
今後は、エンジンをオリジナルから取り換えた電子戦のための機体6機が残る。
YS11がラスト飛行 原型エンジンの飛行点検機―航空自衛隊/JIJI.COM.2021
これも入間基地にあります。電子作戦群に属するEAの2機とEBの4機です。
YS11また1機ラストフライト 戦後初の国産旅客機、残り空自6機/withnews.2021
「YS-11」から「DC-6B(シティ・オブ・トウキョウ)」に変更された理由
空輸が決まっている聖火リレーをめぐり、計画全体を左右するひとつの提案がなされていた。それは戦後初の国産旅客機として開発中だった「YS-11」の使用である。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/YS-11をめぐる暗闘/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
東京五輪に先立つ第3回アジア競技大会の聖火空輸では、海上自衛隊の対潜哨戒機が使われた。だが、軍用機では国際的な手続きがかなり煩雑なものとなる。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/YS-11をめぐる暗闘/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
そこで民間機を使用することが考えられ、折しも国産機YS-11が開発中だったため、その世界デビューを兼ねた聖火空輸が検討されたようだ。YS-11は1962年8月30日に初飛行が成功し、委員会内でのムードは決定的となった。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/YS-11をめぐる暗闘/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
当初の計画では当時開発が進んでいた戦後初の国産旅客機YS-11を利用することとなっていた。しかしながら、ギリシャから日本に来るまで経由しなければならないアジアの国々各国の空港は今日のように整備が進んでいるとは言えない状況で、 YS-11では円滑に離発着できない可能性があった。グライダー部の指導をしていたこともある中島さんはそのことがよくわかっていて、 YS-11の利用について反対し、日本航空と話しをつけて、DC-6Bを採用することに決めた。
851号/週刊yasushi.衆議院議員古川康公式サイト.2020
完成が遅れていたYS-11 。実際に空を飛べるようになったのは1964年8月25日。聖火はすでにギリシャを出発していた。本当にギリギリだった。
851号/週刊yasushi.衆議院議員古川康公式サイト.2020
一方、YS-11の開発は急ピッチで進められていた。試験飛行ではなく航空会社が運航するには「型式証明」を取らねばならないが、そのメドも立ち始めた。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/YS-11をめぐる暗闘/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
その後、国内の聖火を運んだ!!
1964年9月8日、羽田空港。全日空マークとロゴ、東京五輪エンブレムを機体に付け、「聖火」号と名付けられたYS‐11が、大勢の人々に見送られて飛び立とうとしていた。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/飛び立つ「聖火」号/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
同機は聖火の国内リレーのために聖火を空輸すべく、沖縄に向けて出発するところ。思えば、聖火リレー・プロジェクトがまだ計画段階であった1962年夏、すでにYS-11の名前があがっていた。そこから2年の歳月を経て、ようやく聖火空輸が実現するのである。
1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/飛び立つ「聖火」号/Smart FLASH[光文社週刊誌].2018
「オリンピア」
このフライトをきっかけに、全日空のYS-11には「オリンピア」の愛称が付けられた。
試作2号機が実現「国産機輸送」 【昭和探偵団】/産経ニュース.2014
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