アジアを照らす聖火!空輸されたオリンピックのシンボルと国旗 ── 東京オリンピック物語(14)

この記事では、1964年東京オリンピックの聖火リレーと空輸計画に焦点を当てて紹介します。古代オリンピアから始まる聖火の旅やアジア各地でのリレー、大胆な空輸計画など、感動的な瞬間を描写します。

空輸計画では、航空機メーカーと踏査隊の協力が欠かせませんでした。聖火を運びながら中東やアジアの都市を経由し、聖火リレーが行われました。突発的なアクシデントにも立ち向かい、聖火を守るために奮闘する人々の姿勢には感動が広がりました。

この記事を読み、聖火リレーの感動的な物語と、困難を乗り越えるための努力と結束力の重要性を実感しましょう。

宇宙舞台の映像革命!人類史上初の国家プロジェクトが始動 ── 東京オリンピック物語(13)
created by Rinker
太平洋戦争において“無敵”の名をほしいままにした日本海軍の名戦闘機・零戦―。敵をして「ゼロとはぜったいに一対一の戦闘をするな」とまでいわせた名機の秘密は、数グラムの無駄まで省いた極限の軽量設計による高性能と、「パイロットの気持ちにぴたりと応える」(故源田実氏)類いまれな操縦性の両立にあった。零戦の主任設計者が、当時の資料をもとに執筆した本書は、零戦誕生までの開発秘話と、その栄光と悲劇の原因を明らかにする。それは、今日に続く「日本の技術」の一つの頂点を記した貴重な技術史の記録である。(「BOOK」データベースより)

Olympic flame for the 1964

ギリシャ・オリンピア遺跡で聖火が採火!いざ日本へ!!

AP Archive/YouTube

1964年8月21日、東京オリンピックが開催される約2ヶ月前、古代の地オリンピアで重要な儀式が行われました。古代ギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡は、何世紀にもわたるオリンピックの歴史を物語る場所です。この古代の地で、東京オリンピックのための聖火採取式が行われたのです。

採火式の後、聖火は東京オリンピック組織委員会の会長、安川に引き継がれました。また、高島文雄、聖火空輸派遣団長もこの責任重大な役割を果たしました。この儀式は、古代から続く伝統と現代のスポーツ界とのつながりを象徴していました。

東京への聖火リレーは空を飛ぶ

聖火採取後の一連の出来事は、その神聖さと重要性を増幅させました。その全てが一つの目標に向かっていました、東京です。

アテネから東京へ

8月22日、聖火はリレーを通じてギリシャの首都アテネに到着しました。ここから、特別に選ばれた日本航空のジェット機、シティ・オブ・トウキョウによって、聖火は東京へと空輸されることとなりました。

空中の聖火台

採火された聖火は、ランタンに似た容器、いわゆる聖火灯に納められ、機内の特設された「聖火台」に置かれました。厳重に保管された聖火は、筒状の装置の中で予備も含めて3つの火が灯され、機内を温めました。

空中のガーディアン「佐藤卓三と横尾政夫」

フライトエンジニアの佐藤卓三は、機内の燃料供給と油圧系統の操作を行いました。「戦後19年経って、聖火を運ぶことができる平和な時代が来たと感じた」と彼は振り返りました。

横尾政夫、客室乗務員は機内で聖火の監視を担当しました。「真っ暗な競技場に真っ赤な聖火が入って来て、その瞬間に何万人もの人々が一斉に立ち上がり、拍手と大歓声があがった……そのとき、全身が震えるほど感動しました」と横尾は、第1回近代オリンピックが開催されたパナシナイコスタジアムでの思い出を振り返りました。

「ダグラスDC-6B」東京への道を切り開く

1953年、日本航空は新たな4発旅客機、ダグラスDC-6Bの使用を開始しました。これは、日本航空がその前に使用していたDC-4に続くもので、東京オリンピックへの聖火リレーでも重要な役割を果たしました。

DC-6Bはレシプロエンジンを装備し、巡航速度450km/h、航続距離4000kmを誇る旅客機でした。座席数は、国際線では36~58席、国内線では96席でした。この飛行機は高高度でも機内の気圧を一定に保つことができる与圧機能を持ち、その快適性はDC-4に比べ格段に向上していました。

プロペラ機の最終章

DC-6Bは、その名が示す通り、各都市の名を冠した大型長距離用の飛行機でした。”City of Tokyo”や”City of Fukuoka”などの名前がつけられたこれらの飛行機は、最後のプロペラ機としての役割を果たしました。

17日間の旅の理由とその意義

17日間という長い旅程は、一部はアジア初のオリンピックを共に祝おうと各都市を訪れたからだと言われています。しかし、それだけではなく、プロペラ機の航続距離が旅の長さに一部影響していた可能性もあります。この長旅は、新たな時代への道を切り開くとともに、技術的な制約といった課題にも直面していました。

アジアを巡る聖火リレー

1964年東京オリンピックへ向かう聖火リレーは、ギリシャからアジアの多くの都市を経由し、ついに日本へと到着しました。この聖火の道のりは、日本とアジア各国との関係の歴史を反映しています。

聖火リレーのルート

アテネから出発した聖火は、イスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北を経由し、9月7日に沖縄へと到着しました。

ルートの背後にある思いと田畑政治の決断

このリレールートの設計は、当時の組織委員会事務総長、田畑政治によるものでした。彼は、東京オリンピックを「アジアのオリンピック」として開催すると宣言し、各アジア国に投票を依頼しました。また、このルートは、太平洋戦争で日本が被害をもたらしたアジア諸国への謝罪の旅でもありました。

アジアを駆け抜けた聖火と日の丸

聖火リレーでは、日の丸がアジアを駆け抜け、アジアの道を切り開きました。多くの国は第二次世界大戦で日本の侵略を受け、その傷は深かった。それはまだ数十年前のことで、日本はこれらの国の多くで戦争を行い、軍隊を進駐させていました。しかし、1964年には、日本はアジアの誇りとして称えられ、大歓迎されました。この一連の出来事は、過去の過ちを乗り越え、新たな関係を築くための一歩となりました。

「東京オリンピックへの期待」アジア各地で熱狂の聖火リレー

1964年の東京オリンピックに向けての聖火リレーは、各経由都市でのセレモニーやリレーを通じて、アジア各地での熱烈な歓迎を受けました。

アジア初のオリンピックへの期待

トルコでは、アジア初のオリンピックへの強い思いが表現され、ビルマ(現在のミャンマー)では市民たちが日の丸の小旗を振り、日本語で声援を送りました。また、当時の東南アジアには政情不安な国が多く存在していましたが、その中でもミャンマーでの歓迎の様子は記憶に残っています。マニラ市民もすべてが笑顔で、「ただただ、感激」と後年、田畑は語りました。

大会エンブレムのウエア

各国の聖火ランナーは、東京五輪の大会エンブレムがデザインされたウエアを着て走り、多くの人々が見物し、場所を盛り上げました。特に印象的だったのは、インド人の女性ランナーが「トーチを握って走っている時、これが東京でともされるんだと思うと胸がいっぱいでした」と感激していたというエピソードです。

聖火リレーの難題「カトマンズ」

当初、国外聖火リレーの計画では、滑走路が短くてすむYS-11の使用が想定されていたが、途中でDC-6Bに変更され、着陸できないカトマンズ訪問の可能性が消えました。しかし、ネパール側は聖火を熱望し、同国王室専用機でインドのニューデリーまで聖火を取りにきて、「分火」された聖火をカトマンズに輸送し、リレーを行った後、「シティ・オブ・トウキョウ」号の次の寄港地カルカッタ(現・コルカタ)に聖火を戻すという難事をやり遂げました。このエピソードはアジアで初のオリンピックへの期待感の表れと解釈できます。

それにもかかわらず、東京オリンピックの公式報告書にはカトマンズの名前が記されていません。この事実は、この特別な瞬間がどれほど難易度が高かったかを示しています。しかし、その困難さにもかかわらず、それは成功し、その地を訪れた多くの人々に感動を与えました。

このアジアを横断する聖火リレーは、各地での記憶に残るエピソードと共に、東京オリンピックへの期待と興奮を世界に伝えました。

アジアを巡る聖火リレーの挑戦と香港での試練

日本航空の特別仕様の旅客機でアテネから空輸されたオリンピアの聖火は、中東およびアジアの11の中継地をリレーして、1964年9月6日に沖縄に到着する予定でした。

しかし、予定は必ずしも順調に進むわけではありませんでした。9月4日、香港で聖火が滞在中に、台風17号がこの地を直撃。それでも、計画通りに聖火リレーは開始され、香港のシティ・ホールで歓迎イベントが開催されました。

その夜に状況は一変しました。台風が香港を襲い、38人の命が奪われる大災害となりました。この惨事にもかかわらず、聖火の炎は消えることはありませんでした。地元の新聞によれば、聖火をともした器がオークションに出品され、得られた収益が犠牲者の支援に寄付されました。

この時のことを、日本航空の客室乗務員、横尾政夫は「香港に着いたときに台風が来て、聖火を運んでいる機材が損傷してしまったんです。他の機材を使うことになったのですが、その中には聖火台はなかったんです。聖火を担当する人物が、膝に枕を置き、聖火を大切に抱えて次の地、台北まで飛ぶ様子は、とても印象的でした。」と語っています。


hkpai
/YouTube
台風の影響と新たな飛行機の導入

台風による天候の悪化で、香港の啓徳空港が閉鎖となり、「シティ・オブ・トウキョウ」号は出発を24時間遅らせる事態になりました。しかし、この一時的な中断が、さらなる問題を引き起こしました。前日の暴風雨で飛行機が露出した状態にあったため、補助翼と操縦系統が破損し、飛行不能となってしまったのです。

その結果、緊急に羽田空港からコンベア880Mショット機「あやめ号」が香港に呼び寄せられ、一日遅れで出発することになりました。しかし、離陸直後にエンジンが故障し、定期便の同型機「かえで号」に乗り換えるという事態となりました。

台北での歓迎と次の目的地へ

しかし、これらの困難にも関わらず、台北の市民たちは、夜になっても聖火を待ち続けました。修理が完了した「シティ・オブ・トウキョウ」号も翌朝には香港を出発し、次の目的地である台北で一行と合流しました。

こうして、聖火リレーの次の目的地は、ついに沖縄となりました。

「シティ・オブ・トウキョウ」号の再出発と沖縄到着

修理を終えた「シティ・オブ・トウキョウ」号は、9月7日の午前9時10分に台北を出発し、正午に沖縄・那覇空港に到着しました。その聖火の到着は、沖縄の人々から熱烈な歓迎を受けました。

特に印象的だったのは、那覇空港でのシーンです。「4000人もの大観衆が聖火を出迎えようと空港に押し寄せていました。屋上にも人々があふれ、日の丸を振り回しながら涙を流し、大歓迎してくれました」という言葉が残されています。

アメリカ統治下の沖縄と聖火

当時、アメリカの統治下にあった沖縄では、日の丸を掲げることが許されていませんでした。しかし、聖火の到着により、一時的にその規制が解かれ、「沖縄の皆さんの気持ちが日本に返った一瞬だった」と感じられたとのことです。

聖火の訪問と沖縄の祖国復帰への希望

1961年から聖火の訪問を実現に向けて努力を続けていた沖縄では、聖火の訪問が祖国復帰への希望を象徴していました。そして、代替機が用意され、特別機の整備も休みなく行われる中、遅れること一日、聖火は9月7日に那覇に到着したのでした。

「矢田喜美雄と田畑政治」聖火リレー計画の発案者たち

1945年の敗戦からほぼ10年後の1954年、日本がマニラで開催されたアジア大会に出場した。役員として参加した田畑政治は、至る所で日本チームが「帰れ、バカヤロー」という罵声を浴びる場面を目の当たりにした。彼は反日感情が強いアジアの各地で、それらの感情を少しでも緩和させ、人々とのつながりを深める必要性を痛感した。

それ以降、田畑は新たなプランを温め始めた。それは、東京オリンピックの聖火リレーを通じて、アジア各国との友情と理解を深めるという壮大な構想だった。このプランは、聖火が過酷な状況を乗り越え、人々を繋げ、結果としてアジアの中で反日感情を薄らげることを目指していた。

しかし、その道のりは決して容易なものではなかった。特に、当時まだ日本との国交がない国々を通過するシルクロードのルートは、実現不可能と思われていた。しかし田畑は決してあきらめず、朝日新聞社と日産自動車の協力を得ることに成功しました。

矢田喜美雄

この壮大な聖火リレーを考案したのは朝日新聞記者の矢田喜美雄でした。彼は事件記者として知られ、特に国鉄総裁の下山定則が死体で発見された「下山事件」を追い、他殺説を唱えたことで知られています。一方で、彼は1936年ベルリン大会陸上走幅跳で5位に入賞したオリンピアンでもありました。東京オリンピックの招致が決まると、矢田は朝日新聞の同僚であり組織委員会事務総長となる田畑政治に構想を打ち明けました。彼らの夢は、聖火をイスタンブールから古代シルクロードを経由して日本に運ぶ「東西文化の交流の道」を描くという、スケールの大きな計画でした。

聖火リレーコースの原案!?幻の東京五輪の計画

このアイデアは、1940年に開催予定だった「幻の東京五輪」の計画にまでさかのぼります。1936年のベルリン大会で聖火リレーを初めて生み出したカール・ディームが、シルクロードをたどる聖火リレーコースを提唱していたからです。スケールの大きな計画を好む田畑はすぐにこのアイデアに乗りました。

しかし、当時はまだ中国との国交がなく、シルクロードを聖火が行くことは現実的には不可能でした。そんな折り、朝日新聞社がユーラシア大陸を自動車で走破する計画を立案し、日産自動車が車と人員を提供することで協力することになりました。そして、この企画に組織委員会が参加したのです。

「聖火リレーコース踏査隊」の結成

こうして「聖火リレーコース踏査隊」が結成されました。合計6人からなる隊員の中には、スキー選手で登山家の麻生武治もいました。麻生はその高いスキルと経験により、過酷な地形や天候の中でのリレーコースの探索と確定に貢献しました。

また、隊員には技術者やドライバーも含まれていました。特に森西は、その優れた運転技術が評価されて隊員に選ばれたと言われています。彼の運転技術は、厳しい道路状況や未舗装の道を走破するために不可欠でした。

森西栄一と聖火リレー踏査隊の奮闘

聖火リレー踏査隊の一員として、森西栄一はアテネからシンガポールまで、約2万キロの距離を自動車で旅し、陸路での聖火リレーの可能性を調査しました。タクシー運転手を辞めてオリンピックの組織委員会に参加するという彼の運命は、一見するとフィクションのように思えますが、これは実話です。森西は当時28歳で、法政大学の夜間部に通いながらタクシー運転手として働いていました。ある日、彼のタクシーに偶然丹下健三と亀倉雄策が乗り合わせ、その中で聖火リレーコース踏査隊の話を聞いた森西は、すぐにその仕事を引き受けることを決めました。

踏査隊は1961年6月23日にアテネを出発し、2台の車に分乗して旅を開始しました。6月28日にはイスタンブールに到着し、現地の関係者とリレーの詳細について打合せを行いました。イスタンブールからアンカラ、バクダット、テヘランと順調に進行しましたが、アフガニスタンに入ると、さまざまな問題に遭遇しました。体調を崩したり、旅費を盗まれたり、治安の悪さや反政府ゲリラの活動により、思うように進行することができない日々が続きました。

カブールからニューデリ、カトマンズ、ラングーン(現ヤンゴン)、バンコクを経て、彼らがシンガポールに到着したのは12月22日でした。これまでの180日間の旅行で、約2万キロを移動しましたが、その中で踏査隊の2人が途中で旅を断念するなど、過酷な旅でした。

帰国後、踏査隊は組織委員会にレポートを提出しました。彼らの意見は「陸路でのリレーの道は開けた」から「陸路走行は非常に困難」まで、多岐にわたりました。しかし、組織委員会の最終的な判断は「陸路案は不適当」というものでした。この結論を受けて、聖火リレーは空輸によるものに決定されました。その結論を元に、翌1962年3月には、踏査隊が訪問した各地を再訪し、空路案への変更を伝えるための旅が行われました。

この任務に志願したのは、当時組織委員会の総務委員会メンバーであった高島文雄でした。高島は踏査隊の最年少メンバーであったドライバーの森西栄一と共に、ユーラシア各地を再訪し、地元の理解と協力を得るために努力しました。この膨大な努力により、1964年東京オリンピックの聖火リレーの計画は最終的に形を取ることができました。

それぞれの役割と尽力により、聖火リレーは成功を収め、日本人の誇りとされる象徴的なイベントとなりました。しかし、その成功の裏には、森西栄一と他の踏査隊メンバーのような、多くの無名の英雄たちの奮闘があったのです。

本当は聖火を国産旅客機で運びたかった!?

1962年7月4日に開催された「聖火リレー特別委員会」の第1回会合では、ユーラシア各地に空輸を依頼してまわった高島文雄がリーダーを務め、また、「ミスター聖火」と称された中島茂も姿を現しました。開幕2ヶ月前の8月半ばに日本を出発し、ギリシャのオリンポスで太陽光から採った火を約3週間かけて輸送機で運び、その間に中東やアジアの11都市を中継し、各地で聖火リレーを行うというプランを取りまとめていたのが中島でした。

しかし、中島は聖火を受け取ったギリシャから最初の寄港地であるイスタンブールまでの途中で左の視力を失うという突発的なアクシデントに見舞われました。しかし、彼はその状況を周囲に打ち明けることなく、誰もが彼の失明に気付かないまま、彼は聖火リレーの責任を果たし続けました。

聖火を運ぶ予定だった!戦後初の国産旅客機「YS-11」

YS-11は日本で最初に成功した大型の商業旅客機であり、その名前は「輸送機設計研究協会」の頭文字であるYとS、そしてエンジン候補の10案と機体仕様候補の1案から取られました。この機種は日本が第二次世界大戦後に開発した最初の旅客機で、日本の航空産業の復興を象徴する存在とされました。

日本は戦前には先進的な航空技術を持っていましたが、敗戦後の連合国軍総司令部(GHQ)により航空機の開発が禁止されました。そのため、戦後7年間の空白期間を経て開発されたYS-11は、日本の復興と再出発の象徴として捉えられました。その設計には、零戦の設計者として知られる堀越二郎をはじめとする戦前の航空技術者たちが参加しました。

YS-11の開発は、国と新三菱重工業(現在の三菱重工)、川崎航空機(現在の川崎重工)などが半官半民の体制で設立した「日本航空機製造」により進められ、初飛行は1962年8月30日に名古屋空港で行われました。全長26メートル、全幅32メートルのこの双発プロペラ機は、エンジンに英国ロールス・ロイス製を採用しました。また、YS-11は完全に人の力で操作する機械式の操縦システムを採用していたため、操縦が重いことで知られていました。

YS-11
時代の流れで引退へ

YS-11の開発と生産は、半官半民の特殊法人によって行われました。そのため、多額の赤字が生じ、その問題が注目されるようになりました。抜本的な収入改善の見通しが立たない中で、通産省は生産を停止することを決定しました。

YS-11の生産は、1972年までに合計182機が製造されるまで続きました。その内訳は、国内民間機75機、官庁機34機、そして13カ国への輸出機76機でした。この機体は、民間の定期航路だけでなく、自衛隊や海上保安庁などでも幅広く活用されました。しかし、経済的に採算が取れず、生産は1973年に停止されました。

当オリジナルエンジンを積んだ最後の1機「YS-11」が引退

戦後初の国産旅客機であるYS-11の現役機が少なくなる中、航空自衛隊の飛行点検隊が使用していたYS-11の最後のフライトが2023年3月17日に埼玉県の入間基地で行われました。飛行点検隊の主な任務は、航空自衛隊の施設を空から点検することで、この日も双発プロペラ機がその任務のために飛び立ちました。

朝日新聞社/YouTube
最後の空

空自が使用しているYS-11の中で、開発当初から搭載されていたロールス・ロイス製のダートエンジンを搭載した機体としては、これが最後の1機ではないかとされています。今後は、エンジンをオリジナルから交換した電子戦用の機体6機が残ります。これらの機体も入間基地に配備されており、電子作戦群に属するEAの2機とEBの4機です。

YS-11の最後のフライトは、日本の航空産業の一時代の終わりを象徴していますが、その技術と精神は後継の機体とともに引き継がれていくことでしょう。

KyodoNews/YouTube

「YS-11」から「DC-6B(シティ・オブ・トウキョウ)」に変更された理由

964年の東京オリンピックの聖火リレーの計画では、国産の旅客機YS-11の使用が提案されていました。これは戦後初の国産旅客機で、その世界デビューを同時に行うという目論見がありました。その使用は初めての試みであり、非常に期待されていました。しかし、計画の中で明らかになったのは、YS-11がアジアの各国の空港で円滑に運行できない可能性があるという事実でした。当時のアジアの空港は現在のように整備されておらず、これは大きな問題でした。結果的に、中島茂(当時の聖火リレーの責任者)が反対し、代わりにDC-6Bが採用されました。

一方で、YS-11の開発は急ピッチで進められ、1964年8月25日に初飛行が成功しました。しかし、聖火はすでにギリシャを出発しており、その使用は難しくなりました。それでも、YS-11はその後も進歩を遂げ、1964年9月8日には全日空のマークとロゴ、東京五輪エンブレムを機体に付けて羽田空港から飛び立ちました。この機体は「聖火」号と名付けられ、聖火を沖縄に空輸するために使用されました。これをきっかけに、全日空のYS-11は「オリンピア」の愛称を得ることになりました。

このように、YS-11は東京オリンピックの聖火リレーの一部として、その存在感を強く示すこととなりました。国産旅客機としての誇りを胸に、YS-11はその任務を全うし、日本の航空産業の復興を象徴する存在となりました。

created by Rinker
太平洋戦争において“無敵”の名をほしいままにした日本海軍の名戦闘機・零戦―。敵をして「ゼロとはぜったいに一対一の戦闘をするな」とまでいわせた名機の秘密は、数グラムの無駄まで省いた極限の軽量設計による高性能と、「パイロットの気持ちにぴたりと応える」(故源田実氏)類いまれな操縦性の両立にあった。零戦の主任設計者が、当時の資料をもとに執筆した本書は、零戦誕生までの開発秘話と、その栄光と悲劇の原因を明らかにする。それは、今日に続く「日本の技術」の一つの頂点を記した貴重な技術史の記録である。(「BOOK」データベースより)
歴史的瞬間!アメリカ統治下の沖縄で聖火リレーが始まる ── 東京オリンピック物語(15)

You might be interested in …

当サイトではプロモーションが含まれています。また、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、これらの設定や使用に同意したことになります。詳細はプライバシーポリシーをご覧ください

X