この記事では、1964年東京オリンピックの聖火リレーと空輸計画に焦点を当てて紹介します。古代オリンピアから始まる聖火の旅やアジア各地でのリレー、大胆な空輸計画など、感動的な瞬間を描写します。
空輸計画では、航空機メーカーと踏査隊の協力が欠かせませんでした。聖火を運びながら中東やアジアの都市を経由し、聖火リレーが行われました。突発的なアクシデントにも立ち向かい、聖火を守るために奮闘する人々の姿勢には感動が広がりました。
この記事を読み、聖火リレーの感動的な物語と、困難を乗り越えるための努力と結束力の重要性を実感しましょう。
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Olympic flame for the 1964
ギリシャ・オリンピア遺跡で聖火が採火!いざ日本へ!!
東京への聖火リレーは空を飛ぶ
アテネから東京へ
空中の聖火台
空中のガーディアン「佐藤卓三と横尾政夫」
「ダグラスDC-6B」東京への道を切り開く
プロペラ機の最終章
17日間の旅の理由とその意義
アジアを巡る聖火リレー
聖火リレーのルート
ルートの背後にある思いと田畑政治の決断
アジアを駆け抜けた聖火と日の丸
「東京オリンピックへの期待」アジア各地で熱狂の聖火リレー
アジア初のオリンピックへの期待
大会エンブレムのウエア
聖火リレーの難題「カトマンズ」
アジアを巡る聖火リレーの挑戦と香港での試練
hkpai/YouTube
台風の影響と新たな飛行機の導入
台北での歓迎と次の目的地へ
「シティ・オブ・トウキョウ」号の再出発と沖縄到着
アメリカ統治下の沖縄と聖火
聖火の訪問と沖縄の祖国復帰への希望
「矢田喜美雄と田畑政治」聖火リレー計画の発案者たち
1945年の敗戦からほぼ10年後の1954年、日本がマニラで開催されたアジア大会に出場した。役員として参加した田畑政治は、至る所で日本チームが「帰れ、バカヤロー」という罵声を浴びる場面を目の当たりにした。彼は反日感情が強いアジアの各地で、それらの感情を少しでも緩和させ、人々とのつながりを深める必要性を痛感した。
それ以降、田畑は新たなプランを温め始めた。それは、東京オリンピックの聖火リレーを通じて、アジア各国との友情と理解を深めるという壮大な構想だった。このプランは、聖火が過酷な状況を乗り越え、人々を繋げ、結果としてアジアの中で反日感情を薄らげることを目指していた。
しかし、その道のりは決して容易なものではなかった。特に、当時まだ日本との国交がない国々を通過するシルクロードのルートは、実現不可能と思われていた。しかし田畑は決してあきらめず、朝日新聞社と日産自動車の協力を得ることに成功しました。
矢田喜美雄
この壮大な聖火リレーを考案したのは朝日新聞記者の矢田喜美雄でした。彼は事件記者として知られ、特に国鉄総裁の下山定則が死体で発見された「下山事件」を追い、他殺説を唱えたことで知られています。一方で、彼は1936年ベルリン大会陸上走幅跳で5位に入賞したオリンピアンでもありました。東京オリンピックの招致が決まると、矢田は朝日新聞の同僚であり組織委員会事務総長となる田畑政治に構想を打ち明けました。彼らの夢は、聖火をイスタンブールから古代シルクロードを経由して日本に運ぶ「東西文化の交流の道」を描くという、スケールの大きな計画でした。
聖火リレーコースの原案!?幻の東京五輪の計画
このアイデアは、1940年に開催予定だった「幻の東京五輪」の計画にまでさかのぼります。1936年のベルリン大会で聖火リレーを初めて生み出したカール・ディームが、シルクロードをたどる聖火リレーコースを提唱していたからです。スケールの大きな計画を好む田畑はすぐにこのアイデアに乗りました。
しかし、当時はまだ中国との国交がなく、シルクロードを聖火が行くことは現実的には不可能でした。そんな折り、朝日新聞社がユーラシア大陸を自動車で走破する計画を立案し、日産自動車が車と人員を提供することで協力することになりました。そして、この企画に組織委員会が参加したのです。
「聖火リレーコース踏査隊」の結成
森西栄一と聖火リレー踏査隊の奮闘
聖火リレー踏査隊の一員として、森西栄一はアテネからシンガポールまで、約2万キロの距離を自動車で旅し、陸路での聖火リレーの可能性を調査しました。タクシー運転手を辞めてオリンピックの組織委員会に参加するという彼の運命は、一見するとフィクションのように思えますが、これは実話です。森西は当時28歳で、法政大学の夜間部に通いながらタクシー運転手として働いていました。ある日、彼のタクシーに偶然丹下健三と亀倉雄策が乗り合わせ、その中で聖火リレーコース踏査隊の話を聞いた森西は、すぐにその仕事を引き受けることを決めました。
踏査隊は1961年6月23日にアテネを出発し、2台の車に分乗して旅を開始しました。6月28日にはイスタンブールに到着し、現地の関係者とリレーの詳細について打合せを行いました。イスタンブールからアンカラ、バクダット、テヘランと順調に進行しましたが、アフガニスタンに入ると、さまざまな問題に遭遇しました。体調を崩したり、旅費を盗まれたり、治安の悪さや反政府ゲリラの活動により、思うように進行することができない日々が続きました。
カブールからニューデリ、カトマンズ、ラングーン(現ヤンゴン)、バンコクを経て、彼らがシンガポールに到着したのは12月22日でした。これまでの180日間の旅行で、約2万キロを移動しましたが、その中で踏査隊の2人が途中で旅を断念するなど、過酷な旅でした。
帰国後、踏査隊は組織委員会にレポートを提出しました。彼らの意見は「陸路でのリレーの道は開けた」から「陸路走行は非常に困難」まで、多岐にわたりました。しかし、組織委員会の最終的な判断は「陸路案は不適当」というものでした。この結論を受けて、聖火リレーは空輸によるものに決定されました。その結論を元に、翌1962年3月には、踏査隊が訪問した各地を再訪し、空路案への変更を伝えるための旅が行われました。
この任務に志願したのは、当時組織委員会の総務委員会メンバーであった高島文雄でした。高島は踏査隊の最年少メンバーであったドライバーの森西栄一と共に、ユーラシア各地を再訪し、地元の理解と協力を得るために努力しました。この膨大な努力により、1964年東京オリンピックの聖火リレーの計画は最終的に形を取ることができました。
それぞれの役割と尽力により、聖火リレーは成功を収め、日本人の誇りとされる象徴的なイベントとなりました。しかし、その成功の裏には、森西栄一と他の踏査隊メンバーのような、多くの無名の英雄たちの奮闘があったのです。
本当は聖火を国産旅客機で運びたかった!?
1962年7月4日に開催された「聖火リレー特別委員会」の第1回会合では、ユーラシア各地に空輸を依頼してまわった高島文雄がリーダーを務め、また、「ミスター聖火」と称された中島茂も姿を現しました。開幕2ヶ月前の8月半ばに日本を出発し、ギリシャのオリンポスで太陽光から採った火を約3週間かけて輸送機で運び、その間に中東やアジアの11都市を中継し、各地で聖火リレーを行うというプランを取りまとめていたのが中島でした。
しかし、中島は聖火を受け取ったギリシャから最初の寄港地であるイスタンブールまでの途中で左の視力を失うという突発的なアクシデントに見舞われました。しかし、彼はその状況を周囲に打ち明けることなく、誰もが彼の失明に気付かないまま、彼は聖火リレーの責任を果たし続けました。
聖火を運ぶ予定だった!戦後初の国産旅客機「YS-11」
YS-11は日本で最初に成功した大型の商業旅客機であり、その名前は「輸送機設計研究協会」の頭文字であるYとS、そしてエンジン候補の10案と機体仕様候補の1案から取られました。この機種は日本が第二次世界大戦後に開発した最初の旅客機で、日本の航空産業の復興を象徴する存在とされました。
日本は戦前には先進的な航空技術を持っていましたが、敗戦後の連合国軍総司令部(GHQ)により航空機の開発が禁止されました。そのため、戦後7年間の空白期間を経て開発されたYS-11は、日本の復興と再出発の象徴として捉えられました。その設計には、零戦の設計者として知られる堀越二郎をはじめとする戦前の航空技術者たちが参加しました。
YS-11の開発は、国と新三菱重工業(現在の三菱重工)、川崎航空機(現在の川崎重工)などが半官半民の体制で設立した「日本航空機製造」により進められ、初飛行は1962年8月30日に名古屋空港で行われました。全長26メートル、全幅32メートルのこの双発プロペラ機は、エンジンに英国ロールス・ロイス製を採用しました。また、YS-11は完全に人の力で操作する機械式の操縦システムを採用していたため、操縦が重いことで知られていました。
時代の流れで引退へ
YS-11の開発と生産は、半官半民の特殊法人によって行われました。そのため、多額の赤字が生じ、その問題が注目されるようになりました。抜本的な収入改善の見通しが立たない中で、通産省は生産を停止することを決定しました。
YS-11の生産は、1972年までに合計182機が製造されるまで続きました。その内訳は、国内民間機75機、官庁機34機、そして13カ国への輸出機76機でした。この機体は、民間の定期航路だけでなく、自衛隊や海上保安庁などでも幅広く活用されました。しかし、経済的に採算が取れず、生産は1973年に停止されました。
当オリジナルエンジンを積んだ最後の1機「YS-11」が引退
戦後初の国産旅客機であるYS-11の現役機が少なくなる中、航空自衛隊の飛行点検隊が使用していたYS-11の最後のフライトが2023年3月17日に埼玉県の入間基地で行われました。飛行点検隊の主な任務は、航空自衛隊の施設を空から点検することで、この日も双発プロペラ機がその任務のために飛び立ちました。
最後の空
空自が使用しているYS-11の中で、開発当初から搭載されていたロールス・ロイス製のダートエンジンを搭載した機体としては、これが最後の1機ではないかとされています。今後は、エンジンをオリジナルから交換した電子戦用の機体6機が残ります。これらの機体も入間基地に配備されており、電子作戦群に属するEAの2機とEBの4機です。
YS-11の最後のフライトは、日本の航空産業の一時代の終わりを象徴していますが、その技術と精神は後継の機体とともに引き継がれていくことでしょう。
「YS-11」から「DC-6B(シティ・オブ・トウキョウ)」に変更された理由
964年の東京オリンピックの聖火リレーの計画では、国産の旅客機YS-11の使用が提案されていました。これは戦後初の国産旅客機で、その世界デビューを同時に行うという目論見がありました。その使用は初めての試みであり、非常に期待されていました。しかし、計画の中で明らかになったのは、YS-11がアジアの各国の空港で円滑に運行できない可能性があるという事実でした。当時のアジアの空港は現在のように整備されておらず、これは大きな問題でした。結果的に、中島茂(当時の聖火リレーの責任者)が反対し、代わりにDC-6Bが採用されました。
一方で、YS-11の開発は急ピッチで進められ、1964年8月25日に初飛行が成功しました。しかし、聖火はすでにギリシャを出発しており、その使用は難しくなりました。それでも、YS-11はその後も進歩を遂げ、1964年9月8日には全日空のマークとロゴ、東京五輪エンブレムを機体に付けて羽田空港から飛び立ちました。この機体は「聖火」号と名付けられ、聖火を沖縄に空輸するために使用されました。これをきっかけに、全日空のYS-11は「オリンピア」の愛称を得ることになりました。
このように、YS-11は東京オリンピックの聖火リレーの一部として、その存在感を強く示すこととなりました。国産旅客機としての誇りを胸に、YS-11はその任務を全うし、日本の航空産業の復興を象徴する存在となりました。
歴史的瞬間!アメリカ統治下の沖縄で聖火リレーが始まる ── 東京オリンピック物語(15)