本記事では、当時の通信技術の進展と宇宙通信の重要性に焦点を当てています。記事では、日本が東京オリンピックにおいて宇宙通信技術を導入した経緯や、米国のケネディ大統領が推進したグローバル通信衛星システムの実現について触れています。
さらに、衛星通信の実験と成功裏に終わった衛星中継によるテレビ放送の実施、そしてケネディ大統領暗殺の衛星中継が日本に伝えられたエピソードなども紹介しています。
この記事を通じて、日本が宇宙通信技術を確立し、オリンピックの成功に向けて果たした役割について理解を深めることができます。
「ピクトグラムの誕生」日本初のレガシーが世界に広がる ── 東京オリンピック物語(12)
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全世界に衛生中継
1964年の東京オリンピックに向けて、電波研究所は4月から短期間で準備を始め、代々木から鹿島までのマイクロ中継と鹿島支所の宇宙通信施設を活用した送受信を成功させました。放送協会技術研究所は新たな技術開発に挑み、SN比の改善を可能にする正極同期ノンリニヤエンファシス方式と帯域圧縮に役立つフィールド内挿方式を開発しました。一方、日本電気株式会社は鹿島支所の10mパラボラなどの送受信設備の製作と実験を担当しました。
「宇宙通信の黎明期 」 茨城県十王町の重要な役割
1962年、アメリカでは通信衛星「テルスター衛星」と「リレー衛星」が相次いで打ち上げられました。これに対応するため、国際電信電話㈱研究所は茨城県十王町に宇宙通信設備を建設しました。これには直径20mのパラボラアンテナ、人工衛星を追尾する装置、6ギガヘルツの大出力広帯域送信装置、4ギガヘルツの低雑音高感度受信装置など、宇宙通信実験のための各種設備が含まれ、これら全てが純国産技術によって完成されました。
適地選定の困難とその解決
初期の地球局建設予定地は、国有地の払い下げを受けていた茨城県神栖村(現在の鹿島郡神栖町)でした。しかし、NTTの地上マイクロ波回線との干渉が懸念されたため、全国の複数地点で干渉計算と実地測定を行った結果、茨城県高萩市に隣接する十王町の国有地が最終的な地点として選ばれました。
新たな命を吹き込まれた古い施設
KDDIの衛星受信施設は後にKDDI山口衛星通信センターに集約され、2007年にKDDI茨城衛星通信センターはその役目を終えました。しかし、その土地は新たな命を受け、高萩市と日立市に無償で譲渡されました。特に高萩市側の土地は、高萩市衛星通信記念公園(さくら宇宙公園)として再整備され、観桜の新たな名所となりました。
「テルスター2号」の成功裏な追尾実験
1963年7月7日の午後、国際電信電話㈱研究所ではアメリカの通信衛星「テルスター2号」の追尾実験が実施されました。追尾用パラボラアンテナを使用して、安定した追尾が行われ、衛星の軌道についての完全な記録が得られました。この実験は成功裏に終わり、日本の宇宙通信技術の一大ステップとなりました。
「シンコム」シリーズと静止衛星の誕生
1963年2月14日、アメリカはその最初の静止衛星「シンコム1号(Syncom 1)」を打ち上げました。しかしながら、無線機の故障で1日で連絡が途絶してしまいました。これを受けて、約5ヶ月後の1963年7月23日に、ケープカナベラル空軍基地から「シンコム2号(Syncom 2)」が打ち上げられました。
「シンコム2号」の通信能力と影響
「シンコム2号」は、電話やテレビ放送の中継を行う通信用の試験衛星で、300回線の通話を処理できる能力がありました。この衛星は静止衛星とされており、地上から見ると衛星がいつも同じ位置に見えるものを指します。打ち上げ時の軌道の傾きを修正することができず、南大西洋上空で8の字形を描く軌道をとりましたが、それでも電話回線の中継実験に成功しました。
「シンコム」シリーズと衛星中継の未来
シンコム1号から3号までが地球の周りに静止すれば、理論的には地上波からの衛星中継が実現可能でした。しかし、シンコム1号は電気系統の故障、2号は静止に失敗し、完全な静止衛星の実現は進まなかったものの、これらの取り組みは通信衛星技術の重要なステップとなりました。
東京オリンピックと通信衛星「シンコム3号」の役割
当時、世界中への中継には人工衛星が必要でしたが、使用できた衛星は制限が多く、日本からの利用は困難でした。しかし、オリンピック開会式の7ヶ月前の1964年3月、郵政省はNASAに対し、新たに太平洋上に打ち上げる予定の静止通信衛星シンコム3号の使用を提案しました。
「シンコム3号」の打ち上げとテスト
1964年8月19日、通信衛星「シンコム3号」がアメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙基地から打ち上げられ、世界初の静止衛星として赤道上空の最終静止点に到着しました。その後、9月12日夜11時から翌朝にかけて「ループテスト」が実施されました。このテストでは、茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)にある郵便省の電波研究所鹿島地上局から試験信号を送り、衛星を中継して戻ってくるかを確認しました。
「東京オリンピックの宇宙テレビ中継」の確定
ループテストの成功により、「東京オリンピックの宇宙テレビ中継が可能となった」ことが確認され、当時のニュースもその旨を報じました。これは人類史上初の試みで、科学技術の進歩とスポーツの融合が実現した瞬間でした。
「シンコム3号」とテレビ信号の伝送
シンコム3号はもともと電話回線用に開発された衛星であり、帯域幅が狭く送信パワーも小さかったため、広帯域のテレビ信号の伝送には適していませんでした。この問題を解決するために、正極同期ノンリニアエンファシス法が開発・導入されました。
伝送テストとその成功
伝送テストはオリンピック開会式の僅か2週間前に始まりました。その結果、使用に耐えることができるとの結論が出たのは10月2日で、開会式のわずか8日前のギリギリのタイミングでした。その後、日米間で行われた五輪テレビ中継の公開放送テストが成功し、リハーサルの聖火や米水泳チームの練習風景が全米のテレビで鮮明に映し出されました。米国側からは「受けた映像は優秀だった」との報告がありました。
「テレビ五輪」の始まり
この一連の成功により、東京は「テレビ五輪」の幕を開けました。これは史上初の宇宙を舞台にした国家プロジェクトであり、科学技術とスポーツの融合、そして世界への映像伝達の可能性を示しました。
衛星中継のルート
衛星中継本番のルートは次の通りでした:放送センターから小金井の電波研究所に送信され、筑波山中継所を経て鹿島地上局から太平洋上の衛星に送られました。アメリカ側では、ロサンジェルス近郊の地上局で信号を受信し、ATTの国内回線でニューヨーク州バッファローに送られ、米国内はNBC、カナダはCBCから放送されました。
国際放送の成功
収録されたVTRテープはロンドン、パリに空輸され、EBUのネットワークで欧州各国でも放送されました。この衛星中継は安定しており、画質も良かったことから、史上初のオリンピック衛星中継は大成功に終わりました。これがテレビのグローバル化の始まりとなりました。
オリンピック衛星中継の裏側
この成功には、オリンピックを前にした中継可能性の検討、シンコム3号の打ち上げにまつわる米国との困難な折衝、帯域圧縮技術などの技術裏付けが大いに寄与していました。また、短時間でパラボラアンテナをはじめ送受信設備を製作した熱意も非常に大きかったといえます。
多方面からの支援
オリンピックTV中継を実現するためには、電波監理局、電電公社、日本放送協会、国際電電などの国内機関、衛星通信実験実施期間連絡協議会、そして米国関係機関の活動が重要であり、これらの組織の支援が特筆すべきでした
ケネディ大統領のビジョン
米国のケネディ大統領が、衛星を使ったテレビ中継を世界的に推し進めたのは重要な事実です。彼は何度も国際会議を開催し、宇宙通信の将来について考えました。ケネディ大統領は1961年7月の「宇宙通信に関する大統領声明」で、「すべての国が参加できる単一のグローバル通信衛星システムを実現させよう」と提唱しました。
インテルサットの設立
彼のこのビジョンは、1964年に設立された国際電気通信衛星機構(インテルサット)によって具現化されました。インテルサットは、全世界で無差別かつ平等に使用できる通信衛星システムの設立と運用において中心的な役割を果たし、今日までその役割を続けています。
世界初の衛星中継とリレー1号
1962年、米国はテルスター1号という名の通信衛星を打ち上げ、世界初のテレビジョン及び電話の衛星中継に成功しました。更にその後も、宇宙通信の研究と開発が進展し、静止軌道への衛星の投入技術が確立されるにつれて、実利用への可能性が高まってきました。
日米間の衛星受信実験と初のテレビ伝送実験
日本と米国間では、1963年にリレー1号という通信衛星を使った初の衛星受信実験が行われ、大陸間通信における人工衛星の利用の可能性が広がりました。リレー1号は静止衛星ではなく、地球の周りを約3時間で一周する低軌道の衛星でした。その年の11月には、リレー1号を用いて日米間で初の衛星テレビ伝送実験が行われ、成功を収めました。
日本へ初のテレビ中継は「ケネディ暗殺事件」
この初の衛星テレビ伝送実験は、日本時間で1963年11月23日午前5時27分から全国放送で実施されました。この中継では、最初に「NASA」と書かれたテストパターンが表示され、次にカリフォルニア州モハーヴェ砂漠の風景が映し出されました。本来は、この時間にケネディ大統領から日本国民へのメッセージ(録画)が放送される予定でしたが、急遽変更となりました。
第2回衛星中継とケネディ暗殺
第2回の衛星中継は日本時間で午前8時58分に開始され、この放送中にジョン・F・ケネディ米大統領の暗殺が報じられました。この放送はNHKによって行われましたが、出演したのは毎日放送のニューヨーク特派員である前田治郎氏でした。彼は「日本の皆様、この歴史的な電波に乗せて、誠に悲しむべきニュースをお伝えしなければならない」という言葉で報道を始めました。このようにして、ケネディ大統領の暗殺のニュースは衛星を経由してほぼリアルタイムで日本に伝えられ、日本への初の衛星テレビ中継となりました。一方、日本からアメリカへの伝送実験はオリンピック開催年までずれ込みました。
衛星中継を受信したKDD茨城宇宙通信実験所
ケネディ大統領暗殺の衛星中継を受信したのは、茨城県十王町(現・日立市)に新設されたばかりのKDD茨城宇宙通信実験所(後のKDDI茨城衛星通信センター)でした。この実験所は開所からわずか3日前で、その驚くべきニュースは、直径20メートルの第1アンテナによって受信されました。これは世界で初めて作られた「カセグレン型アンテナ」で、主反射鏡と副反射鏡からなるものでした。当時の通信衛星は静止衛星ではなかったため、技術者は衛星の軌道を常に計算し、電波を探知して衛星を追跡し、パラボラアンテナを動かしながら電波をやりとりしていました。
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