「ピクトグラムの誕生」日本初のレガシーが世界に広がる ── 東京オリンピック物語(12)

1964年の東京オリンピックは、ピクトグラムという視覚言語の革新をもたらしました。当時、道路標識や公共施設の表示には文字が主流であり、国際的な統一性が欠如していました。しかし、オリンピックの開催を機に、グラフィックデザイナーたちが新たなデザインの可能性を追求しました。

亀倉雄策をはじめとするデザイナーたちは、シンプルかつ明瞭なピクトグラムを提案し、国境を超えて理解されるデザインを実現しました。

この記事では、東京オリンピックがピクトグラムの普及とデザインの革新にどのような役割を果たしたのか、その歴史と意義を紹介します。さまざまなデザインの背後にある哲学やチームの取り組みも明らかにし、東京オリンピックがデザイン界にもたらした影響力を探求します。

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世界26 か国80 都市のピクトグラム約1000点の写真を収録した図鑑。駅や空港のサインデザイナーである著者が世界で撮影したピクトグラムの写真を項目別、国別に分類し、わかりやすく解説しています。 項目別のページでは、非常口やトイレなどのアイテム別にピクトグラムを分類し、国ごとの表現の違いを一覧できます。また、国別のページでは、イタリアのスリ注意やタイの僧侶用優先席の表示など、その国らしいピクトグラムも登場。ピクトグラムを通して、世界の文化や風習の違いを垣間見ることができます。 ピクトグラムの選定にかかわる専門家がユニークで鋭い視点からピクトグラムを紹介した今までにない一冊です。

Pictogram

ピクトグラムの起源と東京オリンピック

Olympics/YouTube

世界中の公共空間で見かける「ピクトグラム」。それは、トイレマークや非常口マークなど、シンプルなデザインの絵文字で表現された記号であり、文字を用いずとも情報を伝える役割を担っています。このピクトグラムが私たちの日常生活に根付く存在となったきっかけは、なんと1964年の東京オリンピックにまで遡ります。

1964年東京オリンピックと「言葉の問題」

1964年の東京オリンピックでは、大量の外国人観客の来訪が予想されました。しかし、その当時、公共交通機関などで英語、中国語、韓国語の表示やアナウンスが行われる環境はまだ整っていませんでした。外国人を意識した施設やサービスはほとんど存在せず、彼らにどのように対応するかが課題となっていました。

東京五輪の通訳問題と学生の活躍

特に難題となったのが、通訳の問題でした。教育ジャーナリスト、小林哲夫さんの著書「大学とオリンピック 1912―2020」(中公新書ラクレ)によれば、組織委員会は通訳者に長期的な訓練が必要と判断し、大学生を中心に活用することにしました。英語とフランス語の通訳が求められ、競技別に18の大学から約300人の学生が選ばれました。彼らはプレオリンピックや研修合宿を通じて競技知識を身につけ、大会中にその能力を発揮しました。彼らと直接交流し、現地の言葉を学ぶことは、学生にとって貴重な経験となりました。一部の学生は、卒業後に国際会議で同時通訳として活躍したりもしました。このような人材育成もまた、大会の貴重なレガシーと言えるでしょう。

東京オリンピックへの道「デザイン転換期の会議」

1964年の東京オリンピックは、アジアで初めて開催されたオリンピックでした。実はその大会開催の4年前に、日本と世界のデザインを転換する重要な会議が開催されていました。

デザインの三分野と国際共通認識の問題

1960年5月7日から16日までの間、27カ国から200数十名のデザイナーや建築家が東京・産経ホールで集結しました。この会議の中心人物には、勝見勝、坂倉準三、柳宗理、亀倉雄策、丹下健三などが名を連ねており、デザインの分野の違いを超えて討論を行うとともに、世界のデザイン界との国際交流の場を創出することを目指しました。

会議では、グラフィック、インダストリアル、環境の三分野に分けて討議が進められました。各分野のデザイナーたちは、この会議を通じて初めて分野を超えた横の繋がりと国際的な繋がりを持つことができました。これは日本のデザインを海外に知らしめるための威信あるイベントでもありました。

特に注目されたのが「国際共通認識としてのデザイン」の課題でした。当時、道路標識や空港内のピクトグラムはまだ国や文化圏ごとに異なり、統一されていませんでした。しかし、国際交流が増える中で、言語や文化に依存しない共通認識のデザインをシステムとして構築することが求められました。

ピクトグラムの提案者「亀倉雄策」

東京オリンピックにおいてピクトグラムの利用を提案したのは、グラフィックデザイナーの亀倉雄策でした。彼は日本デザイン界を代表する人物であり、東京オリンピックの大会マークや公式ポスターの制作も担当しました。また、一般に広く浸透した「グッドデザイン選定マーク(Gマーク)」や「NTT」のロゴも、亀倉の手によるものです。彼の作風は「シンプルで明瞭、力強い」ことで知られており、国境を越えて訴えかけるデザインを追求しました。

インターネットミュージアム/YouTube
亀倉雄策と東京オリンピック誘致

亀倉雄策は1959年5月26日、1964年の第18回夏季オリンピック開催地を決める第55次IOC総会に向けて、立候補していた東京のプレゼンテーション資料の表紙を制作しました。この総会はミュンヘン体育館で開催され、ウィーン、ブリュッセル、デトロイトとともに東京が立候補していました。亀倉はこのように、早い段階から東京オリンピックの誘致に深く関わっていたのです。

亀倉雄策が立ち上げたドリームチーム

亀倉雄策はその洞察力でピクトグラムの価値を早くから認識していました。彼はデザイン評論家の勝見勝を統括者として起用し、田中一光、杉浦康平、福田繁雄といった才能あふれるデザイナーを集めてチームを結成しました。このドリームチームが、それぞれの専門分野を生かしてピクトグラムをデザインしたのです。

「家紋の哲学からピクトグラムへ」勝見勝の発想力

東京オリンピックでは、デザインエディターの勝見勝がプロデューサー的立場を取り、全体の指揮を執りました。彼は言語の問題を考慮に入れ、「日本人にフランス語は絶望的に通じない。英語もかなり危ない。そして外国人には日本語がほぼ通じない。それでも競技と必要最小限の施設は分かるように表示しないといけなかった」と語っています。

家紋から学ぶデザイン哲学

この言語問題に対処するためのアイデアとして、勝見は日本の伝統的な家紋を参考にしました。家紋はシンプルな形でありながら、明確なメッセージを伝達できることから、彼はこれを「日本人の最も得意とする分野」と位置づけ、ピクトグラムのデザインに取り入れたのです。

勝見が最も重視したのは、一部の専門家だけが理解できるようなデザインのクオリティではなく、多くの人々が共有できるデザインの確立でした。この哲学は、社会に既に定着している家紋からも見て取ることができ、その再評価には大きな意義があったのです。

一職人からピクトグラムの創造者へ「山下芳郎」

勝見勝と同様に、山下もまた、デザインの「無私」を追求する一方で、形の無駄を排除し、テーマの本質を浮き彫りにすることを目指しました。彼は単なる上絵師から、ピクトグラムの創造者となるために、自身の技術と心血を注いだのです。

山下のデザインの根底には、日本の家紋から学んだ哲学があったと言えます。その哲学とは、一つの植物やモチーフをシンプルなマークにすることで、それぞれの競技や施設を視覚的に表現し、人々に明確に伝えることでした。これは、過剰な装飾が施され、一見して理解するのが難しい海外の紋章とは一線を画すもので、東京オリンピックのピクトグラムを国際的なデザインの先駆けとする要素の一つとなりました。

不足していた施設表示

競技種目については早期にデザインされていましたが、なお必要だったものが一つありました。それは施設に関する表示の問題でした。

五輪のデザイン会議

1964年、夏の深夜。赤坂にある東京オリンピック組織委員会の地下会議室で、先輩デザイナーたちは豪華なイスに座り、円卓を囲んでいました。彼らは後にみんなが知るようなロゴデザインや芸術作品を手掛けることとなるメンバーでした。

若き日の巨匠たち

その場にいた多くのメンバーは当時20~30代で、今やデザイン・アート界の巨匠として知られています。例えば、無印良品のトータルデザインを手掛けた田中一光、世界的な美術家の横尾忠則などがその一人でした。

デザイン評論家・勝見勝の役割

デザイン評論家の勝見勝は、自ら電話を使って若手クリエーター11人を集めました。彼が声をかけた人々は、その後各々の道で成功を収めました。原田維夫さんは当時最年少で、大先輩ばかりのメンバーの中で、そこに呼ばれることが誇らしかったと語ります。

無私の芸術、デザイン室の課題

「勝見さんだから、これだけのメンバーを集められた。みんな忙しいから集まるだけで大変だった」と、デザイン室コーディネーターを務めた道吉剛さんは話します。道吉さんは、その後70年大阪万博にも関与することになります。

「見てすぐにわかるデザイン」

 最初の会議では、勝見先生からまず次のような挨拶がありました。「皆さんに集まっていただいたのは、会場でのシンボルを考えてもらうためです。オリンピックには日本語だけではなく、英語が分からない外国人もたくさん来る。だから、ひと目見てその場所が何か分かるようなアイデアを出してほしい」

デザイン会議の具体像

会議室にはわら半紙と2Bの削られた大量の鉛筆が山積みになっていました。当時のピクトグラムの開発は、パソコンが存在しなかった時代の手作業で行われ、完全にボランティアの仕事でした。

ボランティアベースのデザイン作業

メンバーは無償で毎週1回集まり、ピクトグラムのデザインの素案を練りました。週に数回、自身の仕事を終えた後の夕方7時頃に集まり、弁当だけが報酬の無給奉仕で39種類のピクトグラムを生み出しました

勝見勝が用意したテーマ、例えば「トイレと電話」について、みんなが一斉に同じピクトグラムのデザイン素案を描いていきました。1つのテーマが終わると、担当者が半紙を回収し、お弁当の時間を挟んで次のテーマが始まりました。

ピクトグラムデザインの難しさと試行錯誤

特に「サウナ」のデザインは難しかったと原田さんは語ります。「あぐらをかいた人の後ろから湯気が立ち上る絵を描くと、『不動明王みたい』とみんなに笑われた」と彼は振り返ります。

ピクトグラムが一目で理解できるかどうかを確認するために、大学生を使った市場調査が行われ、試行錯誤が続けられました。トイレのピクトグラムは男女を表す人型を作り、青とピンクで色分けした。

特に難しかったのはシャワーのピクトグラムで、その存在自体が知られていない人が多かった時代でした。結局、ジョウロから水が落ちる絵の下に人の横側を描くことで表現しました。また、迷子センターのピクトグラムは泣いている女の子で、「なぜ男の子ではなく女のの子なのか」という疑問も出ました。

デザイン作業の終わり

最終的に、全てのピクトグラムが完成したとき、チームは大きな達成感を感じました。それはまさに、視覚的な言語を生み出すという、新たな挑戦の成果でした。

著作権放棄とピクトグラムの普及

それぞれのデザインに対する著作権を放棄するという決断が、ピクトグラムの普及に大きな役割を果たしました。原田さんは、「全てのメンバーが最終日に集まったとき、勝見さんが著作権を放棄することを提案した」と振り返ります。みんなが一生懸命にピクトグラムの作成に取り組んだにもかかわらず、若手デザイナーたちはこの提案に反対することなく、進んで著作権放棄の署名を行いました。

「当時はあまり理解していませんでしたが、後で振り返ると、私たちが考えた施設シンボルが世界中で現在も根付いているのは、勝見さんが著作権を放棄したからこそ。そこまで考えておられた勝見さんはすごいと思います」と原田さんは語ります。

この決断により、今日、ピクトグラムは日本だけでなく、全世界で案内表示として広く使われるようになりました。また、競技種目のピクトグラムは、その4年後に開催されたメキシコオリンピックでも作成され、現在でも各大会に合わせて作成され続けています。

世界で最も広く採用されているピクトグラム

「トイレ」のピクトグラムは、これらの中で最も採用されていると言われています。亀倉雄策は「東京オリンピックで後世に残ったデザインがふたつある。僕がやったポスターとそれからピクトグラムだ。だって、それまでは日本中、どこへ行っても便所、手洗い、厠と書いてあったんだよ。それがあの絵文字のマークにがらっと変わったんだから、それは大した仕事だ」と振り返ります。

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