
東京オリンピック物語(11)──「世界に見せて恥ずかしくないような街へ」ゴミだらけの首都を浄化せよ!
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Filthy TOKYO
「汚い!」「臭い!」当時の東京はそんな街だった
1964年の東京五輪の以前、東京はものすごく汚くて臭い街だったと言われている。
今昔写真/から振り返る「あの日の渋谷」vol.5テーマ:「オリンピック国民運動」/渋谷文化PROJECT.2019
1956(昭和31)年の『経済白書』の「もはや戦後ではない」という一文が当時の流行語になったが、1960年代半ばの東京都内にはまだ駐留軍に接収されている地域もあり、道路も舗装されていない泥道、砂利道が多かった。水洗トイレや下水の普及率も低く、都市基盤の整備や衛生状態は、欧米各国に大きく後れをとっていた。
1964年東京五輪を機に変貌を遂げた渋谷の街2020年以降の東京はどのように変化するのか/東洋経済ONLINE.2020
終戦から20年余り、国民のほとんどが生きるのに精一杯で、公衆道徳を考える余裕すらない時代。家庭ごみは路上に放置されて臭気を放ち、そこら中に痰(たん)や唾を吐き捨て、人目をはばからず大人が平気で立ち小便をする姿も日常的な風景だった
今昔写真/から振り返る「あの日の渋谷」vol.5テーマ:「オリンピック国民運動」/渋谷文化PROJECT.2019
文部大臣や中央教育審議会会長を務めた森戸辰男(もりと・たつお)が『オリンピックと道徳』と題した論文で嘆いている。日本人は家を出たとたん道路や公園、共同便所などを汚し、鉄道の車内では人に席を譲ることなく喧嘩場のようなありさまであった、と。
【オリ・パラ今昔ものがたり】東京は「臭いまち」だった/日本財団ジャーナル.2020
オリンピックに向けて国民の意識向上へ!!
海外から外国人を多く迎えるにあたり、各省庁などが協力してオリンピック国民運動を創設。公衆道徳の高揚、交通道徳の高揚、衛生観念の発達など7つの柱を掲げ、外国人に不快な思いをさせないよう、国民の意識向上に努めた。
1964から2020へ=歴史を伝える意義/笹川スポーツ財団
学校ではオリンピック読本が作られ、子どもたちがオリンピックの歴史などを学んだ。日本の選手だけでなく、海外の選手への応援を奨励するなど啓蒙的な側面があった。観光地や東京近隣の自治体は、マナーの向上に重点を置いた大人向けのオリンピック読本を独自に製作した。
1964から2020へ=歴史を伝える意義/笹川スポーツ財団
(前略)環境汚染対策や1964年の東京オリンピックの開催などに伴って、電車だけでなく、街なども対象に、マナーやモラルが今の日本のように変わっていった。
池田修一/人民中国
首都美化運動
(前略)オリンピックの開催は「海外からのお客さんに不潔な東京を見せたくない」,「都心からバキュームカーが走る姿をなくせ」,「死んだ川と呼ばれる隅田川を甦らせよう」,と必死で下水道の整備に取り組む契機ととなりました。戦後,下水道事業には本格的な投資が行われない時期が続きましたが,オリンピック開催を機に本格的な整備が進みました。
下水道とオリンピック/建設総合ポータルサイト けんせつPlaza.2020
東龍太郎(東京都知事)「世界に見せて恥ずかしく無い……」
64年大会の開催が決まったのは、59年の国際オリンピック委員会(IOC)総会だった。IOC委員で招致に尽力した東龍太郎氏が、都知事に初当選してから1カ月後のことだった。
オリパラこぼれ話 「首都美化はオリンピックの一種目」 きれいな街づくりで東京都/毎日新聞.2020
「次のオリンピック開催が決定された以上、東京は世界に見せて恥ずかしくない生活空間と文化施設をもつ都市でなければならない。<日本の東京を>を<世界の東京>にする」東京都の東龍太郎知事は、記者団を前に歓喜を込めて意気込みを語った。
東京オリンピックと大渇水~オリンピック大会 (p.10)/高崎 哲郎.水資源機構
「首都美化運動」
きれいな街で各国の選手団を迎えたい――。1964年オリンピックに向けて、首都美化運動が繰り広げられた。東京都が62年12月から毎月10日を「首都美化デー」に指定し、街中にあふれるごみを減らすなど、都民総出で道路清掃などを行ったのだ。
オリパラこぼれ話 「首都美化はオリンピックの一種目」 きれいな街づくりで東京都/毎日新聞.2020
調布市では、市内を通る甲州街道がマラソン競技と50km競歩のコースとなり、調布市赤十字奉仕団のボランティア延べ1000人が、大会の1カ月前から沿道の清掃活動を行いました。団員たちは「選手が走るのに、クギ1本でも落ちていたら大変」と、ほうきとちり取りを持参して、雑草が伸びていた沿道を清掃しましたが、壊れた自転車やリヤカー、冷蔵庫まで出てきました。これらの不法投棄のごみは、市のトラックが回収しました。
東京1964「私たちが見たオリンピック」(市報ちょうふ平成28年10月5日号)/調布市ホームページ.2016
ポリバケツの誕生
「ゴミ容器」として現在当たり前に使われているポリバケツも、この美化運動の波に乗って普及した商品の一つ。
今昔写真/から振り返る「あの日の渋谷」vol.5テーマ:「オリンピック国民運動」/渋谷文化PROJECT.2019
オリンピックが始まる前にゴミをなんとかしないと
今や海外からの旅行者からクリーンな都市と称される東京。しかし、1960年頃の東京都は街の景観を損なう1日約7000トンというゴミの処理に頭を抱えていた。急速な都市化で家庭ゴミは増大し、人力による月に2~3度の不定期回収では対応しきれず、ゴミ処理は社会問題となっていた。
プラスチック製ゴミ容器 ポリペール – 積水化学をもっと知る/積水化学
世界の人々を迎えるにあたって、各家庭の前にたまっているゴミの山は、衛生面でも見た目の面でも何とか解決しなければなりません。
ゴミ箱はいつだって進化している~江戸から現代まで人々の暮らしに寄り添うゴミ箱事情~/株式会社テラモト.2020
清掃事業の近代化
オリンピック招致を契機に東京都は首都美化運動と連動して清掃事業の近代化にも取り組んだ。
オリンピックが変えた東京の街・「首都をきれいに!」~「レガシー」からたどる1964/読売新聞オンライン.2020
新たなゴミ収集システム!
オリンピックを4年後に控えた1960年。東京都は、来日中だったニューヨーク市清掃局長からヒントを得て、新たな収集方式を考えました。当時のニュ―ヨークでも採用されていた、各家庭に持ち運び可能なゴミ容器を備え、決まった曜日・時間に収集するという方法です。
ゴミ箱はいつだって進化している~江戸から現代まで人々の暮らしに寄り添うゴミ箱事情~/株式会社テラモト.2020
それまで、各家庭はゴミを路上に置かれたコンクリート製や木製のゴミ箱に捨てていたが、作業員が不衛生な環境を強いられるうえに、ゴミ箱は町の景観を損ねるなどと指摘された。
オリンピックが変えた東京の街・「首都をきれいに!」~「レガシー」からたどる1964/読売新聞オンライン.2020
その時代!ゴミは木の箱に捨てていた。
日本で初めてゴミ箱が設置されたのは、明治33年のことです。
意外と知らないゴミ箱の歴史。最古のゴミ箱と最新のユニークなゴミ箱をご紹介!/株式会社テラモ.2019
この年、「汚物掃除法」という法律が制定され、「塵芥箱(じんかいばこ)」が設置されるようになりました。
それを大八車などで回収し焼却処理されるようになります。
日本でゴミ箱が登場したのはいつ?そしてなぜ設置された?/Yahoo!不動産おうちマガジン.2015
このような慣習となったのは、江戸時代以前には空き地や堀にゴミが捨てられており、それがもととなってコレラなどの感染病にかかる人が増えたことが原因と言われています。その死者は、日清・日露戦争の戦死者をはるかに超えたといわれています。こうした感染病をなくすために、ゴミ箱を設置し、環境をよくしようとしたわけです。昭和5年には焼却処理が自治体の責務となります。
日本でゴミ箱が登場したのはいつ?そしてなぜ設置された?/Yahoo!不動産おうちマガジン.2015
積水化学がポリバケツを開発!
この容器を日本で初めて作ったのが積水化学。
東京オリンピックが生んだポリバケ/エキサイト.2005
積水化学は、米国のゴミ容器をヒントに試作したポリエチレン製の蓋付き“ポリペール”を都に持ち込み、提案。ポリペールを採用したゴミ収集方式が決定された。
プラスチック製ゴミ容器 ポリペール – 積水化学をもっと知る/積水化学
積水化学は「オリンピックをきれいな東京で。」(1962年7月24日、朝日新聞)で、都会のゴミ問題をテーマにしている。「東京オリンピックまで、あと800日・・・昭和39年には、世界90か国の人々がやってきます。ぜひきれいになった東京で、はなばなしく競技をくりひろげたいもの。それまでに、どうしても、ちゃんとしておきたいことがひとつ。――1日7千トンのゴミの処理です。」セキスイのポリバケツの活躍をアピールする社会性のある企業広告を展開した。
昭和の広告人のアイデアに学ぶ!東京オリンピックで飛躍した企業の宣伝活動(2)/宣伝会議デジタルマガジン
蓋がついているというのがポイントで、それまでのゴミ丸見えという見苦しさもなくなって美観という点で効果が高かったのだそうだ。
ゴミ袋とオリンピックの関係ってなに?/サニパック.2020
杉並区から全国へ普及
東京都はまず杉並区をモデル地区として、この新しいゴミバケツを使用し、定時収集する方法を採用しました。現在のようにビニール製のゴミ袋が普及していない時代に、フタつきで密封でき、女性でも両手で持ち運びできること、そして簡単に水洗いできるこのゴミバケツは好評でした。また収集する人も直接ゴミに触れることなく一気にトラックへ乗せることができるため、手間がずいぶん省けたそうです。
ゴミ箱はいつだって進化している~江戸から現代まで人々の暮らしに寄り添うゴミ箱事情~/株式会社テラモト.2020
新方式の回収が始まると住民からは好評を博し、杉並区で正式に採用が決まると、1963年度末までには都内全区で実施された。同時に首都美化運動が展開され、ポリペールの普及を後押しした。
プラスチック製ゴミ容器 ポリペール – 積水化学をもっと知る/積水化学
「街を清潔にする運動」
積水化学も1962年に、創立15周年記念キャンペーン「街を清潔にする運動」をスタート。当時としては画期的なシリーズ広告で街の美化を訴求し、ゴミ問題に関する消費者への提案活動を展開した。公共性とも結びついた販促活動は、多くの自治体や日頃から家庭のゴミ処理に困っていた主婦層の心をつかんで、ポリペールは空前の大ヒット商品となり、各メディアからは“清掃革命”と賞賛された。かくして東京都のゴミ処理問題解決に大きな役割を果たしたポリペールは、その後、各地の自治体でも同様の収集方式が採用され、全国的に普及していく。
プラスチック製ゴミ容器 ポリペール – 積水化学をもっと知る/積水化学
ポリ袋も普及
ポリ袋は当初、ポリバケツの内側に敷く付属品として販売されましたが、ゴミ回収後にポリバケツを家に戻さなくてすむ利便性から次第にポリ袋単体として使われるようになりました。
ゴミ袋とオリンピックの関係ってなに?/サニパック.2020
深刻な河川の汚染
1960年代から70年代にかけて、日本は「世界最悪の環境」という烙印を押され、「公害のデパート」とさえいわれた。大気や水質や土壌の汚染は深刻をきわめ、騒音や悪臭に生活を脅かされ、野生動物も姿を消した。各地で公害病が発生して法廷でその責任や補償が争われた。高度経済成長の見返りだった
富士山と隅田川—よみがえる日本の環境(序論)/nippon.com.2016
「大量生産と大量消費が生み出したのは“大量のゴミ”」この世界のルール資本主義(9)
汚染された隅田川
隅田川の花火大会は、1941年から 戦中戦後は中断していたが、48年に再開された。しかし、高度経済成長期以後に首都圏の道路網は整備され、隅田川が担ってきた物流機能は陸上交通に取って代わられた。同時に、下水や工場排水が隅田川に流れ込み、川の水質は急激に悪化した。さらに、水害から街を守るために高い堤防が築かれ、住民は川から分断されて川への関心は失われていった。
富士山と隅田川—よみがえる日本の環境(序論)/nippon.com.2016
もともと勾配が緩やかな隅田川では、岩淵水門から河口まで水が流れるのに3~4日かかり、汚染が進みやすかった。昭和に入ると化学工場や染色工場などが沿川に立地し、5mg/ℓ以下が望ましいとされるBOD(生物化学的酸素要求量)値は、1940(昭和15)年に10mg/ℓ、1955(昭和30)年頃には40mg/ℓに達し、1961(昭和36)年には早慶レガッタレースも中止となった。川からは有毒ガスが発生し、両岸の家々は窓を開けられず、近くの問屋の真鍮製品が10日で黒ずんだともいわれる。
江戸東京とともにある川「隅田川」/一般社団法人 建設コンサルタンツ協会
オリンピックを契機に汚染が改善
対策が本格化したのは、1964(昭和39)年の東京オリンピックが契機であり、区部全域で下水道整備を急速に進めるとともに、工場排水の基準設定や下水処理場整備により徐々に改善がなされ、1978(昭和53)年には早慶レガッタが再開されるに至った。
江戸東京とともにある川「隅田川」/一般社団法人 建設コンサルタンツ協会
その頃、まだ下水道がなかった
(前略) 前回の東京五輪(1964年)開催前の五十数年前、東京23区でも150万世帯のトイレがくみ取り式(知っていますか? 下水道がないので水洗で流せず、便器の下に糞尿=ふんにょう=をためる方式です)で、渋谷駅界隈(かいわい)をリヤカーに糞尿を積んだ業者が行き交っていたそうです。
東京五輪 快適トイレで「おもてなし」!/就活ニュースペーパーby朝日新聞 – 就職サイト あさがくナビ
下水道の整備
東京都は1962年、区部100パーセント普及を目指す「長期下水道整備10年計画」を策定。国の「第一次下水道整備五箇年計画」による約1,370億円の事業費を投下し、下水道整備を進めた。
【オリ・パラ今昔ものがたり】東京は「臭いまち」だった/日本財団ジャーナル.2020
結果、主な競技会場や選手村を置く渋谷区では、招致決定の1959年にはわずか3パーセントだった下水道普及率が、開催年の1964年に60パーセントにまで跳ね上がっている。
【オリ・パラ今昔ものがたり】東京は「臭いまち」だった/日本財団ジャーナル.2020
東京の下水道は、区部では平成6年度末に人口普及率100パーセントを達成し、多摩地域の普及率も平成19年度末に97%になっている。
1 東京都の下水道事業の概要/国土交通省
オリンピックの差大レガシー!?
「その基礎となる事業の仕組みが確立したのが1964年東京オリンピック開催とするならば、オリンピック最大のレガシーは下水道と言えるのではないでしょうか」――東京都元下水道局長、前田正博(まえだ・まさひろ)氏の言である(2020年5月、論文『下水道とオリンピック』より)。
【オリ・パラ今昔ものがたり】東京は「臭いまち」だった/日本財団ジャーナル.2020
意識改革が進んだ!そして東京は美しい街へ!

この計画は1970年を目標とした長期的なものだったが、1964年大会を第一目標として組織づくりや実践活動が進められた。つまり、五輪を迎えるために東京をきれいにしようと東京都が呼びかけ、その必要性を都民に伝える準備を進めてきたのだ。
東京は「清潔な街」のウソ 1964年のオリンピックまではメチャクチャ汚かった!/本がすき。.2018
その結果、首都美化運動が多くの都民に浸透し、街中に散乱するゴミや紙くずが一掃された。言い換えれば、首都美化運動がなければ、東京は汚い街のままだったとも言える。
東京は「清潔な街」のウソ 1964年のオリンピックまではメチャクチャ汚かった!/本がすき。.2018
首都美化運動は五輪のための弥縫策にとどまらず、その後も10年以上続いて、人々の意識改革をうながし、清潔な近代都市・東京の「レガシー」となった。
オリンピックが変えた東京の街・「首都をきれいに!」~「レガシー」からたどる1964/東京オリンピック2020速報 : 読売新聞オンライン.2020
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