1964年の東京オリンピックは、街の美化と公衆道徳の向上に大きな影響を与えました。当時の東京は不潔で公衆道徳が欠如しており、ゴミや汚染が深刻な問題となっていました。
しかし、オリンピックの招致を契機に、都民全体の意識改革と都市の改善が進められました。学校ではオリンピックの歴史を学ぶ読本が作られ、市民のボランティア活動も広まりました。
清掃活動や下水道整備など、さまざまな取り組みが行われ、東京は新たな誇りと美しさを手に入れました。この記事では、東京オリンピックがもたらした都市美化と公衆道徳の変革の歴史を紹介します。
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ゴミ問題からクリーンシティへの転換
東京の1964年オリンピックの開催前、東京はまだその潜在能力を十分に発揮していないと広く見なされていました。市街地は不潔で、公衆道徳の欠如は一般的に認識されていました。当時の東京を振り返ると、その変化が驚異的だと言えるでしょう。
戦後の影響と東京
1964年の東京オリンピック以前、都市の状況は困難を極めていました。1956年の『経済白書』に記載されていた「もはや戦後ではない」の一文は流行語となりましたが、1960年代半ばの東京ではまだ外国の軍隊が駐留し、舗装されていない道路や砂利道が広がっていました。
基盤の未整備
東京の衛生状況と都市基盤の整備は、欧米の主要都市と比較すると大きく劣っていました。水洗トイレや下水道の普及率が低く、道路の整備が不十分であることが多くの問題を引き起こしていました。
公衆道徳の欠如
文化の面でも、東京は難しい状況にありました。日々の生活の困難さから、多くの人々が公共の場でのマナーを守ることが難しくなっていました。家庭ごみが路上に放置され、唾や尿が無造作に捨てられていました。当時の文部大臣であり中央教育審議会会長でもあった森戸辰男は、この公衆道徳の欠如についての憂慮を表明しました。
オリンピックに向けて国民の意識向上へ!!
東京の1964年オリンピック開催を前に、日本は都市環境の改善と市民のマナーやモラルの向上に力を入れました。これらの取り組みは、現在の日本の公共マナーやモラルの高さの礎となりました。
電車だけでなく、街全体が対象となりました。政府は各省庁と協力して、外国人を多く迎えるためのオリンピック国民運動を創設しました。7つの柱、すなわち公衆道徳の高揚、交通道徳の高揚、衛生観念の発達を掲げ、外国人が不快な思いをしないよう国民全体の意識向上を図りました。
学校ではオリンピック読本が作られ、子どもたちはオリンピックの歴史などを学びました。これにより、啓蒙的な側面を通じて、日本の選手だけでなく海外の選手への応援も奨励されました。
さらに、観光地や東京近隣の自治体も積極的に参加し、大人向けのオリンピック読本を製作。これらの読本は、特にマナーの向上に重点を置いていました。
首都美化運動
東京の1964年オリンピック開催は、都市の変貌を加速させる契機となりました。その中心には、東龍太郎のリーダーシップと都市環境の改善への強い意志がありました。
東京オリンピックの決定と市街地の改善
東京が1964年のオリンピック開催都市に選ばれたのは1959年、国際オリンピック委員会(IOC)の総会においてのことでした。この選出に尽力したのはIOC委員で、わずか1ヶ月前に都知事に初当選した東龍太郎でした。
オリンピックの開催を控え、「海外の来訪者に不潔な東京を見せたくない」との強い意志の下、東京市は下水道の整備に積極的に取り組むことになりました。これは都市の風景を大きく変える契機となり、「都心を走るバキュームカーをなくす」、「”死んだ川”と呼ばれる隅田川を甦らせる」などの目標に向けた取り組みが進行しました。
「首都美化運動」一都市民の総力戦!
1964年の東京オリンピック開催に向け、首都の美化運動が展開されました。各地で取り組まれた都市清掃活動は、都市の風貌を変え、新たな誇りを市民にもたらしたのです。
首都美化デーの設定
1962年12月から東京都は毎月10日を「首都美化デー」に指定しました。これは、街中にあふれるごみを減らすため、都民が一体となって道路清掃などを行う日と定められました。街中の美化は、オリンピック開催に向けた一大プロジェクトとなりました。
調布市の取り組み!赤十字奉仕団のボランティア活動
例えば調布市では、特に市内を通る甲州街道がマラソン競技と50km競歩のコースとなったことから、大会の1ヶ月前から調布市赤十字奉仕団のボランティアが延べ1000人分の労力で沿道の清掃活動を行いました。団員たちは「選手が走るのに、釘1本でも落ちていたら大変」という強い決意のもと、道路沿いの雑草の除去やごみの清掃に取り組みました。その結果、壊れた自転車やリヤカー、さらには冷蔵庫までが道端から出てきました。これら不法投棄されたごみは、市のトラックが回収しました。
ポリバケツの誕生
かつて、日本の首都東京は、毎日約7000トンのゴミが街の景観を損なう大問題に直面していた。1960年頃に急速な都市化が進行し、その結果として家庭ゴミは急増。月にわずか2〜3度しか行われない人力による不定期回収では、ゴミの量に対処できず、ゴミ処理は大きな社会問題となっていました。
この問題は、世界中からの観客を迎え入れるべくオリンピックの開催を前にした東京にとって、深刻な挑戦となりました。街角に積み上げられたゴミは、衛生的な問題だけでなく、視覚的な問題も引き起こしていました。そこで、この問題に対処するための具体的な解決策が求められました。
そこで登場したのが、今では私たちの日常に欠かせないアイテムとなった「ポリバケツ」でした。
近代清掃の採用
オリンピックの招致を機に、東京都は首都の美化運動と共に清掃事業の近代化に力を注ぎました。オリンピックが開催される4年前の1960年、東京都はアメリカのニューヨーク市清掃局長から新たなゴミ収集方式のヒントを得ました。
当時のニューヨーク市では、各家庭が持ち運び可能なゴミ容器を使用し、定められた曜日と時間にゴミを収集するという方法が採用されていました。それに対し、東京では各家庭が路上に置かれたコンクリート製や木製のゴミ箱にゴミを捨てるという古い方法が用いられていた。
しかしこの方法は、清掃作業員が不衛生な環境で働くことを強いられるだけでなく、ゴミ箱が町の景観を損ねるという問題も抱えていました。そのため、ニューヨークの方法を参考にし、持ち運び可能なゴミ容器の導入と定期的なゴミ収集の実施を決定しました。
「汚物掃除法からポリペールへ」ゴミ箱の歴史と美化運動
ゴミ箱が日本で初めて設置されたのは、明治33年(1900年)。この年、「汚物掃除法」が制定され、初めて「塵芥箱(じんかいばこ)」と呼ばれるゴミ箱が街角に設置されました。ゴミは大八車で回収され、焼却処理が施されるようになりました。
この新しい習慣の導入には、過去の悲劇が大きく影響していました。江戸時代以前、人々は空き地や堀にゴミを捨てていたのですが、その結果、コレラなどの感染病が発生し、その死者数は日清・日露戦争の戦死者を大幅に超えるほどになったと言われています。こうした感染病を防ぐために、ゴミ箱の設置と適切なゴミ処理が強く求められ、昭和5年(1930年)には焼却処理が自治体の責務とされました。
その後、昭和35年(1960年)の東京オリンピック開催を控え、更なる都市の美化が求められる中、積水化学が新たなゴミ容器を提案します。それは米国のゴミ容器を参考に試作したポリエチレン製の蓋付き「ポリペール」で、これによってゴミが丸見えになるという問題が解消され、街の美観が保たれることとなりました。
積水化学はこの新たなゴミ容器の活躍をアピールするために、社会的な視点を取り入れた広告を展開。「オリンピックをきれいな東京で。」というキャッチフレーズと共に、都市のゴミ問題解決に向けた積水化学の貢献をアピールしました。
都市美化の一歩:杉並区とポリペールの導入
東京都は新たなゴミ収集方式の導入に向け、杉並区をモデル地区に選びました。当時はまだビニール製のゴミ袋が普及していなかったため、フタつきで密封可能な「ポリペール」が導入されました。この新しいゴミバケツは、女性でも両手で簡単に持ち運びができ、さらに水洗いも容易であるため、住民から好評を博しました。
また、清掃作業員にとってもメリットが大きく、直接ゴミに触れずにトラックへと一気に乗せることができたため、作業の手間が大幅に軽減されました。この新方式の回収が杉並区で開始されると、住民からの評判は上々で、その結果1963年度末までには都内全区で実施されることとなりました。
このポリペール導入は、同時期に展開された首都美化運動と連動し、都市環境の改善に大いに寄与しました。清潔で見た目にも美しい街づくりへの一歩として、東京が世界に誇る「クリーンな都市」への道のりが確実に進んでいったのです。
街の清掃をリードした積水化学と”ポリペール”
積水化学は創立15周年を記念して「街を清潔にする運動」を開始しました。1962年当時、画期的な広告戦略を通じて街の美化を訴求し、ゴミ問題に関する消費者への提案活動を展開しました。公共性にも配慮したこの販売促進活動は、多くの自治体やゴミ処理に困っていた主婦層の心を掴みました。その結果、ポリペールは大ヒット商品となり、その活動は各メディアから”清掃革命”と称されるほどの賞賛を浴びました。
ポリペールが東京都のゴミ処理問題解決に大いに貢献した後、同様のゴミ収集方式が各地の自治体でも採用され、全国的に普及しました。当初、ポリ袋はポリバケツの内側に敷く付属品として販売されていましたが、ゴミ回収後にポリバケツを家に戻さなくてもよくなる利便性から、次第に単体として使用されるようになりました。
積水化学の戦略的な活動は、都市環境の清掃と改善に対する国民の認識を一新し、街の美化という大きな流れを生み出しました。これは、都市の清掃に取り組む多くの都市で模範となる活動であり、今日に至るまでその影響は続いています。
公害のデパートからの脱却!東京の環境改善努力
1960年代から1970年代にかけて、高度経済成長による裏面の効果が顕著に現れ、日本は”世界最悪の環境”とまで言われ、「公害のデパート」とも形容されました。大気、水質、土壌の汚染は深刻で、騒音や悪臭による生活の脅威、野生動物の消失といった問題が顕在化しました。多くの地域で公害病が発生し、責任や補償を求める訴訟が相次ぎました。この公害問題は、当時の日本の急速な経済成長の代償だったと言えます。
特に象徴的だったのが隅田川の状況です。1941年から中断していた隅田川の花火大会は1948年に再開されましたが、その後の高度経済成長期には、首都圏の道路網が整備され、隅田川の物流機能は陸上交通に取って代わられました。同時に、下水や工場排水が隅田川に流れ込み、川の水質は急激に悪化。さらに高い堤防が築かれ、住民は川から切り離され、川に対する関心も失われていきました。隅田川は、工場排水や下水により有毒ガスが発生するほどに汚染され、近くの家々は窓を開けることもできなくなりました。
しかしこの状況が変わり始めたのは、1964年の東京オリンピックがきっかけでした。東京都は全区で下水道整備を急速に進め、工場排水の基準設定や下水処理場整備に取り組みました。これにより、隅田川の水質は徐々に改善し、1978年には早慶レガッタが再開されました。このように、都市の環境問題に取り組むことで、「公害のデパート」というレッテルから脱却し、よりクリーンな都市へと変貌を遂げることができたのです。
その頃、まだ下水道がなかった
1964年の東京オリンピックの開催は、都市インフラの大規模な改善を促す契機となりました。それ以前の東京23区では、約150万世帯のトイレがくみ取り式という、下水道がないために使用される旧式な方式で、糞尿をリヤカーに積んで運ぶ業者が渋谷駅周辺を行き交っていました。
しかし、1962年に東京都は区部全域の下水道普及を目指す「長期下水道整備10年計画」を策定。国の「第一次下水道整備五箇年計画」により、約1,370億円の事業費を投入し、下水道整備を進めました。これにより、主要な競技会場や選手村が置かれた渋谷区の下水道普及率は、招致が決まった1959年の3%から、オリンピックが開催された1964年には60%まで上昇しました。
その後の努力により、東京の下水道は区部では平成6年度末に人口普及率100%を達成。多摩地域の普及率も平成19年度末に97%となりました。
東京都元下水道局長の前田正博は、論文『下水道とオリンピック』(2020年5月)において、「その基礎となる事業の仕組みが確立したのが1964年東京オリンピック開催とするならば、オリンピック最大のレガシーは下水道と言えるのではないでしょうか」と述べています。
「東京五輪と都市美化」1964年大会が生んだレガシー
1964年の東京オリンピック開催に向けて、東京都は「東京をきれいにしよう」という目標のもと、長期的な都市美化計画を立案しました。この計画は本来1970年を目標としたものでしたが、1964年のオリンピックを第一の目標として、組織作りや実践活動が積極的に進められました。
東京都はこの計画の必要性を都民に伝え、都市美化を共有する目標として提案しました。その結果、首都美化運動が多くの都民に支持され、街中に散乱するゴミや紙くずが一掃されました。これは、都市美化の重要性について都民の意識を高めるという目的に大いに貢献しました。
言い換えれば、首都美化運動がなければ、東京は汚い街のままであった可能性が高いです。しかし、首都美化運動はオリンピックのための一時的な対策にとどまらず、その後10年以上続く長期的な取り組みとなり、人々の意識改革を促進しました。
そして、この取り組みがついには清潔な近代都市・東京の形成、そしてその「レガシー」となりました。1964年の東京オリンピックが引き金となり、都市美化の取り組みが都民の生活の一部となったのです。これは、スポーツの大会が都市の基盤を改善し、その影響が長期的に及ぶという良い例と言えるでしょう。
「ピクトグラムの誕生」日本初のレガシーが世界に広がる ── 東京オリンピック物語(12)