今回は、東京オリンピックに備えて行われた空前のホテル建設プロジェクトに焦点を当てています。
東京オリンピックを迎えるため、日本のホテル業界は外国人旅行客の増加に備えるための施設とサービスの拡充に取り組みました。その中で、外資系ホテルの進出や地元パートナーとの協力関係、伝統文化の尊重と高級ホテルの提供など、様々な取り組みが行われました。
また、東京ヒルトンホテルをはじめとする外資系ホテルの日本初進出や、ホテルオークラなどの伝統文化を尊重しながらも高級ホテルを提供する取り組みを紹介しています。また、特定の地域や施設に焦点を当てたホテルの歴史や魅力、航空旅行との関係も取り上げています。
この記事を読んで、東京オリンピックの開催に貢献したホテル業界の変革と成長と、日本の観光産業の発展と国際交流の重要性を再確認しましょう。
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Tokyo’s Hotel Boom Starts
東京オリンピックへ向けてホテル建築ブーム
戦後の混乱とともに、日本のホテル業界は大きな挑戦に直面しました。国内外の人々が交流する場としてのホテルが、GHQによる接収を通じて重要な政治的な役割を果たすこととなったのです。
1945年の降伏文書調印後、日本は厳しい条件に直面しました。そのなかには日本の裁判権剥奪や日本の通貨を米軍の軍票にするといったものがありました。GHQはこれらの方針を一方的に通告し、全国にポスターを貼るよう要求しました。しかし、日本政府の高官は日本の窮地を救うべく行動を起こしました。彼は深夜、ホテルニューグランドに滞在していたマッカーサーの副官を訪れ、必死の説得によりこの政策を撤回させるよう要請しました。このようにして、ホテルは日本の窮地を救う密談の場となったのです。
その後、日本のクラシックホテルのほとんどがGHQに接収されました。これは米軍とGHQのスタッフが滞在するための施設として利用されました。しかし、1951年9月に締結された日米安全保障条約により、1952年から多くの接収されていたホテルの接収が解除されました。
こうした歴史を経て、日本のホテル業界は再び躍進の道を歩むこととなります。
東京オリンピックまでカウントダウン!ホテル不足による受け入れ課題
過去最大規模の大会であった東京オリンピックは、世界93カ国と地域からの参加者を迎える一方、国内外から訪れる観光客を収容するホテルの数が限られていたのが実情でした。しかし、この挑戦は一方で新たな可能性を切り開く機会でもありました。
1959年に日本が1964年夏季オリンピックの開催地に選ばれたことは、日本の観光国としての地位を確立しました。さらに、飛行機の定期旅客運行の開始は、訪日観光客の増加を後押ししました。こうした背景の下、ホテルの建設ブームが訪れました。
その結果、オリンピック開催決定後に次々と新たなホテルが開業しました。ホテルニュージャパン(1960年)、銀座東急ホテル(1960年)、パレスホテル(1961年)、ホテルオークラ(1962年)、東京ヒルトンホテル(1963年)、東京プリンスホテル、グランドプリンスホテル高輪、ホテルニューオータニ、羽田東急ホテル(1964年)などがその例です。帝国ホテル以外の日系都市ホテルのほとんどがこの時期に開業したのです。
しかし、五輪開幕前の都内に新たに開業したホテルにも関わらず、当時の毎日新聞の報道によると、五輪開催期間中は旅行者用のホテルや旅館などの不足が見込まれました。
民泊は最近の概念ではない!東京オリンピックで既に活用
「民泊」という概念が最近のものであると思われがちですが、その実は1964年の東京オリンピックの際に既に存在し、活用されていたのです。民泊は住宅全体または一部を提供する宿泊サービスのことで、自宅の空き部屋や投資用物件、または伝統的な形として親戚が一時的に滞在するケースなども含まれます。
1964年のオリンピックでは、東京都が外国人観光客を収容するために民泊ホストを広く募集しました。都心から1時間以内で、水洗トイレ、風呂、シャワーが備えられた住宅で、家庭内に外国語を話すことができる人がいて、西洋式の朝食を提供できる家庭を対象にしました。約1000軒の応募があり、その中から現地調査などを経て588軒を選びました。しかし、最終的には辞退者も出て、約500軒(約1000人分)が民泊として活用されました。
当時の新聞記事によれば、民泊を提供した人々は、異文化への興味や外国語習得の機会、そしてオリンピックへの貢献といった動機があったようです。これは、現代の民泊のホストが持つ動機とも共通しており、時代を超えて続くホスピタリティの形を示しています。
『ホテルニュージャパン』アパートからホテルへの建設プロジェクト
ホテルニュージャパンは、1960年に開業しましたが、その建設の経緯は一筋縄ではありませんでした。当初は高級賃貸アパートとして建設される予定だったこの建物は、その後の1964年の東京オリンピックを見越したホテル建設ブームに乗じてホテルとして建設されることになりました。
この土地にはかつて日本料亭が存在していましたが、第二次世界大戦の爆撃によりその料亭は消失しました。その後、藤山コンツェルンが土地を取得し、高級アパートメントの建設を計画していました。しかし、東京オリンピックの開催が決まり、訪日観光客の収容施設が必要となったため、その計画は急遽ホテル建設へと変更されました。
しかし、その急な変更がもたらした結果、建物の構造は複雑となり、宿泊客が迷子になる可能性があるという特異な状況が生じました。それは元々アパートとして設計されていた建物がホテルとして利用されるようになったためです。
1982年のホテルニュージャパン火災
1982年2月8日、ホテルニュージャパンで悲劇的な火災が発生しました。午前3時頃に9階の客室から出火、10階建ての建物のうち、9階と10階を中心に4000平方メートル以上が焼けました。この火災で33人が亡くなり、そのうち22人は外国人でした。
火災の原因は、イギリス人宿泊者の寝煙草でした。その後、警備員は煙を発見しましたが、宿泊客に対してすぐに避難を促すことができませんでした。このため、多くの人々が犠牲となる結果となりました。
さらに、火災が急速に広がった一因として、スプリンクラーやその他の消防設備の不備、客室内装の防火環境の不備などが挙げられます。これらの要因により、火は瞬く間に9階と10階に広がりました。
消防車が到着したときには、約100名の宿泊客が逃げ遅れ、取り残されていました。東京全域から消防車が駆けつけ、救助活動を行いましたが、火の勢いは衰えず、救助活動は難航しました。
「経営難と防火対策の欠如」ホテルニュージャパン悲劇
ホテルニュージャパンの火災は、安全対策を軽視した経営によるものと指摘されています。ホテルは一般家屋に比べて防火対策が求められる施設ですが、このホテルはその要件を満たしていませんでした。
1960年の開業当初から、ホテルニュージャパンは経営難に直面していました。軟弱な地盤の地盤改良に費用がかさみ、初めから赤字経営でした。また、ホテル経営の経験が無い藤山コンツェルンが母体であり、ホテル・ニューオータニやホテル・オークラ東京などと比較して、経営は苦しかったとされています。
東洋郵船の横井英樹が経営を引き継いだ後も、財務改善のための過度なコスト削減により、ホテルは慢性的な人手不足状態にありました。長時間労働が常態化し、従業員のモチベーションは低下していきました。
横井はスプリンクラー設備や他の消防設備を省き、内装にも耐火素材を使用しないという極端な節減策を進めていました。火災が発生した時、宿泊客が逃げ遅れている中、横井は高級家具の運び出しに気を取られていたと伝えられています。
この火災の出火原因は宿泊客の寝たばこでしたが、防火設備や訓練の不足が被害を拡大させました。その結果、ホテルの社長である横井と支配人が業務上過失致死罪で起訴され、両名とも有罪判決を受けました。
この火災事故によりホテルニュージャパンは廃業しましたが、焼け跡はそのままにされ、14年間もの間放置されました。この事故は、防火対策と経営者の責任についての重要な教訓を提供すると同時に、深い悲しみと失望をもたらしました。
『銀座東急ホテル』日本の象徴的なホテルの軌跡と再利用
銀座東急ホテルは、1960年に開業した日本の象徴的なホテルの一つで、東急電鉄株式会社が所有者兼運営者でした。その立地の良さと、一貫した高品質なサービスで知られていました。また、東急ホテルチェーンは日本国内外に広がっており、銀座東急ホテルもその一部として人々に親しまれていました。
しかし、2001年にはその長い歴史に幕を閉じ、銀座東急ホテルは閉鎖されました。その後、建物は時事通信社のビルとして再利用され、現在はそのような形で存在しています。銀座東急ホテルが閉鎖されたのは非常に残念なことでしたが、建物自体は新たな形で生き続け、地域の一部としての役割を果たしています。ホテルが存在したことの記憶は、訪れる人々の中に今も生き続けています。
銀座東急ホテルから東急ホテルズへ
東急ホテルズは、その起源を1960年に開業した銀座東急ホテルにさかのぼることができます。銀座東急ホテルは、その後の株式会社東急ホテルチェーンの設立のきっかけとなり、その起点となった1号店として、日本国内のホテル業界における重要な位置を占めています。
1968年の東急ホテルチェーンの設立以降、同社はさらなる拡大を続けました。1973年には東急インのブランドの下で1号店を開業し、価格帯の異なる宿泊施設を提供することで顧客の選択肢を広げました。その後も業績は順調で、1992年には東急インの上級ブランドとして「富山エクセルホテル東急」を開業し、ホテルチェーンをさらに拡大しました。
そして、東急ホテルズのブランド名は、その後数回の変更を経て、2001年に「株式会社東急ホテルマネジメント」へ、そして2005年に現在の「東急ホテルズ」へと変わりました。その間に、東急グループのホテル部門は統合され、一つの強力なブランドとしての地位を確立しました。
現在の東急ホテルズは、その長い歴史と実績に基づき、高品質なサービスと宿泊施設を提供し続けています。
『パレスホテル』歴史と技術が交差するホテル業界の一等地
パレスホテルは、その前身である「ホテルテート」があった場所、丸の内1-1-1に位置しています。元々この地には1937年に完成した帝室林野局庁舎がありましたが、第二次世界大戦後、連合軍最高司令部の命令により国有国営のバイヤー専用ホテルに改築されました。
1959年に土地と建物がパレスホテルへと払い下げられ、新たなホテルとしての建設が始まりました。1961年10月1日、当時としては画期的なオフィスビル併設型のホテルとして開業しました。開業披露パーティーは盛大に行われ、国内外からの賓客を迎え入れました。
建築設計も評価が高く、外壁に約166万枚の信楽焼の小口タイルを使用したことなどが注目され、1963年に建築業協会賞を受賞しました。さらに1997年にはホテル業界で初めて、ホテル内の生ゴミを有機肥料に変換する循環型リサイクルシステムを導入。これにより「人と環境に優しいホテル」としての評価も得ました。
現在は「パレスホテル東京」
2009年1月31日、パレスホテル東京は新たな時代に適応するために一時休館し、その後の再建築を経て、2012年5月17日に新生「パレスホテル東京」としてグランドオープンしました。都心にあるにも関わらず、豊かな緑と水に囲まれた素晴らしい立地に位置しています。
その質の高さは多くの評価を受けており、世界的な旅行ガイドである「フォーブス・トラベルガイド」からは、2016年から4年連続で最高評価の5つ星を獲得。日本のホテルの中でこれを達成したのはパレスホテル東京だけでした。さらに2019年には、特に優れたホテルを表彰する「2019 Verified List」にも選出され、世界トップクラスの41施設のうちの1つにノミネートされました。
また、2019年5月に国賓として来日したアメリカのドナルド・トランプ大統領が宿泊したことも話題となりました。これらの評価と経験を通じて、パレスホテル東京は世界クラスのホテルとしての地位を確立しています。
『ホテルオークラ』帝国ホテルを超える志と日本文化の尊重
ホテルオークラは、日本のホテル業界の先駆者である帝国ホテルの創立メンバー、大倉喜八郎の息子である大倉喜七郎によって設立されました。そのコンセプトは「帝国ホテルを超えるホテル」でした。大倉喜七郎は、高級ホテルの品質とサービスを追求するだけでなく、日本文化と伝統の保護と尊重にも深く関与していました。
ホテルオークラの料理部門の総責任者には長峰六郎が就任しました。彼は帝国ホテル出身で、パリでも料理の修行を積んだ経験を持つ、日本の料理界で非常に評価の高いシェフでした。また、副料理長にはニューグランドホテル出身の小野正吉と、川奈ホテルで長峰の部下だった杉山輝雄が就任しました。
これらの人々の専門知識と献身的な努力により、ホテルオークラは高級ホテルとしての評価を得るとともに、日本の伝統文化の保護と尊重の場としても認知されるようになりました。
国際的な要人とスーパースターが愛した上質なホスピタリティ
ホテルオークラ東京は、その高品質なサービスと上質な設備、そして日本の伝統と美を融合した独特の雰囲気から、世界の著名人や要人たちからも高く評価されています。
歴代のアメリカ合衆国大統領はもちろん、英国のチャールズ皇太子と故ダイアナ妃も1986年にホテルオークラ東京を利用しています。さらに、エンターテイメント界の大物であるマイケル・ジャクソンやジョン・レノンなどのスーパースターもこのホテルをお気に入りとしていました。
その上、国際会議やサミットなどの重要なイベントにも頻繁に使用されることで知られており、世界のリーダーや意思決定者たちの間で重要な会合の場となっています。ホテルオークラ東京は、その卓越したホスピタリティと、日本の伝統と洗練された現代性を融合した雰囲気で、国内外のゲストに素晴らしい体験を提供していました。
「惜しまれつつの閉鎖」ホテルオークラ東京のメインビル取り壊しの決断
ホテルオークラ東京のメインビルの建て替え計画が2014年5月に発表されると、そのニュースは国内外で大きな話題となりました。ホテルオークラ東京はその独特なデザインと上質なサービスで、世界的な評価を得ていたため、多くの人々から惜しむ声が上がりました。
特に、このホテルは日本のモダニズム建築の代表例とされており、建築家やアート愛好家たちからは、その価値を評価する声が強く聞かれました。彼らは『なくならないで、私のオークラ!』と訴え、ホテルオークラの保全を求めるキャンペーンを展開しました。
その中には、雑誌やオンラインメディアが参加し、大きな特集を組むなどして、ホテルオークラの魅力とその保全の重要性を訴える動きもありました。これらのメディアは、ドローンやビデオカメラを使ってホテルオークラの内外の様子を詳細に記録し、それを世界に発信しました。
しかし、結果的に、ホテルオークラ東京のメインビルは2015年8月に閉鎖され、その後取り壊されました。
「The Okura Tokyo」として開業
2019年9月12日、ホテルオークラ東京は跡地に「The Okura Tokyo(ジ・オークラ・トーキョー)」として新たに開業しました。この新しいホテルは、旧本館の魅力を受け継ぐ一方で、現代のニーズに応えるための新たな設計が取り入れられています。
旧本館の象徴だった美しいロビーは、新ホテルでも忠実に再現されています。これは、ホテルオークラ東京の長年のファンから愛されてきた、その魅力と歴史を引き継ぐための配慮です。
また、新ホテルは41階と17階の2棟のビルから成り立っています。この新たな設計は、都市のスカイラインに合わせたものであり、より広い視野と開放感を提供します。
客室に関しては、従来のホテルオークラ東京の客室よりも約1.5倍の広さとなっています。これにより、客室は広々とした空間となり、高級感がさらに強調されています。新しい「The Okura Tokyo」は、旧本館の伝統と品格を継承しつつも、現代のホテルが求められる機能性と快適さを提供することを目指しています。
『ホテルニューオータニ』東京オリンピックの招待状
ホテルニューオータニ東京は、1964年に東京オリンピックに向けて外国人観光客を迎えるために設立されました。このホテルは、建設に17ヶ月しかかからず、一般的な工期の半分で完成したという非常に迅速な建設速度で知られています。
当時としては非常に先進的な設備とサービスを提供し、1,000室を超える客室数を持つ大型ホテルとしてオープンしました。さらに、全室にユニットバスが設けられたのは世界初の試みでした。このことにより、滞在中の利便性と快適さを大きく向上させることができました。
また、ホテルのラウンジは全席から富士山を望むことができるように設計され、回転展望ラウンジとしても最大級のものでした。これにより、訪れる全てのゲストが日本の自然美を楽しむことができました。
建築的にも注目されたのは、その高さで、17階建てという日本初の超高層建築だったことです。そのため、ホテルニューオータニ東京はその開業当初から、“東洋一”のホテルと称され、多くの人々から注目を集めました。
これらの特徴は、ホテルニューオータニ東京がその時代の先進性と革新性を象徴する存在であったことを示しています。その結果、ホテルは国内外の旅行者から高い評価を受け、多くのゲストを迎えることができました。
「ユニットバス」がもたらしたホテルニューオータニの成功
ホテルニューオータニの建設は、東京オリンピックを控えた1963年に東京都の要請を受けて急遽開始されました。当時、オリンピックに向けた建設ラッシュと人手不足の厳しい状況下で、17階建て1058室の国内初の超高層ホテルを17ヵ月という通常の約半分の期間で建設するという難題が立ちはだかっていました。
その難題を解消するための秘策として生まれたのが「ユニットバス」でした。TOTOが1963年7月にプロジェクトを発足させ、一丸となって開発に取り組みました。昼夜問わず膨大な要件の検証を続け、ユニットバスルーム工法を開発しました。
この工法は、以下の4つの要素を実現しました。
- 「セミキュービック方式」による工期短縮化:従来の約10分の1の工期で可能となりました。
- 「ステンレス製防水パン」による高い防水性:水漏れの問題を大幅に減らしました。
- FRP(繊維強化プラスチック)採用による軽量化:取り扱いが容易になり、設置も迅速に行うことが可能になりました。
- 浴室内側から部材ごとに交換可能な高いメンテナンス性:浴室のメンテナンスを容易にし、長期的なコスト削減を実現しました。
このユニットバスルーム工法が正式採用されたのは同年12月で、大成建設株式会社や株式会社西原衛生工業所の協力により、工場製作から現場設置工事までを約3ヵ月半で完了しました。これにより、工期短縮と品質保証の両立が可能となり、ホテルニューオータニの建設成功に大いに寄与しました。
「大谷米太郎と東洋一の巨大ホテル」ホテルニューオータニの誕生
東京オリンピックを2年前の昭和39年に、東京都オリンピック準備局が作成した報告書は大いに注目を集めました。その報告書によれば、オリンピック開催時に東京を訪れる外国人観光客は「1日に3万人」という驚くべき数に上ると予測されました。当時の東京には、これらの外国人客を収容可能なホテルや旅館が不足しており、その収容能力はわずか7500人でした。つまり、毎日22000人以上の外国人観光客が泊まる場所に困ることが明らかになったのです。
この問題に対処するために提案された解決策の一つが、都内に「東洋一の巨大ホテル」を建設するというものでした。しかしながら、オリンピックまでの期間は僅か1年半しか残されておらず、また公的予算を使ってホテルを建設することは困難でした。
この状況下で、一人の老実業家が名乗りを上げました。その人物は大谷米太郎という81歳の男性で、彼はオリンピックが開かれる国立競技場に近い紀尾井町に広大な自宅を所有していました。この大谷米太郎氏の名乗りにより、ホテル建設の道が開かれ、東京オリンピックに備えるための重要な一歩が踏み出されました。
「困難を乗り越えろ」大谷米太郎とホテルニューオータニの築かれた成功
大谷米太郎は、富山県小矢部市の貧農の出身で、幼少期から力が強く、地元の相撲大会で生計を立てていました。24歳で父親と死別した後、31歳で東京に上京し、荷揚げ人夫、米屋、八百屋、風呂屋、酒屋といった職を転々としました。
大相撲が米国興業を行うとの話を聞いた彼は、米国で商売することを決意し、力士になるために大相撲の稲川部屋に入門しました。幕下筆頭まで出世したものの、怪我のために相撲を断念しました。その後鷲尾獄(四股名)酒店を開店し、国技館の酒類販売を一手に引き受けました。
さらに大谷米太郎は収入を増やすために、鉄鋼圧延用のロールを作る「東京ロール製作所」を設立。富山から弟を呼び寄せ、事業を拡大していきました。事業は順調に回り始めましたが、大水害で工場が全壊し、復旧を目指して再び起き上がるも、今度は1923年の関東大震災で工場が焼失してしまいます。飲食店や雑貨店を経営しながら危機を凌ぎ、震災後の復興需要に着目し建築関連の鉄鋼事業に進出しました。
その後、関連会社を統合して「大谷重工業」を設立し、ようやく本格的な成功を収めました。太平洋戦争で満州での事業の大半を失ったものの、朝鮮戦争に伴う特需で再び大きく回復しました。
こうした経緯を経て、大谷米太郎は自身が所有する広大な土地に「ホテルニューオータニ」を建設することを決意しました。
「400年前から続く日本庭園」歴史的庭園の再生と繁栄
大谷米太郎がホテルニューオータニを創設した地は、もともとは歴史的な家族や名士の庭園や邸宅でした。その土地は、かつては豪族の加藤清正公の下屋敷や井伊家の庭園として使用されており、400年以上の歴史を持つ豪華な日本庭園があったのです。
第二次世界大戦後、その土地は外国人に売却されるところでしたが、大谷米太郎はそれを阻止しました。彼は「この由緒ある土地を外国に売り渡すのは惜しい」と感じ、自身が購入して自邸としました。その後、彼は庭園を自らの手で修復し、その美しい姿を取り戻しました。
そして1964年、東京オリンピックの開催を前に、政府からの依頼を受けて、大谷米太郎はこの地にホテルニューオータニを建設しました。これにより、その土地と庭園は都内で最も大きなホテルの一部となり、外国人観光客を受け入れる重要な施設となりました。その結果、大谷米太郎は日本の伝統的な庭園を保存し、同時に日本の観光業に大いに貢献することとなりました。
『東京ヒルトンホテル』ヒルトンと東急グループによる日本初の外資系ホテル
ヒルトンと東急グループの間で1958年12月に結ばれた協力関係は、ホテル業界における歴史的な事例と言えるでしょう。ヒルトン・インターナショナル社は豊富なホテル経営ノウハウを持っていましたが、日本での展開には地元のパートナーが必要でした。一方、東急グループは敷地と人材を持っていましたが、国際的なホテル運営の経験が不足していました。このように、両者は補完的な関係を持っていたため、共同でホテル運営を行うことが可能となりました。
その結果、1963年6月20日、つまり東京オリンピックを翌年に控えた時期に、星岡地区に「東京ヒルトンホテル」が開業しました。これは日本初の外資系ホテルであり、その存在は日本のホテル業界に大きな影響を与えました。その成功は、海外の企業が日本市場に進出するための一つのモデルともなり、日本の観光産業の発展に寄与したと言えるでしょう。
東京ヒルトンホテルの輝かしい来訪者!ビートルズから政治家まで
ビートルズが日本に訪れた際、彼らが滞在したのは当時東京ヒルトンホテルでした。彼らは最上階の豪華な「プレジデンシャル・スイート」に滞在し、記者会見は大宴会場の「紅真珠の間」で行われました。
その滞在期間中、彼らは安全管理のためにホテル内でほとんどの時間を過ごしました。日本の観光を楽しむ機会がなかったビートルズのために、ホテル内には特別な「土産物店」が設けられました。さらにテーラーや骨董品店などがホテルの部屋に出張し、彼らの要望に応える形でサービスを提供しました。
ビートルズ以降も、東京ヒルトンホテルは様々な著名人を迎え入れてきました。ショーン・コネリー、マイケル・ジャクソン、デヴィッド・ボウイなどの大スターや、ビル・クリントン元アメリカ大統領などの政治家も利用しています。これらのエピソードは、このホテルが世界的な名声と高級なサービスを提供していたことを示しています。
「キャピトル東急ホテル」東京ヒルトンからキャピトルへの新たなスタート
東京ヒルトンホテル(現在のキャピトルホテル東急)の歴史は、東急電鉄が一流の国際的ホテルを所有することを望んだことから始まります。1956年からヒルトン・ホテルズ・インターナショナル・インコーポレイテッド(”HII”)と交渉を開始し、その結果両者間で1958年暮れに締結されたホテル運営業務委託契約に基づいて建設されました。そして1965年に、東京ヒルトンホテルとして開業しました。
しかし、開業から20年後の1983年、契約更新がなされず、東急電鉄は東京ヒルトンホテルを「キャピトル東急ホテル」にリブランドし、自社運営を開始しました。一方ヒルトンは新宿で「東京ヒルトンインターナショナル」を開業しました。
そして、キャピトル東急ホテルは同地区の再開発に伴い、2006年に閉館。その後、2010年10月22日にリニューアルし、「ザ・キャピトルホテル東急」として再開業しました。
『東京プリンスホテル』建て替えの制約を超えて輝き続ける特別な存在
東京プリンスホテルの由来とその独特な立地、そしてその将来性について語る野原茉美氏の言葉は、このホテルが持つ特別な存在感を示しています。
1964年、東京オリンピック開催の年に開業した東京プリンスホテル。その立地は緑豊かな芝公園内、東京タワーから徒歩約2分という都心にありながらも、自然環境に恵まれた場所です。”プリンスホテル”の名称は、皇族・朝香宮家の別荘を改装して1947年に開業したホテルから名付けられ、その後も、プリンスホテルグループでは開業した場所をホテル名に付けるという基本が守られてきました。
しかし、東京プリンスホテルだけは例外で、その名前には”芝公園”ではなく、”東京”が使用されています。これは、東京オリンピックという世界的なイベントがその開業のきっかけであったことを示しています。そして、その開業時から、国際会議に対応可能な大宴会場『プロビデンスホール』を設置し、6ヵ国語の同時通訳が可能な通訳ブースも設けるなど、国際色豊かなホテルとしての姿勢を示してきました。
一方で、その特別な立地から、東京プリンスホテルは建て替えが不可能な運命にあります。公園内では建物を建てること、建て替えることができないため、その姿は時の流れと共に変化し続けてきた都市東京の中で、一つの確固たる存在として続いていきます。
「芝公園」異なる特性を持つ日本最古の公園の魅力と多様性」
芝公園は、1873年に開園した日本でも最古の公園の1つに数えられています。その形状や構造からすると一般的な公園とは異なる特性を持つ場所です。一般的に公園と聞くと、広大な一つの緑地帯を想像しますが、芝公園の場合は、緑地帯が公園の周囲に点在しており、それぞれが独自のエリアを形成しています。
その公園内には、歴史的な建造物や施設、そして自然が混在しています。徳川家の菩提寺である芝増上寺が中央に位置し、公園の上部と下部には西武グループのプリンスホテルが立地しているという独特の配置は、一見すると単純な公園とは異なる風景を描いています。その他にも公園内には、古墳などの歴史的な遺跡も存在しており、公園の散策だけでなく、歴史探訪や文化体験も可能です。
「増上寺」徳川将軍家との結びつきと文化的な価値
増上寺は、その歴史と文化的な価値から、日本の重要な観光地の一つとされています。かつては豪華な霊廟が立ち並び、国宝に指定されていたほどの価値があったというのは、その重要性を示す明確な証拠です。しかし、第二次世界大戦の空襲でほとんどが焼失し、その壮観さは現在では想像することしかできません。
増上寺には、徳川将軍家15代のうち6人が葬られていました。その霊廟は、日光東照宮に匹敵するほどの壮麗さを誇っていたとされています。特に七代将軍家継の霊廟、有章院霊廟の二天門は、現在でも東京プリンスホテル内に現存しています。
また、二代将軍秀忠の霊廟である台徳院霊廟についても、戦後にその位置を45メートルほど移され、現在はザ・プリンスパークタワー東京の入り口に立っています。これらの事実は、増上寺周辺がいかに重要な歴史的地域であるかを示しています。
増上寺と東京プリンスホテルの存在と政治的な影響力
もともとの芝公園の敷地は、徳川家の菩提寺である増上寺の境内でしたが、第二次世界大戦後の政教分離と西武グループ創業者・堤康次郎の策謀により、その配置が大きく変わりました。増上寺と東京プリンスホテルは公園の中心に位置する形で現存し、公園自体がそれらを取り囲む形となりました。
このような独特の形状を持つ公園となったのは、堤康次郎の強大な政治力があったからこそでしょう。彼は44代衆議院議長を務めるほどの力を持っていました。彼の力により条例が変更され、東京プリンスホテルの開業が可能となったのです。
『グランドプリンスホテル高輪』変わりゆく名前、変わらぬサービス
「グランドプリンスホテル高輪」はその長い歴史と伝統を持つ一方で、新たな旅行客ブームに対応すべく、自身も変革を遂げてきました。その証として、施設名が何度も変わり、時代の変化に対応してきた事が挙げられます。
初めてのドアを開けたのは1953年。当時は「品川プリンスホテル」と名乗り、その名の通り品川地区のシンボルとして、また、旅行者の歓迎の場としてその役割を果たしていました。1968年には”高輪プリンスホテル”に名前を変え、高輪地区の成長とともにさらにその名を高めました。
そして2007年、「グランドプリンスホテル高輪」という現在の名前を取り、その名前が示す通り、一流のサービスを提供するホテルとしての地位を確立しました。そして、オリンピック日本選手団の公式行事での使用など、国内外からの多くのゲストを迎え入れてきました。
『羽田東急ホテル』航空旅行の発展と歴史の終焉
羽田東急ホテルは東京モノレール、環八通り(都道311号)、そして多摩川に囲まれた4.3ヘクタールという広大な敷地の中に建っていました。
ホテルは東京都の重要な交通ハブである羽田空港近くに位置しており、国内外からの旅行者を受け入れていました。また、モノレールや道路の接続も良好で、東京都心へのアクセスも容易でした。
羽田東急ホテルは日本の航空旅行の発展と共に歴史を刻んできたといえます。羽田空港が海外旅行ブームの中心地となった時期や、1978年の成田空港開港による国際線の移転、1993年の羽田空港のターミナル移転といった重要な時期を経験しました。また、ホテルは1985年の日本航空ジャンボジェット機の墜落事故や、1999年の全日空機ハイジャック事件など、幾つかの重大な事件の際にも活用されました。
しかし、ホテルは2004年9月に閉館し、その建物は解体されて更地となりました。
現在は「羽田エクセルホテル東急」へ引き継ぐ
2004年12月には、羽田空港の第2旅客ターミナルがオープンし、そのターミナル内に新たなホテル、羽田エクセルホテル東急が開業しました。羽田エクセルホテル東急は、その利便性から国内外の旅行者やビジネスマンに広く利用されています。
航空機好きに贈る特別な体験!
羽田エクセルホテル東急は、2004年12月1日に開業した都市型ホテルで、シングル109室、ツイン212室、ダブル57室、スイート2室、その他6室という構成で合計386室の客室があります。ホテルの位置は、羽田空港のC滑走路と第2ターミナルに面する非常に便利な立地にあります。
その独特な特色を生かした客室の一つに「スーペリアコックピットルーム」があります。この部屋からは滑走路や離着陸する航空機を眺めることができ、航空機好きにはたまらない景色を提供しています。宿泊客は、羽田空港の活動を間近で感じることができます。
また、ホテルは便利なアクセスを提供するだけでなく、ビジネス利用はもちろん、旅行やレジャーにも適した施設やサービスを提供しており、多くの旅行者やビジネスパーソンから好評を博しています。
ゴミだらけの首都を浄化せよ!世界に誇れる街への挑戦 ── 東京オリンピック物語(11)