東京オリンピック物語(1)── 日本オリンピックの父「嘉納治五郎」

東京オリンピック物語(1)── 日本オリンピックの父「嘉納治五郎」

Jigoro Kano

嘉納治五郎

サンテレビ/YouTube

柔道の父!その他、様々な分野の発展に尽くした偉人

「柔道の父」「体育の父」「教育の父」と崇められる嘉納治五郎。

小学館版 学習まんが人物館 嘉納治五郎/絵本ナビ

世間ではあまり知られていませんが、1940年に開催されるはずだった幻の東京五輪を招致したのが嘉納治五郎です。

第291話 嘉納治五郎/ピートのふしぎなガレージ.2016
1860年神戸の名のある酒屋に生まれる

嘉納は江戸末期の万延元年(1860年)に摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区)に生まれた。。

【オリ・パラ今昔ものがたり】嘉納治五郎の教えが世界を変える/日本財団ジャーナル.2021

嘉納治五郎が生まれた摂津御影は灘酒の中心的な生産地でした。実家は現在も菊正宗酒造の造り酒屋です。祖父の次作は酒蔵十二、廻船十二隻を持ち、各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されたのが父である次郎作でした。

嘉納治五郎と熊本/【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。
勝海舟との出会い
Katsu Kaishu

治五郎の父・次郎作の生業は、江戸に清酒を送る廻船業。次郎作は幕府の廻船方御用達を務め、かの有名な軍艦奉行・勝海舟のパトロン的存在だったといわれています。記録によると、勝海舟は神戸海軍操練所の開設中、次郎作の家に滞在したとのこと。この頃、治五郎はまだ3~4歳でしたが、勝海舟のことはおぼろげに記憶していたのではないでしょうか。

コラム第1回:「柔道の父」嘉納治五郎のルーツ/全日本柔道連盟 | 全柔連ホームページ.2020

治五郎の父、嘉納次郎作は治五郎が6歳の時から、漢学を勉強させた。

嘉納治五郎と勝海舟/nippon.com.2018
母に育てられた

次郎作は幕府の船舶を預かり回漕運輸に力を尽くし、維新後は海軍の文官として東京での勤務が多く、嘉納は幼年時代を母・定子と過ごす。

嘉納治五郎/Budo World.2017

息子への教育でなにより重視したのは「人に尽くすこと」。例えば、治五郎が家に友達を連れてくると、定子は一番おいしいお菓子を息子ではなく友達にあげました。身内を差し置いてでも客をもてなすことにより、母は「人に尽くすこと」の模範を息子に示したのです。

「柔道の父」嘉納治五郎/【柔道チャンネル】
9歳の時に母が他界……父の元へ上京

教育熱心な定子でしたが、治五郎が9歳のときに他界します。しかし、治五郎の中で定子の存在は決して消えませんでした。

「柔道の父」嘉納治五郎/【柔道チャンネル】

満10歳の時、明治政府に招聘され先に上京していた父親のもとへ。教育熱心な父の影響もあり、治五郎は漢学や書道を学ぶ私塾のほか、上京後は英語やドイツ語、数学などを学ぶ私塾に通い学問に励みます。

特集:日本オリンピックの父 嘉納治五郎/二松学舎大学

育英義塾入学、いじめにあい柔術に興味を持つ

やがて生方の勧めで13歳の時、芝烏森町にある外人教師中心の育英義塾に入学し、初めて父の元を離れて寄宿生活に入る。嘉納は勉学では優秀であったが身体が小さく、先輩達はねたみ嘉納をいじめたので、この頃より「柔よく剛を制す」術と言われた柔術に関心を持つのであった。

嘉納治五郎/Budo World.2017
東京大学の前身「官立開成学校」入学

明治8年(1875)、嘉納15歳の時に官立開成学校(後に東京大学となる)に入学するが、旧武士の子弟が多数いて、学問とともに肉体的に優れている者が幅を利かせていた。負けず嫌いな嘉納は、これまで以上に強くなりたい思いが増して柔術の師匠を探し始める。

嘉納治五郎/Budo World.2017
柔術の指南を得るために

治五郎が18歳になり東京大学文学部に在学中のとき、「整骨をする人は、むかし柔術家だったそうだ。」ということを耳にし、骨接ぎや整骨院などの看板を探し歩く。

嘉納治五郎の生涯 : 2. 「柔道家」治五郎/【柔道チャンネル】
二松学舎に入塾

19歳の時には二松学舎にも入塾し三島中洲先生から漢学等を学びます。昼は大学に通い、夜は漢学修行をしていました。治五郎にとって、この頃の漢学修行が最も力のついた時代だといわれています。

特集:日本オリンピックの父 嘉納治五郎/二松学舎大学
柔術を学び始める

ついに、熱意を汲んだ八木から柔術家の福田八之助を紹介してもらい、そこに入門して初めて柔術を学ぶ。福田道場は、楊心流(ようしんりゅう)と真之神道流(しんのしんとうりゅう)の二流を合わせた流派であった。

嘉納治五郎の生涯 : 2. 「柔道家」治五郎/【柔道チャンネル】

1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。

日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~/リスク対策.com.2018

8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。

日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~/リスク対策.com.2018
東京大学文学部 卒業

嘉納は1881年、東京大学文学部(政治学と経済学を専攻)を卒業後、さらに文学部哲学科で倫理学の研究を1年間続けた。人間の内面的な発達に大いに関心を持ったからである。

オリンピックと武道精神/日本オリンピック委員会: JOC
学習院の教師に抜擢
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 1882年1月から学習院の教壇に立った嘉納治五郎は、2月に若者と寝食をともにして学ぶ「嘉納塾」、3月に英語学校「弘文館」、5月に柔道の「講道館」を立て続けに創立した。

(五輪をめぐる)嘉納治五郎:4 抜群の行動力、勝海舟ゆずり/朝日新聞デジタル.2019
「柔道」を生み出した

秀才達に教える中で、彼らにも柔術を学ばせたいという思いが湧く。だが、いざ教えようとすると、そこには大きな問題があった。柔術は本来殺法であり、戦場で相手より優位に立つための技術。そのため、簡単に技術や原理を教えることができない、秘匿性があった。だが、これからの時代、誰もが取り組める“開かれた武術”があってもいいはずだ。治五郎は古流柔術や拳法の技、果ては海外のレスリングまで一つ一つ研究し、理屈で解き明かせるものを吸収していく。こうして治五郎は、皆が教え合い、学べる、オリジナルの柔術を作り出した。それは共に高め合っていく一つの「道」。これを、「柔道」と名付けた。

#19 2014年8月22日放送 日本体育の父 嘉納治五郎/THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜|BS-TBS
27歳で教頭に

1886(明治19)年。嘉納治五郎は27歳の若さで学習院の教頭となっていた。

19 2014年8月22日放送 日本体育の父 嘉納治五郎/THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜.BS-TBS

世界を視察する目的でヨーロッパに派遣

29歳を迎える1889年には、世界視察のためにヨーロッパに派遣されます。

分け隔てなくともにー近代留学生教育と嘉納治五郎ー/日本語ジャーナル

16ヶ月に及んだこの外遊では、まず上海経由でパリ、ベルリンを訪問し、1890年にはウィーン、コペンハーゲン、ストックホルム、アムステルダム、ロンドンを訪れます。

分け隔てなくともにー近代留学生教育と嘉納治五郎ー/日本語ジャーナル

海外の教育事情を目の当たりにし、治五郎は驚いた。ヨーロッパでは、陸上競技や水泳などのスポーツを積極的に取り入れた、体育教育が行われていた。一方、富国強兵路線を突き進む日本では、「体育」とは、兵士を育成する手段としてしか認識されておらず、スポーツなど、単なる遊戯としかとらえなかった。

19 2014年8月22日放送 日本体育の父 嘉納治五郎/THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜.BS-TBS

こうして各地を巡回している間、嘉納は「ヨーロッパではどの国も、表面は華美だが中身は極めて質素倹約だ」と気づきます。また、のちに「近年自分が説きつつある精力善用は一部分これらの観察に胚胎している」と述べているように、結果的にこの外遊は、嘉納の教育家としての思想の礎を築くきっかけとなったのでした。

コラム第6回:初の渡欧で学んだグローバリズム/全日本柔道連盟 | 全柔連ホームページ.2020

ちなみに、嘉納はドイツ語には自信がなかったようですが、ドイツ人の英語に誤りが多いことに気づき「外国語を使って間違うのは当然で、語学は使い慣れて習得するものだ」と悟ります。その後、嘉納の英語は急速に上達したといわれています。

コラム第6回:初の渡欧で学んだグローバリズム/全日本柔道連盟 | 全柔連ホームページ.2020
帰国後に結婚

1891年にカイロ経由で帰国した嘉納治五郎は、外交官で漢学者の竹添進一郎の娘須磨子と結婚。

分け隔てなくともにー近代留学生教育と嘉納治五郎ー/日本語ジャーナル

帰途にはエジプトのピラミッドに登り、コロンボ、サイゴン、香港などの寄港地を見学。ヨーロッパだけでなくアフリカやアジア各地の見聞は、グローバリストとしての嘉納の将来に少なからず影響を及ぼしているでしょう。また、身体の大きなロシア人士官に勝負を挑まれ見事に投げ飛ばしたという有名な逸話も、この帰りの船のなかのことです。

コラム第7回:ラフカディオ・ハーンと夏目漱石/全日本柔道連盟 | 全柔連ホームページ
校長として様々な教育現場で手腕を振るう

1893年(明治26)1月、治五郎は五高校長を免ぜられ、文部省参事官兼文部大臣官房図書館長となり、翌2月10日に熊本を離れ、 うしごめ さ ど はらちょう 東京に戻ることになり牛込砂土原町(新宿 区市谷砂土原町)に居を構えることとなった。 そして、6月19日に第一高等中学校長になり、 9月20日に東京高等師範学校(後の東京文理科大学、東京教育大学、現在の筑波大学)の校長に就任することになった。治五郎は、その後、同校の校長を三期計23年余りの長きに渡って務めることになる。この間、治五郎は、中等教員養成のカリキュラムの策定に大きく関わり、そのモデルを構築していった

御影が生んだ偉人 嘉納治五郎 【増補版】(p.6)/道谷卓.神戸市
中国からの留学生を受け入れ

1896年(明治29年)36歳の治五郎は、清国から中国初の留学生を受け入れ、日本語、日本語文法などの教育をする。これに続き、中国の教育の基礎を作るため、広東(かんとん)、南京(なんきん)、雲南(うんなん)、甘粛(かんしゅく)など各地から留学生を受け入れた。

嘉納治五郎の生涯 : 3. 「教育の父」治五郎/【柔道チャンネル】
中国に視察!さらに多くの留学生を受け入れ

1902年(明治35)7月、治五郎は故郷・神戸から中国(清国)に向け出帆、中国の視察へと向かった。治五郎の名声は中国でも知られ、張之洞と面談して教育を中心とした友好を確認した。治五郎は、すでこうぶんに留学生受け入れの教育施設として宏文学院(1902年1月開設)を設置していたが、帰国後、張との約束を果たすため、中国からの留学生の受け入れをさらに積極的に進めていった。そして、留学生教育にも、柔道を取り入れたことは言うまでもない。

御影が生んだ偉人 嘉納治五郎 【増補版】(p.6)/道谷卓.神戸市

近代オリンピックの父「クーベルタン」からIOCに誘われる

Barón de Coubertin

クーベルタンは,オリンピックを西欧諸国にとどまらず,世界中の多くの国々に広めたいと思っていました。そこで彼は,1908年の第4回ロンドン大会が終わった段階で,駐日フランス大使の オーギュスト・ジェラール(August Gérard)に, IOC(国際オリンピック委員会)のメンバーに加わってもらえるような日本人を紹介してほしいと要請しました。

ドイツと日本のオリンピック・ムーブメント(p.60)/報告者 谷釜尋徳,尾川翔大.講演者 ミヒャエル・クリューガー(ミュンスター大学 スポーツ科学部教授)

駐日フランス大使と対談

クーベルタンから 1908 年 10 月 24 日付書簡を受け取ったジェラールは、複数の関係者と相談の後、ロシア駐在大使の本野一郎の助言に基づき、1909 年1月 16 日に嘉納と会談した。

嘉納治五郎のIOC委員就任の経緯/和田 浩一(神戸松蔭女子学院大学)

IOC委員を引き受ける

1909年(明治42年)49歳の頃、駐日フランス大使より、国際オリンピック(IOC)委員となることを引き受けた。オリンピックを復活させたクーベルタン男爵の志を聞き、これに共感した治五郎は、東洋初のIOC委員になることを受け入れる。

嘉納治五郎の生涯 : 4. 「体育の父」治五郎/【柔道チャンネル】
IOC総会で嘉納治五郎を推薦

ジェラール は3日後の1月 19 日に、以下の内容をクーベルタンに返信した。

嘉納治五郎のIOC委員就任の経緯/和田 浩一(神戸松蔭女子学院大学)

 ジェラールからの知らせを受けたクーベルタンは、1909年5月、ベルリンで開催されたIOC総会に諮り、嘉納をアジア初のIOC委員として推薦。

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(2) 体育奨励、語学力…IOC委員に/産経ニュース.2018
アジア人初のIOC委員に就任

1909年5月27日、IOCベルリン総会で推薦されて、アジアから初のIOC委員就任、時に嘉納48歳であった。

【オリ・パラ今昔ものがたり】嘉納治五郎の教えが世界を変える/日本財団ジャーナル.2021
日本がオリンピックに参加するため

翌年、日本は第5回ストックホルム五輪への招待を受ける。このときクーベルタンからは次のような要望も伝えられた。

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(2) 体育奨励、語学力…IOC委員に/産経ニュース.2018

 「オリンピック大会に参加する国は、それぞれスポーツの全国的統括団体をもっていて、これがそれぞれの国のオリンピック委員会(NOC)になっている。ついては日本も早急にこの種の団体を組織されたい」

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(2) 体育奨励、語学力…IOC委員に/産経ニュース.2018
国内スポーツをまとめる団体が必要だった

 大会ポスター日本がストックホルム大会に参加するためには、まず国内のスポーツを統括する団体の設立が絶対条件でした。それはIOCからオリンピックに参加する各国に対して、それぞれにオリンピック委員会(NOC)の設立を求められていたからです。

オリンピックコラム ストックホルム1912/JOC

嘉納校長は学識者との会合を重ね、1911年7月に大日本体育協会の設立に至りました。最初の役員には、嘉納治五郎会長、大森兵蔵、永井道明、安部磯雄各氏が理事に就任。間近に迫ったストックホルム大会に向けて、国内オリンピック予選会と代表選手派遣の事業に取り組むこととなりました。

オリンピックコラム ストックホルム1912/JOC

短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名を、日本代表選手に選んだ。しかし、東京高等師範学校の生徒であった金栗には、ストックホルムまで渡航する経済的な余裕はなかった。すると嘉納は、東京高等師範学校で金栗の後援会を結成し、募金を呼びかけ、資金を工面したのであった。

日本のオリンピック・ムーブメントの始まりと嘉納治五郎/日本オリンピック委員会: JOC

彼は、「精力善用・自他共栄(目的を果たすために最も効力のある方法を用いつつ、それを実生活に活かすことによって、人間と社会の進歩・発展に貢献すること)」という理念を、心身の調和的な発達を求めたヘレニズム思想の展開であるオリンピズムの発展型として、西洋のスポーツ文化に組み入れることを構想していたとされる。この構想の背景には、当時欧米が中心であったオリンピック(ムーブメント)を世界的な文化にまで昇華することが、オリンピックの価値(卓越、友情、尊敬)の定着、ひいては世界平和の実現につながるという強い信念があったのではないかと考えられている。

日本体育協会創成期における体育・スポーツと今日的課題-嘉納治五郎の成果と今日的課題-(p.3)/平成 22 年度 日本体育協会スポーツ医・科学研究報告 Ⅲ

したがって、日本体育協会の設立をめぐる創成期とは、単に日本のスポーツがオリンピック大会に出場するために、その参加条件として国内統括団体(NOC)を設立させなければならなかった時期だという表層的な画期としてのみ理解されるべきではない。

日本体育協会創成期における体育・スポーツと今日的課題-嘉納治五郎の成果と今日的課題-(p.3)/平成 22 年度 日本体育協会スポーツ医・科学研究報告 Ⅲ

日本人が初のオリンピックに参加!団長を務める

BFI/YouTube

 日本が初参加した1912年のストックホルム・オリンピックに団長として参加。

新兵庫人 第13部 心・技・体を磨く(1-1)治五郎の理想 「一本」狙う姿勢不変/神戸新聞NEXT.2010

講道館柔道の創始者で、アジア初のIOC委員にもなった嘉納治五郎を団長に、陸上競技に2選手が出場した。

東京オリンピック/北國新聞

オリンピックへの日本の参加が始まったものの、ストックホルム大会の際には、参加費は選手の自己負担であり、当時の額で1,600円(現在の約400万円)にのぼりました。そのため、金栗四三は経済的理由などで一度は辞退を申し出ていますが、金栗が所属していた東京高等師範学校の校長でもあった嘉納治五郎が後援会を結成し、募金を呼びかけ資金を集めたことにより参加することができました。

第1章 日本のオリンピック参加の歩み/本の万華鏡

三島は100、200、400メートルに出場したが、いずれも決勝へは進出できず、国内の選考会で当時の世界最高をマークしていた金栗も日射病のため32キロ地点で無念の棄権となった。

近代オリンピックとその時代/JIJI.COM
関東大震災で東京が壊滅
朝日新聞社/YouTube

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が関東一円を襲った。東京では、初め緩慢な地面の動きを感じたが、次第に大きな揺れに変わり、最後には立っていられないほどの震動となった。

【特集】日本の震災/JIJI.COM

関東大震災で全半壊、焼失、流失、埋没などの被害を受けた住宅は計37万棟、10万5000人以上の死者・行方不明者が発生した。

人的被害の9割が東京・横浜に集中 : 関東大震災を振り返る/nippon.com.2019
クーベルタンへの最後の書簡

東京を発信地にもつこの書簡は、A4サイズの用紙3枚にタイプで打たれたものである。オリンピック研究センターにおける著者のこれまでの調査において、嘉納がクーベルタンに宛てた最後の書簡となっている。

2.嘉納治五郎のピエール・ド・クーベルタン宛書簡(2)-第一次世界大戦後からクーベルタンのIOC会長辞任まで-(p.22)/和田 浩一.フェリス女学院大学.2013

嘉納は冒頭で長らく手紙を書けなかったことをクーベルタンに詫び、2段落目で関東大震災のことに触れている。

2.嘉納治五郎のピエール・ド・クーベルタン宛書簡(2)-第一次世界大戦後からクーベルタンのIOC会長辞任まで-(p.23)/和田 浩一.フェリス女学院大学.2013

ここでは、震災後にクーベルタンが嘉納の安否を気遣う手紙を送っていたことや、嘉納は地震発生時に樺太にいたこと、そして関係者の中には命を落としたり家を失ったりした者がいたことを伝えている様子が読み取れる。クーベルタンと個人的な関係を築いていた嘉納の状況を知る貴重な資料である

関東大震災(1923年)からの復興と 第  回オリンピック東京大会(1904年)招致に関する研究 ―「復興五輪」の歴史学的検討―(p.100)/大林 太朗.笹川スポーツ財団

震災で中断された明治神宮外苑競技場が完成

明治天皇が崩御されたことを受けて、1915年に明治神宮の造営が始まり、1919年、明治神宮のそばの青山練兵場跡地に、当時の大日本体育協会会長で東京高等師範学校(現在の筑波大)の校長でもあった嘉納治五郎らの発案により、明治神宮外苑競技場が着工。1923年の関東大震災の影響で工事が一時中断したものの、1924年に完成。陸上競技場として作られたスタジアムだが、トラック内のピッチではサッカーなどの国際試合も行われた。

「国立」最後のラグビー日本代表戦で「野見宿禰」「織田ポール」を見よう!/Yahoo!ニュース.2014

鉄筋コンクリート造り、観客席1万5000に加え、4万人が入れる芝生席。総工費100数十万円という巨額プロジェクトでした。

国立競技場の誕生/探検コム
オリンピックのメインスタジアムにしようとしていた

余談ながら、戦前、幻に終わった1940年東京オリンピック開催計画にあたり、大日本体育協会はここをメインスタジアムにしようと考えた。東京市は「臨海部の埋め立て地」案を主張。紛糾したあげく、駒沢に新競技場を建設することとなる。

始まった国立競技場の新たな歴史 Vol.2 明治神宮外苑という記憶/笹川スポーツ財団.2020
その場所は1964年東京五輪のメイン会場へ
国立霞ヶ丘陸上競技場 (National Olympic Stadium)

1964年東京五輪のメイン会場となった国立競技場。その前身は大正時代、嘉納治五郎の提案で造られた神宮外苑競技場だった。

第18回 国立競技場建設 | AIで彩る いだてんの時代/NHKアーカイブス

山本忠興(日本学生競技連盟会長)「東京でオリンピックの可能性」

昭和4(1929)年、国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレームが来日し、日本学生競技連盟会長の山本忠興と会見を行い、昭和15(1940)年に開催される第12回オリンピック大会を東京に招致する可能性について意見を交わしました。

東京招致をめざして/ジャパンサーチ

エドストレームと山本の意見を聞き、東京へのオリンピック招致の意向を初めて示したのは、翌年東京市長に就任した永田秀次郎でした。

東京招致をめざして/ジャパンサーチ

永田秀次郎(東京市長)「大震災からの復興五輪を!」

30年に東京市(当時)の市長に就任したのが五輪招致を熱望した永田秀次郎だ。元内務官僚で、関東大震災時に市長を務めていた。震災1年後に市幹部の人事をめぐる問題で辞任したが、再び市長に返り咲き、廃墟から立ち上がった東京の姿を世界にアピールする機会を考えていた。まさに「復興五輪」の構想だった。

終戦記念日に考える東京五輪-「幻の1940年大会」と重なる時代の空気/nippon.com.2020

 こうした状況の中、1931(昭和6)年10月、東京市議会は皇紀2600年に当たる1940(昭和15)年開催の第12回オリンピック大会の東京招致を満場一致で決議しました(皇紀とは、神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年を元年として数えたものです)。翌1932(昭和7)年6月には、永田秀次郎(ながた・ひでじろう)東京市長名で斎藤実(さいとう・まこと)外務大臣に書簡が送られ、外務省に対し、東京開催への協力が要請されました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省.2021

 東京市からの要請等を受け、外務省はその後、関係方面への協力要請や情報収集に努めました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省.2021
嘉納治五郎が動き出す

 永田市長からの正式招請状を託されたのは、IOC委員の岸清一と嘉納治五郎である

【1940年、幻の東京五輪】(1)IOC会長を京都で奈良で接待攻勢/Smart FLASH[光文社週刊誌].2016

IOC総会 in ロサンゼルス「東京招致にむけた招請状を提出」

 IOCに正式に立候補を表明したのが、32年のロサンゼルス大会に際して行われた総会の場。

あの手この手で初招致! 1940年幻の東京五輪/ことばマガジン:朝日新聞デジタル

昭和7(1932)年7月、嘉納治五郎、岸清一の両IOC委員により、東京招致の正式招請状が、ロサンゼルスで開催された第30次IOC総会に提出されました。


東京招致をめざして
/ジャパンサーチ.2020

 32年総会で東京が候補地に名乗りをあげたとき、すでに9カ国の都市(ローマ、バルセロナ、ヘルシンキ、ブダぺスト、アレクサンドリア、リオデジャネイロ、ブエノスアイレス、ダブリン、トロントまたはモントリオール)が立候補していました。ただでさえ出遅れた東京、さらに欧米からは遠いし夏は暑いしで、当初は見込みが薄かったようです。帰国した嘉納も「望みはあるがこっちのものとなったとはまだいへない」と少々弱気でした。

あの手この手で初招致! 1940年幻の東京五輪/ことばマガジン:朝日新聞デジタル
日本が国際連盟を脱退……世界から孤立

日本は、大正9年(1920)に創設された国際連盟の常任理事国でしたが、満州事変を契機に脱退することになります。

(1933)3月|国際連盟からの脱退を通告する/日本のあゆみ
満州事変って?

1931年9月18日、奉天北東の柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で、南満洲鉄道の線路が何者かに爆破されるという事件が発生し、関東軍はすぐさま「張学良軍の暴挙だ」と決めつけて、奉天城(旧市街)をはじめ満洲各地の主要地点に戦闘部隊を送りました。後に「満洲事変」と呼ばれる、日本軍の満洲制圧作戦の始まりです。

満洲事変から日本の国際連盟脱退にいたる「失敗」の研究/ダイヤモンド・オンライン.2016

この鉄道爆破事件も、関東軍が行った「自作自演」であり、現地で取材していた日本の新聞記者もそれを知っていました。

満洲事変から日本の国際連盟脱退にいたる「失敗」の研究/ダイヤモンド・オンライン.2016
日本軍は撤退を拒否

昭和8年(1933)2月24日の国際連盟総会では、中国の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1という形で、各国の意思が示されました。反対票を投じた松岡洋右ほか日本代表団は議場から退場。日本は、3月27日に国際連盟脱退に関する詔書を発表すると共に、連盟に脱退を通告しました。

(1933)3月|国際連盟からの脱退を通告する/日本のあゆみ

杉村陽太郎(国際連盟事務次長)がIOC委員に!

杉村は、六段という段位を持つ講道館門人というだけでなく、嘉納塾で起居を共にして薫陶を受けたまさに嘉納のまな弟子。日本が国際連盟を脱退するまで同事務局次長を務めており、嘉納の国際協調思想を理解する杉村にとって脱退は無念だったろう。その分、五輪への希望は膨らんでいたかもしれない。

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(12)揺らぐことのない信念/産経ニュース.2018

日本の国際連盟脱退後にはイタリアやフランスの特命全権大使を務めている。

第72回:杉村陽太郎(すぎむらようたろう)/盛岡市公式ホームページ

そのような杉村に,嘉納は IOC 委員就任を 打診し,1933 年6月の総会で IOC 委員に就任させた。

第 12 回オリンピック競技大会(1940 年) の東京招致に関わる嘉納治五郎の理念 と活動(pp.66-67)/真田 久(筑波大学)
IOC総会 in ウィーン「ローマに諦めてもらうために……」
Vienna

1933 年6月ウィーンでの IOC 総会に出席した嘉納は, 東京市オリンピック委員会での報告会で,「伊太利は既に荘厳なオリンピック競技場を有ち,また地理的関係からも非常に有利で手強い。ムッソリーニ首相も一 生懸命であるが,彼は豪い人であるから訳を話して譲れと言へば譲るかも知 れぬ 」と述べ,ムッソリーニに諦めさせることを暗に提案した。

第 12 回オリンピック競技大会(1940 年) の東京招致に関わる嘉納治五郎の理念 と活動(p.66)/真田 久(筑波大学).マス・コミュニケーション研究 No.86.2015

副島道正がIOC委員に就任

1934 年 6 月はアテネ IOC 総会であるが,ここで 1940 年大会の開催地 は翌年のオスロ IOC 総会で採決する旨が決定された.尚,故人となった 前 IOC 委員岸清一の後任として副島道正伯爵が選出された.

オリンピックと資本主義社会③オリンピック招致と日本資本主義(p.24)/内海和雄

副島はケンブリッジ大学に学んだ経緯があり,イギリスにも友人が多かった.そして ここでも日本からの IOC 委員の働きかけがあった.しかし,日本はロー マに対して圧倒的に不利であり,嘉納治五郎 IOC 委員はオーストリア IOC 委員シュミットから「ムッソリーニに直訴したらどうか,それ以外無い」と示唆を受けた.

オリンピックと資本主義社会③オリンピック招致と日本資本主義(p.24)/内海和雄
イタリアのムッソリーニ首相を説得することに成功

昭和9(1934)年、譲歩を依頼するためにローマを訪れた副島は、当時イタリアの首相であったムッソリーニとの会見直前、急病に倒れてしまいます。しかし、彼は病を押してムッソリーニと会見し、日本が皇紀2600年を迎える記念すべき年に東京でオリンピックを開催したいこと、そのためにローマに譲歩してほしいことを伝えます。「皇紀2600年記念」という特殊な事情と副島の熱意に動かされたムッソリーニは、その場で申出を快諾し、招致を辞退すると返答しました。

第2章 東京招致を目指して/第15回 もう一つの東京オリンピック.本の万華鏡

嘉納の提案を実行するべく,1935 年2月,副島道正(1871〜1948 年)と杉村陽太郎(1884〜1939 年) が,オスロでの IOC 総会に出席する途中,ローマでムッソリーニと会見したの であった。

第 12 回オリンピック競技大会(1940 年) の東京招致に関わる嘉納治五郎の理念 と活動(p.66)/真田 久(筑波大学).マス・コミュニケーション研究 No.86.2015
IOC総会 in オスロ「ローマは辞退……え?認めない」
Oslo

ところが、ムッソリーニから譲歩の約束を取りつけて安堵したのも束の間、翌年にオスロで行われたIOC総会で、衝撃的な出来事が起こりました。イタリアの体育協会がローマの辞退を認めず、あくまでも招致活動を続けるとの態度をとったのです。

第2章 東京招致を目指して/第15回 もう一つの東京オリンピック.本の万華鏡

この事態に対し、副島はムッソリーニにローマでの約束について確認、改めて譲歩してもらえるよう懇願します。副島の要請に応え、ムッソリーニはオスロに滞在中のイタリアIOC委員に無条件での譲歩を命じました。そして、IOC総会の場で「日本が1940年の大会を東京で開くことを熱望しているので、イタリアはこの大会のローマ開催を断念する」とイタリア代表が発言し、この問題は決着しました。

第2章 東京招致を目指して/第15回 もう一つの東京オリンピック.本の万華鏡
次のIOC総会で開催地を決定する

しかし、突然のローマ辞退により、オスロでの総会は混乱に陥りました。辞退を表明してもなおローマを支持する声もあり、その場での決定は困難だという理由で、第12回大会の開催都市決定は昭和11(1936)年にベルリンで行われる総会まで持ち越されることになりました。

第2章 東京招致を目指して/第15回 もう一つの東京オリンピック.本の万華鏡
ラトゥー ル(IOC会長)を日本に招待

その後、オリンピック招致に向けて、東京市からラトゥール招待のアイデアが出され、ラトゥールは、1936 年 3 月 19 日から 4 月 9 日まで日本に 滞在、大日本体育協会や招致委員会ほか関係者と の懇談のほか、競技場などの視察、天皇への謁見などが行われた。

5.なぜオリンピックを東京に招致しようとするのか: オリンピックと都市東京の 1940−1964−2016(pp.3-4)/清水 諭(筑波大学).06-清水諭_日本体育協会-創世記PJ 12/05/02 21:16

 とはいえ、その日程は、すべてが東京大会開催の可能性を探るためではなかった。外国人の日本訪問としては定番の京都・奈良見物なども組み込まれており、人気女優と舞台で握手したり、日本側の接待攻勢を受けたりと、物見遊山的な要素も多分にあった。

【1940年、幻の東京五輪】(1)IOC会長を京都で奈良で接待攻勢/Smart FLASH[光文社週刊誌].2016

 高価なアンティークなどの記念品も贈呈されていたようで、「至れり尽くせり」の旅であったことは間違いないだろう。

【1940年、幻の東京五輪】(1)IOC会長を京都で奈良で接待攻勢/Smart FLASH[光文社週刊誌].2016
日本を支持することに!

 日本側がイタリアと直接、事前交渉したことに心証を害していたラツールだったが、1936年3月に東京を訪れると一変し、アジアでの五輪初開催の意義を喧伝(けんでん)するようになる。7月末のIOCベルリン総会後には、再訪が「楽しみ」とまで語るのだ。

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(12)揺らぐことのない信念/産経ニュース.2018

「実を云(い)ふと私が日本を訪れる迄(まで)は日本に対して多少疑惑を持っていたが、日本を訪れてからはすっかり日本の友人になり切ってしまった。……1940年に再び日本へ行く機会のあるのは私にとって此(こ)の上ない楽しみである」

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(12)揺らぐことのない信念/産経ニュース.2018

IOC総会 in ベルリン「『東京 vs ヘルシンキ 』開催地はどっち!?」

Berlin

 開幕を2日後に控えた7月28日、国際オリンピック委員会(IOC)総会で、IOC委員でもある嘉納治五郎が大会招請状を正式に提出し、もう一人のIOC委員、岸清一が補足説明を行って第12回オリンピック大会の東京開催を提案した。開催地は3年後のオスロでのIOC総会で決定することも決まる。立候補都市として名乗りを上げていた都市は、ローマ、ヘルシンキ、バルセロナ(スペイン)、ブダペスト、ダブリン(アイルランド)など、10都市。前評判ではローマが有力とみられており、東京の視界は良好とはいえなかった。

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(8)ロス大会での活躍、招致後押し/産経ニュース.2018
嘉納治五郎が行った誘致へ向けての最後のプレゼン

しかし極東に位置する日本と、欧米との物理的距離を危惧する声も。当時は、欧米を行き来する際には船で何週間もかかったのです。そんななか、日本招致の最終プレゼンターとして演壇に上がった嘉納は、流暢な英語で、堂々とこう発言しました。

コラム第4回:東京オリンピック招致を目指して②/全日本柔道連盟 | 全柔連ホームページ.2020

「1912年のストックホルム大会以来、日本はオリンピックへの出場を継続している。もし遠距離を理由に日本にオリンピックが来ないのであれば、日本からヨーロッパへの参加もまた遠距離であるから、出場する必要はないということになる」

コラム第4回:東京オリンピック招致を目指して②/全日本柔道連盟 | 全柔連ホームページ.2020
投票の結果……ついに東京で開催が決定!!

東京かヘルシンキかで争った1936年7月のIOC総会(ベルリン)での投票結果、36票対27票で東京が勝利する。このIOC総会に出席した嘉納は、「IOC委員に就任して27年間のオリンピック・ムーブメントが実を結んだ、今後は東京大会を世界の模範とするべく、またこれを機にオリンピックを世界の文化にせねばならない」と述べている。さらに、大会規模を競うようになっては弊害が生じるので、東京大会はベルリン大会より規模を小さくしたい、と米メディアのインタビューに答えている。コンパクトな大会という構想を既に持っていたのである。

1940年第12回大会の東京への招致(2)/日本オリンピック委員会: JOC

このあと、ベルリンからは「東京決定」を伝える日本向けのラジオ放送が行なわれた。IOC委員の副島道正は感激のあまり当初は声が出ず、マイクロホンの前で泣きながらも、「日本は世界のこの信頼に背かず、1940年の大会を意義あらしめねばならない」と語った。同じくIOC委員の嘉納治五郎は、放送のなかで「思いがけない大勝だった。24年前に金栗(四三)、三島(弥彦)の2選手を連れてストックホルム(五輪)に行ったときは、まるで勝海舟が渡米したときのような気持ちだった。東京での開催は、オリンピックが真に世界的なものになると同時に、日本の真の姿を外国に知ってもらうことができるので、二重にうれしい」と述べている(橋本一夫『幻の東京オリンピック』NHKブックス)。

ご存知ですか? 7月31日は幻の1940年オリンピック開催地が東京に決まった日です/文春オンライン.2017

日本の組織委員会委員長は徳川家

開催期間は1940年9月21日~10月6日が予定され、日本の組織委員会委員長は徳川宗家第16代当主で貴族院議長の公爵・徳川家達が就任した。

「コロナ戦争」下の日本に教えたい、83年前に“東京五輪”を「中止」した事情/現代ビジネス | 講談社.2021

明治神宮外苑競技場

開催にともない、政府から東京市、大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)に対して、100万円以上の補助金が支出された。同時期には、明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)や戸田漕艇場など各種競技で使用する施設の建設、整備が始まっている。

「コロナ戦争」下の日本に教えたい、83年前に“東京五輪”を「中止」した事情/現代ビジネス | 講談社.2021

日中戦争で東京大会が中止の危機に

British Pathé/YouTube

日本政府は、戦争に国家予算の大部分を投入したために、競技場の建設も思うようにいかず、大会の準備は進みませんでした。IOCは、東京でのオリンピック開催を危ぶむようになりました

オリンピック・パラリンピックと日本 第Ⅲ章(p.72)/オリンピック・パラリンピック 学習読本 高等学校編

1936年のベルリン大会ではヒトラーによる宣伝などを目的とした政治利用の色も濃く、東京においてもこの点が懸念された。

幻の五輪。1940年、第1回「東京オリンピック」はなぜ開催されなかったのか?/男の隠れ家デジタル.2020

そして、1937年に日中戦争が勃発して以降、この軍事衝突が国際的に非難を浴び、IOCは日本に開催の辞退を求めるようになった。

幻の五輪。1940年、第1回「東京オリンピック」はなぜ開催されなかったのか?/男の隠れ家デジタル.2020

「戦争を中止しなければ東京での開催は認められない」と日本は国際社会から強い批判を受けることになりました。

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治/NHKスポーツ
IOC総会 in カイロ「東京オリンピック開催のために出席」
cairo

1938年、嘉納は日中戦争で開催が危ぶまれていた東京大会の実現に奔走し、カイロで開かれていたIOC総会に77歳という高齢をおして出席しました。

幻の東京五輪 明かされる柔道日中秘話/ NHK

 戦争の激化で東京開催に暗雲が漂い始めた38年、カイロで開かれたIOC総会では治五郎に冷たい視線が向けられた。

新兵庫人 第13部 心・技・体を磨く(1-1)治五郎の理想 「一本」狙う姿勢不変/神戸新聞NEXT.2010

「戦争を中止しなければ東京での開催は認められない」と日本は国際社会から強い批判を受けることになりました。それでも、嘉納は「争いが起こった今こそスポーツのチカラが必要だ!」と1938年にエジプト・カイロで開かれたIOC総会に乗り込み、各国の委員たちを説得したのです。

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治/NHKスポーツ

嘉納は,オリンピックの開催は政治的な状況などの影響を受けるべきではない, と主張した。嘉納の主張に並みいる IOC 委員は異を唱える者はいなかったという。 このカイロ総会で嘉納を支持してくれた IOC 委員たちへ礼を述べつつ,東京大会へのさらなる支援を取り付けるため,嘉納はヨーロッパとアメリカの IOC 委員を回った。

第 12 回オリンピック競技大会(1940 年) の東京招致に関わる嘉納治五郎の理念 と活動(pp.72-73)/真田 久(筑波大学).マス・コミュニケーション研究 No.86.2015

嘉納は帰途、前年に亡くなったクーベルタンの心臓をオリンピアに移す儀式に参列、その後、日本を支持してくれたIOC委員たちへの返礼とさらなる協力要請のため、欧米を歴訪した。

嘉納治五郎と日本のオリンピックムーブメント 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2016

その年、嘉納のパスポートには多くの国を訪れた足跡が残っており、各国から東京開催への協力を取り付けたことがうかがえます。

幻の東京五輪 明かされる柔道日中秘話/ NHK
日本に帰る途中で息を引き取る……東京オリンピックは返上へ

(前略)ようやくカナダ・バンクーバーから氷川丸に乗船し、帰国の途につく。

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(1) 「アジア初」は信頼と尊敬の証し/産経ニュース,2018

嘉納治五郎は1938年にエジプトのカイロで行われたIOC総会から日本へ帰る氷川丸の船上で没しました。

第291話 嘉納治五郎/ピートのふしぎなガレージ.2018

息を引き取ったのは横浜帰着の2日前だった。

オリンピズム 嘉納治五郎と幻の東京大会(1) 「アジア初」は信頼と尊敬の証し/産経ニュース,2018

 オリンピック旗に包まれた嘉納治五郎の体は1938年5月6日、横浜港に無言の帰国を果たした。葬儀は5月9日、講道館大道場で講道館、大日本体育協会、東京大会組織委員会などの合同葬として執り行われ、国内外から哀悼の意が数多く寄せられた。

オリンピズム嘉納治五郎と幻の東京大会(15)日本文化との融合はかなわず/産経ニュース.2018

最期を看取った平沢和重は、後に1964年東京オリンピック招致に貢献する

同じ船に乗り合わせ、嘉納の最期を看取ったとされるのが、外交官の平沢和重(ひらさわ・かずしげ)でした。平沢は戦後NHKの解説委員に転身し、1959(昭和34)年のIOC総会で1964(昭和39)年東京オリンピック開催立候補趣意説明を行いました。趣意説明の中で、平沢は、日本の小学6年生の教科書に『五輪の旗』というエッセイが掲載されていることを紹介し、日本では、小学校の時からオリンピック精神やオリンピック・ムーブメントについて学習し、深く理解していることをアピールしました。平沢の簡潔でわかりやすいメッセージはIOC委員たちの心を動かし、オリンピックの東京招致に大きく貢献しました。

外交史料館 特別展示「外交史料にみるオリンピック」/外務省
日本オリンピックの父
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そしてその2ヶ月後、国情が不穏になった日本政府は東京五輪を返上してしまいます。それでも1964年の東京五輪は、嘉納治五郎が招致した幻の1940年大会があったからこそ実現したとも言えるでしょう。

第291話 嘉納治五郎/ピートのふしぎなガレージ.2018

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柔道の父・嘉納治五郎は、講道館を創設したのみならず、嘉納塾、宏文学院などの学校を開き、人格形成の教育に取り組んだ。「マラソンの父」金栗四三も嘉納に育てられた一人である。その進取の気性は早くからオリンピックの意義に共鳴し、初めて日本での開催を招致するために奔走する。嘉納治五郎研究の第一人者が綴る本格的書下ろし評伝! (「BOOK」データベースより)