日本オリンピックの父・嘉納治五郎の功績 ── 東京オリンピック物語(1)

嘉納治五郎は、日本オリンピックの父として称えられる武道家です。彼の功績は柔道の創設や国際オリンピック委員会での活躍に留まりません。彼は戦争や困難な時代の中で、東京オリンピック開催を目指し、国際社会との交流を促進するために奮闘しました。この記事では、彼の情熱と努力による挑戦の軌跡を紹介します。日本のオリンピック史に興味のある方には必見の内容です。

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柔道の父・嘉納治五郎は、講道館を創設したのみならず、嘉納塾、宏文学院などの学校を開き、人格形成の教育に取り組んだ。「マラソンの父」金栗四三も嘉納に育てられた一人である。その進取の気性は早くからオリンピックの意義に共鳴し、初めて日本での開催を招致するために奔走する。嘉納治五郎研究の第一人者が綴る本格的書下ろし評伝! (「BOOK」データベースより)

Jigoro Kano

超偉人!「嘉納 治五郎」

サンテレビ/YouTube

東京オリンピックの物語を語る上で、避けて通れない一人の男性がいます。それは、嘉納治五郎(かのう じごろう)です。

「柔道の父」「体育の父」「教育の父」と称される嘉納治五郎。その功績は日本のスポーツ界における彼の影響力だけに留まりません。彼が日本のオリンピック運動に対して果たした役割は、特筆すべきものです。

彼の生涯は、日本のスポーツ界、特にオリンピック運動の発展に対する情熱と献身を物語っています。一部の人々には知られていますが、1940年に開催されるはずだった幻の東京五輪の招致に成功したのも彼でした。その開催は、第二次世界大戦の勃発により残念ながら実現しませんでしたが、その試みは後の1964年の東京オリンピック開催へとつながりました。

1860年 神戸の名のある酒屋で生まれる

嘉納治五郎は江戸末期の万延元年(1860年)に、現在の兵庫県神戸市東灘区として知られる摂津国御影村で生まれました。この地域は灘酒の中心的な生産地で、嘉納の実家は現在も菊正宗酒造として名高い酒蔵として知られています。彼の父、嘉納次郎作は廻船業と酒蔵を営んでおり、幕府の廻船方御用達も務めていました。

次郎作はその名声と共に、著名な軍艦奉行である勝海舟のパトロン的存在でもありました。幼少期の治五郎は、勝海舟が神戸海軍操練所の開設中に父の家に滞在したことを、ぼんやりと記憶していたかもしれません。

母に育てられた幼少時代

嘉納治五郎は幼少期から教育に深く関わっていました。彼の父、嘉納次郎作は治五郎が6歳の時から漢学の勉強を始めさせたのです。次郎作は幕府の船舶を管理し、回漕運輸に力を尽くしました。また、維新後は海軍の文官として東京での勤務が多く、治五郎は幼年時代を母・定子と過ごしました。

次郎作が息子に対して一番大切にした教育の原則は「人に尽くすこと」でした。治五郎が友達を家に招くと、定子は必ず最高のお菓子を治五郎ではなくその友達に差し出しました。このように、家族を差し置いてでも客をもてなす行為を通じて、定子は「人に尽くすこと」の重要性を治五郎に教え込んだのです。

9歳の時に母が他界、上京と学問への探求

治五郎が9歳の時に母・定子が他界しましたが、その存在は彼の心の中で決して消えることはありませんでした。満10歳の時、明治政府に招聘された父親のもとへ上京します。

教育熱心な父親の影響で、治五郎は学問に深く打ち込むようになります。漢学や書道を学ぶ私塾に通う一方で、上京後は英語やドイツ語、数学などを教える別の私塾にも足を運びました。

こうして治五郎は幼い頃から、広範な知識を求めて自らを鍛えていきました。

初めての寄宿生活と柔術への興味

生方の勧めにより、13歳のときに嘉納は初めて父の元を離れ、芝烏森町にある外人教師中心の育英義塾に寄宿生として入学しました。嘉納は勉学において優秀であったものの、身体が小さかったために先輩たちからいじめを受けました。

この経験が彼の中で新たな関心を引き起こし、「柔よく剛を制す」とされる柔術に対する興味を持つようになりました。

開成学校への入学と柔術への道

明治8年(1875年)、嘉納は15歳のときに官立開成学校(後に東京大学となる)に入学します。この学校には旧武士の子弟が多く、学問とともに肉体的に優れている者が多く存在しました。負けず嫌いな嘉納は、自らを強くするために柔術の師匠を探し始めました。

18歳で東京大学文学部に在学中のとき、「整骨をする人は、むかし柔術家だったそうだ」という話を聞き、骨接ぎや整骨院の看板を探し歩きます。そしてついに、八木から柔術家の福田八之助を紹介してもらい、そこで初めて柔術を学び始めました。福田道場では、楊心流(ようしんりゅう)と真之神道流(しんのしんとうりゅう)の二流派の柔術が教えられていました。

柔術の実演と新たな師匠

1879年(明治12年)7月、嘉納は渋沢栄一の依頼で来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に対し、渋沢の飛鳥山別荘で柔術を実演しました。この経験は、彼の柔術への情熱をさらに深めることとなりました。

しかし同年8月、師である福田八之助が52歳で亡くなりました。その後、嘉納は天神真楊流の家元である磯正智に師事し、柔術の修行を続けました。

二松学舎での学びと東京大学卒業

19歳の時には、嘉納は二松学舎に入塾し、三島中洲先生から漢学を学びました。昼は東京大学に通い、夜は漢学の修行を行い、この頃が彼にとって最も学問に力を入れた時期であったと言われています。

1881年には東京大学文学部を卒業し(政治学と経済学を専攻)、さらに1年間、文学部哲学科で倫理学の研究を続けました。これは人間の内面的な発達に大いに関心を持っていたからでした。

教育活動と「柔道」の創始

1882年1月、嘉納治五郎は学習院の教壇に立ち、その後2月には若者と共に生活しながら学ぶ「嘉納塾」、3月には英語学校「弘文館」、そして5月には柔道の道場「講道館」を立て続けに創立しました。

彼が秀才たちに教える中で、柔術を学ばせたいという思いが湧きました。しかし、教えようとするとそこには大きな問題が存在しました。柔術は本来、戦場で相手より優位に立つための殺法であり、その技術や原理を簡単に教えることは難しく、秘匿性がありました。

しかし、嘉納は新時代に向けて、誰もが取り組める“開かれた武術”があってもいいと考えました。そこで彼は古流柔術や拳法の技、さらには海外のレスリングまで一つ一つ研究し、理屈で解き明かせるものを吸収しました。

その結果、嘉納は皆が教え合い、学べるオリジナルの柔術を作り出しました。これは共に高め合っていく一つの「道」であり、「柔道」と名付けました。

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27歳で学習院の教頭へ

1886年、嘉納治五郎は27歳という若さで学習院の教頭に就任しました。この職に就くことで、彼は自身の教育理念をさらに深く追求することが可能となり、一方で自身が創設した柔道の普及活動にも大いに貢献しました。教育者として、また柔道の父として、彼の影響力はこの時期に大きく広がっていきました。

世界視察

1889年、29歳の嘉納治五郎は、世界視察のためヨーロッパに派遣されました。彼の旅は16ヶ月に及び、パリ、ベルリン、ウィーン、コペンハーゲン、ストックホルム、アムステルダム、ロンドンといった各地を訪れました。この外遊は、治五郎の視野を大いに広げる機会となりました。

彼が最も驚いたのは、ヨーロッパにおける体育教育の進んだ状況でした。ヨーロッパでは陸上競技や水泳などのスポーツが積極的に体育教育に取り入れられていました。一方で、日本では体育は主に兵士を育成する手段としてしか認識されておらず、スポーツは単なる遊戯としか見られていませんでした。

また、ヨーロッパ各地を巡る中で、治五郎は「ヨーロッパではどの国も、表面は華美だが中身は極めて質素倹約だ」という洞察を得ました。これは彼の「精力善用」という教育理念の胚胎となりました。

この旅を通じて、治五郎はまた語学の重要性を再認識しました。彼はドイツ語には自信がなかったものの、ドイツ人の英語が誤りがちであることを見て「外国語を使って間違うのは当然で、語学は使い慣れて習得するものだ」と悟りました。これ以降、彼の英語力は急速に上達したといわれています。

帰途とグローバリストとしての視野

嘉納治五郎の世界視察は、ヨーロッパだけでなく、アフリカやアジアの地も見聞した後に終わりました。彼は帰途にエジプトのピラミッドを訪れ、その壮大なる景観に登りました。コロンボ、サイゴン、香港といった寄港地も見学しました。これらの体験は、グローバリストとしての嘉納の視野を広げ、その後の人生と教育理念に大いに影響を与えました。

また、帰途の船中で起きた出来事は、嘉納の柔道の技量とその精神を象徴するものとなりました。彼は身体の大きなロシア人士官から勝負を挑まれ、その士官を見事に投げ飛ばしました。この逸話は後に広く知られ、嘉納の柔道の名声を一層高めるものとなりました。

結婚と家庭の設立

1891年、嘉納治五郎はカイロ経由で帰国しました。その年、彼は外交官であり漢学者でもある竹添進一郎の娘、須磨子と結婚しました。須磨子は優れた教養を持つ女性で、嘉納治五郎と共に新たな家庭を築くこととなりました。二人の結婚は、嘉納治五郎の人生の新たな章の幕開けを告げるものでした。

教育者としての地位の確立

1893年1月、嘉納治五郎は五高校長の職を離れ、文部省参事官兼文部大臣官房図書館長となりました。次いで2月10日、熊本から東京へと戻り、牛込砂土原町(現在の新宿区市谷砂土原町)に居を構えました。同年6月19日には第一高等中学校の校長に就任し、さらに9月20日には東京高等師範学校(後の東京文理科大学、東京教育大学、現在の筑波大学)の校長に就任しました。嘉納治五郎は、その後、同校の校長を三期、合計23年余りにわたり務めることになります。

この期間中、治五郎は中等教員養成のカリキュラムの策定に大きく関与し、そのモデルを構築していきました。彼の教育者としての地位は、この時期に確立され、その影響は後世にも大きく残りました。

中国からの留学生を受け入れ

1896年(明治29年)、36歳の嘉納治五郎は、清国から中国初の留学生を受け入れ、日本語と日本語文法の教育を行いました。この取り組みは、彼の国際的な視野と教育者としての情熱を示すものでした。また、中国の教育基盤を強化するための一環ともなりました。それに続き、治五郎は広東、南京、雲南、甘粛など中国各地からの留学生を受け入れました。

これらの留学生の受け入れは、日本と中国の文化交流を深め、また両国間の理解を進める役割を果たしました。そして、嘉納治五郎の教育者としての影響力は、国境を越えて広がっていったのです。

中国視察と教育交流の強化

1902年(明治35年)7月、嘉納治五郎は故郷の神戸から清国に向けて出帆し、中国の視察へと向かいました。その時点で、治五郎の名声は中国でも広く知られており、中国の政治家であり教育家でもある張之洞と面談し、教育を中心とした友好関係を確認しました。

治五郎は既に宏文学院(1902年1月開設)という留学生受け入れの教育施設を設立していましたが、帰国後、張之洞との約束を果たすために、中国からの留学生受け入れをさらに積極的に推進しました。そして、自身の創始した柔道を留学生教育の一部として取り入れることも忘れませんでした。

教育と道徳を通じた体育の普及

留学生の受け入れが1909年までに約7000人に増加したのは、嘉納治五郎の前向きな考えによるものであった。彼は、体育が身体を強化するだけでなく、道徳的価値を高め、一生を通じて心身の活動性と幸福を維持する手段であると信じていました。

国境を越える嘉納治五郎理念

嘉納の視点は、年齢や性別、国境にとらわれることなく、体育の普及を志向していました。彼は徒歩、長距離走、水泳、そして柔道を挙げ、これらが誰でも参加できる運動であると強調していました。

彼の考えは更に広範で、柔道や体育活動を通じて得た道徳的な価値が、社会生活での実践につながるべきだと考えていました。嘉納のこの視点は、近代オリンピックの創設者であるクーベルタン男爵の考えと共鳴していました。

「クーベルタンと嘉納治五郎」オリンピック運動の交流

クーベルタン、当時のIOC会長は、世界各地にオリンピックの理念を広めるため、スポーツを通じて教育改革に力を注ぐ人々を仲間に求めていました。そういった志向の人物として彼が目をつけたのが、嘉納治五郎だったのです。

嘉納治五郎のIOCメンバーへの推薦

1908年の第4回ロンドンオリンピック終了後、クーベルタンは駐日フランス大使オーギュスト・ジェラールに、IOCのメンバーとなるような日本人を探すよう依頼しました。このときジェラールが推薦したのが、柔道を通じて体育の普及を目指す嘉納治五郎でした。

実は、この時点でクーベルタンはすでに嘉納治五郎の名と柔道について知っていたと言われています。これは嘉納治五郎の活動が既に国際的な注目を集め、その思想がクーベルタンの理念と共鳴していたからでしょう。

「クーベルタンからの手紙」嘉納治五郎への呼びかけ

1909年、近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵から、嘉納治五郎宛てに一通の手紙が送られました。その手紙は「西洋と東洋が共に協力してオリンピックに取り組むことが、平和な世界への近道になるだろう」というメッセージを伝え、嘉納治五郎の柔道を通した思想とオリンピックの精神が一致することを示していました。

オリンピック委員への推薦

さらに、駐日フランス大使オーギュスト・ジェラールから嘉納治五郎への会談の申し出がありました。ジェラールはクーベルタン男爵の同窓生であり、彼の推薦を受けて、アジアからのIOC委員として嘉納治五郎を推薦すると語りました。

嘉納治五郎のIOC委員受諾

この提案を受け、嘉納治五郎は当時の外務大臣小村寿太郎と文部大臣菊池大麓に相談しました。その結果、両大臣の賛同を得て、嘉納治五郎はジェラールにIOC委員としての役割を受け入れる意志を伝えました。これは、嘉納治五郎の思想とオリンピックの理念が一致し、矛盾する点がなかったからです。この時、嘉納治五郎は48歳でした。

初の対面は1912年ストックホルムオリンピック

そして嘉納治五郎とクーベルタン男爵が直接会ったのは、1912年の第5回ストックホルムオリンピックでのことでした。

大日本体育協会の設立と日本初のオリンピック参加

1910年、日本は第5回ストックホルムオリンピックへの招待を受けました。しかし、IOCからは、オリンピック大会に参加する国は、それぞれスポーツの全国的統括団体を持つべきで、これが各国のオリンピック委員会(NOC)となるべきだとの要請がありました。これを受けて、嘉納治五郎は国内のスポーツを統括する団体の設立を模索しました。

嘉納治五郎は学識者との会合を重ね、1911年7月に大日本体育協会を設立しました。最初の役員には、嘉納治五郎が会長、大森兵蔵、永井道明、安部磯雄各氏が理事に就任しました。そして、間近に迫ったストックホルム大会に向けて、国内オリンピック予選会の開催と代表選手派遣の事業に取り組むこととなりました。

治五郎は、短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名を日本代表選手に選出しました。しかし、金栗は東京高等師範学校の生徒であり、ストックホルムへの渡航資金がなかったため、治五郎は東京高等師範学校で金栗の後援会を結成し、募金を呼びかけ、必要な資金を集めました。

治五郎は、「精力善用・自他共栄」の理念を、心身の調和的な発達を求めたヘレニズム思想の展開であるオリンピズムの発展型として、西洋のスポーツ文化に組み入れることを構想していました。これは、オリンピックを世界的な文化に昇華させ、その価値(卓越、友情、尊敬)の定着と世界平和の実現に寄与するという強い信念に基づいたものでした。

したがって、大日本体育協会の設立は、単に日本のスポーツがオリンピック大会に出場するための参加条件を満たすためだけでなく、より広範な視点から見て、国内スポーツの組織化と、日本のスポーツ文化の発展、さらにはオリンピック精神の普及という目的を果たすための重要な一歩でした。

そして、1912年、ストックホルムオリンピックに日本から初めて選手を派遣することができました。

嘉納治五郎の団長就任と日本初参加のストックホルムオリンピック

日本が初参加した1912年のストックホルム・オリンピックに治五郎は団長として参加。講道館柔道の創始者で、アジア初のIOC委員にもなった嘉納治五郎を団長に、陸上競技に2選手が出場した。

オリンピックへの日本の参加が始まったものの、ストックホルム大会の際には、参加費は選手の自己負担であり、当時の額で1,600円(現在の約400万円)にのぼりました。そのため、金栗四三は経済的理由などで一度は辞退を申し出ていますが、金栗が所属していた東京高等師範学校の校長でもあった嘉納治五郎が後援会を結成し、募金を呼びかけ資金を集めたことにより参加することができました。

三島は100、200、400メートルに出場したが、いずれも決勝へは進出できず、国内の選考会で当時の世界最高をマークしていた金栗も日射病のため32キロ地点で無念の棄権となった。

BFI/YouTube
関東大震災で東京が壊滅

1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が関東一円を襲い、東京は大きな揺れに見舞われました。最初は緩慢な地面の動きを感じただけでしたが、次第に揺れは大きくなり、最後には立っていることすら困難な状況となりました。この関東大震災で全半壊、焼失、流失、埋没などの被害を受けた住宅は計37万棟にのぼり、10万5000人以上の死者・行方不明者が発生しました。

嘉納治五郎とクーベルタンの間の文通

この関東大震災の影響は、嘉納治五郎がクーベルタンに宛てた書簡からも窺うことができます。この書簡は、オリンピック研究センターによる調査により、嘉納がクーベルタンに宛てた最後の書簡と判明しました。嘉納は手紙の中で、長らく手紙を書けなかったことを詫び、関東大震災について詳述しています。

特に注目すべきは、クーベルタンが震災後に嘉納の安否を気遣い、手紙を送ったこと、嘉納が震災発生時に樺太にいたこと、そして関係者の中には命を落としたり家を失ったりした者がいたことが伝わってくる点です。この書簡は、嘉納とクーベルタンとの個人的な関係を知る貴重な資料となっています。

朝日新聞社/YouTube

震災で中断された「明治神宮外苑競技場」が完成

明治天皇崩御後の1915年には、明治神宮の造営が始まりました。そして、1919年には明治神宮のそばの青山練兵場跡地に、当時の大日本体育協会会長であり東京高等師範学校(現在の筑波大)の校長でもあった嘉納治五郎らの発案により、明治神宮外苑競技場の建設が開始されました。

関東大震災の影響で工事が一時中断されましたが、1924年には競技場が完成しました。この競技場は陸上競技場として設計されましたが、サッカーなどの国際試合も行われるようになりました。鉄筋コンクリート造りで、観客席は1万5000席に加え、4万人が入れる芝生席が設けられていました。総工費は100数十万円という巨額で、当時としては大規模なプロジェクトでした。

嘉納治五郎のオリンピックビジョン

明治神宮外苑競技場の建設は、嘉納治五郎のオリンピックに対する深い献身とビジョンを具現化したものでした。彼は、スポーツが国民の健康と国家の結束を向上させ、また国際的な理解と協力を促進する強力なツールであると信じていました。この信念が、彼が日本でオリンピックを主催するという大胆な目標に向けて努力を続ける原動力となりました。

神宮外苑競技場の遺産

余談ながら、戦前には1940年東京オリンピックの開催計画があり、その際、大日本体育協会は神宮外苑競技場をメインスタジアムとする計画を立てていました。しかし、東京市は臨海部の埋め立て地をメイン会場にすることを主張しました。この意見の相違により、最終的には駒沢に新競技場を建設することが決定されました。

それでも、神宮外苑競技場は日本のスポーツ史において重要な役割を果たし続けました。この競技場は、1964年の東京オリンピックのメイン会場となった国立競技場の前身であり、嘉納治五郎の提案によって建設されたものでした。

国立霞ヶ丘陸上競技場 (National Olympic Stadium)

昭和時代のオリンピック招致

昭和4(1929)年、国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレームが来日し、日本学生競技連盟会長の山本忠興と会見を行いました。この会見で、昭和15(1940)年の第12回オリンピック大会を東京に招致する可能性について初めて具体的に議論が交わされました。

この招致の意向を初めて公にしたのは、翌年に東京市長に就任した永田秀次郎でした。元内務官僚であり、関東大震災時に市長を務めていた永田は、震災からの復興を世界にアピールするための機会としてオリンピックを見ました。これはまさに「復興五輪」の構想でした。

そして1931(昭和6)年10月、東京市議会は皇紀2600年に当たる1940(昭和15)年開催の第12回オリンピック大会の東京招致を満場一致で決議しました。翌1932(昭和7)年6月、永田市長は外務大臣斎藤実に対して、東京開催への協力を正式に要請しました。この要請を受け、外務省は関係方面への協力要請や情報収集に努めました。

嘉納が東京オリンピック実現に向けて動く

そして、永田秀次郎東京市長からの正式招請状は、IOC委員の岸清一と嘉納治五郎に託されました

東京のオリンピック招致表明

昭和7(1932)年7月、日本のオリンピック委員である嘉納治五郎と岸清一が、ロサンゼルスで開催された第30回IOC総会にて、東京のオリンピック招致を正式に表明しました。当時、すでに9つの都市(ローマ、バルセロナ、ヘルシンキ、ブダペスト、アレクサンドリア、リオデジャネイロ、ブエノスアイレス、ダブリン、トロントまたはモントリオール)が1940年のオリンピック開催地として立候補していました。

この競争の中で、東京は何点かの不利な条件を抱えていました。一つには立候補が遅れたこと、また、東京は欧米から遠く、夏季は暑いという地理的・気候的な課題もありました。これらの困難を抱えながらも、嘉納治五郎は「望みはあるが、まだ確定したわけではない」と慎重ながらも、希望を持って帰国しました。

「日本の国際的な孤立」満州事変と国際連盟脱退

日本は、大正9年(1920)に設立された国際連盟の常任理事国であったものの、昭和8年(1933)の満州事変を契機に国際的な孤立を深めることとなります。

満州事変と国際的非難

満州事変とは、1931年に日本の関東軍によって引き起こされた事件で、これがきっかけとなり、日本は満洲地方(現在の中国東北部)を占領し、翌年には満洲国を建国しました。

9月18日の夜、奉天省(現在の遼寧省)の柳条湖近くで、日本が経営していた南満洲鉄道の線路が爆破される事件が発生しました。関東軍はこれを中国軍(張学良軍)による暴挙と断定し、これを口実にして満洲全域への進攻を開始しました。しかし、この爆破事件自体が関東軍による偽旗作戦(自作自演)であったとする説が一般的で、これは「柳条湖事件」または「九・一八事件」とも呼ばれています。

この日本の行動は、国際連盟や主要国からの非難を招きました。

国際連盟への抗議と脱退宣言

1933年2月24日に行われた国際連盟総会で、中国の統治権を認め、満州事変で中国に進軍した日本軍の撤退を要求する報告案が賛成42票、反対1票、棄権1票という圧倒的な多数で可決されました。反対票を投じたのは、日本代表団の松岡洋右を含む日本の代表者たちでした。これに対し、日本代表団は議場を退場。

そして、日本政府は3月27日に国際連盟からの脱退を宣言する詔書を発表し、国際連盟に脱退の通告を行いました。このことは、日本の国際社会からの孤立を一層深める結果となりました。

嘉納の直弟子!杉村陽太郎の国際活動と東京オリンピックへの貢献

杉村陽太郎は、嘉納治五郎の直弟子であり、講道館の六段者でもありました。嘉納塾での生活を通じて嘉納の哲学と国際協調思想を深く理解し、彼自身も国際連盟事務局次長として活動していました。しかし、満州事変をきっかけに日本が国際連盟から脱退すると、その役職から離れることとなりました。それは国際協調を信じていた杉村にとって大いなる失望であったことでしょう。

しかし、その後、杉村はイタリアやフランスの特命全権大使として外交の第一線で活動を続け、日本と世界との橋渡しの役割を果たしました。1933年、嘉納治五郎が杉村にIOC委員の就任を打診し、彼はその提案を受け入れました。そうして杉村は、オリンピック運動の推進者として新たな舞台で活動を始め、東京オリンピック開催の夢を追い求めることとなりました。

東京招致とローマへの挑戦

嘉納治五郎は、1933年6月のウィーンで開催されたIOC総会に出席し、イタリアのローマが東京と同じく1940年のオリンピック開催都市に立候補していることを受けて、その競争の激しさを強調しました。ローマは既に立派なオリンピック競技場を持ち、地理的にも欧州に近いという利点があり、また当時のイタリア首相ベニート・ムッソリーニもオリンピック開催に熱心だったという事実を認識していました。

嘉納は、この状況を東京市オリンピック委員会での報告会で述べ、ムッソリーニが豪胆な人物であることを踏まえて、彼に譲歩を求める可能性を示唆しました。これは嘉納が東京招致のための戦略の一環と考えられ、その精神と外交力を見ることができます。

しかし、これはあくまで当時の状況を反映した発言であり、ムッソリーニが実際に譲歩するかどうかは不確定でした。また、世界情勢は1930年代に入ってから急速に変化し、このような外交戦略も常に試されることになります。

Vienna
副島道正のIOC委員就任と東京開催への戦略

1934年6月のアテネで開催されたIOC総会では、1940年大会の開催地については翌年のオスロIOC総会で決定することが決まりました。また、この総会で、故人となった前IOC委員岸清一の後任として副島道正伯爵が選出されました。副島はケンブリッジ大学で学んだ経験があり、イギリスに多くの友人がいたため、その人脈を活用して日本の招致活動を後押ししました。

しかし、当時の日本は、ローマに対して圧倒的に不利な立場にありました。嘉納治五郎IOC委員は、オーストリアのIOC委員シュミットから「ムッソリーニに直訴したらどうか」という示唆を受けました。これは、東京の開催招致が厳しい状況にあることを示しており、ムッソリーニが力を持つイタリアのローマが主要な競争相手であったことを明らかにしています。

このような状況下で、嘉納や副島などの日本のIOC委員は、東京開催を実現するための様々な戦略を考え、活動を行っていました

ムッソリーニを説得「東京オリンピック」開催の道を開く

1934年、副島道正と杉村陽太郎は、オスロでのIOC総会に出席する途中でローマを訪れました。そしてイタリアの首相であったムッソリーニと会見を行いました。これは、嘉納治五郎の提案に基づいた行動であり、その目的は、日本が皇紀2600年を迎える記念すべき年に東京でオリンピックを開催したいという願いを伝え、ローマにその開催権を譲ってもらうことでした。

しかし、会見直前に副島は急病に倒れてしまいます。それでも彼は病を押して会見に臨み、ムッソリーニに直訴しました。そして、この「皇紀2600年記念」という特殊な事情と副島の熱意に、ムッソリーニは感動し、その場で東京開催を快諾し、ローマの招致を辞退すると返答したのです。

この出来事は、東京のオリンピック開催が現実的になる大きな転機となりました。ムッソリーニの快諾により、東京は最大の競争相手であったローマを退け、1940年オリンピック開催の有力候補となったのです。

ムッソリーニと副島の交渉「ローマ開催」の辞退と東京への譲歩

ムッソリーニから譲歩の約束を取り付けたものの、翌年のオスロで行われたIOC総会で、イタリアの体育協会がローマの辞退を認めず、招致活動を続けるという衝撃的な出来事が起こりました。この事態に対して、副島はムッソリーニにローマでの約束について再確認し、改めて譲歩してもらうよう懇願しました。

副島の要請に応えて、ムッソリーニはオスロに滞在中のイタリアIOC委員に無条件での譲歩を命じました。その結果、IOC総会の場でイタリア代表が「日本が1940年の大会を東京で開くことを熱望しているので、イタリアはこの大会のローマ開催を断念する」と発言し、この問題は決着しました。

Oslo
オスロでのIOC総会と開催地決定の延期

しかしオスロでのIOC総会は混乱してしました。辞退が表明されたにもかかわらず、ローマを支持する声がまだ存在し、その場での決定は困難となったため、第12回大会の開催都市の決定は延期されることになりました。

その結果、開催地の決定は次のIOC総会、昭和11(1936)年にベルリンで行われる予定となりました。

「ラトゥールの日本訪問」オリンピック招致への影響と日本の可能性

東京市がオリンピック誘致のため、第2代国際オリンピック委員会(IOC)会長のラトゥールを招待しました。

ラトゥールは1936年3月19日から4月9日まで日本に滞在しました。彼は大日本体育協会や招致委員会など関係者との懇談や競技場視察、天皇への謁見などを行いました。しかし、彼の訪日はオリンピック開催の可能性を探るだけではなく、観光やレジャーも含まれていました。ラトゥールは日本側の接待攻勢を受け、高価なアンティークや記念品を贈られるなど、非常に充実した滞在となりました。

ラトゥールは、当初は日本側がイタリアと直接事前交渉を行ったことに対して不快感を抱いていましたが、日本を訪れることでその態度が変わりました。彼は日本訪問後、アジアでの五輪初開催の意義を喧伝するようになり、1936年7月末のIOCベルリン総会後には、再訪が「楽しみ」とまで語りました。彼は「日本を訪れるまでは日本に対して多少疑惑を持っていたが、日本を訪れてからはすっかり日本の友人になり切ってしまった。…1940年に再び日本へ行く機会のあるのは私にとってこの上ない楽しみである」と述べました。

このラトゥールの日本訪問は日本側にとって非常に有益であり、彼の考え方に変化をもたらし、日本が1940年のオリンピック開催に向けて有利な状況を作りました。

1932年のIOC総会での提案と東京の勝利

1932年のロサンゼルスオリンピックの開幕を2日後に控えた7月28日、IOC総会で、IOC委員である嘉納治五郎が大会招請状を正式に提出し、もう一人のIOC委員である岸清一が補足説明を行い、第12回オリンピック大会の東京開催を提案しました。これは、東京がオリンピック開催都市として立候補した最初のステップでした。

立候補都市として名乗りを上げていたのは、ローマ、ヘルシンキ、バルセロナ、ブダペスト、ダブリンなど、合計10の都市でした。開催地は3年後のオスロでのIOC総会で決定されることが決まっていました。この時点で、ローマが有力候補とみられていたため、東京の勝算は必ずしも明確ではありませんでした。それにもかかわらず、嘉納と岸は、東京がオリンピックの開催都市に適していると説得するために、その機会を活用しました。

“嘉納治五郎の地理的な挑戦とオリンピック招致の成功

この時期、日本と欧米との間には物理的な距離があるため、オリンピックの開催には大きな困難があるとの懸念がありました。当時、船による長期間の移動が必要だったため、この懸念は特に強かったのです。しかし、嘉納治五郎はこの問題に対して、堂々とした態度で対抗しました。

彼は、流暢な英語で次のように語りました。「1912年のストックホルム大会以来、日本はオリンピックへの出場を継続しています。もし遠距離を理由に日本にオリンピックが来ないのであれば、日本からヨーロッパへの参加もまた遠距離であるから、出場する必要はないということになります」。

これは、地理的な障害を克服するためには、全ての参加国が同じ努力をするべきだという強いメッセージでした。そして、このメッセージは、後の東京招致成功に大いに寄与しました。

東京と嘉納治五郎の喜び

1936年7月のIOC総会での投票では、東京とヘルシンキが開催地を競いましたが、結果は36票対27票で東京が勝利しました。この結果について嘉納治五郎は、「IOC委員に就任して27年間のオリンピック・ムーブメントが実を結んだ。今後は東京大会を世界の模範とするべく、またこれを機にオリンピックを世界の文化にせねばならない」と述べ、東京の勝利を称えました。

嘉納はさらに、大会規模を競うことが問題を引き起こす可能性があると考え、東京大会はベルリン大会よりも規模を小さくすることを提案しました。これは、コンパクトな大会の構想を既に持っていたことを示しています。

この後、ベルリンからは「東京決定」を伝える日本向けのラジオ放送が行われました。IOC委員の副島道正は、感激のあまり当初は声が出ず、マイクロホンの前で泣きながらも、「日本は世界のこの信頼に背かず、1940年の大会を意義あらしめねばならない」と述べました。

同じくIOC委員の嘉納治五郎は、放送中に「思いがけない大勝だった。24年前に金栗四三、三島弥彦の2選手を連れてストックホルム五輪に行ったときは、まるで勝海舟が渡米したときのような気持ちだった。東京での開催は、オリンピックが真に世界的なものになると同時に、日本の真の姿を外国に知ってもらうことができるので、二重にうれしい」と述べました。

東京オリンピックの予定期間と徳川家達の組織委員会委員長就任

1940年の東京オリンピックの開催期間は1940年9月21日から10月6日までと予定されていました。そして、日本の組織委員会の委員長には、徳川宗家の第16代当主であり、貴族院議長の公爵・徳川家達(とくがわ いえさと)が就任しました。

この大会の開催にあたり、政府から東京市と大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)へ、合わせて100万円以上の補助金が支出されました。これは、大会の運営費や関連施設の建設・整備費用の補填を目的としていたと考えられます。

同時期には、明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)や戸田漕艇場など、各種競技で使用するための施設の建設・整備が始まっていました。これらの施設は、東京オリンピックのために新たに建設・整備されたもので、日本が世界に向けて最高水準の競技環境を提供するための重要な準備の一部でした。

戦争と政治的な圧力「東京オリンピック」開催中止のプロセス

当時の日本政府は戦争に国家予算の大部分を投入していたため、東京オリンピックに必要な競技場の建設などが思うように進んでいませんでした。そのため、国際オリンピック委員会(IOC)は東京でのオリンピック開催を危惧し始めました。

1936年のベルリンオリンピックは、アドルフ・ヒトラーのナチ政権による宣伝や政治利用が目立ったことから、東京オリンピックについても同様の懸念が生まれていました。

そして、1937年に日中戦争が勃発したことで、日本の軍事行動は国際的に大きな非難を浴びることとなりました。この戦争の影響もあり、IOCは日本に対してオリンピック開催の辞退を求めるようになったのです。日本は「戦争を中止しなければ東京での開催は認められない」という強い圧力を国際社会から受けることになり、これが1940年東京オリンピックの開催中止へとつながっていくことになります。

British Pathé/YouTube
嘉納治五郎の奮闘と東京オリンピック開催の意義

1938年、77歳の嘉納治五郎はIOC総会に出席するためエジプト・カイロまで旅をし、そこで日中戦争の影響により危ぶまれていた東京オリンピック開催の実現に向けた説得を試みました。多くの人々が戦争の中止を求め、東京での開催を不可能と見なしていましたが、嘉納は違う視点を持っていました。

彼は「争いが起こった今こそスポーツの力が必要だ!」と強く主張しました。彼の考えでは、オリンピックは政治的な状況から影響を受けるべきではなく、むしろその逆で、スポーツが人々を一つにし、国際的な平和と調和を促進する力があると信じていました。

嘉納の主張は、他のIOC委員たちにも受け入れられました。彼の主張に反対する者は一人もいなかったと伝えられています。

カイロ総会でを支持してくれたIOC委員たちに感謝の意をした後、ヨーロッパとアメリカを訪れ、IOC委員たちに対して東京大会へのさらなる支援を要請しました。

また、前年に亡くなったIOCの創設者であり、近代オリンピック運動の父とされるピエール・ド・クーベルタンの心臓をオリンピアに移す儀式にも参列しました。

その年の嘉納治五郎のパスポートには、彼が訪れた多くの国々のスタンプが押されており、その献身的な努力と旅がどれほどのものだったがわかります。

cairo

嘉納治五郎の最期と東京オリンピックへの遺産

嘉納治五郎は、各国を巡りながら東京オリンピック開催への支援を取り付ける活動を行った後、カナダ・バンクーバーから氷川丸に乗り込み、帰国の途につきました。しかし、その帰国途中、彼は1938年5月3日に氷川丸の船上で息を引き取りました。横浜帰着の2日前のことでした。

オリンピック旗に包まれた嘉納治五郎の体は、1938年5月6日に横浜港に帰国しました。彼の葬儀は5月9日に講道館大道場で行われ、講道館、大日本体育協会、東京大会組織委員会などが合同で執り行いました。その葬儀には、国内外から多くの哀悼の意が寄せられました。

当時の国際オリンピック委員会(IOC)会長ラツールは、嘉納の死を深く悼み、「彼の死は日本だけでなく、全世界のスポーツ界にとっても大きな損失である。彼は自身が偉大なスポーツマンであり、青年の真の教育者であった」と述べました。

また、IOC委員のアバーデア(英国)は、「私は嘉納の遺志に従い、日本でのオリンピック競技会を支えることを最大の幸福と考える」と、東京オリンピックへの協力を誓いました。しかし、嘉納治五郎の死去により、東京大会への原動力を失った組織委員会には、この危機的な状況を打開する術が残されていませんでした。

日本政府が東京オリンピックを返上

嘉納治五郎の死から2ヶ月後の1938年7月、日本は国際情勢の悪化と日中戦争の継続により、東京でのオリンピック開催を断念せざるを得ませんでした。そのため、予定されていた1940年の東京オリンピックは「幻のオリンピック」とも称されることになりました。

日本オリンピックの父『嘉納治五郎』

嘉納治五郎の遺志は、彼が亡くなった後も日本と世界のスポーツ界に大きな影響を与え続けました。そして、26年後1964年に東京オリンピック開催につながりました。

彼が創設した柔道は、日本の伝統的な武道を世界に広めるとともに、国際的なスポーツとして認知されるきっかけを作りました。これは日本のスポーツと文化が全世界に広がる一助となった重要な業績です。

嘉納治五郎は、スポーツが国際的な友情と理解を深め、社会を変える力を持つことを強く信じていました。その信念は、彼が日本オリンピック委員会の初代会長として、そして日本のオリンピックの父として活動したことにより具現化され、その影響は今日まで続いているのです。

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「東京オリンピックへの道」嘉納の意思が繋がる

船上で嘉納の最期を看取ったのは、外交官の平沢和重でした。平沢は戦後、NHKの解説委員に転身し、1959年のIOC総会で1964年東京オリンピック開催立候補の趣意説明を行いました。その説明の中で、平沢は日本の小学6年生の教科書に掲載されているエッセイ「五輪の旗」を引き合いに出し、日本人は小学校の時からオリンピック精神やオリンピック・ムーブメントを学び、深く理解していることをアピールしました。

平沢の簡潔でわかりやすいメッセージはIOC委員たちの心を動かし、東京へのオリンピック開催招致に大いに貢献しました。その結果、1964年の夏季オリンピックは東京で開催されることとなりました。

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柔道の父・嘉納治五郎は、講道館を創設したのみならず、嘉納塾、宏文学院などの学校を開き、人格形成の教育に取り組んだ。「マラソンの父」金栗四三も嘉納に育てられた一人である。その進取の気性は早くからオリンピックの意義に共鳴し、初めて日本での開催を招致するために奔走する。嘉納治五郎研究の第一人者が綴る本格的書下ろし評伝! (「BOOK」データベースより)
戦火に散ったアスリートたちの夢と命の輝き ── 東京オリンピック物語(2)

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