ラグビー。このスポーツは戦略と力、瞬時の判断とチームワークが試される競技です。数多くの偉大な選手たちがこの舞台でその名を刻み込んできたましが、リッチー・マコウの名はラグビー界において絶対的な存在として知られています。マコウのキャリアは数多くの瞬間から成り立っています。では、そのすべてはどこから始まったのでしょうか?この記事では、その伝説の始まりに迫ります。
Legend of Richie McCaw
「リッチー・マコウ」オールブラックスの伝説
リッチー・マコウ、本名リチャード・ヒュー・マッコー(Richard Hugh McCaw)は、ラグビーファンであれば誰もが知る名前であり、ラグビー界のレジェンドとしてその名を刻んでいます。
マコウはニュージーランド代表チーム「オールブラックス(All Blacks)」のキャプテンとしてチームを数多くの勝利に導き、ニュージーランドで最も尊敬されるスポーツマンの1人として位置づけられています。
オールブラックスはラグビー界でのその名声と実績から、世界中のラグビーファンから特別な存在として認識されています。そして、マコウはその歴史の中でも特に輝かしいキャリアを築き上げた選手の一人であり、黒いジャージを着てフィールドに立つマコウの姿は、多くのラグビーファンにとって忘れられないものとなっています。
オープンサイドフランカーの最高到達点!
ラグビーのフランカーとして名を馳せる選手たちは、歴代に多くの名手が存在しています。彼らはアタックにおいて独自の特色を持ちながら、ディフェンスにおいても絶対的な存在感を放ってきました。
しかし、この多くの選手の中でも、リッチー・マコウはその総合力で頭一つ抜きん出ていました。アタックとディフェンスの両面での圧倒的な能力は、「ボールのあるところマコウあり」と恐れられるほどの選手へと押し上げました。
オープンサイドフランカーとは、スクラム時にフィールドの広いサイドに位置するフランカーのことを指します。彼らは特に動きの速さやスピード、そして機動力を活かしてゲームをリードする存在となっています。
マコウはこのポジションを体現するような選手であり、その技術や知識は世界の多くのフランカーから学び取られてきました。マコウのプレーは、攻撃時のフィールド全体への貢献や、ディフェンス時のタックルスキルにおいてもトップクラスで、しばしば敵チームの攻撃を中断させ、自分たちのチームに有利な局面を作り出していました。
ブレイクダウンでの戦いは、ラグビーにおける駆け引きの核心とも言える部分であり、ここでの優劣がゲームの結果を大きく左右します。マコウはこの部分での戦いにおいてもその能力を発揮し、チームを数多くの勝利へと導いてきました。
サイズだけでなく、それを活かしたスピードや技術が求められるオープンサイドフランカー。リッチー・マコウはその全ての要素を持ち合わせ、その上で更なる独自のスタイルを築き上げました。
マコウの活躍によって、オールブラックスは数多くの勝利を手にすることができました。まさに、リッチー・マコウは、オープンサイドフランカーの真髄を見せつけた選手であり、マコウのプレーはこれからも多くの選手たちに影響を与え続けています。
テストマッチの伝説
リッチー・マコウの名前は、ニュージーランドラグビーの歴史において永遠の一部として存在します。彼はそのキャリア中に、驚異的な148試合のテストマッチに出場し、その中でも多くの試合でチームのキャプテンとして指揮を執りました。この数字だけで見ても彼の伝説的な存在感が伝わるでしょう。
テストマッチという特別な戦い
ラグビー界における「テストマッチ」は、ただの試合以上の意味を持っています。名前に「テスト」という言葉が使われているからといって、練習や親善の試合を想像するのは誤りです。テストマッチは、両国の名誉やプライドが賭けられた真剣勝負です。そして、マコウはこれを148回も経験しています。
記録破りのキャリア
マコウは、テストマッチにおいて数々の記録を打ち立てました。彼はオールブラックス選手として初めて100試合出場の壁を破りました。この記録は、他のラグビー選手が追いつくことは難しいでしょう。さらに、ワールドカップにおいても出場記録を更新し続けています。
卓越した勝率
オールブラックスとしての彼の勝率は、驚異的な88.51%。これは、彼が所属するオールブラックスが、世界のどのラグビーチームと戦っても、勝つ確率が非常に高いことを示しています。彼のキャリア中に対戦した18の国際チームの中で、14チームに対しては100%の勝率を誇ります。
個人的な栄誉
- IRBインターナショナル年間最優秀選手賞: 2006年、2009年、2010年に受賞。これはダン・カーターとの並び記録です。
- ニュージーランド年間最優秀選手賞: 2003年、2006年、2009年、2012年に受賞。
- NZスポーツマン・オブ・ザ・イヤー: 2010年と2011年に受賞。
- ラグビーワールドカップ: 2007年、2011年、2015年に優勝。
チームとしての成功
マコウは地方リーグやスーパーラグビーでの彼のキャリアを通じて多くのタイトルを獲得しました。
- カンタベリー: 1999年から2015年までプレーし、NPCで5回のタイトルを獲得。
- クルセイダーズ: 2001年から2015年までプレーし、スーパーラグビーで4回のタイトルを獲得。
- トライネーションズ: 7回のタイトル獲得。
- グランドスラムツアー: 3回の優勝。
- ブレディスローカップ: 8回の優勝。
リッチー・マコウの輝かしいキャリア
リッチー・マコウのキャリアは、彼自身の偉大な遺産を築くだけでなく、ラグビーの未来にも影響を与えました。彼の業績やリーダーシップは、史上最も影響力のあるラグビー選手の一人として彼を位置づけ、多くのファンや次世代の選手たちにインスピレーションを与え続けています。
リッチー・マコウが歩んだ人生を振り返ってみたいと思います。
The Path to Glory
リッチー・マコウ栄光の軌跡
オマルー(Oamaru)、ニュージーランドのノースオタゴ地方の風光明媚な町。ここはリッチー・マコウの誕生の地でとして知られています。
リッチー・マコウの家系は、彼がオマルーでの日常を過ごす前から、ヨーロッパの地にその名を刻んでいました。彼の父方の4番目の曾祖父、セス・スミスは、1830年代のロンドンで活躍した実業家で、ベルグレーヴィアやメイフェアといった、現在も高級とされるエリアの大部分を建設した人物であった。その功績は多くの人々に語り継がれ、セス・スミスの名は今でもロンドンの街角に彼の名を冠した建物や通りで息づいています。
彼の曾祖母、サラ・アネット・セス・スミス・マコウを通じて、マコウ家はセス・スミス家とつながりを持っていました。この家系の一員として、マコウの曾祖父は19世紀後半、新しい人生を求めてスコットランドの国境地帯から遠くニュージーランドの地へと移住しました。彼は1893年に南カンタベリーのワイマテ地区、風光明媚なハタラメア渓谷に新しい故郷を見つけました。
そこで、マコウ家は農業を営み、数世代にわたり続けられる家業として定着していきました。リッチーの父親も、家族の農場を引き継ぎ、一家を支え続けました。一方、彼の母親は教育者としての道を選び、クロウ大学での教職を務めていました。
このような背景の中で、リッチー・マコウは育てられました。彼の家系は、建築から農業、教育まで幅広い分野での成功を収めてきたことから、彼の中にも多様性と適応力が受け継がれていたと言えるでしょう。
「農場で学んだ大切なこと」リッチー・マコウの幼少期
1980年の大晦日、マコウで、後のラグビー界のスター、リッチー・マコウが誕生しました。
マコウは妹のジョアンナと共に、家族が営む農場で幸せな日々を過ごしていました。この農場はマコウ家が長年にわたって受け継いできたもので、リッチーはここで農作業を手伝い、自然の中での生活や家族の絆の大切さを学びました。
ラグビーのキャリアの第一歩
7歳の頃、マコウは地元のクロウ・ラグビー・クラブのジュニアチームに入団しました。この時点でまだ彼は知らなかった、自分がいつの日か世界的なラグビー選手になることを。しかし、彼の情熱と才能は早い段階で明らかとなり、この経験は彼のラグビーキャリアの第一歩となったのです。
9歳の時、マコウは祖父(JH ‘ジム’マコウ)の影響を受けて、グライダーの飛行を始めました。祖父は第二次世界大戦中の英雄的なパイロットで、テンペストのパイロットとして20発ものV1ミサイルを撃墜したと言われています。祖父の話に心を奪われたリッチーは、空の広さと自由を体感したかったのでしょう。この経験は彼の人生観を形成する重要な要素となりました。
オタゴ・ボーイズ・ハイスクールの絆
1994年、ニュージーランドの南の都市ダニーデンに位置する、ラグビーの名門校「オタゴ・ボーイズ・ハイスクール」の門を、若きリッチー・マコウが叩きました。当時14歳の彼は、ラグビーへの夢を胸に、この学校の歴史ある敷地内での日々を歩み始めました。この学校での経験が、彼の人生とラグビーキャリアにおける決定的な影響を与えることとなるのです。
学校の歴史とポリシー
オタゴ・ボーイズ・ハイスクールは、1863年の設立以来、ニュージーランドで3番目に古い歴史を持つ学校として知られています。約800名の男子生徒たちが中学2年生から高校3年生までの学びの場としてこの学校を選び、多くの卒業生が社会で大きな成功を収めてきました。学校のポリシーは「尊敬、公正、誠実、優秀」。これは学校の教育の基盤となっており、学生たちは学問のみならず、リーダーシップ、社会活動、文化、スポーツなど多岐にわたる分野での成長を追求します。
ニュージーランドの教育システム
ニュージーランドには、プライマリー・スクール(Primary School)、インターミディエイト・スクール(Intermediate school)、セカンダリー・スクール(Secondary School)という3つの段階の学校が存在します。マコウが入学したのはセカンダリー・スクールにあたる部分で、ここは13歳から18歳までの生徒が学ぶ場所で、日本の中学校と高校に相当します。このシステムの中で、生徒たちは自らの興味や進路に応じて、さまざまな選択科目を学ぶことができます。
マコウのオタゴ・ボーイズ・ハイスクールでの日々
オタゴ・ボーイズ・ハイスクールでの5年間、マコウはラグビーだけでなく、学業やその他の活動にも熱心に取り組みました。学校のポリシーを胸に、彼はラグビーフィールドでの成功を追求するとともに、クラスルームでも優れた成果を上げました。この期間が、彼の人生とキャリアの土台を築く重要な時期となったのです。
1998年全国中等学校ラグビー決勝戦
マコウのハイスクール生活で最も印象的な瞬間の一つは、1998年の全国中等学校ラグビー決勝戦でした。キャプテンとしてのマコウは、オタゴ・ボーイズハイスクールの1軍を率いて壮絶な戦いを繰り広げました。
結果は、5-5で引き分けでしたが、この戦いの中で、自身のポジション「ナンバーエイト」としての卓越した技術やフィジカルが光り輝きました。
「ナンバーエイト(NO8)の役割と特徴
ラグビーは、15人の選手で構成されるスポーツで、その中でも各ポジションが特定の役割と責任を持っています。ナンバーエイトは特に重要なポジションとして知られ、
- 物理的な強さ: 一般的にナンバーエイトはチームの中で最もフィジカルに優れていることが多く、そのパワーと体格を活かして相手を突破したり、ディフェンスで強固な壁を築きます。
- ボールハンドリング: 他のフォワードポジションと比べても、ナンバーエイトはボールを持つ機会が多いので、高いハンドリングスキルが求められます。
- スクラムの中心: スクラムの際には最後尾に位置し、ボールを確保したり、攻撃の起点となることが期待されます。
- リーダーシップ: フランカーと同じく、ナンバーエイトがチームのキャプテンとなることも多いです。これは、彼らの戦術的な判断力やリーダーシップが高く評価されるからです。
- 運動量: ナンバーエイトはピッチ上での動きが多く、攻撃時には突進、ディフェンス時にはタックルと、様々な場面での活躍が期待されます。
- 戦術的な役割: ゲームの流れや戦術に応じて、ナンバーエイトは様々な役割を果たします。例えば、スクラムからのボールリリースや、ルーズボールの確保、ブレイクダウンでのサポートなど、さまざまな局面での決断とアクションが求められます。
これらの特徴と役割からもわかるように、ナンバーエイトはチームの中心としての役割を果たし、多くの責任を担っています。そのため、このポジションにはフィジカルだけでなく、高い戦術的な判断力やリーダーシップが求められるのです。
選出されない結果と成長
マコウのプレーは多くのファンや専門家たちを魅了しましたが、意外にも、その年のニュージーランド中等学校代表選考で、サム・ハーディングやアンガス・マクドナルド、ヘイル・Tポールといった他の一流の選手たちが選ばれる中で、マコウは選ばれることはありませんでした。
この代表選考での挫折は、むしろ、マコウ情熱や決意を更に燃え上がらせるきっかけとなり、後にその名を世界に知らしめる選手として成長していくことになります。
「ラグビーの才能が覚醒」リンカーン大学時代
高校時代の活躍によって、マコウは多くの大学やクラブから注目されていました。そんな中、クライストチャーチのリンカーン大学からラグビープログラムの奨学金を打診されました。
1999年、奨学金の申し出を受け入れたマコウは、リンカーン大学の農学部に進学しました。ニュージーランドの南島に位置するこの大学は、その教育の質とラグビープログラムの強さで知られています。
リンカーン大学の農学部は、ニュージーランド国内で非常に高い評価を受けています。マコウはここで農学に関する多岐にわたる知識を学びました。土壌学、動植物学、農業経済学など、多くの分野での研究や実験に取り組みました。
学業の一方で、マコウのラグビーへの愛は日に日に強くなっていきました。
マコウは「クライストチャーチ・フットボール・クラブ」に加入し、クラブの仲間と共に数多くの試合でプレーし、その経験とスキルを日々高めていきました。
そして、この年にマコウのラグビーの才能は国際的な舞台での評価を受けることとなります。
U-19のニュージーランド代表メンバーとして、ウェールズで開催された世界選手権に参加する栄誉を手に入れました。マーク・ショー監督の下で、若きマコウはこの大会で見せるプレーが数多くのラグビーファンや関係者たちの目に留まりました。そして、チームはこの大会での優勝という最高の結果を達成することができました。
この成功は、マコウにとって大きな自信を持つきっかけとなりました。特に、世界選手権での数多くの試合の中で、自身のポテンシャルを感じ、さらにはオールブラックスへの夢が夢物語ではなく、手が届くものとして認識するようになりました。
カンタベリー代表デビューからオールブラックスへの道
2000年、リッチー・マコウはNPC(ニュージーランド州代表選手権)でカンタベリー州代表としてデビューを果たしました。そして、圧倒的なパフォーマンスによりマコウは年間最優秀選手に選ばれました。
その後、南半球で最も権威のあるプロラグビー大会、スーパーラグビーのクルセイダーズ(旧カンタベリー・クルセイダーズ)に所属し、2001年3月31日にハリケーンズ戦でスーパーラグビーデビューを果たしました。
しかし、この年のスーパーラグビーシーズンでマコウがフィールドに立ったのはこの試合を含めてわずか2回、合計出場時間は8分だけでした。一方で、マコウはこの間もカンタベリー州代表としてプレーをしており、フルシーズンを戦っていました。
U21のニュージーランド代表
その年の終わり、スーパーラグビーでの出場時間が8分しかなかったにも関わらず、驚くべきことにU-21のニュージーランド代表に選出され、さらにキャプテンとしての役割も担うこととなります。
このように急速にラグビーのキャリアが進んでいく中で、20歳のマコウは選択に迫られます。そして、学業を一時中断することを決めました。しかし、マコウはそれまでに農業科学の学士号のためのほとんどの論文を完了していました。(2012年4月 リンカーン大学から名誉博士号を授与)
衝撃のデビュー戦!オールブックスのスーパースター誕生
若干20歳のリッチー・マコウは、すでにU19とU21のニュージーランド代表として名を馳せていました。その実力は間違いなく、次世代のラグビースターとして注目されていた。しかし、オールブラックスのジャージを身にまとうまでには、さらなる経験と成熟が求められていました。
新任監督の大胆な選択
カンタベリーでの活動は17試合にとどまっていましたが、その中でマコウが見せたプレーとポテンシャルは、新任のオールブラックス監督ジョン・ミッチェルの目に留まりました。彼のリーダーシップとフィールド上での判断力は、年齢を感じさせないものでした。
2001年のツアーはアイルランド、スコットランド、アルゼンチンと、強豪国との対戦が続く大変なものでした。ミッチェル監督は、このツアーにリッチー・マコウを選出するという大胆な選択をしました。これは、新しい時代の幕開けとともに、新しい才能を前面に押し出すという意味合いも持っていました。
若き才能の選出に賛否
オールブラックスのジャージは、ただのユニフォーム以上のもの。それはニュージーランドの誇り、ラグビーに対する情熱、そして長い歴史を体現するシンボルとして、選手たちやファンにとって特別な存在です。そのため、新人選手へ与えられる場合には、厳しい批判の声が上がる時があります。
マコウの選出が発表されたとき、その若さや経験の浅さを理由に、多くの人々が選出に疑問を投げかけました。
その中でも、元オールブラックスのスター選手のジョシュ・クロンフェルドは、「オールブラックスのジャージを全員に与えたほうがいいだろう。彼らがNPCの1シーズンで選手を選んだという事実は、信じられないほどだ」と批判しました。
この発言は、さらにこの問題を大きくしました。クロンフェルドはオールブラックスの伝統を深く理解している人物であり、その言葉には重みがあったのです。
このような状況の中で、マコウは自分のプレーと結果でその力を証明することになりました。
アイルランド戦での歴史的デビュー
2001年11月17日、アイルランドの伝説的なスタジアム、ランズダウン・ロード。この日、若きリッチー・マコウは歴史的なオールブラックスのデビュー戦を迎えました。
オールブラックスには数多くの伝説的な選手が在籍してきましたが、ジョシュ・クロンフェルドの背番号7は、特にその中でも重要なポジションを占めていました。そんな重圧の中、マコウはその背番号を背負い、新たな歴史を刻むこととなりました。
熱狂のスタジアムを魅了
ダブリンのスタジアムはアイルランドの熱狂的なファンで埋め尽くされていました。遠く南半球からやってきたマコウにとって、これほどのプレッシャーを経験したことはなかったでしょう。しかしそれに屈することなく、マコウはその才能を存分に発揮していきます。
マコウの独特の集中力と献身的なプレーは、スタジアムの大観衆を驚かせました。この日、マコウの動きはあたかも熟練のベテランのようであり、鋭いタックルやボールへの食いつき、そしてチームへのリーダーシップは、ただの新人ではないことを明らかにしました。
特に印象的だったのは、マコウが相手選手との1対1の状況でのディフェンスで、確実なタックル技術や、瞬時の判断力によって、アイルランドの攻撃を何度も封じました。そして、ラグビーの真髄であるモールやスクラムでの貢献も目を見張るものがありました。
試合の結果
オールブラックスは、試合のファーストタッチではタックルを受けてノックオンとなりました。ノックオンを起こしたことで、マコウもチームも苦しい立場に立たされました。初の国際舞台でのミスはマコウの自信を揺るがす可能性がありましたが、マコウはその状況を乗り越えるための内なる強さを持っていました。
ハーフタイム時点でのスコアは16-7の9点差。スタジアムの雰囲気はアイルランドの勝利を予感させるものであり、ニュージーランドのファンも緊張を隠せない様子でした。しかし、そんな中でのマコウの奮闘が、チームの勝機を生み出しました。
マコウは相手のハンドリングミスを突いて、瞬時にボールを掴み取りました。その後のファーストパスは、世界的なスターであるジョナ・ロムーへと繋がれ、ロムーのスピードとパワーを前に、アイルランドのディフェンスはついに崩れました。
彼のトライは、オールブラックスに新たな希望を与え、その後の勢いをもたらすこととなった。このトライ以降、ニュージーランドは試合を完全に支配し、最終的には40-29での勝利しました。
最優秀選手賞受賞でラグビー界に!
この勝利は、マコウの活躍やチームの団結力、そしてオールブラックスの粘り強さを示すものでした。マコウはマン・オブ・ザ・マッチ(最優秀選手賞)を受賞し、スタンディグオベレーションを受けました。これはオールブラックスに新たなスターが誕生した瞬間でした。
試合開始前、いくつかの解説者が彼の名前を「マキャン」と間違えて発言する一幕もありました。しかし、試合後には誰もマコウの名前を間違えるようなことはありませんでした。
試合後、マコウは「プレーするにはとんでもないスタジアムだった。本物のラグビースタジアム、大勢の観客だった。私はいつも覚えている、とても特別なことだ」と振り返しました。
この日以降、リッチー・マコウの名前は、ラグビーファンの間で話題となっていきました。マコウのオールブラックスでのキャリアは、こうして始まったのです。
若き才能の輝き
デビュー年のツアーは、リッチー・マコウにとって忘れられないものとなった。オールブラックスのジャージを身につけたマコウは、スコットランドやアルゼンチンといった強豪国との試合でその実力を証明し、世界にその名を知らしめました。特に、スコットランドとの試合では37対6という大差をつける活躍を見せ、アルゼンチンにも24対20という接戦を制するなど、マコウの存在感はオールブラックスの勝利に欠かせないものとなりました。
しかし、全てが順調だったわけではありませんでした。マコウはこの年、脳震盪を繰り返し、その影響で一部の試合を欠場することとなりました。これは、ラグビー選手としての彼のキャリアにおいて初めての大きな障害となった。しかし、マコウはその困難を乗り越え、短期間でピッチに復帰することができました。
シーズン終了後、ラグビーアワードが開催されました。その舞台で、マコウはニュージーランドラグビーフットボール協会U-21とニュージーランド航空NPC(1部リーグ)の両方の年間最優秀選手に輝きました。これは彼のその年の活躍を最も良く表す結果と言えるでしょう。
<2002年>試練と栄光の年
2002年、リッチー・マコウはオールブラックスとしてアイルランド遠征で圧倒的な勝利を収め、その年のトライネーションズ(ラグビーチャンピオンシップ)でもオーストラリアと南アフリカとの激しい戦いを繰り広げました。彼の貢献は計り知れないものであり、6試合中5試合でニュージーランドが勝利する要因となった。
しかし、すべてが順調だったわけではない。トライネーションズ第3戦でのオーストラリアとの接触は、僅差のスコア14対16で敗北。これにより、ニュージーランドはブレディスローカップの出場権をオーストラリアに譲ることとなった。
「ダーバンでの乱入事件」
この年のもう一つの大きな出来事は、ダーバンで行われた南アフリカ戦中のピッチ侵入事件だった。スクラムの際に突如としてピッチに侵入した者が、主審のデビッド・マクヒューを襲撃し、彼の肩を脱臼させる事態が発生。しかし、マコウと南アフリカのAJ・ヴェンターが迅速に反応し、加害者を制圧。もし彼らがこの行動を取らなければ、マクヒューの負傷はさらに深刻なものとなっていた可能性がある。
休息と再起
この一連の試練の後、マコウはトライネーションズの他の20名のメンバーと共に、2002年末のヨーロッパ遠征を休むこととなった。この休息は彼にとって必要なものであり、その後の彼の活躍を支えるためのものとなった。
新人賞の受賞
マコウの2002年の業績は、国際ラグビー選手協会からの新人賞受賞によって更に輝きを増した。この賞は国際的なラグビープレーヤーからの投票により決定され、自国のチームメンバーへの投票は禁止されている中、彼の才能と貢献が高く評価されたことが証明された。
この年、リッチー・マコウは多くの試練と成功を経験し、その後の彼のラグビーキャリアを支える土台を築くこととなった。
<2003年>ワールドカップ挑戦と栄誉の年
マコウは、クルセイダーズでの一員としての活躍し続けていました。2002年と2003年には、クルセイダーズはスーパーラグビーの決勝への進出を果たす。2002年はブランビーズを下してタイトルを獲得しました。しかし、2003年の決勝ではブルーズの前に屈し、チャンピオンの座を逃した。
しかしこの実績が認められ、マコウはオールブラックスのオープンサイドフランカーの第一候補として選出された。
また、マコウが所属するカンタベリー州立ラグビーチームも、その年の全国地方選手権で健闘。しかし、準決勝でオークランドとの対戦となり、これを破ることはできず。オークランドはこの後、最終的に優勝を果たす。
トライネーションズと前哨戦
2003年6月、オールブラックスはイングランドとのホームゲームで13対15という僅差で敗れたが、ウェールズ戦での圧勝と、フランス戦での31対23という勝利に貢献した。その後のトライネーションズでは、ニュージーランドはタイトルを防衛し、ブレディスローカップも1997年以来の取得に成功。これにより、ワールドカップではイングランドに次ぐ2位のシードとなった。
ワールドカップでの挑戦
マコウは2003年のオールブラックスワールドカップチームのオープンサイドフランカーとして選出され、大会を通じてその位置を守り続けた。ニュージーランドはプール戦を全勝で突破し、準々決勝では南アフリカを下した。しかし、準決勝でのオーストラリア戦は、大きな期待の中で行われた試合となった。惜しくもオールブラックスはオーストラリアに敗れ、ワールドカップでの夢は終焉を迎えた。
個人の栄誉
しかし、マコウは2003年に初めてワールドカップに出場し、オールブラックスとして全試合に出場した。オールブラックスは準決勝に進み、ワラビーズに敗れましたが、マコウは後にオールブラックスの年間最優秀選手に選ばれました。
シーズンが終わると、マコウはその年の卓越したパフォーマンスが高く評価され、ニュージーランドラグビー協会から年間最優秀選手に贈られるケル・トレメイン・トロフィーを受賞。この受賞は、彼の2003年の活躍を象徴するものとなった。
2003年、リッチー・マコウは多くの試練と成功を経験し、オールブラックスとしての彼の地位をさらに固めることとなった。
オールブラックスでの「休養」
オールブラックスの選手たち、特に主力選手は、2003年の全国地方選手権中に「休養」をとることが決定された。これは、2003年のワールドカップに向けての調整と、選手たちの体調を最適な状態に保つための戦略的な判断であった。
この期間を経て、マコウは2003年のワールドカップに向けて最良の状態で挑む準備を整えることができた。彼の実力と経験は、ニュージーランドラグビーの大きな資産となった。
<2004年>リーダーシップへの階段を駆け上がる
2004年は、リッチー・マコウにとってキャリアのターニングポイントとなる年でした。彼の持つ才能と決断力、そして生まれ持ったリーダーシップの資質が、この年に特に光を放っていたのです。
クルセイダーズとの冒険
クルセイダーズとしてのシーズンは、スーパー12での準優勝という結果に終わりました。決勝戦ではブランビーズの前に立ちはだかりましたが、これは彼のキャリアの中での一つのステップでしかありませんでした。
オールブラックスでの新たな役割と試練
ワールドカップ後、ジョン・ミッチェルがオールブラックスのコーチを退任、新たに指揮を執ったグラハム・ヘンリーは、マコウの類稀なる才能をすぐに見抜きました
マコウはオープンサイドフランカーとしての役割を与えられ、更に副キャプテンに任命されチームを支えることとなりました。
脳震盪
しかし、全てが順調だったわけではありません。イングランドとの最初のテストマッチ中に、チームメイトのザビエル・ラッシュとの衝突により、脳震盪を起こしてしまいました。この事故の影響は深刻で、マコウはフィールド外へと運ばれました。
マコウは、2回目のイングランドとのテストマッチにも出場することができませんでしたが、その後のアルゼンチン戦では見事に復帰を果たし、ファンを喜ばせました。しかし、この試合の70分後には再びめまいに襲われ、ピッチを離れることになりました。
1か月経ってもまだ頭痛に悩まされ、マコウは残りのホームキャンペーンと2004年のトライアンフを棄権しました。 各国は復興に注力する。マコウはNPCシーズンの終わりに決勝戦にキャプテン・カンタベリーに復帰しました。
キャプテンとしてのマコウ
2004年11月、マコウはオールブラックスのヨーロッパツアーに復帰。タナ・ウマガが休息を取ったことで、23歳の若さでウェールズ戦でキャプテンとしてチームを率いることになりました。この任命について、ヘンリーコーチはマコウの人柄とプレースタイルがニュージーランドのラグビーファンやチームメンバーにとって大きなインスピレーションとなるとの感想を述べています。
同年、マコウはカンタベリー州代表チームのキャプテンとしても任命され、怪我にもかかわらずチームを州代表選手権での成功に導きました。
この一年を通して、リッチー・マコウは彼の強靭な精神力とリーダーシップを示し、ニュージーランドラグビーにおいて中心的な役割を果たしたのです。
<2005年> 逆境を乗り越えて
2005年は、マコウにとって挑戦と希望、そして再認識の年でした。
この年、リッチー・マコウはナンバーエイトからオープンサイドフランカーに転向しました。このポジション変更は、多くのラグビー愛好家やアナリストから驚きをもって伝えられましたが、すぐに新しいポジションでその才能を発揮し始め、その恐るべき運動能力によってゲームを支配することになりました。
致命的な試合の瞬間
2005年4月、クルセイダーズの主将としての役割を果たしていたマコウは、ブルズとの試合中に重大な脳震盪を経験しました。試合開始からわずか2分後、リチャード・バンドという強力なプロップに対するタックルの試み中に、彼は深刻なダメージを受けました。その結果、彼は担架でフィールドを離れることとなった。
再考の時
この事故の影響は、彼の身体だけでなく、心にも深く影響を及ぼしました。事件の後、マコウは首の骨折で入院している少年を見舞った。この出会いは彼にとって、ラグビーというスポーツを続ける価値があるのか、真剣に考えるきっかけとなりました。
しかし、同じ病棟にいた半身麻痺の患者からの言葉が、マコウの考え変えました。その患者は、フィジーでの休暇中にプールでの事故により首を骨折したという悲しい経験を持っていました。彼の言葉、「好きなことをするべきだ」というメッセージは、マコウにとって非常に力強く響いたのです。
復帰への道
感動的な出会いと励ましの言葉を胸に、1ヶ月後の5月にクルセイダーズの練習に戻る決意を固めました。そして、マコウの強い意志とチームメイトのサポートのもと、チームを準決勝、そして決勝の勝利へと導くことができました。
国際ラグビーでの再現
マコウはオールブラックスとして世界の舞台に華々しく復帰しました。マコウはブリティッシュ・アイリッシュ・ライオンズがニュージーランドを訪れる前のウォームアップマッチとして行われたフィジー戦に出場。この試合では、圧倒的なスコア91対0での勝利を達成しました。
その後のライオンズとのテストマッチでは、オールブラックスとして2試合に出場。特にウェリントンでの試合では48対18という記録的なスコアで勝利を収めました。このシリーズでは、オールブラックスはライオンズを3試合全てで下し、3対0の完封勝利を飾りました。
トライネーションズと年末ツアー
マコウは、トライネーションズにおいてもオールブラックスの成功に貢献。わずか1試合での敗北を除き、圧倒的なパフォーマンスを見せました。また、4つの母国(イギリス諸国)に勝利してグランドスラムを達成する年末ツアーにも参加しましたが、アイルランド戦で3度目の頭部強打を受け、イングランド戦を欠場しました。
個人としての栄誉
それにも関わらずその年のパフォーマンスは、マコウを2005年のIRBインターナショナル・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーの最終候補にまで押し上げました。最終的には、オールブラックスのチームメイトであり、天才フライハーフとして知られるダン・カーターがこの賞を受賞しました。しかし、マコウが最終候補として選ばれたこと自体、マコウのその年の素晴らしいパフォーマンスを証明するものでした。
<2006年>新たなオールブラックスキャプテンへ
2006年、伝統と名誉に満ちたニュージーランドのラグビーチーム、オールブラックスは、新しいキャプテンの時代を迎えることとなりました。
スーパー14の快進撃
2006年5月13日、25歳のマコウ率が所属するクルセイダーズがブランビーズを33-3で圧倒。これにより、クルセイダーズは初のスーパーラグビー(スーパー14)準決勝進出を果たし、首位の座を獲得しました。
キャプテン発表
その翌日、クライストチャーチのラグビーユニオンクラブで行われた会見で、グラハム・ヘンリー監督はマコウをオールブラックスの新キャプテンとして正式に発表しました。これは、前キャプテンタナ・ウマガが2006年のシーズン初めに国際ラグビーからの引退を発表した後の後任としての任命でした。
後継者としての期待
マコウはウマガの副キャプテンとして、多くの試合でリーダーシップを発揮してきました。特に、ウマガが不在だった2004年にはカーディフでのウェールズ戦でキャプテンを務めた経験があります。そのため、ウマガの後任としてマコウの任命が検討される際、メディアやファンの間ではこれが「当然の選択」として長い間予想されていました。
ヘンリー監督のコメント
グラハム・ヘンリー監督は、マコウについて「彼はワールドクラスの選手であり、チームを模範を示して指導する能力を持っている。ウマガのような人気のある選手の後任として、彼が選ばれることは自然な流れだった」とコメントし、その選択を支持しました。
この任命は、マコウのオールブラックスでのキャリアにおいて新たな一章の始まりを告げるものとなりました。
新しいリーダーシップの下でオールブラックスが輝く
新たにオールブラックスのキャプテンに就任したマコウは、すぐにそのリーダーシップとプレースキルで、ニュージーランドラグビー界に新しい風をもたらしました。キャプテンとして迎えたアイルランドとのデビュー戦は、見事に勝利で飾りました。
ジェリー・コリンズとマコウ、異なるフィールドでのリーダーシップ
正規キャプテンのマコウがアイルランド戦での勝利を迎える一方、ジェリー・コリンズは特別なミッションのためアルゼンチンへの遠征を命じられた。この1回限りの試合は、コリンズにとって大きなチャンスであり、彼はその責任をしっかりと果たしました。
アイルランド戦後、マコウウは自身のキャプテンとしての役割に焦点を当てつつも、アルゼンチン遠征のコリンズ率いるチームに対するサポートとアドバイスを惜しげもなく行いました。彼らの関係は、お互いにリスペクトし合いながらも、異なる役割を担ってチームの成功に貢献するというものでした。
マコウ率いるオールブラックスの圧倒的な一年
2006年は、ニュージーランドラグビー、そしてキャプテンのマコウにとって、忘れられない一年として歴史に刻まれた。オールブラックスは、トライネーションズでその実力を全世界に示し、ほぼ全試合での勝利を飾った。唯一の敗北は、強豪南アフリカに対しての接戦でのものだった。さらに、オーストラリアとの間で争われる伝統的なトロフィー、ブレディスローカップの保持も達成した。
しかし、その勢いはヘミスフィアを超えて欧州へも持ち込まれた。欧州遠征では、イングランド、フランス、そしてウェールズといった強豪国を相手に完璧なパフォーマンスを展開。特にフランスとの2試合連続の勝利は、世界的なラグビーファンの注目を集めた。
その全ての中心には、キャプテンのマコウがいた。彼のリーダーシップとプレーは、チームを一つにまとめ上げ、最高の結果を出す要因となった。そして、彼自身もその実力を証明するかのように、2006年のIRBインターナショナル・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。この栄誉は、彼が前年まで3度もその候補となっていたことを考えると、その意味合いがさらに深くなる。
受賞の快進撃が止まらない
2006年、マコウとオールブラックスの活躍が受賞という形で最高潮に達しました。特に11月21日は、その集大成とも言える一日となった。まず、マコウは国際ラグビー選手協会(IRPA)の年間最優秀選手賞を手に入れました。この賞は、年間を通じての卓越したパフォーマンスと影響力を持つ選手に贈られるもので、その受賞は彼のその年の活躍を証明するものとなりました。
そして、その輝きはマコウだけのものではありませんでした。オールブラックスは、チームとしての結束力と結果を認められ、IRPAの年間最優秀チーム賞を受賞しました。これは、全選手、スタッフが一丸となって成果を出し続けた結果、世界からの評価として手に入れたものでした。
更に驚くべきことに、この年のマコウの活躍は国内での評価も非常に高かった。ピープルズ チョイス スポーツ アワードにおいて、彼はニュージーランドのトップスポーツ選手賞を受賞しました。この賞は、ニュージーランド国内のあらゆるスポーツ分野からのトップ選手が選ばれるため、非常に名誉なものとされています。
このような多くの受賞を通じて、2006年のマコウとオールブラックスの活躍は、国内外を問わず多大なる評価を受けたことが証明されました。この年の彼らの偉業は、ラグビーファンのみならず、スポーツファン全体から称賛され、歴史に名を刻むこととなったのです。
<2007年>ワールドカップの期待と絶望
2007年のラグビーワールドカップは、ヨーロッパの3カ国(フランス、スコットランド、ウェールズ)で開催され、世界中の熱心なファンが集結しました。オールブラックスはグループリーグを圧倒的な強さで突破島が、その結果は大会後半での逆転となる予兆ともなりました。
グループリーグでのオールブラックスの強さは圧倒的でした。イタリア、ポルトガル、スコットランド、そしてルーマニアを相手に、圧倒的な差で勝ち続けました。この成果の背後には、グラハム・ヘンリー監督の戦略と、キャプテン、マコウのリーダーシップがありました。しかし、ヘンリー監督の選手ローテーションの戦略により、マコウはグループリーグの全試合を出場することはありませんでした。
準々決勝を迎えたオールブラックスは強豪フランスと対戦。この試合は、ファンにとっても選手にとっても忘れられないものとなりました。最終的に2点差でフランスの勝利となり、オールブラックスはこの大会での夢を終えることとなりました。
ニュージーランドは過去のワールドカップでも優勝候補として期待されながら、決勝進出を果たせない結果が続いていました。2007年の結果もその続きとなり、非難の声が再び高まりました。
ワールドカップの後の反響
予想外の結果は多くのファンとメディアにショックを与え、キャプテンのリッチー・マコウや監督のグラハム・ヘンリーへの批判が高まりました。
グラハム・ヘンリー監督の戦略批判
ワールドカップ敗退の後、グラハム・ヘンリー監督の戦略には多くの批判が集まりました。特に、ヘンリー監督がスーパーラグビー(スーパー14)期間中に採用したローテーション制度が焦点となりました。この制度は選手の疲労を軽減し、大きな大会での最高のパフォーマンスを目指すものでしたが、ワールドカップでの結果を受け、その効果に疑念が持たれました。
リッチー・マコウへの批判
キャプテンのリッチー・マコウは、チームの敗退に関して個人的な責任を感じていたことは間違いありません。彼のリーダーシップや戦術判断が問われ、予期しない困難な状況に適切に対応できなかったとの意見が出ました。マコウの記者会見での発言は、その失望の深さを伺わせました。
マコウの反論
記者会見でのマコウのコメントは、自身の責任を真摯に受け止めている様子を示していました。彼の「答えが分かっていれば解決できただろう」という言葉は、深い失望とともに、今後の挑戦への意欲を感じさせました。
このワールドカップの結果は、ニュージーランドラグビー界にとっての大きな教訓となり、その後の成果への土台を築くきっかけとなったとも言えるでしょう。
<2008年>オールブラックスの再興とラグビーの戦略
2007年のワールドカップの以降、ニュージーランドラグビー界は大きく揺れていました。オールブラックスの予期せぬ敗退は多くのファンや関係者を驚かせ、監督であるグラハム・ヘンリーの指導力や戦略に対する疑問が浮上しました。一部のメディアやファンは、ヘンリーがオールブラックスの監督を解任され、ロビー・ディーンズが新たな監督として迎えられるのではないかとのいう
しかしながら、ヘンリーはこの難局を乗り越え、NZRU(ニュージーランドラグビー協会)との契約を2年間更新しました。さらにその契約は、2011年のワールドカップまで延長されることとなりました。ヘンリーは、キャプテンのリッチー・マコウがチームの中心として引き続き活躍することを強く信じており、マコウをキャプテンとして続投させる決意を固くしました。
一方で、ロビー・ディーンズはオーストラリア・ラグビー協会と契約を結び、オーストラリア代表の監督に就任しました。ディーンズは、ニュージーランドのスーパーラグビーチーム、クルセイダーズのコーチとして非常に成功した経歴を持っていました。2008年のシーズンでは、クルセイダーズを指揮してスーパーラグビーのタイトルを7度目の獲得に導きました。この成功は、ディーンズの指導力と戦略の優れた点を証明するものであり、オーストラリア代表の監督としての新たな挑戦を彼にもたらすこととなったのです。
トライネーションズとマコウの勇姿
2008年の6月、オールブラックスの前に立ちはだかったのは、北半球からの強敵アイルランドとイングランドだった。彼らはニュージーランドに遠征してきたが、オールブラックスはアイルランドを激戦の末に下し、イングランドには2試合ともに圧勝を収めた。しかし、このシリーズではリッチー・マコウが重傷を負うというアクシデントが発生した。彼はイングランド戦中に足首の靱帯を断裂する怪我を負ってしまったのだ。
トライネーションズの開幕戦を前に、キャプテン不在という困難な状況が訪れたオールブラックス。しかし、この困難を乗り越えるため、ロドニー・ソイアロがキャプテンとしてチームを引っ張った。だが、彼の下でのスタートは厳しいものとなり、3試合のうち2敗を喫した。
だが、第4戦にキャプテンのマコウが復帰すると、その影響は絶大であった。彼の復帰により、オールブラックスは残り3試合すべてを勝利し、トライネーションズタイトルとブレディスローカップの2冠を獲得した。特に注目すべきは、南アフリカ戦での19対0の圧勝である。この試合では、オールブラックスのディフェンスが光り輝き、105年ぶりに南アフリカを本拠地で無得点に抑えた。
監督のグラハム・ヘンリーは、この勝利を「これまでの最高のパフォーマンス」と称賛した。マコウの復帰は、オールブラックスにとって不可欠な要素であり、彼の存在がどれほどチームにとって価値があるのかを改めて証明するものであった。
ブレディスローカップの新たな歴史
2008年11月1日、世界のラグビーファンは香港へと注目しました。アジアのこの都市で、ブレディスローカップの新たな章が刻まれることとなったのです。
香港でのブレディスローカップは、ラグビー競技の普及と拡大を目的として開催されました。これは、アジア地域でのラグビーの人気向上を図る一環としての取り組みであり、伝統的なオーストラリアとニュージーランド間の対決を、新しい場所での開催という形で再燃させることを意図していました。
そしてその試合。19対14の接戦の中、オールブラックスのキャプテンであるリッチー・マコウが決勝トライを決め、ニュージーランドの勝利を引き寄せました。この勝利は、オールブラックスの伝統的な強さを改めて証明するものとなりました。
ブレディスローカップ自体は、1930年代から続く伝統的なラグビーユニオン大会です。オーストラリアのワラビーズとニュージーランドのオールブラックスの間で毎年行われ、このカップは南半球のラグビーの最も重要なトロフィーの一つとして、長きに渡りその価値を保持しています。
香港でのこの試合は、ブレディスローカップの伝統を新たな地域に拡げ、世界中のラグビーファンにその魅力を再確認させる絶好の機会となりました。
「グランドスラムツアー」オールブラックスの圧勝
2008年、ニュージーランドラグビーチーム、通称オールブラックスは、グランドスラムツアーとしてイギリス諸島を訪れました。このツアーは、英国4カ国(スコットランド、アイルランド、ウェールズ、イングランド)との試合を行うもので、すべての試合に勝利することが、真のラグビーパワーハウスとしての名声を手に入れるための挑戦となっています。
試合結果は以下の通り
- ニュージーランド対スコットランド: 32-6
- ニュージーランド対アイルランド: 22-3
- ニュージーランド対ウェールズ: 29-9
- ニュージーランド対イングランド: 32-6
これらの印象的な勝利は、オールブラックスの技術的な優れさとフィジカルな強さを明確に示しています。特に、伝統的なラグビーナションである4カ国との一連の試合で、一度も真の危機に瀕することなく圧勝することは、他の国際的なラグビーチームとの差を明確に示すものとなりました。
このツアーの結果、オールブラックスは国際ラグビーシーンでのその優越性を更に確認し、世界中のファンや評論家からの賞賛を受けることとなりました。
マコウとオールブラックスの圧倒的な支配
2008年は、ニュージーランドのオールブラックスと、特にそのキャプテンであるマコウにとって、歴史に刻まれる一年となりました。その年、マコウはキャプテンとしてチームを牽引し、テストマッチ全般において圧倒的な成果を上げました。
マコウのリーダーシップの下での成果
- すべてのテストマッチで勝利。
- 28試合中、26試合での勝利。
オールブラックスのチームとしての成果は、世界のラグビーシーンにおける彼らの優越性を明確に示していました。
- 15回のテストマッチで、13回の勝利。
- ブレディスローカップとトライネーションズトロフィーの獲得。
- グランドスラム達成。
- 世界ランキングでの1位の座を南アフリカから奪還。
オールブラックスは、この一年間を通じて、強固なチームワークと個々のスキルを組み合わせ、国際的な舞台で圧倒的な力を発揮しました。特に、キャプテンのマコウの優れたリーダーシップ能力とチームへの高い貢献度が際立ちました。
「マコウとバーバリアンズ」2008年の特別な瞬間
このように、オールブラックスとして圧倒的な成果を収めてきたマコウでしたが、年の瀬には新たな挑戦が待ち受けていました。それが、伝統的なラグビークラブ、バーバリアンズのメンバーとしての出場です。
バーバリアンズは、国やクラブの枠を超えて、世界各地から選ばれたトップ選手たちが集まり、一時的なチームとして特別な試合を展開する伝統的なクラブです。この試合には、異なる文化やスタイルを持つ選手たちが一堂に会し、それぞれの技と魅力を競い合います。
その特別な舞台で、マコウはオーストラリアとの対戦に臨みました。トゥイッケナム・スタジアムの熱気の中、ファンは彼がオールブラックスのジャージではなく、バーバリアンズの伝統的なストライプのジャージでプレーする姿を楽しみにしていました。
試合は接戦となり、最終的にはバーバリアンズが11-18でオーストラリアに敗れましたが、その中でのプレーや選手同士の絆、そして異なる背景を持つ選手たちが一つのチームとして戦う姿は、多くのファンに感動を与えました。
<2009年>マコウとクルセイダーズ、オールブラックスの挑戦
2009年、新しい風がクルセイダーズのチームを吹き抜けました。新監督トッド・ブラックアダーの下で、チームは季節の初めに挑戦に直面しました。最初の5試合で4敗という不調なスタートだったが、彼らはその後の試合で持ち直し、最終的には4位でプレーオフに進出しました。しかし、ロフタス・ヴァースフェルドでの準決勝で強力なブルズに敗れ、シーズンが終了しました。
シーズンの中で、リッチー・マコウは膝の負傷で悩まされました。これにより、彼はインターナショナルシーズンの開始を欠場しましたが、トライネーションズトーナメントに復帰。この大会では、南アフリカが圧倒的なパフォーマンスを見せ、オールブラックスを全試合で下し、ランキング1位の座を取り戻しました。オールブラックスはオーストラリアに対して3勝を収め、2位で大会を終えました。この年のトライネーションズでの2位は、過去5年で初めてのことでした。
シーズンの後半、オールブラックスはヨーロッパツアーの前に日本でオーストラリアと対戦。ヨーロッパツアーでは全勝を飾りましたが、フランスには敗れるという結果となりました。また、南アフリカに3連敗を喫したことは、マコウが2001年にオールブラックスに加わって以来、最も厳しいシーズンとなりました。
しかし、そのような困難なシーズンでも、リッチー・マコウの実力とリーダーシップは健在でした。彼はその年、IRBインターナショナル・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、2度目のこの名誉ある賞を手に入れました。
<2010年>マコウの記録とオールブラックスの復活
2010年のクルセイダーズは、前年とほぼ同じパターンを繰り返しました。ラウンドロビンステージでは4位に終わり、プレーオフでのブルズとの準決勝では敗退。シーズンのハイライトとして、リッチー・マコウがストーマーズ戦でスーパーラグビー通算100試合出場を果たしましたが、結果は敗北でした。
オールブラックスは、遠征中のアイルランドとウェールズの両チームに対して勝利を収めました。特に注目すべきは、アイルランドとの試合で背番号8のジェイミー・ヒースリップがレッドカードを受けた事件。ヒースリップはマコウの頭を膝で打ったため、試合から排除されました。オールブラックスはその後、66-28という大差でアイルランドを下しました。
そして、トライネーションズではオールブラックスが無敗でトーナメントを制覇。オーストラリアとの最終戦では、マコウがオールブラックスのキャプテンを務めるのは52回目となりました。これにより、彼はショーン・フィッツパトリックの持っていたニュージーランドのテストキャプテン最多記録を更新しました。
マコウの栄光のシーズンは続く
この年、ブレディスローカップの第4戦が再び香港で開催され、この試合はオーストラリアが10試合連続での敗北を止める大きなチャンスとして注目されました。そして、オーストラリアはこの機会を最大限に活用し、オールブラックスを下して10連敗のジンクスを打破しました。
しかしその後のヨーロッパ遠征では、オールブラックスは強さを示し続けました。イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてウェールズを相手に圧勝し、グランドスラムツアーでの優勝を飾りました。香港でのオーストラリア戦の敗北が、そのシーズンでの唯一の矢面となりました。
そして、アイルランドとの一戦では、リッチー・マコウは大きな節目を迎えました。マコウはチームメイトのミルズ・ムライアイナと共に93回目のテストマッチに出場し、伝説的なショーン・フィッツパトリックのキャップ数を抜き、オールブラックスの歴史上最多出場となりました。
その年の終わりに、マコウは彼の素晴らしい実績が再び認められました。IRBインターナショナル年間最優秀選手賞を2年連続で受賞。さらに、ニュージーランドのスポーツ界で非常に名誉ある賞であるハルバーグ賞で、年間最優秀スポーツ選手に輝きました。これは、彼のラグビーにおける業績とリーダーシップの結果であり、その年のマコウがいかに卓越していたかを示しています。
《リッチー・マコウの栄光②》2011年ラグビーワールドカップ決勝の記憶