「スポーツによる世界平和」クーベルタン男爵が描いた夢《近代オリンピックの父と呼ばれた男(前編)》

ピエール・ド・クーベルタン男爵は近代オリンピックの父として知られています。

彼の夢は、スポーツを通じて異なる国々と文化の間の理解と友情を深め、最終的には世界平和を実現することでした。

created by Rinker
すべては、ひとつの出会いから始まった──。イギリス野球に関心を持つ著者は、リバプールを目指す列車で老作家から、思いがけずオリンピックのルーツを聞く。世間で知られているピエール・ド・クーベルタンが、じつは近代オリンピックの父ではないというのだ。そこから興味は、一気にイギリス野球からオリンピックへと移っていく。 オリンピックとは何なのか、日本はいつから参加したのか、なぜ、世界的な大会となったのか、という多くの謎を追い求め、現地での貴重な証言や記録を元に「オリンピックの真実」を綴っていく。ベストセラー『史上最高の投手はだれか』の著者が贈る、渾身のノンフィクション。(「紀伊國屋書店」データベースより)

Pierre de Coubertin

ピエール・ド・クーベルタン

The Baron Pierre de Coubertin Statue

ピエール・ド・クーベルタン男爵(Pierre de Coubertin)は、フランスの教育者でありスポーツ教育の融合におけるパイオニアとしても知られています。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、クーベルタンはスポーツを教育に取り入れる重要性を強く訴えました。

クーベルタンが目指したのは、スポーツを通じて世界中の若者の身体的、精神的発展を促すことであり、そのためには国際的なスポーツ競技大会を開催することが必要だったのです。

軍人か教育者か、ピエール・ド・クーベルタンの選択

1863年1月1日、クーベルタンは、フランスのパリで生まれました。彼は貴族の家系の三男であり、中学校(コレージュ)を卒業した後、1880年に陸軍士官学校に入学しました。

将来は軍人や官僚、あるいは政治家になることを周囲から期待されていましたが、クーベルタンは教育学のほうに興味を惹かれていきました。

当時、貴族は限られた道しか選択できませんでした。そのためクーベルタンの選択は周囲から不審に思われることがありました。しかし、彼は自分の道を貫き、教育学についての研究を進めていきました。

その結果、クーベルタンは軍事教育に適応することができず、数カ月後には士官学校を退学しました。

Visites privées/YouTube

クーベルタン男爵の夢!それは教育の改革者への道

退学後、途方に暮れていたクーベルタンは「イギリス・ノート」という書籍に出会います。その本を読んだクーベルタンは、イギリスのスポーツ文化の素晴らしさに深く感銘を受けました。

「イギリス・ノート」は、フランスの文学史家イポリット・テーヌがイギリスを訪れた際に見聞きした印象をまとめたもので、イギリスの教育制度やスポーツ文化などについて書かれていました。

正確に言うと、クーベルタンが影響を受けたのは、テーヌの著作で引用されていた当時のベストセラー小説、トマス・ヒューズ作の「トム・ブラウンの学校生活」でした。

この小説では、主人公のトム少年がイギリスの私立中学校(パブリックスクール)で、学業やスポーツに情熱を注ぐ様子を描いています。

クーベルタンは、ここに描かれている青少年教育の理想に感銘を受けたのです。

また、この物語の背後にいる教育者トーマス・アーノルドの生き方にも共感し、自分自身がその理念を推進する立場になろうと心に決めました。

イギリス嫌いの彼が選んだ教育のためのイギリス旅

当時のフランスは、普仏戦争(1870-71年)の敗北の影響によって、暗い雰囲気に包まれていました。クーベルタンは、この状況を打破するためには教育改革が必要だと考えました。

そこで、1883年、20歳のクーベルタンは、自費でイギリスに向けて旅立ちました。

実は、クーベルタンは熱心な愛国主義者であり、大のイギリス嫌いだったといわれています。

それにもかかわらず、クーベルタンは教育改革のために、自身の主義思想よりもイギリスの教育システムを学ぶことを優先したのです。そしてこのイギリスでの経験は、後に近代オリンピックを創設する原動力となります。

クーベルタンは、イギリスの名門私立学校(パブリックスクール)を訪れ、教育システムを熱心に研究しました。

さらに、イートン、ハーロー、ウェリントン、ウィンチェスター、マールバラなどのイエズス会のカトリックスクールや、オックスフォードやケンブリッジなどの有名大学にも足を運びました。

このような数々の学校の中で、クーベルタンが最も重要な目的地として考えていたのが「ラグビースクール」でした。

スポーツ教育の重要性、トマス・アーノルドの教育理念

クーベルタンに影響を与えたトマス・ヒューズの小説、「トム・ブラウンの学校生活」の中には、ラグビースクールの校長トーマス・アーノルドという教育者が登場します。

クーベルタンがイギリスに向かった真の理由は、トーマス・アーノルドに会うことだったのです。

そいて、ついにトーマス・アーノルドの校長を務めているラグビー・スクールを訪れることになりました。

そこでトーマス・アーノルドの教育理念に心酔したクーベルタンは、イギリスの青年を鍛える要素として「競技精神(道徳的筋肉活動)」こそが重要であり、スポーツ競技は青年教育に適した活動であると確信しました。

具体的には、スポーツが社会性の育成や身体・知性・精神のバランスのとれた人格形成に重要な役割を果たしていることに深く感銘を受けたのです。

実践がもたらす社会変革の可能性、ル・プレの視点

そしてもう1人、クーベルタンに影響を与えた人物がいます。それが同じように教育に関心を持っていた、フランスの社会学者フレデリック・ル・プレでした。

ルプレは、単に机の前で理論を考えるだけではなく、現実の社会状況を自分の目で確かめ、そこから具体的な社会改革を行うことを主張しました。

これは「実証主義」という考え方であり、理論だけでなく実践を重視するという点で、クーベルタンが掲げた教育改革やスポーツを通じた社会改革に相性が良く、二人の情熱は繋がっていきました。

二人の思想がクーベルタンの心を掴む

スポーツによる人格形成と社会改革、この二つの思想がクーベルタンの心に強く残り、これらのアイデアが結びつくことで、国際的な競技大会「オリンピック」の復興という着想を生まれことになりました。

クーベルタン男爵が残したイギリス教育システムの魅力

ピエール・ド・クーベルタンがイギリスで得た教育システムに関する経験と考察は、フレデリック・ルプレの雑誌「ラ・レフォルム・ソシアル」(社会改革)にて、1883年11月1日と12月1日に発表されました。

その後、クーベルタンの研究と考察は詳しくまとめられ、1888年に「イギリスの教育」という本として出版されました。

「作り話じゃなかった!」オリンピア遺跡発見に世界が衝撃

クーベルタンがオリンピック復興を志した背景には、当時のオリンピア遺跡(古代オリンピック)の発掘調査が関係しています。

1776年、イギリス人の考古学者リチャード・チャンドラーによってオリンピア遺跡の一部が発見され、古代オリンピックへの関心が一気に高まりました。

このオリンピア遺跡の発見は一大ニュースとなり、やがてヨーロッパ中でも話題となりました。

その後、1829年にはフランス発掘隊がゼウス神殿の一部を、1875年から1881年にかけてはドイツ発掘隊がオリンピア聖域の中心部を発掘しました。

これらの発掘成果は、1878年のパリ万博において「オリンピア遺跡」の展示が行われ、多くの人々に古代オリンピックの情景が伝わりました。

世界中の学会の支持を得てたこれらの大規模な発掘は、1897年まで行われ、さらに20世紀を通じても続けられていきました。

都市伝説だと思われたものが現実に!

当時の人々は古代オリンピックの話を、アトランティスやムー大陸などと同じような都市伝説の一つとして考えていたため、実際に伝説である遺跡が発見されたことは衝撃的なことでした。

この時代を生きた、クーベルタンも同じように衝撃を受けたと考えられます。

実際に1889年7月21日にはクーベルタンが、パリでポール・モンソーによって行われた『オリンピアの発掘』がテーマの講演に足を運んでいることから、それは明らかです。

Amazing Places on Our Planet/YouTube

オリンピアの発掘が呼び起こしたスポーツの熱狂と復活への願い

オリンピアの発掘は、西洋のエリート層の情熱をかき立てただけでなく、世論を大きく刺激しました。

やがてヨーロッパ全体のスポーツ熱に火をつけることになり、この遺跡発掘に触発された人々によって古代オリンピックの復活運動が展開されていきました。

その中には、スエズ運河を建設したフランス人外交官フェルナンデス・ド・レセップスもいました。

オリンピックの復興に向けた世界の動き

1850年代には、イギリス中西部の小さな町マッチ・ウェンロックでウェンロック・オリンピックという総合スポーツ大会が開催されていました。

また、1830年代にはスウェーデンで2度、スカンディナビア・オリンピック大会が開かれ、ギリシャでも1859年からパン・ヘレネス・スポーツ・フェスティバルが開催されていました。

クーベルタンが目指した世界平和の新たな光

クーベルタンは、古代オリンピックが神聖な催しであり、開催期間中やその前後にギリシャの都市国家間で停戦協定が結ばれていたことに、強い感銘を受けました。

古代オリンピックの精神や平和への理念は、若いクーベルタンの想像力を大きく刺激しました。

その後、クーベルタンはスポーツを通じた人格形成と社会改革に、古代オリンピックの精神を融合させることを思いつきました。

これが近代オリンピックの創設へと繋がっていきます。

世界平和にスポーツを!オリンピック創設の理念

1892年11月25日、クーベルタンはフランス・スポーツ連盟創立5周年記念式典の場で、初めて「オリンピックの復興」を提案しました。

この提案の核心は、地球規模でのスポーツを通じて心身共に調和のとれた若者を育てることにありました。

この提案の中には、4年ごとに世界中の若者たちが一つの場所に集まり、フェアプレーを尊ぶスポーツで競い合うことが含まれていました。

この競争は、異文化の理解を深め、政治体制や宗教などの違いを乗り越えて友情を育む手段となることを目指すものでした。

そして、クーベルタンが目指した最終的な目標は、平和な国際社会の実現でした。

これは、スポーツの力を使った地球規模の教育改革ともいえます。

クーベルタンはこのような壮大なビジョンの実現のために、人類が遠い昔に失ったオリンピックの復興を提案したのです。

スポーツを通じて異文化交流を促進する「オリンピズム」の思想とは

その後、クーベルタン「オリンピズム」と呼ばれる理念も提唱しました。

「オリンピズム」とは国際的な競技会を通じて異文化交流を促進し、平和な社会の実現に貢献することを目指す精神です。

クーベルタンは、スポーツを通じて心身を向上させるだけでなく、文化や国籍の違いを乗り越えて、理解と友好を深めることが重要だと考えました。

以降「オリンピズム」はオリンピックの基本理念として受け継がれていくことになりますが、当時、クーベルタンの本当の想いを理解していた人はほとんどいなかったと言われています。

戦争や紛争を解決するための新たな方法、それがオリンピズム!

クーベルタンが生きた当時の世界は、植民地主義が盛んであり、列強国が権益を拡大するために争っていました。

1893年にはハワイ事変が発生、これはアメリカの白人実業家たちがハワイ王国をクーデターで倒し、最終的にアメリカに併合する事件でした。

1894から1895年の日清戦争では、日本と清朝中国が朝鮮半島をめぐって争い、勝利した日本が台湾を獲得しました。

1895から1898年に起きたキューバ独立戦争では、キューバがスペインの支配からの独立を求めて立ち上がりました。この戦争ではアメリカがキューバの独立を支援し、最終的にはスペインが敗北しました。

このような緊張した国際情勢の中で、クーベルタンは平和な世界の実現を目指す「オリンピズム」を提唱したのです。

当時のような激動の世界において、「オリンピズム」は異なる国や文化の人々が競技を通じて互いを尊重し、理解し合うことで、戦争や紛争の解決策としての役割を果たすことが期待されました。

オリンピックの歴史が始まる!クーベルタン男爵の提案が可決された瞬間

1894年6月23日、第一回オリンピック会議がフランス・パリで開催されました。この会議で、クーベルタンが近代オリンピック競技大会を復活させるという提案を行いました。

この提案は、出席者たちから熱烈な支持を受け、この会議をもって近代オリンピック競技大会の復活が決定されました。

これは、当時の時代背景の中で、世界各国がスポーツを通じた平和と国際協力の価値を認識し、支持していたことを示しています。

そして、1896年にギリシャ・アテネで第1回近代オリンピックが開催されることになりました。

これが現在のオリンピック競技大会の始まりであり、クーベルタンは「近代オリンピックの父」と呼ばれるようになりました。

HistoryPod/YouTube

オリンピックを支える重要な組織、オリンピック委員会(IOC)の役割と責任

1894年の会議ではIOC(国際オリンピック委員会)の設立も決定され、オリンピックが世界的な組織として発展する基盤が整いました。

以降、IOCはオリンピックの開催都市選定、競技選定、選手の資格基準、規則等の策定や認定を行っていきました。

さらに、オリンピック運動の普及・発展を目指す活動も積極的に行い、オリンピックの発展のために尽力しています。

現代のオリンピックは数十億ドル規模の運営費がかかる大規模なイベントとなっているため、IOCだけではなく世界各国の協力のもとに運営されています。

ちなみに、IOCの本部は1915年からスイス・ローザンヌに移転しています。その理由は、第一次世界大戦が勃発し、中立国であるスイスで活動することが適切である判断されたからです。

クーベルタン男爵に影響を与えた!19世紀のオリンピック競技祭

実はのクーベルタンが近代オリンピックを開催する以前にも、19世紀にはオリンピックという名前の競技祭がいくつか開催されていました。

その中でも有名なのは、ギリシャで開催されたザッパスオリンピック、イギリスで開催されたコッツウォルド・オリンピックやリバプール・オリンピック・フェスティバル、そしてスウェーデンで開催された古代オリンピック大会記念・全スカンジナビア・スポーツ大会などです。

これらは当時のオリンピックブームを象徴するものであり、近代オリンピックにも影響を与えました。

特に、1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭は、クーベルタンに大きな影響を与えました。

クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れ、古代オリンピアの雰囲気を感じることができる競技祭を楽しみました。

この時にクーベルタンは主催者であるブルックス博士から、「大会の国際化」「開催都市の持ち回り」「芸術競技の実施」というアイディアを聞かされ、これらは近代オリンピックに取り入れられました。

Panatinaikos stadium

クーベルタンが提唱した古代オリンピックの精神「オリンピアード」

クーベルタンが近代オリンピックを創設した際、古代オリンピックの精神を尊重し、「オリンピアード」という概念を提唱していました。

「オリンピアード」は、古代ギリシャのカレンダーにもとづいて、1回の大会から次の大会までの4年間を1周期とする期間のことを指します。

例えば、1896年の第1回大会の場合、オリンピアードは同年の1月1日から始まり、1899年の12月31日に終わります。今でもこのオリンピアードは大会と大会の間の期間を明確にするために用いられています

クーベルタン最後の切り札は“マラソン”

実際のところ、1896年の近代オリンピック大会の開催に向けて、クーベルタンは多くの困難に直面していました。

この状況を打開するために、彼はパリ・ソルボンヌ大学の言語学者で歴史家のミッシェル・ブレアル教授に助言を求めました。

古代のギリシャの「マラソンの故事」

教授は、古代ギリシャの「マラソンの故事」にちなんで、マラソン競走をオリンピックの種目として採用することを提案しました。

教授は、古代オリンピア大会の競技である円盤投、やり投、レスリングとともに、「オリンピック大会の呼び物」になるだろうと強調しました。

マラソンの故事は、紀元前490年に古代ギリシャの有名な伝説です。この伝説によれば、アテネとペルシャの間で行われた戦いでアテネ軍が勝利した後、使者フェイディピデスが戦いの結果をアテネに知らせるためにマラソンからアテネまでを走ったとされています。

当時の兵士がどこからどこまで走ったかは正確にはわかりませんが、マラトンからアテネまでの距離がおよそ40kmだったため、その距離で競争を復活させることになりました。

不安の中でのマラソン競技

しかし、マラソン(超長距離走)は近代では初めの試みであったため、本番直前まで関係者は不安の表情が隠せませんでした。

一方で、マラソン競走の採用によって、第一回オリンピックアテネ大会の開催国で、伝説が今に残るギリシャは大喜び、多くのギリシャ人がこの種目に参加しました、

こうして迎えた大会最終日の4月14日、25人が出場したマラソン競技では、ギリシャの羊飼いスピリドン・ルイスが2時間58分50秒で優勝。

沿道では大きな声援が送られるなど、マラソン競技は大成功しました。

マラソンの距離が「42.195km」に

その後、第8回パリ大会以降、マラソンの距離は42.195kmに統一されました。

LivingToWin/YouTube

クーベルタン男爵がデザインした五つの輪

オリンピックのシンボルマークである五つの連なる輪も、クーベルタンによってデザインされました。

5つの輪は、アジア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアの5大陸を象徴しています。青、黄、黒、緑、赤の5つの輪と、地の色の白の合計6色は、世界の国旗のほとんどを表現できるという理由で選ばれました。

このシンボルマークは、1920年のアントワープ大会から公式に使用されるようになりました。

五つの輪は、5大陸の国々と、異なる人種や民族の間の友好関係を示すものとされており、オリンピックの国際的な連帯と平和の象徴となっています。

このシンボルマークは、今日のオリンピックにおいても重要な意味を持ち続けています。

Pierre de Coubertin - ISSP Congress

ナポレオン戦争の故事から生み出したオリンピック競技「近代五種競技」

近代五種競技は、クーベルタンによって創設されたオリンピック競技で、1912年の第5回ストックホルム大会から実施されました。

当時、クーベルタンは、古代アテネオリンピックの五種競技に近代的な要素を取り入れた競技を考案しました。

その結果、フェンシング、水泳、馬術、ピストル射撃、ランニングを組み合わせた競技が誕生することになりました。

これらは、近代の軍人が持つべき資質を表しており、現在では軍人五種、海軍近代五種、航空近代五種などの競技も派生しています。

ヨーロッパでの人気

ヨーロッパでは非常に人気が高く、王族や貴族のスポーツとも呼ばれています。クーベルタン男爵は「近代五種」をスポーツの華と評しました。

ナポレオン戦争の故事から

クーベルタン男爵がこの5種を選んだ理由については、ナポレオン戦争の故事にヒントを得たという説があります。

この説によれば、馬に乗った伝令兵が剣と銃で敵兵を倒し、泳いで、走ってナポレオンに情報を伝えたことを競技化したのだと言われています。

このような経緯から、近代五種競技はオリンピック精神を体現した「オリンピックの歴史」そのものとも言われています。

Newsy/YouTube

女性のオリンピック参加に反対!?

近代オリンピックの歴史は、その高い理想とは裏腹に、女性の排除から始まりました。

しかし、ギリシャ人女性メルポメネはマラソンに参加を熱望し、IOCに拒否されたにもかかわらず、大会当日に密かに走り、40kmを4時間半で走り抜きました。

1896年の第1回アテネ大会では、女性の参加は認められませんでした。クーベルタンは古代オリンピックの男子選手の肉体美を理想とし、女性禁制としました。

クーベルタンの考え

実は、クーベルタンは、女性がオリンピックに参加することは、最初から想定していなかったといわれています。

この事を裏付けるように、クーベルタンは1894年にIOCを設立し、第2代会長(1896-1925年)を務めた頃、女性は「勝者に冠を授ける役割」を果たすべきだと主張しています。

France Culture/YouTube
女性選手のオリンピック参加が始まった大会

1900年に行われた第2回パリ大会では、女性の参加が認められましたが、それはテニスとゴルフのみでした。IOCによると、1,066人の選手のうち、女子選手はわずか12人だったといいます。

その後、女子の種目数は徐々に増えていき、1908年の第4回ロンドン大会からは公式参加となりました。

しかし、この大会では女子の優勝者には賞状しか与えられず、メダルはもらえませんでした。

「品位が下がる?」今では考えられない当時の常識

クーベルタンは最後まで女性選手参加に反対しており、当時の新聞には「女性がスポーツに取り組むと、女性らしさが失われ、品位が下がる」との記事も掲載されました。

この時代の医学は今に比べると未熟であり、女性がスポーツをすると、その身体に悪影響を及ぼすとの迷信が広まっていたことも、女性がスポーツに挑戦することの妨げになっていたと考えられます。

冬季競技はオリンピックの価値を奪う?クーベルタンの葛藤

1908年の第4回ロンドン夏季オリンピックで冬季競技が初めて登場しましたが、オリンピック憲章では夏季オリンピックを「オリンピアード競技大会(the Games of Olympiad)」、冬季オリンピックを「オリンピック冬季競技大会(the Olympic Winter Games)」と定めていました。

クーベルタンは古代オリンピアで行われていなかった冬季競技の大会を認めなかったため、夏季オリンピックだけが正式なオリンピック競技大会として捉えられていました。

この考え方は現在のオリンピック憲章にも引き継がれています。

クーベルタンの悩み

当時のクーベルタンは冬季競技の導入に悩んでいました。これは古代ギリシャのオリンピックには冬季競技が存在しなかったためで、近代オリンピックにもふさわしくないのではないか、という考えからでした。

また、冬季競技は天候や競技施設の問題があり、どこでも開催できるわけではありませんでした。

このことについて、クーベルタンは自身の著書「オリンピックの回想」で、人工の氷は作れるものの、雪や山を作ることはできないと述べています。

一方で、クーベルタンはスケートやスキーなどの冬季競技をオリンピックのプログラムから完全に除外することが、オリンピックの価値を奪うことになるとも考えていました。

このような葛藤の中で、最終的に冬季競技はオリンピックに取り入れられ、1924年、フランスのシャモニーで初の冬季オリンピックが開催されました。

これ以降、冬季オリンピックは4年ごとに開催され、今では多くの人々に楽しまれています。

オリンピックの祝日!世界中で「オリンピック・デー」が開催

1948年には国際オリンピック委員会(IOC)に「オリンピック・デー」が制定されました。この日は、オリンピックの理念と精神を祝い、世界中でオリンピック運動の普及と発展を目指すイベントとなっています。

オリンピック・デーは毎年6月23日に開催されており、この日はIOCが1894年に設立された記念日でもあります。

オリンピック・デーの目的は、スポーツを通じて人々に健康的なライフスタイルを促し、国際理解と友情を深めることです。

この日には、世界各地でさまざまなスポーツイベントや教育プログラムが開催されます。また、オリンピック・デーは、オリンピック運動に関する情報や歴史を広める機会でもあります。

オリンピック・デーは、すべての年齢層の人々にスポーツや運動を楽しむ機会を提供し、オリンピック精神を広めることを目指しています。

オリンピック運動に貢献した人々に贈られる「ピエール・ド・クーベルタン賞」

国際オリンピック委員会(IOC)やオリンピック運動をリードする組織では、「ピエール・ド・クーベルタン賞」が設立されています。

この賞は、オリンピックの創設者であるピエール・ド・クーベルタンの名を冠し、オリンピック運動に顕著な貢献を果たした個人や組織に授与されています。

対象は多岐にわたり、例えば、国際ピエール・ド・クーベルタン委員会(CIPC)では、優れたオリンピック研究を行っている若手研究者に賞を授与しています(修士論文部門・博士論文部門)。

この賞の目的は、オリンピックに関する学術研究の奨励と推進です。

読者の皆様へ

クーベルタンの夢は、今日のオリンピックという形で実現しています。彼のビジョンは、国際的な友好とスポーツマンシップの精神を世界に広めることに成功しました。

1500年の時を超えて受け継がれるこの精神は、近代オリンピックを単なるスポーツの祭典を超えた、平和と団結のシンボルに変えました。

クーベルタンの貢献は、世界中の人々がスポーツを通じて一体となる場を提供し、国境を越えた理解を促進するための礎を築きました。

クーベルタンの遺した夢は、今後もオリンピックの精神を形作る原動力として、続いていくことでしょう。

created by Rinker
すべては、ひとつの出会いから始まった──。イギリス野球に関心を持つ著者は、リバプールを目指す列車で老作家から、思いがけずオリンピックのルーツを聞く。世間で知られているピエール・ド・クーベルタンが、じつは近代オリンピックの父ではないというのだ。そこから興味は、一気にイギリス野球からオリンピックへと移っていく。 オリンピックとは何なのか、日本はいつから参加したのか、なぜ、世界的な大会となったのか、という多くの謎を追い求め、現地での貴重な証言や記録を元に「オリンピックの真実」を綴っていく。ベストセラー『史上最高の投手はだれか』の著者が贈る、渾身のノンフィクション。(「紀伊國屋書店」データベースより)
クーベルタンがたどった孤独な最期《近代オリンピックの父と呼ばれた男(後編)》

You might be interested in …

当サイトではプロモーションが含まれています。また、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、これらの設定や使用に同意したことになります。詳細はプライバシーポリシーをご覧ください

X