ピエール・ド・クーベルタン男爵は、近代オリンピック運動の創設者である人物です。フランスの貴族出身であり、イギリスでの教育体験からスポーツによる青年教育の必要性を確信し、古代オリンピックの復興運動を展開しました。
彼の考えは、地球規模でスポーツを通じて心身共に調和のとれた若者を育て、異文化を理解し、政治体制や宗教などの違いを乗り越えて友情を育み、平和な国際社会の構築に寄与することでした。
近代オリンピック運動の歴史や、女子選手の参加や冬季競技の取り入れなど、興味深いエピソードも含まれています。是非、ピエール・ド・クーベルタン男爵の功績やオリンピック運動の歴史に興味のある方は、この記事を読んでみてください。
Pierre de Coubertin
ピエール・ド・クーベルタン
ピエール・ド・クーベルタン(Pierre de Coubertin)は、フランスの教育者・スポーツ指導者で、現代オリンピックの創始者として知られています。彼は19世紀末から20世紀初めにかけて、スポーツを教育に取り入れることの重要性を訴え、国際的なスポーツ競技大会を創設することを目指しました。
古代オリンピックが消滅してから約1500年後の1896年、ギリシャのアテネで第1回近代オリンピックが開催されました。このオリンピック復興の立役者となったのが、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵でした。
彼は教育改革を通じて、スポーツが人間の陶冶や社会改革に寄与することを信じており、古代オリンピックの精神を復活させることで世界各国の若者を結びつけることができると考えました。その功績から、「近代オリンピックの父」と称されるようになりました。
軍人か教育者か、ピエール・ド・クーベルタンの選択
ピエール・ド・クーベルタンは、フランスのパリで1863年1月1日に生まれました。彼は貴族の家系の三男であり、コレージュで中等教育を修了した後、1880年に陸軍士官学校に入学しました。
そこで学んで将来は軍人や官僚、あるいは政治家になることを周囲から期待されていましたが、彼は教育学のほうに興味を惹かれました。
当時の貴族は限られた道しか選択できなかったため、クーベルタンの選択は周囲から不審に思われることがありました。しかし、彼は自分の道を貫き、教育学についての研究を進めていきます。
結局、彼は軍事教育に適応することができず、数カ月後に退学しました。
クーベルタン男爵の夢!それは教育の改革者への道
退学後、途方に暮れていたクーベルタンは「イギリス・ノート」という書籍を読んで、イギリスのスポーツ文化の素晴らしさに感銘を受けました。「イギリス・ノート」は、イポリット・テーヌがイギリスを訪れた際に見聞きした印象をまとめたもので、イギリスの教育制度やスポーツ文化などについて書かれています。
正確に言うと、クーベルタン男爵が影響を受けたのは、テーヌの著作で引用されていた当時のベストセラー小説、トマス・ヒューズの「トム・ブラウンの学校生活」です。
この小説は、主人公のトム少年がパブリックスクールで学業やスポーツに情熱を注ぐ様子を描いています。クーベルタンは、ここに描かれている青少年教育の理想に感銘を受けました。
また、この物語の背後にいる教育者トーマス・アーノルドの生き方にも共感し、彼自身がその理念を推進する立場になろうと考えました。
イギリス嫌いの彼が選んだ教育のためのイギリス旅
当時のフランスは、普仏戦争(1870-71年)の敗北の影響で、国内は沈滞ムードに包まれていました。クーベルタンは、この状況を打破するために教育改革が必要だと考えました。そこで、1883年に20歳のクーベルタンは、自分の費用でイギリスに旅立ちました。
しかし、彼は熱心な愛国主義者であり、実は大のイギリス嫌いだったと言われています。それにもかかわらず、クーベルタンは教育改革のためにイギリスの教育システムを学ぼうと決意しました。この経験が、後に彼が近代オリンピックを創設する原動力となります。
クーベルタンは、イギリスのパブリックスクール(名門私立学校)を訪れ、教育システムを研究しました。彼はイートン、ハーロー、ウェリントン、ウィンチェスター、マールバラなどのイエズス会のカトリックスクールを調査しました。さらにオックスフォードとケンブリッジなどの大学も調査しました。しかし、彼の最も重要な目的地はラグビー校でした。
スポーツ教育の重要性、トマス・アーノルドの教育理念
クーベルタンに影響を与えたトマス・ヒューズの小説、「トム・ブラウンの学校生活」は、ラグビースクールの校長トーマス・アーノルドという教育者が登場します。そうです、クーベルタンはトーマス・アーノルドに会いたかったのである。
そして、ついにクーベルタンは、トーマス・アーノルドの教育理念に触れるため、彼が校長を務めたラグビー・スクールを訪れた。
そこで、トーマス・アーノルドの教育理念に心酔したクーベルタンは、イギリスの青年を鍛える要素として「競技精神(道徳的筋肉活動)」が重要であり、スポーツ競技が青年教育に適した活動であると確信しました。
彼は、スポーツが社会性の育成や身体・知性・精神のバランスのとれた発達に重要な役割を果たしていることに深く感銘を受けました。
実践がもたらす社会変革の可能性、ル・プレの視点
そしてもう1人クーベルタンに影響を与えた人物がいます。それが同じように教育に関心を持っていた、フレデリック・ル・プレという社会学者だった。
ルプレは、単に机の前で理論を考えるだけではなく、現実の社会状況を自分の目で確かめ、そこから具体的な社会改革を行うことを主張しました。
これは「実証主義」という考え方であり、理論だけでなく実践を重視するという点で、クーベルタンの教育改革やスポーツを通じた社会改革への情熱に繋がっていきました。
二人の思想がクーベルタンの心を掴む
スポーツによる人間の陶冶と社会改革という二つの思想がクーベルタンの心に強く残り、これらのアイデアが結びついて独自のオリンピック競技大会の復興という着想を生み出しました。この着想が後に現代オリンピックの創設へとつながります。
クーベルタン男爵が残したイギリス教育システムの魅力
ピエール・ド・クーベルタン男爵のイギリスの教育システムに関する経験と考察は、フレデリック・ルプレの雑誌「ラ・レフォルム・ソシアル」(社会改革)に、1883年11月1日と12月1日に発表されました。その後、彼の研究と観察がまとめられ、1888年に「イギリスの教育」という本として出版されました。
「作り話じゃなかった!」オリンピア遺跡発見に世界が衝撃
1776年にイギリス人のチャンドラーによってオリンピア遺跡の一部が発見され、古代オリンピックへの関心が一気に高まりました。オリンピア遺跡の発見は一大ニュースとなり、ヨーロッパ中で話題となりました。
当時の人々は、古代オリンピックの話を架空の物語として考えていたため、実際に遺跡が発見されたことは衝撃的でした。
その後、1829年にフランス発掘隊がゼウス神殿の一部を、1875年から1881年にかけてドイツ発掘隊がオリンピア聖域の中心部を発掘しました。これらの発掘成果は、1878年のパリ万博において「オリンピア遺跡」の展示が行われ、多くの人々に古代オリンピックの情景が伝わりました。
世界中の学会の支持を得てた大規模な発掘は、1897年まで行われ、さらに20世紀を通じて続けられた。
ちなみに、1889年7月21日にはクーベルタンが、パリでポール・モンソーによって行われた『オリンピアの発掘』がテーマの講演を聞いています。
オリンピアの発掘が呼び起こしたスポーツの熱狂と復活への願い
オリンピアの発掘は、西洋のエリート層の情熱をかき立てただけでなく、世論も刺激した、ヨーロッパ全体のスポーツ熱に火をつけ、この遺跡発掘に触発された人々が古代オリンピックの復活運動を展開していました。
オリンピックの復興に向けた世界の動き
1850年代には、イギリス中西部の小さな町マッチ・ウェンロックでウェンロック・オリンピックという総合スポーツ大会が開催されていました。
また、1830年代にはスウェーデンで2度、スカンディナビア・オリンピック大会が開かれ、ギリシャでも1859年からパン・ヘレネス・スポーツ・フェスティバルが開催されていました。
さらに、スエズ運河を建設したフランス人外交官フェルナンデス・ド・レセップスもオリンピックの復興を唱える一人でした。
クーベルタンが目指した世界平和の新たな光
クーベルタンは、古代オリンピックが神聖な催しとされ、開催期間中やその前後にギリシャの都市国家間で停戦協定が結ばれていたことに、強い感銘を受けました。平和の追求、古代オリンピックの精神、そしてスポーツ教育は、若いクーベルタンの想像力を刺激しました。
彼は、スポーツを通じた教育改革と古代オリンピックの精神を融合させることで、国際的なスポーツイベントを創設することを目指しました。これが近代オリンピックの創設へと繋がっていきます。
世界平和にスポーツを!オリンピック創設の理念
クーベルタンは1892年11月25日にフランス・スポーツ連盟創立5周年記念式典で、初めて「オリンピックの復興」を提案しました。
教育者であったクーベルタンの考えは、地球規模でスポーツを通じて心身共に調和のとれた若者を育て、4年ごとに世界中の若者たちが集まり、フェアプレーを尊ぶスポーツで競い、異文化を理解し、政治体制や宗教などの違いを乗り越えて友情を育み、平和な国際社会の構築に寄与することでした。
一言で言えば、スポーツの力による地球規模の教育改革と世界平和に貢献すること。そのために約1500年の時を経てオリンピックの復興を目指した。
スポーツを通じて異文化交流を促進する「オリンピズム」の思想とは
さらに、クーベルタンは後に「オリンピズム」と呼ばれる理念を提唱しました。「オリンピズム」は国際的な競技会を通じて異文化交流を促進し、平和な社会の実現に貢献することを目指す精神です。
彼は、スポーツを通じて心身を向上させるだけでなく、文化や国籍の違いを乗り越えて、理解と友好を深めることが重要だと考えました。
これはオリンピックの理念として受け継がれていくことになりますが、当時、クーベルタンの想いを理解していた人はほとんどいなかったと言われています。
戦争や紛争を解決するための新たな方法、それがオリンピズム!
当時の世界は、植民地主義が盛んであり、列強国が権益を拡大するために争っていました。ハワイ事変(1893年)は、アメリカの白人実業家たちがハワイ王国をクーデターで倒し、最終的にアメリカに併合する事件でした。
日清戦争(1894-1895年)は、日本と清朝中国が朝鮮半島をめぐって争った戦争で、日本が勝利し、台湾を獲得しました。
キューバ独立戦争(1895-1898年)は、キューバがスペインの支配からの独立を求めて戦った戦争で、アメリカがキューバの独立を支援し、最終的にスペインが敗北しました。
このような緊張した国際情勢の中で、クーベルタン男爵はオリンピズムを提唱しました。彼はスポーツを通じて国際理解を促進し、平和な世界の実現に貢献することを目指していたのです。
当時の激動の世界において、オリンピズムは、異なる国や文化の人々が競技を通じて互いを尊重し、理解し合うことで、戦争や紛争の解決策としての役割を果たすことが期待されていました。この理念は、現代のオリンピックでも引き継がれており、スポーツを通じた国際平和のシンボルとなっています。
オリンピックの歴史が始まる!クーベルタン男爵の提案が可決された瞬間
第一回オリンピック会議は、1894年6月23日にフランス・パリで開催されました。この会議で、クーベルタン男爵が近代オリンピック競技大会を復活させるという提案を行いました。
この提案は、出席者たちから熱烈な支持を受け、この会議で近代オリンピック競技大会の復活が決定されました。当時の世界各国がスポーツを通じた平和と国際協力の価値を認識し、支持していたことを示しています。
また、この会議で国際オリンピック委員会(IOC)の設立が決定されたことで、オリンピックが世界的な組織として発展する基盤が整いました。
1896年にギリシャ・アテネで第1回近代オリンピックが開催されることになります。これが現在のオリンピック競技大会の始まりであり、クーベルタン男爵の提案が受け入れられたことで、世界的なスポーツイベントが生まれました。
オリンピックを支える重要な組織、オリンピック委員会(IOC)の役割と責任
1896年にギリシャのアテネで開催された第1回近代オリンピックは、古代オリンピックの伝統を復活させることに成功しました。また、この会議で国際オリンピック委員会(IOC)の設立が決定されたことで、オリンピックが世界的な組織として発展する基盤が整いました。
IOCの本部は、1915年にスイス・ローザンヌに移転しました。その理由は、第一次世界大戦が勃発し、中立国であるスイスで活動することが適切だと判断されたからです。
そして、オリンピックの運営が世界各国の協力のもとに行われるようになり、現在のオリンピックは数十億ドル規模の運営費がかかる大規模なイベントとなりました。
IOCはオリンピックの開催都市選定、競技選定、選手の資格基準、規則等の策定や認定、また、オリンピック運動の普及・発展を目指す活動を行っており、オリンピックの発展に大きく寄与しています。
クーベルタン男爵に影響を与えた!19世紀のオリンピック競技祭
今のオリンピックは、ピエール・ド・クーベルタンが復活させたものですが、それ以前にもオリンピックという名前の競技祭が開催されていました。
19世紀には、いくつかのオリンピックが開催されていました。その中でも有名なのは、ギリシャで開催されたザッパスオリンピック、イギリスで開催されたコッツウォルド・オリンピックやリバプール・オリンピック・フェスティバル、そしてスウェーデンで開催された古代オリンピック大会記念・全スカンジナビア・スポーツ大会などです。これらは当時のオリンピックブームを象徴するものであり、近代オリンピックにも影響を与えました。
特に、1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭は、近代オリンピック創始者クーベルタン男爵に大きな影響を与えました。彼は1890年にマッチ・ウェンロックを訪れ、古代オリンピアの雰囲気を感じることができる競技祭を楽しみました。
このとき、主催者であるブルックス博士から、後に近代オリンピックに取り入れることになる大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたとされています。
クーベルタンが提唱した古代オリンピックの精神「オリンピアード」
1894年にピエール・ド・クーベルタンが近代オリンピックを創設した時、彼は古代オリンピックの精神を尊重し、「オリンピアード」という概念を取り入れました。
「オリンピアード」は、古代ギリシャのカレンダーに基づいて、1回の大会から次の大会までの4年間を1周期とする期間のことを指します。
例えば、1896年の第1回大会の場合、オリンピアードは同年の1月1日から始まり、1899年の12月31日に終わります。このように、オリンピアードは大会と大会の間の期間を明確にするために用いられています
クーベルタン男爵の“最後の切り札”がマラソン競走だった!
1896年の近代オリンピック大会の開催に向けて、クーベルタン男爵は多くの困難に直面していました。その状況を打開するために、彼はパリ・ソルボンヌ大学の言語学者で歴史家のミッシェル・ブレアル教授に助言を求めました。
教授は、古代ギリシャの「マラソンの故事」にちなんで、マラソン競走をオリンピックの種目として採用することを提案しました。この提案は、古代オリンピア大会の競技である円盤投、やり投、レスリングとともに、「オリンピック大会の呼び物」になると強調されました。
初めての超長距離走であり、関係者には不安もあったが、最終的に大会最終日の4月14日に行われたレースは成功裏に終わりました。25人が出場し、ギリシャの羊飼いスピリドン・ルイスが2時間58分50秒で優勝し、観衆を熱狂させました。
マラソン競走の採用によって、ギリシャの態度は一変し、第1回アテネ大会ではマラソン出場者の大半がギリシャ人で、沿道の声援も熱かった。当時の兵士がどこからどこまで走ったかは正確にはわからないが、マラトンからアテネまでの距離がおよそ40kmだったため、その距離で競争を復活させることになりました。現在のマラソンの距離42.195kmに統一されたのは、第8回パリ大会以降のことです。
クーベルタン男爵がデザインした五つの輪
オリンピックのシンボルマークである五つの連なる輪は、クーベルタン男爵によってデザインされました。5つの輪は、アジア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアの5大陸を象徴しています。青、黄、黒、緑、赤の5つの輪と、地の色の白の合計6色は、世界の国旗のほとんどを表現できるという理由で選ばれました。
このシンボルマークは、1920年のアントワープオリンピックから公式に使用されるようになりました。五つの輪は、5大陸の国々と、異なる人種や民族の間の友好関係を示すものとされており、オリンピックの国際的な連帯と平和の象徴となっています。このシンボルマークは、今日のオリンピックにおいても重要な意味を持ち続けています。
ナポレオン戦争の故事から生み出したオリンピック競技「近代五種競技」
近代五種競技は、ピエール・ド・クーベルタン男爵によって創設されたオリンピック競技で、1912年の第5回ストックホルム大会から実施されています。クーベルタン男爵は、古代アテネオリンピックの五種競技に近代的な要素を取り入れた競技を考案しました。その結果、フェンシング、水泳、馬術、ピストル射撃、ランニングを組み合わせた競技が誕生しました。これらは、近代の軍人が持つべき資質を表しており、現在では軍人五種、海軍近代五種、航空近代五種などの競技も派生しています。
ヨーロッパでは非常に人気が高く、王族や貴族のスポーツとも呼ばれています。クーベルタン男爵は「近代五種」をスポーツの華と評しました。
クーベルタン男爵がこの5種を選んだ理由については、ナポレオン戦争の故事にヒントを得たという説があります。この説によれば、馬に乗った伝令兵が剣と銃で敵兵を倒し、泳いで、走ってナポレオンに情報を伝えたことを競技化したのだと言われています。
このような経緯から、近代五種競技はオリンピック精神を体現した「オリンピックの歴史」そのものとも言われています。
女性のオリンピック参加に反対!?クーベルタンの背景
近代オリンピックの歴史は、高い理想とは裏腹に、女性の排除から始まりました。創始者ピエール・ド・クーベルタンは、女性がオリンピックに参加することを考えていませんでした。
彼が1894年に国際オリンピック委員会(IOC)を設立し、第2代会長(1896-1925年)を務めた頃、女性は「勝者に冠を授ける役割」を果たすべきだと主張していました。
1896年の第1回アテネ大会では、女性の参加は認められませんでした。クーベルタンは古代オリンピックの男子選手の肉体美を理想とし、女性禁制としました。しかし、ギリシャ人女性メルポメネはマラソンに参加を熱望し、IOCに拒否されたにもかかわらず、大会当日に密かに走り、40kmを4時間半で走り抜きました。
女性選手のオリンピック参加が始まった大会
第2回パリ大会では、女性の参加が許可されましたが、テニスとゴルフのみでした。IOCによると、1,066人の選手のうち、女子選手はわずか12人でした。その後、女子の種目数は徐々に増え、1908年の第4回ロンドン大会からは公式参加となりました。
しかし、この大会では女子の優勝者には賞状しか与えられず、メダルはもらえませんでした。クーベルタンは最後まで女性選手参加に反対し、当時の新聞には「女性がスポーツに取り組むと、女性らしさが失われ、品位が下がる」との記事も掲載されました。
当時、医学が未熟であり、女性にスポーツが身体に悪影響を及ぼすとの迷信が広まっていたことも、女性がスポーツに挑戦することを妨げていました。
「品位が下がる?」今では考えられない当時の常識
女子の種目数は徐々に増え、1908年の第4回ロンドン大会から女性が公式に参加できるようになりました。しかし、この大会では女子優勝者には賞状しか与えられず、メダルはもらえませんでした。クーベルタンは最後まで女性選手の参加に反対し、「女性の役割は男性の勝者に冠を捧げること」と主張していました。
当時の新聞では、「女性がスポーツに取り組むと、女性らしさが失われて品位が下がる」との記事も掲載されていました。さらに、医学が未熟だったことから、女性がスポーツをすると身体に悪影響があるという迷信が広まっていました。これらの要因が、女性がスポーツに挑戦することを妨げていたと考えられます。
冬季競技はオリンピックの価値を奪う?クーベルタンの葛藤
1908年の第4回ロンドン夏季オリンピックで冬季競技が初めて登場しましたが、オリンピック憲章では夏季オリンピックを「オリンピアード競技大会(the Games of Olympiad)」、冬季オリンピックを「オリンピック冬季競技大会(the Olympic Winter Games)」と定めていました。
クーベルタンは古代オリンピアで行われていなかった冬季競技の大会を認めなかったため、夏季オリンピックだけがオリンピック競技大会として捉えられていました。この考え方は現在の憲章にも引き継がれています。
クーベルタンは冬季競技の導入に悩んでいました。古代ギリシャのオリンピックには冬季競技が存在しなかったため、近代オリンピックにもふさわしくないという考えがありました。
また、冬季競技は天候や競技施設の問題があり、どこでも開催できるわけではありませんでした。彼は著書「オリンピックの回想」で、人工の氷は作れるものの、雪や山を作ることはできないと述べています。
しかし、クーベルタンはスケートやスキーなどの冬季競技をオリンピックのプログラムから完全に除外することが、オリンピックの価値を奪うことになるとも考えていました。
このような葛藤の中で、最終的に冬季競技はオリンピックに取り入れられ、1924年にフランスのシャモニーで初の冬季オリンピックが開催されました。以降、冬季オリンピックは4年ごとに開催され、多くの人々に楽しまれています。
オリンピックの祝日!世界中でオリンピック・デーが開催
1948年には国際オリンピック委員会(IOC)に「オリンピック・デー」が制定されました。この日は、オリンピックの理念と精神を祝い、世界中でオリンピック運動の普及と発展を目指すイベントとなっています。オリンピック・デーは毎年6月23日に開催されており、この日はIOCが1894年に設立された記念日でもあります。
オリンピック・デーの目的は、スポーツを通じて人々に健康的なライフスタイルを促し、国際理解と友情を深めることです。
この日には、世界各地でさまざまなスポーツイベントや教育プログラムが開催されます。また、オリンピック・デーは、オリンピック運動に関する情報や歴史を広める機会でもあります。
オリンピック・デーは、すべての年齢層の人々にスポーツや運動を楽しむ機会を提供し、オリンピック精神を広めることを目指しています。
オリンピック運動に貢献した人々に贈られる「ピエール・ド・クーベルタン賞」
国際オリンピック委員会(IOC)やオリンピック運動をリードする組織では、「ピエール・ド・クーベルタン賞」が設立されています。この賞は、オリンピックの創設者であるピエール・ド・クーベルタンの名を冠し、オリンピック運動に顕著な貢献を果たした個人や組織に授与されています。
対象は多岐にわたり、例えば、国際ピエール・ド・クーベルタン委員会(CIPC)では、優れたオリンピック研究を行っている若手研究者に賞を授与しています(修士論文部門・博士論文部門)。この賞の目的は、オリンピックに関する学術研究の奨励と推進です。
平和と友好を育む「近代オリンピックの父」
このように、ピエール・ド・クーベルタン男爵の功績は広く認められ、彼は「近代オリンピックの父」と称されています。彼の理念は現代のオリンピックにも引き継がれ、世界中の人々が平和と友好のために競い合う場となっています。
【伝説】理想と現実のギャップ ── クーベルタンがたどった孤独な最期《近代オリンピックの父と呼ばれた男(後編)》