近代オリンピック父「ピエール・ド・クーベルタン男爵」とは?

近代オリンピック父「ピエール・ド・クーベルタン男爵」とは?

Pierre de Coubertin

「ピエール・ド・クーベルタン男爵」

Visites privées/YouTube

古代オリンピックの歴史が途絶えてから1500年が経った1896年、ギリシャのアテネで第1回目の近代オリンピックが開催された。オリンピック復興の立役者となったのは、のちに「近代オリンピックの父」と呼ばれるフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵だった。

4年に1度開催されるのはなぜ?意外と知らないオリンピックの成り立ち/Olympics

彼は、1863年1月1日、貴族の家系の三男としてパリに生まれました

JOC – オリンピズム/クーベルタンとオリンピズム

クーベルタンは神学寮に源をもつコレジュで中等教育を終えると1880年陸軍士官学校に入学した。

クーベルタンとオリンピック復興 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2016

当時の貴族の子息の多くがそうであったように士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていましたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになります。

JOC – オリンピズム/クーベルタンとオリンピズム

当時の貴族は軍人か、法律で身を立てるか、どちらか選択するのが常だった。しかし、軍事的な教育になじめず数カ月で退学。

クーベルタンとオリンピック復興 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2016
小説からイギリスの教育に興味を抱く

自分を見失っていたある日、ミルヴィルの館で手にしたフランスの哲学者、イポリット・テーヌの著作「イギリス・ノート」によって生き方を変えた。

クーベルタンとオリンピック復興 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2016

正しくは、テーヌの著作に引用されていた当時のベストセラー小説、トマス・ヒューズの「トム・ブラウンの学校生活」でうけた衝撃によってである。
主人公トム少年がパブリックスクールを舞台に、学業にスポーツに躍動する。
そこに青少年教育の理想を思い、推進者とされた教育者トーマス・アーノルドの生き方に自分を投影していくのだった。

クーベルタンとオリンピック復興 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2016

 当時のフランスは、普仏戦争(1870―71年)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していました。この状況を打開するには教育を改革するしか1883年、20才のクーベルタンは、自分で費用を払って、イギリスに旅立った。い、と考えるに至ったのです。そこで、クーベルタンは、パブリックスクール視察のためにイギリスに渡ります。

キリスト教文化センター 京都 同志社大学

トーマス・アーノルドに会うためにイギリスへ!

1883年、20才のクーベルタンは、自分で費用を払って、イギリスに旅立った。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.42)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー

実はこのとき熱心な愛国主義者であった彼は、大のイギリス嫌いだったそうです。

JOC – オリンピズム/クーベルタンとオリンピズム

彼の経験は、ル・プレの「ラ・レフォルム・ソシアル」 (社会改革) に1883年11月1日と12月1日
に、後に1888年の「イギリスの教育」に発表された。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.42)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー

パブリック・スクー ルの校長であったトーマス・アーノルドの教育に 心酔したクーベルタンは、イギリスの青年を鍛えているのは「競技精神(道徳的筋肉活動)」であり、スポーツ競技こそが青年を教育するにふさわしい活動であるという確信を得る。スポーツが社会性の育成や身体と知性と精神のバランスのとれ た発達に重要な役割を果たしていることに深い感銘を受けたのである。 その後、フレデリック・ルプレという社会学者の研究方法や社会観、その社 会改良運動への応用を学び、スポーツによる人間 陶冶と社会改革という二つの思想が、クーベルタ ンの中で独自のオリンピック競技大会の復興という着想を生む。

オリンピックと教育-オリンピック競技大会誕生の背景とその今日的意義-(p.8)/田原 淳子
フリーメイソンのメンバー!
Masonic symbols carved above a doorway, Chinon, France

近代オリンピックの父とされるクーベルタン男爵はフリーメーソンで、イギリスを訪れてラグビーにはまり、この国がナポレオンを破ることができたのは、植民地支配のため上流階級の子弟にパブリックスクール(私立校)でスポーツ教育を奨励したせいだと考えるようになった。

21世紀にもうオリンピックはいらない?/Forbes JAPAN.2021

その頃!ギリシャ・オリンピア遺跡の採掘がホットなニュース

Amazing Places on Our Planet/YouTube

一方、当時、ギリシャ・オリンピア遺跡の発掘が進んでいて、そこで行われていたという古代オリンピックへの関心が高まっていた頃でもありました。

4月6日は「開発と平和のためのスポーツ国際デー」/おもてなし国際協議会

ちょうどその頃、ヨーロッパではスポーツが盛んになってきており、なかでもイギリスでは、この遺跡発掘に触発され、古代オリンピックを復活させようという運動が盛り上がった。

【特集】オリンピック・デー :近代にオリンピックを復活させたクーベルタン男爵/東京オリンピック・パラリンピック招致本部
オリンピックは遠い昔に存在したと言われている「架空の物語」

1776年、イギリス人のチャンドラー(1738-1810)によってオリンピア遺跡の一部が発見されると、古代オリンピックへの関心は一気に高まります。作り話だと思われていた世界が現実にあったことを示すオリンピア遺跡の発見は一大ニュースとなって、ヨーロッパ中を駆け巡ったからです。古代オリンピアが度重なる洪水により土で埋まってしまったため、その姿を目にすることができなかった当時の人々は、文学作品で描かれた古代オリンピックの話を、架空の物語として考えていたのでした。

オリンピックから〈遠い国〉とオリンピックに〈近い国〉/和田 浩一教授.国際交流学部 国際交流学科

その後、1829年にはフランス発掘隊がゼウス神殿の一部を、1875年から1881年にかけてドイツ発掘隊がオリンピア聖域の中心部を発掘しました。これらの発掘成果は1878年のパリ万博における「オリンピア遺跡」の展示につながり、古代オリンピックの情景は、パリを訪れた多くの人々のまぶたに焼き付けられることになったのです。

オリンピックから〈遠い国〉とオリンピックに〈近い国〉/和田 浩一教授.国際交流学部 国際交流学科
クーベルタンもオリンピアの事を公演で語っていた

ピエール・ド・クーベルタンは、IOCの書庫に収められている未公開のメモのなかで、1889年7月21日に、パリでポール・モンソーによって行われた『オリンピアの発掘』をテーマとする講演に触れている。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.33)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー
「平和」「スポーツ教育」「古代オリンピック」

なかでもクーベルタンは、その古代オリンピックが神聖な催しとされ、開催期間中とその前後はギリシャ域内の都市国家間で停戦協定が結ばれていたという話に強い感銘を受けたといいます。平和希求、古代オリンピック、スポーツ教育。これらに若きクーベルタンの想像力は掻き立てられ、夢の実現に向けて動き出しました。

2020 TOKYO OLYMPIC & PARALYMPIC GAMES/東洋大学
「改革」そして「世界平和」のためオリンピックの復興を!

クーベルタンは1892年11月25日、フランス・スポーツ連盟創立5周年記念式典で講演。初めて「オリンピックの復興」を説いた。

クーベルタンとオリンピック復興 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2016

「スポーツによって心身共に調和のとれた若者を育て、4年に1度、世界中から若者たちが集い、フェアにスポーツで競い、異文化を理解し、政治体制や宗教などの違いを乗り越えて友情を育み、平和な国際社会構築に寄与する」――31歳の高邁な理想である。これは後に「オリンピズム」と呼ばれるオリンピックの理念として継承されることになるのだが、この時、クーベルタンの想いを理解していた人はほとんどいなかったという。

【オリ・パラ今昔ものがたり】寄付で始まったオリンピック/日本財団ジャーナル.2020

教育者であったクーベルタンの狙いは、スポーツの力による教育改革を地球規模で展開すること、そして、それにより世界平和に貢献すること。そこで古代オリンピックの終焉から約1500年の時を経て、オリンピック競技大会の復活をめざしたのだった。

オリンピックの長い歴史では、たった一人のレースや「幻の金メダル」も存在/Olympics

「平和な社会を作るために」オリンピズムを提唱

さらに、国際的な競技会で他国の選手と親しくなり、多様な文化や芸術に触れることで、平和な社会の実現につながると考えたクーベルタンはオリンピックのあるべき姿として、「オリンピズム(オリンピック精神)」を提唱しました。

人権それは愛 6月号 | 埼玉県宮代町公式ホームページ

クーベルタン男爵が唱えたオリンピックの精神(オリンピズム)とは「スポーツを通して心身を向上させ、文化や国籍の違いを乗り越え、平和な世界の実現に貢献すること」であり、この理想は現代にも受け継がれています。

オリンピックの歴史とは?オリンピックの壮大な歴史を一気に振り返る!/HALF TIME.2019
……その当時の世界はまさに戦争の時代だった

当時は世界的に植民地の奪い合いが激しさを増していた頃にあたり、1893年にはハワイ事変、1894年には日清戦争、1895年にはキューバ独立戦争などが巻き起こっていた。

オリンピックの長い歴史では、たった一人のレースや「幻の金メダル」も存在/Olympics

【1894年6月23日】ついにオリンピックの復興が決定!!

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憲章制定のための第一回オリンピックコングレスは、1894年6月16日から24日まで、ソルボンヌの大講堂で開催された。最初のテーマは「アマチュアスポーツの原則の研究と普及、そしてオリンピック大会の復活」となっていた。しかしこのあと、クーベルタンは一気に攻勢にでた。最終的に、コングレスは「オリンピック大会復活のためのコングレス」とタイトルを付けられた。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.50)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー

 1894年6月23日、フランス・パリで開かれた会議で、クーベルタン男爵が提唱したオリンピック復興計画は満場一致で可決され、96年にギリシャで最初の大会を開くことや国際オリンピック委員会(IOC)の設立が決まった。近代五輪の始まりである。

大自在(6月22日) 五輪デー/あなたの静岡新聞.2021

紀元前776年から、実に1169年にわたって開催されていたオリンピックがよみがえったのです。これを記念し、1948年に設けられたのが「オリンピック・デー」。クーベルタンは後に「近代オリンピックの父」と呼ばれるようになりました。

【特集】オリンピック・デー :近代にオリンピックを復活させたクーベルタン男爵/東京オリンピック・パラリンピック招致本部
4年の周期「オリンピアード」

 1894年、近代オリンピックを創始したピエール・ド・クーベルタンは精神を古代オリンピックに倣い、仕組みとしての「オリンピアード」を取り入れた。

26. オリンピック・パラリンピック、その開催と中止【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2021

Olympiad:オリンピアードとは、大会と次の大会との間の4年間を1周期とする古代ギリ シアの暦にならった周年単位である。例えば、上記の 1896 年大会を例とすると、同年1月 1日に始まり 1899 年 12 月 31 日に終わることとなる。

日本のオリンピック教育をめぐる一考察 ― 東京五輪(1940・1964・2020 年)関連教材を手がかりとして ―(p.170)/沖塩 有希子

「第1回 アテネ大会」オリンピック復活の記念すべき大会

Cerchidigloria/YouTube

 1896年4月6日、第1回オリンピック大会は、新しくなったアテネのパンアテナイ競技場に5万人の大観衆を集めて開会式が行われた。記念すべき第1回大会に参加したのは14カ国。陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目を行った。参加選手は280人ですべて男性。古代オリンピックと同じように「女人禁制」の大会だった。

第1回大会は「女人禁制」/JIJI.COM

第1回のアテネ大会直後に、クーベルタンは次のように述べています。「世界の紛争の種は他国への無知や誤解、偏見から生まれる。したがって、世界の人々との相互理解を深めることが重要である。近代オリンピックは、国際的な相互理解を進める有力な制度となるだろう」。

Ferrisと私/フェリス女学院大学.2015
本当はフランス・パリで開催したかった

最初、クーベルタンは第一回大会を、1900年、パリで開催することを考えていた。1894年6月15日の「レビュードパリ」で彼は、1900年を近代オリンピックの出発点として提案している。コングレスの間、パリは当然の選択のように思われた。しかし参加者たちには、六年も待つのは長すぎるように思われてきた。そこで1894年の計画が決議された。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.52)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー
クーベルタンは女性参加には批判的?

近代オリンピックの歴史は、その高邁な理想とは裏腹に、女性の「排除」から始まっている。クーベルタンは、女性がオリンピックに参加することをまったく考えていなかった。

男性至上イデオロギーが支配したオリンピックの「黒歴史」/現代ビジネス | 講談社.2017

 1894年に国際オリンピック委員会(IOC)を作り、第2代会長(1896~1925年)となったクーベルタン男爵は、例えば死去前年の36年にこう書いている。「真の五輪勇者は男性だ。女性は自らを見せ物にしない限り、スポーツを行うなとは言わないが、その役割は、勝者に冠を授けることであるべきだ」。

五輪とジェンダー…時代とともに変化する理念/読売新聞オンライン.2021

1896年第1回アテネ大会は、女性の参加は認められていない。創始者のフランス人貴族ピエール・ド・クーベルタンは古代オリンピックの男子選手の肉体美の躍動を理想とし、古代に倣って女性禁制としたのである。

【オリ・パラ今昔ものがたり】オリンピックは女性に優しくなかった/日本財団.2021

この時はメルポメネというギリシャ人女性がマラソン競技への参加を熱望しましたが、IOCに拒否されます。しかし彼女は大会当日、競技委員の目を盗んで男性競技者たちがスタートしたあとに走り出し、最終的に「マラトン~アテネ」間の40kmを、4時間半で走り抜きました。

「女人禁制から女子率過去最高へ」オリンピック参加を勝ち取るまでのいばら道/PRESIDENT WOMAN Online.2020
第二回 パリ・オリンピックから女子選手が参加

4年後の第2回パリ大会で出場が許されたが、テニスとゴルフに限られた。IOCによれば、参加1,066選手のうち、女子選手はわずか12人であったという。

【オリ・パラ今昔ものがたり】オリンピックは女性に優しくなかった/日本財団.2021

その後、徐々に女子の種目数は増えていき、第4回ロンドン大会(1908年)からは、ついに公式参加となりますが、残念ながらこのロンドン大会では、女子の優勝者には賞状しか与えられず、メダルはもらえませんでした。

「女人禁制から女子率過去最高へ」オリンピック参加を勝ち取るまでのいばら道/PRESIDENT WOMAN Online.2020

クーベルタン男爵は女性選手参加に最後まで反対し、「女性の役割は男性の勝者に冠を捧げることである」と述べたとされる。当時の新聞には「女子のスポーツが発達すると女子らしさが失われ、 品位を下げるのではないか」との記事もある(東 京朝日新聞 1904)。医科学分野が未熟であったこ ともあり、女性にスポーツは身体に悪い影響を及 ぼすとの迷信のような思想が信じられており、女性がスポーツに挑戦することを阻んでいたようで ある。

共生社会の実現に向けたスポーツのあり方を問う―女性スポーツ推進の視点から―/山口 香.筑波大学体育系.スポーツ教育学研究.Vol.40, No.1, pp. 89-91
マラソンの誕生
LivingToWin/YouTube

「マラソン競走」が陸上競技のオリンピック大会の種目として採用された経緯について、ここでもう少し詳しく見ていきたいと思います。1896年の「近代オリンピック大会」を復興するにあたり、クーベルタン男爵の周辺には開催の意義を理解し、積極的に運営する人はほとんど存在しませんでした。古代オリンピア大会の母国で開催することになっても、地元ギリシャで経済的、精神的に支援してくれる人も少なく、クーベルタンは様々な困難に直面していました。

陸上競技のルーツをさぐる17/筑波大学陸上競技部OB・OG会

こうした状況を打開しようと、男爵はパリ・ソルボンヌ大学の言語学者で歴史家でもあるミッシェル・ブレアル教授の助言を求めました。教授の提案は「マラソンの故事」の古戦場から、伝令のフィディピディスが息絶えたとされるアテネ市公会堂跡くアクロポリスの北麗にある「アゴラ」という名で呼ばれていた市場>までの距離を実測し、新しく始める「オリンピック大会」にこの距離を走る長距離競走を採用してはというものでした。教授は古代競技場で行われていた円盤投や、やり投、レスリングなどとともに「オリンピック大会の呼び物」になるはずだと強調しました。

陸上競技のルーツをさぐる17/筑波大学陸上競技部OB・OG会

その故事とは、紀元 前 490 年アテネがアケメネス朝ペルシアを迎え撃ち、絶体絶 命のマラトンの戦いでペルシア軍を撃退して勝利した際に、健脚の兵士がアテネまで駆けて「我らは勝利せり」とエヴァンゲリオン(吉報)を告げて絶命したというものである。

スポーツの歴史と文化(1)「走る」その 1/幡鎌 真理.天理参考館学芸員.天理参考館から(20).2020

 これまで、このような超長距離走は例がなく、どういう結果になるか、関係者には不安もありましたが、大会最終日の4月14日に行なわれたレースには25人が出場、ゴールまであと7kmの地点でトップに立ったギリシャの羊飼いスピリドン・ルイスが、2時間58分50秒で優勝、大観衆を熱狂させました。興奮のあまりスタンドから飛び降りたギリシャのコンスタンチヌス皇太子と弟のジョージ親王が、ゴールまでルイスと一緒に走ったほどでした。

アテネ1896(3) オリンピックコラム/日本オリンピック委員会

近代オリンピック競技種目に古代オリンピックに由来するものはほとん どなく、それまで冷ややかだったギリシアの態度はマラソン採 用で一変した。第 1 回アテネ大会ではマラソン出場者の大半 をギリシアが占め、沿道の声援は熱く、ギリシアのスピリド ン・ルイス選手が優勝した瞬間は 2400 年前もこうであったか と思わせる大歓声がアテネに響きわたった。当時の兵士がどこ からどこまで走ったのかは正確にはわからないが、マラトンか らアテネまでの距離を測ったらおよそ 40km だったので、そ の距離で競争を復活させようということに落ち着いた。現在 の 42.195km に統一されたのは第8回パリ大会以降のことであ る。

スポーツの歴史と文化(1)「走る」その 1/幡鎌 真理.天理参考館学芸員.天理参考館から(20).2020
実はそれよりも前に「オリンピック」という名の大会が行われていた!?
Panatinaikos stadium

実は、この近代オリンピックが始まる直前にもいくつかのオリンピックがあった。 かいさいこく 近代オリンピック第1回大会と同じ開催国のギリシャでも、 19世紀後半に別のオリンピックがおこなわれていた。資産家のエバンゲリス・ザッパスがばく大な資金を投入 して始められたことからザッパスオリンピックとも呼ばれた大会だ。しかし、近代オリンピックとは大きな違いがあった。ザッパスオリンピックは、あくまでもギリシャの国内大会だったのだ。

オリンピック パラリンピックのスゴイ話 はじめて物語編(pp.6-7)/大野益弘.ポプラポケット文庫.2020

 ザッパスはギリシャ独立戦争に参加後、ワラキア(現ルーマニア)での成功で得た財を投じ、祖国に古代ギリシャの栄光を取り戻す象徴としてパナシナイコにオリンピックを復活させた。この「ザッパスオリンピック」には、ギリシャ国内諸州のほか、オスマン帝国領内のギリシャ系住民も参加したという。

五輪の象徴、パナシナイコ競技場の歴史/ナショナルジオグラフィック.2012

 ザッパスオリンピックは1858年から1889年まで4回のみの開催だったが、これがなければ近代オリンピックも生まれなかっただろう。1896年の第1回国際大会(アテネオリンピック)でメイン会場に決まったパナシナイコ・スタジアムは、豪商ゲオルギオス・アベロフ(Georgios Averoff)の資金により白大理石で改装された。

五輪の象徴、パナシナイコ競技場の歴史/ナショナルジオグラフィック.2012
時代はオリンピックブーム

ほかにもイギリスで「コッツウォルド・オリンピック」や「リバプール・オリンピ ック・フェスティバル」が、スウェーデンでは、「古代オリンピック大会記念・全ス カンジナビア・スポーツ大会」が開催されている。 19世紀はオリンピックブームだったのだ。

オリンピック パラリンピックのスゴイ話 はじめて物語編(p.7)/大野益弘.ポプラポケット文庫.2020

このようなイベントの中には、近代オリンピックに影響を与えたものもありました。1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭と、ギリシャで開催されたオリンピック競技会です。近代オリンピックの創始者クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れて、古代オリンピアの香り漂う競技祭を楽しみました。このとき、主催者であるブルックス博士(1806-1896)から、後に近代オリンピックに取り入れることになった大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたようです。

オリンピックから〈遠い国〉とオリンピックに〈近い国〉/和田 浩一教授.国際交流学部 国際交流学科.フェリス女学院大学

「第2回 パリ大会」万博の付属扱い

Business Insider/YouTube

 第1回大会の成功に意を強くしたギリシャは、同国でのオリンピック恒久開催を主張したが、国際的にスポーツを普及したいとの狙いがあったクーベルタン男爵は、各国の大都市で開催することを主張。結局、彼の近代五輪再興の努力と功労に敬意を表する形で、パリでの開催が決まった。

万国博覧会の付属大会/JIJI.COM.2009
母国フランスで思い入れも強かったが……
DOCUMENTARY CHANNEL/YouTube

 クーベルタンは母国・フランスでの「スポーツ博覧会」開催を目論んだが、大会は彼の理想とはかけ離れ、政府主導の万国博覧会に吸収されてしまった。会期は5月20日から10月28日まで5カ月以上にわたり、そのため競技会場の不備や運営のまずさも目立った。

万国博覧会の付属大会/JIJI.COM.2009

パリ大会では万博会場へ人の流れを誘導するために隣のブーローニュの森で陸上競技が行われており、当時はまだスポーツやオリンピックに対する一般の人々の関心が薄かったことがわかる。

スポーツの歴史と文化(1)「走る」その 1/幡鎌 真理.天理参考館学芸員.天理参考館から(20).2020

 開催された競技種目や参加者は格段に増え、女子選手も出場して大会は盛大に行われました。しかし、万国博覧会の付属になってしまったことで大会運営上は大きな混乱をきたし、3位以内の入賞者へのメダルが贈られたのは運営にクーベルタンが実際に関わった陸上競技だけ。しかもメダル製作が間に合わず、選手に届いたのは2年後だったといわれています。

オリンピックの歴史(2) 近代オリンピックの始まり/日本オリンピック委員会: JOC
お金がないとどうすることもできない……資金難の結果

1896年、クーベルタン男爵の提唱で始まった近代オリンピック大会、第1回目大会はギリシャ政府と ギリシャの大富豪たちの資金援助で幕を開けたが、1900年第2回パリは開催資金が同時開催されて いる「万国博覧会」の影響で集まらず、苦肉の策として、開催中の「万国博覧会」の出展イメージでの開催となった。

テレビとスポーツとの蜜月関係/

「第3回 セントルイス大会」前回と同じく万博の付属

Missouri Historical Society/YouTube

第3回のセントルイス大会(1904年)も5月14日から11月末まで半年もかかった、と言われています(同書は日程を断定していません。)前回以上に博覧会に人気を奪われ「博覧会の付属物ように取り扱われてしまった」と嘆いています。開催地米国が欧州から遠いため、英・仏が参加せず、参加国は10カ国、参加人員は米国選手を除くと60人ほどという淋しさでした。

五輪は万国博覧会の「余興」/独立メディア塾.2021
「第X回 アテネ……中間のオリンピック」幻のオリンピック?
BFI/YouTube

オリンピ ックは 本来4年に1回 ,開催することと決めていたが,1896年の大会が成功裏に終了し ,ギリシア国民に大きな感動と感激を与えたことから国王の意図もあってこの臨時の大会が1906年4月22日~5 月2日 ,20か国884名の選手が参加して ,第1回大会と同じ会場を使 って以前にも増して規模を拡大して開催された 。ようやくこれで「オリンピック」が世界に認知されたといえる状況が生まれたのである 。

「マラソン競走」が42.195kmの距離に設定されるまでの経緯/岡尾 恵市

しかし、この中間年オリンピックは、その後のギリシャの政情不安や、提唱者のゲオルギオスⅠ世が暗殺されたことによって、たった1回の開催で立ち切れとなった。

東京への土台が出来上がってきた大会(2012年ロンドン大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》/天狼院書店
オリンピックの歴史から抹消

 第一回大会で味を占めたギリシャが開催したもののIOCは当初からかかわらず、クーベルタンもこの大会を認める気がありませんでした。IOCの多くの委員が大会に出席しましたが、クーベルタンはギリシャを訪れることがありませんでした。

古き良き紳士のオリンピックだった時代オリンピックの歴史(2)/ポップの世紀

 クーベルタンの継承者となった後のIOC会長のエイベリー・ブランデージにより、この大会は正式なオリンピックの歴史から消されることになります。

古き良き紳士のオリンピックだった時代オリンピックの歴史(2)/ポップの世紀

「第4回 ロンドン大会」前々回と同じく万博の付属

BFI/YouTube

第4回ロンドン大会はオリンピックの原型が整った大会だと評価される。資金面ではパリ、セントルイスと同様、万国博覧会の一環として開催されたが、「スポーツ先進国」としての理解から「スポーツ競技大会としての自主性」は担保された。組織運営体制が初めて確立され、英国の各スポーツ競技団体が運営を担当した。

オリンピックで重要なことは…… 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団
「勝つことではなく、参加することに意義があるとは……」

第4回のロンドンオリンピック(1908)でアメリカとイギリスの対立が激化した時、 当時の IOC 会長のクーベルタンが「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至 言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的 なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。」というメッセー ジを発信した。これはオリンピックが勝敗という結果ではなく、理想の人間形成の過程に関 わるという教育的な活動であることを意味している。このようにオリンピックと敎育は、本来 根本的に結びついたものである。オリンピックが本来は「理想の人間形成」の場であり、競技用に訓練された特別な人間による競い合いの場ではなかった。

教養教育におけるスポーツと音楽 : ―イギリスの パブリック・スクールと旧制高等学校の考察―(p.63)/下道 郁子.東京音楽大学.研究紀要.2020-01-31
冬季競技と冬季オリンピック

 五輪に冬季競技が初めて登場したのは、1908年の第4回ロンドン夏季大会でした。

初めてなのに第8回? 1924年シャモニー冬季五輪/桑田 真.ことばマガジン.2014

余談ながら、われわれはごく自然に「夏季オリンピック」「冬季オリンピック」と呼んでいるが、憲章には「オリンピアード競技大会=the Games of Olympiad」「オリンピック冬季競技大会=the Olympic Winter Games」とある。クーベルタンは夏季のみをオリンピック競技大会と捉え、古代オリンピアで行われていなかった冬季競技の大会は認めなかった。意識はいまも憲章に残る。

26. オリンピック・パラリンピック、その開催と中止【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団.2021

 近代五輪の父と言われ、当時国際オリンピック委員会(IOC)会長だったクーベルタンも悩んだようです。ギリシャの古代五輪には冬季競技は存在せず、近代五輪にもふさわしくないという考え方がありました。また、天候や競技施設の問題があり、どこでも開催できるわけではありません。著書「オリンピックの回想」には「人工の氷はつくれても、雪をつくることも、さらに山をつくるに至ってはできることではない。……山脈を格安で買えとか、あるいは一定の規格でつくれと要求できるだろうか」と書いています。一方で、スケートやスキーを「オリンピック・プログラムから完全に除外しておくと、その大きな力と価値を奪うことにもなったろう」と振り返っています。

初めてなのに第8回? 1924年シャモニー冬季五輪/桑田 真.ことばマガジン.2014

「第5回 ストックホルム・オリンピック」芸術競技が採用!

BFI/YouTube

オリンピックにおける「芸術競技」の採用が決定したのは、1906年にクーベルタンが国際オリンピック委員会(IOC)の委員を招集して開催した「芸術と文学とスポーツに関する会議」であった。この会議でクーベルタンは、筋肉と精神、すなわちスポーツと芸術を統合する必要性を説いた。このクーベルタンの提案は満場一致で承認され、1912年ストックホルム大会から芸術競技が開始されたのである。

ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの芸術と神聖 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2018
クーベルタンは以前から「芸術性」の重要性を認識

近代オリンピックの父〈クーベルタン〉は、古代オリンピックで実施されていた芸術競技の復活に熱心でした。

【過去の五輪には 芸術競技があった】/日本ベアリング

父が画家であったことだけでなく、古代オリンピックにおいて多くの芸術作品が制作されたことや、19世紀にギリシャ国内で行われていたオリンピア競技祭(ザッパス・オリンピック)において芸術展示や芸術的競技が行われたことも、若きクーベルタンは自ら学んで知っていた。スポーツ競技大会に付加価値を与えるための芸術の重要性を、オリンピック提唱前からすでに認識していたのだ。

ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの芸術と神聖 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2018
会議で「芸術」をつかって説得!

クーベルタンがオリンピックの復興(近代オリンピック創設)のため不退転の決意で臨んだ、1894年6月のパリ大学ソルボンヌ大講堂での会議(パリ会議)で、彼は古代ギリシャの荘厳な音楽「アポロン讃歌」の演奏などによって参加者の気持ちをヘレニスティックな神聖=古代ギリシャの神々しさへと向かわせた。そして、参加した人々が最高潮の美的ムードに酔いしれる中で、オリンピックの復興と国際オリンピック委員会の創設を決めたのだった。

ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの芸術と神聖 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2018
ミューズの五種競技

彼の芸術競技の構想は,「ミューズの五種競技」と呼ばれ,建築,彫刻,絵画,文学, および音楽の5部門で実施された。作品の題材はスポーツの理想を鼓舞するもの,あるいは直接スポーツに結びついたものとされた。芸術競技の受賞作品は大会期間中を通して展示や上演され,勝者はスポーツ競技の勝者と同様に表彰された。作品は未公開のものに限 られ,彫刻だけには縦横幅80cmの大きさの制限ルールが設けられた。クーベルタンはこ の芸術競技を 1908年第4回ロンドン大会から実施しようと試みたが,その計画は準備不足のために失敗し,1912年の第5回ストックホルム大会から実施されることとなった。

オリンピックの文化イベントの歴史と言語(p.31)/舛本直文.【特集】2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催と日本語教育(日本語教育165号206.12)
自分で参加そして金メダル(笑)

最初に芸術競技が開催された1912年のストッ クホルム大会で,クーベルタンはGeorges Hohrod and M.Eschbach という偽名で文学部門 に参加し,『スポーツへの頌歌Odeto Sport」という作品で金メダルを獲得している(中略)。 それほどまでに,彼は芸術競技に入れ込んでいたことが窺い知れる。

オリンピックの文化イベントの歴史と言語(p.31)/舛本直文.【特集】2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催と日本語教育(日本語教育165号206.12)
芸術はやがて「文化プログラム」へ

1949 年に芸術競技は廃止されますが、その後、クーベルタンの意志は継承され、 オリンピック開催期間中の芸術展示・文化活動を行う文化プログラムへと発展していきます。

【過去の五輪には 芸術競技があった】/日本ベアリング

現在、オリンピック大会の前から行われている「文化プログラム」の出発点は、「芸術競技」だったのである。したがって、オリンピックに芸術も取り入れたいとしたクーベルタンの強い意志は、現在の文化プログラムへとレガシーとして引き継がれているのである。

ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの芸術と神聖 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】/笹川スポーツ財団.2018
オリンピックとは「スポーツの祭典」だけではなく「文化の祭典」

クーベルタン男爵の「教育としてのスポーツ」という観点から始まった近代オリンピッ クは,現在,文化的な意味合いを強く持っている。2020 年の東京オリンピックにおいて「文化プログラム」が存在している。オリンピックは先に述べたように「スポーツの祭典」で ある。しかし,それと当時に,現在,「文化の祭典」でもあるといえる。

1908 年ロンドン・オリンピックにみる伝統とナショナリズム(p.2)/大賀 紀代子.千葉商大紀要 第 57 巻 第 2 号(2019 年 11 月)pp. 1-15
近代五種競技を創設
Newsy/YouTube

近代五種競技は、近代オリンピックの父と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵により創設され、1912年第5回ストックホルム大会から実施されているオリンピック競技です。

近代五種競技 | (公式)/日本近代五種協会

クーベルタン男爵は近代五種を創設するにあたり、古代アテネオリンピックの五種競技(レスリング・円盤投・やり投・走幅跳・短距離走)にならい、近代らしい五種競技を考案。それが近代の軍人が備えておくべき資質、フェンシング、水泳、馬術、ピストル射撃、ランニングを合わせた競技となった。現在では軍人五種・海軍近代五種・航空近代五種といった競技も派生している。

近代五種競技の起源|欧州では「キング・オブ・スポーツ」と呼ばれるスポーツの華/渡辺文重.Olympics.2020

ヨーロッパにおいては非常に人気があり、王族・貴族のスポーツとも呼ばれ、クーベルタン男爵はこの「近代五種」をスポーツの華と評したとも言われます。

産経ニュース for mobile – 近代五種/modern pentathlon
ナポレオン戦争の故事

 クーベルタン男爵がこの5種を選んだのは、ナポレオン戦争の故事にヒントを得たからという説がある。馬に乗った伝令兵が剣と銃で敵兵を倒し、泳いで、走ってナポレオンに情報を伝えたことを競技化したという。オリンピック精神を体現した「オリンピックの歴史」そのものだと言われることもある。

見どころ5倍 知らないと絶対損する「近代五種」/読売新聞オンライン.2019
1915年4月10 クーベルタンによってIOCが設立

IOCは1915年4月10日、ピエール・ド・クーベルタンがローザンヌで設立。以来、オリンピックは運営費数十億ドル規模の大イベントに発展した。

スイス・ローザンヌにIOCの新本部が完成/SWI swissinfo.ch
アジア圏から日本も参加!

日本のオリンピック参加は、明治45(1912)年5月に開催された第5回ストックホルム大会に始まります。

第1章 日本のオリンピック参加の歩み/第15回 もう一つの東京オリンピック.本の万華鏡
日本のオリンピックの父「嘉納治五郎」

当時、IOC会長であったクーベルタンは、第4回ロンドン大会までアジアからの参加がなかったため、大会をより国際的なものにしたいと考え、明治41(1908)年に駐日フランス大使オーギュスト・ジェラールにIOC日本代表委員の推薦を依頼しました。そして、スポーツに造詣が深く語学が堪能といった理由などから講道館柔道の創始者として知られる嘉納治五郎が推薦され、翌年のIOC総会でアジア初のIOC委員に就任しました。

第1章 日本のオリンピック参加の歩み/第15回 もう一つの東京オリンピック.本の万華鏡

「第6回ベルリン大会」第一次世界大戦の影響で開催は中止

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第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパは戦火に包まれました。そんな状況の中、ベルリン大会の開催は不可能になったのです。

オリンピックの歴史(3) 激動の時代を迎えたオリンピック/日本オリンピック委員会: JOC
クーベルタンは軍隊に志願して戦いに挑んだ

戦火の拡大は、国際オリンピック委員会(IOC)のありようを変えた。パリにあった本部を中立国スイスのローザンヌに移し、会長のピエール・ド・クーベルタンは志願してフランス軍に従軍した。陸軍士官学校で学んだ名門貴族としての矜持(きょうじ)か、反戦的と指摘されて著書が発禁されたことへの抵抗か、それとも「オリンピックによる平和」との理念が断たれた落胆だったか。1863年生まれ、50歳を超えての“反乱”であった。1916年には「IOCは軍人に率いられるべきではない」と信頼するゴドフロワ・ド・ブロネを会長代理に指名、終戦まで続いた。

【オリ・パラ今昔ものがたり】「スペインかぜ」とアントワープ大会/日本財団ジャーナル.2020
終戦後に再び会長に復帰「被害が大きかったベルギーで“平和の祭典を”」
Sky News/YouTube

1919年の始め、クーベルタンは再びIOCの指導者の地位に復帰した。
ド・ブロネーは背景に退いた。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.153)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー

 戦争が終わった翌年、クーベルタンIOC会長は5年ぶりにIOC総会を召集。1920年に開催されるべきオリンピックの開催地を決めることが大きな議題でした。ヨーロッパの国はどこも戦争の深い傷跡を残しており、とくにベルギーも大きな被害を受けていたのですが、IOC総会では、あえてそのベルギーのアントワープを開催地に選びました。「平和の祭典」をプレゼントすることで、喜びを分かち合おうとしたのです。

オリンピックの歴史(3) 激動の時代を迎えたオリンピック/日本オリンピック委員会: JOC

1919年1月クーベルタンはIOC委員一に手紙を送り、戦争がもたらした社会の大変動から引き出したいくつかの結論を書いた。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.153)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー

「オリンピアン」は彼らの臨時会長、ゴッドフロア・ド・ブロネーと、彼らが25年以上にわたって共になし遂げた仕事を誇りに思うべきである。その評価は非常に高いものであった。五つのオリンピアードが輝かしく、ますます成功の度を高めながら祝われた。しかし残念なことに、ベルリン大会はキャンセルされなければならなかった。世界を平和なスポーツの祭典に招待する代わりに「ドイツ帝国は恐るべき戦争の手綱を解き放ち、青年と平和のためであるべき日付を血によって塗りつぶした」。

デメトリウス・ビケラス会長(1894‐1896)とピエール・ド・クーベルタン会長(1896‐1925)の時代(p.153)/バルドマルヌ県クレテイユ市(フランス)パリ大学教育学部研修研究科イブ・ピエール・ブーロンニュ名誉教授.特定非営利活動法人 日本オリンピック・アカデミー

「第7回 アントワープ大会」平和と復興を!今に続くオリンピックが披露!

CHRONOS-MEDIA History/YouTube

1920年8月14日、完成間もないオリンピック・スタジアムに史上最多の29カ国(当時)が集い、国王アルベール一世が高らかに開会を宣言した。クーベルタンは「信じがたいほどの暴力の嵐が去り、オリンピックは再び始まった」と喜びを表現。自らデザインし、1914年にパリの百貨店ボンマルシェで製作された「白地に青、黄、黒、緑、赤の5色のつながる輪」が描かれたオリンピック旗が初めて観衆に披露された。そして史上初めて、ベルギーのフェンシング選手、ビクトル・ボワンがユニホーム姿で選手宣誓した。華麗な演出は、「平和と復興を讃える祝祭」として世界に発信されていった。

パンデミックとオリンピック。1920年アントワープ大会の光と影。/笹川スポーツ財団.Sportsnavi.2021

平和の象徴として、戦争時に通信用として使用されたハトが羽ばたくなど、現在の五輪の形が披露された。

【五輪トリビア】1920年アントワープ大会 戦争や感染症を乗り越え、「五輪=平和の祭典」を具現化/スポーツ報知.2020

(前略)クーベルタンは、アントワープ大会で「オリンピックとは連帯、世界の国々を結び合わせるところに最大の意味があると確信した」と述べている。

スペイン風邪流行下で開催…100年前の五輪に学ぶべきこと/FRIDAYデジタル.2021
仮にアントワーク・オリンピックが中止になれば消える可能性が……

アントワープは「平和の祭典」「成功したオリンピック」と今も称される。ただ、それはIOC側の視点。前回、1916年の第6回ベルリン大会が第1次大戦によって中止され、この大会も開催できなければオリンピック活動は足場を失い、霧散しかねない。是が非でも開催するとの強い意思はクーベルタンにあった

パンデミックとオリンピック。1920年アントワープ大会の光と影。/笹川スポーツ財団.Sportsnavi.2021
パンデミックの中で開催された

 さらに世界を襲ったのが、5000万人を超える死者を出したとされる「スペイン風邪」。18年から20年にかけて欧米を中心に何度も感染拡大の波が訪れた。その中でIOCは「復興と平和の大会」として、19年3月に翌年の開催を決定。ドイツの侵攻で壊滅的な被害を受けたアントワープは、終戦直後の18年冬にスペイン風邪の大流行があったが、その後は抑えられていた。

【五輪トリビア】1920年アントワープ大会 戦争や感染症を乗り越え、「五輪=平和の祭典」を具現化/スポーツ報知.2020
五輪のマークはこの大会から採用
Pierre de Coubertin - ISSP Congress

今ではおなじみとなったオリンピックのシンボルマークをデザインしたのも、クーベルタン男爵だ。5つの輪はアジア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、ユーラシアの5大陸を表す。マークに使用されている青、黄、黒、緑、赤の5つの輪と、地の色の白の6色は、世界の国旗のほとんどを表現できるという理由で選ばれたという。このシンボルマークは1920年のアントワープ五輪から公式に用いられるようになり、5つの大陸とあらゆる人種、民族の友好関係を表すものとされた。

4年に1度開催されるのはなぜ?意外と知らないオリンピックの成り立ち/Olympics

「第8回 パリ大会」クーベルタンの母国で二回目の開催!

BFI/YouTube

1924 年第 8 回大会の開催都市には複数の都市が立候補していたが、第 2 回大会の汚名を返上するために 2 度目のパリ開催を希望するクーベルタン IOC 会長に対しては、それまでのオリンピック運動にその生涯の大部分を捧げてきた彼の功績に報いるためにパリで開催することが決定された。

スポーツ文化財としての オリンピック関連資料の収集について 第三報 ─ 1924 年第 8 回パリオリンピックに関する収集品─(p.98)/藤 瀬 武彦.新潟国際情報大学 国際学部 紀要

この大会には 44 カ国から 3,092 名の選手が参加し、 後にこのパリ大会を映画化した「炎のランナー(原題 Chariots of Fire)」(1981 年公開)の一主 人公のモデルとなったイギリスのハロルド・エイブラハムス選手(陸上男子 100m 金メダル、4 × 100m リレー銀メダル)、あるいは「類猿人ターザン(原題 Tarzan the Ape Man)」(1932 年 公開)などの主演俳優となったアメリカのジョニー・ワイズミューラー選手(競泳男子 100m 及 び 400m 自由形、4 × 200m 自由形リレー金メダル)などが活躍した大会であった。この大会で は初めてオリンピック村(選手村)が使用され、メインスタジアムのコロンブ競技場の周囲に1 軒 4 名収容できる木造コテージが 50 戸ほど建築されて、日本のような小規模の選手団はこの選 手村に滞在した。

スポーツ文化財としての オリンピック関連資料の収集について 第三報 ─ 1924 年第 8 回パリオリンピックに関する収集品─(p.98)/藤 瀬 武彦.新潟国際情報大学 国際学部 紀要
IOC会長を退任……以後オリンピックに現れることはなかった

 クーベルタンは翌1925年会長を退き、2度とオリンピックの舞台に顔はみせなかった。「自分の描いたオリンピックとは異なってきた」ことが要因だった。クーベルタンの悲願でもあったベルリン大会が開催されたのは1936年。しかし、ドイツの好戦的な指向は正せず、アドルフ・ヒトラー率いるナチスはギリシャのオリンピアからベルリンまで聖火を運んだリレーコースを逆に南下、第二次大戦に向けて侵略を開始したのである。

政治に振り回されるオリンピック 【オリンピックの歴史を知る】/笹川スポーツ財団

会長職とともにIOC委員も辞任したが、彼はその後も、個々の点では不満を抱きながらも自分の生涯をかけた事業に対して忠実であった。オリンピック大会の名誉会長を引受け、筆をとり、講演をし、喜んで助言をした。1927年春には、ギリシャ政府の招きでアテネに赴き、「古代ギリシャギムナジウムの再建」について講演を行った。アテネからオリンピアに足を伸ばしたクーベルタンはオリンピック大会復興を記念するアルティス(聖域)の入口の柱の除幕式に出席した。彼が「世界の若者に」と題するメッセージを発表したのはこの時である。

アンリ・ド・バイエ・ラツール会長(1925—1942)の時代(p206)/NPO法人日本オリンピック・アカデミー公式サイト掲載
穂積八洲雄訳 国際オリンピック委員会の百年 第1巻 第2章
現代のメダル至上主義のオリンピックには批判的だった

(前略)クーベルタンは1929年に次のように述べました。「もし輪廻というものが存在し、100年後にこの世に戻ってきたならば、現世で苦労して築いたものを私は破壊することになるでしょう」。つまり、自分が生き返ったら、「現世で苦労して築いた」近代オリンピックを「破壊する」と発言したのです。単なるメダル争いの場になってしまったオリンピックに、クーベルタンは明確に「ノン(ノー)」を突きつけたのでした。

Ferrisと私/フェリス女学院大学.2015

1937年9月2日 ベンチに座ったままひっそりと息を引き取った

Olympia

IOC引退後のクーベルタンはジュネーブにわび住いし、オリンピックなどへ顔を見せなかった。顔を出すと会長などの地位が軽視されるからである。1937年9月2日、ラグランジェ公園のベンチに腰を下ろしたまま静かに息を引きとった。ときに74歳だった。彼は人類にオリンピックという壮大無比の遺産をのこして逝った。

大島鎌吉のスポーツ思想に学ぶ(5)―理念「オリンピズム」の探究という視点において―(p.29)/伴義 孝(関西大学名誉教授).人体科学27-(1):23-35,2018〈評論〉

晩年は家庭的に恵まれず、約170万フランともいう資産の大半をささげたオリンピック運動からも退いていた。事業失敗や金融恐慌も手伝い破産、まさに孤独死であった。

64年東京のいまを歩く(20)オリンピック讃歌は東京発 NHK交響楽団の演奏がIOC委員を魅了/産経ニュース.2015

現代のオリンピック大会の設立者として歴史に残るこの人物の遺体はローザンヌに葬られている。しかしその心臓は、遺言に従って、オリンピアに最後の憩いの場を見つけた。 彼の心臓は、 ギリシャ皇太子、バイエ-ラツールIOC会長そして多くのIOC委員列席の下、1927年に除幕された 記念柱の下の骨壺に収められた。

アンリ・ド・バイエ・ラツール会長(1925—1942)の時代(pp.207-208)/NPO法人日本オリンピック・アカデミー公式サイト掲載
穂積八洲雄訳 国際オリンピック委員会の百年 第1巻 第2章
ノーベル平和賞は断っていた

1936年2月の第35回セッションで、クーベルタンをノーベル平和賞に押すことが決議され、その夏、49人のIOC委員が署名した手紙がオスロのノーベル賞委員会に送られた。

アンリ・ド・バイエ・ラツール会長(1925—1942)の時代(p.207)/NPO法人日本オリンピック・アカデミー公式サイト掲載
穂積八洲雄訳 国際オリンピック委員会の百年 第1巻 第2章

実は近代五輪の父、ピエール・ド・クーベルタン男爵は、ノーベル平和賞の候補に上げられ、打診を何度か受けていたという。しかし、彼はそれを拒否した。人類を殺戮する爆薬や兵器で得た富への償いとしての賞にオリンピックは相応しくないとの思いからだと言う。

ノーベル賞とオリンピック平和賞~大島鎌吉を思う~/元IOC(国際オリンピック委員会)担当オリンピック招致特命参事 春日良一 の「スポーツ思考」.2014
ピエール・ド・クーベルタン賞

国際オリンピック委員会(IOC)をはじめ、オ リンピック・ムーブメントを牽引する組織によっ て、「ピエール・ド・クーベルタン賞」(以下、「ク ーベルタン賞」と略す)が設けられている。オリ ンピックの創始者であるピエール・ド・クーベル タン(1863〜1937)の名を冠して、オリンピック・ ムーブメントに優れた功績のあった人物や組織等 を表彰している。その対象は多様であり、例えば、 国際ピエール・ド・クーベルタン委員会(CIPC) の場合は、若手による優れたオリンピック研究を 評価の対象として賞を授与している(修士論文部 門・ 博士論文部門)。 その目的は、 オリンピック に関する学術研究の奨励・推進である。


学校におけるオリンピズム普及のツールとしてのピエール・ド・クーベルタン賞 −ドイツとオーストラリアの場合−/田原 淳子,森脇 保彦
……ヒトラーとの関係性

自分のイベントが一気に世界的に注目されたことに感動したクーベルタンは、ヒトラーを称賛して本国からは煙たがられ、女性を差別し五輪参加に反対するなどして、結局はIOCから去ることになるが、晩年はスイスでナチスの年金で暮らしていたという。

21世紀にもうオリンピックはいらない?/Forbes JAPAN.2021

(前略)現在IOCの本部が置かれているスイスのローザンヌは、クーベルタンがナチス(ヒトラー)の世話になって過ごした場所だという。

玉木正之「原点なき五輪。改めて平和への道を語り合おう」#東京オリパラ開催なら/Forbes JAPAN.2021
「第11回 ベルリン大会」でスピーチが流された

同氏は亡くなる1年前、73歳のときにあるスピーチを録音している。ベルリン大会のスタジアムで流されたそれは、公平さと友愛精神の理想を説くものだった。

ロシアにのしかかる宴の後の憂鬱政治に利用され続けるオリンピック/東洋経済ONLINE.2014
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すべては、ひとつの出会いから始まった──。イギリス野球に関心を持つ著者は、リバプールを目指す列車で老作家から、思いがけずオリンピックのルーツを聞く。世間で知られているピエール・ド・クーベルタンが、じつは近代オリンピックの父ではないというのだ。そこから興味は、一気にイギリス野球からオリンピックへと移っていく。 オリンピックとは何なのか、日本はいつから参加したのか、なぜ、世界的な大会となったのか、という多くの謎を追い求め、現地での貴重な証言や記録を元に「オリンピックの真実」を綴っていく。ベストセラー『史上最高の投手はだれか』の著者が贈る、渾身のノンフィクション。(「紀伊國屋書店」データベースより)

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