クーベルタンがたどった孤独な最期《近代オリンピックの父と呼ばれた男(後編)》

近代オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタン男爵。

彼は理想的なオリンピックのビジョンを持っていましたが、その実現は決して容易な道のりではありませんでした。

その人生は、オリンピック運動への献身により多くの成果を遺した一方で、理想と現実のギャップに直面する孤独な闘いでもあったのです。

「スポーツによる世界平和」クーベルタン男爵が描いた夢《近代オリンピックの父と呼ばれた男(前編)》
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オリンピックをテレビ観戦していると、他のスポーツイベントとは「風景」が違うことに気づく。それは「会場に広告看板がない」からだ。クーベルタンが理想を掲げて創始した近代オリンピックの「格式」は、そのような形で今も守られている。だが舞台裏では、莫大な放映権料やスポンサー料がIOCの懐を潤し、競技自体にまで影響を及ぼすという実態がある。一方で、その資金のおかげで税金の投入が回避され、途上国の選手が参加できるという現実もある。果たして、オリンピックが「商業主義」を実践するのは是なのか非なのか。本書は、五輪礼賛でも金権批判でもないスタンスで、この問題を深く掘り下げる。(「BOOK」データベースより)

Birth of the Modern Olympics

オリンピックの歴史を彩る「クーベルタン男爵」の偉大な業績

The Olympic Museum/YouTube

ピエール・ド・クーベルタン男爵は、近代オリンピックの父として歴史に名を刻みましたが、その献身的な人生の最後は孤独の中で迎えました。

【第1回 アテネ大会】4カ国280人が集結!初めての近代オリンピック大会

1896年4月6日、第1回オリンピック大会の開会式がギリシャにあるアテネの新しいパンアテナイ競技場で行われ、5万人の観客が集まりました。

この歴史的な大会には14カ国が参加し、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目が開催されました。参加選手は280人で、全員が男性でした。

古代オリンピックと同様に、この大会は女性の参加が禁止されていました。

今大会のの後、クーベルタンは次のように述べました。

「世界の紛争は、他国に対する無知、誤解、偏見から生じる。だからこそ、国際間の相互理解を深めることが重要であり、近代オリンピックはそのための強力な制度になるだろう」

クーベルタンの夢であった近代オリンピックは、ギリシャのアテネでついに実現したのです。

最初は国境のパリ開催を予定していた?

当初、クーベルタンは第一回大会は、1900年に母国フランスのパリから始めようと考えていました。事実、クーベルタンは1894年の会議で、1900年を近代オリンピックのスタート地点にしようと提案しています、

会議では、パリになるのが自然な流れと思われました。しかし、参加者たちはここから6年も待つのは長すぎると感じ始め、結局1896年に第一回大会が計画され、開催地はアテネに決定されてしまいました。

4年に1度の祭典へ

ちなみに、この会議でクーベルタンはオリンピックを4年に1回開催するという周期を提案し、次の大会からはこの周期が採用されることになりました。

【第2回 パリ大会】理想と現実の衝突、パリ大会で明らかになったこと

第1回アテネオリンピック大会の成功を受けたギリシャは、オリンピックを恒久的に自分達の国で開催しよう主張しました。

しかし、クーベルタンはそれに反対。スポーツを国際的に普及させたいという思いから、各国の大都市で開催することを主張しました。

議論の末、クーベルタンの近代五輪再興の努力と功労に敬意を表する形で、1990年の第2回大会はパリでの開催が決まりました。

しかし、このパリ大会はクーベルタンの理想とはかけ離れたものとなってしまいました。

クーベルタンの理想と現実

当初、クーベルタンはパリ大会を「スポーツ博覧会」を開催しようと考えていましたが、フランス政府主導の万国博覧会に吸収されてしまったのです。

このような状況の中で開催されたパリ大会では、競技種目や参加者が増え、女子選手も出場して大会は盛大に行われましたが、万国博覧会の付属となってしまったため、大会の運営は大きな混乱を招き、競技会場の不備も目立ちました。

3位以内の入賞者へのメダルが贈られたのは、クーベルタンが実際に関わった陸上競技だけで、そのメダルすら製作が間に合わず、選手に届いたのは大会から2年後になりました。

このように、第2回パリオリンピック大会は運営上の問題が多く、クーベルタンの理想とはあまりにもかけ離れたものとなりました。

しかし、この大会を通じて、オリンピックが各国で開催されることになり、国際的なスポーツの普及が進むことが示され、現在のオリンピック開催形態への礎が築かれました。

Business Insider/YouTube

【第3回 セントルイス大会】「規模縮小・欠席多数」アメリカで開催されたオリンピック

1904年、アメリカで開催された第3回セントルイスオリンピック大会も、運営上の問題が多く、前回のパリ大会と同様に万国博覧会に人気を奪われる形となりました。

大会は5月14日から11月末までの半年間にわたってなんとか無事に開催さされることができました。しかし、この大会も「万国博覧会の付属物のように取り扱われてしまった」とクーベルタンは嘆いていました。

また、開催地であるアメリカは、当時の欧州諸国にとっては遠く離れた国であり、イギリスやフランスなどの国が参加しませんでした。このことも大会の規模を縮小させる重要な要因となりました。

今大会の参加国はわずか10カ国で、アメリカ選手を除くと参加人員は約60人という非常に寂しい状況でした。

Missouri Historical Society/YouTube

「第?回 ギリシャ大会」クーベルタンが承認しなかったオリンピックとは?

1906年、第1回のアテネ大会で大成功を収めたギリシャは、国王の意向により、独自のオリンピンクを開催しました。このオリンピックは「中間年オリンピック」と呼ばれています。

しかし、この中間年オリンピックは、ギリシャの政情不安や、提唱者であるゲオルギオスⅠ世が暗殺されたことにより、たった1回の開催で終わりとなりました。

IOCは初めからこの大会に関与しておらず、クーベルタンもこの大会を認める気はありませんでした。

それでも大会にはIOCの多くの委員が出席しました。しかし、クーベルタンはギリシャを訪れることは最後までありませんでした。

オリンピックの歴史から消される

その後、クーベルタンの後継者となったIOC会長エイベリー・ブランデージにより、この1906年の中間年オリンピックは正式なオリンピックの歴史から消されることになりました。

このため、現在ではこの大会は公式のオリンピックとして数えられていません。

BFI/YouTube

【第4回 ロンドン大会】オリンピックの原型が整った大会

1908年、イギリスで開催された第4回ロンドン大会は、オリンピックの原型が整った大会と高く評価されています。

資金面では、パリやセントルイスと同様に、万国博覧会の一環として開催されましたが、イギリスが「スポーツ先進国」としての理解を持っていたことから、「スポーツ競技大会としての自主性」が担保されました。

この大会では、組織運営体制が初めて確立され、英国の各スポーツ競技団体が運営を担当しました。これにより、大会の運営がスムーズに行われるようになり、競技の発展が見られました。

また、今大会には各国からの選手たちも増加し、より国際的な大会となりました。

このように、第4回ロンドン大会は、オリンピックの歴史において重要な位置を占める大会であり、現代のオリンピックの基礎となる要素が整ったとされています。

BFI/YouTube
「勝敗よりも重要なもの」クーベルタンが発信したメッセージ

当時のイギリスはアメリカとの対立が激化していました。

そこで、IOC会長だったクーベルタンは、「勝つことではなく、参加することに意義がある」というメッセージを発信しました。

クーベルタンは、スポーツによって人々が自己を磨き、他者との交流や理解を深めることによって世界が平和になると考えていました。

【第5回 ストックホルム大会】クーベルタンが目指したスポーツと芸術の融合

オリンピックにおける「芸術競技」の採用は、1906年にクーベルタンがIOCの委員を招集して開催した「芸術と文学とスポーツに関する会議」で決定されました。

クーベルタンはスポーツと芸術を統合する必要性を説き、その提案は満場一致で承認され、1912年にスウェーデン開催されたストックホルム大会から芸術競技が取り入れられました。

古代オリンピックの芸術競技の復活

クーベルタンは古代オリンピックの芸術競技の復活に熱心でした。

クーベルタンは古代オリンピックにおける芸術作品や、19世紀ギリシャのオリンピア競技祭で行われた芸術展示や競技を学び、スポーツ競技大会に付加価値を与えるための芸術の重要性を認識していました。

クーベルタンの芸術競技構想は「ミューズの五種競技」と呼ばれ、建築、彫刻、絵画、文学、音楽の5部門で実施されました。

そして、これらの作品は全て未公開で、スポーツに関連した題材が求められました。

スポーツ競技と同じように表彰

芸術競技において受賞した作品は大会期間中に展示、上演され、受賞者はスポーツ競技の勝者と同様に表彰されました。

実は、1912年のストックホルム大会で芸術競技が初めて開催された際、偽名を使ってクーベルタン自身も文学部門に参加し、『スポーツへの頌歌』という作品で金メダルを獲得しました。

この芸術競技は1949年に廃止されましたが、その後のオリンピックでもクーベルタンの意志が引き継がれていきました。

BFI/YouTube
スポーツと芸術の融合が生んだオリンピックの文化的レガシー

「芸術競技」から始まったクーベルタンの強い意志がレガシーとして引き継がれた誕生したのが、現在のオリンピック大会で行われている「文化プログラム」です。

クーベルタンが提唱した「教育としてのスポーツ」や「スポーツと芸術」という理念によって、近代オリンピックはスポーツだけではなく文化的な意味合いを持つようになり、文化や芸術の交流の場としても機能するようになりました。

文化の祭典としてのオリンピック

今では、「スポーツの祭典」として認識されている一方で、文化の祭典」とも言えるほど、文化的要素が大会に組み込まれており、開会式や閉会式では、その国の文化的な要素が盛り込まれる圧巻の光景を私たちに見せてくれます。

日本のオリンピック参加の始まり

1909年、日本では嘉納治五郎(かのう じごろう)がIOC委員に就任し、日本のオリンピックとの関係が始まりました。

嘉納治五郎はその後、日本にオリンピック運動の普及を促進し、1912年の第5回ストックホルム大会に日本が初めて参加するきっかけを作りました。

今大会には2人の日本人選手、陸上競技の金栗四三(かなくり しそう)と徳永義行(とくなが よしゆき)が参加、こうして日本のオリンピック史が幕を開けました。

残念ながら、今大会での日本人選手の活躍は決して目立つものではありませんでしたが、この参加は日本スポーツ界に大きな影響を与えるものになりました。

日本はその後、オリンピックに積極的に参加し、1932年のロサンゼルス大会で初めてメダルを獲得。1936年のベルリン大会では初めて金メダルを獲得しました。

【第6回ベルリン大会】戦争の影響で中止になったオリンピック

第6回のオリンピックは1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし、2年前の1914年に第一次世界大戦が勃発、ヨーロッパは激しい戦争状態に陥りました。

この影響で、開催予定だったベルリン大会は中止となり、戦争が終結するまでオリンピックは開催することが出来ませんでした。

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中立スイスへ本部移転、IOCの変化とクーベルタン会長の戦争への思い

第一次世界大戦の影響は、国際オリンピック委員会(IOC)自体にも大きな変化をもたらしました。

本部をパリから中立国スイスのローザンヌに移転させ、会長であるクーベルタンはフランス軍に志願して従軍し戦地に向かいました。

クーベルタンが志願した理由は、名門貴族としてのプライドや、反戦的とされたために発売が禁じられた著書への抵抗、あるいは「オリンピックによる平和」という理念が失われたことへの落胆など、複雑な要素が絡み合っていました。

Sky News/YouTube
「ベルギーでオリンピック復活を」クーベルタンが戦場から帰還

クーベルタンは戦争が終わった後に再びIOCの指導者として復帰、1920年のベルギーのアントワープでオリンピック開催することを決定します。

これは、戦争によって深い傷跡が残ったヨーロッパ諸国の中で、特に被害の大きかったベルギーのアントワープを開催地に選ぶことで、「平和の祭典」として喜びを分かち合おうという考えがありました。

【第7回 アントワープ大会】戦火から復興へ、平和と国際連帯の力

1920年、ベルギーで開催されたアントワープ大会は、戦争の傷跡がまだ生々しい中で開催された平和の祭典になりました。

オリンピック消滅の危機

アントワープ大会の開催にあたり、クーベルタンがかける思いはこれまでよりも強いものでした。

これは、第一次世界大戦によって中止された1916年のベルリン大会の影響により、もし次の大会が開催できなければオリンピックが消滅しかねないという危機的な状況から来ていました。

CHRONOS-MEDIA History/YouTube
スペイン風邪がもたらしたもう一つの危機

さらに、この頃の世界は5000万人を超える死者を出したとされる「スペイン風邪」が猛威を振るっていました。1918年から1920年にかけて欧米を中心に何度も感染拡大の波が訪れたのです。

戦後の混乱とパンデミックという、未曾有の危機の最中の1919年年3月、IOCは「復興と平和の大会」として翌年に第7回であるアントワープ大会の開催を決定しましました。

ドイツの侵攻で壊滅的な被害を受けたアントワープは、終戦直後の1918年冬にスペイン風邪の大流行に襲われるも、この頃にはなんとか抑えこむことが出来ていました。

国際的な連帯の大切さ

このような状況の中で、なんとかアントワープ大会は開催することができました。

そして、様々な国の選手たちが、スポーツを通じてせめぎ合い、交流をしているの見たクーベルタンは、国際的な連帯と世界の国々を結び合わせることに最大の意義があると改めて確信しました。

オリンピック旗が初めて公開

また、今大会では数多くの新しい平和への伝統が生まれました。

例えば、クーベルタン自身がデザインしたオリンピック旗が今大会で初めて公開され、選手宣誓が初めて行われるなど、現在の五輪に見られる様々な要素が導入されました。

これらの新しい伝統は、オリンピック精神の象徴として、平和と復興を讃える祝祭として世界に発信されました。

成功したオリンピック

アントワープ大会は、オリンピックが戦争から平和への転換期において、その精神を継承し、世界の国々が再び結束する機会を提供した象徴的な大会になり、今も「平和の祭典」「成功したオリンピック」として高く評価されています。

【第8回 パリ大会】汚名を返上!故郷で開催された2度目のオリンピック

1924年、フランスで開催された第8回パリ大会は、再びクーベルタンの故郷パリでの開催になりました。

クーベルタンのために

複数の都市が立候補していたものの、IOC会長クーベルタンが第2回大会の汚名を返上するために2度目のパリ開催を希望、クーベルタンの功績に報いるために特別にパリでの開催されることが決定されました。

今に伝わる選手たちの躍動

この大会には44カ国から3,092名の選手が参加し、様々な競技で名選手たちが活躍しました。

イギリスのハロルド・エイブラハムス選手(陸上男子100m金メダル、4×100mリレー銀メダル)やアメリカのジョニー・ワイズミューラー選手(競泳男子100mおよび400m自由形、4×200m自由形リレー金メダル)などがその例です。

後に映画「炎のランナー」や「類猿人ターザン」にも登場する選手たちが出場した大会でもありました。

選手村が登場

この1924年パリ大会では、初めてオリンピック村(選手村)が使用されました。

メインスタジアムのコロンブ競技場の周囲に1軒4名収容できる木造コテージが50戸ほど建築され、日本のような小規模な選手団もこの選手村に滞在しました。

BFI/YouTube

クーベルタン男爵はオリンピックの舞台から姿を消した

その後、1925年にクーベルタンはIOC会長を退任し、それと共にIOC委員も辞任しました。

それからのクーベルタンは、オリンピックの舞台に顔を見せることはありませんでした。これは、現会長などの地位が軽視されることを恐れて、自分が顔を出すのを避けていたと言われています。

「理想と現実のギャップ」オリンピックの父が退任した理由

クーベルタンがIOC会長を退任した理由については、オリンピック運動が自分の理想とは異なる方向に進んでいることに対する懸念や疲れが原因でした。

クーベルタンはオリンピックの精神を重視し、スポーツを通じて国際理解を深めることを一番の目的としていましたが、この頃のオリンピックは徐々にメダル争いや商業主義の影響を受け始めていました。

このことについて、クーベルタンは1927年に、「もし輪廻というものが実際に存在し100年後にこの世に戻ってきたなら、私は自分が作ったものをすべて破壊することでしょう」と述べており、ただのメダルの奪い合いになってしまったオリンピックに対して、はっきりと「NO」という意思を示しました。

これは、彼がオリンピックの本来の精神が失われていることに懸念を抱いていた何よりの証明になっています。

退任後も燃え続けたオリンピックへの情熱

そんなクーベルタンですが、実は退任後も、オリンピック運動自体には関心を持ち続け、名誉会長として活動しました。時にはは筆を取り、講演を行い、喜んで助言をしました。

1927年の春にはギリシャ政府の招きでアテネを訪れ、「古代ギリシャギムナジウムの再建」について講演を行いました。

さらにアテネからオリンピアへも足を伸ばし、オリンピック大会復興を記念するアルティス(聖域)の入口の柱の除幕式に出席しました。

この際にクーベルタンは「100年後にこの世に戻ってきたなら…」と言うメッセージを発表したのです。

ノーベル平和賞を辞退した理由

1936年2月第35回IOCセッションで、クーベルタンがノーベル平和賞に推薦されることが決定し、その夏には49人のIOC委員が署名した手紙がオスロのノーベル賞委員会に送付されました。

実は、これまでも「近代オリンピックの父」であるクーベルタンは、ノーベル平和賞の候補に挙がり、何度か打診を受けていました。

しかし、クーベルタンはその受賞を断り続けました。これは、人類を破壊する爆薬や兵器で得た富の償いとして与えられる賞は、オリンピックにはふさわしくないと、クーベルタンが考えたからだとされています。

近代オリンピックの父は孤独な最期を遂げる

1937年9月2日、クーベルタンは公園のベンチに座ったまま静かに亡くなりました。74歳でした。

クーベルタンはオリンピックという偉大な遺産を人類に残しましたが、晩年は家庭的に恵まれず、オリンピック運動に多くの資産を捧げた後、一人孤独に亡くなってしまいました。

オリンピアで眠る

こうして、近代オリンピックの父として歴史に名を刻んだクーベルタンの遺体は、スイスのローザンヌに埋葬されました。

一方心臓は、クーベルタンの生涯をかけた情熱の中心地である、オリンピアに安置されています。

これはクーベルタン自身が遺言で希望したもので、オリンピックの精神が始まった地であるオリンピアに、自身の心臓を残すことには、クーベルタンの夢と情熱が永遠にオリンピックと共にあることを象徴しています。

読者の皆様へ

クーベルタンの生涯と死は、彼が追い求めた理想と、その理想が時とともに直面した現実のギャップを浮き彫りにします。

クーベルタンはオリンピック運動を通じて世界を変えまたしたが、その過程で自らの内面的な平和を見出すことは難しかったようです。

しかし、クーベルタンの遺した遺産は、今日のオリンピック運動においてなお重要な基礎を成しており、彼の理想と情熱は、未来の世代にも引き継がれていくことでしょう。

Olympia
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オリンピックをテレビ観戦していると、他のスポーツイベントとは「風景」が違うことに気づく。それは「会場に広告看板がない」からだ。クーベルタンが理想を掲げて創始した近代オリンピックの「格式」は、そのような形で今も守られている。だが舞台裏では、莫大な放映権料やスポンサー料がIOCの懐を潤し、競技自体にまで影響を及ぼすという実態がある。一方で、その資金のおかげで税金の投入が回避され、途上国の選手が参加できるという現実もある。果たして、オリンピックが「商業主義」を実践するのは是なのか非なのか。本書は、五輪礼賛でも金権批判でもないスタンスで、この問題を深く掘り下げる。(「BOOK」データベースより)

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