ピエール・ド・クーベルタンは、オリンピックを現代に復活させ、世界平和の象徴として発展させた人物として、スポーツ史に大きな足跡を残しました。この記事では、ピエール・ド・クーベルタンの生涯やオリンピックに対する熱意、功績などについて詳しく紹介しています。
彼の人生に触れることで、スポーツの大切さや、その力によって人々を結びつけることができることに改めて気付かされることでしょう。ぜひ、彼の偉業に敬意を表し、スポーツの価値を再確認するきっかけにしてみてください。
【伝説】「1500年の時を超えたオリンピック」ピエール・ド・クーベルタン男爵が描いた夢《近代オリンピックの父と呼ばれた男(前編)》
Birth of the Modern Olympics
オリンピックの歴史を彩る「クーベルタン男爵」の偉大な業績
クーベルタン男爵は、オリンピックの父として歴史に名を刻みました。彼は自らの理想を貫き、孤独な最期を迎えました。しかし、彼の心臓は今もオリンピックの故郷であるギリシャに残り、永遠にその精神を守り続けています。
【第1回 アテネ大会】4カ国280人が集結!初めての近代オリンピック大会
ピエール・ド・クーベルタンの夢であった近代オリンピックは、1896年にギリシャのアテネでついに実現しました。
1896年4月6日、第1回オリンピック大会の開会式がアテネの新しいパンアテナイ競技場で行われ、5万人の観客が集まりました。
この歴史的な大会には14カ国が参加し、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目が開催されました。参加選手は280人で、全員が男性でした。古代オリンピックと同様に、この大会は女性の参加が禁止されていました。
第1回アテネ大会の後、クーベルタンは次のように述べました。「世界の紛争は、他国に対する無知、誤解、偏見から生じる。だからこそ、国際間の相互理解を深めることが重要であり、近代オリンピックはそのための強力な制度になるだろう」。
最初は国境のパリ開催を予定していた?
当初、クーベルタンは第1回大会を1900年にパリで開催することを考えていました。彼は1894年の会議で、1900年を近代オリンピックのスタート地点と提案していました。
会議では、パリは自然な選択肢と思われましたが、参加者たちは6年待つのは長すぎると感じ始め、1894年に計画が決定され、開催地はアテネになりました。
その後、クーベルタンはオリンピックを4年に1回開催するという周期を提案し、次の大会からはこの周期が採用されることになりました。
【第2回 パリ大会】理想と現実の衝突、パリ大会で明らかになったこと
第1回アテネオリンピック大会の成功を受けて、ギリシャはオリンピックを恒久的に同国で開催することを主張しました。しかし、クーベルタン男爵はスポーツを国際的に普及させたいという狙いがあり、各国の大都市で開催することを主張しました。結局、クーベルタンの近代五輪再興の努力と功労に敬意を表する形で、第2回大会はパリでの開催が決まりました。
しかし、パリ大会はクーベルタンの理想とはかけ離れたものとなりました。彼はフランスで「スポーツ博覧会」を開催しようと考えていましたが、大会は政府主導の万国博覧会に吸収され、運営上の混乱が生じました。競技会場の不備や運営のまずさも目立ちました。
パリ大会では、競技種目や参加者が増え、女子選手も出場して大会は盛大に行われました。しかし、万国博覧会の付属となってしまったことで、大会運営は大きな混乱を招きました。3位以内の入賞者へのメダルが贈られたのは、クーベルタンが実際に関わった陸上競技だけでした。さらに、メダル製作が間に合わず、選手に届いたのは2年後だったとされています。
このように、第2回パリオリンピック大会は運営上の問題が多く、クーベルタンの理想とはかけ離れたものとなりました。しかし、この大会を通じて、オリンピックが各国で開催されることで国際的なスポーツの普及が進むことが示され、現在のオリンピック開催形態への礎が築かれました。
【第3回 セントルイス大会】「規模縮小・欠席多数」アメリカで開催されたオリンピック
第3回セントルイスオリンピック大会(1904年)も、運営上の問題が多く、前回のパリ大会同様、博覧会に人気を奪われる形となりました。大会は5月14日から11月末までの半年間にわたって開催されたとされています。しかし、この大会も「博覧会の付属物のように取り扱われてしまった」とクーベルタンは嘆いていました。
開催地であるアメリカは、当時の欧州諸国から遠く離れていたため、イギリスやフランスなどの国が参加しなかったことも大会の規模を縮小させる要因となりました。参加国はわずか10カ国で、アメリカ選手を除くと参加人員は約60人という寂しい状況でした。
このような経緯から、セントルイスオリンピックは運営上の問題が多く、規模も小さかったとされています。
「第?回 ギリシャ大会」クーベルタンが承認しなかったオリンピックとは?
1906年の中間年オリンピックは、1896年の第1回大会が成功裏に終了し、ギリシャ国民に大きな感動と感激を与えたことから、国王の意向もあり、規模を拡大して開催されました。しかし、この中間年オリンピックは、ギリシャの政情不安や、提唱者であるゲオルギオスⅠ世が暗殺されたことにより、たった1回の開催で終わりとなりました。
当初から、IOCはこの大会に関与せず、クーベルタンもこの大会を認める気がありませんでした。IOCの多くの委員が大会に出席しましたが、クーベルタンはギリシャを訪れることはありませんでした。
その後、クーベルタンの後継者となったIOC会長エイベリー・ブランデージにより、この1906年の中間年オリンピックは正式なオリンピックの歴史から消されることになりました。このため、現在ではこの大会は公式のオリンピックとして数えられていません。
【第4回 ロンドン大会】オリンピックの原型が整った大会
第4回ロンドン大会(1908年)は、オリンピックの原型が整った大会と評価されることが多いです。資金面では、パリやセントルイスと同様に、万国博覧会の一環として開催されましたが、イギリスが「スポーツ先進国」としての理解を持っていたことから、「スポーツ競技大会としての自主性」が担保されました。
この大会では、組織運営体制が初めて確立され、英国の各スポーツ競技団体が運営を担当しました。これにより、大会の運営がスムーズに行われるようになり、より一層の競技の発展が見られました。また、各国からの選手たちも増加し、より国際的な大会となりました。
第4回ロンドン大会は、オリンピックの歴史において重要な位置を占める大会であり、現代のオリンピックの基礎となる要素が整ったとされています。
「勝敗よりも重要なもの」クーベルタンが発信したメッセージ
当時、アメリカとイギリスの対立が激化していました。当時のIOC会長ピエール・ド・クーベルタンは、「勝つことではなく、参加することに意義がある」というメッセージを発信しました。これはオリンピックが勝敗という結果に重点を置くのではなく、理想の人間形成の過程に関わる教育的な活動であることを意味しています。
オリンピックと教育は、本来根本的に結びついたものであり、オリンピックは「理想の人間形成」の場としての役割を担っていました。競技者たちは、単に競い合いのために訓練された特別な人間ではなく、オリンピックの精神に則って努力し、成長し、他者と共に競い合いながら、自己を向上させることを目指していました。
この考え方は、オリンピックの創設者であるクーベルタンが古代ギリシャのアマチュアスポーツの理念に基づいて、近代オリンピックを創立したことに由来します。クーベルタンは、スポーツを通じて人々が自己を磨き、他者との交流や理解を深めることができると考えていました。そして、オリンピックはその理念を体現する場として、世界中の人々に喜びや感動を与え続けています。
【第5回 ストックホルム大会】クーベルタンが目指したスポーツと芸術の融合
オリンピックにおける「芸術競技」の採用は、1906年にクーベルタンがIOCの委員を招集して開催した「芸術と文学とスポーツに関する会議」で決定されました。クーベルタンはスポーツと芸術を統合する必要性を説き、その提案は満場一致で承認され、1912年ストックホルム大会から芸術競技が開始されました。
クーベルタンは古代オリンピックの芸術競技の復活に熱心でした。彼は古代オリンピックにおける芸術作品や、19世紀ギリシャのオリンピア競技祭で行われた芸術展示や競技を学び、スポーツ競技大会に付加価値を与えるための芸術の重要性を認識していました。
彼の芸術競技の構想は「ミューズの五種競技」と呼ばれ、建築、彫刻、絵画、文学、音楽の5部門で実施されました。作品は未公開で、スポーツに関連した題材が求められました。芸術競技の受賞作品は大会期間中に展示や上演され、勝者はスポーツ競技の勝者と同様に表彰されました。
1912年のストックホルム大会で芸術競技が初めて開催された際、クーベルタンは偽名で文学部門に参加し、『スポーツへの頌歌』という作品で金メダルを獲得しました。
芸術競技は1949年に廃止されましたが、その後のオリンピックではクーベルタンの意志が引き継がれ、文化プログラムとして芸術展示や文化活動が行われています。
スポーツと芸術の融合が生んだオリンピックの文化的レガシー
現在のオリンピック大会で行われている「文化プログラム」は、かつての「芸術競技」から始まったものであり、クーベルタンの強い意志がレガシーとして引き継がれています。
クーベルタン男爵はスポーツと芸術を統合し、「教育としてのスポーツ」を重視しました。その結果、近代オリンピックは文化的な意味合いを持つようになりました。
2020年の東京オリンピックでも、「文化プログラム」が実施されました。オリンピックは「スポーツの祭典」として認識されている一方で、現代では「文化の祭典」とも言えるほど、文化的要素が大会に組み込まれています。これにより、オリンピックはスポーツだけでなく、文化や芸術の交流の場としても機能しているのです。
日本のオリンピック参加の始まり
日本では嘉納治五郎がIOC委員に就任したことで、日本のオリンピックへの関与が始まりました。彼はその後、日本にオリンピック運動の普及を促進し、1912年の第5回ストックホルム大会に日本が初めて参加するきっかけを作りました。日本はこの大会に2人の選手、陸上競技の金栗四三(かなくり しそう)と徳永義行(とくなが よしゆき)を送り、日本のオリンピック史が幕を開けました。
ストックホルム大会での日本選手の活躍は決して目立つものではありませんでしたが、この参加が日本スポーツ界に大きな影響を与えました。日本はその後、オリンピックに積極的に参加し、1932年のロサンゼルス大会で初めてメダルを獲得。1936年のベルリン大会では日本選手団が初めて金メダルを獲得しました。
嘉納治五郎の功績は、日本のオリンピック参加の礎を築いたことだけでなく、スポーツを通じた国際交流や、スポーツの普及・振興にも大きく貢献しました。彼の努力により、日本は世界のスポーツ舞台で活躍する国の一つとなり、現在の日本スポーツ界の発展に繋がっています。
【第6回ベルリン大会】戦争の影響で中止になったオリンピック
第6回オリンピックは1916年にドイツのベルリンで開催される予定でしたが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパは激しい戦争状態に陥りました。そのため、開催予定だったベルリン大会は中止となり、戦争が終結するまでオリンピックは開催されませんでした。
戦争が終わった後、1920年にベルギーのアントワープで第7回オリンピックが開催され、オリンピックは再開されました。しかし、戦争の敗北国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは参加が認められず、またソビエト連邦も参加していませんでした。これらの国々の選手は、1924年のパリ大会でオリンピックに復帰することができました。
中立スイスへ本部移転、IOCの変化とクーベルタン会長の戦争への思い
第一次世界大戦の影響は、国際オリンピック委員会(IOC)自体にも大きな変化をもたらしました。本部をパリから中立国スイスのローザンヌに移転させ、ピエール・ド・クーベルタン会長自らがフランス軍に志願して従軍することになりました。彼の動機は、名門貴族としての矜持や、反戦的とされたために発禁された著書への抵抗、あるいは「オリンピックによる平和」という理念が失われたことへの落胆など、複雑なものでした。
「ベルギーでオリンピック復活を」クーベルタンが戦場から帰還
戦争が終わった後、クーベルタンは再びIOCの指導者として復帰し、1920年のアントワープオリンピックの開催を決定しました。戦争によって深い傷跡が残ったヨーロッパ諸国に対し、特に被害の大きかったベルギーのアントワープを開催地に選ぶことで、「平和の祭典」として喜びを分かち合おうという意図がありました。
このアントワープオリンピックは、戦後の傷跡を癒やし、世界の国々が再び平和で友好的な競技会を通じてつながることができる機会を提供しました。オリンピックは、その後も多くの困難に直面しながらも、スポーツを通じた国際理解と友好の促進という原則に基づいて発展を続けています。
【第7回 アントワープ大会】戦火から復興へ、平和と国際連帯の力
1920年のアントワープオリンピックは、戦争の傷跡がまだ生々しい中で開催された平和の祭典であり、多くの新しい伝統が生まれました。クーベルタン自身がデザインしたオリンピック旗が初めて公開され、選手宣誓が初めて行われるなど、現在の五輪に見られる様々な要素が導入されました。これらの新しい伝統は、オリンピック精神の象徴として、平和と復興を讃える祝祭として世界に発信されました。
アントワープ大会は、国際連帯と世界の国々を結び合わせることに最大の意義があるとクーベルタンが確信したオリンピックでした。この大会が成功したことで、オリンピックはその後も継続して開催されることになりました。しかし、クーベルタンがアントワープ大会にかけた強い意志は、オリンピック活動が第一次世界大戦によって中止された1916年のベルリン大会の影響を受け、もし次回の大会が開催できなければオリンピックが消滅しかねない状況にあったことから来ていました。
アントワープオリンピックは、オリンピックが戦争から平和への転換期において、その精神を継承し、世界の国々が再び結束する機会を提供した象徴的な大会であり、今も「平和の祭典」「成功したオリンピック」として称されています。
スペイン風邪がもたらしたオリンピックの危機
さらに世界を襲ったのが、5000万人を超える死者を出したとされる「スペイン風邪」。18年から20年にかけて欧米を中心に何度も感染拡大の波が訪れた。その中でIOCは「復興と平和の大会」として、19年3月に翌年の開催を決定。ドイツの侵攻で壊滅的な被害を受けたアントワープは、終戦直後の18年冬にスペイン風邪の大流行があったが、その後は抑えられていた。
【第8回 パリ大会】汚名を返上!故郷で開催された2度目のオリンピック
1924年の第8回オリンピック大会は、クーベルタンの故郷パリで開催されることになりました。複数の都市が立候補していたものの、クーベルタンIOC会長が第2回大会の汚名を返上するために2度目のパリ開催を希望し、彼の功績に報いるためにパリで開催されることが決定されました。
この大会には44カ国から3,092名の選手が参加し、様々な競技で名選手たちが活躍しました。
イギリスのハロルド・エイブラハムス選手(陸上男子100m金メダル、4×100mリレー銀メダル)やアメリカのジョニー・ワイズミューラー選手(競泳男子100mおよび400m自由形、4×200m自由形リレー金メダル)などがその例です。後に映画「炎のランナー」や「類猿人ターザン」にも登場する選手たちが出場した大会でもありました。
この1924年パリ大会では、初めてオリンピック村(選手村)が使用されました。メインスタジアムのコロンブ競技場の周囲に1軒4名収容できる木造コテージが50戸ほど建築され、日本のような小規模な選手団もこの選手村に滞在しました。
クーベルタン男爵はオリンピックの舞台から姿を消した
ピエール・ド・クーベルタンは、1925年にIOC会長を退任し、それと共にIOC委員も辞任しました。彼はその後オリンピックの舞台に顔を見せませんでした。現会長などの地位が軽視されることを恐れて、自分が顔を出すのを避けていたと言われています。
「理想と現実のギャップ」オリンピックの父が退任した理由
彼がIOC会長を退任した理由は、オリンピック運動が彼の理想とは異なる方向に進んでいることに対する懸念や疲れが原因でした。彼はオリンピックの精神を重視し、スポーツを通じて国際理解を深めることを目的としていたが、当時のオリンピックは徐々にメダル争いや商業主義の影響を受け始めていた。
クーベルタンは1929年に、「もし100年後に転生してこの世に戻ってきたら、自分が一生懸命築き上げた近代オリンピックを破壊するだろう」と述べました。彼は、単なるメダルを競う場になってしまったオリンピックに対して、はっきりと「NO」と言ったのです。これは、彼がオリンピックの本来の精神が失われていることに懸念を抱いていたことを示しています。
退任後も燃え続けたオリンピックへの情熱
実は退任後も、クーベルタンはオリンピック運動に関心を持ち続け、名誉会長として活動しました。彼は筆を取り、講演を行い、喜んで助言を提供しました。
1927年春、ギリシャ政府の招きでアテネを訪れ、「古代ギリシャギムナジウムの再建」について講演を行いました。
さらにアテネからオリンピアへ足を伸ばし、オリンピック大会復興を記念するアルティス(聖域)の入口の柱の除幕式に出席しました。この際に彼が「世界の若者に」と題するメッセージを発表したのです。
ノーベル平和賞を辞退した理由
1936年2月の第35回IOCセッションで、クーベルタンがノーベル平和賞に推薦されることが決定し、その夏には49人のIOC委員が署名した手紙がオスロのノーベル賞委員会に送付されました。
近代オリンピックの創設者であるピエール・ド・クーベルタン男爵は、ノーベル平和賞の候補に挙がり、何度か打診を受けたと言われています。しかし、彼はその受賞を断りました。彼は、人類を破壊する爆薬や兵器で得た富を償いとして与えられる賞が、オリンピックにふさわしくないと考えたからだとされています。
近代オリンピックの父は孤独な最期を遂げる
IOCを引退した後、クーベルタンはジュネーブで静かに暮らし、オリンピックには姿を現さなかった。1937年9月2日、74歳で公園のベンチに座ったまま静かに亡くなりました。
彼はオリンピックという偉大な遺産を人類に残しましたが、晩年は家庭的に恵まれず、オリンピック運動に多くの資産を捧げた後に孤独に亡くなりました。
現代オリンピックの創設者として歴史に名を刻むクーベルタンの遺体はスイスのローザンヌに埋葬されていますが、彼の心臓は遺言に従い、ギリシャのオリンピアに安置されました。
1927年に除幕された記念柱の下の骨壺に、彼の心臓が収められています。多くのIOC委員が列席したその式典で、クーベルタンの心臓は最後の安息地を見つけました。