「ニグロ・リーグ」人種差別の時代……ベースボールリーグは肌の色で分けられていた

アメリカ野球史において、アフリカ系アメリカ人選手がプレーする場が存在しなかった時代、ニグロ・リーグが誕生しました。このリーグは、20世紀初頭から1960年代にかけて、アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人のプロ野球リーグとして活躍しました。

一方で、メジャーリーグベースボールでは、白人しか参加できない状況でした。本記事では、ニグロ・リーグの歴史とアメリカの人種差別の背景を解説し、当時のアフリカ系アメリカ人選手たちの闘いを紹介します。

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ペイジはいかに偉大だったか。抜群の身体能力。シーズン中の投板はほとんど連日。1日に2、3試合の登板。ニグロ・リーグ以外の時期には、中南米の国々、カリフォルニアのウィンターリーグで活躍。そうした生活を少なくとも25年も続けた。ペイジは野球を通じて米国が抱える「矛盾」を浮かび上がらせ、「公民権運動」への道筋を示した。それは野球における「2000勝」よりはるかに大きな功績だった。(「TSUTAYA」データベースより)

Negro Leagues

激しい差別時代のアメリカ「ニグロ・リーグ」

Kansas City PBS/YouTube

ニグロ・リーグ(Negro Leagues)は、アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人がプレーするプロ野球リーグの総称で、20世紀初頭から1960年代にかけてアメリカ合衆国で活動していました。

当時、アメリカのプロ野球は人種差別がはびこり、メジャーリーグベースボール(MLB)は白人しか参加できない状況でした。そのため、有能なアフリカ系アメリカ人選手たちは、彼ら自身のリーグであるニグロ・リーグでプレーすることになりました。

南北戦争後のアメリカ!奴隷解放のはずが継続する黒人差別

南北戦争が1865年に終結し、奴隷制度は廃止されましたが、その後もアフリカ系アメリカ人は人種差別や社会的な不平等に苦しめられました。

戦争の終結後、アメリカ合衆国憲法の修正が行われ、奴隷制度の廃止(第13修正)、アフリカ系アメリカ人に市民権の付与(第14修正)、および選挙権の保証(第15修正)が定められました。

しかしながら、南部諸州では、元奴隷やその子孫が社会的・経済的な地位を向上させないようにする法律や規制が制定されました。

人種差別の法案「ジム・クロウ」によって メジャーリーグから排除

1880年代までには、一部のアフリカ系アメリカ人選手が白人選手と一緒にメジャーでプレーしていました。しかし、アメリカ社会で人種差別が増加し、特に南部諸州ではジム・クロウ法が施行されることで、アフリカ系アメリカ人の公共施設利用が制限され、人種隔離が始まりました。

この時期、野球も例外ではなく、人種隔離が進んでいきました。1890年代に入ると、アフリカ系アメリカ人選手は次第にメジャーリーグから排除され、1900年までには完全に姿を消しました。

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全米各地に黒人チームが誕生

1900年代初頭、アフリカ系アメリカ人選手たちはメジャーリーグでプレーする機会を得られず、全米各地で黒人チームが誕生しました。これらのチームは、独自のリーグであるニグロ・リーグの設立へとつながり、アフリカ系アメリカ人選手たちに競技の場を提供しました。

1919年には、アメリカ国内でいくつかの人種暴動が発生し、特にシカゴやワシントンD.C.などの都市で緊張が高まりました。しかし、その後の時代、特に1920年代には、アフリカ系アメリカ人の文化が急速に発展しました。この時期は「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれ、文学、音楽、美術、演劇などの分野でアフリカ系アメリカ人の創造力が注目を集めました。

「ニグロリーグ」発足

1920年2月に、アフリカ系アメリカ人の野球チームのオーナーたちがカンザスシティで集まり、ルーブ・フォスターの呼びかけにより、「ニグロリーグ」が設立されました。ルーブ・フォスターは、選手兼監督として活躍し、後に球団オーナーとしてアフリカ系アメリカ人野球選手たちに機会を提供したことから、「黒人野球の父」と称されることがあります。

「ニグロ」という言葉は、1900年代初頭にはアフリカ系アメリカ人たちによって自分たちを指す言葉として好んで使われていました。当時、「ニグロ」は、スペイン語やポルトガル語で「黒」を意味する「ネグロ」から派生した言葉で、アフリカ系アメリカ人の間で広く受け入れられていた用語でした。

ニグロ・リーグの設立者たちは、この言葉を誇りを持って名前に使用し、リーグの名称として採用しました。彼らの目的は、アフリカ系アメリカ人選手たちにプロフェッショナルな競技の場を提供し、彼らの才能を世界に示すことでした。その意味で、ニグロ・リーグは、当時のアフリカ系アメリカ人にとって大きな自信と誇りの象徴でした。

ただし、現代では「ニグロ」という言葉は時代遅れとされ、差別的な意味で捉えられることがあります。現在では「アフリカ系アメリカ人」や「ブラック」という言葉が一般的に使用されており、歴史的な文脈を理解しながら、適切な言葉を使うことが重要です。

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メジャーほど華やかではないが各地を巡業

ニグロリーグは、資源や設備に関してメジャーリーグと比べると劣っていました。しかし、アフリカ系アメリカ人選手たちは、困難な状況の中でも競技の場を求め、野球を続けるために努力しました。

ニグロリーグのチームは、メジャーリーグ球団が遠征中に空いたスタジアムで試合を行うことがよくありました。また、彼らは地方都市や中米諸国に巡業し、試合を開催してファンと触れ合い、リーグの運営資金を得るために努力しました。このような活動は、アフリカ系アメリカ人選手たちがプロとしてのキャリアを築く上で重要な役割を果たしました。

ニグロリーガーが来日!!

1927年には、ニグロリーグのフィラデルフィア・ロイヤル・ジャイアンツが日本を訪れ、日本の野球チームと親善試合を行い、圧倒的な強さを見せました。彼らは、三田倶楽部や同志社大学、関西大学などと24試合を行い、23勝0敗1分の成績で日本チームを圧倒しました。

公民権運動によってついに「ジム・クロウ法」が撤廃!!

ローザ・パークスやマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、アフリカ系アメリカ人の公民権運動の主要な指導者でした。彼らは、黒人差別を撤廃し、公民権を保障するために立ち上がり、多くの人々がこの運動に参加しました。

ローザ・パークスは、1955年にアラバマ州モンゴメリでバスの座席を差別的な法律に従って白人に譲ることを拒否し、逮捕されました。これがきっかけとなり、モンゴメリ・バス・ボイコットが始まり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が指導者として運動に参加しました。

キング牧師は、非暴力抵抗を原則とし、平和的なデモンストレーションを通じて人種差別に反対する声を上げました。彼のリーダーシップのもと、公民権運動は全米に広がり、ついに1964年に公民権法が制定されました。

公民権法は、人種、宗教、性別、国籍に基づく差別を禁止し、公共施設の利用や雇用機会の平等化を求めました。これにより、ジム・クロウ法などの制度的な差別が撤廃され、アフリカ系アメリカ人に対する人権状況が大きく改善されました。

アフリカ系アメリカ人の野球選手「ジャッキー・ロビンソン」がメジャーで活躍!

1947年、ジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースに入団し、メジャーリーグでプレーしたことは、野球史において非常に重要な出来事でした。ロビンソンは、ニグロリーグのカンザスシティ・モナークスで活躍していた選手で、彼のメジャーリーグデビューにより、アフリカ系アメリカ人選手がメジャーリーグでプレーする道が開かれました。

彼のデビューは、人種障壁の破壊という大きな意義を持っていました。彼がメジャーリーグでの成功を収めることで、他のアフリカ系アメリカ人選手たちにもチャンスが与えられるようになりました。

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メジャーに次々と選手が流出…。「ニグロ・リーグ」が消滅

ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグでの成功を収めると、他のメジャー球団もアフリカ系アメリカ人選手の獲得に興味を持ち始めました。彼らは、ニグロリーグに所属する才能ある選手たちを次々と引き抜いていきました。

その結果、ニグロリーグの競争力は次第に低下し、1948年にはニグロ・ナショナル・リーグが解散を余儀なくされました。その後もニグロ・アメリカン・リーグは存続しましたが、選手の流出が続き、1960年に最終的に消滅しました。

ニグロリーグの消滅は、一方でアフリカ系アメリカ人選手たちがメジャーリーグで活躍する機会が増えることを意味しました。これにより、野球界における人種の隔たりが徐々に縮まり、多様性が増すことにつながりました。ニグロリーグの選手たちがメジャーリーグで活躍することで、野球史に名を刻む選手も多く現れました。

重要な野球史を今に伝える「ニグロリーグ野球博物館」

ニグロリーグ野球博物館は、アフリカ系アメリカ人がプレーしたニグロリーグの歴史を保存し、伝えるために設立されました。1991年に始まったこの博物館は、1997年11月にカンザスシティの文化複合施設内に移転し、さらに規模を拡大しました。

2006年7月には、アメリカ合衆国議会から「アメリカンナショナル 黒人リーグ野球博物館」(America’s National Negro Leagues Baseball Museum)の称号を授与される名誉を受けました。これは、ニグロリーグ野球博物館が、アフリカ系アメリカ人の野球史を継承し、広めるための国家的なシンボルであることを意味しています。

博物館では、ニグロリーグの歴史や選手たちの偉業を展示し、訪れる人々にその貴重な歴史を伝えています。また、博物館は地域社会とも連携し、教育プログラムやイベントを通じて、野球界におけるアフリカ系アメリカ人の貢献を称えています。

Negro Leagues Baseball Museum/YouTube

「ニグロリーグ 創設100年」メジャーが祝福

2020年8月16日は、ニグロリーグ創設100周年を記念するイベントが米大リーグで開催されました。この日、全球団の選手、監督、コーチ、審判員が、左胸に記念のパッチを付けて試合に臨みました。これは、ニグロリーグの歴史と選手たちの偉業を称え、野球界における人種差別の撤廃と平等の実現を祝うための取り組みでした。

また、カンザスシティのニグロリーグ野球博物館のボブ・ケンドリック館長が、オンライン始球式を行いました。これは、博物館とニグロリーグの歴史を称えるとともに、現在の野球界とその歴史のつながりを強調するための象徴的な行為でした。

このイベントは、米大リーグがニグロリーグの歴史とその選手たちの偉業を尊重し、野球界における人種差別の撤廃と平等の実現を推進する意義深い取り組みを示すものでした。

「#TipYourCap2020」各界の超名人が祝福

アメリカの元大統領やスポーツ界、芸能界のスターたちが、ニグロリーグ野球博物館の “#TipYourCap2020” キャンペーンに参加し、ニグロリーグ創設100周年を祝いました。このキャンペーンは、ニグロリーグの歴史と選手たちの偉業に敬意を表し、野球界における人種差別の撤廃と平等の実現を祝うために行われました。

参加者たちは、SNSなどで帽子に手をかける(帽子を脱ぐ)ジェスチャーを行い、その写真や動画を投稿しました。これは、過去のニグロリーグ選手たちに対する敬意と感謝の意を示す行為であり、多くの著名人が参加することで、より多くの人々がニグロリーグの歴史や選手たちの偉業について学び、理解を深めるきっかけとなりました。

Tipping Your Cap/YouTube

ニグロリーグがMLBの公式大会として認定

2020年12月16日、MLBは、1920年から1948年まで開催されたニグロリーグ(黒人リーグ)をMLBの公式大会として認定すると発表しました。MLBは「認定するのが遅くなりすぎた」とし、ロブ・マンフレッドコミッショナーは次のように述べました。

「1920年~48年に行われた7つのプロのニグロリーグに対して、MLBと同等の地位を与える。この決定を受け、この期間にプレーした約3400人のニグロリーグの選手を新たにメジャーリーガーに認定し、彼らの記録も、メジャーリーグの一部となる」

MLBがニグロリーグを公式大会として認定したことにより、1920年から1948年の間にニグロリーグでプレーした約3,400人の選手が「メジャーリーガー」と認定されました。

CNBC Television/YouTube
「歴史的な認定だ」ニグロリーグ博物館の館長が表明

ニグロリーグ野球博物館のボブ・ケンドリック館長は、ニグロリーグがMLBと同等の地位を与えられたことについて、「歴史的な認定であり、メジャーリーグから疎外されてきた人々にとって重要な意味がある」とコメントしました。

彼はまた、ニグロリーグの創設者たちが競技や国の歴史に大きな影響を与える先見の明と勇気を持っていたことを強調しました。

2020年夏には、ブラック・ライブズ・マター運動が高まる中で、ニグロリーグの歴史に対する正当な評価を求める声が増えていました。この認定を受けて、ミズーリ州のニグロリーグ野球博物館などで保存されていた記録と、メジャー公式記録の統合作業が進められることになります。

これにより、ニグロリーグの選手たちの偉業がより広く認識され、野球界における平等の実現に一歩近づくことが期待されています。

実はメジャーよりもニグロリーグのほうがレベルが高かった!?

ニグロリーグは、当時の人種差別が強かった時代に、アフリカ系アメリカ人選手たちがプレーする場として存在しました。多くの才能あふれる選手たちがニグロリーグで活躍し、そのレベルは非常に高かったとされています。

一部の評論家や関係者は、ニグロリーグの競技レベルがメジャーリーグと同等、あるいはそれ以上であったと主張しています。

大リーグの関係者も、ニグロリーグの選手たちの才能に注目しており、彼らを獲得しようとする動きもありました。しかし、当時の社会の人種差別の壁が高く、実際には選手を獲得することが困難でした。

その後、ジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューを果たし、アフリカ系アメリカ人選手たちの大リーグでの活躍が始まりましたが、それまでの長い間、ニグロリーグは優れた選手たちがプレーする舞台であり続けました。そのことは、ニグロリーグが高い競技レベルを持っていた証拠と言えるでしょう。

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ペイジはいかに偉大だったか。抜群の身体能力。シーズン中の投板はほとんど連日。1日に2、3試合の登板。ニグロ・リーグ以外の時期には、中南米の国々、カリフォルニアのウィンターリーグで活躍。そうした生活を少なくとも25年も続けた。ペイジは野球を通じて米国が抱える「矛盾」を浮かび上がらせ、「公民権運動」への道筋を示した。それは野球における「2000勝」よりはるかに大きな功績だった。(「TSUTAYA」データベースより)

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