《日本プロ野球時代のイチロー》日本プロ野球最後の年!メジャー挑戦の舞台裏(2000年)

2000年、日本プロ野球の頂点に君臨していたイチローは、新たな挑戦への道を模索していました。

この年、イチローの野球人生において重要な決断が行われます。それがメジャーリーグです。

《日本プロ野球時代のイチロー》スランプ脱出のきっかけとなったセカンドゴロ(1999年)
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2000年、メジャーリーグ挑戦直前のインタビューから、2019年3月、現役引退直後にシアトルの自宅で行われたロングインタビューまで。スポーツ総合誌Numberを中心に20年間、100時間を超える単独インタビューを完全収録した、イチロー本の決定版。(「Books」出版書誌データベースより)

Orix BlueWave in 2000

2000年 オリックス・ブルーウェーブ

THE TORNADE PITCH/YouTube

オリックス・ブルーウェーブは1995年と1996年にチームが連覇し、日本一に輝いた後から徐々に低迷し始めました。

しかし、イチローは毎試合のようにヒットを放ち続け、首位打者のタイトルを獲得することが当たり前のようになっていました。この頃になると、ファンの感覚が麻痺し始めていました。

阪神・淡路大震災が起こった後、常に満員だった本拠地グリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)や、“エリア51”と呼ばれた右翼席にも空席が目立ち始めました。

イチローがメジャー挑戦を見据えていたこともあり、この年のイチローは自分自身との戦いを強いられていました。

100%完璧を目指して磨き続けるイチローの姿

この頃のイチローは、ピッチャーがまともに勝負をしれなくなっており、ボールを強く弾ける感覚が失われてしまいました。

ヒットを打っても、心の中は晴れず、フラストレーションが溜まっていきました。

ただ結果を求めるバッターであれば、首位打者という名誉だけで満足できたかもしれませんが、イチローは強い打球を求める本能を持つバッターであり、そのストレスがイチローを「どん底」という精神状態に追い込んでいったのです。

しかし、1999年4月に一本のセカンドゴロを打った瞬間、イチローは自分が探していた感覚を見つけることができました。それがきっかけで、1999年と2000年のシーズンは自信を持って打席に立つことができました。

「ミスなく表現できるかどうか」

「一度わかれば、頭のイメージは逃げないと思う。あとは、体がそれをいかにミスなく表現できるかどうか、です」

イチローは、1999年4月に捉えた感覚を磨き続けていました。イチローが言う「静止前」のイメージを頭で理解できれば、次の段階である「静止後」の動作は肉体的な問題になります。

体のどこかに力が入ってミスが出るのは、普段とは違う邪念が出た時だとイチローは言います。これらは精神的な問題から派生する肉体的な問題です。しかし、人間である以上、ミスを100%なくすことはできません。

この年のオープン戦でイチローは、史上最高打率.548を記録しましたが、特に驚くべき数字ではありませんでした。

自分自身の打ち損じを減らす

イチローは1999年4月に見つけた感覚を、「打率4割の可能性」と「相手の投げる球の70%を捉えられる自信」と例えて、以下のように説明しています。

  • 野球というスポーツにおいて、バッターには「6割は失敗してもいいよ」とある種のハンデが与えられている。
  • 好打者と呼ばれる打率3割を維持するためには、失敗の確率を6割〜7割の中で抑えればいい。

イチローは、自分自身ではピッチャーの球を70%捉えられると思っているものの、実際にはその半分ほどしかヒットにできていないといいます。

それはただ打てないからではなく、打ち損じているからだと考えました。この打ち損じが半分もあることに対して、イチローは非常に悔しさを感じていました。

これは自分自身の問題であり、自分と戦い打ち損じを減らせば打率は確実に上がると確信を持っていました。

イチローは「凡退」を、敵ピッチャーにやられたというよりも、自分の打ち損じのせいであると定義し、「自己との戦い」を避けられない状況に自ら身を置いていました。

振り子打法の進化と挑戦

イチローの代名詞のようになっていた振り子打法ですが、実際にはその打ち方は年々変化していました。

右足の上げ方が徐々に小さくなり、体の使い方も大きく変わっていったのです。この変化は「進化」とされてきましたが、実際にはイチロー自身が試行錯誤を重ねた結果の変化だったといえます。

この変化は飛距離にこだわらず、少しでも早く地面にたどり着く鋭いライナー性の打球をイメージしていた結果でした。

強く速い打球を放つための試行錯誤

イチローにとっては、打球が失速せずに遠くへ飛んでいくことが理想であり、その結果として遠くへ飛ぶほど良いという考えを持っています。

そのためには、ボールを強く弾かなければなりません。なぜなら強く弾かれた打球は速く、遠くへ飛ぶからです。

イチローは、自身の理想的なバッティング感覚を追求するために、自身のバッティングフォームや体の使い方を絶えず試行錯誤してきました。

これにより、イチローのバッティングスタイルは年々変化し、独自の進化を遂げていきました。

ケン・グリフィーJr.のフォームを真似た1998年

1998年には、イチローは憧れの選手であるケン・グリフィーJr.のフォームを真似て、背筋を伸ばし、グリップの位置を通常より高く構え、振り子をやめてすり足にしたこともありました。

この構えでその年は135試合に出場し、打率.358、13本塁打、71打点、11盗塁という成績を残しました。

試行錯誤を続けるイチローに新井打撃コーチは見守る

「あまり良い打ち方ではないと分かっていたが、本人が納得いく打ち方、思うようにやらせてあげていいのではと、黙認していた」とイチローの打撃の師である新井打撃コーチは語っています。

新井氏は変化後の打撃フォームによって、イチローの持ち味であったしなやかさが失われ、全体的に固さが出てしまっていると感じました。

さらに、外のボールをセンターからライト方向へ飛ばすことが多くなり、打撃に力強さを求めていたようだとも感じていました。

新井氏は、イチローが世間の噂通りメジャーを目指しており、球団側もそれを容認していることを知っていました。

それは日本人野手として初めてのメジャー挑戦という、未知の領域でした。

だからこそ、イチロー自身が自分の力で切り開こうとしている姿を見て、自分は口を出すべきではないと考えたのです。

イチローの肉体改造と進化

理想の打撃を追い求めるイチローは、感覚だけでなく体格も進化させることに努めました。

よりやわらかい筋肉が必要だと考えたイチローは 昨シーズンのオフから肉体改造に多くの時間を費やしてきました。

現状維持で良いという安易なトレーニングを方法を全面的に見直し、疲労の残りにくい新たなトレーニングに取り組み始めました。

瞬発力を引き出す筋肉

それは、オフの時にロサンゼルスでトレーニングをしていた際のある出来事が関係しています。

ある日トレーニングをしていたイチローは、現地に住む日本人ボディビルダーでありプロのトレーナーと知り合いました。

そして彼と偶然同じジムで練習していたイチローは、自分のマシンの使い方が甘かったことを指摘され、全身の筋肉の鍛え方とそのための方法論を習いました。

それまでの自己流の方法では進歩しないことに気づかされ、彼が教えてくれたトレーニングを行なってみると、自分の体の未熟さが痛いほど分かったといいます。

その中でもイチローは、瞬発力を引き出す筋肉に注目しました。

スピードと力強さを兼ね備えた打撃

イチローは、俊敏で鋭利な動きが自分の目指す野球に不可欠であり、筋力トレーニングを行っても、体の切れが失われることがないように細心の注意を払っており、体が大きくなっても動きが鈍くならないことを最も重要だと考えています。

肉体改造の結果手にしたもの

このような考えのもとで、イチローは肉体改造に励みました。

そうして作り上げられたイチローの筋肉の厚みは見る者を圧倒し、2000年には、イチローの体重が78kgにまで増え、胸囲は1mを超え、上腕部も前年より3cm太くなりました。

しなやかさを増した肉体の変貌がイチローの自信の一端を支えています。

筋力とスピード共存

今では、筋力を付けてもスピードが落ちないことを身をもって知ることができました。

イチローが放つ弾け飛ぶ打球の軌跡は力強く、伸びやかで、圧倒的な飛距離を稼いでのホームランはイチローの身体能力急上昇の証拠となっています。

また、イチローは7回、8回を迎えてもバテない体になっていると述べており、過去5年間で首位打者を取った時でさえ、試合途中で痩せていく感覚があったといいます。

それに比べ、今年は肉体改造により試合終了後も余力があり、それが戦う上での余裕につながっているとイチローは語っていました。

どこまで鍛えればいいのか

一方、イチローは自分の肉体に関して未知の領域に入り込んでいると感じており、どこまで鍛え、筋肉を成長させていくのか模索しているところでもありました。

脱振り子打法

このように、イチローはバッターとして未知の領域を一人進む中で、体格だけではなく表情にも変化がしていきました。

イチロー顔には髭が生え、かつての少年のような幼さは完全に消え去りました。肉体改造を通じて体の幹に力を蓄えたイチローは、もはや振り子打法は必要なくなっていました。

4番・イチロー

今年のイチローの目標は、もちろん、「7年連続首位打者」でした。

かつて張本勲選手が日本プロ野球史上最多となる7度の首位打者を獲得していたが、もしイチローがこの年も首位打者を獲れば、その記録に並ぶこととなります。

このような状況の中で仰木監督は、イチローをチームの「4番」に据えることに決めました。

それまで、イチローは基本的に1番や3番を打っていましたが、2000年のオリックス打線の中で、最も頼りになる打者はイチローであると、仰木監督は判断したでした。

4番には貫録が必要?イチローが語る4番の姿

イチロー自身は、4番のタイプではないと抵抗感を持っており、次のように説明しています。

「見栄えという点ではよくないですね。4番というチームの中心として相手を威圧する雰囲気。打った後に表情に出ない貫録が僕にはないですから」

「4番には見栄えが必要なんです。そういう意味で、僕でいいのかって(笑)。4番の見栄えというのは、成績とは別のものなんです。僕の価値観で言えば、絶対に感情を表に出さないってこと。例えばホームラン性の当たりを打った直後、くやしくて仕方がないのに、それを表情にまったく出さない、それが4番の風格だと思うんです」

それ上でイチローは、「でも、監督がそれでいいというんだから、やるけどね」と4番を打つ決意を表明しました。

仰木監督の4番打者像

このイチローの考えに対して、仰木監督の見方は違っていました。

仰木監督は、「意外なときに本塁打を打って、後は三振というのではダメだ。好機にしっかりバットの芯でとらえる。外野フライでも内野ゴロでもいい」という考えの中で、イチローは最も頼れる4番だとしたのです。

今や長距離も狙えるバッターに成長

今やイチローはそれ以上の打力をもつ選手に成長し、打撃練習で力強く振り抜いたバットから放たれる打球は、神戸の空に突き刺さる勢いで伸びていきます。

イチローは速く、ドライブのかかった、地面に一刻も早く辿り着くような打球を打ちたいと考えていました。

今ではその打球が、肉体改造や技術力の向上によって、そのまま伸びをていき、外野スタンドまで軽々と届いてしまいます。

これは、イチローが長距離を打つこともできるバッターとしても成長し、力強い打撃を見せるようになった証拠でした。

4番に座ったイチローが狙う打率4割

こうして、今シーズン仰木監督の意向で、4番に座ったイチローは凄まじい成績を残していきます。

開幕戦の4月12日のロッテ戦から始まり、「17試合連続安打」を記録するなど、猛打を炸裂。4月の成績は「月間30安打」で、4月末の時点で打率.385と、驚異的な数字を記録しました。

5月もイチローの好調は続き、「月間28安打」を放ち、打率をさらに上昇させました。

そして、6月に入ってもイチローの打撃は衰えることがありませんでした。6月10日の日本ハム戦(神戸)でついに打率.400に到達しました。

オリックスは負け続けていたため、仰木彬監督は「俺も途中からそれだけが楽しみだったよ」と少しおどけた表情で語っていました。イチロー本人は「手ごたえですか。ふつうです」とそっけない態度で会見に応じていました。

最終的にイチローは6月に「月間31安打」を放ち、6月終了時点で、打率.394という驚異的な数字を叩き出しました。

遂に日本プロ野球史上初の「打率4割」達成が現実味を帯び始め、これまでイチローに慣れていた世間が騒ぎ始めました。

2000年の「イチロー VS 松坂」

そんな中で、2000年のイチロー対松坂の対決も注目されました。

今シーズンの初対決は、4月7日からの3連戦で早くも実現。

イチローは、松坂大輔投手との対決について、「去年と違って、今年の大輔へのモチベーションは、純粋に彼の球の力によって呼び起こされています。楽しみですよ。今年のイメージはまだ何もない状態だから、まずは去年のイメージで臨むことになる。対戦してみて何か幅が広がっていればそれに対応できるように持っていきたい」と語りました。

昨季の初対決でイチローが松坂投手から3連続三振を喫した後、松坂投手はイチローから一度も三振を奪えませんでした。

グラウンドとプライベートの二面性

二人は、グラウンドでは熾烈な勝負を繰り広げる一方で、プライベートでは友情を築いていました。

ある日、松坂氏にイチローに聞いてみたいことがあるか記者が尋ねたところ、「イチローさん、オリンピック、どうするんですかねぇ」と真剣に答えた後、「まぁ、結婚生活はどーですかってマツザカが言ってましたって、そう聞いた方がおもしろいな(笑)」と茶化すように続けました。

その言葉を記者がイチローに伝えると、少しは嬉しそうな顔をして言いました。

「結婚生活?何それ、アイツ、茶化してるんですよ(笑)。だって大輔はそれを聞いたからって、どうってことないじゃないですか。ナマイキだよなぁ、まったく(笑)。ふざけてんですよ。お前も偉くなったなって、大輔にそう言っておいて下さい」と答えました。

このように、イチローと松坂大輔氏はグラウンドではヒリヒリとした緊張感あふれる勝負を展開しながらも、プライベートでは仮面を外し、子供のような無邪気さを見せていることが分かります。

日本での通算成績

この二人の日本での通算成績は、34打数、8安打、1本塁打、4三振、1四死球、打率.235となりました。イチローがこの年メジャー挑戦を表明したことで、日本での対戦は終焉を迎えることになりました。

伝説的なワンバウンド打ち

2000年、日本プロ野球界は、イチロー選手の手によって、また一つの伝説が生まれる瞬間を目の当たりにしました。

5月13日、グリーンスタジアム神戸でのロッテ戦、ロッテの後藤利幸投手が2-1から投げたボールは、ベース手前でワンバウンドしました。

しかしイチローは、まるでゴルフのスイングのような軌道でバットを出し、ワンバウンドのボールを見事に捉えヒットしてしまいました。

この曲芸のようなヒットに、イチローは一塁ベース上で苦笑い、オリックスの高畠打撃コーチは、「彼にしかできないよ」と言いました。

一方で悔しそうなのは、仕留めたと思った橋本投手と後藤捕手のバッテリーでした。

橋本投手は、「フォークを投げましたが、バットが届きそうもない低めを狙ったんです。狙いよりもずっと手前でワンバウンドしたのですが、振ってきたんでやったと思ったんです」と語っていました。

オールスターで輝くイチロー

2000年のオールスターゲームでは、イチローはファン投票で115万7018票を獲得し、6年連続で両リーグ最多得票となるトップ当選を果たしました。

イチローは、人気・実力ともにプロ野球の第一人者であると誰もが認める存在でした。そして、結果としてではありますが、この年がイチローにとって日本では最後のオールスター出場となりました。

この年のオールスターで、イチローは地元開催となった7月23日のグリーンスタジアム神戸での第2戦で、4打数4安打を放ち、長崎で行われた第3戦では、3ランホームランを放つなど、3試合合計で11打数7安打と打ちまくりました。

さらに、オールスタータイ記録となる9試合連続安打を放ったときに、一塁コーチをしていた松坂大輔氏はイチローに拳を当てて祝福しました。

イチローのオールスターでの成績は7年連続で計17試合に出場し、通算71打数28安打の打率.394。これは清原和博氏、落合博満氏の打率.365を大きく上回るオールスター歴代最高打率(50打数以上の選手を対象)となっています。

日本での最後の打席は故障で終了

その後、一度打率が下がったものの、イチローは再び4割に到達し、結局1994年の自己最高記録を更新して、7月30日の74試合目まで4割の記録を維持しました。

8月もイチローは31安打を放ちましたが、8月27日のロッテ戦で、3回に三塁線にファウルを打った際に右脇腹を痛め、そのまま退場しました。これがイチローの日本での最後の打席となりました。彼はその後、長期離脱を余儀なくされ、シーズン後半の出場は叶いませんでした。

イチローは、8月に入って打率4割を割ったものの、97試合終了時点で打率.398、102試合終了時点で打率.392を記録するなど、100試合を過ぎても打率3割9分台をキープし、その後の打撃次第でまだ打率4割を狙える位置にいました。

【緊急記者会見】イチローがついにメジャーに移籍!?

2000年10月12日午後2時、オリックスの球団事務所から発表されたプレスリリースにより、イチロー選手と岡添裕社長が緊急記者会見を行うことが伝えられました。

これにより、「メジャー移籍か?」と世間が騒然となりました。

そして、記者会見が開かれると、イチローが日本プロ野球に別れを告げ、メジャーリーグへ挑戦することが正式に発表されました。

イチローは、「年齢、肉体的なことを考えると、できるだけ早く行きたかった。その可能性が出てきたことを非常に喜んでいます」と語りました。

岡添裕球団社長は、「イチロー君が抜けたら観客動員で大きな影響が出る。大丈夫じゃない。球団ができた時にイチロー君はいなかったわけだから、まあかぐや姫のような存在だったと思って、頑張っていくしかない」と、急に消えて目の前からいなくなるスーパースターに対する未練を口にしました。

オリックスがポスティングシステムを容認

イチローは1995年にオーストラリアへのリーグ優勝旅行の際に立ち寄った米国で、ロサンゼルス・ドジャースのオマリー会長に「この腕が倍くらい太くなったらメジャーに挑戦したい」と夢を語っていました。

それから5年の月日が経ち、ついにオリックスはイチローの大リーグへのポスティングシステム(入札方式)による移籍交渉を容認することを発表。

2001年にイチローがFA権を取得するよりも1年早く、メジャー挑戦をオリックスは認めたのです。

夏には正式に決めていた

実際の所オリックスは、イチローのメジャー挑戦を夏頃には認めており、球団幹部は米国のコミッショナー事務局に「来年はイチローがこちらへ行く」と表明し、あいさつまで済ませていました。

仰木彬監督、イチロー、球団首脳は、イチローがオリックスに残留の可能性についての話し合いをもっと早い段階から行っていました。

これは「周囲の雑音や憶測を排除するため」で、マスコミに騒がれることを避けるために秘密裏に進められていました。

地元・神戸で鳴り響く「イチローコール」

会見の翌日の2000年10月13日、イチローはグリーンスタジアム神戸で行われたペナント本拠最終試合となる西武戦に出場し、日本を離れメジャーリーグに挑戦する前に地元神戸のファンに最後の別れを告げました。

8月27日のロッテ戦での戦線離脱、47日ぶりに1軍に復帰したイチローは、まだ痛みが完治していなかったものの、9回にライトの守備固めで登場しました。

イチローの登場に、球場に詰めかけた2万6000人のファンから大きな拍手と歓声が沸き起こりました。

横断幕には、「イチロー、ありがとう!!」「メジャーに行っても、頑張れ!!」「神戸を忘れないで」と書かれており、ファンは皆、イチローに大声援を送りました。

イチローは、堪える涙で両目が真っ赤に充血している様子で、「今ある現実をしっかり焼き付けた。昔を思い出すと、下を向いちゃいそうだから」とこの先へ一人で向かう決意を述べました。

試合終了後、イチローはイチローコールに背中を押されもう一度グラウンドへ戻りました。

オリックスはこの年4位に終わりましたが、スタンドからは罵声ではなく惜別の「イチローコール」が鳴り響いていました。イチローは、硬式球を9個ほどスタンドに投げ、一礼。

さらにイチローは、「神戸のファンは、本当に温かくて…。良いプレーをしたら拍手をしてくれて、不甲斐ないプレーをしたら、ちゃんと叱ってくれる。神戸のファンは、本当の野球ファンでした。僕を育ててくれました。その中でプレーできたことを誇りに思います」と感謝の言葉を述べ、ファンに手を振り、別れを告げました。

最後にイチローは、「恩師」仰木監督と握手し、「頑張って来い!!」と力を込めて激励されました。

私たちはイチローの凄さに慣れてしまった

この最後の試合は、日本の野球史に残るものとなりました。しかし、本拠地が3万5000人収容可能なのにもかかわらず満員にはなりませんでした。

今となっては考えられないことですが、いつの間にかイチローの凄さに慣れてしまっていたからでした。

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メジャー挑戦に向けた厳しい準備と

2000年のシーズンを最後にメジャーに移籍するイチローでしたが、メジャーの過密な日程に備えて、シーズン中にある実験を行っていました。

それは、選手にとって体力的に厳しい「ナイター明けのデーゲーム」に、わざと一睡もせずに臨むというものでした。

チーム関係者は「十分な睡眠が取れない時、まったく寝ずに試合に出るとどうなるのか、試していたのかもしれません。メジャーの日程はもっと大変なので想定していたんでしょう」と見ていました。

過酷な状況に身を置き、体の負担を確かめたかったのでしょう。

前人未到の道を切り開く孤独な戦い

結果を出しても現状維持ではいられないイチローは、打撃コーチすら介入できないような境地に達し、試行錯誤を続け、感覚をつかむまで黙々とバットを振り続けていました。

かつてチームメイトだった野田浩司氏に次のように話したことがあったという。

「首位打者を取ることは自分の中で怖いことでもある。相手はそれ以上、警戒してくるし、今年と違うことをやってくる。自分も変えていかないといけない」

国民的スター選手でありながら修行僧のようにストイックに打撃を突き詰めていくイチローの姿勢に、球団は気を使い、仲間との距離ができることもありました。

この頃のイチローは気づけばチーム内で孤立していたといわれています。

7年連続首位打者!イチローが残した輝かしい成績

2000年、日本プロ野球でプレーする最後の年となったイチローは、結果的に2000年8月24日の日本ハム戦で、高橋憲幸(日本ハム)から放った通算1278安打目が、イチローが日本プロ野球の公式戦で放った最後の安打となりました。

それでも105試合に出場し、自己最高の打率.387を記録し、パ・リーグ史上最高打率を達成しました。最後まで出場していたら、日本唯一の4割打者になっていたと考えられます。

さらにイチローは7年連続首位打者を達成し、張本勲氏と並ぶ歴代最多タイの7度目の首位打者を獲得しました。ベストナインとゴールデングラブも7年連続で獲得しました。

最終的に9年間日本のプロ野球で活躍したイチローの日本通算成績は以下の通りです。

  • NPB通算で951試合出場
  • 3619打数1278安打
  • 打率.353 (首位打者7回)
  • 118本塁打
  • 529打点(打点王1回)
  • 199盗塁(盗塁王1回)

また、最高出塁率・最多安打各5度、MVP3度、ベストナイン・ゴールデングラブ各7度、オールスター出場7回という輝かしい実績を達成しました。

【移籍の舞台裏】大人の事情ため?球団側の思惑

このような活躍により、年棒は次第に増加し、最終的に5億円に達しました。

しかし、観客動員が減少し続ける中で、オリックス球団はそのような高額な年棒を続けることが困難と判断し、これ以上上げることができなくなってしまいました。

オリックスの懐事情とイチローの気持ちの一致

前年イチローが6年連続で首位打者を獲得し、国内の投手の中で闘争心を刺激する存在が西武の松坂大輔投手くらいだったため、イチローが物足りなさを感じてフラストレーションを抱えていることをオリックス球団も理解していました。

このような背景の中で、イチローがもしFA権を取得すればアメリカに渡ることは明白でした。その場合オリックスはスーパースターイチローを無料で放出することになってしまいます。

そこで、オリックスはFA権を得る前にイチローにメジャーリーグへの挑戦を許可し、代わりに入札を通じて交渉権を持つ球団を決定し、その球団から交渉料を受け取ることを選択したのです。

これにより、オリックスは事実上の移籍金を受け取ることになりました。

どの球団にも共通することですが、オリックスは企業であり、慈善事業を行っているわけではありません。

看板選手を放出する際にはそれに見合った見返りを求めることが企業としての正しい論理であり、妥当な判断だったといえます。

このような経緯でイチローは、オリックスからメジャーリーグへ挑戦することが決定し、その後の活躍がアメリカでも話題となりました。

オリックスはイチローの放出による損失を緩和し、イチローは新たな挑戦の場を得ることができたのです。

Seattle Mariners - Opening Day 2009

【移籍の舞台裏】仰木監督がイチローにかけた言葉

2000年、ある秋の夜。仰木監督はイチローと新妻の弓子を神戸の中華料理店に招待しました。

その場で、3人はメジャーへの挑戦について話し合いました。

「イチロー君が本気でアメリカに行きたいのだとしたら、俺には野暮な妨害をしてることになるが、チームにとどまってもらいたいのはわがままだよな」と仰木監督は率直な気持ちを伝えました。

仰木監督は、「彼にはすでにたっぷり貢献してもらった」と言い、イチローのメジャーリーグ挑戦を全面的に応援することを決めました。

弓子はその時の決断に感謝の意を示し、「仰木さんの決断がなければ、何も始まらなかった」と言葉を述べました。

イチローは、「仰木監督においしいご飯でお酒を飲ませたらうまくいくんじゃないかと思ったら、まんまとうまくいった、あの時ほどお酒の力を感じたことはない」と作戦だったことを明かしています。

また、「これがなかったら何にも始まらなかった。口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかった」と述べ、「しゃれた人でした。仰木監督から学んだものは計り知れない」と仰木監督への感謝を込めて振り返っていました。

【移籍の舞台裏】「マリナーズのCEO」と「任天堂の社長」

1992年にシアトル・マリナーズの筆頭株主となった任天堂は、2000年にイチロー獲得によりオーナーとしての存在感が一層強まることになりました。

その劇的な移籍の数年前、ハワード・リンカーン氏が京都を訪れた際に、任天堂社長の山内溥氏からイチローの契約について問われました。

当時、リンカーン氏はマリナーズの最高経営責任者(CEO)を務めており、米国任天堂の上級副社長なども歴任していました。

任天堂の山内社長はリンカーンに「イチロー・スズキという野球選手を知っていますか?」と尋ねましたが、リンカーンは「いや、名前を聞いたことはありません」と答え、眉をひそめました。

それに対して、山内社長は「じゃあ、覚えておいた方がいい。彼を獲得したいから」と続けました。

この会話がきっかけで、リンカーン氏はイチローの存在に注目し、その後の契約交渉に向けて動き出すことになりました。

イチロー獲得に任天堂の意向

イチローの入札には、メッツ、タイガース、インディアンス、レッドソックス、ドジャースなどが参加しました。

しかし、イチローの獲得は初の試みであり、日本での実績は確かに素晴らしかったものの、果たしてメジャーリーグでどれだけ活躍できるのかについては各球団が手探り状態でした。

すでに野茂英雄氏がドジャーズでプレーし、長谷川滋利氏、伊良部秀輝氏、吉井理人氏らも結果を出していましたが、彼らはいずれも投手であり、日本人野手に対する評価はまだ定まっていませんでした。

マリナーズは2000年11月6日に筆頭オーナーの任天堂・山内社長が「最高の札を入れたい」と宣言しました。

当初は5億円、高くて10億円といわれていましたが、米各球団がけん制しながら入札額を定める中で、金額が跳ね上がりました。

そんな中でマリナーズではこの日、日本時間午前7時の入札締め切りを前に「落札するには1,300万ドル(約14億円)は必要」との方向を固めました。

また、マリナーズは米国内で本命視されていたものの、その状況下でライバル球団がマリナーズに落札させないように妨害に動くとの情報も駆け巡っていました。

それは、あえて法外な金額を入札して、マリナーズに交渉権を与えないようにするというものでした。

しかし、最終的に1,312万5,000ドル(約14億円)という額は「法外」にはあたらず、結果的にはマリナーズのペースで進みました。

当時のポスティングシステムは現在の20億円の上限がなく、無制限で最高金額を入札した球団にだけ独占交渉権が与えられるものでしたが、各球団が戸惑い、入札額を低く抑える中、任天堂の意向も手伝ってイチローを高く評価し、独占交渉権を得ました。

「我々の額はちっぽけで口が裂けても言えない」とメッツのフィリップスGMが語るように、他球団は完敗を認めざるを得ませんでした。

シアトル・マリナーズが14億円で交渉権獲得

イチロー本人は、最高入札額が約14億円であることを知り、驚きと興奮を隠せませんでした。

その日の午後、イチローは神戸市西区の合宿所でキャッチボールやティー打撃を行い、その後、「力が入ったことに、しておいてください」と珍しく気持ちの高ぶりを語りました。

午後1時30分頃、オリックスの岡添球団社長からイチローに落札額が伝えられ、オリックスはその額を受諾することをすぐに決めました。

イチローも前向きな姿勢を示し、「身が引き締まる思いです。久しぶりの感覚ですね。14億円? 比較もできないので、考えられない数字。信じられないと言うしかない」とコメントしました。

この段階では、落札球団の名前は伝えられていませんでしたが、「どのチームでも行くという覚悟はしています。そりゃ条件はあります。環境があまりに悪いと困るけど、そんなこともないでしょう。まずは条件を聞いてから。こちらから言うことはありません」とイチローはどのチームでも行く覚悟を持っていました。

その後、米コミッショナーが当該球団に正式に「受諾」を通知し、当該球団からイチロー側に交渉のための連絡が入り、落札球団がシアトル・マリナーズであることが判明しました。

【移籍の舞台裏】環太平洋地域スカウト部長が語るイチロー

当時のマリナーズの環太平洋地域スカウト部長であったジム・コルボーン氏は、2000年11月10日の朝にポスティング制度でのクラブ間の入札結果を受け取り、イチローとの交渉権を獲得したことを知りました。

コルボーン氏はこのことを非常に素晴らしい契約だと感じていました。

コルボーン氏は、日本にいた頃にマリナーズのキャンプに招待されたイチローと、2000年のオフシーズンに契約するチャンスが生まれたことを振り返り次のように語っています。

「あの時はとても充実感を感じていました。イチローをシアトルに誘うため、私たちは何年もの間、いろんなことに努めてきました。彼はシアトルに来るべくして来たのです。私たちの努力を神様は見守ってくれていたのです」

メジャーリーガー「ICHIRO」の誕生

2000年11月18日、3日ご20時間に及んだ交渉の末、イチローはついにシアトル・マリナーズと3年契約を結びました。

この契約は、契約金も含め総額18億円(初年度年俸4億円+出来高1億円)で、マリナーズはイチローに約30億円近い投資をしました。

オリックス時代の2000年にすでに年俸5億円に達していたイチローにとって、もしかしたら3年契約約15億円は物足りないものだったかもしれません。

しかし、マリナーズはポスティングに約14億円を費やしており、これが限度だったのです。

お買い得!?

マリナーズに移籍後のイチローはルーキーイヤーの2001年にすぐに活躍し、レギュラーを獲得。

日本での勢いそのまま首位打者と盗塁王のタイトルを獲得し、新人王とMVPを同時受賞し、メジャー挑戦1年目からMLBのスター選手の仲間入りを果たしました。

さらに、マリナーズ時代には年間最多安打を7度記録し、メジャーリーグの年間最多安打記録も更新しました。

このようなイチローの活躍から考えると、マリナーズは非常にお買い得な金額で契約を成立させたことになります。

任天堂でのシアトル・マリナーズ入団会見

2000年11月19日、京都市内の任天堂新本社で、イチロー(27歳)のシアトル・マリナーズ入団会見が行われました。この会見は、マリナーズの筆頭オーナーである山内溥氏が社長を務める任天堂の本社で開催されました。

会見には約140人の報道陣が詰め、2時間以上も前にも入っていたイチロー本人と、その妻弓子さんが同席していました。

イチローは少年のような目を輝かせて会見場に姿を現しましたが、会見では珍しく言葉に詰まる場面もありました。

イチローは、「ファンに対し複雑な思いはあるが、アメリカの野球に挑戦できる可能性ができてうれしい」と語り、マリナーズについては「希望の球団だったし、うれしい」とコメントしました。

イチロー自ら選んだ3年契約

イチローは、マリナーズが望む6年契約や、代理人アタナシオ氏が考えていた4年契約ではなく、3年契約を選択していました。

イチローは、まずは3年間頑張って結果を出し、その後に再度考えることを希望したのです。これは、不安からではなく、3年間で確かな成果を残して、再交渉で大型契約を獲得するという自信から来ていました。

周囲には、イチローが1年目から活躍できるかどうかに疑問符をつける声もありましたが、イチローは大勢の報道陣が集まった入団会見で、「誰よりも自分が期待している。自信がなければ、この場にいない。重圧がかかる選手であることは誇り」と述べました。

マリナーズの首脳陣から「1番右翼手」のポジションを確約されても、イチローは興奮せず、レギュラーの座は自分で勝ち取るものだと理解していたのです。

用意されたランディージョンソンの背番号「51」

さらにイチローは、オリックスで背負っていた背番号51と同じく、シアトル・マリナーズでの背番号51を与えられました。

これは以前、大投手ランディ・ジョンソンが付けていた番号でもあり、球団がイチローにかける期待の大きさを示していました。

ランディ・ジョンソン氏は、208cm、102kgの巨体から「ビッグ・ユニット」という異名がついた名投手で、1989年から1998年までの10年間マリナーズでプレーしました。

164kmの豪速球と見えないスライダーは、打者たちを翻弄し、マリナーズを史上初のプレーオフ進出に導き、1995年にはア・リーグのサイ・ヤング賞も受賞しました。

1998年7月31日にはアストロズに移籍し、11先発で10勝1敗、防御率1.28を記録し、プレーオフ進出に貢献しました。

ICHIROと51番

また、イチローは大リーグでもファーストネームで登録されることを希望し、「ICHIRO」として登録されました。これは大リーグでは極めて異例のことでしたが、その希望が通ることになりました。

その後、緊張していたものの、イチローはユニフォームに袖を通して「じゃーん!」と声を上げ、クルリと1回転して披露しました。胸を張り、背中にはオリックス時代と同じ「ICHIRO」と51が輝いていました。

背番号51「ランディー・ジョンソン」に宛てた手紙

ランディ・ジョンソン氏は、イチローから背番号について、手紙を受け取ったという逸話が残っています。

その手紙では、イチローがマリナーズ時代につけていた自身の背番号「51番」を引き継ぐことに敬意を表していました。

ランディ・ジョンソン氏は、返事として「YES! GO AHEAD(どうぞ、つけてくれ!)」と答えたといいます。

【移籍の舞台裏】オリックス、イチロー移籍で得た臨時収入とは?

2000年11月20日、オリックスは、ポスティングシステムを通じてシアトル・マリナーズへ移籍したイチローの入札金額1億3,125,000ドル(約14億7,000万円)の入金を確認しました。

しかし、入札時より4円円安が進み、日本円換算で5250万円の臨時収入が転がり込んできました。

オリックスは直ちに日本コミッショナーに受領を伝え、イチローを自由契約選手とする手続きをとりました。

イチローは1〜2日の間に大リーグ・アメリカンリーグ支配下選手として登録され、すべての移籍手続きが終了することになりました。

オリックスにイチローの売却益

本拠地神戸では、イチロー景気の突風が吹いたことが話題となりました。オリックス球団の銀行口座には、前日19日にマリナーズからイチローの入札金1億3,125,000ドルが振り込まれていました。

この日、弥左康志総務部長が銀行から連絡を受け、明細書を確認。同総務部長は、「直ちに本社グループと日本コミッショナーに受領を伝えました。同時にイチロー選手の保有権を放棄する手続きをしました。

これでオリックスに関する今回のポスティングシステムは完了しました」と説明しました。

円安が進んだことで、オリックスは思わぬ利益を手にすることができました。これは12月決算の球団にとって、赤字削減につながる臨時収入となりました。

この臨時収入は年末までに収支をまとめて本社グループに報告・送金しています。

球団関係者は、「14億円が入っても球団自体は赤字は赤字。だが、それが大きく減ったのは事実です」と話しました。

チームを強化する資金を獲得

来季払うかもしれなかったイチローの年俸を含めれば、約20億円、運営資金が潤った形になりました。

戦力的にも興行的にも、イチローを失った来季は厳しい状況が予想されましたが、思わ収入があったため、オリックス球団は若干の安堵感を持って次のシーズンに臨むことができました。

イチロー、4年間抱き続けたメジャー挑戦の思いを語る

イチローは当時のことを振り返り次のように語っています。

「契約の瞬間は、当然緊張しました。メジャーのグラウンドに立つということですからね。世界中の才能あるプレイヤーたちが集まっている場所ですから、同じグラウンドレベルに立てるということは野球選手にとって最高の喜びです。」

「僕は、4年間メジャーに挑戦したいと言い続けてきて、その思いは変わっていません。動機は少し変わってきましたが、挑戦したいという気持ちは変わっていません。ただ、僕以外の要素が少し変わったわけで、それは岡添(オリックス球団社長)さんと(仰木)監督が、首を縦に振ってくれて、FAを待たずに今年挑戦できることになった」

読者の皆様へ

以上が日本のプロ野球時代のイチローでした。

イチローは初の日本人野手としてメジャーリーグへの道を切り開き、その後のメジャーでの成功は今日の日本人野手の活躍に大きな影響を与えました。

イチローの偉業は野球界において永遠に記憶されるでしょう。

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2000年、メジャーリーグ挑戦直前のインタビューから、2019年3月、現役引退直後にシアトルの自宅で行われたロングインタビューまで。スポーツ総合誌Numberを中心に20年間、100時間を超える単独インタビューを完全収録した、イチロー本の決定版。(「Books」出版書誌データベースより)

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