イチローが日本のプロ野球でプレーした最後の年、2000年。
この記事ではイチローの打撃フォームや肉体改造、そして親友である松坂大輔との緊張感あふれる対決など、野球ファンにとって必見のエピソードが詰まっています。
さらに、イチローのマリナーズ入団秘話や、タイトルについても詳しく解説しています。イチローを知る上で欠かせない内容が満載の貴重な記事になっています。
《イチロー伝説》「自分の形」を発見した日 ── スランプ脱出のきっかけとなったのはセカンドゴロ 〜1999年 オリックス時代〜
Orix BlueWave in 2000
2000年 オリックス・ブルーウェーブ
1995年と1996年にチームが連覇し、日本一に輝いた後、オリックスは徐々に低迷し始めました。しかし、イチローは引き続き試合に出場し、ヒットを放ち、首位打者のタイトルを獲得することが当たり前のようになっていました。このころ、ファンの感覚もイチローの活躍に麻痺し始めていたと言われています。
阪神・淡路大震災が起こった後、常に満員だった本拠地グリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)や、“エリア51”と呼ばれた右翼席にも空席が目立ち始めました。イチローがメジャー挑戦を見据えていたこともあり、イチローは自身との戦いを強いられていた時期でした。
100%の完璧を目指して磨き続ける
「一度わかれば、頭のイメージは逃げないと思う。あとは、体がそれをいかにミスなく表現できるかどうか、です」イチローは、1999年4月に捉えた感覚を磨き続けていました。イチローが言う「静止前」のイメージを頭で理解できれば、次の段階である「静止後」の動作は肉体的な問題になります。
体のどこかに力が入ってミスが出るのは、普段とは違う邪念が出た時だと彼は言います。これらは精神的な問題から派生する肉体的な問題です。しかし、ミスは人間である以上、100%なくすことはできませんでした。
この年のオープン戦で史上最高打率.548を記録しましたが、7割は打てるという感覚を持ったイチローにとっては、特に驚くべきことではありませんでした。
イチローの進化と挑戦!感覚から肉体改造
イチローの振り子バッティングは、イチローの代名詞のようになっていますが、実際にはその打ち方は年々変化しています。右足の上げ方が徐々に小さくなり、体の使い方も大きく変わっているのです。この変化は「進化」とされてきましたが、実際にはイチロー自身が試行錯誤を重ねた結果の変化だったと言えます。
イチローが試行錯誤を続けた理由は、飛距離に拘らず、「少しでも早く地面にたどり着く」ライナー性の打球をイメージしているためです。打球が失速せずに遠くへ飛んでいくことが理想で、もちろん遠くへ飛ぶほど良いという贅沢なイメージを持っています。そのためには、ボールを強く弾かなければなりません。強く弾かれた打球は速く、遠くへ飛ぶのです。
イチローは、このような理想的なバッティング感覚を追求するために、自身のバッティングフォームや体の使い方を絶えず試行錯誤してきました。これにより、彼のバッティングスタイルは年々変化し、独自の進化を遂げていきました。
思い描いた打撃フォームを追求
1998年、イチローは憧れの選手であるケン・グリフィーJr.のフォームを真似て振り子をやめてすり足にしたこともあった。背筋を伸ばし、グリップの位置を通常より高く構えフォームで、この年は135試合に出場し、打率.358、13本塁打、71打点、11盗塁という成績を残しました。
イチローの師である新井打撃コーチは、イチローがメジャーを志向しており、球団もそれを容認していることを知っていました。新井氏は「あまり良い打ち方ではないと分かっていたが、本人が納得いく打ち方、思うようにやらせてあげていいのではと、黙認していた」と語りました。
新井は、イチローの変わった打撃フォームにより、彼の持ち味であったしなやかさが失われ、全体的に固さが出てしまったと感じました。また、外のボールをセンターからライト方向へ飛ばすことが多くなり、力強さを求めていたようだと述べています。
1999年にイチローが見つけた打撃の「感覚」
イチローは、ピッチャーがまともに勝負をしなくなるにつれて、ボールを強く弾ける感覚が失われてしまいました。ヒットを打っても、心の中は晴れず、ストレスが溜まっていきました。ただ結果を求めるバッターであれば、首位打者という名誉だけで満足できたかもしれませんが、イチローは強い打球を求める本能を持つバッターであり、そのストレスが彼を「どん底」という精神状態に追い込んでいったのです。
しかし、1999年4月に一本のセカンドゴロを打った瞬間、イチローは自分が探していた感覚を見つけることができました。それがきっかけで、1999年と2000年のシーズンは、彼は自信を持って打席に立つことができました。
打率4割への挑戦
イチローは1999年4月に見つけた感覚、「打率4割の可能性」と「相手の投げる球の70%を捉えられる自信」について、次のように説明しています。
野球というスポーツでは、バッターには「6割は失敗してもよい」という救いが与えられているというコンセンサスがあります。失敗の確率を6割と7割の間でやり取りしていくことが、打率3割を維持する好打者の条件になります。イチローは、ピッチャーの球を70%捉えられると思っているものの、実際にはその半分ほどしかヒットにできていないと言います。それはただ打てないからではなく、打ち損じているからだと彼は考えています。打ち損じが半分もあることに対して、イチローは非常に悔しさを感じています。
イチローは、自分と戦って打ち損じを減らすことに注力したいと語ります。そうすれば、打率は確実に上がると信じています。イチローの「凡退」は、投球に屈することよりも、打ち損じによることが多いわけです。このように、イチローは「自己との戦い」を避けられない状況に自ら身を置いていました。
イチローの肉体進化
よりやわらかい筋肉を身にまとうために トレーニング方法を全面的に見直し、疲労の 残りにくい新たなトレーニングに取り組んで いるのだ。
イチローは、感覚だけでなく体格も進化させることに努めました。より柔らかい筋肉を身にまとうために、トレーニング方法を全面的に見直し、疲労が残りにくい新たなトレーニングに取り組んでいました。イチローの筋肉の厚みは見る者を圧倒し、しなやかさを増した肉体の変貌が彼の自信の一端を支えていることは間違いありません。
2000年には、彼の体重が78kgにまで増え、胸囲は1mを超え、上腕部も前年より3cm太くなりました。
イチローは7回、8回を迎えてもバテない体になっていると思っており、過去5年間で首位打者を取った時でさえ、試合途中で痩せていく感覚があったと語っています。しかし、今年は試合終了後も余力があり、それが戦う上での余裕につながっているとイチローは言っていました。
イチローが追求した肉体改造とトレーニング法
昨シーズンのオフから、イチローは肉体改造に多くの時間を費やしてきました。彼は現状維持で良いという安易なトレーニングを拒絶し、更なる結果を求めていました。オフの間、アメリカのロサンゼルスでトレーニングをした際に、現地に住む日本人ボディビルダーでありプロのトレーナーと知り合いました。
彼と偶然同じジムで練習していたイチローは、自分のマシンの使い方が甘かったことを指摘され、全身の筋肉の鍛え方とそのための方法論を習いました。それまでの自己流の方法では進歩しないことに気づき、彼が教えてくれたトレーニングを行なってみると、自分の体の未熟さが痛いほど分かったという。その中でもイチローは、筋力と瞬発力との関係に人一倍敏感でした。
スピードと力強さを兼ね備えた打撃
イチローは、俊敏で鋭利な動きが自分の目指す野球に不可欠であり、筋力トレーニングを行っても、体の切れが失われることがないように注意してきました。イチローは、体が大きくなっても動きが鈍くならないことを重要だと考えています。今では、筋力を付けてもスピードが落ちないことを身をもって知ることができました。
イチローが放つ弾け飛ぶ打球の軌跡は力強く、伸びやかで、圧倒的な飛距離を稼いでのホームランはイチローの身体能力急上昇の証拠となっています。
しかし、イチローは自分の肉体に関して未知の領域に入り込んでいると感じており、どこまで鍛え、筋肉を成長させていくのか模索しているところでもありました。
脱振り子打法
このように、イチローはバッターとして未知の領域を進む中で、体格だけではなく表情も変化がしていきました。イチロー顔には髭が生え、かつての少年のような幼さは完全に消え去りました。肉体改造を通じて体の幹に力を蓄えたイチローは、もはや振り子打法は必要なくなってました。
4番 イチロー
今年のイチローの目標は、もちろん、「7年連続首位打者」である。そして、かつて張本勲が日本プロ野球史上最多となる7度の首位打者を獲得していたが、もしイチローがこの年も首位打者を獲れば、その記録に並ぶこととなる。仰木監督は、そんなイチローをチームの「4番」に据えることを考えた。
それまで、イチローは1番や3番を打つことが多かったが、2000年のオリックス打線の中で、最も頼りになる打者はイチローであると、仰木監督は判断したのだ。
4番には貫録が必要?イチローが語る4番の姿
イチロー自身は、4番のタイプではないと抵抗感を持っていました。
イチローは「見栄えという点ではよくないですね。4番というチームの中心として相手を威圧する雰囲気。打った後に表情に出ない貫録が僕にはないですから」
「4番には見栄えが必要なんです。そういう意味で、僕でいいのかって(笑)。4番の見栄えというのは、成績とは別のものなんです。僕の価値観で言えば、絶対に感情を表に出さないってこと。例えばホームラン性の当たりを打った直後、くやしくて仕方がないのに、それを表情にまったく出さない、それが4番の風格だと思うんです」と説明していました。
それでも「でも、監督がそれでいいというんだから、やるけどね」と4番を打つ決意をしました。
仰木監督の4番打者像
このイチローの考えに対して仰木監督の見方は違いました。
仰木監督は、「意外なときに本塁打を打って、後は三振というのではダメだ。好機にしっかりバットのしんでとらえる。外野フライでも内野ゴロでもいい」という考え方で、イチローは最も頼れる4番だと考えていた。
イチローの持つ高いバットコントロールや確実な打撃技術が、チームの要である4番打者として活躍することが期待したのだ。
今や長距離も狙えるバッターに成長
今やイチローは、打撃練習で力強く振り抜かれるバットを持ち、弾き飛ばした打球は、神戸の空に突き刺さる勢いで伸びていく。イチローは速く、ドライブのかかった、地面に一刻も早く辿り着くような打球を打ちたいと考えていました。その打球は、今では驚くほどの伸びを見せて、外野スタンドまで軽々と届いてしまうこともありました。
これは、イチローが長距離を打つこともできるバッターとしても成長し、力強い打撃を見せるようになった証拠でした。
4番に座ったイチローが狙う打率4割
仰木監督の意向で、4番に座ったイチローは凄まじい成績を残した。開幕戦の4月12日のロッテ戦から始まり、「17試合連続安打」を記録するなど、猛打を炸裂させました。4月の成績は「月間30安打」で、4月末の時点で打率.385と、驚異的な数字を記録しました。
5月もイチローの好調は続き、「月間28安打」を放ち、打率をさらに上昇させました。そして、6月に入ってもイチローの打撃は衰えることがありませんでした。6月10日の日本ハム戦(神戸)でついに打率.400に到達しました。「俺も途中からそれだけが楽しみだったよ」と試合が惨敗だったため、仰木彬監督もおどけた表情で語りましたが、当の本人は「手ごたえですか。ふつうです」とそっけない態度でした。
結局、イチローは6月に「月間31安打」を放ち、6月終了時点で、打率.394という驚異的な数字を叩き出しました。
この頃には、遂に日本プロ野球史上初の「打率4割」達成が現実味を帯び始め、世間が騒ぎ始めていました。
2000年の「イチロー VS 松坂」
2000年のイチロー対松坂の初対決は、4月7日からの3連戦で早くも実現しました。イチローは、松坂大輔との対決について、「去年と違って、今年の大輔へのモチベーションは、純粋に彼の球の力によって呼び起こされています。楽しみですよ。
今年のイメージはまだ何もない状態だから、まずは去年のイメージで臨むことになる。対戦してみて何か幅が広がっていればそれに対応できるように持っていきたい」と語りました。
昨季の初対決でイチローが松坂から3連続三振を喫した後、松坂はイチローから一度も三振を奪えませんでした。その後、日本では数回の対戦がありましたが、イチローがメジャー挑戦を表明したことで、日本での対戦はこの年で終わりました。イチローと松坂の日本での通算成績は、34打数、8安打、1本塁打、4三振、1四死球、打率.235となりました。
グラウンドとプライベートの二面性
イチローと松坂大輔は、グラウンドでは熾烈な勝負を繰り広げる一方で、プライベートでは友情を築いてた。ある日、松坂大輔にイチローに聞いてみたいことがあるか尋ねたところ、「イチローさん、オリンピック、どうするんですかねぇ」と真剣に答えた後、「まぁ、結婚生活はどーですかってマツザカが言ってましたって、そう聞いた方がおもしろいな(笑)」と茶化すように続けました。
その言葉をイチローに伝えると、彼は嬉しそうな顔をして言いました。「結婚生活?何それ、アイツ、茶化してるんですよ(笑)。だって大輔はそれを聞いたからって、どうってことないじゃないですか。ナマイキだよなぁ、まったく(笑)。ふざけてんですよ。お前も偉くなったなって、大輔にそう言っておいて下さい」と答えました。
イチローと松坂大輔がグラウンドではヒリヒリとした緊張感あふれる勝負を展開しながらも、プライベートでは仮面を外し、子供のような無邪気さを見せていることが分かります。
伝説的なワンバウンド打ち
この年のイチローは、日本のプロ野球史に残る伝説を残しました。
2000年5月13日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)で、信じられないような光景が広がりました。ロッテの後藤利幸投手が投げたボールは、ベース手前でワンバウンドしました。
しかし、イチローはロッテ後藤のカウント2-1からのフォークを、まるでゴルフのスイングのような軌道でバットを出し、右前へワンバウンドで運んだところ、見事にミートしました。このシーンは、イチローの類まれなバットコントロールを改めて見せつける伝説的な瞬間の一つです。
イチローは一塁ベース上で苦笑していました。悔しそうなのは、仕留めたと思った橋本投手と後藤捕手のバッテリーでした。橋本投手は、「フォークを投げましたが、バットが届きそうもない低めを狙ったんです。狙いよりもずっと手前でワンバウンドしたのですが、振ってきたんでやったと思ったんです」と語っていました。オリックスの高畠打撃コーチは、「彼にしかできないよ」と言っていました。
Ichiro is the best. #FlashbackFriday pic.twitter.com/Nm0EsOb8k1
— MLB (@MLB) May 4, 2018
オールスターで輝くイチロー
2000年のオールスターゲームでは、イチローはファン投票で115万7018票を獲得し、6年連続で両リーグ最多得票となるトップ当選を果たしました。彼は、人気・実力ともにプロ野球の第一人者であると誰もが認める存在でした。そして、結果としてではあるが、この年がイチローにとって日本では最後のオールスター出場となりました。
この年のオールスターで、イチローは地元開催となった7月23日のグリーンスタジアム神戸での第2戦で、4打数4安打を放ち、長崎で行われた第3戦では、3ランホームランを放つなど、3試合合計で11打数7安打と打ちまくりました。さらに、オールスタータイ記録となる9試合連続安打を放ったときに、一塁コーチをしていた松坂大輔はイチローに拳を当てて祝福しました。
オールスターでの成績は7年連続で計17試合に出場し、通算71打数28安打の打率.394。これは清原和博、落合博満の打率.365を大きく上回るオールスター歴代最高打率(50打数以上の選手を対象)となっています。
日本での最後の打席は故障で終了
その後、一度打率が下がったものの、イチローは再び4割に到達し、結局1994年の自己最高記録を更新して、7月30日の74試合目まで4割の記録を維持しました。
8月もイチローは31安打を放ちましたが、8月27日のロッテ戦で、3回に三塁線にファウルを打った際に右脇腹を痛め、そのまま退場しました。これがイチローの日本での最後の打席となりました。彼はその後、長期離脱を余儀なくされ、シーズン後半の出場は叶いませんでした。
イチローは、8月に入って打率4割を割ったものの、97試合終了時点で打率.398、102試合終了時点で打率.392を記録するなど、100試合を過ぎても打率3割9分台をキープし、その後の打撃次第でまだ打率4割を狙える位置にいました。
【緊急記者会見】イチローがついにメジャーに移籍!?
2000年10月12日の午後2時、オリックスの球団事務所から発表されたプレスリリースにより、イチロー選手と岡添裕社長が緊急記者会見を行うことが伝えられました。これにより、「メジャー移籍か?」と世間が騒然となりました。そして、記者会見が開かれ、遂にイチローが日本プロ野球に別れを告げ、メジャーリーグへ挑戦することが正式に発表されました。
イチローは、「年齢、肉体的なことを考えると、できるだけ早く行きたかった。その可能性が出てきたことを非常に喜んでいます」と語りました。
岡添裕球団社長は、「イチロー君が抜けたら観客動員で大きな影響が出る。大丈夫じゃない。球団ができた時にイチロー君はいなかったわけだから、まあかぐや姫のような存在だったと思って、頑張っていくしかない」と、急に消えて目の前からいなくなるスーパースターに対する未練を口にしました。
オリックスがポスティングシステムを容認
オーストラリアへのリーグ優勝旅行の際に立ち寄った米国でロサンゼルス・ドジャースのオマリー会長に「この腕が倍くらい太くなったらメジャーに挑戦したい」と夢を語ってから5年後、オリックスはイチローの大リーグへのポスティングシステム(入札方式)による移籍交渉を容認することを発表しました。イチローがFA権を取得する1年前に球団はメジャー挑戦を認めたとこになります。
実際オリックスは、イチローのメジャー挑戦を夏に認めていました。球団幹部は米国のコミッショナー事務局に「来年はイチローがこちらへ行く」と表明し、あいさつまで済ませていたのです。仰木彬監督、イチロー、球団首脳は「残留宣言」を早い段階から合意の上で行っていました。これは「周囲の雑音や憶測を排除するため」で、マスコミに騒がれることを避けるために秘密裏に進められていたのです。
地元・神戸で鳴り響く「イチローコール」
2000年10月13日、翌日の会見の後、イチローはグリーンスタジアム神戸で行われたペナント本拠最終試合となる西武戦に出場し、日本を離れメジャーリーグに挑戦する前に地元神戸のファンに別れを告げました。8月27日のロッテ戦以来、47日ぶりに1軍に復帰したイチローは、まだ痛みが完治していなかったものの、9回にライトの守備固めで登場しました。
イチローの登場に、球場に詰めかけた2万6000人のファンから大きな拍手と歓声が沸き起こりました。横断幕には、「イチロー、ありがとう!!」「メジャーに行っても、頑張れ!!」「神戸を忘れないで」と書かれており、ファンは皆、イチローに大声援を送りました。イチローは、両目が真っ赤に充血している様子で、「今ある現実をしっかり焼き付けた。昔を思い出すと、下を向いちゃいそうだから」と心境を語りました。
試合終了後、イチローコールに背中を押され再度グラウンドへ。オリックスはこの年4位に終わりましたが、スタンドからは罵声ではなく惜別の「イチローコール」が鳴り響きました。イチローは、硬式球を9個ほどスタンドに投げ、一礼しました。
さらにイチローは、「神戸のファンは、本当に温かくて…。良いプレーをしたら拍手をしてくれて、不甲斐ないプレーをしたら、ちゃんと叱ってくれる。神戸のファンは、本当の野球ファンでした。僕を育ててくれました。その中でプレーできたことを誇りに思います」と感謝の言葉を述べ、ファンに手を振り、別れを告げました。
そしてイチローは、「恩師」仰木監督と握手し、「頑張って来い!!」と力を込めて激励されました。
私たちはイチローの凄さに慣れてしまった
この最後の試合は、球史に残るものとなりましたが、本拠地が3万5000人収容可能なのにもかかわらず満員にならなかったのは、今となっては驚きの事実である。それは、みんながいつの間にかイチローの凄さに慣れてしまっていたからでしょう。
この投稿をInstagramで見る
メジャー挑戦に向けた厳しい準備と、孤独な修行生活
2000年のシーズンを最後にメジャーに移籍するイチローでしたが、彼はメジャーの過密な日程に備えて、ある実験を行っていました。それは、選手にとって体力的に厳しい「ナイター明けのデーゲーム」に、わざと一睡もせずに臨むというものでした。チーム関係者は「十分な睡眠が取れない時、まったく寝ずに試合に出るとどうなるのか、試していたのかもしれません。メジャーの日程はもっと大変なので想定していたんでしょう」と見ていました。過酷な状況に身を置き、体の負担を確かめたかったのでしょう。
結果を出しても現状維持ではいられないイチローは、打撃コーチすら介入できないような境地に達し、試行錯誤を続け、感覚をつかむまで黙々とバットを振り続けていました。彼は同僚だった野田浩司氏にこう話したことがあったという。「首位打者を取ることは自分の中で怖いことでもある。相手はそれ以上、警戒してくるし、今年と違うことをやってくる。自分も変えていかないといけない」
国民的スター選手でありながら修行僧のようにストイックに打撃を突き詰めていくイチローの姿勢に、球団は気を使い、仲間との距離ができることもありました。気づけばイチローはチーム内で孤立していたといわれています。
7年連続首位打者!イチローの驚愕の成績
2000年、日本プロ野球でプレーする最後の年となったイチローは、結果的に2000年8月24日の日本ハム戦で、高橋憲幸(日本ハム)から放った通算1278安打目が、イチローが日本プロ野球の公式戦で放った最後の安打となりました。
それでも105試合に出場し、自己最高の打率.387を記録し、パ・リーグ史上最高打率を達成しました。最後まで出場していたら、日本唯一の4割打者になっていたでしょう。
さらにイチローは7年連続首位打者を達成し、張本勲と並ぶ歴代最多タイの7度目の首位打者を獲得しました。ベストナインとゴールデングラブも7年連続で獲得しました。
イチローの日本通算成績は、NPB通算で951試合出場、3619打数1278安打、118本塁打、529打点、199盗塁、打率.353という素晴らしい成績を残しました。また、首位打者7度、打点王・盗塁王各1度、最高出塁率・最多安打各5度、MVP3度、ベストナイン・ゴールデングラブ各7度、オールスター出場7回という輝かしい実績を達成しました。
【移籍の舞台裏】オリックスは裏で移籍のために動いていた
イチローは、日本一のスター選手として、オリックスで数々のタイトルを獲得しました。この活躍により、年棒は次第に増加し、最終的に5億円に達しました。しかし、観客動員が減少し続ける中で、オリックス球団はそのような高額な年棒を続けることが困難と判断し、これ以上上げることができなくなってしまいました。
オリックスの大人の事情
イチローが7年連続で首位打者を獲得し、国内の投手の中で闘争心を刺激する存在が西武の松坂大輔投手くらいだったため、イチローが物足りなさを感じてフラストレーションを抱えていることをオリックス球団も理解していました。
イチローは、もしFA権を取得すれば間違いなくアメリカに渡り、その場合オリックスは彼を無料で放出することになってしまいます。そこで、オリックスはFA権を得る前にイチローにメジャーリーグへの挑戦を許可し、代わりに入札を通じて交渉権を持つ球団を決定し、その球団から交渉料を受け取ることを選択しました。これにより、オリックスは事実上の移籍金を受け取ることができました。
オリックスは慈善事業を行っているわけではなく、看板選手を放出する際にはそれに見合った見返りを求めることが企業としての論理であり、妥当な判断だったと言えます。
このような経緯でイチローは、オリックスからメジャーリーグへ挑戦することが決定し、その後の彼の活躍がアメリカでも話題となりました。オリックスはイチローの放出による損失を緩和し、イチローは新たな挑戦の場を得ることができたのです。
【移籍の舞台裏】仰木監督がイチローにかけた言葉
2000年秋のある夜、仰木監督はイチローと新妻の弓子を神戸の中華料理店に招待しました。その場で、彼らはイチローがメジャーリーグへの挑戦について話し合いました。「イチロー君が本気でアメリカに行きたいのだとしたら、俺には野暮な妨害をしてることになるが、チームにとどまってもらいたいのはわがままだよな」と仰木監督は率直な気持ちを伝えました。
仰木監督は、「彼にはすでにたっぷり貢献してもらった」と言い、イチローのメジャーリーグ挑戦を全面的に応援することを決めました。弓子はその時の決断に感謝の意を示し、「仰木さんの決断がなければ、何も始まらなかった」と言葉を述べました。
この出来事は、イチローのメジャーリーグ挑戦を後押しする大きな要因となりました。仰木監督の寛大さと理解によって、イチローは新たな舞台での挑戦に全力で取り組むことができたのです。
【移籍の舞台裏】「マリナーズのCEO」と「任天堂の社長」
1992年にシアトル・マリナーズの筆頭株主となった任天堂は、イチロー獲得によりオーナーとしての存在感が一層強まりました。2000年11月、ハワード・リンカーンが京都を訪れた際に、任天堂社長の山内溥からイチローの契約について問われることになります。
当時、リンカーンはマリナーズの最高経営責任者(CEO)を務めており、米国任天堂の上級副社長なども歴任していました。任天堂の山内社長はリンカーンに「イチロー・スズキという野球選手を知っていますか?」と尋ねましたが、リンカーンは「いや、名前を聞いたことはありません」と答え、眉をひそめました。それに対して、山内社長は「じゃあ、覚えておいた方がいい。彼を獲得したいから」と続けました。
この会話がきっかけで、リンカーンはイチローの存在に注目し、その後の契約交渉に向けて動き出すこととなります。
Hiroshi Yamauchi, Nintendo visionary and former Mariners owner, dies http://t.co/2BxoF0IGRH pic.twitter.com/sLndH0A9aP
— #Q13FOX (@Q13FOX) September 19, 2013
イチロー獲得に任天堂の意向
入札には、メッツ、タイガース、インディアンス、レッドソックス、ドジャースなどが参加しましたが、イチローの獲得については初の試みであり、彼の日本での実績は確かに素晴らしかったものの、果たしてメジャーリーグでどれだけ活躍できるのかについては各球団が手探り状態でした。
すでに野茂英雄氏がドジャーズでプレーし、長谷川滋利氏、伊良部秀輝氏、吉井理人氏らも結果を出していましたが、彼らはいずれも投手であり、日本人野手に対する評価はまだ定まっていませんでした。
マリナーズは11月6日に筆頭オーナーの任天堂・山内社長が「最高の札を入れたい」と宣言しました。当初は5億円、高くて10億円といわれていましたが、米各球団がけん制しながら入札額を定める中で、金額が跳ね上がりました。マリナーズではこの日、日本時間午前7時の入札締め切りを前に「落札するには1,300万ドル(約14億円)は必要」との方向が固まったとされています。
また、マリナーズは米国内で本命視されていたものの、その状況下でライバル球団がマリナーズに落札させないように動くとの情報が駆けめぐりました。しかし、最終的に1,312万5,000ドル(約14億円)という額は「法外」にはあたらず、結果的にはマリナーズのペースで進んだと見られています。
当時のポスティングシステムは現在の20億円の上限がなく、無制限で最高金額を入札した球団にだけ独占交渉権が与えられるものでしたが、各球団が戸惑い、入札額を低く抑える中、任天堂の意向も手伝ってイチローを高く評価し、独占交渉権を得ました。「我々の額はちっぽけで口が裂けても言えない」とメッツのフィリップスGMが語るように、他球団は完敗を認めざるを得ませんでした。
シアトル・マリナーズが14億円で交渉権獲得
イチローは、最高入札額が約14億円であることを知り、驚きと興奮を隠せませんでした。その日の午後、彼は神戸市西区の合宿所でキャッチボールやティー打撃を行い、その後、「力が入ったことに、しておいてください」と珍しく気持ちの高ぶりを語りました。
午後1時30分頃、オリックスの岡添球団社長からイチローに落札額が伝えられ、オリックスはその額を受諾することを即決しました。イチローも前向きな姿勢を示し、「身が引き締まる思いです。久しぶりの感覚ですね。14億円? 比較もできないので、考えられない数字。信じられないと言うしかない」とコメントしました。
この段階では、落札球団の名前は伝えられていませんでしたが、イチローはどのチームでも行く覚悟を持っていました。「どのチームでも行くという覚悟はしています。そりゃ条件はあります。環境があまりに悪いと困るけど、そんなこともないでしょう。まずは条件を聞いてから。こちらから言うことはありません」と前向きに話しました。
その後、米コミッショナーが当該球団に「受諾」を通知し、当該球団からイチロー側に交渉のための連絡が入り、落札球団がシアトル・マリナーズであることが判明しました。
【移籍の舞台裏】環太平洋地域スカウト部長が語るイチロー
当時のマリナーズの環太平洋地域スカウト部長であったジム・コルボーンは、2000年11月10日の朝にポスティング制度でのクラブ間の入札結果を受け取り、イチローとの交渉権を獲得したことを知りました。彼はこのことを非常に素晴らしい契約だと感じていました。
ジムは、彼が日本にいた頃にマリナーズのキャンプに招待されたイチローと、2000年のオフシーズンに契約するチャンスが生まれたことを振り返り、「あの時はとても充実感を感じていました。イチローをシアトルに誘うため、私たちは何年もの間、いろんなことに努めてきました。彼はシアトルに来るべくして来たのです。私たちの努力を神様は見守ってくれていたのです」と語っています。
Legendary @SydneyBlueSox
— Sydney Blue Sox (@SydneyBlueSox) November 24, 2015
pitching coach Jim Colborn will be speaking at coaching seminarshttps://t.co/S1uFdq1Dth pic.twitter.com/dQ7YbHc4F7
メジャーリーガー「ICHIRO」の誕生
2000年11月18日、3日20時間に及んだ交渉の末、イチローはシアトル・マリナーズと3年契約を結びました。この契約は、契約金も含め総額18億円(初年度年俸4億円+出来高1億円)で、マリナーズはイチローに約30億円近い投資をしました。
オリックス時代の2000年にすでに年俸5億円に達していたイチローにとって、3年契約約15億円は物足りないものだったかもしれません。しかし、マリナーズはポスティングに約14億円を費やしており、これが限度だったのです。
お買い得!?
イチローはルーキーイヤーの2001年にすぐに活躍し、レギュラーを獲得しました。彼は首位打者と盗塁王のタイトルを獲得し、新人王とMVPを同時受賞するというセンセーショナルな成果を上げました。さらに、マリナーズ時代には年間最多安打を7度記録し、メジャーリーグの年間最多安打記録を更新しました。
イチローの活躍から考えると、マリナーズは非常にお買い得な金額で契約を成立させたことになります。
任天堂でのシアトル・マリナーズ入団会見
2000年11月19日、京都市内の任天堂新本社で、イチロ(27歳)のシアトル・マリナーズ入団会見が行われました。この会見は、マリナーズの筆頭オーナーである山内溥氏が社長を務める任天堂の本社で開催されました。
会見に約140人の報道陣が詰め、2時間以上も前にも入っていたイチロー本人と、その妻弓子さんが出席しました。イチローは少年のような目を輝かせて会見場に姿を現しましたが、会見では珍しく言葉に詰まる場面もありました。イチローは、「ファンに対し複雑な思いはあるが、アメリカの野球に挑戦できる可能性ができてうれしい」と語り、マリナーズについては「希望の球団だったし、うれしい」とコメントしました。
イチロー自ら選んだ3年契約
イチローは、マリナーズが望む6年契約や、代理人アタナシオ氏が考えていた4年契約ではなく、3年契約を選んだのです。彼は、まずは3年間頑張って結果を出し、その後に再度考えることを望んでいました。これは、不安からではなく、3年間で確かな成果を残して、再交渉で大型契約を獲得するという自信から来ていました。
周囲には、イチローが1年目から活躍できるかどうかに疑問符をつける声もありましたが、彼は大勢の報道陣が集まった入団会見で、「誰よりも自分が期待している。自信がなければ、この場にいない。重圧がかかる選手であることは誇り」と述べました。マリナーズの首脳陣から「1番右翼手」のポジションを確約されても、彼は興奮せず、レギュラーの座は自分で勝ち取るものだと理解していました。
用意されたランディージョンソンの背番号「51」
イチローは、シアトル・マリナーズでの背番号51を与えられ、それは以前、ランディ・ジョンソンが付けていた番号でした。これは、球団が彼にかける期待の大きさを示していました。また、彼は大リーグでファーストネームで登録されることを希望し、「ICHIRO」として登録されました。これは大リーグでは極めて異例のことであり、彼の希望が通ることになりました。
緊張していたものの、イチローはユニフォームに袖を通して「じゃーん!」と声を上げ、クルリと1回転して披露しました。胸を張り、背中にはオリックス時代と同じ「ICHIRO」と51が輝いていました。
背番号51「ランディー・ジョンソン」に宛てた手紙
ランディ・ジョンソンは、イチローから背番号について、手紙を受け取ったことを逸話が残っています。
ランディ・ジョンソンは、208cm、102kgの巨体から「ビッグ・ユニット」という異名がついた名投手で、1989年から1998年までの10年間マリナーズでプレーしました。彼はチームを史上初のプレーオフ進出に導き、1995年にはア・リーグのサイ・ヤング賞も受賞しました。彼の164kmの豪速球と見えないスライダーは、打者たちを翻弄しました。1998年7月31日、彼はアストロズに移籍し、11先発で10勝1敗、防御率1.28を記録し、プレーオフ進出に貢献しました。
イチローがマリナーズに入団する際、イチローはランディ・ジョンソンから素敵な手紙をもらいました。その手紙では、イチローがマリナーズ時代につけていた自身の背番号「51番」を引き継ぐことに敬意を表していました。ランディ・ジョンソンは、返事として「YES! GO AHEAD(どうぞ、つけてくれ!)」と答えたという。
Question: Should the #Mariners consider a dual ceremony to retire number 51 in honor of both Randy Johnson & Ichiro? pic.twitter.com/ocq0Twe8K8
— Bill Wixey (@BillWixey) April 20, 2017
【移籍の舞台裏】オリックス、イチロー移籍で得た臨時収入とは?
2000年11月20日、オリックス・バファローズは、ポスティングシステムを通じてシアトル・マリナーズへ移籍したイチロー外野手(27歳)の入札金額1億3,125,000ドル(約14億7,000万円)の入金を確認しました。
しかし、入札時より4円円安が進み、日本円換算で5250万円の臨時収入が転がり込んできました。オリックスは直ちに日本コミッショナーに受領を伝え、イチローを自由契約選手とする手続きをとりました。イチローは一両日中にも大リーグ・アメリカンリーグ支配下選手として登録され、すべての移籍手続きが終了することになります。
神戸では、イチロー景気の突風が吹いたことが話題となりました。オリックス球団の銀行口座には、前日19日にマリナーズからイチローの入札金1億3,125,000ドルが振り込まれていました。
この日、弥左康志総務部長が銀行から連絡を受け、明細書を確認しました。同総務部長は、「直ちに本社グループと日本コミッショナーに受領を伝えました。同時にイチロー選手の保有権を放棄する手続きをしました。これでオリックスに関する今回のポスティングシステムは完了しました」と説明しました。
円安が進んだことで、オリックスは思わぬ利益を手にすることができました。これは12月決算の球団にとって、赤字削減につながる臨時収入となりました。年末までに収支をまとめて本社グループに報告・送金しています。球団関係者は、「14億円が入っても球団自体は赤字は赤字。だが、それが大きく減ったのは事実です」と話しました。来季払うかもしれなかったイチローの年俸を含めれば、約20億円、運営資金が潤った格好です。
戦力的にも興行的にも、イチローを失った来季は厳しい状況が予想されましたが、思わ収入があったため、オリックス球団は若干の安堵感を持って次のシーズンに臨むことができました。
イチロー、4年間抱き続けたメジャー挑戦の思いを語る
イチローは当時のことを振り返り「契約の瞬間は、当然緊張しました。メジャーのグラウンドに立つということですからね。世界中の才能あるプレイヤーたちが集まっている場所ですから、同じグラウンドレベルに立てるということは野球選手にとって最高の喜びです。」
「僕は、4年間メジャーに挑戦したいと言い続けてきて、その思いは変わっていません。動機は少し変わってきましたが、挑戦したいという気持ちは変わっていません。ただ、僕以外の要素が少し変わったわけで、それは岡添(オリックス球団社長)さんと(仰木)監督が、首を縦に振ってくれて、FAを待たずに今年挑戦できることになった」と語っていました。
2000年11月19日、イチローとシアトル・マリナーズに3年契約で合意し、野手としては日本人初のメジャーリーガーとなった pic.twitter.com/z0Uo8XjrKK
— MLB Japan (@MLBJapan) November 19, 2015