《日本プロ野球時代のイチロー》スランプ脱出のきっかけとなったセカンドゴロ(1999年)

​ 1999年、日本プロ野球界において、イチロー選手のキャリアは重要な転機を迎えました。

これまでの圧倒的な実績にも関わらず、イチローは深刻なスランプに陥っていました。しかし、この年のあるプレイが、スランプ脱出のきっかけとなりました。

《日本プロ野球時代のイチロー》深刻なスランプでも首位打者(1998年)

Orix BlueWave in 1999

1999年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

PitcherPicture/YouTube

前年、イチローは5年連続の首位打者に輝くという偉業を成し遂げましたが、「これが本当の実力ではない」と語り、今シーズンから本当の実力を発揮する戦いが始まると宣言しました。

過去5年間、イチローは打率.385(1994年)、.342(1995年)、.356(1996年)、.345(1997年)、.358(1998年)という驚異的な数字を残し、日本プロ野球界をリードしてきました。

しかし、イチローはこれらの記録を半分の出力で達成したとしました。つまり自分の持っている力の50%しか使えていなかったということです。

イチローは「オリックスに入団して7年、自分は常にベストを目指してきた。どんな状況にあろうと持てる力を絞り出すようにして打席に立ってきた。ぎりぎりのところまで自分を追い込まなければ、この結果は残せなかったんです。心のどこかで、自分の力はこんなもんじゃないはずだと言い聞かせていた」と述べました。

そして、ようやく今年になって「限界という天井」を突き破る方法を見つけられたと自信満々に語ったのです。

果たして、その方法とはどのようなものだったのでしょうか?

マリナーズのスプリングトレーニングに参加しメジャーの世界に触れる

1999年シーズン開幕前の2月、イチローは、チームメイトの星野伸之氏や戎信行氏とともに、業務提携していたシアトル・マリナーズのスプリングトレーニングに招待され、2週間参加しました。

この期間、イチローは憧れケン・グリフィーJr.とキャッチボールを行い、ジェイミー・モイヤーを打撃投手としてフリーバッティングを楽しみました。

イチローは、本場のメジャーリーガーたちと触れ合い、アメリカンベースボールを肌で感じたことにより、「1日で日本へ帰りたくなくなった」と語っています。

一方、アレックス・ロドリゲスはイチローのバッティングについて、「左のモイヤーの球を苦もなくヒットにする。打率で.330から.340、盗塁も70から80はできるだろう」と評価し、ルー・ピネラ監督も絶賛しました。

イチローは、キャンプ中にスペアリブを食べて食あたりを起こすという、まさかのハプニングにも見舞われましたが、2週間のキャンプを終えて「メジャーでやるなら、シアトル・マリナーズでやりたい」と語りました。

さらに「メジャー挑戦は冒険といえば冒険ですね。もちろん、心に秘めた自信はあります。行くなら当然、レギュラーでやらなければダメでしょう。一方で、メジャーに行きコテンパンにやられてみたい思いもある。そこから学ぶことができるわけですから」とメジャーの底知れない凄味を感じているようでした。

しかし、実際のイチローの心のうちは「この程度なの?」と少しがっかりした様子で、限界にチャレンジする緊張感が伝わってこないとも感じていました。

イチローは「どこまで行けば自分にとってのピークがあるのか。今はそこに挑んでいるところです」と語り、いつかメジャーの選手たちがシーズンに向けてどのようにモチベーションを上げ、パワーを構築していくのかの過程が見てみたいと興味が湧いていました。

「イチローを育て、シアトルに導くため」マリナーズのスカウトの興味

イチローには、1990年から1993年にかけて、オリックスの投手コーチを務めていたジム・コルボーンという強力な味方がいました。

コルボーンはイチローがまだ二軍の鈴木一朗として在籍していた当時から、その潜在能力の高さに目をつけていました。

その後、マリナーズのスカウトに転身したコルボーンは、イチロー獲得に尽力し始めました。

コルボーンは冬場の自主トレで南カリフォルニアのある場所にイチローを送り、近くに住んでいた自分自身がノックや打撃投手を務めました。

コルボーンには、イチローの成長を手助けしたいというコーチとしての思いと、マリナーズのスカウトとしてイチローの意識をシアトルに向けさせたいという2つの思いがあったのです。

そして1999年、コルボーンはイチローがマリナーズのスプリングキャンプに2週間特別参加できるように手配しました。

このキャンプがイチローにとって貴重な経験となり、後にイチローがシアトル・マリナーズでのメジャー挑戦を決意するきっかけとなりました。

自分が一体何をやりたいのかを探しつづけた4年間のスランプ

マリナーズのスプリングキャンプを経験後のイチローでしたが、1999年シーズン開幕戦から一向に調子が上がらず、数年間のスランプを引きずっていました。

開幕に向けて万全の準備をしていたつもりでしたが、何かが違っており、思い通りのバッティングができず、序盤では打率が.230まで落ち込んでしまいました。

監督、コーチ、チームメイトたちもイチローを心配しました。このままでは首位打者どころか、イチローらしさすらも失われてしまうのではないかという懸念があったのです。

イチローはこれまで、次のように語っていました。

「たしかに首位打者になりましたが、自分としては全く満足できませんでした。1995年からの4年間、バッティングにおいて何を目指すべきかを模索しながら苦労していました」

「1994年の途中までは簡単にヒットが打てると思っていたのですが、次第にそれが難しくなっていきました。ヒットを打てる感覚があるのに、体が思うように動かないんです。イメージはあるけど、表現できない。どうすればできるのか全くわからない。自分の感覚では半分の力しか出せていない、それはそれは苦しかったです」

そんなイチローはある日、「ある打席をきっかけに、僕の苦しみは終わりました。それどころか、打者としてずっと探していた感覚を見つけることができた」と語ったのです。

運命のセカンドゴロ

1999年4月11日、ナゴヤドームでの西武戦で、イチローは第5打席で西崎幸広投手からセカンドゴロを放ちました。

このセカンドゴロは、イチローにとって大変重要なものになりました。その瞬間、イチローは自分の打撃に対する新たな感覚を得たと感じたのです。

外から見ると単なるアウトにしか見えないその打席で、イチローはボールを目と脳で完璧に捉えた感覚を感じました。

この経験から、イチローは球を正確に捉えるために必要な体の使い方を一瞬で理解しました。

実際にイチローは、「あっ、これだ」とはっきりと気づいた瞬間だったと語っています。

自分のバッティングフォームを逆再生して確認

セカンドゴロを打った瞬間、イチローは口元を少し緩ませて、オーロラビジョンに映し出された自分のバッティングを2度も振り返って確認しました。

セカンドゴロを打ち、一塁まで走っている間、イチローは頭の中でその時の打撃フォームを自分のイメージの中で逆に再生していました

フォロースルー、インパクトの瞬間、トップの位置という感じで、バッティングフォームを巻き戻し確認したのです。

その結果、イチローは実際のフォームと自分のイメージの中のフォームが重ね合わせることができ、どこがズレているのかがわかったといいます。

つまり、自分の理想的なスイングで捉えヒットにしたと思っていたものが、実際にはズレており、そのために良い打球が飛ばなかったと気づいたのです。

打球の質を追求し、見つけた感覚

これまで、3割5分の打率を残し続けてきたバッティングに不満を感じていた理由は、打球の質だと考えていました。

練習では無意識にできることが、実際の試合では中々できない、いい打球が何度か出ても、その理由がわからなかったといいます。

しかし、あのセカンドゴロは、初めてなぜそうなったのかの理由を説明することができました。つまり、イチローが見つけた感覚は、打球の質を向上させるための鍵であったということです。

このイメージはずっと探していたものであり、この時、老廃物が体から気持ちよく抜けたような感覚だったと語っています。

半分の力しか出せていなかった去年までの自分との差

イチローは、この時獲得した感覚を次の試合ですぐに出すことができました。

これほど具体的な答えを手にしたことは、これまで野球人生の中で初めてのことであり、去年までは半分の力しか出せていなかったものが、今では80〜90%まで出せる可能性があると語りました。

さらに、仮に今4割の打率を残せたとしても、自分では対して驚かないだろうと言いました。

そして、去年までの自分ではできるはずもなかったものが、今は周囲のそうした期待に応えられる可能性がある。極端なことを言えば、野球選手としてのスタートを、今年ようやく切れたと言えるとイチローを確信を持って言い切ったのです。

『イチローがつかんだ感覚』バッティングの「静止前」と「静止後」

では、イチローが獲得したバッティングにおいての、新しい感覚とはどのようなものなのでしょうか?

これについて具体的な説明を求められたイチローは、それは個人的な感覚であり、自分にしか理解できないため、表現することが難しいと語ります。

つまり、イチローは独自の考えで打撃フォームを作り上げおり、打ち方が一般的な他の人とは違うため、厳密な解説が難しいということです。

そのなかでも、上半身と下半身にそれぞれ1箇所ずつポイントがあると述べ、体の使い方が鍵であることを言いました。

しかし、それ以上の説明はできませんでした。

弓を引くような静止感覚

イチローがつかんだ感覚とは、バッティングにおける「静止前」と「静止後」の理解でした。

「静止前」弓を構えて止まり、狙いを定める

バッティングにおいて「静止前」とは、ピッチャーが投球する瞬間からバッターの足が着地するまでの動作を指します。

この時、バッターは下半身、特に軸足に意識を集中させ、バットとボールの接触のための最適な体勢を整えます。これは、弓を引く際に的の位置や風を計算し、体の形を整えることに似ています。

「静止後」弓を放つ瞬間

一方、「静止後」とは、バッターの足が着地した後の動作を指し、ここでは上半身、特に左側の胸筋や背筋に意識が移ります。これは、弓を引いて静止した状態で、精度高く矢を放つ動作に似ています。

イチローは、この「静止前」の状態をどのように作るかを理解することで、7割の確率でストライクを捉え、良い打球を打つ確信を持つに至りました。

イチプロ野球史上最速で1000安打はホームランで!

4月20日、日本プロ野球史上最速の1000安打に王手をかけていたイチローが日本ハム戦(東京ドーム)でプレイしました。

試合では、相手先発の金村曉氏の好投に、9回表の最後の攻撃を迎えるところで0対10とオリックの大敗ムードが漂っていました。

それでも、無死一塁の場面でイチローが打席へ立つと、観客の興味はイチローの1000安打達成と金村の3連続完封のどちらが実現するかに移りました。

結果はイチローが低めに落ちる難しい球を捉え、詰まりながらもスタンドイン。金村氏の開幕3試合連続完封の快挙を打ち砕く一振りに、2万人の観衆が大歓声で祝福し、東京ドームは沸き立ちました。

いつものように淡々とダイヤモンドを1周したイチローは、敵地にもかかわらず東京ドームのビジョンに映し出された「祝イチロー選手1000本安打達成」という文字に包まれました。

そしてホームベースを踏んだ後、花束を渡され、初めて笑顔を見せた。

イチローの1000安打はプロ野球史上194人目の快挙であり、757試合で達成されました。これは、これまでの記録ブーマーの781試合を24試合も更新しての記録になりました。

イチローの恩師たちも関心

「ホームランで決めたところがすごい。3連続シャットアウトを阻止したのもすごい」と、5連敗で渋い表情の仰木監督も愛弟子の活躍に感服した様子でした。

イチローと二人三脚で野球人生を歩んできた父・鈴木宣之氏も、三塁側スタンドで観戦していました。

「やった。バンザイ。うわあ、ホームランで決めた」と感激する宣之氏に。打った直後からスタンドのオリックスファンから握手攻めに遭っていました。

試合後のコメントやボールの行方に注目

イチロー自身も興奮を隠しきれない様子で試合後のインタビューに次のように語りました。

「シュートかチェンジアップかフォークかよく分からないけれど、変化球でした。(最速は)どんな感じと言われても……。速いですね。この一瞬を楽しみにしている人に喜んでもらったら、それで良かったと思います」

この試合は0-10のワンサイドゲームでしたが、金村選手には開幕3試合連続完封という史上初の記録まであと1イニングという状況だったため、イチローは燃えたと語りました。

そして「ああいう集中しにくい場面で集中できたことは評価したい」と、は第4打席を振り返りました。

イチローの父・宣之氏は「でもあのボールは戻ってこないでしょうね。ちょっぴり複雑です。欲しいなあ」と願っていましたが、幸運にもその願いは実現することになりました。

ボールを拾った大学生の塩沢広基さんは、イチローにとって大切なボールだと考え、係員に託したのです。その後、球場事務所でサイン入りのボールと交換してもらった塩沢さんは、とても満足そうに見えました。

チームは5連敗、イチローが追求し続ける打撃のこだわり

また、チームは5連敗したことから、イチロー自身の記録について淡々としている様子もありました。

試合後に記者から「1000安打、どういう感じですか」という曖昧な質問が飛び出すと、イチロー選手は「どんな感じと言われても、例えば?」と質問した記者に逆に質問していました。

続けて、打撃について質問されたイチローは、「打てば打つほど、分かれば分かるほどバッティングは難しくなりますね。早かったな、という印象です。待っていたファンのみなさんに喜んでいただけたのはよかった。今日のような状態では集中するのが難しいですが、それはうまくいったと思います」と答えました。

yakyulove/YouTube

「平成の怪物」vs」天才打者」松坂大輔とイチローの夢の対決

この年は、平成の怪物「松坂大輔」 vs 天才「イチロー」という夢の対決が実現しました。

松坂氏は、横浜高校を卒業して1年目の18歳で、前年の甲子園では春夏連覇を果たすなど、“平成の怪物”というニックネームに相応しい活躍をプロの舞台でも見せていました。

松坂氏は横浜高校時代、イチローを「日本一のバッター」として憧れ、「自分だったらどう抑えるか」という対戦イメージを抱き続けてきました。

そして、プロ入り後の目標として、「プロに入ったら対戦してみたいバッター」の筆頭にイチローの名前を挙げていました。

実際に松坂氏は、西武ライオンズの入団会見で、「イチローさんを力でねじ伏せたい」と語り、その熱い決意を示していました。

18歳の松坂大輔は夢の対決に向けて誓いを立てていたのです。

1999年5月16日 西武ライオンズvsオリックス・バファローズ

そして1999年5月16日、西武ライオンズの松坂大輔投手とオリックスのイチローが、西武ドームでの試合で初対決の日を迎えました。

対戦を前にして、25歳のイチローは「持てるものを全部出してほしい。僕もそうする」と語りました。

この2人の初対決は、マスコミにも大々的に取り上げられ、西武とオリックスのファンのみならず、普段プロ野球にはあまり関心のない多くの人たちにも注目されました。

この日は日曜日のデーゲームということもあり、約100人の徹夜のファンが出て早朝から門の前に長蛇の列ができました。

開場は20分も早まり、最終的に球場には約5万人の観客が詰めかけました。約600台収容の駐車場も開場からわずか45分で満車となりました。

<第1打席目>注目の初対決

こうして始まった注目の試合は、初回から大歓声が沸き起こります。1回表2アウトランナーなし、イチローが打席に向かう中でカメラによる無数のフラッシュが焚かれ、それはバッターボックスまで照らしました。

松坂投手が初球に投じたのはインコース低めの149kmのストレート、これはボールになりました。2球目に投じたのはインコース高めの153kmのストレート、これをイチローは強振するもファウル。

次にスライダーをアウトコースに2球続け、カウントは2ボール2ストライク。

運命の6球目、松坂投手が投じたのはアウトコース高めの147kmのストレート、見逃せばボールになる可能性もありました。

しかしイチローは、前の球であるスライダーを見逃しており、ストレートに絞っていました。それも内角にくると予測していたのか、重心がかかとに残っており、バランスの崩れたスイングをしてしまいました。

そしてイチローのバットは空を切り、初対決の結果はイチローの空振り三振で終わった。

<第2打席目>見逃し三振

3回表、ゲームは西武が1点を取り1対0でオリックスが追いかけていました。

2アウト、一・二塁の場面でむかえたイチローの第2打席はフルカウントまでもつれ、最後は松坂の、鋭く曲がるスライダーがアウトコースに決まり、イチローは見逃し三振に終わりました。

<第3打席>スライダーに空振り三振

6回表、2対0と西武がリードを守っている場面でこの試合3度目の対決を迎えました。

先頭打者でランナーがいない場面のイチローに対して、松坂投手はストレートで勝負します。

5球連続のストレートに対してイチローの打球はすべてファウル。そして最後は136kmのスライダーで、イチローはタイミングを外され空振り三振を喫しました。

滅多に三振することがないイチローが、1人の投手に3打席連続三振を喫したのは、1994年9月27日の近鉄の高村祐投手に封じられて以来、2度目のことでした。

「直球ばかりか、変化球にも力があった」とイチローは感嘆していました。

<第4打席>ファーボール

8回表のイチローの第4打席では、松坂投手は5球全てストレートで勝負しましたが、結果はファーボールとなりました。

「自信から確信に変わりました」

この試合で松坂投手はイチローとの対決を含む13奪三振の快投を見せ、3安打無失点で勝ち投手になりました。

後半になってからも、直球は150km台を連発し、最速154キロを計測しました。

松坂投手は、お立ち台で「今まで自信が持てなかった。でも、今日で自信から確信に変わりました。内容も数字も大事だけど、負けない投手になりたい」と語りました。

そして、この時の「自信が確信に変わった」という松坂の言葉は日本のプロ野球史に刻まれるの名言になりました。

しかし、松坂本人は第3打席で直球ではなく、スライダーでイチローに空振り三振を取ったことには心残りがあったようで、「力と力の勝負がしたかった。まっすぐで空振りさせたら気持ちいいと思っていた。スライダーで三振を取るつもりはなかった」と語りました。

さらに松坂投手は、これからもイチローから三振を狙うと明言しました。

イチローが語る新たなライバル誕生の瞬間

圧倒されたイチローは、「久しぶりに勝負以外でも楽しむことができた」と、悔しさよりも新たなライバルの登場を楽しんでいる様子でした。

試合前に松坂の投球ビデオを見て対策を立てていたものの、結果はお手上げ状態でした。

「見逃した2打席目は、頭の中のイメージとは違うところ(外角寄り)へ球が来たし、空振りした3打席目は、外してくるかと思ったら、ストライクゾーンへ来た」

「(投球のとき)なかなか胸のマークが見えてこない」と打ちにくい理由を分析し、「後半でもあれだけのスピードを出せるんだから、基礎体力があるのでしょう」

このようにイチローは18歳のルーキー松坂投手を絶賛しました。

2度目の対決を制するのは?イチローvs松坂

6月23日の西武ドーム、松坂大輔投手はイチローとの2度目の対決に挑みました。

松坂投手は、自身の得意とするアウトハイのストレートと、どれだけ曲がるか自身でわからないスライダーを用いてイチローを圧倒しようとしました。

この日、松坂投手は合計16球をイチローに対して投じ、その中には9球のストレート、6球のスライダー、そして1球のチェンジアップが含まれていました。

しかし、イチローの対応は計算され尽くされていました。イチローは松坂の投球を慎重に分析し、タイミングを見計らいました。特にストレートに対するイチローの対応は目を見張るものがあり、2度の安打を放ちました。

また、イチローは討ち取られた打席でも空振りはなく、ストレートを打ってレフトフライとセカンドゴロに終わりました。

「狙っていたました」通算100本目のホームランは松坂から!

7月6日、イチローと松坂大輔投手は3度目の対決を迎えました。

この日、松坂投手は8回まで0点に抑え、6勝を挙げていました。イチローは3打数1安打で犠飛が1本で、三振はありませんでした。西武は5点リードした9回裏で、松坂投手は完封目前、先頭打者が奇しくもイチローでした。

松坂投手の初球、145kmのストレートが高めに外れました。続く2球目で松坂投手はスライダーでストライクを取りに来ました。132km、真ん中低めのスライダーに対し、イチローがバットを振り抜きました。

結果はセンターバックスクリーンのすぐ左に飛び込み、イチローの15号ソロ本塁打となりました。

松坂の完封阻止の一撃、日本の野球界に刻まれた瞬間

また、このソロ本塁打は、イチローの通算100号本塁打であり、同時に松坂の完封を阻む一撃となりました。

普段無愛想なイチローは、この一打には妙にハイテンションで、「ホームランは前の打席から狙っていた。100号は松坂君から打った方がみなさんに喜んでいただけると思ってね」と嬉しそうに語りました。

一方松坂投手は、「おめでとうございます。もう勝負できる球ではありませんでした」と祝福、それでも「甘かったですか?」と捕手に聞くなど、イチローを意識している様子でした。

この結果により、完投もできずヒーローインタビューも拒否した松坂は、7勝目にも関わらず嬉しそうな表情は全く見せませんでした。

「平成の怪物」と「天才打者」のその後の激突

松坂大輔とイチローの対決は、まさに「平成の怪物」と「天才打者」の球史に刻まれる名勝負として、野球ファンにとって忘れられない瞬間として今も記憶に刻まれています。

その後、イチローは2001年に、松坂大輔氏は2007年にアメリカのメジャーリーグへ移籍。世界の大舞台でも再び対決が実現します。

二人の対決は、日本から世界へ飛び出した2人のスター選手が、メジャーリーグで力を示し、ライバルとして互いに切磋琢磨する姿が注目を集めました。

イチローが珍しい三塁守備を披露!

この年のイチローは珍しい三塁守備も披露しました。

6月13日のダイエー戦。7回裏、オリックスは三塁の大島公一選手に代打のロベルト・ペレスを送り、続く8回表には仰木彬監督が大島選手の退いた三塁にイチローを抜擢しました。

仰木監督は「普通なら佐竹学か塩崎真だが、2対6と負けていたこともあり、右の代打を温存したかったから」と説明しました。

1995年の東西対抗戦でも一度だけ三塁を守ったことがあるイチローですが、公式戦では初めての経験でした。

「せっかくだから楽しませてもらいました」と笑顔を見せ、この日の試合はファンにとっても特別なものとなりました。

<オールスターゲーム>スーパールーキーたちと先輩スターの共演

1999年7月24日〜26日に行われたオールスターゲームでは、スーパールーキーの松坂大輔(西武)氏と上原浩治(巨人)氏が先発投手として登板し、先輩スターのイチロー(オリックス)と松井秀喜(巨人)氏も出場しました。

この年のセ・パ両リーグのベンチ入り60人の内、21人が初出場組であり、球界の世代交代が一気に進んでいたことがわかります。

松坂投手と上原投手の新人先発対決は特に大きな注目を集め、テレビ視聴率が27.6%を記録しました。

18歳の松坂投手は、立ち上がりから150キロ超えの速球を連発し、3回を2安打5三振で抑えました。一方の上原も3回3安打1失点の2三振でまとめ、勝利投手に輝いたのでした。

そんな中にあっても、このオールスターゲームの主役はやはり史上最多の134万票を集めたイチローでした。イチローはダグアウトで、松坂投手に笑顔で声をかける余裕を見せていました。

イチローがオールスターゲームで見せた真価と自信

イチローは上原投手が初回で2つの三振を奪った後、上原投手渾身のフォークボールをバックスクリーンへ運ぶホームランで、真価を見せつけました。

イチローは「僕としては驚くほどのホームランではなかった」と語り、上原の4球目のフォークを見て、「上原君がもう一度あそこに投げてくれれば、持っていける」という感触があったと明かしました。

さらに、イチローはこのオールスターゲームで、普段のゲームとは異なり、練習や準備をしないでバッターボックスに立っており、自分のコンディションが些細なことでは壊れないという自負を持てるようになったと語っています。

この時のイチローの言葉は、何かを暗示させるものになりました。

海老/YouTube
イチロー抜いたMVPは背番号55

このオールスター初戦を決定づけたのは、オールセントラルの4番バッターを務める背番号55・松井秀喜選手でした。

6回表に篠原貴行(ダイエー)から放った史上初の球宴4試合連続アーチとなる2ランホームランで、見事に第1戦のMVPを受賞しました。

表彰台にはイチロー、上原浩治、松坂大輔、鈴木尚典ら豪華な顔ぶれが揃い、日本プロ野球のスター選手のメジャー移籍が活発化する前でもあったため、このような夢の祭典が実現しました。

2度の月間MVP受賞、763試合連続出場あストップ

1999年シーズン、イチローは5月に17打席連続無安打という自身ワースト記録を更新したにもかかわらず、月間打率.414で月間MVPを受賞しました。さらに、7月には打率.420で2度目の月間MVPを受賞。

前半戦を打率.370・19本塁打・60打点で折り返したイチローは、1995年以来のペースで本塁打を量産していたものの、8月に入ると全身に原因不明の湿疹ができ、打率が下がりました。

また、8月24日の日本ハム戦(富山)の7回裏で、下柳剛投手から右手甲に死球を受け、翌日から戦線離脱。これにより、3年目の開幕戦から続いていた連続出場記録は763試合でストップしました。

その後、シーズン終了まで復帰することはできませんでした。

6年連続首位打者のメジャー移籍への噂

この離脱の影響は大きく、安打数は141安打にとどまり、5年連続最多安打には届かず、自己最多の21本塁打更新もできませんでした。

それでも、3年ぶりに最高出塁率を記録し、自己最高の長打率.572をマーク。ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞し、5年連続最多敬遠も記録、規定打席に達して6年連続で首位打者も獲得しました。

この離脱期間中、メジャーへの移籍話が進んでいると報道されました。しかしイチローは、10月12日の最終戦で来シーズンもオリックスでプレーすることを明言しました。

ただし、「情熱が衰えたわけではない」とも語っており、2000年が日本でのラストイヤーになる予感が漂っていました。

イチローの秘密結婚式

12月3日、アメリカ・ロサンゼルス近郊の高級住宅街で、イチローと元TBSアナウンサーの福島弓子さんは名門ゴルフ場「リビエラ・カントリークラブ」で秘密の婚約式を挙げました。

イチローらしい交際宣言や婚約宣言は一切なしで、留守電で仰木彬監督に結婚を伝える極秘の電撃婚でした。親兄弟や親しい知人ら列席者16人が静かなムードの中で挙式に参列しました。

午後0時30分から始まった式では、イチローが茶色のスーツ、弓子さんが純白ウエディング姿で登場。指輪交換後、2人は英語で結婚の宣誓をし、スチュワート牧師の前で夫婦になることを宣言しました。

その後、2人は熱いキスを交わし、式は約30分間で終了しました。式後は、列席者と昼食会を開き、内輪だけの結婚式らしいほのぼのとした温かいムードで祝福されました。

式場外での慌ただしい様子

イチローとの秘密の結婚式が直前にスポーツ紙にスクープされたため混乱が発生しました。

早朝から報道陣が続々と集まり、約30人が陣取りました。そのため、ゴルフ場の監視員が駆けつけ、敷地の境界線にロープを張り始めました。

黒塗りのリムジンが到着したものの、カメラの列を発見した途端、一度停止し、裏口へ向かいました。

さらに、ロサンゼルス市警のパトカー2台が急遽出動し、制服警官3人が路上の整理を行うなど、ものものしいムードが漂いました。

地元住民も突然の結婚騒動に興味津々で、高級住宅街に日本の報道陣が多数集まったため、行き交う人々が逆取材するほどでした。

敷地内は立ち入り禁止だったため、ある日本の民放テレビ局はヘリコプターをチャーターし、2人の姿を確認しようと上空からの撮影に挑戦するなど、周囲は終始慌ただしいムードでした。

帰国後に神戸で会見

この混乱を避けるため、イチロー、弓子さん、両親らは報道陣の前に姿を見せずに極秘のまま式を終えました。オリックス球団がイチローのコメントを日本で発表しましたが、2人のコメント帰国までお預けとなりました。

そして12月5日、帰国したイチローと弓子さんは神戸で記者会見を行いました。

イチローはゴルフ場での挙式が素晴らしかったと語り、報道で伝えられた熱いキスの件も、実際にはほっぺにチュッとするだけだったと説明しました。

その後、二人は東京・青山で買い物を楽しみ、12月9日〜15日までハワイへ新婚旅行に出発しました。新婚旅行では静かに食事を楽しんだり、散歩を楽しんだりして、新婚気分を満喫した様子でした。

年末には、完成したばかりの総工費6億円と言われる「イチロー御殿」で過ごしました。また、地元・名古屋の後援会関係者に対して、忘年会の席で弓子さんを紹介する予定であるとの話も伝えられました。

二人の出会い

イチローと福島弓子さんが知り合ったのは1994年、イチローが日本初の210本安打を達成した時で、当時TBSのアナウンサーだった弓子さんが取材をしたのがきっかけでした。

その後、ラジオで共演したこともありましたが、本格的に交際を始めたのは1997年8月です。

二人はデートでよく食事に行っており、神戸や東京でよく会っていました。人気のある場所ではなく、静かな場所の馴染みの店を訪れていました。

しかし、怪しまれないように、友人に同席してもらうことが多かったです。イチローは一度、元宝塚の女優・一路真輝との交際が噂されましたが、実際には彼女は「カモフラージュ役」でした。

イチローは、二人のデートの際に周囲の目をつねに警戒しており、店の出入りにも細心の注意を払っていました。

例えば、店での食事の時はイチローがタクシーで、福島弓子さんは友人の車で入るというようにしていました。

帰る時も、別々のタクシー会社を呼んでいました。周囲の目を避けるために、どうやって会うかを二人で相談していたというエピソードもあります。

報じられたウソと真実、そして結婚の理由

1997年のオフシーズンに、イチローは彼女である福島弓子さんを実家に連れて行って両親に紹介しました。この際も、二人は別々の交通手段で移動し、見つかる可能性を低くするために静岡駅で待ち合わせました。

そして1998年1月には二人は婚約、弓子さんは1999年3月にTBSを退社し、島根県松江市に帰りました。

結婚式については、半年以上前から準備が始まり、海外で挙げることが最初から決まっていました。また、結納も行い、ダイヤの婚約指輪を贈りました。

イチローが8歳年上の福島弓子さんと結婚した理由については、年上の女性だと自分の本音を出せることが多いからだと語りましたが、付き合い始めたことに関しては、たまたま出会ってフィーリングが合っただけだと述べています。

また、一部のマスコミは、この結婚はメジャー行きのためで、弓子さんがそのために料理を習っていたり、弓子さはアメリカで語学留学しており英語がペラペラであるといった、出所不明の嘘の情報を報じていました。

実際には、弓子さんはアメリカには一度も行っておらず、英語も得意ではないと語っていました。

メジャー移籍のためといった話についても、イチロー自身がそんなことはないときっぱりと否定しました。

この投稿をInstagramで見る

女性自身(毎日22時⌚️更新)(@joseijisin)がシェアした投稿 –

イチローの年俸が右肩上がりで上昇

イチローの年俸は、右肩上がりで上昇していました。

球団側は、イチローが6年連続首位打者のタイトルを獲得したことに加え、イチローの結婚を祝う「結婚ご祝儀」として、日本球界史上最高となる5億5千万円を提示する態勢になっていました。

そして最終的に、5億3千万円で契約を更新し来季に臨むむことになりました。

閉塞感の中で膨らむイチローのメジャー挑戦への夢

このような華やかな話題にも関わらず、イチローはどこか悩んでいるように見えました。

オリックスは、1996年の日本一以降、観客動員が減少傾向にあり、当たり前に凄いイチロー自身も騒がれることが少なくなっていました。

実際に、開幕前には「自分のすべきことが分からない」と発言しており、次の目標が見えづらくなっていたことが確認できます。これは、まさに天才だからこその悩みでした。

このような閉塞感の中で、イチローのメジャー挑戦への夢はどんどん膨らんでいったと予測されます。

FA(フリーエージェント)権取得はまだ先でしたが、オリックスは1997年に長谷川滋利氏を金銭トレードでエンゼルスに放出するなど、選手のメジャー移籍に前向きな球団でした。

さらにイチローは、今年の2月にシアトル・マリナーズのアリゾナ・キャンプに留学し、メジャーリーグへの挑戦がより身近に感じられるようになっていました。

挑戦に向けた慎重な姿勢と球団の苦境

イチローがFA資格を取得するのは再来年(2001年)ですが、多くの野球ファンはイチローがそれを待たずに来年オフにメジャー入りするだろうと予測していました。

ある野球担当記者によると、オリックスは累積10億円以上の赤字があり、イチローを抱え続けるのは非常に困難であるため、1998年に日米両球界で合意した入札制度を利用してアメリカへの転売がよりメリットがあるとされています。

そんな中で、イチローとオリックスの間では、2000年オフにメジャー移籍することで大筋の合意ができていると言われています。

しかし、イチロー自身はメジャー挑戦に関して慎重な言い回しをしており、「単純に、メジャーへの興味はあります。日本人選手が活躍して、なんとなく距離感も掴めるようにはなった。しかし、メジャーは日本よりもずっと勝ち負けにこだわるドロドロした部分がある。出来るかどうか、行ってみないとわかりません。行けばなんとかなるとは思っているけど、まだ行くとは決まっていない」と語っていました。

読者の皆様へ

1999年は、イチローにとって、打者としての真のスタートを切った年であると同時に、自身の今後の成長と進路について深く思い悩んでいた時期でした。

同時に、イチローのメジャーリーグへの挑戦が現実のものとして認識され始めた時期でもありました。

《日本プロ野球時代のイチロー》日本プロ野球最後の年!メジャー挑戦の舞台裏(2000年)

You might be interested in …

当サイトではプロモーションが含まれています。また、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、これらの設定や使用に同意したことになります。詳細はプライバシーポリシーをご覧ください

X