《イチロー伝説》「自分の形」を発見した日 ── スランプ脱出のきっかけとなったのはセカンドゴロ 〜1999年 オリックス時代〜

この記事は、日本のプロ野球界のレジェンドであるイチロー選手に焦点を当てたものです。イチロー選手は、オリックス・ブルーウェーブで5年連続のパ・リーグ首位打者に輝き、その後シアトル・マリナーズでも大活躍を見せました。

記事では、彼の野球人生の中での様々なエピソードや、同じ時代を生きた松坂大輔選手との対戦、スランプ脱出の瞬間など、ファンならずとも興味深い内容が詳しく紹介されています。また、イチロー選手の人間性や私生活についても触れられており、彼がどのような人物であったかにも迫っています。野球ファンはもちろん、スポーツに興味のある方にもおすすめの記事です。

《イチロー伝説》「形」を求める苦悩。イチローが初めて経験した併殺打増加 〜1998年 オリックス時代〜

Orix BlueWave in 1999

1999年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

PitcherPicture/YouTube

オリックス・ブルーウェーブのイチローが、5年連続の首位打者に輝くという偉業を成し遂げましたが、彼自身は「これが本当の実力ではない」と語り、今シーズンから本当の実力を発揮する戦いが始まると宣言しています。

過去5年間、イチローは打率.385(1994年)、.342(1995年)、.356(1996年)、.345(1997年)、.358(1998年)という驚異的な数字を残し、日本プロ野球界をリードしました。しかし、彼はこれらの記録を半分の出力で達成したとし、自分の持っている力の50%しか使えていなかったと語ります。

イチローは「オリックスに入団して7年、自分は常にベストを目指してきた。どんな状況にあろうと持てる力を絞り出すようにして打席に立ってきた。ぎりぎりのところまで自分を追い込まなければ、この結果は残せなかったんです。心のどこかで、自分の力はこんなもんじゃないはずだと言い聞かせていた」と述べています。

そして、今年になって「限界という天井」を突き破る術を見つけたというイチローは、自身の本当の実力を発揮する戦いがようやく始まったばかりだと語ります。

マリナーズのスプリングトレーニングに参加しメジャーの世界に触れる

1999年シーズン開幕前の2月、オリックス・ブルーウェーブのイチローは、チームメイトの星野伸之や戎信行とともに、業務提携していたシアトル・マリナーズのスプリングトレーニングに招待され、2週間参加しました。この期間、彼はケン・グリフィーJr.とキャッチボールを行い、ジェイミー・モイヤーを打撃投手としてフリーバッティングを楽しみました。

イチローは、本場のメジャーリーガーたちと触れ合い、アメリカンベースボールを肌で感じたことにより、「1日で日本へ帰りたくなくなった」と語っています。一方、アレックス・ロドリゲスはイチローのバッティングについて、「左のモイヤーの球を苦もなくヒットにする。打率で.330から.340、盗塁も70から80はできるだろう」と評価し、ルー・ピネラ監督も絶賛しました。

イチローは、キャンプ中にスペアリブを食べて食あたりを起こすという、まさかのハプニングにも見舞われましたが、2週間のキャンプを終え「メジャーでやるなら、シアトル・マリナーズでやりたい」と語りました。

さらに「メジャー挑戦は冒険といえば冒険ですね。もちろん、心に秘めた自信はあります。行くなら当然、レギュラーでやらなければダメでしょう。一方で、メジャーに行きコテンパンにやられてみたい思いもある。そこから学ぶことができるわけですから」とメジャーの凄さを感じていた。

だが実際のイチローの心のうちは「この程度なの?」と少しがっかりした様子で、限界にチャレンジする緊張感が伝わってこないと感じていました。イチローは「どこまで行けば自分にとってのピークがあるのか。今はそこに挑んでいるところです」と語り、いつかメジャーの選手たちがどのようにモチベーションを上げ、パワーを構築していく過程が見てみたいと思っていました。

この経験が後に、イチローがメジャーリーグに挑戦する決心を固めるきっかけとなりました。

Safeco Marquee
「イチローを育て、シアトルに導くため」マリナーズのスカウトの興味

イチローには、1990年から1993年にかけてオリックスの投手コーチを務めていたジム・コルボーンという強力な味方がいました。彼はイチローがまだ二軍の鈴木一朗として在籍していた当時から、その潜在能力の高さに興味を示していました。

その後、マリナーズのスカウトに転身したコルボーンは、イチロー獲得に尽力しました。彼は冬場の自主トレで南カリフォルニアにある場所にイチローを送り、近くに住んでいた彼自身がノックや打撃投手を務めました。コルボーンには、イチローの上達を手助けしたいというコーチとしての思いと、マリナーズのスカウトとしてイチローの意識をシアトルに向けさせたいという2つの思いがあったのです。

そして1999年、コルボーンはイチローがマリナーズのスプリングキャンプに2週間特別参加できるように手配しました。このキャンプがイチローにとって貴重な経験となり、後に彼がシアトル・マリナーズでのメジャー挑戦を決意するきっかけとなりました。

スランプからの復活、イチローが見つけた感覚

イチローは、シーズン開幕から調子が上がらず、数年間のスランプを引きずっていた。彼は開幕に向けて万全の準備をしていたが、何かが違っていた。思い通りのバッティングができず、序盤では打率が.230まで落ち込んでしまった。

監督、コーチ、チームメイトたちもイチローを心配していた。このままでは首位打者どころか、イチローらしさすらも失われてしまうのではないかという懸念があった。

イチローはこれまで、次のように語っていた。「たしかに首位打者になりましたが、自分としては全く満足できませんでした。1995年からの4年間、バッティングにおいて何を目指すべきかを模索しながら苦労していました。1994年の途中までは簡単にヒットが打てると思っていたのですが、次第にそれが難しくなっていきました。ヒットを打てる感覚があるのに、体が思うように動かないんです。イメージはあるけど、表現できない。どうすればできるのか全くわからない。自分の感覚では半分の力しか出せていない、そんな感じでした。苦しい時期でしたね」

そんなイチローはある日「ある打席をきっかけに、僕の苦しみは終わりました。それどころか、打者としてずっと探していた感覚を見つけることができた」と語った。

自分が何をやりたいのか探しつづけた4年間

シーズンでは開幕から調子があがらず、数年間のスランプをひきずっていた。

自分では万全の準備をして臨んだ開幕。な のに、何かが違っていた。自分ではしっかり とやっているつもりなのに、思い通りのバッ ティングができない。序盤、打率は.230 にまで落ち込んだ。

監督もコーチも、 チームメイトたちも、イチローをすごく心配していた。このままでは首位打者はおろか、 イチローらしさすらも失われてしまうのでは ないか、と。

イチローずっと、 こう言い続けていた。 「確かに結果は首位打者でしたが、自分では ちっとも満足できませんでした。だって95年 からの4年間は、バッティングにおいて自分 は何をやりたいのかってことを探しながら、 もがき苦しんできましたから。94年の途中ま ではヒットなんて簡単に打てると思っていた けど、それがだんだん難しくなってきた。 自 分の中にはヒットを打てる感覚があるにもか かわらず、体が思うように動いてくれないん です。イメージはある、でもそれが表現でき ない。どうすればできるのかが、まったくわ からない。自分の感覚では半分の力しか出せ てない、そんな感じでしたからね。それはそ れは苦しかったです」

そんなイチローがある日「ある打席をきっかけ に、僕の苦しみは終わったんです。それどこ ろか、打者としてずっと探しつづけていた感覚をを見 つけることができた」と言った。

運命のセカンドゴロ

1999年4月11日、ナゴヤドームでの西武戦で、イチローは第5打席で西崎幸広からセカンドゴロを放ちました。

このセカンドゴロは、イチローにとって大変重要な打席でした。その瞬間、彼は自分の打撃に対する新たな理解を得たと感じたのです。表面的には単なるアウトに見えたその打席で、イチローはボールを目と脳で完璧に捉えることができたと言います。

その経験から、イチローは球を正確に捉えるために必要な体の使い方を理解することができました。イチローは「あっ、これだ」とはっきりと気づいた瞬間だったと振り返ります。

自分のバッティングフォームを逆再生して確認

イチローがセカンドゴロを打った後、彼は口元を少し緩ませて、オーロラビジョンに映し出された自分のバッティングを2度も振り返って確認していました。

セカンドゴロを打ち、一塁まで走っている間、イチローはその時のフォームを自分のイメージの中で逆に再生してみたと言います。フォロースルー、インパクトの瞬間、トップの位置という感じで、バッティングフォームを巻き戻してみました。

その結果、イチローは実際のフォームと自分のイメージの中のフォームが重なって見え、どこがずれているのかがわかったと言います。本当はある方法で打ちたかったのに、ズレていたために良い打球が飛ばなかったと気づいたのです。しかし、脳ミソで捉えるまでの球の見え方や体の使い方は完璧だった、そのイメージはずっと探していたものであり、この時、老廃物が体から気持ちよく抜けたような感覚だったと語っています

打球の質を追求し、見つけた感覚

イチローは3割5分の打率を残し続けてきたこれまでのバッティングに不満を感じていた理由は、打球の質だと考えていました。

練習では無意識にできることが、実際の試合ではなかなかできない、いい打球が何度か出ても、その理由が確認できなかったと言います。しかし、あのセカンドゴロを打った時、初めてその理由を確認できた。つまり、イチローが見つけた感覚が、打球の質を向上させるための鍵であったということです。

半分の力しか出せていなかった去年までの自分との差

イチローは、この時獲得した感覚を次からの試合ですぐに出すことができました。これほど具体的な答えを手にしたことはこれまでなかったと振り返りました。去年までは半分の力しか出せていなかったが、今では80〜90%まで出せる可能性があると言います。

さらに、仮に今4割の打率を残せたとしても、自分では驚かないだろうとイチローは語ります。

去年までの自分ではきるはずもなかった。しかし、今は周囲のそうした期待に応えられる可能性がある。極端なことを言えば、野球選手としてのスタートを、今年ようやく切れたと言えるとイチローを確信を持って言いました。

【イチローがつかんだ感覚】バッティングの「静止前」と「静止後」とは?

ではイチローが獲得した新しい打撃法とは一体どのようなものなのだろうか?

これについて具体的な説明を求められると、それが個人的な感覚であり、自分にしか理解できないため、表現することが難しいとイチローは語ります。それは自分は独自の打ち方を持っており、その打ち方が他の人とは違うため、解説が難しいと言います。

そのなかでも、上半身と下半身にそれぞれ1つずつポイントがあると述べ、要は体の使い方が鍵であることを言いました。しかし、これ以上の説明はできませんでした。

弓を引くような静止感覚

イチローがつかんだ感覚は、バッティングにおける「静止前」と「静止後」の理解でした。

要するに、イチローがつかんだ感覚は、弓を引く時にどのような形で静止すべきか、そしてその形を作るために体のどの部分をどのように使うべきかを理解することでした。彼はこの感覚を頭と体で理解し、良い打球が打てる理由を把握することができました。

この理解は、イチロー独自のバッティングの奥義であり、弓を引く動作に例えることができます。弓を目一杯引いて、風や的の位置を研究し尽くし、自分のフォームや力を入れる場所、精神状態を整えて美しい形で静止し、そして狂いのない動作で弓を射る。このような弓の射る動作は、「静止前」と「静止後」に分けることができます。

イチローのバッティングの秘密

イチローは実際には止まらないものの、バッティングの動作を「静止前」と「静止後」に分けて感覚的に認識していました。

「静止前」と「静止後」の分岐点は、右足が前に出て着地しようとする瞬間です。彼はボールをバットに当たる瞬間ではなく、投手の手からボールが離れた瞬間にヒットが打てるかどうか、良い打球が打てるかどうかが決まると考えています。その時までの体の使い方と、それ以降の体の使い方で意識するポイントが変わります。

打席に立つイチローは、右足を振り上げ、ピッチャーの手からボールが離れる瞬間にタイミングを合わせます。その時点から右足が着地するまでの「静止前」の意識は、主に下半身の右側、つまり右足全体に置かれています。この段階では、右足と下半身の動きに集中し、バットとボールが接触する瞬間に向けて体勢を整えます。

これはボールを見ている間の動きに関連しています。その後、イチローは上半身の胴体部分の左側、胸筋や背筋に意識を移します。これは下半身の右から上半身の左への移動であり、ひねる感覚を含んでいますが、それだけではありません。

イチローがつかんだ感覚は、下半身の右側に意識を置いた時、つまりボールを見ている時の体の使い方でした。

7割の確率でストライクボールを捉える打撃の奥義

弓で例えると、イチローは、弓を目一杯引いた時に矢に最も効果的に力を伝えるための体の使い方を頭の中で理解したと言います。これは「静止前」の形であり、自分次第で創り得るものです。これはピッチャーの投げる球にかかわらず行える準備の一つでした。

イチローは、この「静止前」の形をどうやって作ればいいのかという感覚をつかんだことで、7割の確率でストライクを捉え、いい打球を打てると自信をもって言っていました。

イチプロ野球史上最速で1000安打はホームランで!

2023年4月20日、日本プロ野球史上最速の1000安打に王手をかけていたイチローが日本ハム戦(東京ドーム)でプレーしました。しかし、相手先発の金村曉の好投のおかげで、9回表の最後の攻撃を迎えるところで0対10と大敗ムードが漂っていました。

それでも、無死一塁の場面でイチローが打席へ立ち、観客の興味はイチローの1000安打達成と金村の3連続完封のどちらが実現するかに移りました。

結果はイチローが低めに落ちる難しい球を捉え、詰まりながらもスタンドイン。金村の開幕3試合連続完封の快挙を打ち砕く一振りに、2万人の観衆が大歓声で祝福し、東京ドームは沸き立ちました。いつものように淡々とダイヤモンドを1周したイチローは、敵地にもかかわらず東京ドームのビジョンに映し出された「祝イチロー選手1000本安打達成」という文字に包まれました。ホームベースを踏んだ後、花束を渡され、初めて笑顔を見せた。

イチローの1000安打はプロ野球史上194人目の快挙でしたが、わずか757試合で達成したことは特筆すべきことで、従来の記録であるブーマーの781試合を24試合も更新しました。

イチローの恩師たちも関心

「ホームランで決めたところがすごい。3連続シャットアウトを阻止したのもすごい」と、5連敗で渋い表情の仰木監督も愛弟子の活躍に感心しました。

イチローと二人三脚で野球人生を歩んできたチチローこと鈴木宣之も、三塁側スタンドで観戦していました。「やった。バンザイ。うわあ、ホームランで決めた」と感激し、打った直後からスタンドのオリックスファンから握手攻めに遭いました。

試合後のコメントやボールの行方に注目

イチローは興奮を隠しきれない様子でインタビューに応じました。彼は、「シュートかチェンジアップかフォークかよく分からないけれど、変化球でした。(最速は)どんな感じと言われても……。速いですね。この一瞬を楽しみにしている人に喜んでもらったら、それで良かったと思います」と語りました。

試合は0-10のワンサイドゲームでしたが、日本ハム先発の金村選手には開幕3試合連続完封という史上初の記録がかかっていました。その夢まであと1イニングという状況で、イチローは燃えたと語りました。「ああいう集中しにくい場面で集中できたことは評価したい」と、イチローは第4打席を振り返りました。

「でもあのボールは戻ってこないでしょうね。ちょっぴり複雑です。欲しいなあ」と、イチローの父・チチローも願いました。

しかし、幸運にもその願いは叶いました。ボールを拾った大学生の塩沢広基さんは、イチロー選手にとって大切なボールだと考え、係員に託しました。その後、球場事務所でサイン入りのボールと交換し、塩沢さんも満足そうでした。

しかしチームは5連敗、イチローが追求し続ける打撃のこだわり

イチローが1000安打の記録を達成しましたが、チームは5連敗を喫し、その喜びもひとしおではありませんでした。試合後の会見で、イチロー選手は記録達成に対する喜びと、チームの不振に対する懸念を同時に語りました。

試合後のインタビューで、記者から「1000安打、どういう感じですか」という曖昧な質問が飛び出すと、イチロー選手は「どんな感じと言われても、例えば」と相手に目を向けました。続けて、打撃について質問されたイチロー選手は、「打てば打つほど、分かれば分かるほどバッティングは難しくなりますね。早かったな、という印象です。待っていたファンのみなさんに喜んでいただけたのはよかった。今日のような状態では集中するのが難しいですが、それはうまくいったと思います」と答えました。

イチローは過去に多くの記録を打ち立て、その功績は誰もが知るところである。しかしその裏には、多くの苦悩やプレッシャーがあった。今のイチローは、過去の栄光にとらわれず、打撃の内容にこだわりを持って取り組んでいる。

それは、イチローが自身の実力を磨くためだけでなく、チームの勝利に貢献するためでものだった。

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「平成の怪物」vs」天才打者」松坂大輔とイチローの夢の対決

この年は、松坂大輔vsイチローという夢の対決が実現しました。

松坂は、横浜高校を卒業して1年目の18歳で、前年の甲子園では春夏連覇を果たすなど、“平成の怪物”というニックネームに相応しい活躍を見せていました。

松坂は横浜高校時代、イチロー選手を「日本一のバッター」として憧れ、「自分だったらどう抑えるか」という対戦イメージを抱き続けてきました。そして、プロ入り後の目標として、「プロに入ったら対戦してみたいバッター」の筆頭にイチローの名前を挙げていました。

松坂は、西武ライオンズの入団会見で、「イチローさんを力でねじ伏せたい」と語り、その熱い決意を示していました。18歳の松坂大輔は夢の対決に向けて誓いを立てていたのです。

1999年5月16日 西武ライオンズvsオリックス・バファローズ

そして1999年5月16日、西武ライオンズの松坂大輔とオリックス・バファローズのイチローが、西武ドームでの試合で初めて対決しました。当時、松坂は西武の高卒ルーキーで、イチローは史上初の5年連続パ・リーグの首位打者に輝いた球界を代表する打者でした。

対戦を前にして、25歳のイチローは「持てるものを全部出してほしい。僕もそうする」と語りました。この2人の初対決は、マスコミにも大々的に取り上げられ、西武とオリックスのファンのみならず、普段プロ野球にはあまり関心のない多くの人たちにも注目されました。

日曜日のデーゲームということもあり、約100人の徹夜のファンが出て早朝から門の前に長蛇の列ができました。開場は20分も早まり、最終的に球場には約5万人の観客が詰めかけました。約600台収容の駐車場も開場からわずか45分で満車となりました。

<第1打席目>注目の初対決

1回2アウトランナーなし、カメラによる無数のフラッシュが焚かれ、バッターボックスまでを照らし出した。

松坂が初球に投じたのはインコース低めの149kmのストレート、これはボールになった。2球目に投じたのはインコース高めの153kmのストレート、これをイチローは強振してファウルになった。次にスライダーをアウトコースに2球続け、カウントは2ボール2ストライク。

運命の6球目、松坂が投じたのはアウトコース高めの147kmのストレート、見逃せばボールになる可能性もあった。イチローは前の球であるスライダーを見逃しており、ストレートに絞っていた。それも内角にくると予測していたのか、重心がかかとに残っており、いつものスイングではありませんでした。

そしてイチローのバットは空を切り、初対決の結果はイチローの空振り三振で終わった。

<第2打席目>見逃し三振

3回表、2死一、二塁の場面です。この時点でスコアは西武の1対0。フルカウントからの6球目、フィニッシュはアウトコー

3回、ゲームは西武が1点を取り1対0でオリックスが追いかけていました。2アウト、一・二塁の場面でむかえたイチローの第2打席はフルカウントまでもつれ、最後は松坂の、鋭く曲がるスライダーがアウトコースに決まり、イチローは見逃し三振しました。

<第3打席>スライダーに空振り三振

6回表、2対0と西武がリードを守っている場面でこの試合3度目の対決を迎えました。

先頭打者でランナーがいない場面のイチローに対して、松坂はストレートで勝負します。5球連続のストレートに対してイチローの打球はすべてファウルになった。そして最後は136kmのスライダーで、イチローはタイミングを外され空振り三振を喫しました。

滅多に三振することがないイチローが、1人の投手に3打席連続三振を喫したのは、1994年9月27日の近鉄の高村祐に封じられて以来、2度目のことでした。「直球ばかりか、変化球にも力があった」とイチローが感嘆したという。

<第4打席>ファーボール

8回表のイチローの第4打席では、松坂が投じた5球全てストレートで攻めましたが、結果はファーボールとなりました。

「自信から確信に変わりました」

この試合で松坂大輔はイチローとの対決を含む13奪三振の快投を見せ、3安打無失点で勝ち投手になりました。後半になってからも、直球は150km台を連発し、最速154キロを計測しました。

このイチローとの対決が、松坂の潜在能力を引き出し、彼の自信を確信に変えるきっかけとなりました。松坂は、お立ち台で「今まで自信が持てなかった。でも、今日で自信から確信に変わりました。内容も数字も大事だけど、負けない投手になりたい」と語りました。

ただ、第3打席で直球ではなく、スライダーでイチローに空振り三振を取ったことには心残りがあったようです。「力と力の勝負がしたかった。まっすぐで空振りさせたら気持ちいいと思っていた。スライダーで三振を取るつもりはなかった」と松坂は振り返りました。

さらにこれからもイチローから三振を狙うと松坂は語っていました。

イチローが語る新たなライバル誕生の瞬間

松坂に圧倒されたイチローは、「久しぶりに勝負以外でも楽しむことができた」と、悔しさよりも新たなライバルの登場を楽しんでいる様子でした。試合前に松坂の投球ビデオを見て対策を立てていたものの、結果はお手上げ状態でした。

イチローは、松坂の速い直球や変化球の力を称賛し、「見逃した2打席目は、頭の中のイメージとは違うところ(外角寄り)へ球が来たし、空振りした3打席目は、外してくるかと思ったら、ストライクゾーンへ来た」と語りました。さらに、「(投球のとき)なかなか胸のマークが見えてこない」と打ちにくい理由を分析し、「後半でもあれだけのスピードを出せるんだから、基礎体力があるのでしょう」と18歳のルーキー松坂を絶賛しました。

2度目の対決を制するのは?イチローvs松坂

6月23日の西武ドームで、松坂大輔は2度目の対決でイチローに挑みました。松坂の武器であるアウトハイの伸びるストレートと、曲がるかどうかわからないスライダーを駆使しました。しかし、この日はストレートを2度打たれ、レフトへの犠牲フライとセンター前ヒットを許しました。また、イチローが凡退した2打席でもストレートを打ってレフトフライとセカンドゴロを記録しました。

この日の対決では、松坂が投じたストレート9球、スライダー6球、チェンジアップ1球の合計16球を、イチローはじっくりと見極めていました。

「狙っていたました」通算100本目のホームランは松坂から!

7月6日、イチローと松坂大輔は3度目の対決を迎えました。この日、松坂は8回まで0点に抑え、6勝を挙げていました。イチローは3打数1安打で犠飛が1本で、三振はありませんでした。西武は5点リードした9回裏で、松坂は完封目前、先頭打者がイチローでした。

松坂の初球、145kmのストレートが高めに外れました。2球目で松坂はスライダーでストライクを取りに来ました。132km、真ん中低めのスライダーに対し、イチローがバットを振り抜きました。結果はセンター、バックスクリーンのすぐ左に飛び込むイチローの15号ソロ本塁打となりました。

松坂の完封阻止の一撃、日本の野球界に刻まれた瞬間

イチローが松坂大輔から放ったソロ本塁打は、イチローの通算100号本塁打であり、同時に松坂の完封を阻む一撃となりました。普段無愛想なイチローは、この一打に妙にハイテンションで、「ホームランは前の打席から狙っていた。100号は松坂君から打った方がみなさんに喜んでいただけると思ってね」と語りました。

一方、松坂は捕手に「甘かったですか?」と聞くと、「おめでとうございます。もう勝負できる球ではありませんでした」と返答がありました。

この結果により、完投もできず、ヒーローインタビューも拒否した松坂は、7勝目にも関わらず嬉しそうな表情は全く見せませんでした。しかし、松坂とイチローの名勝負は、野球ファンにとって忘れられない瞬間として記憶に刻まれています。

「平成の怪物」と「天才打者」

松坂大輔とイチローの対決は、まさに「平成の怪物」と「天才打者」の球史に刻まれる名勝負として。、野球ファンにとって忘れられない瞬間として記憶に刻まれています。

その後、イチローは2001年に、松坂は2007年にアメリカのメジャーリーグへ移籍。世界の舞台でも再び対決することになります。

二人の対決は、日本から世界へ飛び出した2人のスター選手が、メジャーリーグで力を示し、ライバルとして互いに切磋琢磨する姿が注目を集めました。彼らの活躍は、日本のプロ野球界だけでなく、世界の野球ファンにも感動を与え、記憶に残る名勝負として語り継がれています。

イチローが珍しい三塁守備を披露!

この年、イチローは珍しい三塁守備を披露しました。

6月13日のダイエー戦。7回裏、オリックスは三塁の大島公一に代打のロベルト・ペレスを送り、続く8回表には仰木彬監督が大島の退いた三塁にイチローを回しました。仰木監督は「普通なら佐竹学か塩崎真だが、2対6と負けていたこともあり、右の代打を温存したかったから」と説明しました。

1995年の東西対抗で一度だけ三塁を守ったことがあるイチローですが、公式戦では初めての経験でした。「せっかくだから楽しませてもらいました」と笑顔を見せ、この日の試合はファンにとっても特別なものとなりました。

<オールスターゲーム>スーパールーキーたちと先輩スターの共演

1999年7月24日〜26日に行われたオールスターゲームでは、スーパールーキーの松坂大輔(西武)と上原浩治(巨人)が先発投手として登場し、先輩スターのイチロー(オリックス)と松井秀喜(巨人)も出場しました。この年のセ・パ両リーグのベンチ入り60人の内、21人が初出場組であり、球界の世代交代が一気に進んでいたことがわかります。

松坂と上原の新人先発対決は大きな注目を集め、テレビ視聴率が27.6%を記録しました。18歳の松坂は、立ち上がりから150キロ超えの速球を連発し、3回を2安打5三振で抑えました。一方の上原も3回3安打1失点の2三振でまとめ、勝利投手に輝いたのでした。

それでも、このオールスターゲームの主役は史上最多の134万票を集めたイチローでした。イチローはベンチで、松坂に笑顔で声をかける余裕を見せていました。

イチローがオールスターゲームで見せた真価と自信

上原浩治が初回で2つの三振を奪った後、イチローは上原が投げるフォークボールをバックスクリーンへ運ぶホームランで、真価を見せつけました。イチローは「僕としては驚くほどのホームランではなかった」と語り、上原の4球目のフォークを見て、「上原君がもう一度あそこに投げてくれれば、持っていける」という感触があったと明かしました。

さらに、イチローはこのオールスターゲームで、普段のゲームとは異なり、練習や準備をしないでバッターボックスに立つことで、自分のコンディションが些細なことでは壊れないという自負を持てるようになったと語ります。

史上最高の134万票以上で出場したイチローは、ファンの期待に応え、熱い応援を楽しんでいました。これまでに何度もファンの声援が重圧であった時期を乗り越えた彼は、現在新しい頂点に向けての疾走を開始しています。このオールスターゲームは、イチローにとって自信を持つための重要な一歩となりました。

海老/YouTube
イチロー抜いたMVPは背番号55

このオールスター初戦を決定づけたのは、全セの4番バッターを務める背番号55でした。6回表に篠原貴行(ダイエー)から放った史上初の球宴4試合連続アーチとなる2ランホームランで、見事に第1戦のMVPを受賞しました。表彰台にはイチロー、上原浩治、松坂大輔、鈴木尚典ら豪華な顔ぶれが揃い、日本プロ野球のスター選手のメジャー移籍が活発化する直前に、夢の祭典が実現しました。

2度の月間MVP受賞も湿疹と死球により763試合連続出場ストップ

1999年シーズン、イチローは5月に17打席連続無安打という自身ワースト記録を更新したにもかかわらず、月間打率.414で月間MVPを受賞しました。さらに、7月には打率.420で2度目の月間MVPを受賞。

前半戦を打率.370・19本塁打・60打点で折り返したイチローは、1995年以来のペースで本塁打を量産していたものの、8月に入ると全身に原因不明の湿疹ができ、打率が下がりました。

8月24日の日本ハム戦(富山)の7回裏で、下柳剛から右手甲に死球を受け、翌日から戦線離脱。これにより、3年目の開幕戦から続いていた連続出場記録は763試合でストップしました。その後、シーズン終了まで復帰できなかった。

6年連続首位打者のメジャー移籍への噂

イチローは1999年シーズン、規定打席に達して6年連続で首位打者を獲得しましたが、安打数は141安打にとどまり、5年連続最多安打には届かず、自己最多の21本塁打更新もできませんでした。それでも、3年ぶりに最高出塁率を記録し、自己最高の長打率.572をマーク。ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞し、5年連続最多敬遠も記録しました。

離脱期間中、メジャーへの移籍話が進んでいると伝えられましたが、10月12日の最終戦で来季もオリックスでプレーすることを明言しました。ただし、「情熱が衰えたわけではない」と断言。2000年が日本でのラストイヤーになる予感が漂っていました。

イチローの秘密結婚式

1999年12月3日、アメリカ・ロサンゼルス近郊の高級住宅街で、イチローと元TBSアナウンサーの福島弓子さんは名門ゴルフ場「リビエラ・カントリークラブ」で秘密の婚約式を挙げました。イチローらしい交際宣言や婚約宣言は一切なしで、留守電で仰木彬監督に結婚を伝える極秘の電撃婚でした。親兄弟や親しい知人ら列席者16人が静かなムードの中で挙式に参列しました。

午後0時30分から始まった式では、イチローが茶色のスーツ、弓子さんが純白ウエディング姿で登場。指輪交換後、2人は英語で結婚の宣誓をし、スチュワート牧師の前で夫婦になることを明言しました。その後、2人は熱いキスを交わし、式は約30分間で終了しました。式後は、列席者と昼食会を開き、内輪だけの結婚式らしいほのぼのとした温かいムードで祝福されました。

式場外での慌ただしい様子

イチローとの秘密結婚式が直前にスポーツ紙にスクープされたため、式場外は慌ただしい雰囲気でした。早朝から報道陣が続々と集まり、約30人が陣取りました。そのため、ゴルフ場の監視員が駆けつけ、敷地の境界線にロープを張り始めました。

黒塗りのリムジンが到着したものの、カメラの列を発見した途端、一度停止し、裏口へ向かいました。さらに、ロサンゼルス市警のパトカー2台が急遽出動し、制服警官3人が路上の整理を行うなど、ものものしいムードが漂いました。

地元住民も突然の結婚騒動に興味津々で、高級住宅街に日本の報道陣が多数集まったため、行き交う人々が逆取材するほどでした。敷地内は立ち入り禁止だったため、ある日本の民放テレビ局はヘリコプターをチャーターし、2人の姿を確認しようと上空からの撮影に挑戦するなど、周囲は終始慌ただしいムードでした。

帰国後に神戸で会見

混乱を避けるため、イチロー、弓子さん、両親らは報道陣の前に姿を見せずに極秘のまま式を終えました。オリックス球団がイチローのコメントを日本で発表しましたが、2人のコメント帰国までお預けとなりました。

1999年12月5日、帰国したイチローと弓子さんは神戸で記者会見を行いました。イチローはゴルフ場での挙式が素晴らしかったと語り、報道で伝えられた熱いキスの件も、実際にはほっぺにチュッとするだけだったと説明しました。その後、二人は東京・青山で買い物を楽しみ、12月9日から15日までハワイへ新婚旅行に行きました。新婚旅行では静かに食事を楽しんだり、散歩を楽しんだりして、新婚気分を満喫した様子でした。

年末には、完成したばかりの総工費6億円と言われる「イチロー御殿」で過ごしました。また、地元・名古屋の後援会関係者に対して、忘年会の席で弓子さんを紹介する予定であると伝えられています。

二人の出会い

イチローと福島弓子さんが知り合ったのは1994年、イチローが日本初の210本安打を達成した時で、当時TBSのアナウンサーだった弓子さんが取材をしたのがきっかけでした。その後、ラジオで共演したこともありましたが、本格的に交際を始めたのは1997年8月です。

二人はデートでよく食事に行っており、神戸や東京で会うことが多かったです。人気のある場所ではなく、静かな場所の馴染みの店を訪れていました。しかし、怪しまれないように、友人に同席してもらうことが多かったです。イチローは一度、元宝塚の女優・一路真輝との交際が噂されましたが、実際には彼女は「カモフラージュ役」だったようです。

イチローは、二人のデートの際に周囲の目を警戒しており、店の出入りにも気を使っていました。例えば、彼がタクシーで店に行き、彼女は友人の車で入るというようにしていました。帰りも、別々のタクシー会社を呼んでいました。周囲の目を避けるために、どうやって会うかを二人で相談していたというエピソードが語られています。

報じられたウソと真実、そして結婚の理由

1997年のオフシーズンに、イチローは彼女である福島弓子さんを実家に連れて行って両親に紹介しました。この際、二人は別々の交通手段で移動し、見つかる可能性を低くするために静岡駅で待ち合わせました。1998年1月には、二人は結婚を約束し、弓子さんは1999年3月にTBSを退社し、島根県松江市に帰りました。

その間に報じられた彼女が料理を習っていたり、アメリカで語学留学していたという情報は全てウソであり、彼女はアメリカには一度も行っていません。結婚式については、半年以上前から準備が始まり、海外で挙げることが最初から決まっていました。また、結納も行い、ダイヤの婚約指輪を贈りました。

イチローが8歳年上の福島弓子さんと結婚した理由については、年上の女性と自分を出せることが多いからだと語りましたが、彼女に関しては、たまたま出会ってフィーリングが合っただけだと述べています。また、結婚がメジャー行きのためだという噂もありましたが、イチローはそんなことはないと否定しました。彼女が英語がペラペラだと報道されていることについても、実際にはそんなに得意ではないと語っています。

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イチローの年俸が右肩上がりで上昇

イチローの年俸は、右肩上がりで上昇していました。球団側は、イチローが6年連続首位打者のタイトルを獲得したことに加え、イチローの結婚を祝う「結婚ご祝儀」として、日本球界史上最高となる5億5千万円を提示する態勢になっていました。最終的に5億3千万円で契約を更新し来季に臨むむことになりました。

閉塞感の中で膨らむイチローのメジャー挑戦への夢

イチローは、華やかな話題にも関わらず、悩んでいるように見えました。1996年のオリックス日本一以降、観客動員が減少傾向にあり、イチロー自身も騒がれることが少なくなっていました。開幕前に「自分のすべきことが分からない」と発言したこともあり、次の目標が見えづらくなっていたことは確かでしょう。これは、まさに天才だからこその悩みでした。

閉塞感の中で、イチローのメジャー挑戦への夢はどんどん膨らんでいたはずです。FA(フリーエージェント)権取得はまだ先でしたが、オリックスは1997年に長谷川滋利を金銭トレードでエンゼルスに放出するなど、選手のメジャー移籍に前向きな球団でした。イチローは2月にシアトル・マリナーズのアリゾナ・キャンプに留学し、メジャーリーグへの挑戦がより身近に感じられるようになっていました。

挑戦に向けた慎重な姿勢と球団の苦境

イチローがFA資格を取得するのは再来年(2021年)ですが、多くの人々は彼がそれを待たずに来年オフにメジャー入りするだろうと予測していました。野球担当記者によると、オリックスは累積10億円以上の赤字があり、イチローを抱え続けるのは非常に困難であるため、1998年に日米両球界で合意した入札制度を利用してアメリカへの転売がよりメリットがあるとされています。イチロー自身とオリックスの間では、2000年オフにメジャー移籍することで大筋の合意ができていると言われています。

しかし、イチロー自身はメジャー挑戦に関して慎重な言い回しをしており、「単純に、メジャーへの興味はあります。日本人選手が活躍して、なんとなく距離感も掴めるようにはなった。しかし、メジャーは日本よりもずっと勝ち負けにこだわるドロドロした部分がある。出来るかどうか、行ってみないとわかりません。行けばなんとかなるとは思っているけど、まだ行くとは決まっていない」と語っていました。

《イチロー伝説》「自分の形」を発見した日 ── スランプ脱出のきっかけとなったのはセカンドゴロ 〜1999年 オリックス時代〜

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