
【イチロー伝説】「形」を求める苦悩。イチローが初めて経験した併殺打増加 -1998-
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NPB(日本野球機構) パ・リーグ
1998年 オリックス・ブルーウェーブ

深刻度を増すスランプ
イチローのプロ入り後初めての2ケタの10併殺は97年。39試合消化時点で、5分の4にまで達し、あのバットコントロールの上手いイチローがその驚きの声が上がっていた。
自分の口からは言いにくい、としたイチローを代弁して、新井宏昌打撃総合コーチが重い口を開いた。「バットの芯でとらえた当たりが、不運にも野手の正面をつき併殺打になるのが、これまでのイチローのパターン。でも今年は違う。併殺打になるべくしてなっている。つまり打ち取られている当たりがそのまま併殺打になっている」。
【5月21日】1998年(平10) イチロー パ・リーグタイ記録に「自分の口からは言いにくい」/Sponichi Annex.2012
実際に同年シーズンは21併殺打を記録し、5月には当時のパ・リーグワーストタイ記録となる4試合連続併殺打を記録している。
イチロー/球技スポーツ選手名鑑
自分の形を探し求めていた……。
「1998年までの僕は、自分の『形』を探すのに精一杯だったのです。世の中の人の中には、『形』が変われば、それを進化と評価する人もいますけど、僕の場合は退化だったのですよね」
逆風こそ力の源。「精神的逆境」に立ち向かう、イチローの思考方法とは?/週刊野球太郎.2014
危険球が首に直撃……。
イチローが8月30日の近鉄戦で受けた真木将樹の直球は、右肩上部、首のあたりをはね返して後頭部に当たるダブルパンチだった。新井宏昌コーチは、あの一球が超スーパースターの選手の生命を脅かす可能性もあるほどの威力だったことを懸念し、「ボールの残像が残るかもしれない」と述べた。イチローは起き上がることができず担架で運ばれたが、「全然大丈夫。気にしないで」と笑顔を浮かべただけでなく、「それより、すごいインコース攻め。次もガンガン攻めてきて。がんばって」と激励の言葉をかけてくれた。真木氏は、頭がパニックになり「大変なことをしてしまった」と思ったという。
真木投手はそれ以降投げられなくなり引退へ
真木氏は、ボールを持つことさえ心が抵抗するという投げても戻らない感覚で、イップスの症状にかかってしまった。成績は伸び悩み、プロ通算11勝となり、移籍した巨人で02年に戦力外通告を受けた。そこで、06年3月にサラリーマン時代に培った経験をもとに起業を決意し、球界人脈を生かしたグッズ会社を立ち上げた。タイガース関連のグッズ企画や制作、美容師の知人からの要望に応えてヘアケア製品の商品開発を手がけ、おかげさまでどちらもある程度は売れたものの、請け負う仕事は単発ものばかりで継続性のある仕事がなかった。
11年、高校の野球部の監督をやっている先輩に、「ユニフォームを簡単に洗える洗剤を作れない?」という提案を受け、試行錯誤の末に1年程かけて開発。当時は先輩のために、半ば慈善事業のように開発をしている中で、思いの外、需要があることに気づく。真木は自社商品として商品化することを決める。現在、小学生、中学生の野球少年をもつ親を中心に着実に売れる商品へと伸びつつある。
洗剤に活路見出した元“ドラ1”本格派左腕 真木将樹(大阪近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ)/ウェッジ
昨日のテレビ放送「消えた天才」レギュラーというユニフォームなどに付いた汚れを強力に落とす、つけおき洗剤が紹介されました!
— マツダスポーツ奈良店 (@matsudanara) November 5, 2018
元近鉄の真木将樹さんが社長です!
マツスポでも売れ筋商品となっております!#マツダスポーツ#レギュラー#真木将樹 pic.twitter.com/CzAuc3VrAY
5年連続首位打者!さらに多数のタイトルを獲得
5年連続で首位打者、最多安打、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞した。
「ファンの方には前年と同じレベルを維持しているだけでは納得していただけないもので、その意味で5年間で4度も自分のプレーが支持されたことに満足しています」自身は数字以上に、攻守走にわたる“質”の向上に手応えを感じた1年だった。今月下旬には合宿所「青涛館」から独立。神戸市内のマンションへ引っ越す。来季、ひとり住まいで心機一転のイチローが今度こそ4割達成を目指す。
【1998年】野球(パ・リーグ) イチロー/報知新聞社
オリックスはパ・リーグ3位
58年の広島以来、40年ぶりに98年は規定投球回に1人も到達せず、3位に食い込んだ。
この年の日米野球でイチローはMVP
1998年に日米野球チケットがプラチナ化した大会に、カブスのサミー・ソーサ、カージナルスのマーク・マグワイアが参加した。そして、左腕アル・ライターがMLB代表として来日した際、当時25歳のイチローの打撃に惹かれ、「鋭いライナーを飛ばしまくっていた」と強烈な印象を抱いたという。そして、日米野球でシリーズ優秀選手賞を受賞し、MVPのソーサと声を掛け合ったのもイチローである。
#TBT #MLBxESPN
— ESPN_Beisbol (@ESPN_Beisbol) April 27, 2017
Sammy Sosa conversa con Ichiro antes del All Star Series jugado en el Tokyo Dome en 1998 ⚾??? ?? pic.twitter.com/Nbf9PpcLPB
日本人初の年棒5億円プレイヤーに!
イチローはこの年、日本人初の年俸5億円プレイヤーになった。
どっちが初め?もう一つの「振り子打法」
1997年秋のドラフトで阪神から4位で指名された坪井は、入団当初からイチローと同じ振り子打法で話題となり、1年目から打率3割2分7厘をマークしました。坪井が青山学院時代には、「真っすぐしか打てなかった(苦笑)」という話をしていましたが、99年の開幕戦では1番・坪井と2番・和田監督という1、2番コンビを組んだそうです。そんな中、イチローが200安打を放って首位打者になったというのもあり、坪井も「変化球をうまく打つ」イチローを参考にして、自分なりにマイナーチェンジをしながら成果を出していった。
「(前略)新人だった年、マスコミから二言目にはイチローがどうとか聞かれるのが面倒くさくなっていて、どういう言い方をしたかは全然覚えていないのですが、ある日のスポーツ紙で僕が『イチローのまねなんかしていない。これはオリジナル。おれの方が先』みたいなことを言ったことになっていた。(後略)」
坪井智哉インタビュー第2弾 「振り子はおまえの方が先だもんな」イチローにからかわれ… (1/2ページ)/zakzak.2014
イチロー「ふざけんな(笑)」
イチローは会う前、坪井のことを「コイツふざけんな」という印象を持っていた
今ではイチローと友人
98年に阪神の打撃コーチを務めていた福本豊さんが、オープン戦でウォーミングアップをしていた時に、イチローと僕が近くにいた事から縁があったんです。福本さんが「同じ左バッターの新人だからいろいろ教えてやってくれ」と僕を紹介したのをきっかけに、イチローが「(友人から)話は聞いてるよ」と言ってくれて、食事に行こうという話になって連絡先を交換したところから、僕とイチローとの間でつきあいが始まりました。そして驚いたのは、高校の頃からお互いのことは知っていたことでした。僕の幼馴染みの友人がイチローと同じ愛工大名電に進学して、彼から「鈴木っていうすごいやつがいるよ」と聞いていたみたいです。イチローのほうもその友人から「PLに坪井っていうのがいるよ」と聞いていたみたいです。そして今ではプライベートでご飯も食べにいく仲になったわけです。最初に会った時はスーパースターでしたから、雲の上の人という感じでした。
「(前略)何年後かに凄く仲良くなってからイチローに言われたんですよ。『そう言えば、振り子打法っておまえが先らしいな(笑)』と。僕は、今みたいに『関西独特のマスコミに乗せられただけで言うわけはないだろう』と説明したんですが、今でも一緒に飯を食っていると、年に一度は、この話題が僕らの間の定番のネタとして出ます(笑)。『そう言えば、おまえが先なんだって?(笑)』と。そこでムネ(川崎宗則)が『坪井さん!そうなんですか?(笑)』と聞き返すのがパターンのネタです(笑)」
イチローの振り子打法の元祖論争に決着!(THE PAGE)/Yahoo!ニュース
引退の相談もイチローに
かつてイチローとやりとりをした坪井智哉(現横浜DeNA1軍打撃コーチ)は、「ボロボロになるまで野球を続ける自分を、ずっと支持してくれた」と振り返っています。彼らは、「同級生」「振り子打法」という共通項をきっかけに、グラウンドの外で親交を深めていきました。イチローの引退の際、これまでのいきさつを話した上で「そろそろ引退を考えている」と言ったところ、イチローは「それだけ野球が好きなオマエが、考えて出した答えだろうから」という返事をくれた。
[アプリ限定]親友・坪井智哉が知るイチローの素顔 「続けるべき」と断言してくれた現役生活 https://t.co/K2raWWWSwY #mlbjp #ichiro #ichiro3000 pic.twitter.com/Zf37zkBZT7
— スポーツナビ 野球編集部 (@sn_baseball_jp) July 20, 2016
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