この記事は、野球界を代表するスーパースター、イチローの1998年のシーズンを振り返ったものです。イチローがオリックス・ブルーウェーブの選手として活躍したこの年、彼は驚異的な打撃力を発揮し、5年連続で首位打者を獲得する快挙を達成しました。
記事では、イチローがスランプに陥ったり、怪我を負ったりするなど、様々な困難に立ち向かう姿勢も描かれています。さらに、日米野球での活躍や、年俸5億円のプレイヤーになったことなど、イチローがどのように野球界を席巻していったのか、詳しく紹介されています。野球ファンはもちろん、イチローのファンなら必見の一文です。
《イチロー伝説》「ついに三振!」イチローが記録を更新した日 〜1997年 オリックス時代〜
Orix BlueWave in 1998
1998年 オリックス・ブルーウェーブ
1998年のオリックスのキャンプでのイチローの絶好調ぶりが、オープン戦での首位打者獲得によって証明されました。通常、春先はイチローはスロースターターでしたが、この年はエンジン全開で、キャンプから早くも思い切りの良いプレーを見せていました。
しかしながら、オリックスのチームは開幕早々に大きく躓いてしまいました。開幕6連敗を喫し、4月は5勝14敗という惨憺たる成績で、1994年の仰木彬監督就任以来の最悪の出足でした。オリックスの1998年シーズンは、早くも大きな壁に直面しました。
一方で、オリックスが低迷する中、イチローは絶好調を維持しました。開幕戦のダイエー戦で工藤公康からシーズン初安打を放ち、その後も好調をキープし、4月だけで25本の安打を放ちました。イチローは相変わらずの「安打製造機」ぶりを発揮しており、イチローの打撃によってオリックスは何とか立ち直りを図ろうとしていました。
深刻なスランプに襲われる
順調かと思われたイチローは5月17日のダイエー戦、5月19日のロッテ戦、5月20日のロッテ戦、5月21日のロッテ戦にかけて、なんと「4試合連続併殺打」を記録し、パ・リーグ史上15人目となるワーストタイ記録を作ってしまいました。
バットコントロールが得意なイチローにとって、この記録は驚きであり、彼自身も険しい表情を浮かべていました。足の速いイチローにとって、この珍しい記録は不運な面もあったが、後に彼は「酷いスランプだった」と振り返っています。
当時の新井宏昌打撃総合コーチは、「バットの芯でとらえた当たりが不運にも野手の正面をつき併殺打になるのが、これまでのイチローのパターンだが、今年は違う。併殺打になるべくしてなっている。つまり打ち取られている当たりがそのまま併殺打になっている」と語っていました。
イチローはこの年のことを「1998年までの僕は、自分の『形』を探すのに精一杯だった。世の中の人の中には、『形』が変われば、それを進化と評価する人もいますけど、僕の場合は退化だったのですよね」と語っています。
「イチローなら打って当たり前」スランプの中でも結果を残すイチロー
スランプ真っ只中にあったイチローでしたが、月間31安打を放ち、打率.344という高打率をキープしました。
6月~7月にかけて、イチローは特筆すべき活躍を見せました。彼は2ヶ月連続で月間打率4割を超え、6月には月間37安打、7月にはオールスターゲームの中断があったにも関わらず、月間39安打を達成しました。これは驚異的な猛打でした。
5月に4試合連続併殺打など、やや苦しんでいたイチローでしたが、この驚異の2ヶ月間の活躍で、首位打者レースを独走し、5年連続首位打者をほぼ手中に収めました。見ているファンも感覚が麻痺してしまい、「イチローなら、打って当たり前」という感覚になってしまっていました。
プロ野球の顔!両リーグ最多得票でオールスターに選出!
1998年のオールスターゲームで、イチローは66万833票を獲得し、両リーグ最多得票を達成。これにより、彼は5年連続でオールスターにファン投票で選出されると同時に、山内一弘(1959~1962年)以来、史上2人目となる「4年連両リーグ最多得票」を達成しました。これは、イチローが当時のプロ野球界で絶大な人気を誇っていたことを示しています。
オールスターゲームでは、第1戦では「2番」、第2戦では「4番」として出場し、それぞれ1安打ずつを放ちました。イチローが全パの「4番」を任されるほど、彼は自他共に認めるスーパースターとなっていました。彼はオールスターゲームに欠かせない存在であり、まさに「プロ野球の顔」として君臨していたのです。
危険球が首に直撃……。
1998年8月30日、イチローは近鉄戦で真木将樹からの直球を受けました。その球は、右肩上部をはね返って後頭部に当たるダブルパンチとなりました。新井宏昌コーチは、その一球が超スーパースターの選手の生命を脅かす可能性もあるほどの威力だったことを懸念し、「ボールの残像が残るかもしれない」と述べました。
しかし、イチローは起き上がることができず担架で運ばれるも、「全然大丈夫。気にしないで」と笑顔を浮かべただけでなく、「それより、すごいインコース攻め。次もガンガン攻めてきて。がんばって」と激励の言葉をかけました。この勇敢な態度により、真木は頭がパニックになり「大変なことをしてしまった」と思ったという。
真木投手はそれ以降投げられなくなり引退へ
この出来事が原因で、真木将樹はボールを持つことさえ心が抵抗する(イップス)症状に悩まされ、プロ通算11勝で巨人から戦力外通告を受けました。
元プロ野球選手真木将樹、事業家として成功への道を歩む
その後、サラリーマン時代に培った経験と球界人脈を活かし、グッズ会社を立ち上たが、タイガース関連のグッズ企画や制作、美容師の知人からの要望に応じたヘアケア製品の開発など、単発の仕事が中心で継続性がありませんでした。しかし、高校野球部の監督を務める先輩から「ユニフォームを簡単に洗える洗剤を作れない?」という提案を受け、1年かけて開発に成功しました。
意外にも需要があることに気づき、自社商品として商品化を決めました。現在、小学生や中学生の野球少年を持つ親を中心に、この洗剤は着実に売れる商品へと成長しています。真木将樹は、元プロ野球選手から事業家へと転身し、成功への道を歩んでいます。
昨日のテレビ放送「消えた天才」レギュラーというユニフォームなどに付いた汚れを強力に落とす、つけおき洗剤が紹介されました!
— マツダスポーツ奈良店 (@matsudanara) November 5, 2018
元近鉄の真木将樹さんが社長です!
マツスポでも売れ筋商品となっております!#マツダスポーツ#レギュラー#真木将樹 pic.twitter.com/CzAuc3VrAY
怪我でバッティングから遠ざかるも首位打者への道は続く
1998年9月18日の大阪ドームでの近鉄-オリックス戦で、イチローは高村祐(近鉄)からの死球により左足甲に怪我を負い、避けようとした際に腰も痛めて退場となりました。イチローは、その試合まで、9月も「月間15安打」を放っていましたが、この打席以降、しばらく打席に立てなくなってしまいました。
翌日以降、イチローは9試合連続で守備でのみ試合出場を続け、1994年以来継続している連続試合出場記録を辛うじてキープしました。この間、イチローのバッティングは一時的にお預けとなりましたが、すでに「5年連続首位打者」への道はほぼ確実な状態でした。
史上初の「5年連続首位打者」を獲得!その他のタイトルも獲得!!
イチローは、1998年10月に再び打席に立ち、「月間5安打」を追加しました。最終的に、イチローは打率.358を記録し、2位の平井光親(ロッテ)の打率.320に3分8厘もの大差をつけて、プロ野球史上初となる「5年連続首位打者」を獲得しました。さらに、「シーズン181安打」で「5年連続最多安打」のタイトルも獲得しました。
さらに「5年連続ベストナイン」と「5年連続ゴールデングラブ」を獲得しました。
イチローは、「ファンの方には前年と同じレベルを維持しているだけでは納得していただけないもので、その意味で5年間で4度も自分のプレーが支持されたことに満足しています」とコメントしています。
オリックス、3位に食い込むも規定投球回に1人も到達できず
オリックスは1998年に3位に食い込みましたが、チームの投手陣は誰も規定投球回に到達できませんでした。これは58年の広島カープ以来、40年ぶりの珍しい記録でした。投手陣が規定投球回に到達できないチームが上位に食い込むことは、通常は困難であることから、この記録は非常に珍しいものとなりました。
日米野球で輝いたイチロー、メジャーリーグ挑戦へのきっかけとなる
1998年のシーズンオフ、イチローは日本プロ野球選抜メンバーの一人として日米野球に出場し、メジャーリーグのスーパースターたちと共にプレーする機会が訪れました。
その日米野球でイチローは、サミー・ソーサなどの超一流選手たちと間近に接し、彼らから高い評価を受け、「鋭いライナーを飛ばしまくっていた」「イチローは、間違い無く、今すぐにでもメジャーリーグで通用する」といった声が上がりました。
この日米野球でイチローは優秀選手賞を受賞し、MVPのサミー・ソーサと声を掛け合いました。この出来事は、イチローが将来的にメジャーリーグ挑戦を果たすきっかけとなり、彼の野球キャリアにおいて重要な節目であったと言えます。
#TBT #MLBxESPN
— ESPN_Beisbol (@ESPN_Beisbol) April 27, 2017
Sammy Sosa conversa con Ichiro antes del All Star Series jugado en el Tokyo Dome en 1998 ⚾??? ?? pic.twitter.com/Nbf9PpcLPB
日本人初の年棒5億円プレイヤーに!
この年、イチローは日本人初の年俸5億円プレイヤーとなりました。これは彼の卓越した実績と技術に対する評価の表れであり、日本プロ野球界における彼の地位をさらに高めました。
オリックス選手寮を出て来季に挑む!
来季、イチローは選手寮「青涛館」を出て、神戸市内のマンションへ引っ越し、ひとり暮らしを始めました。心機一転のイチローは、新たな生活とともに更なる高み打率4割を目指していきます。
<新垣事件>「命を絶った敏腕スカウト」三輪田勝利とイチローの絆
三輪田勝利は、オリックスの元編成部長で、イチローの素質を見出し獲得した敏腕スカウトとして知られています。しかし、1998年のドラフト会議で新垣渚との交渉権を獲得したものの、新垣はオリックスへの入団を拒否。三輪田は球団上層部から叱責され、選手と会えたものの交渉が進展せず、1998年11月27日に自ら命を絶ちました。
プロ入り後も、イチローは三輪田勝利を息子のように大切にしており、彼の墓参りを毎年欠かさずに行っています。三輪田の長女である田中彩子さんは、イチローが忘れないでいてくれることに対して感謝の気持ちを表しています。イチローと三輪田勝利の絆は、今もなお続いています。
もう一人の振り子打法!?坪井智哉とイチローの絆
1997年秋のドラフトで阪神から4位で指名された坪井智哉は、入団当初からイチローと同じ振り子打法で注目を集めました。1年目には打率.327をマークし、高い期待に応えました。青山学院時代には「真っすぐしか打てなかった」と語っていましたが、1999年の開幕戦では1番・坪井と2番・和田監督という1、2番コンビを組みました。
イチローが200安打を記録し首位打者に輝いたこともあり、坪井選手もイチローの変化球への対応を参考にしながら、自分なりのマイナーチェンジで成果を出していきました。当時、新人だった坪井選手は、マスコミからイチローに関する質問を繰り返し受け、ある日のスポーツ紙で彼が「イチローのまねなんかしていない。これはオリジナル。おれの方が先」と言ったように報じられました。しかし、坪井選手はその言葉を全然覚えていないと語っています。
初対面は「コイツふざけんな」
イチローと坪井選手が初めて会う前、イチローは坪井選手に対して「コイツふざけんな」という印象を持っていたという。しかし、1998年に阪神の打撃コーチを務めていた福本豊さんが、オープン戦でウォーミングアップ中にイチローと坪井選手が近くにいたことから縁が生まれました。福本さんが「同じ左バッターの新人だからいろいろ教えてやってくれ」と坪井選手を紹介し、イチローと坪井選手の交流が始まりました。
驚いたことに、高校時代からお互いのことを知っていたという。坪井選手の幼馴染みがイチローと同じ愛工大名電に進学し、「鈴木(イチロー)っていうすごいやつがいる」と聞いていた。イチローもその友人から「PLに坪井っていうのがいる」と聞いていた。今ではプライベートで一緒に食事に行く仲になりました。
ある時、イチローが坪井選手に言ったのは、「そう言えば、振り子打法っておまえが先らしいな」という言葉。坪井選手は「関西独特のマスコミに乗せられただけ」と説明したものの、この話題は年に一度、彼らの間で定番のネタとして出てくるという。それでも、坪井選手は初対面のイチローを「スーパースターで、雲の上の人」と感じていたと振り返ります。
波乱の野球人生、坪井選手が選んだアメリカへの道
坪井の野球人生は、後半に入り波乱に富んだ出来事が待ち受けていた。2006年10月、北海道日本ハムファイターズが移転後初優勝を遂げた翌日、彼はまさかの解雇となった。故障により出場が25試合にとどまったものの、前年までの主力選手だったため、その解雇は驚きであった。さらに日本ハムからは大幅減俸での再契約が提示されたが、坪井はそれを受け入れ、代打の切り札として活躍した。
2010年シーズン終了後、引退とコーチ就任の打診があったが、彼はこれを固辞。翌年、オリックスへ移籍するも一軍出場はわずか3試合で再び解雇された。その後、フロント入りの話もあったが、彼はこれも辞退し、2012年シーズンにはアメリカの独立リーグでプレイすることを選択した。
坪井は、「いつかアメリカでプレイしたい」という気持ちがずっとあったと語る。彼は自分自身、野球選手としての終わりが近づいていることを理解しており、「死に場所」として野球のはじまりの地であるアメリカを選んだのだ。最後に、たとえ1打席だけでもメジャーの打席に立ってみたいという思いで渡米したという。
そんな彼は、日本球界からひっそりと姿を消した。まるで“猫の死に際”のように静かにその場を去ったのだった。
苦難の連続だったアメリカでの野球生活
坪井は2012年のウィンターリーグで米独立・ノースアメリカンリーグのチームに招待選手として参加し、リーグ2位の打率.483を記録し契約を勝ち取る。しかし、その後のアメリカでの生活は困難に満ちていた。日米の野球文化の違いに振り回され、安月給で主食はホットドッグの長距離バス移動など過酷な状況に耐えなければならなかった。
評価基準も厳しく、ホームランを打たない限り評価が上がらず、偽走や練習に励む姿勢もチームメイトや監督から理解されなかった。さらに、左肩の負傷や肉離れ、チームの方針転換で次々と解雇され、球団が住居を用意してくれるはずの契約が守られず、チームメイトの家に居候することになる。
契約不履行や代理人の怠慢、人間不信に悩まされる一方で、純粋に野球ができることに喜びを感じる日々が続いた。しかし、心を折られる材料も多く、坪井はアメリカでの野球生活に苦労を重ねた。この経験は彼にとって試練であったが、日本の野球文化や自身の信念に対する理解を深める貴重な機会でもあった。
期待と現実のギャップ、無い家や寝床…アメリカでの生活は彼の精神を蝕んだ
アメリカでの困難な状況の中で、坪井はストレスを感じていた。彼が大好きなスイーツで慰めようにも、アメリカのケーキは彼の期待には遠く及ばなかった。野球、契約、食べ物のすべてが彼の期待を裏切る結果となり、ストレスは頂点に達していた。
彼は自分が何のためにアメリカまで来たのか疑問に思い、無い家や寝床の不安が試合中にも頭をよぎっていた。坪井は自分が浮浪者と何が違うのかとさえ思った。しかし、彼はその経験を笑いのネタにして心の平穏を保とうと決意し、人生で初めて鏡を見て「笑わなきゃ」と思った。
自分の限界を知った野球人生に区切りをつける決断
アメリカ生活の後半、坪井は自分に「笑え!笑え!」と言い聞かせて耐え忍んでいた。彼にはチームメイトたちも気軽にアメリカンジョークを飛ばしてくれるようになっていたが、坪井はそのジョークにも納得がいかず、「繊細さがない」と感じていた。彼はアメリカでの経験を通して、日本の文化や食べ物をより一層愛おしく思うようになっていた。
そして2014年7月、米独立リーグのランカスターからリリースされた坪井は、引退を決意する。彼はアメリカでの困難な日々を乗り越え、自分の限界を知り、野球人生に区切りをつけることを選んだ。
大切な友・イチローと過ごした夜
坪井はメジャーでプレーしていたイチローに引退の意思を伝えた。二人はニューヨークでの試合を観た後、夜ご飯を食べながら話をしました。イチローは坪井が「そろそろ引退を考えている」と言ったことに対して、「それだけ野球が好きなオマエが、考えて出した答えだろうから」と返事しました。イチロー自身は「できるまでやりたい」と話していました。
坪井智哉はイチローが「ボロボロになるまで野球を続ける自分を、ずっと支持してくれた」と感謝して振り返っています。同学年の人間として、彼はイチローにできる限り長く野球を続けてほしいと願っています。彼は当たり前のように「1番・ライト」で出場しているイチローの姿を見続けたいと語っていました。
[アプリ限定]親友・坪井智哉が知るイチローの素顔 「続けるべき」と断言してくれた現役生活 https://t.co/K2raWWWSwY #mlbjp #ichiro #ichiro3000 pic.twitter.com/Zf37zkBZT7
— スポーツナビ 野球編集部 (@sn_baseball_jp) July 20, 2016
《イチロー伝説》「自分の形」を発見した日 ── スランプ脱出のきっかけとなったのはセカンドゴロ 〜1999年 オリックス時代〜