イチロー選手の愛工大名電時代は、彼のキャリアにおいて非常に重要な時期でした。この期間が彼の才能を磨き、後のプロ野球界での成功へと繋がる土台となったのです。
愛工大名電での経験は、イチローにプロ野球選手として必要な技術やメンタル力を養う機会を提供しました。また、彼の独自の打撃スタイルや練習方法が形成される重要な場でもありました。
さらに、愛工大名電時代のイチローは、そのプレーで多くのファンを魅了し、日本中の注目を集めました。これによって彼の名声は急速に高まり、プロ入りが現実味を帯びるようになりました。
総じて、イチロー選手の愛工大名電時代は、彼の才能を発掘し、プロ野球選手としての土台を築くための非常に重要な時期であったと言えるでしょう。今回の記事では、その青春時代を振り返り、イチロー伝説の始まりを探ります。
Ichiro’s high school days
甲子園の名門校!“愛工大名電高校野球部
「甲子園が目標ではありません」
イチロー(本名:鈴木 一朗、1973年10月22日生まれ)は、日本出身の元プロ野球選手で、その卓越したバッティングスキルと驚異的な守備力で、日本とアメリカの野球界で伝説的な存在となりました。
イチローは、甲子園を目指すことよりもプロ野球選手になることを重視していました。
愛工大名電の監督、中村豪はイチローに特別な印象を受けました。あるOBから「監督さん、すげーのがおるぞ」と愛工大名電の監督、中村豪はイチローを紹介されました。当時のイチローは当時豊山中学3年生で、170cm、55kgというヒョロヒョロの体格でした。
父親の宣之と共に中村監督の元へやってきたイチローは、「甲子園が目標ではありません。プロになれる選手に育ててほしい」と言い、イチロー自身もその意志を示しました。それに対して中村監督は「任せておけ」とはったりをかまして返答しました。
中村監督は「イチローのように自らプロを目指す意志を持った選手は彼一人」と当時のことを振り返ります。これまで700人以上いる教え子のうち14人をプロ入させているが、イチローのようなケースは珍しかったといいます。
高校生へ、挫折を糧に イチローら育てた名伯楽―中村豪さん・球界へのメッセージ https://t.co/0vlSC3RBqE pic.twitter.com/pFukfqHYED
— 高校野球ニュース (@Kokoyakyu_News) June 2, 2020
オール5!学業も優秀だったが、文武両道を捨て野球に人生を賭けた!
イチローは、中学時代から学業も優秀であったと言われています。練習していない時間には、イチローはトレーニングルームで昼寝をしたり、寮で新聞や雑誌を読んで過ごしていました。彼が熱心に読んでいたのは日経新聞の株式欄で、株に興味を持っていたことが伺えます。実際に、初めて株を購入したのは中学生の頃だったと言われています。
その後、イチローは野球だけでなく勉学の特待生として名古屋電気工業大学(愛工大名電)に入学しました。
進学校への道も開いていましたが、彼は野球への情熱を優先し、愛知県立豊川高等学校への進学を選んだのです。これは、彼が自らの人生を野球に捧げる決意を示すものであり、プロ野球選手への道の第一歩となりました。
打って投げての二刀流!一年目から大活躍!!
イチローは入部当初から驚異的なバッティング技術と鋭いスイングで周囲を驚かせました。
イチローは「やらされている百発より、やる気の一発」を実践し、自らの道を開拓していきました。高校時代のイチローは新人離れしたミートの巧さやスイングの鋭さを見せ、速く走り、130キロ近い速球を投げる二刀流の選手でした。
しかし当時のイチローは華奢で、チームメイトの捕手は「こんなにガリガリで野球をやっていけるのか」と感じるほどでした。
ある日、イチローの投げる球を初めて受けた瞬間、その印象は一変しました。彼はミットを構えたところにピシーッ、ピシーッと正確に球が来ることに驚き、「彼と一緒なら俺も甲子園に行かせてもらえると思った」と当時のことを語っていました。
【伝説】センター前ヒットならいつもで打てる
イチローが高校に入学した際、彼は「ピッチャー返し、センター前でいいのなら、全打球打てる」と豪語しました。その言葉を聞いた監督は、実際にイチローの実力を試すため、3年生の投手に対して打席に立たせました。その結果、イチローは投げられた球の約7割近くをセンター前に弾き返すことができたと言われています。
【伝説】三振をした記憶がない
イチローの高校生活は、中村監督が「驚きの連続だった」と振り返るように、非常に印象的でした。その驚きは、1年生の夏からベンチ入りして活躍を見せ始めたことから始まりましたが、特に「三振しないこと」がその筆頭とされています。
イチローが高校3年間で喫した三振は、練習試合を含めてわずか3つだったことがわかっています。さらに、イチロー自身がインタビューで証言しているように、判定ミスでストライクとされた球を見逃した時以外に空振りの三振を記憶していないということです。
イチローの猛練習伝説と高校時代の秘話
愛工大名電の野球部では、部員たちが熱心に練習に励み、ユニフォームをドロドロにする姿が見られました。しかし、イチローのユニフォームはいつも真っ白で、他の選手とは異なる姿勢を見せていました。高校時代のイチローは誰よりも練習に励み、上級生がいる1、2年生の間は全体練習に参加していましたが、夕食後の自主練習は行わず、3年生では全体練習すらまともに参加しなかったと言われています。
しかしながら、部員たちが疲れて休憩する頃、イチローは猛スピードでベースランニングを行い、20周走ってから寮に戻り、一番風呂に入っていました。彼がプロで成功した後、愛工大名電時代に秘密裏に猛練習をしていたという伝説が広まりました。
夜にイチローが練習している姿に驚いたという話もありますが、3年間寮生活を共にしたチームメイトはこれを否定し、「イチローが陰で練習していたことは一度も見たことがない」と語りました。目撃されたのは、イチローと似た体型の主将だったとされています。
ある時、中村豪監督は怒ってイチローに自主練習を命じたことがありました。イチローはその時、スリッパを履いて室内練習場に現れ、「ちょっと打たせてくれるか」と言い、打撃マシンの前で素晴らしい打球を連発し、すぐに練習を終えて帰りました。そんな態度が許されていたのは、イチローが最初から別格の存在だったからです。
入学前に父・宣之と一緒に「プロに行ける選手になりたい」と中村監督に明言したイチローは、「名電のセレクションで初めて会った中3の夏から次元の違う存在でした」と高校時代の同級生が語っています。
あまり練習しなかった理由とは?
イチローは、あるインタビューでプロ野球選手になった後はサボったことがないと語りましたが、プロになる前の高校時代は、サボることを考えていたことを明かしています。特に上級生になってからは、「サボりまくっていた」と述べています。さらに、イチローは人が見ている環境でサボっていた言っていました。
でも、なぜイチローは高校時代にあれほど練習をしなかったのでしょうか。
イチロー自身が語るには、「高校のレベルで必死にやったり、一所懸命頑張ったような選手は、プロに入っても活躍できない。高校野球は余裕でやれるぐらいでなきゃダメだ。高校、大学、社会人で、一番楽なのが高校野球だろう。金属バットだから」ということです。
イチローは中学時代に、父との二人三脚で練習を重ね、高校でのプレイに必要な技術や経験をすでに身につけていました。彼は早くからプロ野球選手を目指し、高校時代はプロ入りするための準備に専念していたのです。下手に身体を酷使して故障したら、その夢も終わってしまうため、彼は自分の身体管理にも気を使っていました。
イチローにとって、愛工大名電や甲子園はあくまで通過点であり、あくまで目標はプロ野球選手として成功することでした。
自分で考えトレーニングをしながら進化
イチローは指導されたことを素早く吸収し、自主的に練習に励む姿勢があり、「やらされている百発より、やる気の一発」を実践し、自らの道を開拓していきました。
一方、彼の父親は毎日午後3時半になると必ずグラウンドへ駆けつけ息子を見守り、打撃練習や投球練習では逐一メモを取っていました。しかし、イチローは練習では他の選手と同じメニューをこなし、別段熱心に取り組んでいる様子もなかったため、彼の天性のセンスが際立っていると思われました。
ある日、グラウンドの片隅に幽霊が出るとの噂が流れ、深夜に調べに行ったところ、暗がりの中で黙々と素振りに励むイチローの姿がありました。彼は人にやらされることを好まず、自らが求めて行動するという意識が非常に強かったのでしょう。イチローのこの姿勢が後のプロ野球界での成功に繋がる原動力となりました。
中村監督はイチローに対して特別な指導を施すことはなく、彼が自ら成長していく様子を見守っていたのです。これが、イチローが愛工大名電で飛躍的に成長し、後のプロ野球界での成功へと繋がった重要な要素となりました。
同級生たちが語るイチローの姿勢
時には先輩やコーチから厳しく扱われることもありましたが、イチローは決してやり返すことはありませんでした。代わりに、彼は怖い目つきで相手を睨むことで自分の闘志を見せていたのです。同級生たちも、イチローのその目つきに驚いていたと言います。
イチローの食事こだわりとカップ麺
イチローは食事に関しても自分の好みに徹底的にこだわっていました。寮の食堂で野菜を食べず、隣の席の人に回してしまっていました。彼の大好物はスナック菓子と缶コーヒーで、3年生になるとカップ麺が彼の主食となりました。
イチローを「鈴木さん」と呼ぶ1学年下の後輩は、カップ麺が寮では禁止されていたため、イチローは消灯後の午後11時にこっそり食べていたと話しています。彼は湯を沸かすために工夫を凝らし、5つの薬罐に水を入れ、5台のガスコンロにかけていました。これにより、1個の薬罐や1台のガス台よりも5倍早く湯が沸くことができました。
アイドル的人気のイチロー
イチローは、女子高生たちにとってもアイドル的存在でした。彼の試合や練習には、愛工大名電だけでなく他校からも女生徒が20~30人ほど駆けつけ、「一朗く~ん!」と叫びながら写真を撮っていました。チームメイトが彼女たちの視線を遮ると、「どいてよ~!」と怒りの声が上がることもあったようです。
イチロー自身も、自分のファンを見て楽しんでいた様子で、「どの子がいいと思う?」などとチームメイトに質問していたと言われています。
イチローがピッチャーを諦めた理由
高校2年生の時、イチローは自転車通学中に自動車との接触事故に遭い、松葉杖を使わなければならないほどの怪我を負ってしまいました。その後、投げ方を忘れてしまい、担ぐような投げ方になってしまいました。
イチローの父・宣之さんは、イチローの肩を守るために、「肩は消耗品だから100球も200球も投げさせないでほしい」と投球数を制限するよう要望しました。宣之さんの目的は、肩を守ることと、イチローの未来を守ることでした。
イチローは、「投げる時、悪いクセが染みついちゃったんです。ケガが治った後、負担が少ないからとファーストを守ったんですね。」と語っています。また、「(事故をきっかけに速い球が投げられなくなってしまって、ピッチャーをあきらめた時期があったんです」と当時のことを振り返っています。
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野球人生で最大のスランプと語ったイップスとの闘い
イチローが自身の野球人生で最大のスランプと語ったこの時期は、彼がイップスと闘っていた時期でした。3年生の春の甲子園で投球に復帰したものの、彼はまだピッチングに自信を持てず、イップスに悩まされ続けました。オリックス入団後も、彼のイップスは1997年まで続いたといいます。
「僕らの高校時代は1年生がゴミで、2年生が人間、3年生が神様っていう位置付け。ゴミが神様に投げる。先輩たちに投げられなくなり、2年春からイップスになったんです。「僕の野球人生で一番のスランプでしたね。投げることって、当時一番自信があったものですからね。オリックス入団5年後の97年まで続きました。日本一(96年)になった時、僕まだイップスでしたから。苦しかったですね〜」
「イップス」になりやすい人とは?イチローも経験、克服に掛かった時間は?/CoCoKARAnext.2019
イップスが与える野球選手にとっての影響
イップスは心理的症状で、心の葛藤が筋肉や神経細胞、脳細胞に影響を及ぼすことが原因です。野球においては、捕手や内野手の送球動作時や、けん制球やバント処理などフィールディングで症状が現れることが多いです。
長らくイップスは謎の病気とされ、練習不足や精神的な弱さと批判される選手が多かったのですが、現在でもスポーツ医学においてこの病気の実態は完全に解明されていません。
初めて踏んだ甲子園の土
愛工大名電高校は、イチローが2年生の時に、2年ぶりの4回目の甲子園出場を果たしました。当時のエースは伊藤栄祐で、彼は後に近鉄バファローズからドラフト5位指名を受けました。鈴木一朗は3番左翼手兼控え投手として出場しましたが、彼は大舞台の雰囲気に戸惑っていました。1回戦の相手は強豪の天理高校で、その試合ではイチローは苦戦を強いられました。
当時16歳のイチローは、甲子園の雰囲気が嫌で、打席では地に足が着いていない感じがしました。また、アルプススタンドから見下ろされるような感覚も威圧的で好きではありませんでした。
イチローはその試合で1本の安打を放ちましたが、特に目立った存在という印象は残せず、天理高校に1対6で完敗してしまいました。
松井秀喜と寮で語り合った将来の夢
イチローと松井秀喜の出会いは、高校時代の練習試合でした。イチローが愛工大名電高校の2年生で、松井秀喜が星稜高校の1年生の時に練習試合が行われ、両者はその時に初めて顔を合わせました。松井は金沢での練習試合で初めてイチローに会い、一塁ベース上で話をしたことを覚えています。
さらに、松井が星稜高2年生の時に愛工大名電高校へ遠征した際、雨で練習試合が中止になったものの、イチローの寮の部屋で2人でゆっくり話す機会がありました。松井は風呂に入る際にゲストであるにもかかわらず勝手に先に入ってしまったというエピソードを振り返ります。
風呂から出た後、松井はイチローに呼ばれ、殴られるのではないかと恐れていましたが、実際には2人は将来の夢やプロを目指すことについて熱く語り合いました。その時、イチローはパンツ一枚だったと松井は笑って話しています。
エースで4番!二刀流で春の選抜に出場!
1991年、イチローは3年生の春にセンバツ高校野球大会に投手として出場しました。四番・エースとして復帰した全国舞台で、最初の試合は松商学園高校(長野)との対戦でした。しかし、結果は2対3で敗れ、準優勝に終わりました。
この試合では、打撃力が期待されたイチローでしたが、松商学園高校の上田投手に対して5打数無安打で完全に抑えられ、イチローは無念の初戦敗退となりました。
そして最後の夏をむかえる
イチローは1991年夏の愛知予選決勝で、エースとして東邦高校に挑みましたが、投げることなく敗れました。序盤に大量点を与えてしまったことで、イチローに登板させる機会が得られなかったのです。中村監督は、「あのとき、イチローに投げさせてやりたかった」と後悔の念を述べています。
悔し涙にくれるチームメイトの中、イチローが取った行動とは
イチローは、プロ野球入りに向けて淡々と準備を進めていました。しかし、チームメイトが悔し涙にくれている横で、彼は自分の荷物を整理して球場を去ったというエピソードがあります。中村監督は、イチローが敬遠されてチームが負けた時も、彼はさっぱりした態度を見せていたと振り返ります。
イチローは甲子園に特にこだわりはなかった?
イチローは、甲子園に出場すればプロ入りが容易になるという考えがあったものの、それに特にこだわっていなかったと明言しています。彼は、「高校で全力を尽くしても、プロで活躍できるかどうかは別問題だ」というリアリズムを持っていました。
後に世界的な安打製造機となるイチローが、甲子園通算で9打数1安打という信じ難い数字を残してしまったことは、なんとも異様な事実と言えます。
それでも、ドラフトに名前がかかるためには、最後の夏に力を出し切る必要があると感じていたようです。その意気込みが、後のプロ選手としてのイチローの成功に繋がったことでしょう。
高校時代の圧倒的な成績と狙って打った19本塁打
イチローは1991年の愛知県大会で驚異的な成績を収めました。準決勝までの7試合で、25打数18安打17打点3本塁打13盗塁の打率.720をマークし、各試合でも素晴らしい成績を残しました。彼の高校時代の通算成績は、151試合、536打数269安打、通算打率.501、打点211、本塁打19、盗塁131と圧倒的でした。投手としても、140km/h代後半の速球を投げる力がありました。
イチローはチームメイトに「一発は捨てている」「自分のスイング、バットの軌道はホームランを打てるバッティングじゃないから」と語っており、19本の本塁打はすべて狙って打ったもので、2本は予告付きだったと振り返っています。
特に1991年の愛知県大会準決勝、滝高校との試合でイチローが打ったホームランは印象的でした。4-0でリードしていた4回2死満塁の場面で、監督から「ホームランを打て」と指示され、右中間に豪快な一発を放ちました。しかし、ベンチに戻ったイチローの表情はクールそのもので、チームメイトが「神様だね」と言ったときだけ、彼はうれしそうに笑ったと言われています。
プロスカウトの注目を集めた場外ホームラン
1991年7月29日、第73回全国高校野球選手権・愛知大会準々決勝で中京高校と愛工大名電高校が激突しました。この試合は、後にライバルとなる両校の対決として注目されていました。
6回表、ランナー1塁で愛工大名電高校の4番・鈴木一朗が打席に立ちました。カウント1-1から振りぬいた打球は、外野席の向こうに立ち並ぶ木々を超える特大のツーランホームランとなり、2対1から3対2に逆転。結果的に愛工大名電高校が勝利を収めました。
この場外ホームランは、イチローのプロ野球スカウトに対する評価を高めるきっかけとなりました。このライバル対決を経て、後にオリックスで活躍し、世界的に有名な選手となるイチロー(鈴木一朗)が誕生しました。この試合は、彼の高校時代のハイライトのひとつとして記憶されています。
25年前の1991年7月21日、高校野球愛知大会準々決勝、本塁打を放つ鈴木選手(イチロー選手)です(谷ノ口昭撮影)。写真特集は→https://t.co/dyuYJrNRLu #Ichiro3000 #イチロー pic.twitter.com/yD2YfYJX5G
— 読売新聞写真部 (@tshashin) August 8, 2016
伝説のはじまりのはじまり!運命のドラフト会議
イチローは名門・愛工大名電高では1年生からレギュラーであったものの、特に注目されるほどの選手ではありませんでした。
「4位までに指名せよ」スカウト三輪田の主張
オリックスのスカウト当時の当銀秀崇さんは、前年に長谷川滋利が1位で指名され、新人王を獲得したことから、野手の整備が狙いだったと語っています。また、同年のオリックスの1位指名は関西学院大学の田口壮であり、彼を確実に獲得することが目標でした。
しかし、ドラフト前日のスカウト会議で様々なシミュレーションが行われ、イチローが候補の一人に挙がってきました。当時のオリックスの担当スカウトである三輪田勝利氏は、イチローの素材に魅了され、彼を4位までに指名しなければ絶対に取れないと強く主張していた。
三輪田は東海地区を担当しており、イチローの卓越した打者としての資質を認識し、練習試合まで追いかけていました。彼はドラフト前の編成会議で、イチローの獲得を強く進言しました。スカウト会議で流されたVTRには、イチローが立て続けにセンター前へヒットを放つバッティングの映像が収録されていました。
「あんなのは初めて見た」 中田編成部長がイチローのバッティングに感銘
これを受けて、夏の終わりに当時の編成部長であった中田昌宏さんが、名電までイチローを見に行きました。イチローは2年夏と3年春に甲子園に出場していましたが、スカウトは主にピッチャーとしての評価を行っていました。しかしながら、三輪田スカウトからの報告では、イチローはバッティングの方が優れているとされていました。
中田さんはイチローを見るために名電を訪れ、そのバッティングに驚き、珍しく興奮して帰ってきました。普段はあまり褒めない中田さんが、イチローに夢中になり、「あんなのは初めて見た」と絶賛していました。彼は「とにかくすごい、100パーセント芯から外さない」とイチローのバッティングを讃え、「バッティングを見ても、9割がライナー性の当たりだ」と述べました。そして、「鈴木は3位でいかないと獲れない」という話が出ていました。
イチローと対立する意見 「非力だ」と評されたイチロー
当時のオリックスの編成会議では、東海大甲府の内野手・萩原淳も外れ1位の候補として注目されていました。萩原は高校通算25本のホームランを放った右打ちのスラッガーで、当銀さんによるとベテランスカウトの木庭さんと、フロント入りしていた上田前監督が、萩原淳を推していました。彼らはイチローが線が細く、萩原と比べて非力だと評していました。
一方で、鈴木一朗(イチロー)を推す中田さんと、萩原淳を推す木庭さんの間で意見が対立し、最終的に中田さんと三輪田さんがビデオを使ってイチローの実力をアピールしました。しかし、萩原はすでに大洋が獲得することを決めており、そのことは木庭さんも知っていました。前年まで大洋のフロントにいた木庭さんは、大洋の鼻を明かしたいという思いもありましたが、結局は年長者の意見が通り、萩原淳がイチローより上の評価となりました。
オリックスのドラフト指名のしがらみ
当時のオリックスのドラフトには、他にもしがらみがありました。それは、3位で指名した三菱重工長崎の投手・本東洋に関するものでした。当銀さんによると、本東の名前はシミュレーションボードの3位の欄に最初から書き込まれていたそうです。
本東に関しては、3位で指名すれば来るという話があり、オリックスが本東を獲得するために多くの努力をして他球団からの指名を断らせた経緯がありました。そのため、本東を3位で指名せずにイチローを3位で指名するという選択肢は、当時のオリックスにとって選べるものではなかったのです。
オリックスの指名戦略が的中し、イチローを獲得
結果として、田口壮についてはオリックスと日本ハムが競合し、オリックスがクジ運に恵まれて彼を獲得しました。一方、大洋は1位で東北福祉大の斎藤隆を指名し、中日と競合したもののクジ運に恵まれて彼を獲得しました。
オリックスと大洋が2位で萩原淳を入札し、再びクジが引かれました。このときも、オリックスの土井正三監督が当たりクジを引き、萩原淳を獲得することに成功しました。
イチローの選択先については、当初は中日とオリックスの2球団が評価していると言われていました。しかし、中日は2位で徳島商の投手・佐々木健一、3位で佐賀学園の内野手・若林隆信を指名し、イチローに手が回らなかったのです。結局、4位でイチローを指名したのはオリックスだけでした。
期待とは異なる球団からの指名に落胆したイチロー
イチローは、オリックスから指名されたニュースを授業中に受け取りましたが、彼にとってプロ野球は中日ドラゴンズをイメージしていたため、オリックスに指名されたことでがっかりしていたようです。しかし、中村監督から「サッカーのチームに行くわけじゃないんだから行け。必要としてくれてるんだから行くべきだ」と励まされ、納得してオリックスに入団することになりました。
このようにして、イチローはオリックスに入団し、その後、プロ野球界で輝かしいキャリアを築くことになります。
鈴木一朗がオリックスに入団!当初は投手として注目を集める
1991年12月18日、オリックス・ブルーウェーブはドラフト4位で指名した鈴木一朗を投手として入団させることを発表し、入団会見が行われました。鈴木一朗の契約金は4,000万円、年俸は4,300万円となりました。
後に野手として大活躍するイチローでしたが、当初は投手として入団したことが注目されるポイントです。これ以降、彼のプロ野球選手としてのキャリアが始まり、後に日本、そしてアメリカのメジャーリーグでも成功を収める選手となりました。
《イチロー伝説》伝説の始まり!イチローがプロ野球界に舞い降りた日 〜1992年 オリックス時代〜