
【イチロー伝説】愛工大名電のレジェンド、イチローの青春時代を振り返る -1989~1991-
Ichiro’s high school days
甲子園の名門校!“愛工大名電高校野球部

《高校1年》 「甲子園が目標ではありません」
イチロー(本名:鈴木 一朗、1973年10月22日生まれ)は、日本出身の元プロ野球選手で、その卓越したバッティングスキルと驚異的な守備力で、日本とアメリカの野球界で伝説的な存在となりました。
「甲子園が目標ではありません」中村豪監督の証言
「甲子園が目標ではありません。プロになれる選手に育ててほしい」愛工大名電の監督を務めた中村豪は、イチローが豊山中3年生だった時に、父親の宣之氏からそう言われたことをよく覚えている。
中村豪は、自分の教え子の中でプロ入りを果たした選手が14人もいるものの、イチローのように自分からプロを目指す意志を示してくる選手は彼一人だけでした。イチローは成績優秀で、教えられたことを素早く学び、自主的に練習に励む姿勢がありました。そのため、中村豪はイチローに対して特別な指導を必要とせず、彼が自分で成長していく様子を見守っていました。
高校生へ、挫折を糧に イチローら育てた名伯楽―中村豪さん・球界へのメッセージ https://t.co/0vlSC3RBqE pic.twitter.com/pFukfqHYED
— 高校野球ニュース (@Kokoyakyu_News) June 2, 2020
オール5!学業も優秀だったが、文武両道を捨て野球に人生を賭けた!
イチローは、中学時代に学業も優秀であったと言われています。しかし、彼は高校進学を機に、学業と野球を両立することを避け、野球の強豪校である愛知県立豊川高等学校に進学しました。この決断は、彼が将来の人生を野球に懸けることを決意した証であり、彼がプロ野球選手として成功を収めるための第一歩となりました。
打って投げての二刀流!一年目から大活躍!!
イチロー入部した当初から、非凡なバッティング技術やスイングの鋭さを披露し、高い運動能力も兼ね備えていました。また、足が速く、投げると130キロ近い速球を投げることができる二刀流の選手でした。
1年生の秋にはすでにレギュラーの座を獲得し、その後の成長が大いに期待されました。
《高校2年》交通事故でピッチングフォームが崩壊……。
イチローが高校2年の自転車での通学途中で自動車との接触事故に遭い、松葉杖を使わなければならないほどの怪我を負ってしまいました。
その後、投げ方を忘れてしまい、担ぐような投げ方になってしまった。
「肩は消耗品だから100球も200球も投げさせないでほしい」
イチローの父である宣之さんは、彼の肩を守るために、投球数を制限するよう要望しました。宣之さんが望んだのは、肩を守るためであり、イチローの未来を守るためでもあった。
イチローはその時のことを振り返り、以下の様に語ってる
「投げる時、悪いクセが染みついちゃったんです。ケガが治った後、負担が少ないからとファーストを守ったんですね。(中略)右投げでファーストをやると、体を逆に動かさなければならないんですよ。ショートやサードなら自然の流れで動けるけど、ファーストの場合は逆の動きになる。そのせいで、いわゆる担ぎ投げがクセになってしまった。投げるために腕をテークバックしますよね。その腕を下ろすと、ボールを握った手が頭の後ろにぶつかっちゃうんです。」
国際情勢研究会. イチロー 会見全文 (Japanese Edition) (Kindle 位置No.3,572)
最終的に3年の最後は抑えにまわったが、投げさせれば140キロは出ていた。
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「まともに投げられない」イップス(投球障害)を発症
「(前略)ある事故をきっかけに速い球が投げられなくなってしまって、ピッチャーをあきらめた時期があったんです」とイチローは若き日の思い出を口にした。
イチロー氏が語る“イップス”に悩んだ過去 甲子園登板も「ピッチングになってない」/Full-Count.2022
イチローは、この時期が彼の野球人生で最大のスランプであり、オリックス入団後もイップスが続いて苦しんだと言っています。彼が投球に復帰したのは、3年生の春の甲子園で、その時はイップスを治すことだけを意識して投げていたと語っています。
しかし、彼は「ピッチングになっていない」とし、そのような投手は甲子園にはほとんどいないと述べ、さらに以下の様に語っています。
「僕らの高校時代は1年生がゴミで、2年生が人間、3年生が神様っていう位置付け。ゴミが神様に投げる。先輩たちに投げられなくなり、2年春からイップスになったんです。「僕の野球人生で一番のスランプでしたね。投げることって、当時一番自信があったものですからね。オリックス入団5年後の97年まで続きました。日本一(96年)になった時、僕まだイップスでしたから。苦しかったですね〜」
「イップス」になりやすい人とは?イチローも経験、克服に掛かった時間は?/CoCoKARAnext.2019
イップスとは
捕手や内野手の送球動作時には、正確なコントロールを求められるため、近い距離でイップス症状が出るケースが多い。一方で、打者に向かって投げられないという症状や、けん制球やバント処理などフィールディングだけで症状が出る選手もいる。
イップスは、長い間謎の病気であり、いくつもの病院を受診しても病名をつけられず、「練習が足りない」「精神的な弱さ」と批判される選手が多かった。現在でもスポーツ医学では、この病気の実態は完全に解明されていない。
「松井秀喜」との出会いは練習試合!!松井はその時の頃を振り返り……
イチローが愛工大名電高2年、松井秀喜が星稜高1年の時、両校は練習試合を行っていた。
「イチローさんが、高校2年生の1990年6月に金沢で練習試合をした時に初めてお会いし、一塁ベース上でお話したことが今でも記憶に残っております」
松井秀喜氏からイチローへメッセージ「あの日のように鈴木一朗さんとゆっくりと野球の話を」/スポーツ報知.2019
〇あのプロ野球選手の高校時代〇
— あぁ青春の高校野球 夏の甲子園! (@kokoyakyu4916na) January 18, 2020
松井秀喜 (星稜高校) pic.twitter.com/qIVWDChEQE
初めて踏んだ甲子園の土

高校二年の夏の甲子園、イチローはスタメンレフト(左翼手)で試合に挑みました。1回戦の相手は、優勝候補の筆頭である南竜次(後に日本ハムに所属)を擁する天理高校(奈良県)でした。
イチローは、当時16歳で、大舞台の雰囲気に戸惑いを感じていました。「雰囲気はやっぱり嫌でしたね。あんな大舞台は初めて。のまれた感じはありました。(打席で)フワフワしてました。地に足が着いてない、ってこういうことか、と思いました。なかなか経験しないし、プロに入ってからもない。甲子園だけでしたね」また「アルプススタンドから見下ろされている感じ」が威圧的で好きではなかったと答えている。
イチローは2年の夏の甲子園において、1本の安打を放っただけで、特に印象的な存在となることはなかった。
【復刻】雰囲気にのまれた甲子園/イチローと高校野球 #天理 #高校野球総選挙 #高校野球 #kokoyakyu #甲子園https://t.co/Giro6gpw4G
— 日刊スポーツ (@nikkansports) August 10, 2019
《高校3年》松井秀喜と寮で語り合った“将来の夢”
松井秀喜は星稜が翌91年に愛工大名電まで遠征した際、雨によって練習試合が中止されてしまったが、イチローさんの寮の部屋で2人でゆっくりお話できたことを鮮明に覚えている。
(前略)「2年の時に愛知に行って。風呂に入った時、我々一応ゲストなので。順番とかはまぁいいや。入っちゃえ、入っちゃえみたいな」と勝手に先に風呂に入ったという。
松井秀喜氏、イチロー氏から風呂の後「部屋に呼び出され…」/スポーツ報知.2019
(前略)風呂から出た後「イチローさんの部屋に呼ばれた」と呼び出され「殴られるかと思って」とビクビクしていたが、「『将来どうするの?』『プロ目指してる?』とか」と夢を熱く語ったといが、「ちなみにパンツ一枚でしたけどね、イチローさんは」と笑った。
松井秀喜氏、イチロー氏から風呂の後「部屋に呼び出され…」/スポーツ報知.2019
エースで4番!二刀流で選抜に出場!
1991年、3年春のセンバツ高校野球に投手として出場。
四番・エースとして復帰した全国舞台で、最初の試合は松商学園高(長野)との戦いとなり、結果は2対3で準優勝に終わった。
打撃が期待されたイチローだったが、上田から5打数無安打で完全に抑えられ、無念の初戦敗退となった。
【写真特集・選抜高校野球「思い出甲子園」より】#イチロー(愛工大名電)
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) March 28, 2019
1991年#センバツ #高校野球
写真特集・選抜高校野球「思い出甲子園」はこちら⇒https://t.co/YWMy7yFJck pic.twitter.com/wGkV4wD6Xi
今後、野球界とどう関わっていくのか?#イチロー 氏は気になる存在です
— 日刊スポーツ(東京)野球デスク (@nikkan_yakyuude) December 12, 2019
プロアマの垣根を完全に取り払うこともできてしまうかも
写真は91年3月、選抜高校野球の松商学園戦で敗れ、ベンチ前に整列する愛工大名電・鈴木一朗(右手前)https://t.co/vwl0INT8bN pic.twitter.com/6OhZ3QIwLt
最後の夏は予選の決勝戦で敗退……中村豪監督は当時のピッチャーのイチローについて
エースだったイチローは1991年夏の愛知予選決勝で、投げることなく東邦高校に敗れた。
「序盤に大量点を与えてしまい、イチローに登板させる機会を逸してしまった。(中略)私はずっと後悔している。あのとき、イチローに投げさせてやりたかった」
イチロー恩師は「あの夏のエース温存をずっと後悔している」大船渡佐々木“登板回避”で振り返る/文集オンライン.2019
あくまでプロ野球選手になるため
イチローは、プロ野球入りを想定して淡々と準備を始めていた。しかし、チームメイトが涙にくれながらであったにも関わらず、彼は尻目にして荷物を整理して球場を去ったという。
「3年夏の県大会決勝で東邦と対戦したんだが、彼がチャンスで敬遠されて負けたのには腹が立ったな。けれど当の本人は『甲子園に行かず注目されないままプロに指名されたほうがいい』なんて、さっぱりしたものだったよ」。
愛知県高校野球界のレジェンド・名将と甲子園準V選手が語る。あの日、あの時の高校野球/KATCHキャッチネットワーク
「甲子園は考えていなかった……」この頃を振り返りイチローが明言
イチローは、甲子園に出た方がプロに入りやすくなるとは考えていたが、特にそれを考えていなかったと明言。「ただ、甲子園に出た方がスカウトらの目に触れて入りやすくなる…」と語っている。
「(中略)(高校で)全力で目いっぱいやってプロに入っても、プロではやっていけない、というのが想像できたんです。ただ、ドラフトにかかるのは倍率でも難しいですから、最後の夏だけは、一生懸命やった、という感覚でした。そこで結果出さないと、ドラフトにかからないと思っていましたから」
サボることばかり考えた/イチローと高校野球 前編/日刊スポーツ.2015
場外ホームランでプロへの道を切り開いた
1991年7月29日、第73回全国高校野球選手権・愛知大会準々決勝で、『中京 VS 愛工大名電』のライバル対決が行われた。6回表、ランナー1塁で愛工大名電の4番・鈴木一朗が、カウント1-1からの振りぬいた打球が外野席の向こうに立ち並ぶ木々を超える特大のツーランホームランを放ち、2対1から3対2に逆転し、勝利を収めた。この場外ホームランでプロ野球のスカウトの評価が高まり、このライバル対決から後の『イチロー』として有名なオリックスの鈴木一朗が誕生した。
圧倒的・・・高校時代からとんでもない成績
準決勝までの7試合で、25打数18安打17打点3本塁打13盗塁の打率7割2分という驚嘆すべき成績を上げた。1回戦の知立東戦では4打数3安打1打点、2回戦の名東戦では5打数4安打2打点、3回戦の稲沢東戦では3打数2安打3打点、4回戦の豊明戦では5回戦の名古屋第一戦では3試合連続で3打数2安打2打点、準決勝の中京(現中京大中京)戦では4打数3安打5打点という成績を残した。
高校通算打率.501、通算本塁打19本。投げては140km/h代後半のスピードボールを投げ、2刀流も可能な選手だったが、交通事故で投手は断念している。
25年前の1991年7月21日、高校野球愛知大会準々決勝、本塁打を放つ鈴木選手(イチロー選手)です(谷ノ口昭撮影)。写真特集は→https://t.co/dyuYJrNRLu #Ichiro3000 #イチロー pic.twitter.com/yD2YfYJX5G
— 読売新聞写真部 (@tshashin) August 8, 2016
「センター前ヒットならいつもで打てる」
イチローが高校に入学した際、彼は「ピッチャー返し、センター前でいいのなら、全打球打てる」と言った。その言葉を聞いた監督は、3年生投手を指名し、その球の7割近くをセンターに弾き返したという。
三振をした記憶がない……
中村監督が「驚きの連続だった」と振り返ったイチローの高校生活は、1年夏からベンチに入りスタートしたことにより始まり、その筆頭に「三振しないこと」を挙げられた。
イチローが3年間で喫した三振は、練習試合を含めわずか3つであることがわかった。そのうえイチロー自身が判定ミスでストライクとなった球を見逃した時以外に空振りの三振を記憶にないという証言をインタビューで発表しているほどである。
実は甲子園で活躍した選手ではなかったが・・・。
愛工大名電は、イチローが2年生の時に2年ぶり4回目の甲子園出場を果たした。エースは伊藤栄祐で、後に近鉄入りのドラフト5位指名を受けていた。鈴木一朗は3番左翼手兼控え投手として出場したが、甲子園で天理との初戦で1対6と完敗した。鈴木は安打1本を放っているが、特に目立った存在という印象は残していなかった。
信じ難い数字と言えるイチローの「甲子園通算9打数1安打」。これは、後に世界が誇るヒットメーカーであるイチローからすれば、なんとも異様な数字だ。
伝説のはじまりのはじまり!運命のドラフト会議
オリックスに1991年に入団したイチローは、名門・愛工大名電高で1年時からレギュラーだったものの、ドラフト4位で参加したことから注目されるほどの選手ではなかった。
オリックスのスカウトの一人がイチローに注目していた!
「ダメです。4位までに指名しなければ、絶対に取れません」と、当時のオリックスの担当スカウト・三輪田勝利氏はイチローの素材に惚れ込んでいた。
スカウト部員・三輪田は、東海地区を担当していた。彼は鈴木の資質を卓越した打者として認識し、練習試合まで追いかけた。そしてドラフト前の編成会議で、鈴木の獲得を強く進言した。
「打者イチローやばすぎる……」
三輪田スカウトからは、イチローのバッティングの方が優れているという報告があり、それを受けて夏の終わりに、当時の編成部長であった中田昌宏さんがイチローを見に名電に行った。
中田さんが珍しく興奮して帰ってきたということで、彼はイチローに惚れ込んでしまったようです。「とにかくすごい、100パーセント芯から外さない」「バッティングを見とっても、9割がライナー性の当たりだ」と絶賛していたようです。そして、「鈴木は3位でいかないと獲れんぞ」という話をしていました。
「本東は3位なら来るという話だった。ウチががんじがらめに囲っていて、他球団からの指名を断らせた手前、3位固定で指名しないわけにはいかなかった。だからイチローを3位で、というわけにはいかなかったんだな」
<運命のドラフトを巡る証言>イチロー――オリックスの指名に天才打者は戸惑った。/NumberWeb
中日ドラゴンズ vs オリックス
話題になっていたイチローの選択先は、当初中日とウチの2球団が評価していたと言われていたが、中日は2位で徳島商の投手、佐々木健一を、3位で佐賀学園の内野手、高校通算46本塁打の若林隆信を指名し、4位で鈴木一朗を入札したのは、オリックスだけだった。
「イチローを上の順位で指名するとしたら中日だろう、と。バッティングで評価していたのは中日とウチくらいだったからな」
<イチロー、運命のオリックス入団> ドラフト秘話 「本当は1位指名もあった」/NumberWeb
実はイチローは中日ドラゴンズに行きたかった
彼は授業を受けていたとき、オリックスから指名されたというニュースを受け取ったが、彼の中ではプロ野球=ドラゴンズだったため大変がっかりしていたようでした。
この時のことを中村監督は・・・
イチローは、中村監督から「サッカーのチーム行くわけじゃないんだから行け、って。必要としてくれてるんやから行くべきだ」と言われ、納得してオリックスに行った。
1991年12月18日 ドラフト4位でオリックス入団!!
91年12月18日、オリックスはドラフト4位の鈴木一朗を投手として入団させることを発表し、入団会見を開催した。鈴木一朗の契約金は4000万円、年俸は4300万円となった。
【 #オリックス 】田口2軍監督、同期・イチローは「この先変わることはない」 https://t.co/ughasZuFBl #野球 #スポーツ新聞 pic.twitter.com/AXamKDHafP
— スポーツ報知 (@SportsHochi) June 16, 2016
【キャリア】
— ベースボールキング⚾ (@BaseballkingJP) March 27, 2019
イチローの同期から4人がメジャーリーガーに…
引退後はそれぞれの道へhttps://t.co/aKenzEY4MT
イチローの後を追うように海を渡った“1991年ドラフト組”は、現在も様々な形で野球と関わっています。 pic.twitter.com/TVneFQaYoD
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