プロ野球界における伝説的な一戦が、東京ドームで繰り広げられました。主役は、北海道日本ハムファイターズの下柳剛投手と、天才のバッター、イチロー。
この日の試合は、ただのリーグ戦を超えた、野球史に残る瞬間へと昇華しました。イチローの217打席に及ぶ三振なしという長い記録が、ついに下柳の手によって途切れることとなったのです。
《イチロー伝説》「日本人最高打者」の激突!イチローと松井秀喜の対決が生んだ感動の日本シリーズ 〜1996年 日本シリーズ〜
Orix BlueWave in 1997
1997年 オリックス・ブルーウェーブ時代
イチローの野球キャリアにおいて、シーズン200安打は特別な意味合いを持っています。
日本人野手として、初めてメジャーの舞台に立ったイチローは、この数字を自らがクリアすべき絶対の課題として設定していました。
他の記録には特にこだわらなかったイチローですが、シーズン200安打だけは固執していました。
なぜなら、これはイチローにとって高いパフォーマンスが持続できている証明であり、野球に対する情熱の象徴だったのです。
初の200安打とメジャーの試合数
イチローが初めて200安打の壁を突破したのは1994。
当時の日本プロ野球は130試合制を採用しており、イチローはその中で210安打を記録し、これまでの最多安打記録を更新しました。
一方、メジャーは162試合制を採用しており、日本のプロ野球より30試合以上多い中での200安打の壁は、イチローにとっては絶対に乗り越えなければいけないものになりました。
毎シーズンこの数字に挑戦する中で、調子が下がり深刻な不振に陥ることもありましたが、それを乗り越えることでイチローはさらなる高みに昇っていきました。
その結果、10年連続200安打以上という前人未到の記録を達成することになりました。
4割打者を実現できる存在
1994年は、シーズン最多安打を更新しただけではなく、打率.398を記録しており、プロのレベルでは不可能とも言われる4割打者に手が届くところにいました。
そのため、この頃のイチローは「次は打率4割?」と頻繁に聞かれるようなっていました。
これに対してイチローは、「それはいらないです。精神的に苦しむのは嫌だから」と自身のパフォーマンスに影響するのを危惧して、そう答えていました。
このような状況の中、1995年1月に阪神・淡路大震災が発生しました。
オリックスは“がんばろうKOBE”を合言葉にリーグ連覇を達成、翌1996年には日本一に輝きましました。
この間、イチローは記録にまつわる喧騒から解放されたように見えました。しかし、1997年になると再びイチローは注目を集める存在となりました。
「孤高の天才打者」
この頃から、イチローは「孤高の天才打者」と呼ばれるようになりました。
それまでのイチローは、愛くるしい無邪気な若者のような印象で捉えられていました。
名古屋球場で行われた「10.8決戦」に出かけて、内野席で焼きそばを頬張りながら楽しんで試合を観戦する姿も目撃されていました。
しかしその後、イチローの活躍が続くにつれて、その才能や技術は野球界を超えて高く評価されるようになると、近寄りがたいオーラーを放つ別の次元で生きる選手のイメージに変わっていきました。
イチローが驚異の150キロを投げる
それでもイチローは、まだまだ成長途中であり、春の宮古島キャンプの打ち上げで行われたスピードガンコンテストでは、当時投手でもほとんど出すことができなかった、球速150キロを計測して周囲を驚かせました。
216打席連続無三振
1997年シーズンが始まってすぐ、イチローのある記録が日本中の話題になりました。
イチローは、4月16日のロッテ戦(ナゴヤドーム)の第2打席で竹清剛治投手から三振をしたのを最後に、三振をしなくなったのです。
なんとそれは2カ月以上にもわたり、6月22日の西武戦において1978年に藤田平(阪神)選手がマークした、208打席連続無三振のプロ野球記録と肩を並べました。
そして、6月24日の日本ハム戦でその記録が更新されました。
1回表、1死二塁の第1打席で、イチローはグロスの137キロのストレートをライナーで打ち返しました。
この打球は当たりが良すぎて二直併殺になってしまいましたが、この瞬間に209打席連続無三振の日本新記録が誕生することになりました。
記録達成後のインタビューでイチローは、「あれだけ記録、記録と言われたら……。僕は機械じゃないんですから」と少し困ったように答え、「新記録というより、最初に数を数えはじめた人のほうがスゴイですよ。ヒットにならなかったけど、期待に応えられて満足です」とさっぱりとした様子で語りました。
「空振りしたい」高校時代からすでに三振しないイチロー
実は、以前にもイチローが「空振りをしたい」とコメントしたことが話題になったことがあります。
イチローの高校時代を知る愛工大名電の中村豪監督は、「イチローらしい」と頷き、彼の高校時代にも空振りがほとんどなかったことを語りました。
中村監督は、「高校時代もね、ホントに空振りを見ることがないからそんな話をしたら『当たっちゃうんです』と涼しい顔で言っていましたから」と続けています。
「誰がイチローから三振を奪うのか」
1997年のオリックスは「DREAM TOGETHER ’97 〜がんばろう神戸〜」。というスローガンを掲げ、2年連続の日本一を目指しリーグを戦いました。
しかし、オリックスは、シーズンの前半で首位に立っていたものの、最終的には西武ライオンズが優勝し、オリックスは2位に終わりました。そのため、1994年から続くリーグ三連覇を達成することはできませんでした。
リーグ最強投手でも抑えられないイチロー
その中で、西口文也投手は奪三振王に輝き、15勝5敗でチームのリーグ優勝に大きく貢献、パ・リーグ最強投手として名声を確立しました。
西口投手の武器は、まるで軟体動物のようにしなやに変化するスライダーでした。
そして、左打者の膝下にこの球を投げれば、どんなバッターでも絶対に打ち取れるという自信を持っていました。
しかし、ある試合でイチローと対戦した時に、そのスライダーは完璧に捉えられホームランにを打たれてしまいました。
西口投手は今でもその打球を思い出すといいます。
誰も抑えることはできない?
パ・リーグ最強投手の最高の球でも抑えることができないイチローに対して、「誰がイチローから三振を奪うのか」という議論が沸き起こっていました。
日本ハムの投手!下柳剛氏のイチローストップ宣言
6月23日、東京。
翌日からはじまるオリックスと日本ハムの2連戦を前にして、日本ハムの投手、下柳剛氏は知人とその息子と共に、都内のとあるレストランで食事を楽しんでいました。
食事が進むにつれ、自然とイチローの驚異的な無三振記録の話になっていきました。
「イチロー記録を止めるとしたらどの投手?」
明るい雰囲気の中で、日本を代表する様々な投手の名前とあげ、あーでもないこーでもないと、盛り上がっていました。
突然、下柳氏が何かを思い立ったかのように宣言しました。
「俺が止めるわ」
左打者抑えるリリーフのしての自信と期待
この発言は、酔った勢いによるものではなく、明確な根拠や自信があったわけでもありませんでした。しかし、後から振り返れば、1つだけそう言える”材料”があった。
それは、下柳投手が左打者を抑えるリリーフ投手として、イチローとの対戦チャンスが巡ってくる可能性が高かったからです。
「下柳投手 vsイチロー」
6月25日、ついにその日を迎えました。
この試合は、日本ハムの先発とそれに続く2番手の投手が早々に捉えられ、2点のリードを許した2回途中から下柳投手がマウンドに上がりました。
そして4回2死二塁、イチローが打席に立ちました。
この時、この試合でマスクを被っていた、日本ハムのベテランキャッチャー山下和彦選手は、冷静に状況を整理していました。
チームの中を引っ張る下柳剛投手のハングリー精神
実は、山下選手はイチローとの対戦にあたり、現実的で手堅いリードをするつもりでした。
しかし、マウンドに上がっていたのが下柳投手だったため、挑戦的なリードをすることにしました。
なぜか。
今シーズン、下柳投手の役割は負けている場面でのロングリリーフでした。
下柳投手は連投もいとわず、嬉々としてマウンドに上がり続け、「1イニングでよければ、全試合投げられますよ」と豪語していました。
日本ハムのリリーフ陣ではただ1人規定投球回に達し、すでに6勝もしていました。
山下氏は、下柳投手の野球に対するハングリーな姿勢が大好きでした。
「熱い男」
山下氏はキャンプ中に、ベテラン投手の金石昭人氏と二人で部屋でよく酒を飲んでいましたが、その日は、下柳投手も隣にいました。
普段は寡黙な下柳投手ですが、こと野球の話になると言葉が止まりませんでした。
世代を超えた熱い野球談義は2本、3本と空の酒瓶がテーブルの上に増えていっても終わる気配はありませんでした。
そんな、内に秘めた熱い気持ちを持つ下柳投手にも、やはり原点が存在します。
戦力外通告を跳ね返す覚悟
それは1993年、福岡ダイエーホークスで3年目を迎えた下柳投手は、新たに監督に就任した根本陸夫氏からある言葉をかけられました
「壊れて辞めるか、結果を残さずに辞めるか、どっちか選べ」
この頃の下柳投手は、1軍に手が届くとこまでいましたが、大事な場面でいつも制球が乱れ、2軍でくすぶっていましま。
事実上の戦力外通告とも捉えられる厳しい言葉に受けた下柳投手は、「壊れる方を選びます」と覚悟を決めました。
打撃投手を志願
それから下柳投手は、試合前の打撃練習で打撃投手を志願しました。
通常、試合前の打撃練習といえば、バッターが試合での打席に向けて調整する時間であり、良い感触を得るために、打撃投手はバッターが打ちやすいように投げることが一般的です。
しかし、下柳投手はこの慣習に従わず、全力でチームメイトの内角をえぐるような球を投げ込みました。
それは、登板が予定されてる日でさえ、打撃投手としてマウンドに上がり、一切手を抜くことはありませんでした。
「嫌な顔をされるくらいの気持ちで投げないと、結果を出せないんです」と下柳氏。
下柳投手の内角への全力の球は、簡単に打てるようなレベルの球ではなく、さらに一歩間違えば 怪我をさせられる可能性もあったため、チームメイトからの評判は悪く、腫れ物のように扱われるようになりました。
しかし、この環境は下柳投手に強靭なメンタルと新たな武器をもたらしました。
それが、左打者の内角へ全力投球でした。
この変化について下柳氏は、これまでは「当てたらどうしよう」と思いながら内角に投げていたが、「当てたらごめんなさい」という覚悟を持って思い切って投げ込めるようになったと語っています。
チーム勝利とリリーフ投手としての役割
下柳投手の成長と変化は、チーム全体のレベルアップに大きく貢献しました。
特徴的な全力で投げるスタイルと、どんな状況でも自分を信じる精神的な強さは、チームの勝利に直接的に繋がる大きな要因となりました。
やがて下柳氏はリリーフ投手としての自身の役割を確立し、プロ野球の中でも名の知れた選手になっていきました。
対イチロー対策
下柳投手はダイエーから日本ハムに移籍した後も、自身の原点である打撃投手を志願し、ある種の実戦の中で新しい球を試したりしていました。
そんな下柳投手の前に現れたのがイチローでした。
どれだけ内角を突いても簡単に弾き返される。ようやく弱点を見つけたと思っても、次の打席ではそこをヒットにされる。
投げれば投げるほど自分の力が吸い込まれていくような、底知れない天才を抑えなければ“左殺し”という自分の役割を果たすとはできませんでした。
そこで浮かんだのがシュートでした。
秘球「シュート」
ある打者から「スライダーとシュートがあれば嫌だ」という話を聞いた下柳投手は、前年の終わりから、対イチロー対策としてシュートの練習を始めました。
当の本人は半信半疑でしたが、山下捕手はその球のもつポテンシャルを高く評価していました。
今シーズン、こごまで下柳投手は、イチローを打ち取るための秘球、シュートを隠し続けました。
この戦略により、イチローは下柳投手のシュートの存在すら知らない状況で打席に立つことになったのです。
イチローを追い込む
こうして始まった対決。
下柳投手の初球のスライダーに、イチローは見逃しストライク。2球目の内角ストレートは、バットに軽く当たりファウル。
いきなりの2ストライクで追い込まれたイチローでしたが、3球目の外角スライダーもファウルで逃げられ、4球目の内角ストレートも同様にファウル。
どんどんイチローのタイミングは合っていき、次第に追い込んでいたバッテリーが逆に追い込まれていきました。
下柳剛のシュートがイチローを打ち取る
この場面で下柳投手は、秘球シュートを投げる決意をしました。
山下捕手もイチローの驚異的なスイングや対応力を感じ取り、次の1球で勝負が決まると直感。満を持してミットの下でシュートのサインを出しました。
東京ドームに緊張が走る中、下柳剛投手が投じたシュート球は、まるでフォークボールのように鋭く真下に曲がりました。イチローはバットを振り抜きますが、見事に空を切り、審判のストライクコールが響き渡りました。
「イチロー、見事な空振り三振!」
217打席、70日間にわたる三振なしの壮絶な記録が、ついに幕を閉じました。一瞬、東京ドームは静寂に包まれ、その後、驚きと歓喜の渦が巻き起こります。
優勝決定の瞬間でさえないにもかかわらず、ただ1人の左打者の空振り三振によって、37,000人の観衆がこの上ない興奮に包まれる光景は、これまでの野球史においても見たことのなものでした。
1つの三振がドームを揺らす
試合後、イチローは独特のユーモアを交えて自らの三振について、「三振はこんな感じだったな、という感覚ですね。ちょっと悲しみにうちひしがれているかもしれません。94年のシーズン200安打を達成した時よりも、今日の三振の方が盛り上がりましたね。こんなに喜んでもらえる三振も珍しいです。記録について聞かれる煩わしさから解放されるのは、正直、嬉しいですよ」と笑いを交えながら語りました。
一方、下柳剛投手は逆転勝利の余韻とともに記者たちに囲まれ、満面の笑みを見せ、「今日のシュートはフォークボールのように落ちました。全く予想していなかったんですが、力みが良い結果に繋がりましたね。特にイチローから三振を取りたかったので、達成できて嬉しいです」とコメントしました。
この試合における1つの三振は、ただのアウト以上の意味を持っていました。スタンドからのどよめきや、バッテリーの感情のむき出しは、イチローがいかに特別な存在であるかを改めて証明していました。
異例!ただの1つの三振が大きく報道
日本新記録にイチローは216打席連続無三振は、翌日のスポーツ紙で大きく報じらました。一人の選手の一回の三振が大々的に報じられるのは極めて異例のことでした。
ちなみに、この年のイチローは、607打席中で三振はたったの36しかありませんでした。
下柳投手が最後までイチローに隠したかった球
後日、イチローはグラウンドで顔を合わせた下柳投手に「あれ、142キロのフォークですよね?」と尋ねましたが、下柳はとぼけ顔で「真っ直ぐの投げそこないやで」と答えました。
試合後のインタビューでも、下柳投手がストレートと明言したことから、翌日の新聞各紙も三振を奪った球がストレートであったと一斉に報じました。
しかし、実際にはシュートであり、これはイチローにシュートの存在を知られたくなかった下柳投手の嘘でした。
やがてシュートは下柳投手の代名詞となり、踏み込んでいくと危険なほど強力なボールとして、左打者に恐れられるようになりました。
この武器を使って、先発投手の座を勝ち取り、通算129勝を挙げることができました。バッテリーを組んでいた山下氏は、下柳投手の活躍を見届けた後、ユニホームを脱いで引退しました。
初のサヨナラアーチ!オリックスのリーグ2位に寂しさも
この無三振記録以外にも、この年のイチローは自身初の記録を作りました。
それは10月7日、グリーンスタジアム神戸で行われたオリックスとロッテの試合、
1-1の同点で迎えた9回1死から、イチローは河本育之の5球目を捉え、右中間スタンドの最深部まで運び、プロ初のサヨナラアーチを記録しました。
その後のインタビューでイチローは「ファンの期待に応えられて誇りに思っていいと思います」と喜びを表現する一方で、「1年の1度の当たりが、ペナントが決まってから出てしまいました」と2位に終わった今シーズンに悔しさを滲ませました。
雑音に揺るがぬ野球への情熱、イチローの4年連続受賞
それでも今シーズンのイチローは打率.345で4年連続首位打者を獲得しました。
これはプロ野球史上2人目の記録であり、1970年の張本勲(東映)に次いで達成されました。
イチローは「数字のことだけでどうこう言われたくないけど、(4年連続は)なかなかできないことだとは思います。素直にうれしい」と語りました。
イチローの代名詞である最多安打のタイトルも、松井稼頭央(西武)やクラーク(近鉄)に脅かされながらも4年連続で獲得しました。さらに、ベストナイン賞とゴールデングラブ賞も4年連続で受賞しました。
また、この年のイチローはグラウンド外で、「メジャーへのウワサ」が囁かれていました。
6年連続リーグ最多敬遠と執拗な内角攻め
さらにイチローは、6年連続でリーグ最多敬遠数も記録するなど、対戦相手に執拗な内角攻めを受けました。また、相手捕手がイチローの打席でインパクトの瞬間に大声を上げて集中力を削ぐような戦術も取られました。
この相手の戦術に、つねに冷静なイチローが珍しく感情を表したことがあります。
1997年7月17日の近鉄戦で、西川慎一投手から腰の付近に死球を受けた際、イチローは「オアーッ!」と怒りの雄たけびを上げました。
実は、前日の近鉄戦でも高村祐から右足首に死球を受けており、一時は出場が危ぶまれましたが、X線検査で異状がなく、自ら志願して出場しました。
2夜連続の死球に怒り
しかし、さすがに2夜連続の死球には、「怒った?それで普通でしょ!当てられたら痛いよ。(死球を)やってくるところ(チーム)は一緒だし」と怒りを爆発させました。
その後、13打席安打が途絶え、三振3つを記録しましたが、7月20日の日本ハム戦で14打席ぶりの満塁弾を放ち、見事復活を遂げました。
イチローの天敵
この事件以降、仰木彬監督はイチローの死球に対してナーバスになり、西川投手を避けるようになりました。
実際に、翌年1998年のオープン戦と同年5月7日の近鉄戦でも、西川投手がリリーフすると、イチローの代わりに代打が送られました。西川投手は、プロ11年で4勝5敗と目立った成績を残していませんが、“イチローの天敵”として名を残すことになりました。
年棒2億6000万円
プロ入り6年目となるこの年、年棒が2億6千万円となりました。これは、当時の日本プロ野球界では非常に高い水準であり、イチローがどれほど評価されていたかを表しています。
読者の皆様へ
1つの三振が注目を浴びたこの年は、改めてイチローが特別な存在であることを改めて証明するものになりました。
そして、イチローと下柳投手の対決は、プロ野球の魅力と選手たちの情熱を見事に表現し、ファンにとって忘れられない歴史的瞬間となったのです。
《日本プロ野球時代のイチロー》深刻なスランプでも首位打者(1998年)