【イチロー伝説】「ついに三振!」オリックス・イチローが記録を更新した日 -1997

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【イチロー伝説】「伝統、名前だけで野球界に君臨し続けるのはどうかと思います」イチローが長嶋巨人に宣戦布告!-1996-
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Orix BlueWave in 1997

1997年 オリックス・ブルーウェーブ時代

Ichiro Suzuki

今や孤高の天才打者

イチローが97年あたりから、「孤高の天才打者」のような立ち位置になっていきました。それまでは、ふらっとナゴヤ球場で行われた「10.8決戦」に出かけて、内野席で焼そばを頬張っている無邪気な若者イメージがありました。

宮古島キャンプのコンテストで「球速150km」を記録

まだまだ成長を続けていることが、古島キャンプ打ち上げで行われたスピードガンコンテストで150キロを投げたことで証明された。

【大ニュース!】え?イチローが三振!!?

1997年6月26日、オリックス・イチローが在京朝刊スポーツ6紙の1面を独占した。見出しは「イチロー、ついに三振!」というもので、おそらくイチローが初めてだ。イチローは三振が放たれた時の気持ちを次のように語った。「おーっ、(三振は)こんな感じだったな、っていう感覚ですかね。今の気持ち?悲しみにうちひしがれているとでも言えばいいんでしょうかね。(94年のシーズン)200安打の時より、盛り上がりましたよね。ホント、三振してこんなに喜んでもらえて僕は幸せ者かと…」

日本新記録!216打席連続無三振

イチローは4月16日のロッテ戦(ナゴヤドーム)で、最後に三振した後、パ・リーグ記録の180連続打席無三振を更新するため、6月13日にロッテ戦(神戸)の第4打席にセンター前ヒットを放ち、1975年の近鉄・小川亨が作った記録を更新した。その後、25日の日本ハム戦(東京ドーム)の4回表でイチローは左腕の下柳剛に三振を喫し、217打席ぶりの三振となった。前日24日の同カードにおいて記録した「209打席連続無三振」の日本新記録を「216」まで伸ばした。記録を取りざたされながら「空振りをしたい」というイチローのコメントが紹介されることもあった。1997年のシーズン連続打席無三振をイチロー自身が「狙っていた」と語っている。

「これでようやく解放された…」

イチローは試合後、「200安打のとき(94年)よりもスゴかった」と明かしながら、「1球ごとに盛り上がってもらえて、僕は幸せ者です」と喜笑顔で以下のように語った。「昨日で終わってしまったので、すっきりしていました。1球ごとに盛り上がってもらえて、僕は本当に幸せ者です。94年の200安打時よりもスゴかったです。悔しいというより、いちいち番記者に記録のことを毎回聞かれなくて済む、という煩わしさから解放されたのが嬉しくて。」

6月のある日、藤田平(阪神)が持つ日本記録である208打席連続無三振を射程にとらえはじめたとき、仰木がイチローに言ったのは「おい、早く三振してケジメをつけてしまえよ」ということでした。

この頃のイチローは徹底したインコース攻めに苦しめられていた

1997年7月17日の近鉄戦(大阪ドーム)で、常にクールなイメージの強いイチローが珍しく感情をあらわにしたのは、西川慎一から腰の付近に死球を受けたときだった。前日の近鉄戦では、右足首に高村祐から死球を受け、担架で運ばれて病院送りになったばかりだったが、エックス線検査の結果骨に異状はなく、自ら志願してこの日の試合に出場していたイチローは、近鉄投手陣の厳しい内角攻めに悩まされていた。そんな彼が、7回無死二塁で佐野重樹をリリーフした左腕・西川慎一から腰の付近に死球を受けると、マウンドに向かって「オアーッ!」と怒りの雄たけびを上げたのだ。

 仰木彬監督は、1996年の事件以後、イチローの死球に対してナーバスになり、西川を忌避するようになった。1998年3月25日のオープン戦7回にイチローの打席で西川がマウンドに上がると、「開幕前に当てられたら大変」という理由で代打・福留宏紀に交代した。そして、5月7日に行われた近鉄戦(大阪ドーム)でも、7対1とリードの9回2死一塁のイチローの打席で西川がリリーフすると、代打・小川博文が送られていた。

「怒った?それで普通でしょ!当てられたら痛いよ。(死球を)やってくるところ(チーム)は一緒だし」

イチローの知られざる“珍記録”…天敵に「オアーッ!」と怒りの雄たけびも/久保田龍雄.AERA.dot..2018

プロ初のサヨナラホームラン!

1997年10月7日、グリーンスタジアム神戸で行われたオリックスとロッテの試合は1-1で迎えた九回1死から、イチローが河本育之の5球目を叩いた打球が、右中間スタンドの最深部まで伸びていった。そしてイチローはプロ初のサヨナラアーチで試合を決めた。

オリックスは二位で終わる

オリックスは首位で折り返したものの、ゲーム差なしながらも失速してしまい、最終的に2位に終わった。一時は西武を突き放しかと思われたが、結果はそうならなかった。

6年連続でリーグ最多敬遠

執拗な内角攻めによって6年連続でリーグ最多敬遠数を達成した。相手捕手はイチローの打席でインパクトの瞬間に大声で上げ集中力を削ぐような幼稚な手段をとった者もいた。

さらに多数のタイトルを獲得!

4年連続で、首位打者、最多安打、ベストナイン、そしてゴールデングラブ賞を受賞しました。

 「数字のことだけでどうこう言われたくないけど、(4年連続は)なかなかできないことだとは思います。素直にうれしい」(97年10月12日=プロ野球史上2人目の4年連続首位打者)

「ほぼ、いきかけました」イチロー語録集/日刊スポーツ

来季 年棒2億6000万円

年棒は6年目で2億6千万円となった

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