
【イチロー伝説】「伝統、名前だけで野球界に君臨し続けるのはどうかと思います」イチローが長嶋巨人に宣戦布告!-1996-
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Orix BlueWave in 1996
1996年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

3番 イチロー
1996年には、1番・田口、2番・福良、3番・イチローという3名が連なるオーダーがほぼ固定されるようになりました。3番バッターとして使われることが多くなり、ヒットをたくさん打つことを心がけていたイチローですが、ホームランの数にはこだわっていなかったそうです。
イチローの代名詞“あのルーティン”が確立

イチローが1996年シーズンの後半から行うようになったバットの姿勢は、背筋を伸ばして後傾気味に重心を取り、右手でバットを垂直に揃え、左手を右上腕部に添える動作です。以前は、代わりにバットをぐるぐると回していました。このバットをぐるぐると回す動作は、中日ドラゴンズOBの田尾安志氏が子どものときに憧れてモノマネを得意としていたような動きと酷似しています。この動作には、眼の焦点をスコアボードに合わせた後、バットへ焦点を変えることによって、ボールに対する動体視力を一時的に上げるなどの効果があると言われています。
幻のオールスター対決!?投手のイチロー vs 松井秀喜
1996年オールスター第2戦で、9回表パ・リーグは7対3とリードしていた。そこに、松井秀喜(巨人)が2死で打席へ入った。
「ピッチャー、イチロー」その瞬間に大歓声!
4万2938人の大観衆を背に、仰木彬監督(オリックス)はアッと驚く投手交代を告げた。「ピッチャー、イチロー」。西武の東尾監督からボールを受け取る背番号51。地鳴りのようなどよめきに包まれ、イチローがライトから駆け寄った。思わず苦笑いする次打者のゴジラ松井。仰木監督は「イチローの投手としての才能をファンに見てもらいたかった」と起用の理由を説明し、ファンサービスを大事にするオールスターは“お祭り”でもあると考えた。
VIDEO: Ichiro pitching in the 1996 Japanese All-Star Game: http://t.co/pVKBQwkSDI pic.twitter.com/7bPFIzQJjN
— Cut4 (@Cut4) May 25, 2014
野手部門1位はイチロー…テレビ朝日系「プロ野球総選挙」 https://t.co/KuE8mRqMcr #芸能ニュース #スポーツ新聞 pic.twitter.com/3sFccw7Kg7
— スポーツ報知 (@SportsHochi) January 8, 2018
セリーグを率いていた野村監督はコレに大激怒!
「オールスターという大舞台で、野手をピッチャーに起用するのはオールスターを冒涜するものであり、対戦バッターに対しても最大の屈辱だ。オールスターをなんと心得ているのか!」私は、ネクストバッターズサークルの松井に歩み寄り、声をかけた。「嫌だろ?」と聞くと、松井は「どっちでもいいです」と答えた。
Ichiro pitching, back in 1996. pic.twitter.com/GNw7vuluhg
— Rob Friedman (@PitchingNinja) January 23, 2015
松井の代打に投手の高津巨吾! ・・・大歓声が大ブーイングに(笑)
私は、松井が「やりたい」と言わなかったため、自軍の高津巨吾を代打に起用した。大歓声がブーイングに変わり、ヘルメットをかぶった高津が打席に向かった。イチローは「高津さんと聞いて、全力では投げられないと思った」と話した。高津は96年のオールスターを回想し「めっちゃ、速かったよ。外角にずっと投げ続けて、全部その辺りに来るんだから、野手ではあり得ないよね」と感心し、「普通はそんなに簡単に投げさせてもらえない。イチローだからだろうね」と特別な存在であることを強調した。結局、高津はカウント2-2から遊ゴロを打ち、試合は終了となった。
【カウントダウン・オールスター!】物議をかもしたという意味で球宴史に残るのが96年、イチロー(オリックス)の投手起用。セの野村監督はこれを「球宴を冒とく」とし、松井(巨人)を下げ、投手の高津(ヤクルト)を代打に出しました。 #マイナビオールスター #巨人 #giants pic.twitter.com/ONVmnlDk53
— スポニチ面担さん (@Sponichi_Editor) July 12, 2017
【アプリ限定】20年前のオールスター。“投手イチロー”を打席で見た高津現ヤクルトコーチに話を聞きました⇒ https://t.co/qx5cUXnGaJ #mlbjp #ichiro #ichiro3000 #swallows pic.twitter.com/PekyIse8b5
— スポーツナビ 野球編集部 (@sn_baseball_jp) July 15, 2016
オリックスが2年連続のリーグ優勝!!
1996年9月23日、グリーンスタジアム神戸で行われたオリックス・ブルーウェーブ対日本ハム戦。9回裏2死からの追い込みにリードを許していたが、D.Jの土壇場での同点弾で試合を引き分けることになった。ベンチの雰囲気は一変、この年はそれまで9試合ものサヨナラ勝ちがあり、やがてそれは確信に変わる。ナインの期待になったのは、6回に同点弾を打ったイチローが10回裏に打席に立った時点でであった。
劇的!最後はイチローのサヨナラヒット!!
イチロー選手のサヨナラ打で、ブルーウェーブは2年連続のリーグ優勝を決めた。10回裏、イチローの打球はレフトへ向かったが、その裏には大島公一選手がヒットで出塁していた。一塁を突いた大島を見て、イチローは二塁上で飛び上がり、喜びを爆発させた。
本拠地の神戸での優勝!!この時イチローはガッツポーズ!
自然にガッツポーズが出たのは、阪神大震災からの復興を歩む神戸で前年の優勝を決める夢を叶えられなかったことを、サヨナラという形で自らたぐり寄せたからだ。そのため、今年は地元での優勝が目標となった。
「自然とガッツポーズが出ました。22年間生きてきましたけども、初めてです。最高というものを通り越したものです」(96年9月23日=地元神戸で2年連続のリーグ優勝)
「ほぼ、いきかけました」イチロー語録集/日刊スポーツ
【オリックス】福良監督、長村球団本部長がイチローにエール https://t.co/qtlnOLGUlk pic.twitter.com/oRhHjyNC60
— スポーツ報知 (@SportsHochi) May 4, 2018
3年連続首位打者!さらに多数のタイトル総なめ!!
山田久志と並ぶ史上唯一の野手の3年連続MVP獲得を果たしたのは94年から96年の3年間であり、その期間にMVP、首位打者、最多安打、最高出塁率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を3年連続で受賞した。94年はチームが2位に終わりながらもMVPを受賞し、翌95年と96年はともにリーグ2連覇の立役者として受賞した。
8月は驚愕の打率.475(笑)
きっちり1試合で2安打ずつ打ち、96年8月には打率.475をマークし、月間最多記録の48安打を記録しました。さらに当時の日本記録26度の猛打賞と4安打以上8試合を記録。
【日本シリーズ】長嶋監督率いる「巨人軍」と対決!
「巨人が伝統と名前だけで球界に君臨し続けるのはどうかと思う」18日、長嶋巨人への挑戦状を突きつけた。
長嶋巨人を支えた投手軍団「レフティーズ」
長嶋巨人がセ・リーグを制した際、ネーミングのうまさで知られる長嶋茂雄監督が当時の宮本、河野、阿波野、川口の4人の左腕を「レフティーズ」と呼んでいました。そして日本シリーズ前にイチローに「レフティーズ」をぶつけるという話題が出たとき、イチローは「野球で常識って言われてることにはいろいろおかしなことがあるけど、それもその一つ。左打者は左投手に弱いって、そんなこと関係ないですよ。打つ打たないっていうのは、そんなところに理由があるんじゃないんですよ」と語っていました。
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優勝の流れ作った一打はイチローの予告ホームラン!?
初戦からオリックスが8回までに3-1とリードし、9回裏に巨人の代打・大森剛が同点2ランで追いつき延長戦となった。そしてイチローが10回表に東京ドームのライトスタンドへ会心の決勝アーチを放ったことで、オリックスは一気に3連勝して王手をかけることになった、このように戦いの流れを決めたのは初戦だった。
福良淳一選手はその時のことを……
「(前略)それまで4打席凡退していたイチローに打席が回ってきて、ベンチを出る時に、私に向かって『ホームランを打ってきます』と言ってきたんです。
証言イチロー: 「孤高の天才」の素顔と生き様/別冊宝島編集部.2019(p.85)
そしたら、相手投手の河野博文のストレートを見事に打ち返して、ライトスタントに一直線ですよ。まさに漫画のような予告ホームランを大舞台で達成したんです(笑)」
オリックスのホーム!!被災地・神戸で日本一を決めた!!
オリックスブルーウェープが、神戸で日本一を決め被災地を勇気づけた。
「巨人ブランド」を打ち破った
神戸での日本一実現に加えて、長嶋茂が所属する巨人ブランドを打ち破る「仕事」があったとシリーズ直前にイチローは言っていました。「伝統、名前だけで野球界に君臨し続けるのはどうかと思います」と。長嶋巨人を倒して、新しい時代を開きたいという気持ちを表現していたのです。
イチローが公約を果たしたとき、報道陣から「“巨人ブランド”を倒しましたね」と聞かれた際、彼は喜びをあらわにして言った「気持ちよいね。よい、よい。よいね。非常によいです。“特A”です」。これは「Aより上の「特A」というイチロー語で、彼の目標が達成できたことを示した。祝勝会では、彼の姿が印象的だった。敷き詰められたビニールシートに広がるビールの泡の海にヘッドスライディングする、無邪気な23歳のイチローだった。
オリックス日本一と仰木マジック
96年の日本シリーズ第5戦、オリックスはリードして4回表を迎えました。井上真二選手の放った浅いセンターフライを、本西さんが前進してランニングキャッチをしたはずが、二塁塁審はワンバウンドと見て「フェア」の判定を下しました。本西はその瞬間、両ひざをついたまま抗議し、仰木監督は顔面を紅潮させながら一目散に走り、井野塁審に強い口調で判定の見直しを要求しました。それはリリーフ投手を準備させるための時間稼ぎで、10分で抗議を終え、伊藤隆偉(たかひで)が後続をピシャリ。8回から野村貴仁が松井秀喜を完全に封じ、最後は鈴木平が締め、オリックスが日本一を決めた。
阪神大震災から23年 オリックスの「がんばろうKOBE」はいまだ風化していないhttps://t.co/WscXcWQ1Jd#イチロー#田口壮#オリックス・ブルーウェーブ#がんばろうKOBE#震災復興の象徴 pic.twitter.com/Wevrh41SMb
— 楽天Infoseekニュース (@Infoseeknews) January 17, 2018
「松井秀喜」「イチロー」日本を代表する打者対決も見どころの一つだった!
日本時代に2人が同じ試合で対戦したのは、オールスター戦、日米野球、オープン戦の3つがあるが、”真剣勝負”となるのは1996年の日本シリーズであった。オリックスが4勝1敗で日本一となり、視聴率は若きスーパースターの激突で37・1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録している。このシリーズのメークドラマの立役者の一人となった4年目の松井は38本塁打を放ち、一方のイチローも19打数5安打(打率.263)と微妙な成績だったが、初戦で延長10 回に勝ち越し本塁打を放ったため、このシリーズの優秀選手賞に選ばれている。
日米野球でメジャーリーガーと対決!
1996年の日米野球は、マイク・ピアザ(ドジャース)、バリー・ボンズ(ジャイアンツ)、ペドロ・マルティネス(エクスポズ)、アレックス・ロドリゲス(マリナーズ)、カル・リプケン(オリオールズ)など、正真正銘MLBオールスターチームが来日した。
メジャーリーガー「野茂秀雄」との対決
当時、日本人メジャーリーガーが日米野球に参加することが許されないぐらいムードが強かった中、野茂英雄が前年ナ・リーグ新人王を獲得した際、メジャーリーグ・オールスターの一員として参加したことで、野球ファンの目が一挙に太平洋の向こう側に注がれるようになった。今のご時世なら「お疲れ様。ゆっくり休んで」となるが、当時はそのようなムードはほとんどなかった。
イチローをメジャーリーガーも高評価!
1996年日米野球でオリックスのイチローが、MLB選抜を相手に4試合で11打数7安打、2盗塁を挙げた。そしてことで、現役大リーガー20人の中から「イチローはメジャーでも活躍できるか」に関するアンケートにおいて19人が「YES」と回答したことで、イチローの活躍が注目されるようになりました。それは、外交辞令が含まれていることを割り引いても、彼のスピード豊かな攻守が衝撃的だったからです。(わからないと答えたのは野茂英雄でした)
【ヒルマニア】96年の日米野球、ボンズがジャンパー交換に指名したのがイチローだった https://t.co/cQi877YpvZ #MLB #大リーグ pic.twitter.com/ndD1ThANQn
— スポーツ報知 プロ野球取材班 (@hochi_baseball) April 13, 2016
《42~世界を変えた男~》伝説のメジャーリーガー「ジャッキー・ロビンソン」(前編)
来季 契約金 2億6000万
6年目のイチローの年棒は2億6千万円に。
実はこの頃イチローはスランプの真っ只中
イチローは、首位打者となっているにもかかわらず、感覚的にスランプに陥っていたという。数字が出ていたことは、みなさんの目をダマすことができた救いでもあった。「よくない?疲れもたまっているし、そりゃあ、そうでしょう。いま、よくなくてもいいんですよ」というイチローの言葉からも、不調の気持ちを感じ取ることができる。そんな状態から脱すべく、9時間ブッ通しのキャンプに取り組んだのが、真の真相である。
仰木監督や新井打撃コーチも頭を抱える
仰木監督が「あまり、よくないな……」とつぶやき、新井打撃コーチが「調子悪い?そんなことないでしょ。まあ、いろいろありますよ」と言葉を濁した。室内でイチローのフリー打撃を見守っていたのは九六年前後のことである。当時、特にバッティングはカタチが大きく変わっていた。足を開いたり、いろんなカタチを試していたが、それは自分の不安の裏返しでもあった。
とにかく、自分のカタチを見つけたい、取り戻したい。
イチローに糸井重里が聞く/「キャッチボール」製作委員会.朝日文庫(pp.25)
その一心で、もう、なりふりかまっていなかったんです。
日米野球でメジャーリーガを見て「あの場所に行けば・・・」
彼らのスイングを見ていると、自分がいつの間にか殻に入ってしまってしまい、自分のことが小さく見えてしまっていたのだと思いました。そのような感覚を取り戻したいと思ったので、1996年に初めて球団にそのことを伝えました。時間をかけずに行きたいと思ったので、2000年にはポスティングシステムで移籍することになりました。このシステムは当時のオリックスの球団代表が米国に行かせるために作ってくれたものだったのです。今の一打席をものすごく大事にしてバットを振っているように見えましたが、何の迷いもなく自分のやりたいスタイルをしているように感じました。日本ではなく米国に行き、環境を変えようと考えましたが、それは不純な理由ではなくまっすぐな理由だったと思います。
この年からイチロー杯が開催!
1996年にイチロー氏の出身地である豊山町で約90チームで始まったイチロー杯は、イチローが抱いていた「野球の底辺を広げたい」という想いを地域の人たちが実現した大会です。2018年5月からの23回大会では、愛知、岐阜、三重、滋賀の4都府県から192チームが参加し、8ブロックでのトーナメントから始まり、11月には各ブロック優勝チームによる決勝戦が行われます。出場する児童は小学3~6年生で、毎年12月に行われる閉会式ではイチロー自ら優勝チームなどの選手らにメダルをかけている。
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