「松井秀喜」と「イチロー」の対決が実現した1996年の日本シリーズは、まさに「日本人最高打者」同士の激突が見られたことで、プロ野球史に刻まれる特別な瞬間でした。
このシリーズは、二人だけでなく、多くの選手たちにとっても印象深いシリーズとなりました。
《日本プロ野球時代のイチロー》幻の対決!イチロー投手 VS 松井秀喜(1996年)
1996 Japan Series
日本シリーズ1996年
1996年、長嶋茂雄監督率いる巨人(読売ジャイアンツ)は、開幕直前に高い期待を持って「ロケット・ダッシュ」を宣言しました。
しかし、シーズン序盤は外国人選手の不振や投手陣の不調により、予想外の出遅れを見せ、4月25日にはロケット不発と例えられました。この時点で、巨人軍の逆転優勝は遠い夢のように思われていました。
しかし、7月6日に首位との差が11.5ゲームに広がった後、巨人軍は7月中旬から驚異的な快進撃を開始しました。
長嶋監督はこの快進撃の中で、ホームラン20号を達成した松井秀喜選手に大きな期待を寄せ、「松井が40本ホームランを打つようなミラクルが起こる」とメークドラマを予告しました。
8月20日、巨人軍はついに首位に立ち、10月6日には劇的な逆転優勝を成し遂げました。この時、長嶋監督は「何が起こるかわからないから、とあきらめなかった」との言葉を残し、多くのファンに夢と希望と勇気を与えました。
先発陣では、「ミスター完投」と称された斎藤雅樹投手とガルベス投手が共に16勝を挙げ、最多勝タイトルを獲得しました。
また、松井秀喜選手や落合博満選手をはじめとする大打者たちが中心となり、元木大介選手ら個性的な選手たちも脇を固めて、圧倒的な打線を形成しました。
この1996年の長嶋巨人軍の逆転優勝は、メークドラマ発言が現実となった瞬間であり、ファンにとって忘れられない歴史的なシーズンとなりました。
松井秀喜が主軸打者として覚醒
1994年の日本シリーズを制した巨人軍では、松井秀喜選手はプロ入り2年目という若さで、当時は6試合で25打数6安打、打率.240という成績に留まっていました。
しかし、1996年のシーズンには、松井選手はチームの主軸打者として大きく成長し、その活躍は目覚ましいものでした。
レギュラーシーズンでは打率.314、38本塁打を記録し、チームにとってなくてはならない存在となり、松井選手自身、「2年前に比べるとはるかに分かっていたと思います」と振り返っています。
この年のオリックスとの日本シリーズでは、松井選手は初めて巨人の主軸打者としての自覚を持って臨み、そのパフォーマンスは目を見張るものがありました。
当時オリックスの主戦捕手であった高田誠氏(現巨人ブルペンコーチ)は、「あの年は開幕前からイチロー対松井の日本シリーズと騒がれていた。松井を乗せたらシリーズの流れを持っていかれてしまうので、落合さんには打たれてもいいけど、松井にだけは打たせちゃダメだと思っていました」と語っています。
緊迫感溢れる戦いを繰り広げた優勝したオリックス
一方、オリックスは、イチローのサヨナラヒットでリーグ優勝を決めるなど、ここまで緊張感のある戦いを展開していました。
1番田口選手、2番大島選手、3番イチロー、4番ニール選手という強力な上位打線が得点を量産し、投手陣では2人のストッパー、平井投手と鈴木平投手が試合を締めるという戦術で勝ち星を積み重ねました。
イチローが長嶋巨人に挑戦状を突きつける
1996年10月18日、日本シリーズ開幕前日にイチローは、長嶋巨人に対して挑戦状を突きつけました。
「巨人が伝統と名前だけで球界に君臨し続けるのはどうかと思う」
この発言は、当時のプロ野球界に大きな波紋を広げました。
長嶋監督は、セ・リーグ制覇時に当時の左腕投手たち宮本、河野、阿波野、川口を「レフティーズ」と呼び、そのネーミングで話題を集めていました。
しかし、これについてもイチローは左打者が左投手に弱いという常識に対して疑問を投げかけ、「打つ打たないっていうのは、そんなところに理由があるんじゃないんですよ」と指摘しました。
【第1戦】流れを作ったイチローの予告ホームラン
日本シリーズ開幕戦では、オリックスが8回までに3-1でリードしていましたが、9回裏に巨人の代打・大森剛が同点2ランホームランを打ち、試合は延長戦に突入。
そして3-3で迎えた延長10回表。ここまでの4打席を巨人の投手陣に抑え込まれてたイチローは、5打席目にして会心の決勝ホームランを放ちました。
長嶋巨人へ挑戦状を突きつけていたイチローは、まさに有言実行の活躍でオリックスを初戦に導いたのです。
オリックスの福良淳一選手はこの時のことを振り返り、「それまで4打席凡退していたイチローに打席が回ってきて、ベンチを出る時に、私に向かって『ホームランを打ってきます』と言ってきたんです。そしたら、相手投手の河野博文のストレートを見事に打ち返して、ライトスタンドへ一直線ですよ。まさに漫画のような予告ホームランを大舞台で達成したんです(笑)」と語っています。
この「伝統と歴史」に衝撃を与えるイチローの一撃によって、オリックスは伝統の「巨人ブランド」を打ち砕くための勢いに乗ることができました。
【第2戦】オリックスがリレーで完封勝利、連勝を飾る
続く第2戦では、オリックスの投手陣は素晴らしいリレーで完封、2-0で勝利を挙げ、連勝を飾りました。
【第3戦】オリックスが巨人エースをKO、3連勝を達成
第3戦でもオリックスの勢いは止まらず、巨人のエースでガルベス投手を撃破、オリックスが巨人に5-2で勝利。これによりオリックスは3連勝を達成しました。
【第4戦】下位打線の猛攻で巨人が初勝利を挙げる
オリックスの日本シリーズ優勝まであと一勝となった第4戦は、巨人の下位打線が猛攻、巨人が5-1で勝利しました。これによりオリックスの連勝が止まり、シリーズは続戦を迎えることになりました。
【第5戦】日本一を賭けた試合での「仰木マジック」
1996年10月24日、オリックスが3勝1敗と王手をかけて迎えた第5戦では、仰木マジックが炸裂しました。
その舞台はオリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸。試合はオリックスが星野伸之、巨人が斎藤雅樹の先発で始まりました。
10分の抗議がもたらした“勝負の分かれ目”
前の試合で連勝はストップしましたが、流れは確実にオリックスにありました。
しかし、オリックスが5対1で迎えた4回表、巨人が一挙反撃に転じました。1死一、三塁の場面で打席には右のクラッチヒッター7番・井上真二選手。
サウスポーの星野投手が投じたカウント1-2からの4球目はフォークのすっぽ抜けのような球にになりました。
これを井上選手はうまくすくい上げ、センター前に運びました。
オリックスのセンターを守っていたのが名手の本西厚博選手は、地面スレスレの打球をグラブの網で拾い上げました。しかし、二塁塁審・井野修氏のジャッジは「フェア」。
つまりダイレクトキャッチではないとの判定を下しました。
これに本西選手は納得せず、二塁塁審の井野氏の前まで詰め寄り、「捕っているじゃないか!」とヒザをついて抗議しました。
井野氏が首を横に振ると、グラブを後方に放り捨て、“やってられない”とでも言いたげな顔をしました。
その時、一塁ベンチから駆けつけたオリックスの仰木監督が井野選手の腕をひったくるようにして、ベンチ裏へ“連行”し始めました。
類似!?ヤクルトVS阪急の“疑惑のホームラン”事件
そして、仰木監督は主審の小林毅二氏に対して激しい口調でまくしたて、「ビデオで確認しようや!」と主張しました。
この時、野球ファンの中で1978年の日本シリーズ、ヤクルト対阪急戦の記憶が蘇りました。
それは第7戦に飛び出したヤクルト大杉勝男の“疑惑のホームラン”です。阪急・上田利治監督の抗議は1時間19分にも及びました。
その結果、先発の足立光宏投手はヒザに水がたまって投げられなくなり、ゲームはヤクルトが4対0で勝ち、初の日本一に輝きました。
あのホームランは、後に多くの選手・関係者の証言によってファウルだったということが明らかにされています。しかし、当時はビデオ判定がなかったため、最終的には人間である審判の判断が絶対的でした。
10分間の抗議が勝利を呼び込む
仰木監督も上田利治監督の二の舞になるのではないかと心配されましたが、抗議は10分間で終わりました。
仰木彬監督は、この10分間の抗議について、次のように述べています。
「あのプレイを機に、チームに気迫がみなぎりました。しかし、終わったことで、いつまでもグチグチ言っても判定が変わるわけでもないし、たとえ変わったとしても後味が悪いだけ。それよりも、審判に貸しを作って試合をした方が逆に優位に立てる。損して得取れです」
この抗議はチームに活力をもたらし、巨人は逆に勢いが失速する結果になりました
オリックスは抗議をしていた10分間の間に、次のピッチャーに準備をさせ、巨人の反撃を断ち切ることができたのです。
ピッチャー交代も計算の上!仰木監督の戦術がチームの日本一へと導く
実際に、この抗議は仰木監督による時間稼ぎでした。
仰木監督は、試合中に抗議を行う際に投手コーチの山田久志に「10分間抗議してくるから、その10分間でブルペン(で投手)を作れ」と耳打ちしました。
仰木監督の緻密な戦術により、ブルペンで投手の準備が整いました。
ブルペンでは球の速い平井正史投手も投げていましたが、仰木監督は迷わず伊藤を指名しました、この時のピッチャー交代の裏側に仰木監督はついて次のように語りました。
「まず次のピッチャーです。星野は抗議をする段階で、もう代えるつもりでいました。では、仕切り直しをするには、誰がいいか。難しい状況であり、誰にでも任せられるという場面じゃありません。伊藤隆偉は調子がいいことに加え、比較的、ああいう場面を得意にしていた。きっと彼ならやってくれるだろうと……」
このような仰木監督の冷静な対応が功を奏し、オリックスは巨人に対してリードを維持し続けました。
見事に優勝!
その後、左の野村貴仁投手、サイドスローの鈴木平投手を投入し、5対2で逃げ切り、4勝1敗でオリックスは球団初の日本一に輝きました。
まさにこの結果は、仰木監督の冷静な判断と戦術の成功によるものでした。
地元神戸での日本一がもたらした感動
さらには本拠地のグリーンスタジアム神戸で優勝を決めるという最高の結果になりました。
当時、神戸は1995年の阪神・淡路大震災からの復興が進んでいましたが、まだ被災地の傷跡が残っていました。オリックス・ブルーウェーブが地元で日本一になったことは、被災地の人々に勇気と希望を与えました。スポーツの力で元気を取り戻すことができることを示し、神戸市民や被災地の人々に大きな感動を与えました。
このオリックス・ブルーウェーブの日本一は、地域社会に対しても大きな影響を与え、スポーツが持つ力を改めて感じさせる出来事となりました。
イチロー vs 松井秀喜の対決の勝負の行方
イチローと松井秀喜選手の対決は。オールスター戦、日米野球、オープン戦でも対戦していましたが、このシリーズが正真正銘の”真剣勝負”でした。
この注目の戦いはシリーズを通して視聴率は37.1%を記録しました。
イチローと松井選手は当時日本を代表するトップバッターでしたが、このシリーズでは19打数5安打1打点1本塁打のイチローと、19打数4安打0打点の松井秀喜という成績で、両者とも相手チームに徹底的にマークされ、本来の実力を発揮することができませんでした。
しかし、そんな厳しい状況の中でも、第1戦で決勝点となる本塁打を放ったイチローの勝負強さは、その才能とメンタルの強さを証明しました。
まさに「さすが」と言えるパフォーマンスで、チームに大きな勢いづけとなり、試合の流れを引き寄せる重要な要素となりました。
「仰木マジック」仰木監督が語る日本一への道のり
仰木マジック称される見事な采配で優勝を果たした仰木監督は、試合後の記者会見で以下のように振り返りました。
「まわりの人は、仰木マジックなんて言いますが、マジックなんて何もありません。正攻法でオーソドックスそのものです。今までは持久戦になると自分からこけていたチームが、今年は、相手が転ぶまで持ち堪えられるようになりました。巨入がどうのと言う前に、ウチの選手が自分の仕事をきっちりとやってくれたということです」
さらに、悲願だった日本一の栄冠を手にした仰木監督はニッコリ笑って言いました、「これで毎日酒を飲んでも、後ろ指さされないだろうな」
仰木監督が語る日本一への道のり
また、「このシリーズのターニングポイントは第1戦目だった」と語り、「リーグ優勝をしたときよりも、さらに選手たちが頼もしく成長してくれた」と称えました。
“勝ち”星が先行しなければ“価値”がない
さらに翌日のインタビューで、勝ち星が先行しなければ価値がないと語り、選手たちには労力を無駄遣いせず、有効活用することが大切だと述べました。
また、選手がそれぞれ自分のスタイルを主張し、成績を追い求めたとして、チームとして勝利という結果が出なければ給料も上がらないため、選手たちはみんなで一緒に潤おうということが大切だと語りました。
仰木監督は、選手一人ひとりが100%の走攻守を発揮できるわけではないため、選手の長所をつなぎ合わせ、短所を補うことが重要であると述べました。
そして、日本シリーズで選手たちが持ち味を発揮し、相手の弱点を突くことができたことを振り返りました。
さらに、仰木監督はチームが耐えるべきところで耐え、チャンスに攻め込む粘り強さを持っていることが、チームが強くなった理由だと語りました。
「松井秀喜を封じよ」仰木監督が用意したジョーカー
仰木監督は、投手の野村貴仁氏を松井選手を抑えるジョーカー的なカードとして用いました。
野村投手は中継ぎエースとして54試合に登板し、145km前後の直球と左打者の外角に鋭く逃げるスライダーを武器にしていました。
仰木監督は、松井選手を抑えることで巨人の勢いを抑えれると考えていたため、野村投手を松井封じに専念させることに決めました。
野村投手は終盤の勝負どころで4度松井と対戦し、3度までは抑えることに成功しましたが、4度目の対決となった最終戦では松井選手に打ち込まれしまいまいた。
野村投手は、松井選手以外の打者に対しても投げることができたものの、仰木監督はあくまで野村投手を松井封じに特化させる戦術を採用。最後は鈴木平投手が締め、オリックスが日本一を決めました。
敗戦後の松井選手は「この悔しさを何十倍、何百倍の喜びに変えられるように努力します」と悔しさを滲ませました。
イチローが導いた日本プロ野球の新時代
イチローは、1996年の日本シリーズでのオリックス・ブルーウェーブの勝利を、巨人ブランドに挑戦する新しい時代の幕開けと捉えていました。
シリーズ前には、伝統と名前だけで野球界を支配する巨人に対する不満を公然と示し、新しい時代を切り開くために彼らを倒したいという強い意志を表現していました。
そしてオリックスが日本一に輝いた際、イチローはその喜びを隠さず、「気持ちいいね。よい、よい。よいね。非常によいです。“特A”です」と語り、自分の目標が達成されたことを示していました。
その後の祝勝会では、イチローの無邪気で楽しそうな姿が印象的でした。23歳のイチローは、ビールの泡に覆われたビニールシートでヘッドスライディングを楽しんでいました。
読者の皆様へ
日本シリーズを含め1996年のイチローは、シャープな打撃、俊敏な走塁、超人的な強肩で観衆を驚かせましたが、それ以上に、しなやかで美しい身のこなしやストイックな言動で、カリスマ的な存在となり、多くのファンを集めました。
これまで、パ・リーグは多くの人気者を輩出してきましたが、その人気は主に関西のローカル限定であることが多く、プロ野球のスター選手と言えば、セ・リーグの選手が中心でした。
しかし、イチローは初めて全国区の人気を博したパ・リーグの選手であり、関西のチームの選手が全国的なスターになりました。
イチローが210安打を打った1994年、オリックスの観客動員は前年の118.6万人から140.7万人へと急増し、さらに1995年は165.8万人へと伸びました。
調査会社による「最も好きなスポーツ選手」にイチローの名前が出たのは1995年が最初で、このとき5位でしたが、翌1996年には1位となり、以後長期にわたって1位に座りました。
イチローはパ・リーグが生んだ、初めての「国民的英雄」であり、その登場は長期的に見ればパ・リーグのステータス向上にも寄与したと言えます。
《日本プロ野球時代のイチロー》神話の記録、216打席連続無三振(1997年)