《イチロー伝説》「日本人最高打者」の激突!イチローと松井秀喜の対決が生んだ感動の日本シリーズ 〜1996年 日本シリーズ〜

プロ野球ファン必見!1996年の日本シリーズで、日本を代表する打者・イチローと松井秀喜の対決が実現。オリックスと巨人の激突は、逆転劇から始まり、最後はオリックスが初の日本一に輝きました。

この記事では、試合のハイライトや両者の成績、仰木監督の戦術について紹介しています。また、イチローの人気が急上昇した背景や、視聴率37.1%を記録した日本シリーズのドラマも詳しく解説しています。

《イチロー伝説》ピッチャーイチローが松井秀喜が対決!?伝説のオールスターゲームの舞台裏 〜1996年 オリックス時代〜

松井vsイチローが実現した唯一の日本シリーズ

ijasika/YouTube

「松井秀喜」と「イチロー」の対決が実現した1996年の日本シリーズは、まさに「日本人最高打者」同士の激突が見られたことで、プロ野球史に刻まれる特別な瞬間でした。このシリーズは、二人だけでなく、多くの選手たちにとっても印象深いシリーズとなりました。

長嶋巨人のメークドラマ逆転優勝

長嶋巨人は開幕直前に”ロケット・ダッシュ”宣言をしていたが、外国人選手の不振や投手陣の不調から予想外の出遅れを見せ、96年4月25日にロケットスタートの失敗をロケットの不発に例えました。しかし、7月6日には首位との差が11.5ゲームとなり、逆転優勝は無理かと思われたものの、7月中旬から驚異的な快進撃を見せる長嶋巨人が現れました。

7月16日の中日戦前、ホームラン20号を達成した松井に期待し、「松井が40本打つようなミラクルが起こる。2年越しのメークドラマが実現するでしょう」とメークドラマ発言をした長嶋巨人。8月20日にはついに首位に立ち、10月6日には最大11.5ゲーム差をひっくり返す劇的な優勝を成し遂げました。

優勝が決まったとき、「何が起こるかわからないから、とあきらめなかった」との言葉を残し、多くのファンに夢と希望と勇気を与えました。長嶋巨人の逆転優勝は、メークドラマ発言が現実となり、ファンにとって忘れられない瞬間となりました。

先発陣では、「ミスター完投」と称された斎藤雅樹投手とガルベス投手が共に16勝を挙げ、最多勝タイトルを獲得しました。また、松井秀喜選手や落合博満選手を始めとする大打者たちが中心となり、元木大介選手ら個性的な選手たちも脇を固めることで、圧倒的な打線を形成していました。

松井秀喜が主軸打者として覚醒

1994年に日本シリーズで優勝した巨人は、その年の松井秀喜はプロ入り2年目であり、6試合で25打数6安打の打率.240という成績に終わっていました。しかし、1996年には松井が主軸打者に成長し、レギュラーシーズンでは打率.314、38本塁打を記録し、自分に対する責任感も増していました。

松井は、「2年前に比べるとはるかに分かっていたと思います」と語り、初めて巨人の主軸打者として自覚を持って臨んだシリーズが、’96年のオリックス戦だったわけです。

オリックスの主戦捕手だった高田誠(現巨人ブルペンコーチ)は「あの年は開幕前からイチロー対松井の日本シリーズと騒がれていた。松井を乗せたらシリーズの流れを持っていかれてしまうので、落合(博満)さんには打たれてもいいけど、松井にだけは打たせちゃダメだと思っていました」と振り返っています。

このように、松井秀喜が1996年の日本シリーズで初めて主軸打者として自覚を持って臨んだことが、その後の彼のキャリアに大きな影響を与えたと言えるでしょう。

緊迫感溢れる戦いを繰り広げた優勝したオリックス

一方、オリックスは、イチロー選手のサヨナラ打でリーグ優勝を決めるなど、緊迫感溢れる戦いを展開しました。1番田口選手、2番大島選手、3番イチロー選手、4番ニール選手という強力な上位打線が得点を量産し、投手陣では2人のストッパー、平井投手と鈴木平投手が試合を締めるという戦術で勝ち星を積み重ねました。

イチローが長嶋巨人に挑戦状を突きつける

1996年10月18日、日本シリーズ開幕前日にイチローは、長嶋巨人に対して挑戦状を突きつけました。「巨人が伝統と名前だけで球界に君臨し続けるのはどうかと思う」という彼の発言は、当時のプロ野球界に大きな波紋を広げました。

長嶋茂雄監督は、セ・リーグ制覇時に当時の左腕投手たち宮本、河野、阿波野、川口を「レフティーズ」と呼び、そのネーミングで話題を集めていました。しかし、イチローは左打者が左投手に弱いという常識に対して疑問を投げかけ、「打つ打たないっていうのは、そんなところに理由があるんじゃないんですよ」とコメントしました。

この発言は、イチローの自信と向上心を象徴するものであり、彼がプロ野球界の既存の価値観に縛られず、自らの信念を貫く姿勢を示していました。

【第1戦】流れを作ったイチローの予告ホームラン

1996年の日本シリーズ初戦では、オリックスが8回までに3-1でリードしていましたが、9回裏に巨人の代打・大森剛が同点2ランホームランを打ち、試合は延長戦に突入しました。そして3-3で迎えた延長10回表、イチローが会心の決勝ホームランを放ちました。彼はそれまでの4打席を巨人の投手陣に抑え込まれていましたが、5打席目でついに攻略。シリーズ前日に長嶋巨人へ挑戦状を突きつけていたイチローは、まさに有言実行でオリックスが初戦を制しました。

オリックスの福良淳一選手はその時のことを振り返り、「それまで4打席凡退していたイチローに打席が回ってきて、ベンチを出る時に、私に向かって『ホームランを打ってきます』と言ってきたんです。そしたら、相手投手の河野博文のストレートを見事に打ち返して、ライトスタンドへ一直線ですよ。まさに漫画のような予告ホームランを大舞台で達成したんです(笑)」と語っています。

この「伝統と歴史」に衝撃を与えるイチローの一撃で、オリックスは「巨人ブランド」を打ち砕く勢いにのった。

【第2戦】オリックスがリレーで完封勝利、連勝を飾る

第2戦ではオリックスが巨人に2-0で勝利しました。オリックスの投手陣は素晴らしいリレーで完封勝利を挙げ、連勝を飾りました。

【第3戦】オリックスが巨人エースをKO、3連勝を達成

第3戦ではオリックスが巨人に5-2で勝利。オリックスの猛攻が続き、巨人のエースであるガルベス投手をKOしました。これによりオリックスは3連勝を達成しました。

【第4戦】下位打線の猛攻で巨人が初勝利を挙げる

第4戦では巨人がオリックスに5-1で勝利し、シリーズで初勝利を挙げました。巨人の下位打線が猛攻で反撃し、試合を制することができました。これによりオリックスの連勝が止まり、シリーズは続戦を迎えることになりました。

【第5戦】オリックス初の日本一!

1996年10月24日、オリックスが3勝1敗と王手をかけて迎えた第5戦。舞台はオリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸。試合はオリックスが星野伸之、巨人が斎藤雅樹の先発で始まりました。

10分の抗議がもたらした“勝負の分かれ目”!仰木監督の戦略

オリックスが5対1で迎えた4回表、巨人が反撃に転じました。1死一、三塁で打席には7番・井上真二。右のクラッチヒッターでした。

サウスポー星野が投じたカウント1-2からの4球目はフォークのすっぽ抜けのように映りました。これを井上はうまくすくい上げ、センター前に運びました。オリックスのセンターは名手の本西厚博。地面スレスレの打球をグラブの網で拾い上げました。しかし、二塁塁審・井野修のジャッジは「フェア」。ダイレクトキャッチではない、との判定でした。

本西は納得せず、井野の前まで詰め寄り、「捕っているじゃないか!」とヒザをついて抗議しました。井野が首を横に振ると、グラブを後方に放り捨て、“やってられない”とでも言いたげな表情をつくりました。その時、一塁ベンチから駆けつけたオリックスの仰木監督が井野の腕をひったくるようにして、ベンチ裏へ“連行”し始めました。

類似!?ヤクルトVS阪急の“疑惑のホームラン”事件

主審の小林毅二に対しても激しい口調でまくしたて、「ビデオで確認しようや!」と主張しました。

1978年の日本シリーズ、ヤクルト対阪急戦の記憶が蘇ります。第7戦に飛び出したヤクルト大杉勝男の“疑惑のホームラン”。阪急・上田利治監督の抗議は1時間19分にも及びました。その結果、先発の足立光宏はヒザに水がたまって投げられなくなり、ゲームはヤクルトが4対0で勝ち、初の日本一に輝きました。

あのホームランは、多くの選手・関係者が証言しているように、ファールだったとされていますが、当時はビデオ判定がなかったため、審判の判断が最終的な結果となりました。

10分間の抗議が勝利を呼び込む

仰木監督も上田利治監督の二の舞になるのではないかと心配されましたが、彼の抗議は10分間で終わりました。

仰木彬監督は、10分間の抗議の後、次のように述べました。「あのプレーを機に、チームの気迫が漲ったのは確かです。済んだことで、いつまでもグチャグチャ言っても判定が変わるわけでもないし、たとえ変わったとしても後味が悪いだけ。それよりも、審判に貸しを作って試合をした方が逆に優位に立てる。損して得取れです」と言う。この抗議が、チームに活力をもたらし、巨人には逆に意気消沈させる結果となりました。

その10分間で、次のピッチャーに準備をさせ、巨人の反撃を断ち切ることができました。仰木監督の冷静な対応が功を奏し、オリックスは巨人に対してリードを維持し続けました。

ピッチャー交代も計算の上!仰木監督の戦術がチームの日本一へと導く

仰木監督は、試合中に抗議を行う際に投手コーチの山田久志に「10分間抗議してくるから、その10分間でブルペン(で投手)を作れ」と耳打ちしたと言われています。仰木監督の緻密な戦術により、ブルペンで投手の準備が整いました。

この時のピッチャー交代に仰木監督はついて次のように語りました。「まず次のピッチャーです。星野は抗議をする段階で、もう代えるつもりでいました。では、仕切り直しをするには、誰がいいか。難しい状況であり、誰にでも任せられるという場面じゃありません。伊藤隆偉は調子がいいことに加え、比較的、ああいう場面を得意にしていた。きっと彼ならやってくれるだろうと……」

ブルペンでは球の速い平井正史も投げていましたが、仰木監督は迷わず伊藤を指名し、その後、左の野村貴仁、サイドスローの鈴木平を投入し、5対2で逃げ切り、見事にオリックスは球団初の日本一を掴み取りました。

まさにこの結果は、仰木監督の冷静な判断と戦術の成功によるものでした。

地元神戸での日本一がもたらした感動

1996年、オリックス・ブルーウェーブは日本シリーズで読売ジャイアンツと対戦し、4勝1敗で日本一に輝きました。シリーズはオリックスの本拠地であるグリーンスタジアム神戸で決着がつきました。

当時、神戸は1995年の阪神・淡路大震災からの復興が進んでいましたが、まだ被災地の傷跡が残っていました。オリックス・ブルーウェーブが地元で日本一になったことは、被災地の人々に勇気と希望を与えました。スポーツの力で元気を取り戻すことができることを示し、神戸市民や被災地の人々に大きな感動を与えました。

このオリックス・ブルーウェーブの日本一は、地域社会に対しても大きな影響を与え、スポーツが持つ力を改めて感じさせる出来事となりました。

イチローと松井秀喜の対決が生んだ日本シリーズのドラマ

1996年の日本シリーズでは、イチローと松井秀喜が同じ試合で対決しました。オールスター戦、日米野球、オープン戦でも対戦していましたが、このシリーズが”真剣勝負”となった。オリックスが4勝1敗で日本一となり、視聴率は37.1%を記録しました。

イチローと松井秀喜は当時日本を代表する打者でしたが、このシリーズでは19打数5安打1打点1本塁打のイチローと、19打数4安打0打点の松井秀喜という成績で、両者とも相手チームに徹底的にマークされ、本来の打撃を発揮できませんでした。

しかし、そんな厳しい状況の中でも、第1戦で決勝点となる本塁打を放ったイチローの勝負強さは、彼の才能とメンタルの強さを証明しました。まさに「さすが」と言えるパフォーマンスで、チームに大きな勢いづけとなり、試合の流れを引き寄せる重要な要素となりました。

仰木監督が語る日本一への道のり

仰木彬監督は、優勝決定直後の合同記者会見で、「このシリーズのターニングポイントは第1戦目だった」と語り、「リーグ優勝をしたときよりも、さらに選手たちが頼もしく成長してくれた」と称えました。巨人は仰木マジックにはまり、敗れ去ることとなりました。昨年のヤクルト戦でも1勝するのがやっとでしたが、今回は選手たちの成長が大きく寄与しました。

仰木監督は、「まわりの人は、仰木マジックなんて言いますが、マジックなんて何もありません。正攻法でオーソドックスそのものです。今までは持久戦になると自分からこけていたチームが、今年は、相手が転ぶまで持ち堪えられるようになりました。巨入がどうのと言う前に、ウチの選手が自分の仕事をきっちりとやってくれたということです」と語りました。悲願だった日本一の栄冠を手にした仰木監督はニッコリ笑って言いました、「これで毎日酒を飲んでも、後ろ指さされないだろうな」。ちょっぴり不良で形に拘らない男が、なんとも照れ臭そうに目を細めました。

“勝ち”星が先行しなければ“価値”がない

さらに翌日のインタビューで、勝ち星が先行しなければ価値がないと語り、選手たちには労力を無駄遣いせず、有効活用することが大切だと述べました。また、選手が欲に任せて10勝10敗になると評価が下がり、結果が出なければ給料も上がらないため、選手たちはみんなで潤おうということが大切だと語りました。

仰木監督は、選手一人ひとりが100%の走攻守を発揮できるわけではないため、選手の長所をつなぎ合わせ、短所を補うことが重要であると述べました。そして、日本シリーズで選手たちが持ち味を発揮し、相手の弱点を突くことができたことを振り返りました。

また、仰木監督はチームが耐えるべきところで耐え、チャンスに攻め込む粘り強さを持っていることが、チームが強くなった理由だと語りました。

「松井秀喜を封じよ」仰木監督が用意したジョーカー

仰木監督は投手の野村貴仁を松井秀喜を抑えるジョーカー的なカードとして用いました。

野村は中継ぎエースとして54試合に登板し、145km前後の直球と左打者の外角に鋭く逃げるスライダーを武器にしていました。

仰木監督は、松井を抑えることで巨人の勢いを抑えると考えていたため、野村を松井封じに専念させることに決めました。野村は終盤の勝負どころで4度松井と対戦し、3度までは抑えたが、4度目の対決となった第5戦では松井が初めて野村を打ち崩しました。

野村は、松井以外の打者に対しても投げることができたものの、仰木監督は彼を松井封じに特化させる戦術を採用。最後は鈴木平が締め、オリックスが日本一を決めました。

敗戦後の松井は「この悔しさを何十倍、何百倍の喜びに変えられるように努力します」と悔しさを滲ませた。

イチローが導いた日本プロ野球の新時代

イチローは、1996年の日本シリーズでのオリックス・ブルーウェーブの勝利を、巨人ブランドに挑戦する新しい時代の幕開けと捉えていました。彼はシリーズ前に、伝統と名前だけで野球界を支配する巨人に対する不満を示し、新しい時代を切り開くために彼らを倒したいという強い意志を表現していました。

オリックスが日本一に輝いた際、イチローはその喜びを隠さず、「気持ちいいね。よい、よい。よいね。非常によいです。“特A”です」と語りました。これはイチロー独自の言葉で、彼の目標が達成されたことを示していました。

祝勝会では、イチローの無邪気で楽しそうな姿が印象的でした。23歳の彼は、ビールの泡に覆われたビニールシートでヘッドスライディングを楽しんでいました。

パ・リーグ初の「国民的英雄」

イチローは、シャープな打撃、俊敏な走塁、超人的な強肩で観衆を驚かせましたが、それ以上に、しなやかで美しい身のこなしやストイックな言動で、カリスマ的な存在となり、多くのファンを集めました。これまで、パ・リーグは多くの人気者を輩出してきましたが、その人気は主に関西のローカル限定であることが多く、プロ野球のスター選手と言えば、セ・リーグの選手が中心でした。

しかし、イチローは初めて全国区の人気を博したパ・リーグの選手であり、関西のチームの選手が全国的なスターになりました。彼が210安打を打った1994年、オリックスの観客動員は前年の118.6万人から140.7万人へと急増し、さらに1995年は165.8万人へと伸びました。

調査会社による「最も好きなスポーツ選手」にイチローの名前が出たのは1995年が最初で、このとき5位でしたが、翌1996年には1位となり、以後長期にわたって1位に座りました。イチローはパ・リーグが生んだ、初めての「国民的英雄」であり、その登場は長期的に見ればパ・リーグのステータス向上にも寄与したと言えます。

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