《イチロー伝説》イチローがたぐり寄せた初のリーグ優勝!オリックス・ブルーウェーブが神戸の希望となった瞬間!! 〜1995年 オリックス時代〜

この記事は、日本を代表する野球選手イチローの初期の活躍と、彼が経験した1995年の阪神・淡路大震災について描いたものです。

イチローが在籍したオリックス・ブルーウェーブの1995年シーズンの快進撃や、被災地神戸での特別な試合「ドリームゲーム」、そしてオリックスの優勝による神戸市内でのパレードの様子なども詳しく紹介されています。野球ファンやイチローのファンはもちろん、阪神・淡路大震災について学びたい人にもおすすめの記事です。

《イチロー伝説》プロ野球界にニックネームが誕生!仰木監督が創り出した“イチロー”というブランド!! 〜1994年 オリックス時代〜

Orix BlueWave in 1995

1995年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

BsTV – オリックス・バファローズ 公式/YouTube

1994年、イチローはプロ入りわずか3年目にして史上初のシーズン200安打を達成し、野球界に衝撃を与えるとともに、「イチローフィーバー」が巻き起こった。その後の1995年、オリックス・ブルーウェーブのキャンプインが迫る中、突如として神戸市を襲った悲劇が、イチローを含む多くの市民の人生を変えた。それが阪神・淡路大震災です。

【1月17日 阪神・淡路大震災】阪神・淡路大震災がオリックスにも影を落とす

1995年1月17日午前5時46分、神戸市を中心とする地域が大きな被害を受ける阪神・淡路大震災が発生し、6,434人が命を落とす悲劇が起こりました。震災は街の多くの場所に壊滅的な影響を与え、その中にはオリックス・ブルーウェーブの本拠地も含まれていました

ANNnewsCH/YouTube
イチローが阪神・淡路大震災の恐怖を回想

当時のイチローは震災が発生した1995年1月17日に神戸市西区の寮に住んでいました。幸いにもイチローがいたエリアは比較的被害が少なかったものの、地震の衝撃は強烈でした。

早朝、イチローは「ドカーン」という音とともに目が覚めました。最初は何が起こったのか理解できませんでしたが、すぐに部屋が揺れ始め、「地震だ」と気づきました。

イチローはアスリートであるにもかかわらず、立っていられないほどの揺れに遭遇し、布団をかぶって丸まるしかない状況でした。床が抜けるか天井が落ちるかを覚悟し、初めて死ぬかもしれないと思った瞬間だったとイチローは振り返ります。

自然と寮の食堂に選手が集まってきた

揺れが収まった後、選手たちは2階の食堂に次々と集まりました。青濤館は大丈夫だったが、パンツ一枚で食堂に行ったという話もあります。誰かの顔を見るとほっとするので、みんなで集まったのだと思います。

テレビを点けると、中心地の惨状が映し出されていました。しかし、その映像も途切れ、部屋から窓を開けると遥か先で煙が舞っているのが見えました。この状況を受けて、選手たちは安全のため寮から出ず、施設で合同自主トレを中止し、トレーニングを続けることにしました。自分たちにできることに集中し、この困難な状況を乗り切るために努力を続けたといいます。

「僕らは野球をしなくてはいけない」

地震の直後、選手たちは話し合いをしました。その結果、「僕らは野球をしなくてはいけない」ということになり、通常通りの開幕に向けて、それぞれがどうしたらいいかを考えました。

オリックス寮は一時的に支援拠点に変わった

球団職員17人の自宅が全壊および半壊し、主力選手の中にも自宅が半壊する大きな被害を受けた者がいましたが、青濤館の地盤は堅固で、建物の被害は軽微でした。

青濤館は、震災後もインフラが無事であったことから、支援拠点として活用されました。そして、ブルーウェーブはその場で、選手寮の備蓄品を被災者に無料で配布するなどの支援活動に着手しました。しかし、その時期はオフシーズンであり、春季キャンプ前であり、プロ野球公式戦の開催は危ぶまれたため、スケジュールは大幅に変更されました。

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仰木監督は神戸のためにも優勝を誓う!

震災当日、仰木彬監督は東京での監督会議出席のために滞在しており、テレビで神戸の光景を目の当たりにしました。仰木監督は神戸に一刻も早く戻りたいと思っていましたが、交通網の復旧がまだ立っていなかったために、すぐには戻れませんでした。

しかし10日後、義援金を渡すためにようやく神戸市役所にたどり着いた時、生活に精一杯のはずの神戸市民から「頑張ってください」という声をかけられました。その瞬間、仰木監督は決意しました。「優勝して、神戸の人たちを勇気づけなければ」と。

不安の中で始まった宮古島キャンプ

震災後の状況が厳しく調整が遅れていた中、オリックス球団は選手たちに野球を再開するために宮古島でキャンプインすることを決定しました。ただし、選手たちは家族や神戸市の状況を心配しており、野球に集中できる状況ではありませんでした。そのため球団は、キャンプ参加が難しい選手は来なくてもいいという通知をおくり、繁華街への出入りの自粛を求めました。

2月1日に、選手たちとその家族が無事だったことから、全員が宮古島に集まることができました。常夏の島は、神戸とはまるで別世界のような雰囲気で、指揮官の仰木彬が震災についてほとんど触れなかったため、選手たちは野球に集中し、チームの雰囲気はむしろ明るかったと言っても過言ではありません。

それでもある選手は「自分のことで精一杯でしたね。シーズン中も『がんばろうKOBE』というワッペンを貼っていましたが、勝たなければそれすらも言えないと思っていました」と語っています。

イチローも震災については何も語らず、過熱する報道に対して口を開かなくなっていました。キャンプのときは、イチローに合わせてカメラや記者も一緒に動くため、常に塊が動いているような感じがありました。イチローは徐々にメディアを避けるようになり、バスタオルで頭を覆って移動することもありました。

ホームゲーム開催は「夢物語」とみられた

阪神・淡路大震災が発生した1995年、オリックス・ブルーウェーブは被災地でのホームゲーム開催を検討していましたが、当初はその実現に懐疑的な意見が多く、実現の見込みは極めて低かったとされています。

震災の惨状を受け、「こんな惨状で野球を見にくる人はいない、今シーズン神戸で野球をするのは夢物語だ」という考えが球団内でも支配的でした。

オーナー宮内義彦の大号令

しかし、神戸出身のオーナー宮内義彦が「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という大号令を出し、チームはホーム開幕戦の実施に踏み切ることになりました。

神戸に残り市民とともに戦う!!

試合開催を予定通りグリーンスタジアム神戸で踏み切った時、選手達は「神戸市民のために野球をしよう。全力でプレーし、市民を励まそう」という想いで一致団結し、開幕に臨んだ。そこには、市民とともに戦うという想いと、被災者である市民がそのチームを応援してくれるという構図があり、選手達は奮い立った。

『がんばろうKOBE』

グリーンスタジアム神戸は、神戸市の西部にある球場で、阪神・淡路大震災の影響で被害を受けました。近くの合宿所も被害に見舞われ、市民の生活は一変しました。選手たちも、すぐには気持ちを野球にシフトできない状況でした。

しかし、オリックス・ブルーウェーブは、市民を励ますために「復興の一助として、野球で市民を盛り上げよう!」というスローガンを掲げ、ユニホームの右袖に「がんばろうKOBE」という言葉を縫い込みました。

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大地震後の状況下でのオープン戦に驚異的な8500人が集まる

わずか2カ月前に大地震が発生し、神戸市の交通インフラが深刻な被害を受けていました。高速道路は生活救援物資運搬車に限られた通行許可となり、神戸の中心・三宮とグリーンスタジアム神戸のある総合運動公園を結ぶ地下鉄は半ばで寸断されていたのです。

しかし、そんな厳しい状況下でも、オリックス・ブルーウェーブのキャンプが終わり、最初のオープン戦に驚異的な8500人の観衆が集まりました。この数字は、神戸市民の熱い想いと復興への決意を象徴するものであり、想像するだけで胸が熱くなるほどの意味を持ちます。

観客たちは、チームに対する支持と共に、被災地の復興を願って試合を見守りました。オリックス・ブルーウェーブの選手たちは、この熱い想いに応えるように全力でプレーし、市民を勇気づけました。

開幕戦でオリックスが勝利、観客動員が前年を上回る

グリーンスタジアム神戸で行われた開幕戦では、ロッテとの対戦に3万人を超える観客が詰めかけました。予想以上の超満員の球場で、オリックス・ブルーウェーブは熱戦を繰り広げました。

試合は3-2でオリックスの勝利。同点のまま迎えた8回裏、勝呂壽統が左翼席へ勝ち越しのソロ本塁打を放ち、試合を決定づけました。開幕投手には40歳の佐藤義則が選ばれ、7回を5安打2失点の好投でチームを勝利に導きました。

木に登るファンも現れた熱狂的な応援、神戸市民とチームの絆が復興の力

この年、オリックス・ブルーウェーブの主催65試合には、前年よりも多い165万8000人が観客として訪れ、ほぼ全試合が満員となりました。入りきれない客たちは、レフト側の木に登って試合を見守っていました。この状況は、チームとファンがお互いを支える絆が生まれ、神戸市民とチームが力を合わせて復興の道を進むことに繋がりました。

評論家が予想しなかったチームの力

オリックスは、イチローの大活躍もあり、2位に躍進しました。しかし、当時は西武の黄金時代であり、それがこの先も続くように見えました。開幕前の時点では、震災による調整の遅れもあり、オリックス優勝を予想する評論家はほとんどいませんでした。選手たちも、自分たちの力をそこまで信じていたわけではありませんでした。

「こんなときだからこそオリックスにがんばって欲しい」という声は確かに選手たちにも届いていましたが、彼らも勝てるほど甘い世界ではないことを自覚していました。

30年ぶりのマジックナンバー点灯

4月には9勝9敗とまずまずのスタートを切り、5月末には一時的にオリックスが首位に立ちました。そしてイチローが打撃3部門で1位になり、6月には19勝4敗1分けと大きく勝ち越しました。

試合の中で流れは確かに存在し、オリックスはその流れが絶え間なく続いていました。リードされてもファンの大声援があったため、流れが相手に行かず、逆転してしまうこともありました。願いの力はとてつもなく強く、苦手意識のあった西武に対して6月から15連勝するなど、普通ではありえないことが起こり続けていました。

7月に入ってもオリックスの勢いは衰えず、2位以下を大きく突き放し、チームが50勝に到達するのが他チームより早かった。7月22日には早くもマジックナンバー「43」が点灯しました。この7月中のマジックナンバー点灯は実に30年ぶりの快挙で、前半戦を終了した時点で2位に9ゲーム差をつけてオリックスは完璧な独走態勢に入りました。

パンチ佐藤は、このオリックスの快進撃について「僕が入った頃のオリックスはすごい個性派集団だったので、みんながバラバラだった。優勝しようなんて声、聞いたことがないですもん。でもあの震災で、チームの全員が同じ方向を向いたように見えました」と語っていました。

イチローがホスト役を務めた「ドリームゲーム」が被災地・神戸を励ます

1995年7月24日(月)、オールスター第1戦の前日に特別な試合が開催されました。日本人選手選抜の「ジャパン・ドリームズ」と外国人選手選抜の「フォーリン・ドリームズ」が、阪神大震災チャリティーの「ドリームゲーム」で対戦しました。

この試合は、被災地・神戸を励ますための特別なもので、オリックスのイチローがホスト役を務めました。震災で亡くなった方々への黙とうから始まり、試合は熱戦の展開となりました。

イチローは右翼で先発出場。8回に中日のモンテからストレートを右翼スタンドへ運び、ホームランを放ちました。そのままベースを回りながら、珍しく右の拳を突き出す姿が見られました。イチローは両チーム通じて唯一の猛打賞を記録しました。

試合はフォーリン・ドリームズが5対3で勝利。ロッテのフランコは2安打2打点をマークし、「日本には本当に素晴らしい選手がたくさんいる。イチローもそうだけど、僕は広島の野村も絶対にメジャーで活躍できると思う」とコメントしました。

この「ドリームゲーム」は、日本人選手と外国人選手が力を合わせて被災地を励ます姿を見せ、多くの人々に感動を与えました。

イチローがファン投票で日本新記録を獲得したオールスターゲーム

1995年の7月25日と26日に開催されたオールスターゲームにおいて、イチローはファン投票で外野手部門1位に選ばれ、99万4,938票を獲得しました。これは日本新記録で、両リーグを含めて最も多かったものです。

イチローはオールスターMVPには選ばれませんでしたが、スピードガンコンテストで観客を驚かせ、145キロの球速で優勝しました。当時150キロ代のピッチャーはほとんどいなかったため、外野手でありながら速球投手並みの強肩を持つイチローに、多くの人が驚きました。

優勝へのカウントダウンが始まるもまさかの4連敗

オールスターゲーム終了後も、オリックスの快進撃は止まらず、8月が終わるころには、7月時点で4倍以上あったマジックナンバーが一気に「11」まで減りました。優勝へのカウントダウンが近づく中、オリックスの奮闘に対する声援は、震災から復興中の神戸だけでなく、全国から贈られるようになりました。

9月13日、オリックスは依然として2位以下を大きく引き離し、ついにマジックナンバーを1としました。翌日から神戸での試合が4戦続き、地元優勝がほぼ確実と思われましたが、ここでまさかの4連敗が起こりました。イチローは4試合連続安打をマークしましたが、神戸での胴上げは見送られました。「神戸のみなさんに申し訳ない…」と、イチローは涙を流しました。

感動的なリーグ初優勝!被災地に希望を火を灯したオリックス

「がんばろうKOBE」を合言葉にしたシーズン、オリックス・ブルーウェーブは6月に首位に立ち、目標に向かってひた走りました。大震災から246日目となる9月19日、西武ライオンズ球場で行われた試合で、その瞬間が訪れました。

8-2で迎えた9回2死、守護神の平井正史(現オリックス投手コーチ)が吉竹春樹を一ゴロに取り、ナインがマウンド付近に殺到しました。イチローはライトの守備位置から全速力で駆けつけ、誰かの背中をジャンプ台にして歓喜の輪に飛び込みました。仰木彬監督の体を宙に押し上げる。

満員の西武球場では、ファンが万歳を繰り返し、仰木監督が宙に舞う姿も見られました。神戸市民、兵庫県民を勇気づけ、喜びを分かち合ったイチロー選手、田口選手、仰木監督のおかげで、多くの人が涙を流して震災復興に対する気持ちを強く抱きながら優勝を喜びました。

勝者の儀式を終え、ベンチに引き揚げてきた21歳のヒーロー、イチロー。待ち構えていた記者に「今の気分は?」と聞かれ、声を弾ませました。「なんて言うのかなあ。グーッと締め付けられるような…。夏場のきついときに打つビタミン注射。そのビタミンをギュッとためて、一気に出したような…。こういう状況でプレーさせてくれた皆さんに大変感謝しています。優勝は自分たちの最終目標。だから頭の先から飛び出るような感激があります」と語りました。

選手たちとファンが一体となった日本野球史に残る感動の瞬間

9月26日には、神戸の本拠地に戻り、グラウンドを一周するなどして地元ファンと勝利の喜びを共有しました。この時の感動は、選手たちとファンが一体となった瞬間であり、日本の野球史に残るものでした。

神戸を希望に導いたイチローとオリックスの優勝パレード

1995年11月5日、オリックスがリーグ優勝を果たしたことを祝って、神戸市内でオープンカーに乗ってパレードが行われました。

神戸の人口の10%にあたる約15万人がイチローに会いたいと集まり、「おめでとう」「イチロー!」という歓声が響き渡りました。ジェット風船が乱れ飛び、紙吹雪が舞い、爆竹が鳴り響き、シャボン玉が青空に広がる中、関西大震災から292日目の神戸の街は喜びに包まれました。

5台のオープンカーと2台のフロートが並んで進む中、先頭でイチローが手を振っていました。神戸の人々に感激したイチローは、「今の大変な時期にこんなことをしていいのかと思う方々もいるでしょう。だから、今日、こんなにみんなが来てくれてホッとしました」と語りました。

前年の東京で行われた長嶋巨人の日本一パレードが約17万人であったことを考えると、復興途中の神戸で集まった15万人の意義は大きかったのです。

パレードでは、若い女性から中年男性まで、「イチロー!ありがとう」と叫び声が上がりました。その勢いで規制用のサクが倒れ、「背番号51」に迫るほどでした。

警備は厳しく、所轄の生田警察署と兵庫県警機動隊から189人、主催の復興委員会が用意した警備スタッフは200人でした。しかし、ファンが殺到するため、先導車のパトカーが自然にスピードアップし、予定の1時間のパレード時間は終点の神戸ハーバーランドで35分に短縮されました。

終点では混乱があり、イチローはテレビ取材用のハイヤーに乗れず、一度バスに乗って別の場所に移動し、再度乗り直すことになりました。しかし、喜びに溢れたパニック状態でした。

パレードの最後に、イチローは身につけていたブルーウェーブの帽子を人垣の中に投げ入れました。「自然にそうしてしまった。パレードは気持ちいい。来年、日本一になってもう一度やりたい」とイチローは話しました。その表情は、挑戦する気概を示していました。

震災から立ち直ろうとする神戸の街に、そして暗い世相の日本に、明るさと力を与えたイチローとオリックスの勝利は、多くの人々に希望をもたらしました。

チームがビールかけの祝賀会を実施した理由

実は1995年の優勝パレード前に、オリックスの内部では「優勝祝賀会でビールかけをするべきかどうか」という懸案事項が存在していました。しかし、オリックスは敢えてビールかけの祝賀会を実施しました。その理由は、「震災で元気をなくしている神戸市民のためにも、明るいムードを提供したい」というチームの強い思いがあったからです。この決断は、チームが市民の気持ちを大切にし、復興への希望を与えることを願っていたことを示しています。

イチロー、NPB史上初の五冠王に!

イチロー選手は、打率.342、179安打、80打点、49盗塁、出塁率.432の成績で、首位打者、最多安打、打点王、盗塁王、最高出塁率の五冠を獲得しました。もし、本塁打を後3本打っていれば、史上類を見ない打者タイトル総なめが実現できていたでしょう。さらに、2年連続でMVPを受賞し、ベストナイン・ゴールデングラブ賞も獲得。これはNPB史上初めての歴史的記録となりました。

イチローの師匠である仰木監督は、自身が見いだしたスーパースターに対して唯一不満を持っていたことがあり、それは三盗についてでした。イチロー選手の日本での最多盗塁数は1995年の49盗塁でしたが、仰木監督は「三盗をすればもっと増える」と言っていました。このアドバイスは、さらなる可能性を引き出すための助言であり、イチロー選手の成長を後押しするものでした。

1995年の日本シリーズ イチローを止めた「ささやき戦術」と野村監督の勝利

1995年の日本シリーズが、阪神・淡路大震災を乗り越えたオリックスブルーウェーブと、2年ぶりの出場となったヤクルトスワローズの対戦で幕を開けた。両チームの監督である野村克也と仰木彬は、それぞれの戦略で知られており、マスコミから「野村ID野球対仰木マジックの戦い」と大々的に宣伝された。

特に注目を集めたのが、オリックスのイチローをどのように止めるかだった。そこで野村監督は「ささやき戦術」と呼ばれる戦略を用い、メディアを通じてイチローを混乱させることに成功した。

一方、ヤクルトの古田敦也捕手は、野村監督の提唱したID野球申し子として、日本シリーズ中に多くのプレーで存在感を発揮した。バッター対キャッチャーの至近距離での対決が最大の見所となり、イチローと古田の対戦は特に注目を集めた。

結果的に、野村監督の戦略が功を奏し、イチローは19打数中5本に封じ込められて、オリックスはヤクルトの前に敗れた。

年俸1億6000万円で大台突破

イチローがオリックスとの契約を更新したのは、1995年12月11日で、チームがバカンスに出発する前日でした。チームがV旅行に旅立つ前日でした。年俸は1億6000万円となり、大台を突破。イチローは契約書にサインし、来年もプロ野球選手としてやっていけるな」と言った後、「今年の給料アップで何を買いたい?」という質問に、「車の洗浄用品、ワックスやスポンジを」と答えました。ちなみに前年は同じ質問に対して「暖かいセーター」と答えていた。

V旅行後にアメリカ訪問!プロスポーツの本場を経験したイチロー

イチローはオーストラリアへのV旅行で日本に帰る前に、本人の強い気希望でプロスポーツの本場アメリカを訪れ、年末ギリギリまで帰国しないスケジュールが立てられました。

憧れの選手「ケン・グリフィーJr」と初対面

そこで憧れていたメジャーリーガのケン・グリフィーJr.と出会い、一緒にシカゴまでシカゴ・ブルズ(NBA)の試合を観に行きました。

MLB/YouTube
バスケの神「マイケル・ジョーダン」と初対面
NBA/YouTube

シカゴ・ブルズの練習に立ち寄ったイチローは、マイケル・ジョーダンと初めて会いました。その時、イチローは「トムとジェリー」のタートルネックを着て、ナイキの「エアジョーダン6」を履いていました。

ジョーダンがイチローに「アメリカでプレーするの?」と聞くと、イチローは通訳を通じて「あなたと同じくらい有名になったら行きます(実際は、腕が3倍になったら行きます)」と答え、ジョーダンは大笑いしたという逸話が残されてます。

《イチロー伝説》野球ファン必見!伝説の日本シリーズ『ヤクルトvsオリックス』の熱戦と野村監督の戦術 〜1995年 日本シリーズ〜

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