この記事では、1995年の日本シリーズでのヤクルトスワローズとオリックス・ブルーウェーブの戦いを取り上げています。阪神・淡路大震災の影響もあったこの年の日本シリーズは、ヤクルトスワローズの野村克也監督がイチローに対する独自の戦術を練り、その結果を受けていくつかの試合が展開されました。
この記事では、どのようにヤクルトスワローズがオリックス・ブルーウェーブを下したのか、そして野村監督の戦術がどのようにイチローに影響を与えたのかについて詳しく解説されています。野球ファンはもちろん、スポーツ戦術に興味がある方にもおすすめの記事です。
《イチロー伝説》イチローがたぐり寄せた初のリーグ優勝!オリックス・ブルーウェーブが神戸の希望となった瞬間!! 〜1995年 オリックス時代〜
1995 Japan Series
イチローを打ち破った野村克也監督の戦術
1995年の日本シリーズは、名将・野村克也率いるヤクルトスワローズと策士・仰木彬指揮下のオリックス・ブルーウェーブの対戦が実現し、野球ファンにとって大いに楽しめるシリーズとなりました。阪神・淡路大震災を乗り越えてパ・リーグを制したオリックスと、2年ぶりの出場となるヤクルトの戦いは、阪急時代から数えて17年ぶりの顔合わせとなりました。
野村克也と仰木彬の名勝負
シリーズ前から、マスコミが大々的に“野村ID野球対仰木マジックの戦い”と宣伝し、注目を集めました。両監督はシリーズ開幕前からマスコミや監督会議を通じて舌戦を繰り広げ、対決ムードを一層盛り上げました。この年の日本シリーズは、関東・関西ともに視聴率30%台を連発しました。
野村克也のID野球 – データ分析と投手の心理
野村克也の代名詞である「ID野球」は、緻密なデータ分析を活用した戦術を指します。しかし、一般的に理解されている意味と野村監督の意図するところは、実際にはややずれています。ID野球の真の目的は、投手の心理を理解し、適切なデータ分析によって彼らの最大限の力を引き出すことです。
- プロ野球選手とデータ
プロ野球選手であっても、データ通りには投げられない場合があります。投手は、まず自分の得意な球種や強みを活かして抑えることで、調子を上げることが大切です。
- ピンチの時の心理
どんな投手にもピンチが訪れます。そのとき、ピンチを切り抜ける手段を知らないと、不安が増幅し、ネガティブな思考に支配されることがあります。
- データを活用した対策
データに裏打ちされた相手バッターの弱点を知っていれば、ピンチの際に相手の苦手な球種を苦手なコースに投げることができます。このために、闇雲に集めたデータではなく、整理し、分析された根拠のあるデータを頭に入れておくことが重要です。
- ID野球の真の目的
野村克也のID野球は、単にデータ分析を活用した戦術だけではありません。真の目的は、投手の心理を理解し、適切なデータ分析を通じて彼らの最大限の力を引き出すことです。投手の自信を回復させ、ピンチを乗り越える力を与えることで、チーム全体の勝利に貢献するのがID野球の本質です。
ID野球を具現化した名キャッチャ・古田敦也
野村克也が提唱したID野球の概念を、見事にフィールドで具現化した選手が古田敦也でした。彼の野球頭脳が素晴らしく、学習能力が高く、また、強肩であることが古田の持ち味でした。
日本シリーズ前には、古田はホテルの狭い部屋に閉じこもり、山積みになったビデオをひたすら見続けました。野村監督のID野球では、キャッチャーに厳しい課外授業が義務付けられていたためです。古田はビデオを見ながら、バッターの打ち方や構え、球種に対する反応などを研究しました。その結果、彼は野村監督のID野球を具現化し、野手陣との連携を強化しました。
古田は、データだけではバッターを完全に解釈できないことを理解していました。例えば、ノースリーでまっすぐを放たせて打たれた場合、バッターがまっすぐを待っていたのか、カーブを待っていてまっすぐに詰まったのか、または泳いで打ったのかなど、細かな観察が必要だったのです。
古田 敦也
— プロ野球通算成績bot (@npb_player_bot) January 17, 2020
2008試合 .294(7141-2097)
217本塁打 1009打点 70盗塁 55犠打
ヤクルト(1990-2007)pic.twitter.com/rlmK7rgBIo
【伝説】古田 敦也 対 イチロー
1995年の日本シリーズでは、「古田敦也対イチロー」という、バッターとキャッチャーの対決が注目されました。グラウンド上で至近距離に立つ二人の選手の対決は、見所とされ、日本シリーズが一人の打者と一人の捕手の対決で語られることは前代未聞でした。
イチロー封じを目指すヤクルト
シリーズの焦点は、この年、打率.342で首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率も獲得し、「5冠」に輝いたイチローをいかに封じるかだった。
スコアラーの偵察報告から見えた真実
1995年の日本シリーズにおいて、ヤクルトスワローズは「5冠」に輝いたイチローを封じることが最大の焦点でした。しかし、イチローの攻略法を探る過程で、ヤクルトは困難に直面しました。この年、イチローは打率.342で首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率を獲得し、「5冠」に輝いた。オリックスの攻撃力はイチローが中心であり、彼を封じることがヤクルトにとって極めて重要でした。
野村克也監督は、ヤクルトのスコアラーにオリックスの偵察を指示しましたが、報告は「イチローがすべて。イチローしかないチーム」というものでした。そこで、ヤクルトはイチローの攻略法を見つけるようスコアラーに要求しました。
「攻略法は見つかりません」
しかし、スコアラーからの回答は「攻略法は見つかりません」でした。ヤクルトは「どんな強打者にも弱点はある。いまこそスコアラーの腕の見せどころだろう。もう一度行ってこい!」と要求しましたが、結果は変わらず、「攻略法は見つかりません」という答えが返されました。
イチローの圧倒的な強さと独自のバッティングスタイルが、攻略法を見つけることを困難にさせたのです。この事例は、イチローがどれほど特別な選手であったかを物語っています。
「ささやき戦術」で挑むヤクルト
1995年の日本シリーズでは、ヤクルトスワローズの野村克也監督が、イチローに対して独自の戦術を練りました。それは、イチローに関する情報をメディアを通じて流し、彼に意識させる「ささやき戦術」でした。
野村克也監督が考え出した「ささやき戦術」は、イチローの弱点をメディアを通じて頻繁に伝え、イチロー自身がそのことを意識させる作戦でした。
野村監督の言葉がイチローに影響を与えた?
シリーズ前、野村監督は記者たちに対して、「イチローの弱点はインハイ(インコースの高め)だ。インハイを攻める」と言い続けました。さらに、ルールブックを持ち出して、「彼は(打席の)ラインを消して入る。本来、越えれば反則だ」「あの打ち方、バッターボックスから足が出とるんと違うか。完全に出たらアウトやろ」と発言しました。
野村克也の“ささやき戦術”は、「上司が部下にこそ使うべき」 https://t.co/nIbVJJWu9E pic.twitter.com/hekTpFodW4
— TOKYO FM+ (@tokyofmplus) August 21, 2018
「ささやき戦術」から明らかになった、野村監督の狙いとバッテリー間で徹底された戦略
1995年の日本シリーズでは、ヤクルトスワローズの野村克也監督が、イチローに対する独自の戦術を練り、メディアを巧みに利用しました。
野村監督は、イチローの弱点である高めを、145キロ以上の速球で攻めると発言しました。これにより、イチローは打撃のリズムを崩されることが期待されました。しかし、実際にはこれはイチローに意識付けをさせるための作戦でした。
実際の戦術では、「外角中心」を前提に「高めのボール球の速球」「外角低めの変化球」「内角の速い変化球」「内角低めの落ちる球」を効果的に使うことが、バッテリー間で徹底されました。
相手を考えさせるのも、野村ID野球の真骨頂でした。そのためにはメディアも有効利用し、相手の意識をコントロールすることが重要でした。これは、イチローの圧倒的な強さに対抗するために、野村監督が駆使した野村ID野球の真骨頂であり、心理戦の一環でした。
野村監督の緻密な心理戦
1995年の日本シリーズで、ヤクルトスワローズの監督である野村克也は、心理戦を用いた効果的な演技を指示しました。彼は同年14勝を挙げた助っ人右腕、テリー・ブロスに、痛みを装うように言いました。
投球練習の前日に、ブロスは野村監督と古田敦也捕手とともに監督室に呼ばれ、心理戦の計画について説明を受けました。監督はブロスに、翌日の試合で痛みがあるように振る舞うように指示しました。
試合当日、ブロスはウォーミングアップ中に突然、右肩を押さえてうずくまり、トレーナーが慌てて駆け寄りました。その後、約20分間アイシング治療を受けたという演技を行いました。
この演技により、野村監督は「ダメそうや。恐れていたことが起きたわ」と嘆くことで、相手チームに不安を煽ることに成功しました。
<開幕戦>イチローが野村監督の策に呑み込まれる
1995年の日本シリーズ開幕戦は、オリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸で行われました。先発投手は、ヤクルトのテリー・ブロスとオリックスの大ベテラン、佐藤義則でした。両投手ともレギュラーシーズンでノーヒットノーランを達成していることから、投手戦が予想されていました。
1回裏のオリックスの攻撃で、ブロスがイチローに投じた第1球は高めの直球でした。この投球により、イチローは野村監督の策に呑み込まれてしまい、必要以上に野村ID野球の幻影に取り込まれてしまいました。
当時まだ22歳の天才打者イチローは、「ならば高めを打ってやる」という思いで頭に血が上り、フォームを崩しました。ヤクルトバッテリーに翻弄され、ムキになってバットを振る姿は、シーズン中にはまったく見られなかったものでした。
古田敦也捕手が明かすブロスの初球
1995年の日本シリーズ開幕戦で、ヤクルト・古田敦也捕手は後に、ブロスの初球について語りました。「ブロスのような長身の投手は、緊張するとヒザがうまく使えず速球が高めに浮くことが多い。まして日本シリーズの第1球。真ん中を要求したのが、たまたま上ずって高めに入ってきた。それがうまくストライクになってくれただけ」と振り返っています。
1-1で迎えた5回表に、ヤクルトの池山隆寛が2点タイムリーで勝ち越し、その後1点差に迫られましたが、8回表に代打・大野雄次が2ランを放ち、さらに突き放すことに成功しました。
先発のブロスは、150キロ台の高めの直球を有効に使い、イチローを筆頭とするオリックス打線を8回被安打6の2失点に抑えました。
結果、ヤクルトは5-2でオリックスを下し、快勝を収めました。この勝利は、野村監督の緻密な戦術と選手たちの実力が結実した瞬間であり、その後の日本シリーズでもヤクルトスワローズが勢いを維持することができました。
<第二戦>投手戦の末、ヤクルトスワローズがオリックスを破る
1995年の日本シリーズ第2戦は投手戦となり、双方のチームが腕利きの投手を擁して接戦を繰り広げました。オリックスは2回裏に先制点を挙げ、5回裏にさらに1点を追加し、2-0でリードを奪いました。しかし、ヤクルトは石井一久をはじめとする4人の投手でオリックスの得点を抑え、追加点を許しませんでした。
そして迎えた8回表、ヤクルトはオリックス先発の野田浩司から4本のヒットを連続で放ち、一気に2-2の同点に追いつきました。試合はそのまま延長戦に突入し、11回表にヤクルトの4番・オマリーが勝ち越しソロホームランを放ちました。この一発でヤクルトは接戦を制し、シリーズ2連勝を飾りました。
こうして、敵地での2連勝により、シリーズの流れはヤクルトスワローズに傾いたのでした。
<第三戦>神宮球場での劇的なサヨナラ勝利でヤクルトが連勝を続ける
神宮球場で開催された日本シリーズ第3戦、ヤクルトスワローズは初回にオマリーのタイムリーヒットで1点を先制しました。オリックス・ブルーウェーブは5回表にイチローの犠飛で同点に追いつきましたが、直後の裏の攻撃で代打・稲葉篤紀の犠飛により、ヤクルトが再び1点リードを奪いました。
しかし、オリックスは7回表に田口壮とDJのタイムリーヒットで3点を挙げ、逆転に成功しました。ヤクルトは粘りを見せ、8回裏に古田敦也の内野安打で1点差に詰め寄りました。そして、9回裏にはミューレンがオリックスのストッパー・平井正史から起死回生の同点ソロホームランを放ちました。
試合は2日連続の延長戦に突入し、劇的な決着が待っていました。10回裏にヤクルトは1死二、三塁の場面で池山がレフトスタンドにサヨナラ3ランホームランを放ち、試合に終止符を打ちました。この劇的な勝利でヤクルトは3連勝を果たし、日本一に王手をかけました。
<第四戦>土壇場での同点ソロでオリックスが逆襲、3連敗を阻止
オリックス・ブルーウェーブは初戦から3連敗し、後がなくなってしまいました。そこで仰木監督は、イチローを1番から3番に変更し、ポジションもライトからセンターに変更することで、気分転換を狙いました。第4戦では、先発・長谷川滋利が右腕でチームの命運を担いました。
長谷川は期待に応え、6回を投げて被安打2、1失点の好投を見せました。しかし、オリックスの打線はヤクルト先発・川崎憲次郎から何度もチャンスを作りながらも、決定打には至らず、8回まで得点を奪えませんでした。このまま試合が終われば、ヤクルトが日本一に輝くことになる最終回。
ヤクルトはストッパーの高津臣吾を投入せず、川崎の続投を選択しましたが、これが裏目に出てしまいました。オリックスの先頭打者・小川博文が起死回生の同点ソロホームランを放ち、土壇場で同点に追いつきました。
その裏、ヤクルトにサヨナラのピンチが訪れたものの、オリックスは第2戦に先発した野田を投入し、継投で窮地をしのぎ、3試合連続の延長戦へ突入することとなりました。
10回裏、オリックスのマウンドには第5戦の先発予定だった小林宏が登板しました。ストッパーの平井が第2、第3戦で連続して痛恨の本塁打を浴びていたため、小林が呼ばれたのです。小林は1-1の同点で迎えた11回裏に1死一、二塁というサヨナラのピンチを招いてしまいます。ここで、後に「小林の14球」と呼ばれる名勝負が繰り広げられました。
対戦相手はヤクルトの4番・オマリー。カウント1ボール2ストライクから小林は10球を投げ込み、8球がファール、2球がボールでした。特にファール8球中2球は本塁打性の当たりで、観客の興奮が次第に高まりました。そして、実に12分20秒後、小林の投げ込んだ14球目は低めのボール球。オマリーのバットが空振り三振となりました。続く古田も抑え、オリックスはピンチを脱出しました。
直後の12回表、オリックスのDJが値千金の勝ち越しソロホームランを放ちました。その裏も小林が無失点に抑え、ついにオリックスがヤクルトに一矢報い、シリーズ初勝利を挙げました。この勝利により、オリックスはシリーズでの逆転を狙うことができるようになりました。
古田捕手のリードが奏功し、イチローを封じる
ヤクルトは敗戦を喫しましたが、オリックスの3番・イチローを徹底的にマークし、結果的に効果を上げていました。ヤクルトの捕手・古田敦也は、素晴らしいリードを見せ、イチローを延長12回まで6打数1安打に抑え込んでいました。
野村監督が編み出したイチロー攻略法の裏側
当時22歳の天才打者イチローは、ヤクルトバッテリーに翻弄され、ムキになってバットを振りました。しかし、野村監督の指示した「外角中心の配球」が見事にはまり、第4戦まで16打数3安打、打率.187とイチロー封じに成功しました。
野村監督は「イチローの見逃し方を見てると内角ばっかりマークしてるようだが。実際は外角を攻めている」と語り、イチローの攻略法を説明していました。
また、野村監督はマスコミの関心を利用して、「絶対にイチロー攻略って聞かれるから、この時とばかりに反対のことばっかり言ってやった。イチロー攻略なんて、マスコミを利用せなしゃーない」と明かしていました。
野村監督の策略により、イチローは第4戦まで抑えられましたが、オリックスはシリーズの逆転を目指し、彼もその後の試合で反撃を狙うことになります。
<第五戦>初回のイチローのソロを振り切り、ヤクルトが日本一に輝く
弱点のないはずのイチローを第1戦と第2戦でほぼ完璧に封じ込めていたヤクルトでしたが、第5戦では配球がバレてしまい、初回に3番・イチローのソロでオリックスが先制しました。しかし、ヤクルトは2回裏に2本の犠飛ですかさず逆転に成功しました。さらに、5回裏にはオマリーのソロで突き放しました。
最終的にオリックス打線はヤクルト先発ブロスの前に7安打1得点に抑えられ、守護神・高津の前に3者凡退。3-1で勝利したヤクルトが4勝1敗で日本一に輝いたのである。これ以前に過去2回日本一になっていたヤクルトでしたが、今回は地元・神宮球場で決めた初の日本一でした。ヤクルトのファンにとって、この日本一は特別な思い出となった。
野村監督とイチローの対戦、それぞれの思い
野村監督は日本一の座を獲得した後、相手チームがどのように考えているかについて言及し、「相手が勝手に考えてくれているうちは、黙っていればいいだけよ」と自信に満ちた笑みを見せました。一方、イチローは日本シリーズで19打数5安打、打率.263、2打点、1本塁打という成績を残しましたが、そのうち2安打は最終戦となった第5戦で放ったものでした。
イチローは見事に相手チームに封じ込まれ、弱点を突かれたことに対して過剰な反応をしてしまい、自分の調整がうまくいかなかったことを悔やんでいました。彼は「ただの勝ち負けならまだいいんですけど、野村監督が言っていた通りにすべてやられてしまったことが悔しいんです。ボクは借りをそのままにするのが大嫌いなんですからね」とコメントしました。
画期的なデータ収集による野村監督の勝利戦術
野村監督はイチローにインハイへの意識を植え付ける一方で、当時画期的だったデータ収集を行っていました。イチローのヒットや凡打、ファウルや見逃しのコースなど、バッターの傾向を分析するデータを先取りし、対策をまとめていました。
まず、高めのボールゾーンに速い球を投げること。イチローは打撃センスが非常に高く、球を見極める能力に優れていますが、高めの速い球は苦手として知られています。次に、外角低めいっぱいに変化球を投げること。イチローは外角に強いイメージがありますが、低めいっぱいに投げることで打ち損じることが多くなります。
そして、内角に速い変化球を投げること。イチローは内角に対しても強いイメージがありますが、速い変化球に対しては反応が鈍くなることがあります。最後に、内角低めに落ちる球を投げること。イチローは内角低めに弱く、落ちる球にも苦手意識があるため、打ち損じる確率が高くなります。
イチローの「インハイ弱点説」の真相
「インハイ」という言葉はありませんが、イチローに焦点を当てて連呼することで、彼のまだ誰も気づいていない弱点をつく狙いでした。それは、パワー系投手が投げる高めの速い球や技巧派投手が投げる内外角低めの変化球でした。
古田選手は、シーズン中のイチローの映像とデータを研究し、試合中も彼の動きを徹底的に観察していました。彼は「イチローは、狙い球によって体重のかけ方が変わる。だから、右足をずっと見て、内外角のどちらに意識があるかを探っていた」と語っています。
当時の事前ミーティングでの指針は、「イチローを打たせないこと」と「内野安打だけを阻止すること」でした。インハイ狙いがフライを打たせるための鍵だったが、最終戦の第5戦ではイチローが1回表に1号ソロを放ちました。「7戦だったら負けていた」と古田選手も振り返っていました。
イチロー攻略法が示した、データと観察の有効性
このように、野村監督は当時画期的なデータ収集を行い、イチローの弱点を見抜いて効果的な対策を練っていました。古田選手もイチローの動きを徹底的に観察し、彼を打たせない戦術を実行していました。最終戦ではイチローがホームランを打ちましたが、シリーズは5戦で終わり、野村監督の戦術が成功しました。
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