《イチロー伝説》プロ野球界にニックネームが誕生!仰木監督が創り出した“イチロー”というブランド!! 〜1994年 オリックス時代〜

この記事は、プロ野球界のレジェンドであるイチローのプロ入り3年目である1994年に焦点を当てています。

まだイチローが鈴木一郎という名前でプレイしていた頃に、仰木彬監督の提案で登録名を「イチロー」に変更した出来事や、特徴的な振り子打法を続けることで独自の打撃スタイルを確立したことなど、イチローがプロ野球選手としてのキャリアを築いていく中でのエピソードが詳細に描かれています。

また、シーズン中に記録したプロ野球シーズン最多安打記録を含む輝かしい成績についても紹介されています。プロ野球ファンやイチローのファンはもちろん、スポーツに興味がある人にも興味深い記事です。

《イチロー伝説》1軍打撃コーチとの攻防…。イチローが貫いた“自分流”とは? 〜1993年 オリックス時代〜
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成功をつかむ「思考法」と「ルーティーン」。28人の“目撃者”が語る「僕だけが知るイチロー」メジャーリーガーたちのイチロー評も収録!(「BOOK」データベースより)

Orix BlueWave in 1994

1994年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

Ichiro Suzuki

1994年は、イチローがオリックス・ブルーウェーブに所属し、プロ野球選手としてのキャリアを着実に築いていた時期です。この年は、イチローがプロ入り後3年目にあたり、まだ正式なレギュラー選手にはなっていなかったが、多くの試練を乗り越えるきっかけとなりました。

春季キャンプ!語り継がれる「宮古島の伝説」

1994年2月21日に宮古島市民球場で行われたオープン戦第1戦で、横浜と対戦した。この試合で彼は「1番・中堅手」で先発起用され、その才能を発揮する機会を得た。イチローはこの試合で友利結(後にデニー友利として知られるようになる)から、ランニング満塁本塁打を放ち周囲を驚かせた。

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プロ野球史上初のニックネーム登録!その名も「イチロー」

この時期、まだイチローは鈴木一郎という名前でプレイしていました。

「鈴木では地味すぎる!」仰木監督の神ブランディング

オリックス・ブルーウェーブの監督に就任した仰木彬は、当時若手選手で1軍と2軍を行ったり来たりしていた鈴木一朗に注目しました。彼は鈴木の名前が、日本人にとって一般的であり目立たないと考え、新たなアイデアを思いつきました。それは、鈴木一郎を「イチロー」というカタカナ表記で登録するというプランでした。

実はこの改名案をイチロー本人は全力で拒否

しかしながら、鈴木一郎本人は当初、この提案に対して驚きの表情を見せて抵抗し、「子供ができて父親がイチローだとおかしい」と主張しました。

「パンチ佐藤」と「イチロー」

仰木監督は、イチローを説得するために独自の策を立てました。彼は、佐藤和弘という選手に、登録名を「パンチ」に変更するよう提案しました。佐藤は、仰木監督から「来年から登録名を佐藤から別のものにしよう。おまえの頭はパンチパーマだからパンチでいこう」と言われ、快くその提案を受け入れました。

当時、佐藤和弘の知名度はイチローよりも高かったが、実力的にはイチローの方が上であることは周囲にも認識されていました。パンチ自身も、改名に付き合うことで仰木監督が仕掛けた話題を盛り上げるために協力することになりました。

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「先輩の佐藤が改名したのだからお前も」

「佐藤先輩が来年からイチローで登録することにしたので、おまえも同時にイチローで登録することにしよう」と仰木監督はイチローに提案しました。そして、登録名をカタカナにすれば、メディアの注目はまず言動が目立つ「パンチ」に向かうであろうと考えました。そのついでに「イチロー」も露出するようになるだろうと彼は考えました。

このような戦術により、イチローが活躍し始め、仰木監督が絶賛していたあの選手として知られるようになったとき、「ああ、あの選手だったんだな」と多くの人々が思い出すようになることを期待したのでした。最終的に、イチローは仰木監督の提案に従い、登録名を「イチロー」に変更しました。

カタカナ登録した二人がカメラの前に登場!

1995年4月7日、神戸市西区のオリックス選手寮「青濤館」の隣接する室内練習場で、カタカナで「ICHIRO」と「PUNCH」に登録された二人の若者が一緒に写真撮影を行いました。この時、仰木監督は二人の肩に手を回し、満面の笑みを浮かべていました。

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新井宏昌 一軍打撃コーチとイチロー

この年、一軍打撃コーチに抜擢された新井宏昌は、現役時代に南海や近鉄で通算2038安打を放つ好打者でした。1992年に仰木が近鉄監督を退任した際、二番打者として活躍していた新井は現役を引退しました。その後は野球評論家として1年間活動していました。経歴から分かるように、当時の新井には指導歴がありませんでした。

仰木監督は新井宏昌がまだ現役時代の頃、新外国人候補のビデオを見せるなど、選手に意見を求めることもありました。仰木にとっては、若いとか、コーチ経験がないとか、そういった序列や縦社会の理屈は全く関係なかったのです。

そんな仰木監督から「頼んだぞ」と一軍打撃コーチへの就任要請を受けた新井は当時41歳でした。

まさに指導歴のない、コーチ1年目の新井に、重要な打撃部門を任せるという大胆な決定でした。仰木監督は新井に自由な発想と独自のアイデアを持ち込むことを許し、新井自身もこの機会に大きなやりがいを感じていました。

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「大してピンと来なかった」新井宏昌が感じた印象

そんな新井宏昌が仰木監督に強く推薦した若手選手のが鈴木一朗でした。

新井とイチローの出会いは、新井が現役を引退した翌年の1993年、評論家として訪れたグリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)でした。

当時、オリックスのコーチであった大熊忠義から「右投げ左打ちの若手がいるから、ちょっと見てほしい」と言われたのが、イチローだと言います。その頃のイチローは振り子打法のような打ち方をしておらず、新井の最初の印象は、特に目立つものがなく、彼は「いい選手だと聞いていたけど、大してピンと来なかった。自分が言うのもなんだけど体は細いし、特別遠くに飛ばすわけでもないし。思い出しても印象がない」と言っていました。

新井宏昌が驚いたイチローの変貌ぶり

新井宏昌のイチローに対する印象は、1994年の春季キャンプでオリックス打撃コーチに就任してから一変しました。

「しなやかに低いライナーをボンボン飛ばすようになっていた」と新井は語っています。「タイミングの取り方やしなやかさなど、前の足を大きく動かしてピッチャーに仕掛け込み、軸を動かしながら攻め込んでいく様子が印象的でした。」新井は、これまでに見たことのないような打ち方をしているイチローに驚きました。

その後、新井は「誰が見ても、この選手はいいと思います。レギュラーで使わない手はないでしょう」とイチローを仰木監督に推薦しました。

イチローが持つ高いポテンシャルを見抜いた仰木監督の目

当時20歳でプロ3年目のイチローは、1993年の成績が12安打、打率.188であり、身長180センチ、体重71キロの華奢な外野手で目立った存在ではありませんでした。しかし、新井宏昌の提案を聞いた仰木監督はすぐにピンときました。

オリックスの監督に就任した直後、仰木監督はハワイで行われたウィンターリーグを視察し、日本の各球団からの若手選手たちが参加する混成チームを見ていました。その中にイチローがいました。彼のシュアなバッティング、のびやかな動き、強肩、そして俊足が印象的で、高いポテンシャルを持つ選手であることが分かりました。

仰木監督と新井が見たイチローの将来

キャンプやオープン戦、練習を通じて、仰木監督と新井はイチローの天性の打撃センスに驚きました。特に宮古島でのオープン戦でイチローが満塁ホームランを打ったことで、新井は彼がスーパースターになると確信しました。

仰木監督と新井は、イチローの才能を確信し、「向こう10年は外野の1つのポジションは安定する」と互いに確認し合いました。

「こいつはええぞ」「今年、最初から使うぞ」と仰木監督は決意し、プロ通算36安打の若者に未来のスター像を見出しました。

新井宏昌のアイデアだった?「イチロー」登録の背景

だが、当時のパ・リーグは鈴木姓が多く「これじゃ目立たない」と感じていた新井氏は指揮官に1つの案を投げかけた。「コーチも選手も彼を呼ぶときは“一朗”だったので『“イチロー”でどうですか?』と。本拠地・グリーンスタジアム神戸のスタメン発表も名前を先に呼ぶスタイル。仰木監督も頷いていた」。

才能は確かにあったが、スーパースターになるには知名度も必要でした。そこで新井は仰木監督に1つの策を提案しました。それがイチローのニックネーム登録です。

新井は、「絶対に3割は打つと思った。3割を打つとなると、新聞の打撃成績に名前が載る。その時に『鈴木(オ)』では、どこの鈴木さんか分からない。当時パ・リーグに鈴木姓の打者が多く、コーチも選手も彼を呼ぶときは“一朗”だったので、じゃイチローでどうですか?と提案しました」と語っています。

本拠地・グリーンスタジアム神戸では、スタメン発表が名前を先に呼ぶスタイルで行われていました。仰木監督も新井の提案に賛同し、「それで行こう」と言ってくれました。これが前述したパンチとの会見につながったのです。

近鉄・鈴木貴久、西武・鈴木健、日本ハム・鈴木慶裕といった居並ぶ強打者に負けない存在感を放つためのアイデアでした。新井自身は現役時代、いぶし銀の巧打者として2038安打を記録しましたが、自分が目立つのは苦手でした。しかし、通算300犠打に表れるように、他の人を目立たせるのは得意だったのです。

新井宏昌とイチローの二人三脚

仰木彬監督は、近鉄時代に野茂英雄の「トルネード投法」を認めたように、指導者によっては否定的だった振り子打法を続けさせました。仰木監督から「お前が責任を持って、モノにしろ」と指令を受けたこともあり、新井宏昌とイチローの二人三脚の日々が始まりました。

イチローと出会った当時、河村健一郎二軍打撃コーチも振り子打法を取り組んでいました。その特殊な打ち方を前提として、イチローがまだ一軍とファームを行き来していた頃から、才能を引き出していきました。

振り子打法と自分勝手な動きによる魅力的な打撃スタイル

新井は選手とのコミュニケーションをティー打撃を通じて行っており、選手がどのようなバットの出し方や捉え方をするかによって次のアドバイスを出していました。

イチローの動きを見て、自分勝手な動きに驚いたと語っています。普通は投手が動かないと打者も動かず、バットも振れないが、イチローのバッティングはすでに自分のほうから動いており、それは「さぁ投げてくれ」と言わんばかりだった。

新井は、イチローの魅力的な打撃スタイルが投手を引き込んでしまい、バットを振るところにボールが行ってしまいそうな状況を作り出すと話しています。イチローはいつでもバットを振れる状態で投手に対峙しており、実際にほとんどの球を捉えられる。これは、イチローが他の誰よりもたくさんバットを振り、ボールを打ってきた経験によって、自然に体が反応していくようになったのだと新井は考えました。

振り子打法のルーツを理解した新井は、イチローとティー打撃を開始しました。新井が5年間続けたのは、バットを逆手で持ち、右側に少し重心をかけて鋭くボールを打ち返す動きです。イチローはこの練習が自分にとってどのような意義があるのか理解し、同じことを続けることができました。

振り子打法とイチローの特性に対応する探求と重点指導のポイント

新井は、イチローの特性を理解し、彼の独特な打撃スタイルに対応する方法を探求しました。彼はイチローが軸足を動かすタイプの打者であることを認識しており、そのために一般的なアドバイスである「軸足に残して打て」とは言わなかったのです。

新井はイチローに対して、右足と右膝が非常に重要であることを強調しました。イチローはステップと同時に体全体が投手に向かって動く打者であり、イチローの軸は右足が降りた位置にあると考えていました。

そんな新井は指導する際に重点を置いた点が1つあったと語っています。それは、「独特の打撃フォームだから投手はタイミングを崩そうと思って、あの手、この手で来る。仮に崩されて右足に重心が移ったとしても、そこで踏ん張って振り切ること。当てて終わるのではなく、崩れたところから振り切る。」これを繰り返し行った結果、イチローの左よりも右の太股が太くなっていったと新井は振り返っています。

新井宏昌が語る、イチローのプレーに対する独特な思考と美意識

イチローは打席への強い執着心があったと新井は語ります。

新井によると、イチローは試合の状況に関わらず、交代を勧められても「行きます」と言ってヒットを打つことができました。彼はバットを振り、投手と対戦し、結果を出すことが大好きであり、好きでたまらなかったのです。

また、イチローはレギュラーでないといけなかったと新井は語ります。彼は外野守備中も体を動かし続け、常に動いていることでそのしなやかさを発揮できました。休むことはできず、DHも向いていなかったと言います。まるでマグロのように、動き続けなければいけないタイプだったのです。

新井は、イチローが人に見られていることを意識しながらプレーしていたことも理解していました。彼は美しい映像を見せることが重要であり、見せるべきであると感じていました。イチローの心の叫びも、新井は深く理解していたのです。

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イチローの原点「振り子打法」生みの親である元コーチが明かす真実。天才打者の打撃メカニズム、恩師だから見抜ける「イチローの今」ほか、「才能を開花させる極意」など一般社会に通じるヒントも満載。(「BOOK」データベースより)

イチローが与えた衝撃的な宿題と、振り子打法の名付け親」

ある日、試合を観戦していたある記者は、イチローの打席で違和感を感じました。「打ち方を変えたの?」と直接質問すると、「どこが変わったか考えてください」とイチローから宿題が出されました。2、3日後、記者が「右足の使い方がこれまでと違うよね」と答えると、イチローは「実は去年もこの打ち方をしていた時があったんですよ」と返しました。

安打を次々に放ち、新聞紙面でも大きなスペースを占めるようになった頃、右足を時計の振り子のように使う打撃フォームのことを記事にしました。これは見たままの表現でしたが、その後、その記者は「振り子打法の名付け親」と呼ばれるようになりました。

1番バッターとしてのイチローの輝かしいキャリアの始まり

イチローは開幕戦で「2番・センター」に起用されていました、その理由は、当初、1番バッターに田口壮が起用されていたからです。しかし、田口がパフォーマンスが良くなかったため、次に入った小川博文も結果を出せず、結局イチローにチャンスが回ってきました。1番バッターに起用されたイチローは、送りバントをせずに打力を生かしてチームに貢献し、大量点を狙うことができました。

さらに、イチローは走者がいない場面で振り子打法を最大限に発揮できるだけでなく、1番バッターとしても最も輝くことができる選手でした。1番バッターとして起用されることで、彼は自身の特性を最大限に活かし、チームに貢献することができました。これがイチローが1番バッターとして活躍し続ける理由であり、その後の彼の輝かしいキャリアの礎となりました。

「いつ走っても構わない」

イチローは、仰木監督から「いつ走っても構わない」との信頼を受けており、自由に盗塁できる権利を与えられていました。

イチローと最強コンビ「2番・福良淳一」

そのイチローの後ろに控えたのが2番バッターが福良淳一(前オリックス監督、現・育成統括ゼネラルマネジャー)でした。福良は当時33歳のベテラン選手で、イチローと共に、チームの攻撃力を支える役割を担っていました。

福良淳一ははイチローに対して、「走れないときだけ、サインをくれ」と要望し、イチローがフラッシュサインを出すと、最初から打って出ることになりました。しかし、フラッシュサインがない場合には、イチローの動きや、相手の守備隊形や保守の警戒ぶりを見ながら、打たずに状況を見ていました。

福良淳一はイチローの出塁率の高さにより、2年連続でリーグ最多の33犠打をマークし、キャリアハイの50打点も達成しました。また、打率も.301でリーグ6位を獲得し、自身3度目の3割を達成。その結果、2度目のベストナインにも選出されました。

福良は、チームバッティングの要となる右打ちやバントなどをそつなくこなすだけでなく、堅実な二塁の守備でも実力を発揮した。その成果として彼はその年に、日本記録となる836の機会に無失策の守備を達成した。仰木野球において不可欠なプレーヤーとして高い評価を得た。

それどころか、イチローの出塁率の高さを活かし、2年連続でリーグ最多の33犠打をマークし、キャリアハイの50打点も達成しました。また、打率も.301でリーグ6位を獲得し、自身3度目の3割を達成。その結果、2度目のベストナインにも選出されました。

福良は、チームバッティングの要となる右打ちやバントなどをそつなくこなすだけでなく、堅実な二塁の守備でも実力を発揮しました。その成果として彼はその年に、日本記録となる836の機会に無失策の守備を達成した。これにより、仰木野球において不可欠なプレーヤーとして高い評価を得ました。

イチローと福良のコンビは、非常に強力であり、チームの勝利に大きく寄与しました。

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「日替わりオーダー」と「猫の目打線

1994年にオリックスバファローズの監督に就任した仰木彬は、独特の打線を構築しました。「日替わりオーダー」と「猫の目打線」の異名で知られるこの打線は、130試合中121試合でオーダーが変更されるなど、常に選手たちが予測できない状況で試合に臨んでいました。前日に本塁打を打って好調な選手でさえも、翌日にはスタメンから外されることがあるほどでした。

しかし、この独特のオーダーにもかかわらず、イチローは一番バッターとして110試合に出場しました。そして、残りの20試合で二番打者として起用された6人の選手の中で、特に福良淳一とのコンビが有名です。この二人は、130試合のうち90試合で組まれ、チームに大きな貢献を果たしました。

仰木監督の独特なオーダーは「仰木マジック」とも称され、試合ごとに打順が変わることで相手チームに対して予測しにくい状況を作り出し、チームの戦術の幅を広げました。

プロ野球史上最速!シーズン100安打達成!!

当初、独特な打法に注目が集まっていたイチローは、シーズンを通してスタメンから外れることなく、安定した結果を残し続けました。その結果、6月25日にはシーズン100安打の最速記録を更新する快挙を成し遂げました。この記録は、1964年に広瀬叔功(南海)が61試合で達成したものを更新する、驚異的な100安打のスピード記録となりました。

とにかくヒットを打ちまくる!打率は4割超え!

異例のペースでヒットを量産したイチローは、6月28日の近鉄戦(日生)では、3打数1安打で.398という打率で変わらなかったものの、6月29日の同カードで大爆発しました。1打席目から右前打、中前打、四球、中前打、四球と4打数4安打を決め、6打席目のバント安打を一塁前に決めることで、開幕から63試合目で打率を.407に上げました。

世の中はイチローの打率の話でもちきり!

イチローの打率が国民的関心事となり、世の中のボルテージは一気に上がりました。その頃から、マスコミが報道合戦を繰り広げるようになりました。この状況に、当時のオリックス広報担当だった横田昭作(現在、オリックスの球団副本部長)は、大阪のホテルに戻ったときのことが忘れられないと語っています。

携帯電話がまだ一般的ではない時代だったため、連絡事項はホテルのドアの下にメッセージとして入れてもらっていました。イチローが打率4割に乗せた日、大阪のホテルに戻った横田は、ドアの下に入れられたメッセージが何百万の札束のようにたくさん入っていたのを見て驚きました。すべて取材依頼だったそうです。

横田さんは、「これはエラいことになった」と感じ、状況の重大さに気づいたと振り返っています。このように、イチローの活躍は、日本中の野球ファンやメディアを熱狂させるほどのインパクトがありました。

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「4割の約束、果たしているのに…」イチローの苛立ち

打率4割台は10日ほど続いた後、イチローの打率はペースダウンし、4割を切りました。記者から4割を切った心境を聞かれた際、イチローは苛立っていたようです。彼は、最初に担当記者との約束が「4割って数字を一回でもいいから、スコアボードに見せてくれ」というものだったと話しています。それを達成した後、記者たちは「1試合終わった時点で最終的に4割をキープしてくれ、新聞に載せられるように頑張ってくれ」と言ったため、彼はその要求に応えようと努力しました。

しかしながら、次に記者たちはシーズンで4割を打って欲しいと言い出し、イチローは約束をちゃんと果たしているのに、4割を切ったら不満を持たれたことに苛立ちを感じたイチローは、「3割9分でも凄いじゃないですか。まだハタチですよ。こんな可愛い顔して。ねえ」と語っていました。

オールスター初出場!

1994年、イチローは、第1戦で「1番・レフト」としてオールスターゲームにスタメンで初出場しました。6回の第4打席でセンター前へ球宴初ヒットを放ち、10打数2安打を記録しました。実はその年のファン投票で初選出された選手たちの中には、後に全員がメジャーリーグで活躍する選手たちがいました。

また、監督推薦で初出場を果たしたメンバーの中にも、後にメジャーリーグへの移籍を果たす選手たちがいました。高津臣吾(当時ヤクルト)や斎藤隆(当時横浜)など、その後のメジャーリーグでの活躍が期待される選手たちが多く参加していました。

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連続試合出塁記録を更新

イチローは、56試合連続出塁の記録を破り、69試合まで伸ばしました。この連続出塁記録は、シーズンの半分近くに及ぶ驚異的な数字であり、簡単に届かない記録でした。

新井一軍打撃コーチの安打記録を超える

さらに、当時新井が持っていた130試合制での184安打の記録も突破しました。

新井は、「184安打は私が唯一、自慢できる記録だった。それなのにいとも簡単に抜かれて(笑)。あの時は『また打った』から始まり『イチローなら打つやろ』、そして最終的には記者が『どうして今日は打てなかったんですか?』に変わっていた。毎日ヒットを打つのが当たり前になっていた」と振り返ります。

また、「イチローは、ヒットを打つのが当たり前という気持ちにブレがなかった。調子がいいときも悪いときも、一年を通して気持ちがブレないというのはすごいことなんです。プレイボールからゲームセットまで、試合に出るのが当たり前。オープン戦からシーズンが終わるまで、すべての打席でヒットを打ちたい。そんな選手はONくらいじゃないですか。だから、4打席目までに結果が出ても、5打席目はお役御免などということがない。こちらとしてはケガも怖いし、休ませたいのに、彼は行きたがるんです。しかもその5打席目でまたヒットを打つ(笑)。モノが違いました」と新井はこの時のことを語っています。

「44年ぶりの日本新記録!」192安打達成

そして、ついにイチローは1994年に、昭和25年(1950年)に阪神・藤村富美男三塁手が記録したプロ野球シーズン最多安打記録の191安打を更新しました。

1994年9月14日、日本ハム・有倉雅史投手からの外角のフォークを軽く拾った打球が、三遊間をきれいに破り、レフトの前で跳ねた白球の行方を確認したイチローは、一瞬ニヤッとしただけで一塁ベースに戻りました。

これが、20歳の天才打者、オリックス・イチロー中堅手が44年ぶりの新記録を達成した瞬間でした。また、藤村の192安打はシーズン最終戦の140試合目で達成されたのに対し、イチローの192安打はわずか116試合目でした。

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日本プロ野球史上初!シーズン200安打を達成したイチローの偉業!!

1994年9月20日、オリックスの本拠地・グリーンスタジアムで、日本プロ野球史上初のシーズン200安打を達成する目前、ロッテ戦に臨んだイチロー。当日は122試合目で、第1、2打席で中前安打を放ち、一気に王手をかけた。

第3打席では、グリーンスタジアム神戸で熱狂的な声援に包まれ、ロッテ・園川一美投手から右翼線へ鋭い打球を放ち、前人未到のシーズン200安打の偉業を成し遂げた。二塁ベース上でポーカーフェイスのまま、記念のプレートを掲げたイチロー。第5打席でさらに左前安打を放ち、記録を伸ばし続けた。

記者に記念の一打の感想を求められた際、イチローは淡々とした言葉で「打ったのは真ん中の抜いた球。一本目が出た時、『いけるかな』という予感がありました」と応じた。レッシャーがあったかどうかについて問われると、「自分はバッターボックスに入ると妙に落ち着く。

精神が苛立って眠れない日でも、あの四角い長方形の枠に入って相手投手と向き合うと、不思議と落ち着いてすべての集中力が白球に乗り移るんだ」と答えた。その言葉から、イチローにとって人生は野球そのものであることを記者も感じ取ったという。

今より試合数が少ない中での210安打記録

最終的にイチローは210安打まで日本記録を伸ばしました。イチローは130試合制で200安打を達成した唯一の選手で、その後、5人の選手が200安打以上を打ちましたが、それらはすべて143、144試合制でのものです。210安打は、埼玉西武ライオンズの秋山翔吾の216安打、阪神タイガースのマット・マートンの214安打に次いで史上3位となりますが、試合数を考慮すれば別格と言えるでしょう。もし1994年のイチローが43試合に出場していた場合、驚異的な231安打という記録を残していた計算になります。

また、最多安打が打撃タイトルとして制定されたのは、1994年のことでした。この年、イチロー(オリックス)が210安打を記録し、日本中の注目を集めたことがきっかけになったとされています。

日本記録を次々と塗り替え、MVPに輝く

1994年に「鈴木一朗」から「イチロー」に名前を変えた後、彼は130試合に出場し、打率.385、13本塁打、54打点、29盗塁を記録しました。その年、イチローは日本記録となるシーズン69回のマルチ安打を達成し、さらに44年ぶり2人目となる20試合連続安打を複数回達成しました。

さらに、首位打者、最多安打、最高出塁率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得しました。また、打者として史上最年少でのMVPにも輝き、一気にスーパースターの仲間入りを果たしました。これらの成果に対し、イチローは「花まるです。『たいへんよくできました』ですね」とコメントしています。

年棒が10倍の「8000万」に!

1994年のオフに、イチローの年俸は800万円から8000万円に大幅にアップしました。イチローはその際、「わかりました。それでいいです」と答えました。

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