
【イチロー伝説】プロ野球界にニックネームが誕生!仰木監督が創り出した“イチロー”というブランド!! -1994-
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Orix BlueWave in 1994
1994年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

春季キャンプ!語り継がれる「宮古島の伝説」
鈴木一朗は、宮古島がキャンプ地になって2年目になる中、まだレギュラーではなかったが、キャンプでは見違えるような打撃を披露して、仰木彬監督、新井宏昌コーチの両氏から注目されるようになった。そんな彼は2月21日に宮古島市民球場で行われた横浜とのオープン戦第1戦で「1番・中堅」で先発起用され、友利結(のちのデニー友利)からランニング満塁本塁打を打ち出して、周囲を驚かせた。
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プロ野球史上初のニックネーム登録!その名も「イチロー」
1994年にオリックスの監督に就任した仰木は、当時1軍と2軍を行ったり来たりしていた鈴木一朗にプロ野球史上初のニックネーム「イチロー」を名乗らせ、開幕からスタメンで使いつづけた。
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「鈴木では地味すぎる!」仰木監督の神ブランディング
日本人によくある苗字である「鈴木」だけでは、目立たないと思った仰木は、プランをひらめいた。それは、「イチロー」というカタカナでの登録であった。
実はこの改名案・・・本人は全力で拒否していた(笑)
しかし、イチローは当初、驚きの表情を浮かべながら、「子供ができて父親がイチローだとおかしい」と譲らなかった。
仰木監督はまず佐藤和弘を改名!パンチパーマの「パンチ佐藤」
佐藤和弘は、仰木監督から「来年から登録名を佐藤から別のものにしよう。おまえの頭はパンチパーマだからパンチでいこう」と口説かれ、快諾した。改名時点では、パンチ知名度では断然高かったが実力的にはイチローの方が上であることは分かっていた。パンチ自身も改名に付き合うことで、仰木監督らが仕掛けた話題を盛り上げようとしたのだった。
「先輩の佐藤が改名したのだからお前も・・」プロ野球選手“イチロー”が誕生
佐藤先輩が来年からイチローで登録することにしたので、おまえも同時にイチローで登録することにしよう。そして、登録名をカタカナにすれば、メディアの注目は、まず言動が目立つ「パンチ」に向く。そのついでに「イチロー」も露出するようになるだろう。そうすれば、仰木監督が絶賛していたあの選手として活躍し始めたときに、「ああ、あの選手だったんだな」と思い出してもらえるかもしれない。
「イチロー」と「パンチ」カメラの前で大体的に発表!
1995年4月7日、神戸市西区のオリックス選手寮「青濤館」の隣接する室内練習場では、ICHIROとPUNCHというカタカナで登録されたふたりの若者の背中をカメラマンの方へ向けさせた際、仰木監督は彼らの肩に手を回して笑っていた。
94年4月、登録名を鈴木一朗からイチローへ。佐藤和弘からパンチと命名したオリックス・ブルーウェーブの仰木彬監督とともに― スポニチ Sponichi Annex 野球 https://t.co/l17hGzoual
— スポニチ野球記者 (@SponichiYakyu) March 22, 2019
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あの打法の創造主!?新井宏昌打撃コーチとの運命の出会い
オリックスで初めてコーチ職に請われた新井宏昌は、現役時代に南海や近鉄で通算2038安打を放った好打者である。92年に仰木が近鉄監督を退任したとき、二番打者として活躍していた彼が現役を引退しました。その後は野球評論家を1年間務めていた。その経歴から分かるように、新井には指導歴がない。しかし、仰木監督は彼を一軍の打撃コーチに専任で起用した。
新井コーチが強く推薦した選手!それがイチロー!!
新井は、仰木に1人の若手選手を推薦した。新井は「誰が見ても、この選手はいいと思います。レギュラーで使わない手はないでしょう」と言い、仰木もその選手をオープン戦で使うことにした。その選手が満塁ホームランを打ったことで、新井は「アイツはスーパースターになりますよ」と確信を持った。
あんなふうに打つ人を見たことがなかったという。衝撃を受けたのが、あの”振り子”でした。タイミングの取り方やしなやかさなど、前の足を大きく動かしてピッチャーに仕掛け込み、軸を動かしながら攻め込んでいく様子が印象的でした。
私が1993年に引退したとき、イチローを最初に見たのは、解説の仕事でグラウンドに行った時でした。そこで、オリックスのコーチである大熊(忠義)さんから「右投げ左打ちの若手がいるから、ちょっと見てほしい」と言われ、それがイチローだったんです。
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新井コーチは2軍で取り組んでいた打法を理解!
「鈴木一朗」と出会った当時、河村健一郎二軍打撃コーチは振り子打法を取り組んでいました。その特殊な打ち方を前提として、彼がまだ一軍とファームを行き来していた頃から、鈴木一朗の才能を引き出していきました。
仰木監督もその打法を支持した!
近鉄時代に野茂の「トルネード投法」を認めた仰木は、指導者によっては否定的だった振り子打法を続けさせた。
打法を記者が命名!!これが伝説の「振り子打法」
田中貴久記者は、1994年シーズンの開幕前のオープン戦で、見たままの表現を記事にしたことが後に「振り子打法の名付け親」として知られるようになった。その理由となったのは、右足を「時計の振り子のように使う」打撃フォームで安打を量産し、紙面で大きなスペースを求められるようになったからである。
伝説の始まり!!「1番・イチロー」
彼が開幕戦では「2番・センター」で起用されたのは、当初、我々は1番バッターに田口壮を起用していたためでした。しかし、田口がダメなのと、次に入った小川博文もイマイチだったことから、イチローにお鉢が回ってきました。1番バッターで起用したイチローは、送りバントをすることもなく、打力を生かして大量点を狙うことができました。また、一塁にランナーがいる時より、走者なしの場面で最大限に力を発揮できる振り子だけでなく、1番ならば、彼が最も輝ける場所だということもありました。
「いつ走っても構わない」
イチローに対して、仰木は「いつ走っても構わない」と告げ、出塁する際には「グリーンライト」を与えていた。
イチローとの抜群のコンビネーションを発揮した「2番・福良淳一」
福良淳一(前オリックス監督、現・育成統括ゼネラルマネジャー)は、当時33歳のベテランだった。イチローという一番の選手に対し、「走れないときだけ、サインをくれ」と要望した。イチローがフラッシュサインを出すと、福良は最初から打って出るが、それがなければ、イチローの動きや、相手の守備隊形や保守の警戒ぶりを見ながら、打たずに状況を見るということにした。
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打率3割を超える!バンドも最多
福良淳一はイチローの出塁率の高さにより、2年連続でリーグ最多の33犠打をマークし、キャリアハイの50打点も達成しました。また、打率も.301でリーグ6位を獲得し、自身3度目の3割を達成。その結果、2度目のベストナインにも選出されました。
最高の2番バッターとして活躍した!
福良は、チームバッティングの要となる右打ちやバントなどをそつなくこなすだけでなく、堅実な二塁の守備でも実力を発揮した。その成果として彼はその年に、日本記録となる836の機会に無失策の守備を達成した。仰木野球において不可欠なプレーヤーとして高い評価を得た。
仰木監督の采配により毎日オーダーが変わる!?そんな中でも「1番イチロー」
1994年、仰木彬監督が就任したオリックスバファローズの打線は、「日替わりオーダー」「猫の目打線」と揶揄されることもありました。130試合のうち121試合で日替わりオーナーを組まれ、前日に本塁打を打った好調な選手でも翌日にスタメンから外されたりしました。そのなかで、イチローを1番や番、時には4番に配し、毎試合のように猫の目のようにクルクルと打順を変えていたため、「仰木マジック」とも称されました。しかし、イチローが一番を務めたのは110試合で、残る20試合での二番打者は6人も使用していました。特にイチローと福良のコンビは、130試合のうち90試合で組まれたことでも有名です。
プロ野球史上最速!シーズン100安打達成
当初はその打法に注目が集まったが、スタメンから外れることなく安定した結果を残し続けた。そして、6月25日にシーズン100安打の最速記録を更新。これは1964年の広瀬叔功(南海)の61試合を更新する100安打のスピード記録となった。
オールスター初出場!
1994年、オリックスから初出場となった愛工大名電高校の出身者のイチローは、第1戦「1番・レフト」としてオールスターゲームに先発出場。6回の第4打席でセンター前へ球宴初ヒットを放ち、10打数2安打を記録した。実はそのファン投票初選出組は、後に全員がメジャーリーグに活躍する選手たちで構成されていた。また、監督推薦で初出場を果たしたメンバーの中にも、高津臣吾(当時ヤクルト)、斎藤隆(当時横浜)が後にメジャーリーグへの移籍を果たしていた。
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とにかくヒットを打ちまくる!打率は4割超え!
28日の近鉄戦(日生)では、3打数1安打で.398という打率で変わらなかったものの、29日の同カードで大爆発した。1打席目から右前打、中前打、四球、中前打、四球と4打数4安打を決め、6打席目のバント安打を一塁前に決めることで、開幕から63試合目で打率を.407とした。
世の中はイチローの打率の話でもちきり!
イチローの打率が国民的関心事となり、マスコミが報道合戦を繰り広げるようになったのは、その頃からです。
「打率3割9分でも凄いじゃないですか」
10日ほどで、打率4割台は終わりましたが、その後はペースがやや落ちました。
「最初、担当記者との約束は『4割って数字を一回でもいいから、スコアボードに見せてくれ』というものだったんです。で、一回見せたら、今度は、『1試合終わった時点で最終的に4割をキープしてくれ、新聞に載せられるように頑張ってくれ』と言うから、じゃあ頑張りますってやったら、次は、シーズンで4割打ってくれなんて言いだして。約束はちゃんと果たしたのに、4割切ったらブーブー言って。
20歳のイチローが語る。「打率3割9分でも凄いじゃないですか」/山崎浩子.NumberWeb.2019
3割9分でも凄いじゃないですか。まだハタチですよ。こんな可愛い顔して。ねえ」
20歳のイチローが語る。「打率3割9分でも凄いじゃないですか」(山崎浩子)#プロ野球 #npb #イチロー https://t.co/SL3mtHtNvS
— Number編集部 (@numberweb) December 24, 2019
連続試合出塁記録を更新
1994年にオリックスのイチローが69試合の連続出塁記録を打ち出したことは、シーズンの半分近くに及ぶ記録であり、また2001年に巨人の松井秀喜が65試合の連続出塁記録を樹立したことも、簡単に届かない数字となっている。
「44年ぶりの新記録!」192安打 達成
【オリックス14-1日本ハム】昭和25年(1950年)、阪神・藤村富美男三塁手が記録したプロ野球シーズン最多安打記録を更新する、44年ぶりのニューレコードを、弱冠20歳の天才打者、オリックス・イチロー中堅手が打ち出した。イチローのヒットはこれでシーズン192本目。日本ハム・有倉雅史投手の外角のフォークを軽く拾った打球は、三遊間をきれいに破り、小川浩一左翼手の前ではねた白球の行方を確認したイチローは、一瞬ニヤッとしただけで一塁ベースに戻った。
しかも最速!
藤村の192安打はシーズン最終戦の140試合目で達成されたが、イチローの192安打は116試合目であった。
イチローの192安打は116試合目で達成されたが、藤村の192安打はシーズン最終戦の140試合目だった。
【9月14日】1994年(平6) イチロー、新記録より「6打席でヒット1本が悔しい」/Sponichi Annex.2008
日本プロ野球史上初の200安打
1994年9月20日。イチロー選手が、前人未到の記録へあと3本として、日本プロ野球史上初の200安打を達成するため、ロッテ戦に臨んだ。122試合目となった当日、第1、2打席で中前安打を放ち、一気に王手をかけ、第3打席に突入した。グリーンスタジアム神戸にとどろく大声援の中、ロッテ・園川一美投手から放った鋭い打球は右翼線へ。そして、その打球から誰も望めなかったシーズン200安打の偉業を成し遂げた。
イチローは、二塁ベース上で普段通りのポーカーフェイスで、記念のプレートを高々と掲げた。第5打席で左前安打を放ち、200安打を通過点とばかりに記録を伸ばした。若武者に記念の一打の感想を求められた時、イチローは淡々とした“イチロー節”で「打ったのは真ん中の抜いた球。一本目が出た時、『いけるかな』という予感がありました」と応じた。
【あすは何の日】イチローがシーズン 200安打達成!
— 朝日新聞フォトアーカイブ (@asahi_photoarc) September 19, 2018
1994年9月20日 オリックスの #イチロー(鈴木一郎)選手がロッテ戦でプロ野球初の #シーズン200安打 を達成した。#朝日新聞 #朝日新聞フォトアーカイブ pic.twitter.com/5sFUvWiyRd
210安打を記録!昔は今より試合数が少ない!
この年に、NPB史上初となる200安打を達成しました。そして最終的には210安打まで記録を伸ばしました。130試合制での200安打を達成したイチローはただ1人でした。もし仮に1994年のイチローが今季と同じ143試合に出場していた場合、驚愕の231安打という記録を残していた計算になります。
さらに次々と新記録を打ち立てた!
日本記録となる69回のシーズンマルチ安打を、さらに44年ぶり2人目として20試合連続安打を複数回達成した。
「花まるです。『たいへんよくできました』ですね」(94年10月9日、210安打でシーズンを終える)
「最も特別な日」「神が降りた」言葉研ぎ澄ますイチロー/朝日新聞デジタル.2019
年棒が10倍の「8000万」に!
1994年のオフに、イチローが大活躍して世間で有名になったことから、イチローの年俸が800万円から8000万円になった。その時、イチローは「わかりました。それでいいです」と答えた。
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