この記事では、日本の野球界を代表する選手、イチローの入団時の苦労や成長過程、そして彼を支えた人々について紹介しています。イチローが自分の打撃スタイルを貫き、成長していく姿勢や、彼を信じて支えたコーチや父親の存在が強調されています。
また、イチローが活躍する前に監督を務めていた仰木彬氏とのエピソードも紹介されています。野球ファンはもちろん、人間ドラマが好きな方にもおすすめの記事です。
《イチロー伝説》伝説の始まり!イチローがプロ野球界に舞い降りた日 〜1992年 オリックス時代〜
Orix BlueWave in 1993
1993年 オリックス・ブルーウェーブ 時代
プロ2年目のイチローは、当時の監督である土井正三氏に期待され、開幕から1軍入りを果たしました。当時まだ「鈴木」という名前で活動していた彼は、9番センターで初の開幕スタメンに名を連ねました。しかし、試合の結果は、ロッテの先発投手である小宮山悟に対して三振、中飛、二ゴロに抑えられるという結果に終わりました
自分に合わないバッティング
イチローは秋季キャンプで、自分に合わないバッティングを強制されたものの、それによって結果が出ないことが明らかになりました。翌年のキャンプでは、彼は自分の本来の打撃フォームに戻しましたが、バッティングは一度歯車が狂ってしまうと、すぐには修正が難しいものです。
外野選手の控え扱い →2軍行き
鈴木一朗は2年目に外野の控え扱いとなり、守備固めや代走での起用で11試合12打数1安打となった。その結果、4月24日の試合終了後、二軍行きを命じられることになった。
理由は「バットの持ち方を直しなさい」
当時一軍でスタートしたイチロー選手は、バットのグリップエンドに小指を引っ掛けて練習していました。この握り方はイチロー自身が工夫していたものでしたが、有名なバッティングコーチから「その握り方をしていてデッドボールが当たると骨折するよ、やめなさい」と警告を受けました。
この警告を受けたイチロー選手は、自分の安全と健康を考慮し、適切なアドバイスに従うことにしました。ただし、彼は引き続き独自の工夫を練習に取り入れ、自分に合った打撃スタイルを追求し続けました。
2軍に落とされた時…イチローは泣き崩れた
イチロー選手は、当時実績が全く無い状態で、警告を受けた後に「こんなとこにデッドボール当たるなんてどん臭いですよね、当たらなければいいじゃないですか」と言い返しました。その結果、彼はたった4日で二軍に落とされてしまいます。この時、イチローは泣き崩れてしまいました。
イチローは「このバットの持ち方には理由があります。決して体格では恵まれていません。バッターとして成功するためにはバットを握った時、小指に一番力が入ることがすごく大切なんですよね。でも監督もコーチも全く聞いてくれなかったんです。最初から否定しかなかったんです。ホント悔しいです。二軍に行ってきます。」と語っていました。
2軍落ちしてすぐ連続安打記録を更新!
4月25日、イチローが二軍で出場したウエスタン・リーグの広島戦で1番中堅で出場した際、彼はすぐさま2安打を放ちました。これをきっかけに、イチローは13試合連続で安打を放ち続けました。前年からの連続試合安打は、なんと29試合にまで伸びました。
2軍での活躍が評価され再び1軍へ!
イチローの二軍での素晴らしい活躍に注目した首脳陣は、彼の実力を再評価し、5月21日の神戸球場で行われた試合から再び一軍に引き上げることを決定しました。
野茂英雄から初ホームラン!!それでも新聞に少しだけ……
イチローのプロ初本塁打は、1994年6月12日の近鉄8回戦で、当時近鉄バファローズに所属していた野茂英雄投手から打ちました。新潟・長岡悠久山球場で行われたこの試合で、イチローは5安打10奪三振で完封ペースを維持していた野茂から右翼フェンスをギリギリで越えるアーチを放ちました。推定飛距離は100メートルで、当時の長岡悠久山球場は広くはなかったものの、それでも見事な一発でした。
イチローは「点差が点差でしたからね。でも野茂さんから打ててよかった」と語っていました。しかし、当時の新聞ではイチローの活躍はわずか2行とちょっとの扱いで、彼の名声はまだこれからのものでした。
イチローのプロ第1号ホームラン。1993年は今からもう22年前。当時はまだイチローではなく登録名が『鈴木』でした。投手は近鉄の『野茂英雄』。#ichiro #1stHomerun #NPB #19930612 #イチロー不足 pic.twitter.com/6D35CNmV2r
— Aki (@aki_ichiroad) December 16, 2015
★只今熱戦中! 新潟アルビBCvs東北楽天ゴールデンイーグルス(ファーム)悠久山球場(*イチローが野茂英雄から初本塁打を打った球場)新潟県長岡市 ◆5/21(日)13時~ 赤ちゃん~じさばさGO!⇒元楽天・高須洋介アルビ映像 https://t.co/M5tGmgXLyR #野球 pic.twitter.com/PR2QepofVR
— 大野田健 (@qon15) May 20, 2017
「打撃フォームを変えろ」首脳陣から最後通告
当時のイチローは、1軍打撃コーチから強い口調で自身の打撃スタイルを変えるよう迫られていました。コーチは「これが最後のチャンスだ。俺の言うことを聞く気があれば教えてやる。聞く気がないなら自分で勝手にやれ」と言っていましたが、イチローは自分の信じる打撃スタイルを貫くことを選び、「自分のやり方でやらせてください」とはっきりと断りました。
最初に打撃フォームに狂いが生じたのは、イチローがコーチの言うことに耳を傾けたためでした。
イチローの父親はイチローを支持!
イチローの父が神戸に試合を見に行った際、あるコーチから打撃フォームを大きく変える提案がありました。「鈴木さん、私の思うように一郎をやらせてください」とコーチは言いましたが、イチローの父は一郎の意志を尊重し、「いや、一郎は自分がこうだと思ってやってきたことは曲げない子です。私も一郎にそれを貫き通して迷わずにやってもらいたいと思っています」と答えました。
イチロー自身も、「ボクは納得いかないことはできません」と、同じような返答をしていました。結局、コーチの提案が受け入れられず、イチローは再び二軍に落とされました。しかし、その時点ではある種の覚悟を決めたようで、その年は厳しい状況を受け入れることになりました。
この投稿をInstagramで見る
2軍打撃コーチも首脳陣からの命令を拒否
2軍打撃コーチの河村健一郎は、イチローの打撃フォームに確信を持っており、土井監督らの意見に反対しました。イチローの入団当時の打撃フォームは、軽く足を上げて打っていましたが、彼の体格が細かったため、通常のタイミングでボールを捉えると、しばしば力負けしてしまいました。
ライナーと凡フライの違いは紙一重でしたが、河村コーチとイチローが筋力と体力をつけることで必ずヒットになると信じて練習を続けさせました。
河村健一郎
河村健一郎は、1948年2月に山口県で生まれ、桜ヶ丘高校から芝浦工業大を経て日本石油に入社し、71年に社会人ベストナインを獲得した。72年にドラフト外で阪急ブレーブス入団し、11年間の現役時代に632試合に出場し、打率2割6分7厘、本塁打49、打点190を記録し、78年にオールスター出場を果たした。
82年に引退し、83年以降阪急(89年以降はオリックス)二軍バッテリーコーチ、二軍打撃コーチ、一軍打撃コーチ、一軍バッテリーコーチを経て、92~94年にイチローが入団した際の二軍打撃コーチを務めていた。
球の勢いに負けないための打法「振り子打法」
入団当時のイチローは、軽く足を上げて打っていましたが、体格の細さから普通のタイミングでボールを捉えると力負けしてしまうことが多かった。フリーバッティングを見ても、タイミングは合っていたが打球が飛ばなかったり、ファウルが多かった。
そこで生まれたのが、“振り子打法”です。これによってイチローは、バッテリー間の18.44メートルを25メートルの感覚で打つようになり、打球がよりしっかりミートできるようになりました。
この打撃フォームは、体が投手寄りに動いても、頭の位置や後ろ足の位置が崩れず、抜群のバットコントロールにより変化球でもヒットにすることができました。2軍打撃コーチの河村健一郎は、メジャーリーグの選手のフォームを調べて、多くの選手が軸足を動かしていることに気付きました。このことで、河村はイチローの才能を信じ、迷いなくサポートすることを決めました。
河村はイチローの18歳当時の姿を鮮明に覚えており、「色白でひょろっとした高校生のような見た目なのに、放っている空気が違った。ギラギラした自信と野性的な雰囲気を持っていて、野球に対する絶対的な自信があった」と振り返ります。イチローの才能と独自の打撃フォームが、後に彼を世界的な選手へと押し上げることになりました。
この投稿をInstagramで見る
2軍で結果を残しシーズンを終了!年俸は変わらず「800万円」
ファームでのイチローは、46試合連続安打という驚異的な記録を達成し、他の選手との差を見せつけました。彼は最終的に打率.371という高い成績を残し、1年目の途中から飛躍への準備を整えていました。
しかし、一軍では43試合の出場で打率.188と、ファームでの活躍が十分に発揮できない結果となりました。そのため、2年目の年俸は800万円のままでした。
この投稿をInstagramで見る
【オフシーズン】ハワイのリーグでMVP獲得!!
イチローは、オフシーズンにちょうどこの年から始まったハワイ・ウインターリーグ(Hawaii Winter Baseball・HWB)に参加しました。HWBは93年にハワイで開催された独立リーグで、若手育成を目的に、日米韓の3カ国から派遣された選手が4チームに分かれて、10月から11月の約2カ月のリーグ戦を戦う。
日本人の参加選手は全て「ヒロ・スターズ」に所属
イチローが所属したのはハワイ島のヒロ・スターズ、背番号は5。同じチームには鈴木の他にオリックスの田口壮、ダイエーの内之倉隆志、日本ハムの南竜次ら、3球団から14人の日本人選手が振り分けられていた。
振り打法のはじまりはじまり!?当時イチローとハワイにいた選手の証言
当時ダイエーに所属していた内野手で同い年の林孝哉(現在、日本ハムの一軍打撃コーチ)と相部屋で暮らしていました。林は、鈴木と高校時代からの知り合いで、二軍の試合で会うと挨拶を交わす仲でした。ハワイでの生活では、昼食にマクドナルドに出かけ、鈴木はいつもチーズバーガーを3個注文していました。
また、林は鈴木一朗の練習方法についても語っています。例えば、部屋で一緒にテレビを見ているときに、突然腹筋運動を始めるが、20回でやめることがありました。その理由について鈴木は、「20回という数が大事だ」と説明していました。つまり、一気に100回ではなく、20回を何度も繰り返すことに意味があるという考え方でした。
また、ウインターリーグの開幕直前に、林と一緒に夜間練習をしていたときに、鈴木は鏡を見ながらバットを振って「これ、かっこよくない?」と振り子打法を試していました。その打法を試すことを決めた後、開幕戦で5打数5安打という素晴らしい成績を残しました。もともと打てる選手であったにもかかわらず、フォームを思い切って変える姿勢は非常に印象的でした。
ハワイ伝説の新幹線ホームラン
イチローは、ハワイ・ウインターリーグでその俊足と強打を発揮し、500フィートの驚異的な距離を飛ばすホームランを打ちました。このホームランは、日本の新幹線のように速く飛んでいくことから「新幹線ホームラン」として知られるようになりました。
ハワイ・ウインターリーグの元オーナー、デュエイン・クリス氏は、当時のイチローの印象について語っています。リーグ初日にファームのディレクターから、「絶対見てほしい子がいる」と言われてイチローを見たとき、その小さな体から驚くほどの大飛球が飛び出していました。イチローが450フィート以上の距離を打ち出す姿は、将来の活躍を予感させるものでした。
この投稿をInstagramで見る
この投稿をInstagramで見る
一軍監督に就任したばかりの仰木監督がハワイまでやって来た!
印象的な出来事が起こりました。なんとオリックスの監督に就任したばかりの仰木彬が突然ハワイにやってきたのです。
知将「仰木彬」
仰木監督は、1988年から1992年の5年間にわたって、近鉄の監督を務め、Bクラスに落ちることなく、Aクラスで5シーズンを終えました。1989年に1度だけ優勝を果たし、近鉄の黄金期の一つといってもいいほどの実績を残しています。仰木氏は、前職である西鉄ライオンズでの現役時代に、三原脩監督のもとでプレーし、“魔術師”と呼ばれた知将から、“仰木マジック”と呼ばれる采配の基礎を築いた。
イチローにとって唯一人の師匠
孤高の天才イチローが、新聞記者の質問に「仰木彬を僕の唯一の師匠」と答えたことから、仰木彬はイチローの理解者であり、親身に思いやってくれる優しい父のような存在だったと考えられる。2005年12月、仰木彬が病床についた際、イチローを愛し、可愛がっていた仰木彬は「20日にイチローと食事の約束をしている。それまでは生きさせてくれ」と訴えたが、残念ながらその日の約束を果たす前にこの世を去ってしまいました。仰木彬の死は、イチローにとって大きな喪失であり、彼のキャリアに多大な影響を与えたと言われています。
この投稿をInstagramで見る
視察の目的は日本人選手の試合観戦
仰木監督の目的は、ハワイ・ウインターリーグのチーム、ヒロ・スターズの試合を観戦することでしたが、雨のため試合は中止となってしまい、観戦は叶いませんでした。
しかし、代わりに仰木監督はイチローのバッティング練習をじっくりと見学し、その才能を確認しました。これは、後にイチローがオリックスの中心選手として活躍するきっかけとなる出来事でした。
ハワイ視察のきっかけは河村2軍打撃コーチからの推薦
実は、仰木監督はチームの一新を考えおり、ファームのコーチ陣に1番バッターの補強について聞いて回っていました。河村二軍打撃コーチはイチローを推薦し、仰木監督は「そうか、そうか。そんならこっちから出向くとするか。ほかの連中も見ておきたいからね」と言い、急遽、ハワイ・ウインターリーグ視察が決まったとされています。
仰木監督との食事
ハワイに見学に来ていた仰木監督は、ある日、後にオリックスの主力選手になることになる田口壮とイチローを食事に招待しました。仰木監督がレジの前で分厚いドルの札束をドサっと落とし、20歳の鈴木イチローは仰天しました。
当時同席していた田口は振り返り、その時の様子を語っています。「真っ白なドレススーツを着て、パンチパーマでサングラス。普通の雰囲気じゃないと思ったけど、今までのどの監督よりもかっこいいなあと思った。ビールをついでくれて『今日は俺につがしてくれ。オフにはお前たちについでもらうから』と言って、乾杯したのを覚えています」と田口は語ります。その時のイチローは、それまでにないうれしそうな顔をしていたという。
実は「土井監督」はイチローを高く評価していた!?
土井正三は、イチローの才能を見抜けなかったとされることや振り子打法を否定したことから負のイメージがついていましたが、イチロー自身はそのような評価を否定し、土井監督を高く評価していました。イチローの父親も、土井監督が息子に素晴らしい教育をしてくれたと認めています。
プロ入りした最初の2年間は、イチローにとって不完全燃焼でイライラの連続だったとされていますが、その悔しさを味わいながらも耐えていく過程で、土井監督から精神面でのサポートを受けていたのです。
イチロー獲得のためにスカウトに直談判した張本人
当時のオリックスのスカウトが、ドラフト4位指名に北川晋を決定していたところ、土井監督がイチローを4位指名するようスカウトに直談判しました。
これによって立場がなくなった担当スカウトは怒りをあらわにしましたが、土井監督は折衷案を提案しました。「5位の選手にも4位と同じ契約金を用意して、2人とも獲得しよう」というアイデアでした。このアイデアは成功を収め、オリックスはイチローと北川晋の両選手を獲得することができました。
この出来事は、土井監督がイチローの才能を評価し、彼を獲得するために積極的に行動していたことを示しています。
2軍でしっかり育てるためにわざと落とした!?土井監督自身の証言
当時の土井監督は、イチローが肉体的なハンディキャップを持っていたことを認識していましたが、彼がチームの将来を背負う逸材であることを信じていました。そのため、イチローを長い目で見て育てるために、彼を1年間“放牧”し、しっかりと食事や練習を通じて彼を成長させようと考えていました。
監督就任2年目に入団したイチローは、ファームで好成績を収めたため、オールスター前に一軍に昇格させることになりました。しかし、その年の9月頃、新人王の資格がなくなることが懸念され、本人に二軍への降格を打診しましたが、イチローは一軍にいたいと訴え、そのまま一軍に残ることになりました。
2年目には、予想通り成績が低迷しましたが、土井監督はイチローが平凡な選手になることを避けたいと考え、二軍に落とすきっかけを探していました。
そして、イチローが代走で起用された試合で牽制にひっかかり、ミスを犯したことをきっかけにして、土井監督は彼を二軍に降格させることを決めました。イチローが泣き叫びながら降格を避けようと訴えましたが、土井監督はその決断を変えませんでした。
後に土井正三は、「鍛え直すのが目的でした」と語り、イチローのために厳しい決断を下したことを説明しました。ただし、彼はイチローにその真意をちゃんと説明しなかったことを後悔していました。
そうして二軍に落とされたイチローが取り組んだのが「振り子打法」
二軍へ戻ったイチローは、河村健一郎コーチと共に「振り子打法」を磨いていきました。土井氏が振り子打法を否定したとする説は、実際の時期や状況と異なっていることがわかります。土井監督の意図は、イチローの成長のために彼を二軍で鍛え直すことであり、彼の才能を否定するものではありませんでした。
《イチロー伝説》プロ野球界にニックネームが誕生!仰木監督が創り出した“イチロー”というブランド!! 〜1994年 オリックス時代〜