【イチロー伝説】プロ野球選手鈴木一郎が語る!!一軍よりも二軍がいい理由とは? -1992-

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成功をつかむ「思考法」と「ルーティーン」。28人の“目撃者”が語る「僕だけが知るイチロー」メジャーリーガーたちのイチロー評も収録!(「BOOK」データベースより)

Orix BlueWave in 1992

1992年 オリックス・ブルーウェーブ 時代

Ichiro Suzuki

始まりは2軍のスタメン!ヒットを量産!

1992年4月2日、イチローはウエスタン開幕戦の対広島戦でセンターでスタメン出場し、3打数1安打をマーク。その後、フル出場で8試合連続安打を記録し、マルチ安打も4回を計上した。しかし、14日のダイエー戦で連続安打が8で途切れたものの、翌日の同カードで3安打を固め打ちした。月間では74打数32安打、打率.432、無安打試合はわずか3試合となった。

1992年 7月11日 ついに1軍デビュー!!

首脳陣は、この活躍を見てイチローを一軍に呼ぶ。7月11日、平和台球場でダイエー戦が行われ、左翼の守備固めとして一軍デビューした。2回打席に立つが、安打を放つことなく途中出場となった。

「ただ者ではない・・・。」デビュー戦でプロ初安打

翌日、イチローは9番左翼でスタメンに起用され、5回表に一軍初安打を打った。

 これはただ者ではない。プロ1本目を打たれたピッチャーの直感が始まりだった。ベンチに戻ってきて「あいつ高校を出たばっかりやで」と聞かされて、「ああ、すごいなあと普通に思いましたよ」と木村恵二(元ダイエー、西武)は振り返る。

イチローの日米通算1本目を取材した記者が見た「超一流プロの流儀」/小西慶三.web Sportiva.2019
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2軍のオールスターゲームに出場!代打特大ホームランを放つ!!

1992年7月17日、東京ドームで開催されたジュニア・オールスターゲーム(現在のフレッシュ・オールスター)は3-3の同点の8回を迎えた。7番・中村(紀洋)からバッター・鈴木へと代わり、1点が入れば試合は決まるという状況だった。そこには大洋(現横浜DeNA)の有働克也が相手のマウンドに上がっていた。イチローは2球目のスライダーを、体全身を使いコマのように回転して振り抜いた。そして、打球は東京ドームのライトスタンドの上段へ突き刺さる決勝ホームランとなった。イチローはあどけない笑顔でベンチに戻り、球界の先輩たちが頭をボカスカと叩き、手荒い祝福を受けたのだった。

この時を振り返りイチローは

「速球で来ると思ったらチェンジアップが甘いところに入ってきた。最近打ち損じが少なくなってきたし、こういう最高の場所のアピールできたのは自信にもつながります」

あなたは史上最強のウエスタン代表を知っていますか?(1992年7月17日)/週刊ベースボールONLINE
大活躍のイチローはMVPを獲得!!

イチローが、途中出場で2打数2安打1盗塁、勝利打点の活躍を見せた際、「自分としては塁に出ることしか考えてなかったです」と述べた。試合後には、MVPの賞金100万円の小切手のボードを掲げた18歳のイチロー姿。その賞金は神戸の養護施設に寄付されている。

フレッシュオールスターって?

1963年から40年以上にわたって、日本で『フレッシュオールスターゲーム』が開催されてきました。この試合は数多くの日本を代表するプレーヤーにとって若手の登竜門であり、40年以上もの間毎回多くのプレーヤーが参加し続けています。

プロ1年目のイチローは2軍のリーグで首位打者を獲得!!

ファームでは初年度から、ウエスタンリーグの首位打者、打率.366を記録しました。

『4割、狙ってたんだけど』って……そりゃ、ビックリしましたよ。

二十歳のころ。Ichiro/石田雄太.Number870.2015( p16)

意外にも1軍で目立った活躍はなかった・・・。

1992年7月、ウェスタンリーグの首位打者やジュニアオールスターMVPなどの左翼の守備固めとして一軍初出場を果たしましたが、監督や打撃コーチとの意見の対立もあり、二軍での活躍は目立っていましたが一軍に定着することはありませんでした。

当初の年俸は、430万円だったが、当時のプロ野球史上最年少となるように、すぐさま試合に出場して打率・2.53の数字を残したことから、年俸が800万円まで上昇した。

「一軍はまだ早すぎる、僕は二軍でいい」全てはイチローの計画通りだった!?

イチローは、1年めからオリックスに入団した際から、二軍で首位打者を獲得するなど活躍していたことで「オリックスにいい選手がいる」と評判になったが、一軍でプレーする機会はなかなか与えられず、彼の能力を十分に発揮させることが出来ませんでした。

実は18歳のイチローは7月11日、高卒ルーキーながら初の一軍昇格を電話で告げられた時、「一軍はまだ早すぎる」と一軍マネージャーに「僕は二軍でいい」と申し出ている。

「もうちょっと時間をかけて自分の形を作りたい。3年目まではそういうつもりだったんです。4年後に同い年の大卒が入ってくる。そいつらの一番よりも僕は絶対上手くなきゃいけないし、給料も絶対高くなきゃいけないって思っていた。だから1年目(の一軍昇格)は早過ぎるんですよ」

イチローの日米通算1本目を取材した記者が見た「超一流プロの流儀」/小西慶三.web Sportiva.2019

「1週間で二軍に戻してくれたら最高なんだけどな」

イチローの日米通算1本目を取材した記者が見た「超一流プロの流儀」/小西慶三.WebSportiva.2019

「イチローの打ち方は問題アリ」1軍首脳陣とバッチバチの関係に(笑)

イチローは、当時の土井正三監督の『1番打者たるもの、太いバットを短く握るもの』という考えに頑として聞かなかった。

「アッパースイングをやめてダウンスイングにせよ」

まだ体に力がついていなかったため、1年目から何度か一軍に呼ばれるものの、速い球を叩くとフライアウトになることが多かった。しかし、周囲はアッパースイングに見えたので、ダウンスイングでゴロを打つように指導された。

入団間もないイチローが当時の土井正三・一軍監督や山内一弘・一軍打撃コーチらから散々言われたのは、「これでは打てない。ゴロを打つダウンスイングに矯正せよ」でした。打撃を頭から否定されたのです。

イチローの「振り子打法」は数々の凡フライから誕生した/週刊ポスト.NEWSポストセブン.2019
理由「イチローは足が速いからゴロでもセーフになる」

土井監督は「捕球と送球の2つの動作が必要な内野ゴロであれば、足の速いイチローならセーフになる」「フライなら1つの動作で即アウト」と言っていた。

当時は非常識!?軸足が前のバッティング理論!!

当時のイチローは、「体重は軸足(後足)」というセオリーに反し、強い打球を打つために体を投手方向にスライドさせ前足に体重を乗せていた。

普通は軸足に体重を乗せてスイングをするというのがバッティングの教科書的な考え。構えたところで軸に意識を置いて、ステップしても軸に体重を残しながら回転しましょう、と。

イチロー、3000本安打を支えた打撃フォームの秘訣。オリックス時代の師が語る“振り子打法”と“ルーティン” /BASEBALL CANNEL2016
2軍コーチ「河村健一郎」が振り返る

イチローが1年目で、気に入られたいという気持ちもあったため、一軍コーチの言うとおりに行動したと思いました。

後にイチローの代名詞となった「振り子打法」も否定されることに

後に一世を風靡する「振り子打法」(これはマスコミに命名されたもので、イチローと私の間では「一本足打法」だと考えていました)も批判されましたね。右足を踏み込んで体重移動すると、軸がぶれるからダメだと。

イチローの「振り子打法」は数々の凡フライから誕生した /鵜飼克郎.NEWSポストセブン.2019

当初は体重移動の大きな打ち方に『緩急に弱いはず』と周りからよく言われました。

イチロー、3000本安打を支えた打撃フォームの秘訣。オリックス時代の師が語る“振り子打法”と“ルーティン” /BASEBALL CANNEL

「よく折ってましたね。10本くらい追ってたんじゃないですか」
たった2週間くらいのキャンプでそれだけおるのは考えられないことです。

イチローの育て方/河村健一郎.廣済堂あかつき.2010(p58)

イチローと衝突した当時のオリックス首脳陣

オリックス・ブルーウェイブ時代の土井正三監督と山内一弘打撃コーチが、振り子打法を邪道だと切り捨て、その結果イチローは二軍でくすぶっていたという話がある。

【オリックス監督】土井正三

1965年に巨人に入団した土井正三氏は、育英高校(兵庫)、立教大学を経て、名二塁手として鳴らしました。彼は頭脳的な二塁守備と、つなぎに徹したバッティングで、91~93年のオリックスの指揮を執ったのみならず、巨人の9連覇に大きく貢献しました。また、生涯5度、リーグ最多をマークした送りバントは代名詞ともなっています。

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【1軍 打撃コーチ】山内一弘

現役時代の、山内一弘監督は“打撃の職人”として評価され、彼の熱心すぎる打撃に関する指導は、“かっぱえびせん”と呼ばれていた。

1965年にプロ野球史上初となる300本塁打を記録した現役時代の活躍で、3度のオールスターMVPを獲得した「初代お祭り男」として知られる稲尾和久は、1967年には川上哲治(元巨人)に次ぐ史上2人目の2000本安打を達成した。彼は毎日(現ロッテ)・阪神・広島で活躍し、「シュート打ちの名人」と呼ばれるほど独特の打法であった、内角球に対してヒジを折りたたんで振り出す、神様・仏様・稲尾様とも呼ばれる「職人」の名をとった大打者であった。

イチローを指導したオリックス時代は、熱心な指導者だったことが分かる。彼は気が付くと、打撃理論を他の球団の選手にも教えていた。

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【イチロー伝説】1軍打撃コーチとの攻防…。イチローが貫いた“自分流” -1993-
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