1992年、当時18歳だったイチローが、オリックス・ブルーウェーブの2軍で大活躍し、ウエスタンリーグの首位打者を獲得しました。その後、1軍デビューを果たし、ジュニア・オールスターゲームで決勝ホームランを打つなど注目を浴びました。しかし、当時の打撃コーチらからは批判を受け、打撃フォームの矯正を迫られました。イチローは自らの感覚を大切にし、新しい打撃フォームを確立していくことになります。
この記事では、イチローが若き日に抱いた熱意や努力、そして批判に対する向き合い方に焦点を当て、その打撃フォームの秘訣も紹介しています。
《イチロー伝説》愛工大名電のレジェンド、イチローの青春時代を振り返る 〜高校時代の鈴木一郎〜
Orix BlueWave in 1992
1992年 オリックス・ブルーウェーブ 時代
1992年は、イチローがまだ鈴木一朗という名前で、ルーキーだった時代です。オリックス・ブルーウェーブに入団したばかりのイチローは、スーパースターとして名を馳せる前の新人選手で、当時から才能を持っていたものの、プロの世界で成功するためにはまだまだ磨かれるべき部分がありました。
始まりは2軍のスタメン!ヒットを量産!
1992年4月2日に行われたウエスタン・リーグ開幕戦のオリックス・ブルーウェーブ対広島東洋カープ戦では、イチローがセンターでスタメン出場しました。その試合で3打数1安打をマークし、野球ファンの注目を集めることになります。続く8試合で連続安打を記録し、うち4回はマルチ安打を記録する活躍を見せました。
連続安打記録は、4月14日の福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)戦で途切れましたが、8連続安打は素晴らしい記録でした。翌日の同じカードで、イチローは3安打を放つ固め打ちを見せ、再び安打を量産する姿を見せました。4月の月間成績は、74打数32安打で打率.432という素晴らしい数字を記録しました。また、無安打試合はわずか3試合だけでした。
1992年 7月11日 ついに1軍デビュー!!
首脳陣は、イチローのウエスタン・リーグでの活躍を受けて、彼を一軍に昇格させることを決定しました。1992年7月11日に福岡の平和台球場で行われたダイエー戦で、イチローは左翼の守備固めとして一軍デビューを果たしました。
しかし、この試合では2回の打席に立つも安打を放つことができず、結局途中出場に終わりました。
「ただ者ではない・・・。」デビュー戦でプロ初安打
翌日、イチローは9番左翼手でスタメンに起用され、その試合の5回表に一軍初安打を放ちました。この瞬間は、ただの新人ではないことを感じさせる出来事でした。
当時、イチローと対戦したダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の木村恵二選手(後に西武ライオンズに所属)は、「あいつ高校を出たばかりやで」と聞かされたとき、「ああ、すごいなあと普通に思いましたよ」と振り返っています。
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2軍のオールスターゲームに出場!代打特大ホームランを放つ!!
1992年7月17日、東京ドームで開催されたジュニア・オールスターゲーム(現在のフレッシュ・オールスター)は、3-3の同点で8回を迎えました。7番・中村紀洋からバッター・鈴木へと代わり、1点が入れば試合は決まるという状況でした。その時、大洋(現・横浜DeNAベイスターズ)の有働克也が相手のマウンドに立っていました。
その状況でイチローは、2球目のスライダーを体全身を使ってコマのように回転し、振り抜きました。そして、打球は東京ドームのライトスタンド上段へと突き刺さる決勝ホームランとなりました。若きイチローはあどけない笑顔でベンチに戻り、球界の先輩たちから頭をボカスカと叩かれ、手荒い祝福を受けました。
この時を振り返りイチローは
当時のイチローは、そのジュニア・オールスターゲームでの活躍について、「速球で来ると思ったらチェンジアップが甘いところに入ってきた。最近打ち損じが少なくなってきたし、こういう最高の場所でアピールできたのは自信にもつながります」と振り返っています。
大活躍のイチローはMVPを獲得!!
イチローが途中出場で2打数2安打1盗塁、勝利打点の活躍を見せた際には、「自分としては塁に出ることしか考えてなかったです」と述べていました。彼の状況に応じた緻密なプレーは、その後の成功に繋がっていくこととなります。
試合後には、MVPの賞金100万円の小切手のボードを掲げた18歳のイチローの姿が印象的でした。さらに彼は、その賞金を神戸の養護施設に寄付することにしました。
イチローと言えばルーキー時代ジュニアオールスターで東京ドーム最上段に叩き込んだやつかな pic.twitter.com/JC6RLQwbTN
— ⁱᵛʸ ʙᴜʀᴏʜ (@ZyAG_BUROH) May 3, 2018
1992年のジュニアオールスター
— テツコ (@okustet) July 13, 2017
オリックスからイチローと田口壮が出場
「どっちかがMVP取ったら賞金100万円は山分けしよう」と2人で約束
結果イチローがMVPを獲得した。
しかし田口は「いいよいいよ」と受け取らない
そこでイチローは2人の連名で賞金全額を寄付したという逸話 pic.twitter.com/T3pwjGgKBT
フレッシュオールスターって?
日本で開催されているフレッシュオールスターゲームは、1963年から40年以上にわたって続いており、多くの若手選手たちがここでスキルを競い合い、大いに成長する場となっています。この試合は、日本プロ野球界を代表する多くのトップ選手たちが出場し、プロへの登竜門となってきました。
フレッシュオールスターゲームは、プロ野球における各球団の若手選手たちが一堂に会し、力を試す場です。選手たちは、この舞台で輝かしいプレーを披露し、観客やスカウト、メディアから注目を集めることで、その後のキャリアに大きな影響を与えることがあります。
また、この試合は若手選手たちにとっても貴重な経験となります。他チームの選手と競い合うことで、自分のスキルや技術を向上させることができるため、プロ野球選手としての将来に繋がります。40年以上もの間開催されているフレッシュオールスターゲームは、日本プロ野球界の発展に大きく貢献しています。
プロ1年目のイチローは2軍のリーグで首位打者を獲得!!
イチローはファーム(二軍)での初年度に、ウエスタンリーグの首位打者となり、打率.366を記録しました。この記録に当時のイチローは、「4割、狙ってたんだけど」と語っていました。
意外にも1軍で目立った活躍はなかった・・・。
1992年7月、ウエスタンリーグの首位打者やジュニアオールスターMVPなどの実績を持つイチローは、左翼の守備固めとして一軍初出場を果たしました。しかし、当時の監督や打撃コーチとの意見の対立もあったことから、一軍に定着することはできませんでした。
この時期は、イチローにとって苦しいものであったと言われています。しかし、彼は二軍での活躍を続け、その才能を磨き上げることに努めました。
イチローの当初の年俸は430万円でしたが、彼が当時のプロ野球史上最年少で試合に出場し、打率.253の好成績を収めたことから、彼の年俸は800万円まで上昇しました。
「一軍はまだ早すぎる、僕は二軍でいい」全てはイチローの計画通りだった!?
イチローがオリックスに入団してから、彼は二軍で首位打者を獲得するなどの活躍を見せ、「オリックスにいい選手がいる」と評判になりました。しかし、一軍でプレーする機会はなかなか与えられず、彼の能力を十分に発揮させることができませんでした。
18歳のイチローは、一軍昇格を電話で告げられたときに、「一軍はまだ早すぎる」と感じ、一軍マネージャーに「僕は二軍でいい」と申し出ていました。彼はもう少し時間をかけて自分のスタイルを作りたいと考えており、3年目まで二軍で過ごすつもりでした。
イチローは、4年後に同い年の大卒選手が入ってくることを意識していました。彼は、その選手たちよりも上手くなり、給料も高くならなければいけないと考えていました。そのため、彼は1年目の一軍昇格が早すぎると感じていました。また、イチローは「1週間で二軍に戻してくれたら最高なんだけどな」と語っていました。
「イチローの打ち方は問題アリ」1軍首脳陣とバッチバチの関係に(笑)
当時のイチローは、土井正三監督の「1番打者たるもの、太いバットを短く握るもの」という考えに反発していました。彼はまだ体力がついていなかったため、一軍に呼ばれたときには速い球を叩くとフライアウトになることが多かった。しかし、周囲はアッパースイングに見えたため、ダウンスイングでゴロを打つように指導されました。
イチローが入団後間もなく、土井正三監督や山内一弘打撃コーチから言われたことは、「これでは打てない。ゴロを打つダウンスイングに矯正せよ」という指導でした。これにより、彼の打撃スタイルが頭から否定されたのです。
土井監督は、捕球と送球の2つの動作が必要な内野ゴロであれば、足の速いイチローならセーフになると考えていました。一方で、フライによるアウトは1つの動作で確実にアウトになるという理由から、ダウンスイングでゴロを打つことを強調していたのです。
しかし、イチローはその後、独自の打撃スタイルを貫き、日本プロ野球界を代表する選手になり、さらにはメジャーリーグベースボールで活躍することになります。彼の成功は、自分の信じる道を貫くことの重要性を示しています。
「アッパースイングをやめてダウンスイングにせよ」
イチローは、当時の土井正三監督の『1番打者たるもの、太いバットを短く握るもの』という考えに頑として聞かなかった。まだ体に力がついていなかったため、1年目から何度か一軍に呼ばれるものの、速い球を叩くとフライアウトになることが多かった。しかし、周囲はアッパースイングに見えたので、ダウンスイングでゴロを打つように指導された。
入団間もないイチローが当時の土井正三・一軍監督や山内一弘・一軍打撃コーチらから散々言われたのは、「これでは打てない。ゴロを打つダウンスイングに矯正せよ」でした。打撃を頭から否定されたのです。土井監督は「捕球と送球の2つの動作が必要な内野ゴロであれば、足の速いイチローならセーフになる」「フライなら1つの動作で即アウト」と言っていた。
理由「イチローは足が速いからゴロでもセーフになる」
土井監督は「捕球と送球の2つの動作が必要な内野ゴロであれば、足の速いイチローならセーフになる」「フライなら1つの動作で即アウト」と言っていた。
当時は非常識!?軸足が前のバッティング理論!!
当時のイチローは、バッティングのセオリーである「体重は軸足(後足)」に反して、体を投手方向にスライドさせ、前足に体重を乗せることで強い打球を打つ独自のスタイルを確立していました。この方法は、通常のバッティングの教科書では、軸足に体重を乗せてスイングすることが推奨されています。つまり、構えた状態で軸に意識を置き、ステップしても軸足に体重を残しながら回転するという考え方です。
当時の一軍コーチの指示に従って行動するような気持ちもあり、後に一世を風靡する「振り子打法」(これはマスコミに命名されたもので、イチロー自身は「一本足打法」と考えていた)も当初は批判されました。右足を踏み込んで体重移動するスタイルは、軸がぶれるからダメだという意見もありました。また、「緩急に弱いはず」と周りからよく言われたこともありました。
河村2軍打撃コーチが振り返る
2軍打撃コーチであった河村健一郎は、イチローが1年目の時、一軍コーチに気に入られたいという気持ちから、言われるがままに行動していたのではないか?と振り返っています。後に一世を風靡する「振り子打法」(これはマスコミに命名されたもので、イチローと河村健一郎の間では「一本足打法」と考えられていました)も、当初は批判されました。
一軍のコーチたちは、イチローの右足を踏み込んで体重移動する打ち方が軸がぶれるためダメだと指摘していたそうです。また、当初は体重移動の大きな打ち方について、周囲から「緩急に弱いはず」という意見も寄せられていたといいます。
イチローと衝突した当時のオリックス首脳陣
オリックス・ブルーウェイブ時代のイチローは、独自の「振り子打法」を取り入れていました。当時の監督である土井正三と打撃コーチの山内一弘は、この打法を邪道と判断し、イチローに別の打撃スタイルを採用するよう指導しました。その結果、イチローは一軍での出場機会が限られ、二軍での活躍が続くことになりました。
【オリックス監督】土井正三
土井正三は、1965年に読売ジャイアンツに入団し、育英高校(兵庫県)と立教大学を経て、名二塁手として活躍しました。彼のプレースタイルは頭脳的な二塁守備とつなぎに徹したバッティングで、チームの勝利に大きく貢献しました。また、巨人の9連覇時代にも重要な役割を果たしました。その後オリックス・ブルーウェイブの監督を務め、1991年から1993年までチームを指揮しました。
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【1軍 打撃コーチ】山内一弘
山内一弘は、毎日(現ロッテ)・阪神・広島で活躍し、「シュート打ちの名人」と称されるほど独特の打法を持っていました。内角球に対しては、ヒジを折りたたんで振り出すような打法で、神様・仏様・稲尾様とも呼ばれるほどの大打者でした。1965年には、プロ野球史上初の300本塁打を記録し、3度のオールスターMVPを獲得しました。
指導者としても評価が高く、引退後は巨人、阪神の打撃コーチを務め、ロッテと中日で各3シーズンずつ指揮を執った。山内一弘の熱心な打撃指導は「かっぱえびせん」と呼ばれるほどで、他の球団の選手にも打撃理論を教えることがあり、彼らの成長に貢献しました。
1991年から1993年はオリックス・ブルーウェーブの1軍 打撃コーチをつとめ、当時の土井正三監督とともに、イチローを指導していました。
山内 一弘/山内 和弘
— プロ野球通算成績bot (@npb_player_bot) June 13, 2020
2235試合 .295(7702-2271)
396本塁打 1286打点 118盗塁 8犠打
毎日/大毎(1952-1963)
阪神(1964-1967)
広島(1968-1970)pic.twitter.com/A1AJEc1GNh
《イチロー伝説》1軍打撃コーチとの攻防…。イチローが貫いた“自分流”とは? 〜1993年 オリックス時代〜