「迫害などなかった」成功に終わったベルリン大会……別名“ヒトラーのオリンピック”【プロパガンダ】

ベルリンオリンピックは、世界中から注目された歴史的な大会の一つです。しかし、その裏にはナチス政権が大会を利用して行ったプロパガンダ活動が存在していました。この記事では、ヒトラーや宣伝大臣ゲッベルスの役割や、大会の政治的な背景を紹介しながら、その真実に迫ります。

また、多くの歴史家から「ヒトラーのオリンピック」と呼ばれるこの大会が、スポーツと政治が結びつく最初の例としてどのような意味を持つのかについても考えてみましょう。

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独裁体制下における「平和の祭典」の全貌。各国の思惑とボイコット運動、ユダヤ人や黒人への迫害、各競技の様子など、「スポーツと政治」の癒着を歴史的に徹底検証する。(「BOOK」データベースより)

Berlin 1936 Olympic Games 

1936年 ベルリンオリンピック

British Pathé/YouTube

1936年の第11回オリンピック大会は、ドイツのベルリンで開催されました。実は、ベルリンはもともと1916年の第6回オリンピック大会の開催都市に選ばれていましたが、第一次世界大戦のために大会が中止となりました。ドイツは第一次世界大戦で敗北し、国土が荒廃し、さらに世界恐慌時には経済危機に陥っていました。

それにもかかわらず、1931年に行われた開催地を決める投票で、スペインのバルセロナを破り、ベルリンが再びオリンピック開催地に選ばれました。この大会は、ナチス・ドイツ政府によるプロパガンダの機会として利用されました。

ヒトラー(ナチス)のためのオリンピック

1931年の国際オリンピック委員会(IOC)総会でベルリンが開催地に選ばれた際、ドイツはまだワイマール共和国でした。しかし、1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握し、ナチス・ドイツが成立すると、ベルリンオリンピックはナチスの政治プロパガンダの手段として利用されることになりました。

当初、ヒトラーはオリンピックに反対していた

British Pathé/YouTube

アドルフ・ヒトラーは当初、1936年のベルリンオリンピックに乗り気ではありませんでした。彼は、アメリカが白人以外の選手を送り込んでメダルを獲得することや、ユダヤ人がオリンピックを利用して利益を得ることを懸念していたと言われています。

しかし、その後ヒトラーはオリンピックがドイツのナチス政府にとって政治的プロパガンダの機会として有益であることに気づき、五輪を支持するようになりました。彼は大会を利用してドイツの国威発揚を図り、アーリア人種の優越性を世界に示そうとしました。

反ユダヤ・反フリーメイソンのヒトラーにとってのオリンピックとは・・・

ヒトラーは、反ユダヤ主義と反フリーメイソン主義を持っていました。

彼はオリンピックを「ユダヤ人とフリーメイソンによる発明」と見なしていたため、当初はベルリンでのオリンピック開催を好ましく思っていませんでした。彼はユダヤ人とフリーメイソンをドイツ社会の敵と見なし、彼らを弾圧する政策を実施していました。

ナチスがオリンピックを政治的に利用出来る事に気付く

ナチス党の目的はアーリア人(彼らが考える優れた民族)によるドイツ、そして世界の支配でした。ヒトラーがオリンピックの有用性に気づくきっかけを与えたのは、実際にはナチス党宣伝大臣のゲッベルスでした。

1916年に開催予定だったベルリン五輪は、第一次世界大戦の勃発により中止となりました。1936年のベルリンオリンピックが再び開催されることによって、ドイツは平和的な国であると世界にアピールするチャンスを得ました。これは、当時すでに人種差別政策などが懸念されていたナチス・ドイツにとって大きな意味がありました。

さらに彼は、競技でドイツ人が好成績を収めることで、ドイツ国民の愛国心を奮い立たせ、アーリア人種の優越性を世界に示すことができると考えました。

宣伝大臣のゲッベルスがヒトラーを説得!

宣伝大臣のゲッベルスは、オリンピックを、ナチス・ドイツの政治的プロパガンダに利用することを熱心に主張します。

「総統、ベルリンでオリンピックを開催すれば、選手、役員、報道関係者が世界中から集まります。世界に我々の栄光をアピールする素晴らしい機会です」

ヒトラーは、考えを変えベルリン大会の開催を支持する声明を発表、1936年8月1日から16日までの日程で行われることに決定しました。これは、過去の気象記録から、この期間が最も天候が安定していることが推定されたためです。

ヒトラーのGOサイン!オリンピックへの準備は一気に加速!!

1933年10月5日、ヒトラーは関係者とともにベルリン郊外グリューネヴァルトのオリンピック会場予定地を訪れました。彼は改修前と改修後のスタジアムの模型を見て、工事中のフィールドを視察しました。労働者たちが地面を掘り起こす作業に汗を流していましたが、ヒトラーはその理由を質問しました。

関係者は、ベルリン競馬協会との契約により、視界を遮らないことが条件とされているため、現在のスタジアムを掘り起こすしかないと説明しました。

しかしヒトラーは、「競馬場は必要なのか。必要でなければ競馬場が出ていけばよい」と言い切り、グリューネヴァルトの敷地全体を新しいスポーツ施設に充てることを決定しました。さらに、現在の競技場を取り壊して、その跡地に10万人収容の新しい競技場を建設することも指示しました。

ヒトラーは、「それがわが国に課せられた義務である。ドイツが世界各国を招待するのだから、準備は完璧かつ壮大でなければならない。スタジアムの外装はコンクリートでなく自然石とすべきだ。400万人の失業者がいるのだから、どんな工事も可能だろう」と述べました。

5日後の1933年10月10日、総統官邸で開かれた会合で、ヒトラーは宣伝相ゲッベルスやその他の閣僚、組織委員会幹部を前にして、オリンピックに対する野心を強調しました。「きたるべきオリンピックで、われわれは新ドイツの文化的業績と実力をはっきりと示さねばならない」と宣言しました。

ヒトラーの決断によって、ベルリンオリンピックの準備は大きく変わりました。彼の責任の下で、オリンピックは国家的な事業となり、ドイツのプレステージを高めるための重要な機会とされました。このことから、ベルリンオリンピックは後に「ヒトラーのオリンピック」とも呼ばれるようになります。

Colonnade
ナチスの全面バックアップ!とてつもない規模でオリンピックへと突き進む

ヒトラーの言葉により、第11回オリンピック・ベルリン大会は根底から変質しました。大会のあらゆる準備が、従来のオリンピックをはるかに上回る規模で、ドイツ「第三帝国」の全面的支援のもとに推進されました。こうして、のちに帝国競技場(ライヒスシュボルトフェルト)と呼ばれる10万人収容の大競技場が完成し、ヒトラーのもとで国家事業として予算に糸目をつけませんでした。

その頃、他の国ではベルリン大会反対の声

ナチス・ドイツの人種差別政策やユダヤ人迫害が明らかになるにつれ、オリンピックの理念にそぐわないとし、多くの国からベルリンオリンピックに対する懸念が表明されました。

特にアメリカでは、選手やスポーツ関係者を中心にボイコット運動が広がりました。最終的には「全ての人種を平等に扱うこと」と「ドイツのユダヤ人をオリンピックに参加させること」を開催の条件としてヒトラーに突きつけました。

「ユダヤ人五輪除外せず」ヒトラーの宣言も違反が相次ぐ

19333年6月5日にウィーンで開催されたIOC理事会で、ベルリン五輪ボイコットが議題となりました。ヒトラー政権は誓約書を提示し、「ユダヤ人をオリンピックから除外しない」と宣言しましたが、その後もドイツからは誓約を無視する報道が相次いでいました。

例えば、8月6日のワシントン・ポスト紙は、AP通信として、フォン・チャムマー・ウント・オステンの会議での挨拶の発言を報道しました。「我々の国民生活や諸外国との関係および競技においても、国家を代表するに足ると認められるドイツ人とは、代表するに何も異論が出ない人たちのことだ」という発言は、ベルリン大会において国家を代表して出場するドイツチームには、ユダヤ人は含まれないことを暗に示唆していました。

また、8月27日のニューヨーク・タイムズ紙には、ベルリン大会の準備に関する特派員からの報告が掲載されました。そこでは、競技場の拡張工事や大会のスローガンとシンボルの採用など、準備が順調に進んでいる一方で、ドイツの競技団体の多くがユダヤ人競技者を排除しており、またユダヤ人は競技団体の役員になれない現状が指摘されていました。ウィーン会議後も「ユダヤ人競技者のハンディキャップ」の問題は、何ら進展がないことが報道されていました。

これらの報道は、ヒトラー政権が国際社会に示した誓約にも関わらず、実際にはユダヤ人に対する差別が続いていたことを示しており、ボイコット運動をさらに激化させました。

こっそりとユダヤ人迫害政策を進める

実際にナチ政権下でのユダヤ人迫害は、1933年4月のボイコットのような一種のお祭り騒ぎが一段落した後も、ドイツ人一般市民の反応をうかがいながら徐々に進められました。ドイツでは、親戚や家系を遡れば1人や2人のユダヤ系がいる者が珍しくなかったため、ナチ政権は徐々にその政策を進めることができました。

このような徐々に進められた迫害政策には、ユダヤ人の商業活動への制限や職業制限、学校や公共施設での差別が含まれていました。また、ナチ政権はプロパガンダを通じてユダヤ人を悪者として描写し、国民に対してユダヤ人への憎悪を煽りました。

なぜ!?ユダヤ人選手の公正な扱い短期間の査察で確認

1933年にユダヤ人選手の排除問題が発生した際、アメリカオリンピック委員会(AOC)の委員長アベリー・ブランデージは、オリンピックの理念に反するとして懸念を示しました。彼は、「各国が身分や階級、宗教、人種により大会への参加を制限するようなことがあれば、近代オリンピック復活の礎そのものが損なわれることになるだろう」と述べました。

1934年、ナチス政権下のドイツでユダヤ人に対する迫害と差別が問題視され、オリンピックのボイコット運動が広がりそうになりました。ブランデージは、大会前にベルリンのスポーツ施設を短期間査察しました。彼はナチス幹部のヨーゼフ・ゲッベルスやヘルマン・ゲーリングなどから大接待を受け、その後「ユダヤ人差別は存在しない」とIOCに報告しました。ブランデージの報告により、ボイコット運動は阻止されました。

ブランデージは後に独裁政治を称賛する文章を残すなど、反ユダヤ主義者であったことが明らかになりました。また、彼は女性のスポーツ進出を否定する文章も残し、植民地主義者としてアジア各国の美術品を多く手に入れる蒐集家としても知られていました。

IOC会長とヒトラーの最終会見

1935年11月5日、国際オリンピック委員会(IOC)会長アンリ・ド・バイイ・ド・ラツール伯爵とヒトラーの最終会談が行われました。この会談で、大会準備中および大会期間中のユダヤ人に対する差別の抑制が再確認され、両者の合意が成立しました。これにより、1936年のベルリンオリンピックが開催される運びとなりました。

人類初の“聖火リレー”がスタート

AkiMahaviraJina/YouTube

1936年のベルリンオリンピック大会で、初めて聖火リレーが実施されました。聖火そのものは、鉄や兵器の製造で有名なドイツ企業クルップにより1936年に製作されました。この聖火リレーは、ドイツの体育・スポーツ史家カール・ディームのアイデアによるものでした。

本来“聖火リレー”はナチズム思想と真逆

ディームは、古代と現代をオリンピックの火で結び、そのリレーを通じて国同士が協力することに意義があると考えました。国際オリンピック委員会(IOC)もディームの創案による聖火リレーに賛同し、オリンピック初の聖火リレーが実施されました。

古代オリンピックでは、4年に一度、戦争を止めてオリンピアに集まり競技会を開いた。その開催を告げる使者がオリーブの枝を持って各都市を回った。ディーム博士は、この伝統をリレーに脱擬し、オリーブの枝をトーチに変貌させました。

この聖火をオリンピックが開催されている場所まで運ぶリレーは、まさに休戦を伝える使者であるとされました。「武器を捨ててオリンピアに集まろう!」というメッセージが、ナチズムの対極にある思想として表現されました。

ナチスはなんと“聖火リレー”をプロパガンダに利用した

ナチス党は、ドイツ人の祖先がアーリア人的特徴(金髪、碧眼、高身長)を持つ古代ギリシアの人々であるという考えを持っていました。この信念から、古代ギリシアとの繋がりを強調するために、聖火リレーというイベントを編み出すことになりました。

ナチス政権は、聖火リレーをプロパガンダの一環として利用し、ドイツ国民、特に若者をナチ党に惹きつけるための手段として活用しました。

ヒトラーオリンピックがスタート!!

1936年8月1日、ヒトラーのオリンピックが始まります。

「プロパガンダの天才」とも言われたヨーゼフ・ゲッペルスが演出の指揮を取った、その舞台は完成したばかりの帝国競技場。

多くのドイツ国民がその様子を見守りました。有名な作曲家リチャード・ストラウスが指揮するファンファーレが、独裁者の到着を告げました。

「ハイル・ヒトラー」の大歓声の中で総統が出席し、何百人もの選手たちが、チームごとにアルファベット順でスタジアムに入場しました。彼らは開会式用のユニフォームに身を包んでいました。

古代オリンピックの開催地であるギリシャのオリンピアからリレーで運ばれてきた聖火を掲げたランナーが、ついにスタジアムに到着しました。

ヒトラーの開会宣言中には10万人を超える観客がナチ式の敬礼、異様な雰囲気と興奮の中でベルリンオリンピックが始まりました。

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近代オリンピックの父!クーベルタン男爵を利用

開会式では、近代オリンピックの父であるピエール・ド・クーベルタン男爵の録音スピーチが流れました。また、彼の名を冠した「クーベルタン広場」がスタジアム周辺に命名されました。

ナチス・ドイツはオリンピックの開催にあたってクーベルタンの名前を効果的に活用し、彼の言葉も式典に組み込まれました。開会式から約二週間前の聖火の点火式で、IOCの役員はクーベルタンからのメッセージを読み上げました。

クーベルタンはメッセージで、何世紀にもわたって道を照らすことをやめず、その古の解決法が今日でも変わらずに適用できる永遠のヘレニズムの精神を強調しました。

しかし、ナチス・ドイツはこの言葉を自分たちの目的に利用し、ギリシア駐在のドイツ大使はオリンピックの聖火が「わが総統アドルフ・ヒトラーおよび総統の全ドイツ国民に」対する幾時代を超えた挨拶であると述べました。このように、ナチス・ドイツはクーベルタンのオリンピックに対する理念を政治的プロパガンダの道具として利用したのです。

「ハイル・ヒトラー!」オリンピックの全てをプロパガンダに利用した

ヒトラーは競技場に度々姿を現し、観客たちが立ち上がって「ハイル・ヒトラー!」と敬礼する光景が見られました。また、この大会では初めてナチ党旗のハーケンクロイツをドイツ国旗として使用し、会場内外に大量に掲げるなど、政治色の強い大会となりました。

さらに、古代ギリシャの伝統を偲んで、優勝者には金メダルのほかにオリーブと樫の苗木も贈られました。このような演出は、ナチス党が自らのアイデオロギーを広めるために利用したプロパガンダの一環であったとされています。

1936 Berlin Olympics Photograph - German Olympic Team Marching in the Olympic Stadium in Berlin
偽りの人種平等

ベルリンオリンピックが開催されるにあたり、ヒトラーは表向きにはすべての宗教や人種を平等にオリンピックに参加させると約束しました。しかし、その約束は完全には守られませんでした。オリンピック期間中、ヒトラーは反ユダヤ主義と拡大主義の政策を隠そうと試み、外国人訪問者に良い印象を与えるために、反ユダヤ活動を一時的に緩和しました。

たとえば、公衆の場へのユダヤ人の立ち入りを禁止する看板や、「ユダヤ人の店で買うな」などの表示が、オリンピック期間中には一時的に取り除かれました。また、ユダヤ人が選手村の村長やドイツ選手団のリーダー、旗手として登用されるなど、一部のユダヤ人はオリンピックで重要な役割を果たしました。

1936 Berlin Olympics Photograph - The East Gate of the Olympic Stadium on August 1, 1936, Awaiting the Arrival of the Fuhrer
ユダヤ人のオリンピアを迫害

さらにナチス政権は、オリンピックでユダヤ人が平等に扱われていると見せかけるために、ユダヤ人選手マーガレット・ランバートをドイツに呼び戻しました。

彼女はドイツの走り高跳び記録保持者であり、メダル獲得が期待される選手でした。ユダヤ人の運動場使用が制限されるなど逆境にも関わらず、彼女はオリンピック出場に向けてトレーニングを続けました。

しかし、彼女の努力は実らず、ナチス政権は彼女のオリンピック出場を阻止しました。「あなたの走り高跳びの成績はオリンピックに出場するには十分ではない」という手紙を送り、彼女の出場を断念させました。さらに、ナチスは世間に対して「彼女は怪我をしたため、不出場となった」という偽情報を発表しました。

また、アテネオリンピックで優勝し、ドイツ・トゥルネンから制裁を受けたユダヤ人のアルフレート・フラトウ(A. Flatow)とグスタフ・フェリックス・フラトウ(G. F. Flatow)兄弟も、ベルリンオリンピックに賓客として招待されました。彼らはナチ・オリンピックの「栄誉」に浴した後、強制収容所に送られ、そこで命を落としました。

ナイツドイツは大半のメダルを獲得

ベルリンオリンピックは、ナチスがアーリア人の優越性を世界に示すためのプロパガンダイベントであり、ドイツはその目的のために選手団をアーリア人だけで構成し、国を挙げてスポーツの強化に努めました。この徹底した取り組みが結果として、ドイツは89のメダルを獲得し、圧倒的な力を見せつけました。

この数は、2位のアメリカが獲得した56個のメダルを大きく上回りました。前回の1932年ロサンゼルス大会では、ドイツは20個のメダルを獲得し5位であったため、ベルリンオリンピックでの結果は劇的な躍進と言えます。

De Olympiade Onder Dictatuur

「迫害などなかった」世界中が騙されてしまった……。

オリンピックは報道合戦でもあるため、世界中から新聞記者が集まりました。日本をはじめとした国々からも多くの報道者が訪れていました。

それまで「1935年のニュルンベルク法でユダヤ人差別が公然化され、ナチスはひどい」という報道がされていましたが、オリンピック期間中の報道では、ユダヤ人差別に関する情報はほとんど流れませんでした。

これにより、世界の人々は、「現地からのニュースにはユダヤ人差別がない。どちらが正しいのだろう」「ナチスは悪いイメージが先行しているが、実際の状況はそんなにひどくないのではないか」と疑問を持つようになりました。

当時の日本人もオリンピック関連のニュースを見て、「ナチス・ドイツは非常に統率のとれたすぐれた国で、ユダヤ人差別なんて全然ない」という印象を持つようになりました。

ベルリンオリンピック終了後、ニューヨークタイムズは「ドイツ人、大会により再び各国の仲間に」「再び人間らしく」という内容の記事を掲載しました。

この記事は、当時の国際社会がドイツに対して柔軟な態度を取り始めたことを示すものであり、オリンピックを通じて国際関係の改善が期待されていたことが伺えます。

このように、オリンピックを通じて、ナチスのプロパガンダは大きな成功を収め、平和で寛容なドイツのイメージを外国の観客に印象づけることに成功しました。

しかし、これは表面上の成功に過ぎず、実際にはユダヤ人差別は続いており、その後の歴史が証明するように、ナチス・ドイツはその後も暴力的で悪辣な政策を推進していきます。

1936 Olympics Photographs - Sammelwerk Nr. 14, Bild Nr. 13, Gruppe 59, Adolf Hilter Enters the South Gate of Olympics Stadium on August 2, 1936

オリンピック大会後、ふたたびユダヤ人の迫害を強める

オリンピック大会が終わると、ナチスはユダヤ人に対する迫害を再び強化しました。1937年から1938年にかけて、ドイツ政府はユダヤ人に財産の登録を強制し、ユダヤ人経営の企業を「アーリア化」する政策を推進しました。

この政策により、ユダヤ人労働者や管理職は解雇され、ユダヤ人経営の企業の多くがナチスによる価格操作で破格の値段で非ユダヤ系ドイツ人に買い取られました。これによって、多くのユダヤ人は貧困に追い込まれました。

また、ユダヤ人の医師は非ユダヤ人の患者を治療することが禁止され、ユダヤ人の弁護士は開業が制限されるなど、職業においても差別が強化されました。

このような迫害は、次第にエスカレートし、1938年11月の「水晶の夜」(クリスタルナハト)によるユダヤ人商店やシナゴーグの破壊、そして最終的にはホロコーストへと繋がっていきます。

ベルリンオリンピックでの表向きの寛容さは、結局一時的なものであり、ナチスの反ユダヤ主義の本質は変わらず、悲劇的な結果を招いたのです。

プロパガンダ映画「オリンピア」

A. Taka/YouTube

戦後、女流監督レニ・リーフェンシュタールはナチスの同調者として非難されましたが、彼女が制作した記録映画「オリンピア」は今なお名作として全世界で上映されています。

この映画では、ワーグナーの交響曲をバックに、世界初の聖火リレーが描かれており、独裁者ヒトラーが大群衆の歓呼に応えて立ち上がる姿も映し出されています。しかし、その後まもなくヒトラーは民族浄化を旗印に、数十万のユダヤ民族の殺戮を始めます。

第二次世界大戦後、リーフェンシュタールはヒトラーの指示で映画を制作したことで激しく糾弾され、連合国側に逮捕されました。裁判では「ナチスに同調しているものの、戦争犯罪への責任があるとはいえない」という判決で釈放されます。

しかし、彼女は誹謗中傷から科学的・理性的な批判に至るまで、多くの攻撃を受けましたが、戦い続けました。結果的に彼女は裁判で勝訴することが多かったのです。

第二次世界大戦でドイツは“聖火リレー”のルートを逆に侵攻

ベルリン大会の聖火リレーは1936年7月20日、古代オリンピア遺跡のヘラ神殿前で採火され、ヨーロッパを横断してベルリンに向かった。このルートはバルカン半島を北上し、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してドイツのベルリンに至った。

日本でもドイツによる“聖火リレー”と戦争の因果関係が噂された

第二次世界大戦でドイツは、このルートを逆にたどりながら侵攻していったという説があります。しかし、この説は歴史学的に十分に検証されていないようで、信憑性に疑問が残ります。

当時のナチスドイツは強大な力を持っており、聖火リレーを行わなくても、スパイ活動によって必要な情報を得られたでしょう。

ただし、聖火リレーがヨーロッパ各国に対するナチスドイツの関心を示す事例であることは確かです。この聖火リレーは、後にドイツが侵攻する国々を通るルートであったため、後世の人々がその関連性に興味を持ち、このような説が生まれたと考えられます。

人類史上最悪の犯罪「ホロコースト」が引き起こされる

BBC News/YouTube

オリンピックが終わった後、ドイツは領土拡大政策を加速させ、ユダヤ人や他の「国家の敵」とされる人々への迫害を強化しました。これにより、第二次世界大戦とホロコーストが引き起こされました。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ政権は、ユダヤ人、ロマ人、身体的および精神的障害者、同性愛者を迫害し、大量虐殺を行いました。ホロコーストでは、600万人以上のユダヤ人、20万人のロマ人、25万人の身体および精神障害者、1万5千の同性愛者が命を奪われました。

「最終的解決」

ナチスは、その犯罪の本質を隠すために、頻繁に婉曲的な言葉を使用しました。ユダヤ人絶滅計画には、「最終的解決」という名前が用いられました。ナチス・ドイツの指導者たちが「最終的解決」の実施を最終的に決定した時期は分かっていませんが、ユダヤ人へのジェノサイド(大量殺戮)は、10年間続いた厳しい差別策の極致でした。

ベルリンオリンピック開催当時、ユダヤ人やロマ人などへの「最終解決」はまだ決定されていなかったとされていますが、すでにその大会以前から人種優生学的な暴力が計画され、大会中および大会後も続けられました。

ベルリン大会の「成功」の裏には、ホロコーストへ向かう道が形成されていた事実がありました。

私たちは、その事実を「何も知らなかった」として無視することはできません。過去の歴史から学び、それらの過ちを繰り返さないために、私たちには認識し続ける責任があります。歴史の教訓を忘れず、未来の世代に伝えることが重要です。

第二次世界大戦後に“聖火リレー”が問題視

British Pathé/YouTube

1945年5月、ドイツの降伏によって1939年から始まった第二次世界大戦は終結し、ヨーロッパに平和が戻りました。1936年のベルリンオリンピック以降、戦争により12年間中断していたオリンピックは、1948年に開催されたサンモリッツ冬季大会およびロンドン夏季大会によって再開されました。

これらの大会は、戦争の傷跡が残る中での開催となりましたが、オリンピック精神を再び蘇らせることができました。

スポーツに政治が関与するべきじゃない

戦前のベルリン五輪がナチス・ドイツの政治的プロパガンダに利用された反省から、スポーツの「政治」からの切り離しは1948年のロンドンオリンピックで重要なテーマとなりました。

開催地であるロンドンでは、戦争の被害がいまだに生々しく、世界各国からの協力により開かれた「友情のオリンピック」を実現することが求められました。

プロパガンダのために生まれた“聖火リレー”をどうするか……

ナチスのプロパガンダとして始められた「聖火リレー」を実施するか否かについて、国際オリンピック委員会(IOC)委員の間で大きな議論が巻き起こりました。一部の委員は、「危険な思想のもとに行われたイベントを継承するべきではない」と主張しました。一方で、「オリンピックを盛り上げるためにはよいイベントだ。目的を変えればいいのではないか」との意見もあった。

「平和のため」戦争を捨てるためのイベントとして継続!!

最終的に、聖火リレーは平和と友好の象徴として再解釈され、「平和のため」のイベントとして存続させることが決定した。そして1948年の採火式では「戦争を捨てて平和へ」を意味するパフォーマンスが行われた。

その後、オリンピック憲章にも聖火リレーが定められ、平和と友好の象徴としての役割が明確になりました。これにより、聖火リレーは現代のオリンピックにおいても大切な伝統として続いています。

Olympics/YouTube

“聖火”……ではない?“聖火”と名付けているは日本だけ!!

1936年のベルリンオリンピックでは、ナチス政権が聖火リレーを始めるにあたり、この行事に「聖火」という言葉を使用しました。

ヨーゼフ・ゲッベルスらによって命名され、ドイツメディアによって広められました。当時の狙いは、国民に祖国への自己犠牲精神を植え付け、戦争動員につなげることでした。

しかし、戦後のオリンピックでは、聖火リレーは平和と友好の象徴として再解釈され、1948年のロンドンオリンピックで実施されました。それ以降、聖火リレーはオリンピックの伝統的なイベントとして受け継がれ、国際理解と親善を促進する役割を担っています。

テレ東BIZ/YouTube
直訳すると「オリンピックの火」

オリンピック憲章の公用語である英語版では、聖火は「the Olympic flame」と表現されています。フランス語版も同様で、「聖」に当たる言葉は含まれていません。

ただし、日本では、ナチスが命名したとされる「聖火」という言葉が今も使われていることは事実です。これは、言語や文化の違いが影響している可能性がありますが、聖火リレーの本来の意味である平和と友好の象徴としての役割は変わらず受け継がれています。

日本で聖火と呼ばれ始めたのは

近代オリンピックにおいて「聖火」が初めて登場した時期には諸説がありますが、1932年のロサンゼルスオリンピックでは、競技場の塔にともす灯台の火のようなものとして紹介されていました。当時の朝日新聞では「オリムピツク塔のかがり火」と表現されていました。

1936年のベルリン五輪では、初めて聖火リレーが行われました。これにより、開幕前から新聞などで「聖火」という言葉が広まりました。また、1936年2月にドイツのガルミッシュパルテンキルヘンで開催された冬季オリンピックの開会式では、「オリムピツクトーチの聖火と山砲隊の祝砲」という表現とともに大きな写真が東京朝日新聞に掲載されました。これにより、聖火リレーが始まる前にもすでに「聖火」という言葉が使われていたことがわかります。

1932年ロサンゼルス大会と1936年ベルリン大会の間に「聖火」という言葉が使われ始めたのかは定かではありませんが、少なくともこの期間に「聖火」が定着したと言えそうです。その後、オリンピック憲章にも「オリンピックの火」という表現が定められ、聖火リレーはオリンピックの伝統的なイベントとして受け継がれていくことになりました。

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