ベルリンオリンピックは、ナチスがアーリア人の優越性を世界に示すためのプロパガンダイベントであり、ドイツはその目的のために選手団をアーリア人だけで構成し、国を挙げてスポーツの強化に努めました。
Berlin 1936 Olympic Games
1936年 ベルリンオリンピック
1936年の第11回オリンピック大会は、ドイツのベルリンで開催されました。
実は、ベルリンは元々1916年の第6回オリンピック大会の開催都市に選ばれていましたが、第一次世界大戦のために大会が中止となってしまいました。
第一次世界大戦で敗北したドイツは、国土が荒廃し、さらに世界恐慌の追い討ちによって経済危機に陥っていました。
それにもかかわらず、1931年に行われた開催地を決める投票で、スペインのバルセロナを破り、ベルリンが再びオリンピック開催地に選ばれることになりました。
そしてこの大会は、ヒトラー率いるナチス・ドイツ政府によるプロパガンダの機会として利用されてしまいました。
ワイマール共和国からナチスへ
1931年、国際オリンピック委員会(IOC)の総会でベルリンが開催地に選ばれた際、ドイツはまだワイマール共和国でした。
苦しい状況の中で、ドイツ国民はナチスに希望を見いだす
1918年、第一次世界大戦の敗北したドイツ帝国は崩壊し、皇帝ヴィルヘルム2世は退位しました。
この混乱の中で、ドイツは新しい政治体制への移行を迫られ、1919年にワイマールで新憲法が制定されました。
これにより、ワイマール共和国が成立し、ドイツは初めての本格的な民主主義国家となりました。
しかし、この時期は経済的不安定さや政治的極端主義の台頭により、絶えず危機に直面していました。特に1929年の世界恐慌は、経済的困窮を招き、社会不安を悪化させ、結果的にナチスの台頭を促進する一因となりました。
ヒトラー政権の誕生と
そして、1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握し、ナチス・ドイツが成立しました。
ヒトラーは、自分たちドイツ民族は「アーリア人(ナチスが考える優れた民族)」と考えており、ドイツ国民に向けて愛国的な演説を行ない、観衆はそれに大歓声で応えました。
ナチスは今のドイツを、ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ「第三の帝国」と表現し、強いドイツの復活を掲げました。
苦しみの中にいた当時のドイツ人は、このような極右的、極端な愛国的なナショナリズムの思想に惹きつけらたのです。
しかし、ナチス党にとっての究極的な目標は、アーリア人によるドイツ、そして世界を支配することでした。
当初、ヒトラーはオリンピックに反対していた
アドルフ・ヒトラーは当初、1936年のベルリンオリンピックに乗り気ではありませんでした。
しかしヒトラーは、オリンピックがナチスにとっての政治的プロパガンダとして有益であることに気づき、一転して五輪を支持するようになりました。
ヒトラーは大会を利用してドイツの国威発揚を図り、アーリア人種の優越性を世界に示そうとしたのです。
では、なぜヒトラーはオリンピックに乗り気じゃなかったのでしょうか?
「ユダヤ人とフリーメイソンによる発明」ヒトラーにとってオリンピック
ヒトラーは、反ユダヤ主義と反フリーメイソン主義を持っており、彼らをドイツ社会の敵と見なし、弾圧する政策を実施していました。
ヒトラーはオリンピックを「ユダヤ人とフリーメイソンによる発明」と見ていたため、到底受け入れることはできませんでした。
また、アメリカが白人以外の選手を送り込んでメダルを獲得することや、ユダヤ人がオリンピックを利用して利益を得ることを懸念していたともいわれています。
ナチスがオリンピックを政治的に利用出来る事に気付く
オリンピックに批判的な状況の中、最初にオリンピックの有用性に気づいたのが、ナチス党の宣伝(プロパガンダ)大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスでした。
ゲッベルスは、1936年のベルリンオリンピックを重要なプロパガンダの機会と捉えました。
実際に、一度中止された後、再びオリンピックがベルリンで開催されることは、ナチス・ドイツにとって大きなチャンスでした。
この時期にナチスが権力を握っていたため、ナチスはオリンピックを利用してドイツが平和的で進歩的な国であるというイメージを国際社会にアピールするチャンスが生まれていたのです。
これは、当時すでに人種差別政策などが懸念されていたナチスにとって大きな意味がありました。
さらにゲッベルスは、競技でドイツ人(アーリア人)が好成績を収めることで、ドイツ国民の愛国心を奮い立たせ、アーリア人種の優越性を世界に示すことができると考えました。
プロパガンダ大臣のゲッベルスがヒトラーを説得!
そしてのゲッベルスは、オリンピックを、ナチス・ドイツの政治的プロパガンダに利用することを熱心に主張し始めました。
「ヒトラー総統、ベルリンでオリンピックを開催すれば、選手、役員、報道関係者が世界中から集まります!オリンピックは世界に我々の栄光をアピールする素晴らしい機会です!」
この熱いゲッベルスの説得により、ヒトラーは考えを変えベルリンオリンピックの開催を支持する声明を発表。そして、1936年8月1日から16日までの日程で開催されることが決定しました。
この期間が選ばれたのは、過去の気象記録から、この期間が最も天候が安定していることが予測されたためでした。
ヒトラーのGOサインでオリンピックは一気に加速!!
1933年10月5日、ヒトラーは関係者とともにベルリン郊外グリューネヴァルトのオリンピック会場予定地を訪れていました。
ヒトラーは改修前と改修後のスタジアムの模型を見た後、実際の工事中のフィールドを視察しました。
すると、必死に地面を掘り起こす作業をする労働者の姿がありました。ヒトラーはそれを不思議に思いその理由を質問しました。
工事関係者は、ベルリン競馬協会との契約により、視界を遮らないことが条件とされているため、現在のスタジアムを作るには土地を掘り起こすしかないとヒトラーに説明しました。
しかしヒトラーは、「競馬場は必要なのか?必要でなければ競馬場が出ていけばよい」と言い切り、グリューネヴァルトの敷地全体を新しいスポーツ施設に充てることが決定しました。
さらに、既存の競技場を取り壊して、その跡地に10万人収容の新しい競技場を建設することも指示しました。
ヒトラーはこの時、「それがわが国に課せられた義務である。ドイツが世界各国を招待するのだから、準備は完璧かつ壮大でなければならない。スタジアムの外装はコンクリートでなく自然石とすべきだ。400万人の失業者がいるのだから、どんな工事も可能だろう」と述べました。
「ヒトラーのオリンピック」
それから5日後の1933年10月10日、総統官邸で開かれた会合で、ヒトラーは宣伝大臣ゲッベルスやその他の閣僚、組織委員会幹部を前にして、オリンピックに対する野心を次の様に強く訴えました。
「きたるべきオリンピックで、われわれは新ドイツの文化的業績と実力をはっきりと示さねばならない」
ヒトラーの決断によって、ベルリンオリンピックの準備は大きく変わりました。ヒトラーの責任の下で、オリンピックは国家事業となり、ドイツ国家の威信を高めるための重要なイベントとされました。
このことから、ベルリンオリンピックは後に「ヒトラーのオリンピック」とも呼ばれるようになります。
ナチスの全面バックアップ!とてつもない規模でオリンピックへと突き進む
ヒトラーの宣言以降、第11回オリンピック・ベルリンオリンピックは根底から変わりました。
あらゆる準備が、従来のオリンピックをはるかに上回る規模と速度で、ドイツ「第三帝国」の全面的支援のもとに推進されました。
こうして、後に帝国競技場(ライヒスシュボルトフェルト)と呼ばれる10万人収容の大競技場が完成しました。
ヒトラーとナチス政権は、この競技場を建設する際に予算に糸目をつけず、その壮大さと技術的な先進性を通じてドイツの力と進歩を世界に示すことを意図していました。
その頃、他の国ではベルリンオリンピック反対の声
こうして急ピッチで準備が進む一方で、ナチス・ドイツの人種差別政策やユダヤ人迫害が明らかになりはじめました。
そして、これらはオリンピックの理念にそぐわないとし、多くの国がベルリンオリンピックに対して懸念を表明しました。特にアメリカでは、選手やスポーツ関係者を中心にボイコット運動が広がりました。
最終的には、「全ての人種を平等に扱うこと」「ドイツのユダヤ人をオリンピックに参加させること」を開催の条件としてヒトラーに突きつけました。
「ユダヤ人五輪除外せず」ヒトラーの宣言も違反が相次ぐ
1933年6月5日、ウィーンで開催されたIOC理事会で、ベルリンオリンピックのボイコットが議題となりました。
これを受けたヒトラー政権は誓約書を提示し、「ユダヤ人をオリンピックから除外しない」と宣言しました。
しかし、その後もドイツからはその誓約を無視する報道が相次いでいました。
例えば、1933年8月6日のワシントン・ポスト紙は、フォン・チャムマー・ウント・オステンの会議での挨拶の発言を次の様に報道しています。
「我々の国民生活や諸外国との関係および競技においても、国家を代表するに足ると認められるドイツ人とは、代表するに何も異論が出ない人たちのことだ」
この発言は、ベルリンオリンピックにおいて国家を代表して出場するドイツチームには、ユダヤ人は含まれないことを暗示していました。
また、8月27日のニューヨーク・タイムズ紙には、ベルリンオリンピックの準備に関する特派員からの報告が掲載されました。
そこでは、競技場の拡張工事や大会のスローガンとシンボルの採用など、準備が順調に進んでいる一方で、ドイツの競技団体の多くがユダヤ人競技者を排除しており、またユダヤ人は競技団体の役員になれない現状が指摘されていました。
これらの報道は、ヒトラー政権が国際社会に示した誓約にも関わらず、実際にはユダヤ人に対する差別が続いていたことを示しており、世界のボイコット運動はさらに激化していきました。
こっそりとユダヤ人迫害政策を進める
実際に、ナチス政権でのユダヤ人迫害は、1933年のボイコット運動が落ち着いた後も、国内のドイツ市民の反応をうかがいながら徐々に進められてました。
ドイツでは、親戚や家系をたどれば1人や2人のユダヤ系がいる者が珍しくなかったため、ナチスは静かにその政策を進めることができました。
このような水面下で進められたユダヤ人の迫害政策には、ユダヤ人の商業活動への制限や職業制限、学校や公共施設での差別が含まれていました。
また、ナチスはプロパガンダを通じてユダヤ人を悪者として描写し、国民に対してユダヤ人への憎悪を煽り続けました。
IOC委員長がドイツを視察し差別が無い事を確認
1933年にユダヤ人選手の排除問題が発生した際、アメリカのオリンピック委員会(AOC)のアベリー・ブランデージ委員長は、オリンピックの理念に反するとして次の様な懸念を示しました。
「各国が身分や階級、宗教、人種により大会への参加を制限するようなことがあれば、近代オリンピック復活の礎そのものが損なわれることになるだろう」
ナチスから接待を受ける
1934年には、ナチス・ドイツでユダヤ人に対する迫害と差別が問題視され、オリンピックのボイコット運動が広がりそうになっていた頃、ブランデージは、ベルリンのスポーツ施設を短期間査察していました。
ナチス幹部のヨーゼフ・ゲッベルスやヘルマン・ゲーリングなどから大接待を受けたブランデージは、その後「ユダヤ人差別は存在しない」とIOCに報告しました。
このブランデージの報告により、ボイコット運動は沈静化していきました。
反ユダヤ主義者のIOC委員長
しかし、後に独裁政治を称賛する文章を残すなど、ブランデージが反ユダヤ主義者であったことが明らかになっています。
また、ブランデージは女性のスポーツ進出を否定する文章も残しており、さらに植民地主義者でもありました。
IOC会長とヒトラーが最後の階段、これにより開催が決定
1935年11月5日、国際オリンピック委員会(IOC)会長アンリ・ド・バイイ・ド・ラツール伯爵とヒトラーの最終会談が行われました。
この会談で、大会準備中および大会期間中のユダヤ人に対する差別の抑制が再確認され、両者の合意が成立しました。
これにより、1936年のベルリンオリンピックが開催される運びとなりました。
人類初の“聖火リレー”がスタート
1936年のベルリンオリンピック大会を前に、聖火リレーが実施されました。これは初めての試みでもありました。
この聖火リレーは、ドイツの体育・スポーツ史家のカール・ディーム博士のアイデアによるもので、聖火そのものは、鉄や兵器の製造で有名なドイツ企業クルップにより1936年に製作されました。
世界の国々が協力することを占める
ディームは、古代と現代をオリンピックの火で結び、そのリレーを通じて世界の国々が協力することに意義があると考えました。
国際オリンピック委員会(IOC)もディーム博士の創案による聖火リレーに賛同、こうしてオリンピック初の聖火リレーが実施されました。
古代オリンピックの伝統から
古代オリンピックでは、4年に一度、戦争を止めてオリンピアに集まり競技会を開いた。
その開催を告げる使者がオリーブの枝を持って各都市を回った。ディーム博士は、この伝統をリレーに脱擬し、オリーブの枝をトーチに変貌させました。
そして、この聖火をオリンピックが開催されている場所まで運ぶリレーは、まさに休戦を伝える使者であるとされました。
ナチスはなんと“聖火リレー”をプロパガンダに利用した
しかい、ナチスの思惑はまったく違うものでした。
ナチス党は、ドイツ人の祖先がアーリア人的特徴(金髪、碧眼、高身長)を持つ古代ギリシアの人々であるという考えを持っていました。
この信念から、古代ギリシアとの繋がりを強調するために、聖火リレーというイベントを編み出すことになりました。
ナチス政権は、聖火リレーをプロパガンダの一環として利用し、ドイツ国民、特に若者をナチ党に惹きつけるための手段として活用しました。
こうして、ナチズム(国民・民族を優先する思想)を思想の中心に掲げるナチスから、「武器を捨ててオリンピアに集まろう!」という世界の国々の団結を訴えるメッセージが発せられることになりました。
「ハイル・ヒトラー!」異様な雰囲気の開会式
1936年8月1日、ついにヒトラーのオリンピックが始まりました。
開会式では、完成したばかりの帝国競技場を舞台に、「プロパガンダの天才」とも称されるゲッペルスが演出の指揮を取りました。
そして、多くのドイツ国民がその様子を見守りました。
有名な作曲家リチャード・ストラウスが指揮するファンファーレが、独裁者ヒトラーの到着を告げました。
「ハイル・ヒトラー!」
大歓声の中で総統が出席し、開会式用のユニフォームに身を包んだ何百人もの選手たちが、チームごとにアルファベット順でスタジアムに入場しました。
そして、古代オリンピックの開催地であるギリシャのオリンピアからリレーで運ばれてきた聖火を掲げたランナーが、スタジアムに到着しました。
10万人を超える観客がナチ式の敬礼する中でヒトラーは開会宣言を行いました。
このように、異様な雰囲気と興奮の中でベルリンオリンピックが始まりました。
近代オリンピックの父「クーベルタン男爵」を利用
開会式では、近代オリンピックの父であるピエール・ド・クーベルタン男爵の録音スピーチが流れました。また、タジアム周辺は彼の名を冠した「クーベルタン広場」と命名されました。
ナチスはオリンピックの開催にあたってクーベルタンの名前を効果的に活用し、その言葉も式典に組み込みました。
ナチスの利用
この開会式の約二週間前、聖火の点火式でIOCの役員はクーベルタンからのメッセージを読み上げました。
クーベルタンはメッセージで、何世紀にもわたって道を照らすことをやめず、その古の解決法が今日でも変わらずに適用できる永遠のヘレニズムの精神を強調しました。
しかし、ナチスはこの言葉を自分たちの目的のためだけに利用し、ギリシャ駐在のドイツ大使はオリンピックの聖火が、「わが総統アドルフ・ヒトラーおよび総統の全ドイツ国民に対する、悠久の時代を超えた挨拶である」と述べました。
ナチスはクーベルタンのオリンピックの理念すら政治的プロパガンダの道具として利用したのです。
「ハイル・ヒトラー!」オリンピックの全てをプロパガンダに利用した
大会期間中、ヒトラーは競技場に度々姿を現し、観客たちが立ち上がって「ハイル・ヒトラー!」と敬礼する光景が見られました。
また、この大会では初めてナチスの旗のハーケンクロイツをドイツ国旗として使用し、会場内外に大量に掲げるなど、非常に政治色の強い大会となりました。
さらに、古代ギリシャの伝統を重んじて、優勝者には金メダルのほかにオリーブと樫の苗木も贈られました。
このような演出は、ナチス党が自らのアイデオロギーを広めるために利用したプロパガンダの一環であったとされています。
偽りの人種平等
ベルリンオリンピックが開催されるにあたり、ヒトラーは表向きにはすべての宗教や人種を平等にオリンピックに参加させると約束していました。
しかし、その約束は完全には守られていませんでした。
反ユダヤ主義を外国人訪問者から隠す
オリンピック期間中、ヒトラーは反ユダヤ主義と拡大主義の政策を隠そうと画策し、外国人訪問者に良い印象を与えるために、反ユダヤ活動を一時的に緩和しました。
例えば、公衆の場へのユダヤ人の立ち入りを禁止する看板や、「ユダヤ人の店で買うな」などの表示が、オリンピック期間中には一時的に取り除かれました。
また、ユダヤ人が選手村の村長やドイツ選手団のリーダー、旗手として登用されるなど、一部のユダヤ人がオリンピックで重要なポストを与えられました。
ユダヤ人のオリンピアを迫害
さらにナチス政権は、オリンピックでユダヤ人が平等に扱われていると見せかけるために、ユダヤ人の女性選手マーガレット・ランバートをドイツに呼び戻しました。
彼女はドイツの走り高跳び記録保持者であり、メダル獲得が期待されていた選手でした。
彼女は、ナチスによってユダヤ人の運動場使用が制限されるなど逆境にも関わらず、オリンピック出場に向けてトレーニングを続けていました。
しかし、最終的にその努力は実ることはありませんdせいた。
ナチスは「あなたの走り高跳びの成績はオリンピックに出場するには十分ではない」という手紙を送り、彼女の出場を諦めさせました。
その上で、ナチスは世間に対しては「彼女は怪我をしたため、不出場となった」という偽の情報を発表しました。
ユダヤ人オリンピアを利用した後で強制収容所に送る
アテネオリンピックで優勝し、ドイツ・トゥルネンから制裁を受けたユダヤ人のアルフレート・フラトウ(A. Flatow)とグスタフ・フェリックス・フラトウ(G. F. Flatow)兄弟は、ベルリンオリンピックに賓客として招待されました。
兄弟はナチスのオリンピックの「栄誉」に与えられた後、強制収容所に送られそこで命を落としました。
ナイツドイツは大半のメダルを獲得
ベルリンオリンピックは、ナチスがアーリア人の優越性を世界に示すためのプロパガンダイベントであったため、ナチス・ドイツはその目的のために選手団をアーリア人だけで構成し、国を挙げてスポーツの強化に努めていました。
この徹底した取り組みが結果として、ドイツは89のメダルを獲得し、圧倒的な力を世界に見せつけました。
この数は、2位のアメリカが獲得した56個のメダルを大きく上回るものでした。
前回の1932年ロサンゼルス大会では、ドイツは20個のメダルを獲得し5位であったため、ベルリンオリンピックでの結果は、まさに劇的な躍進でした。
「迫害などなかった」世界中が騙されてしまった……。
1936年のベルリンオリンピックは、当時としては前例のない規模での国際的な報道イベントでした。
オリンピックは単なるスポーツイベントを超えて、国際的な報道合戦の舞台であり、世界中から新聞記者、写真家、ラジオ放送員などがベルリンに集まりました。
また、ベルリンオリンピックは、当時の国際政治においても重要な位置を占めていたため、前回よりもさらに多くの多くのメディアが訪れていました。
そして、記者たちはオリンピックの競技だけでなく、ナチス政権下のドイツの社会的、政治的状況についても報道を開始しました。
ユダヤ人差別の報道がほとんどない
それまで「1935年のニュルンベルク法でユダヤ人差別が公然化され、ナチスはひどい」という報道がされていましたが、オリンピック期間中の報道では、ユダヤ人差別に関する情報はほとんど流れませんでした。
これにより、世界の人々は、「現地からのニュースにはユダヤ人差別がない。どちらが正しいのだろう」「ナチスは悪いイメージが先行しているが、実際の状況はそんなにひどくないのではないか」と疑問を持つようになってしまいました。
当時の日本人もオリンピック関連のニュースを見て、「ナチス・ドイツは非常に統率のとれたすぐれた国で、ユダヤ人差別なんて全然ない」という印象を持つようになりました。
それを象徴するように、ベルリンオリンピック終了後にニューヨークタイムズは「ドイツ人、大会により再び各国の仲間に」「再び人間らしく」という内容の記事を掲載しています。
この記事は、当時の国際社会がドイツに対して柔軟な態度を取り始めたことを示すものであり、オリンピックを通じて国際関係の改善が期待されていたことが伺えます。
ナチスのプロパガンダが成功
このように、オリンピックを通じた、ナチスのプロパガンダは大きな成功を収め、平和で寛容なドイツのイメージを外国の観客、世界に印象づけることに成功しました。
しかし、もちろんこれは表向きの話であり、実際にはユダヤ人差別は裏で続いていました。
オリンピック大会後、ふたたびユダヤ人の迫害を強める
ベルリンオリンピックが終わると、ナチスはユダヤ人に対する迫害を再び強めました。
1937年から1938年にかけて、ドイツ政府はユダヤ人に財産の登録を強制し、ユダヤ人経営の企業を「アーリア化」する政策を推進しました。
この政策によって、ユダヤ人労働者や管理職は解雇され、ユダヤ人経営の企業の多くがナチスによる価格操作によって、破格の値段で非ユダヤ系のドイツ人に買い取られました。
これによって、多くのユダヤ人は貧困に追い込まれました。
また、ユダヤ人の医師は非ユダヤ人の患者を治療することが禁止され、ユダヤ人の弁護士は開業が制限されるなど、職業においても差別が強化されました。
このような迫害は、次第にエスカレートし、1938年11月の「水晶の夜(クリスタルナハト)」のユダヤ人商店やシナゴーグ(ユダヤ教の信者の集会所)の破壊、そして最終的にはホロコーストへと繋がっていきました。
このように、ベルリンオリンピックでの表向きの寛容さは、一時的なものであり、ナチスの反ユダヤ主義の本質は何も変わっておらず、悲劇的な結果を招いてしまったのです。
ヒトラーに記録映画を依頼された映画監督
女性監督レニ・リーフェンシュタールはヒトラーに依頼され、ベルリンオリンピックのた記録映画「オリンピア」を制作しました。
この映画では、ワーグナーの交響曲をバックに、世界初の聖火リレーが描かれており、独裁者ヒトラーが大群衆の歓呼に応えて立ち上がる姿も映し出されています。
第二次世界大戦後、リーフェンシュタールはヒトラーの指示で映画を制作したことで激しく糾弾され、連合国側に逮捕されました。
裁判では「ナチスに同調しているものの、戦争犯罪への責任があるとはいえない」という判決で釈放されました。
その後も、彼女は誹謗中傷から科学的・理性的な批判に至るまで、多くの批判を受けましたが戦い続け、最後までナチスと関わった事に関して罪や責任はないと主張しました。
第二次世界大戦でドイツは“聖火リレー”のルートを逆に侵攻
ベルリンオリンピックの聖火リレーは1936年7月20日、古代オリンピア遺跡のヘラ神殿前で採火され、ヨーロッパを横断してベルリンに向かいました。
このルートはバルカン半島を北上し、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してドイツのベルリンに至るルートでした。
日本でもドイツによる“聖火リレー”と戦争の因果関係が噂された
1939年に始まった第二次世界大戦で、ドイツはこのルートを逆にたどりながら侵攻していったという説があります。
しかし、この説は歴史学的に十分に検証されておらず、信憑性には疑問が残ります。
当時のナチス・ドイツは強大な力を持っており、特に聖火リレーを行わなくても、スパイ活動によって必要な情報を得られていたと考えられます。
ただし、この聖火リレーはヨーロッパ各国では、ナチスドイツの関連性を示す事例とし取り上げられることがあります。
偶然か必然か、この聖火リレーは、後にドイツが侵攻する国々を通るルートであったため、後世の人々がその関連性に興味を持ち、このような説が生まれたと考えられます。
オリンピックから人類史上最悪の犯罪「ホロコースト」へ
オリンピックが終わった後、ドイツは領土拡大政策を加速させ、ユダヤ人や他の「国家の敵」とされる人々への迫害を強めました。これにより、第二次世界大戦とホロコーストが引き起こされました。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ政権は、ユダヤ人、ロマ人、身体的および精神的障害者、同性愛者を迫害し、大量虐殺を実行しました。
その結果、ホロコーストでは、600万人以上のユダヤ人、20万人のロマ人、25万人の身体および精神障害者、1万5千の同性愛者が命を奪われました。
「最終的解決」
ナチスは、その犯罪の本質を隠すために、頻繁に遠回しの言葉で表現しました。ユダヤ人絶滅計画には、「最終的解決」という名前が用いられました。
ナチス・ドイツの指導者たちが「最終的解決」の実施を最終的に決定した時期は分かっていませんが、ユダヤ人へのジェノサイド(大量殺戮)は、10年間続いた厳しい差別策の極致でした。
ベルリンオリンピック開催当時、ユダヤ人やロマ人などへの「最終解決」はまだ決定されていなかったとされていますが、すでにその大会以前から人種優生学的な暴力が計画され、大会中および大会後も続けられました。
第二次世界大戦後に“聖火リレー”が問題視
1945年5月、ドイツの降伏によって1939年から始まった第二次世界大戦は終結し、ヨーロッパに平和が戻りました。
1936年のベルリンオリンピック以降、戦争により12年間中断していたオリンピックは、1948年に開催されたサンモリッツ冬季大会およびロンドン夏季大会によって再開されました。
これらの大会は、戦争の傷跡が残る中での開催となりましたが、オリンピック精神を再び蘇らせることができました。
スポーツに政治が関与するべきじゃない
戦前のベルリンオリンピックがナチス・ドイツの政治的プロパガンダに利用された反省から、スポーツの「政治」からの切り離しが1948年のロンドンオリンピックで重要なテーマとなりました。
開催地であるロンドンでは、戦争の被害がいまだに生々しく、世界各国からの協力により開かれた「友情のオリンピック」を実現することが求められました。
プロパガンダのために生まれた“聖火リレー”をどうするか
その中で、ナチスのプロパガンダとして始められた「聖火リレー」を実施するか否かについて、国際オリンピック委員会(IOC)委員の間で大きな議論が巻き起こりました。
一部の委員は、「危険な思想のもとに行われたイベントを継承するべきではない」と主張しました。一方で、「オリンピックを盛り上げるためにはよいイベントだ。目的を変えればいいのではないか」との意見もありました。
「平和のため」戦争を捨てるためのイベントとして継続!!
議論の結果、最終的に聖火リレーは平和と友好の象徴として再解釈され、「平和のため」のイベントとして存続させることが決定しました。
そして1948年ロンドンオリンピックの採火式では「戦争を捨てて平和へ」を意味するパフォーマンスが行われました。
その後、オリンピック憲章にも聖火リレーが定められ、平和と友好の象徴としての役割が明確になりました。
これにより、聖火リレーは現代のオリンピックにおいても大切な伝統として続くことなったのです。
“聖火”ではない?“聖火”と名付けているは日本だけ
1936年のベルリンオリンピックでは、ナチス政権がリレーを始めるにあたり、この行事に「聖火」という言葉を使用しました。
ゲッベルスらによって命名された「聖火リレー」は、ドイツメディアによって広められました。当時の狙いは、国民に祖国への自己犠牲精神を植え付け、戦争動員につなげることでした。
直訳すると「オリンピックの火」
オリンピック憲章の公用語である英語版では、聖火は「the Olympic flame(オリンピックの火)」と表現されています。フランス語版も同様で、「聖」に当たる言葉は含まれていません。
しかし、日本ではナチスが命名したとされる「聖火」という言葉が今も使われています。
日本で聖火と呼ばれ始めたのは
近代オリンピックにおいて、「聖火」と呼ばれるものが初めて登場した時期には諸説がありますが、1932年のロサンゼルスオリンピックでは、競技場の塔にともす灯台の火のようなものが紹介されています。
当時の朝日新聞では「オリムピツク塔のかがり火」と表現されていました。
そして、1936年8月に開催されたベルリンオリンピックでは、初めて聖火リレーが行われました。これにより、日本では開幕前から新聞などで「聖火」という言葉が広まりました。
また、1936年2月にドイツのガルミッシュパルテンキルヘンで開催された冬季オリンピックの開会式では、「オリムピツクトーチの聖火と山砲隊の祝砲」という表現とともに大きな写真が東京朝日新聞に掲載されました。
このような過去の事例から、日本では聖火リレーが始まる前にもすでに「聖火」という言葉が使われていたことがわかります。
1932年ロサンゼルス大会と1936年ベルリンオリンピックの間に「聖火」という言葉が使われ始めたのかは定かではありませんが、少なくともこの期間に「聖火」が定着したと考えられます。
読者の皆様へ
ベルリンオリンピックの「成功」の裏には、ホロコーストへ向かう道が形成されています。
私たちは、その事実を「何も知らなかった」として無視することはできません。
過去の歴史から学び、それらの過ちを繰り返さないために、私たちには認識し続ける責任があります。歴史の教訓を忘れず、未来の世代に伝えることが重要です。