あなたが知らなかった歴史「古代オリンピック」の知られざる秘密

古代オリンピックは、紀元前776年に始まったとされ、今日のオリンピックの原点となっています。しかし、その歴史と真実は、しばしば神話と現実の間で揺れ動いています。

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古代ギリシアのオリュンピアで、紀元前八世紀から実に千二百年もの間、四年に一回、一度も欠かさずに続けられたオリンピック。短距離走、長距離走、五種競技、格闘技、戦車競走などを迫力満点に再現し、一方で食肉市場、娼婦たち、芸術祭、賭けや賄賂など、競技場周辺の大騒ぎもつぶさに描く、熱狂と興奮の一冊。(「BOOK」データベースより)

Ancient Olympic Games

古代オリンピック

World Heritage Journeys/YouTube

今日、私たちはオリンピックを「スポーツの祭典」と呼び、4年に一度の国際的な大イベントとして開催しています。

オリンピックの始まりは1896年、クーベルタン男爵が提唱して開催されたものです。

しかし、オリンピックの歴史はさらに古く、約3000年前の古代ギリシアの時代にさかのぼります。

その古代の時代のオリンピックは「古代オリピック」と呼ばれ、対照的に私たちの知るオリンピックは「近代オリンピック」と呼ばれています。

古代ギリシアでは、「オリンピア祭」と呼ばれる祭典が開催されていました。これは、ゼウス神を讃える宗教的な祭典であり、その中でスポーツ競技も行われていました。

オリンピア祭は、紀元前776年から始まったとされており、これが古代オリンピックと呼ばれるものです。

紀元前の古代ギリシャ文明

紀元前5~4世紀の古代ギリシャ(ギリシア)は、多くの小さな独立国家である「ポリス」(都市国家)の集まりで構成されていました。

これらの都市国家は、それぞれが独自の政治体制、経済、文化、宗教を持っていましたが、言語と文化は共通しており同じ神々を崇めていました。

古代ギリシアの主要な都市国家には、アテナイ、スパルタ、コリントス、テーベなどがあります。それぞれの都市国家は互いに協力したり、対立したりしながら、政治、経済、文化の発展に寄与していました。

特に、古代ギリシア時代の二大勢力として知られてるのが、アテナイとスパルタです。

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「アテネ」「スパルタ」古代ギリシャの2つの大国

古代ギリシアが繁栄を極めていた時代には、スパルタとアテネという2つの都市国家が中心となって文明を発展させていました。

この二カ国は人類の歴史において重要な影響力を持っており、現代に受け継がれています。

民主主義の起源

アテネは、民主主義の発祥地として知られており、「ペリクレス時代(紀元前443年~ 429年)」において市民が直接政治に参加し、決定を下すという民主政治が発展しました。

また、哲学、文学、芸術、建築などの分野で顕著な成果を挙げており、哲学者プラトン、アリストテレス、詩人ソフォクレス、建築家イクチノスなど、多くの偉大な人物が登場しました。

軍事的な規律や戦術

スパルタは、軍事国家として名高く、厳格な訓練と規律を持っていたため、強力な軍隊を維持していました。スパルタの戦士は、その勇猛さや忠誠心で知られており、戦術や戦闘技術の面でも優れていました。

ローマ帝国に引き継がれ、現代の西洋文明にまで続く

これらの古代ギリシャ文明は、ローマ帝国によって引き継がれ、さらにその後のヨーロッパ文明や現代の西洋文明に大きな影響を与えました。

民主政治、哲学、文学、芸術、科学、法律など、古代ギリシャの遺産は今日の世界においても重要な基盤となっています。

日本はまだ縄文〜弥生時代

古代ギリシャ文明が繁栄した、約3000年前から紀元前1世紀にかけて、日本はまだ縄文時代(約1万年前から紀元前3世紀)から弥生時代(紀元前3世紀から紀元後3世紀)でした。

縄文時代の日本では、狩猟・採集が主な生業であり、土器や石器を使っていました。一方で、弥生時代に入ると稲作が伝わり、農業が盛んになり、集落や社会組織が発展しました。

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古代オリンピックの歴史は約1200年!!

古代オリンピックの歴史は約1200年にわたり、その間に293回も開催されました。第1回大会は紀元前776年に行われ、その後約1169年間、4年ごとに開催され続けました。

4年に1度の5日間だけの祭典

古代オリンピックは4年に一度、夏至の後の満月の日から始まり、5日間にわたって開催されていました。

4年に1度開催されていた理由には、いくつかの説がありますが、古代ギリシア人が太陰歴を使っていたことが最も有力な理由とされています。

太陰歴は、月の周期に基づく暦であり、古代ギリシア人にとって重要でした。太陽暦の8年が、太陰暦の8年と3カ月にほぼ等しいことから、8年という周期が重要だったとされます。

神官が暦を司り、8年ごとに祭典が開かれるようになったとされていますが、後に4年周期に変更されました。太陰暦では、49カ月と50カ月の間隔を交互にしてオリンピックが開催されていたと考えられています。

他にも、ギリシャ神話の女神アテナを祝福するために行われた起源説もあります。

また、アテナは金星を司る存在とされていることから、金星と地球が同じ位置で一直線上に並ぶ4年に1回の周期に合わせてオリンピックが開催されたという説も存在します。

4年間を1つの時間の単位「オリンピアース」

古代ギリシャでは、4年間を1つの時間の単位として「オリンピアード」と呼んでいました。オリンピアードの第1年目に競技祭、すなわちオリンピックが開催されていました。

この4年周期の単位が、近代のオリンピック競技大会の表記や開催周期に影響を与えています。

伝統を引き継ぐ近代オリンピック

近代のオリンピックも、古代ギリシャのオリンピアードの概念を引き継ぎ、4年ごとに開催されています。この伝統は、スポーツを通じて国際的な友好と平和を促進するというオリンピックの理念にもつながっています。

【四大競技祭】神様を祭るためのそれぞれの祭り

古代オリンピックは紀元前9世紀ごろに始まり、古代のギリシャを中心としたヘレニズム文化圏の宗教行事でした。この祭典は、全能の神ゼウスをはじめとする神々を讃えるための体育や芸術の競技祭でした。

ギリシャでは、オリンピア祭典競技のほかにも、以下の4大祭典競技が開催されていました。

  1. オリンピア競技祭:最高神ゼウスを祭る祭典で、古代オリンピックが開催されました。
  2. ネメア競技祭:ゼウスを祭る祭典で、ネメア競技祭が開催されました。
  3. ピュティア競技祭(デルフォイ競技祭):音楽や医学の神アポロンに捧げる祭典で、ピュティアン競技祭が開催されました。
  4. イストミア競技祭:海の神ポセイドンに捧げる祭典で、イストミア競技祭が開催されました。
角田大会の開催期間

これらの大会は、紀元前6世紀ごろにはすでに基本的な形式が確立されていたとされています。

各大会の開催間隔は以下

  1. オリンピア競技祭:4年に1度
  2. ネメア競技祭:2年に1度(オリンピア大祭の前後の年に開催)
  3. ピュティア競技祭:4年に1度(オリンピア大祭の2年後に開催)
  4. イストモス競技祭:2年に1度(オリンピア大祭の前後の年に開催)

これらの祭典は、各ポリス(都市国家)が独自の神々と祭典を持ち、地方祭として開催されていました。しかし、次第に広範な人々を引きつけるようになり、これらの競技祭が盛大なものとなりました。

優勝者にはオリーブの冠…だけ

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古代オリンピックでは、賞品は現代のような金銭的な価値があるものではなく、むしろ精神的な価値が重視されていました。

そのため、初期のオリンピック競技で勝者にはリンゴやブロンズ製の三脚が与えられました。その後、野生のオリーブの枝で編んだ王冠が与えられるようになりました。

このオリーブの王冠の始まりは、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスの伝説からきています。

英雄ヘラクレスの伝説から

この伝説では、ヘラクレスがアルカディア地方のアルテミス神殿にある、自らが植えた神聖なオリーブの木から枝を取り、オリンピック競技の勝者に贈ったといわれています。

オリーブの枝は平和の象徴とされており、これが勝者に与えられることで、その人が勇敢さ、力、そして優れた技能を持っていることを示していました。

また、オリーブの冠は、金銭的な価値ではなく、精神的な善や美、心身の発展と調和を重んじる古代ギリシャの価値観を反映していました。

この伝統は、古代オリンピックだけでなく、その後のオリンピック競技にも引き継がれ、現代のオリンピックでも、選手たちの偉業を称えるシンボルとして受け継がれています。

Hercules
今に繋がる冠の伝統

古代オリンピックでは、勝者にすぐに冠が与えられることはありません。それを受け取るためには一連の儀式をこなさなくてはいけませんでした。

まず、勝者の証として、彼らの頭と足にウールのリボンが結ばれました。

そして、入浴を済ませ、身なりを整えた勝者たちは、神聖なゼウス神殿の中でも最も神聖とされるゼウス像の前で名前が読み上げられました。その後、ようやく頭にオリーブの冠が載せられました。

表彰式が終わると、優勝者たちはゼウス神殿から出て、コーチや友人たちに担がれ、音楽に合わせて花のシャワーの中で行進しました。

このような祝賀の行進は、優勝者の名誉を讃えるためのものであり、当時の古代ギリシャ社会においては非常に重要な儀式とされていました。

この伝統は、現代のオリンピックでも、選手たちが表彰台に立ち、メダルが授与される様子として引き継がれています。

大会ごとに違う冠!?

古代ギリシャの競技祭では、勝利の冠もそれぞれの特徴があり、これによって大会の独自性が示されていました。

  1. オリンピア競技祭:勝利の栄冠としてオリーブの枝が使われました。オリーブは平和や勝利の象徴であり、この冠はゼウスの聖なるオリーブの木から採られたものでした。
  2. ネメア競技祭:勝利の冠に乾燥したパセリが使われていました。パセリはネメアの神殿で栽培されており、神聖なものとされていたためです。
  3. ピュティア競技祭:勝者の冠はローリエ(月桂樹)でできていました。ローリエはアポロンの聖なる木であり、知恵や勝利の象徴とされていました。ピュティア競技祭では、音楽競技も盛大に催されており、詩人や音楽家が集い競い合っていました。
  4. イストミア競技祭:勝者の冠としてセロリ(アップウィンナー)の枝が使われていました。セロリはイストミア地域で栽培されていた神聖な植物であり、この競技祭では海の神ポセイドンを讃えるために使われていたのです。

これらの冠は、古代ギリシアの競技祭が神々への献身と信仰の表れであり、各地域の神聖な植物を用いて勝者を讃えるという意味が込められていました。

冠だけじゃない!?優勝者は全てを手に入れることができた!!

実際には古代オリンピックで勝利したアスリートは、名声と共に、莫大な富も手に入れることができました。

彼らは故郷の都市で英雄として讃えられ、神々に近い存在として扱われました。オリンピックの勝者には、様々な特権が与えられました。

例えば、故郷の都市での税免除や、生涯の給与が支給されることもありました。これにより、彼らは一生働かなくても豊かな暮らしができるほどの富を得ることができました。

また、オリンピックの勝者は、世代を超えて名前が語り継がれ、歴史に名を刻むことができました。彼らの偉業は、詩や物語、芸術作品にも描かれ、古代ギリシャ文化に大きな影響を与えました。

エリス地方のオリンピアの祭典競技!これが古代オリンピックと言われるように!

古代ギリシャの「四大競技祭」の中で最も大規模で有名なものが、エリス地方のオリンピアで行われていた「オリンピア競技祭」でした。これが後に、古代オリンピックと呼ばれることになります。

Acropolis View of Temple of Olympian Zeus
ギリシャ神“ゼウス”を称えるため

4年に1度開催されるオリンピアでの競技祭は、絶対神ゼウスに捧げる宗教儀式であり、競技大会はその一環として行われました。

選手や審判の宣誓はゼウス神殿前に整列し、雷を操るゼウスの像の前で宣誓を行いました。イノシシ肉が捧げられ、選手たちはルールの遵守と不正の防止を誓っていました。

これは、競技の公正さと信仰心を示す重要な儀式でした。

雄牛100頭の生け贄の儀式

オリンピックの3日目には、ゼウスの祭壇で雄牛100頭の生け贄が行われました。

当時のギリシアでは、肉は高価であり、庶民にとって手に入りにくいものでした。そのため、生け贄の儀式は、多くの人々にとって肉を味わう貴重な機会となっており、ゼウスへの敬意や感謝の念が表されていたのです。

See U in History / Mythology/YouTube
「ヘラ神殿」ゼウスの妻ヘラ

ヘラ神殿は、古代ギリシャのペロポネソス半島にあるオリンピア遺跡の一部で、結婚と女性を守護する女神ヘラを祭っていました。ヘラは、全能の神ゼウスの妻であり、天界の女王でした。

そのため、ヘラを祭る神殿は非常に重要であり、オリンピアにおいても特別な位置を占めていました。

ヘラ神殿は、古代ギリシャ神殿建築の中でも古く、紀元前6世紀頃に建てられたドーリア様式の神殿で、低層の柱廊が特徴的です。

ヘラ神殿は、オリンピア遺跡全体の中心的な役割を果たしており、古代オリンピック時代には、競技者や観客がヘラに祈りを捧げるために訪れる場所でした。

そのため、最も重要な遺跡のひとつとされ、現在でもヘラ神殿はオリンピア遺跡の主要な観光スポットのひとつとして、ギリシャ神話や古代オリンピックに興味を持つ観光客にとっての聖地となっています。

Italy-2276 - Temple of Hera

初めの頃の競技はたった1つ「競走(スタディオン走)」

古代オリンピックの第1回大会から第13回大会までの間、実施されていた競技は1種目しかありませんでした。それが「競走(スタディオン走)」です。

この競走は、オリンピアに築かれた「スタディオン」という競技場で行われ、スタート地点から祭壇まで誰が一番早くゴールできるか、というシンプルな競技でした。

競走では、1スタディオンのコースを走って競い合っていました。この1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当する約191メートルで、ヘラクレスがこの距離を実測したという伝説が残っています。

選手たちは競技中に身体を引っ張ったり、故意にぶつかって倒したりと、勝利のために当たり前の様に妨害行為を働いていました。

現在の競技では考えられないような行為ですが、古代オリンピックの競争がいかに厳しいものだったのかが、これによって伝わってきます。

Delphi, The Stadium
大会を重ねるごとに次第に種目が増加

初めは1スタディオンの短距離走だけで行われていましたが、次第に競技種目が増えていきました。

その結果、紀元前5世紀までに以下の様な様々な競技が行われるようになりました。

  1. 短距離走:1スタディオン(約190メートル)の競走
  2. 中距離走:2スタディオン(約380メートル)またはドロメウス(約2,400メートル)の競走
  3. 武装競走(ホプリトデロメウス):武装して行う中距離走
  4. 四頭立て戦車競走:戦車を使った競走で、非常に人気がありました
  5. パンクラティオン:相手を倒す格闘技
  6. ボクシング:拳で戦う格闘技
  7. 古代五種競技(ペンタスロン):やり投げ、円盤投げ、幅跳び、短距離走、レスリングの5種目から成る競技

これらの競技は、古代オリンピックで行われていた主要な種目であり、観客たちにも楽しまれていました。

Discus Thrower

五種競技「ペンタスロン」

この中で特に注目される競技が古代五種競技(ペンタスロン)です。この競技では以下の5つの競技を戦い抜くことが求められました。

  1. やり投げ(ジャベリン):選手はやりを投げて、できるだけ遠くに飛ばすことを競います。
  2. 円盤投げ(ディスカス):選手は円盤状の重い石を投げて、できるだけ遠くに飛ばすことを競います。
  3. 幅跳び(ロングジャンプ):選手は助走してから飛び跳ね、できるだけ遠くまで跳ぶことを競います。古代ギリシャでは、選手は飛び跳ねる際に持っていたウェイト(ハルテリス)を使って飛距離を伸ばすことが許されていました。
  4. 短距離走(スプリント):選手は1スタディオン(約190メートル)の距離をできるだけ速く走ることを競います。
  5. レスリング(グレコローマンスタイル):選手は相手を倒すことを目指し、対戦相手を3回地面に押し付けるか、投げ飛ばすことで勝利します。
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ペンタスロンの由来は「賞品をかけて競う者」

Pentathlon(ペンタスロン)の”Penta(ペンタ)”はギリシャ語で「5」という意味を持ち、英語でも “pentagon(ペンタゴン)”つまり五角形などという言葉に使われています。

また、”athlon(アスロン)” は「競技」を意味する言葉で、語源であるギリシア語の “athlētēs(アスレーテース)” は、「賞品(athlon)をかけて競う者」を意味しています。

これらが現代で私たちがよく耳にする、athlete(アスリート)の由来になっています。

お金と競技者

実は、オリンピックの勝利者に送られるのは、正式にはオリーブの冠だけとなっていますが、現実には賞品、つまり賞金(お金)が出ていたのです。

競技祭では、選手が賞金を目指して選手たちが競い合っており、賞金があることで、選手たちはより努力し、競技のレベルが高まると考えられていました。

アテナイでは、オリンピックの優勝者に500ドラクマという大金が報奨金として与えられるという法律がありました。

これは、当時のギリシャ社会において非常に大きな額であり、優勝者に対する名誉と豊かさを示すものでした。

このような報奨金制度は、競技者たちがより一層努力して競技に打ち込むきっかけとなり、競技の発展に寄与していました。

命懸けの競技「パンクラティオン」

Naked wrestlers in Knole Park orangery

「パンクラティオン」という格闘技の名前である、ギリシャ語で「Pan(パン)」は「全て」を意味し、「Kration(クラティオン)」は「力強い」を意味しています。

つまり、パンクラティオンは「全ての力強さ」を持って戦う競技という意味が込められていました。

パンクラティオンは、現代の格闘競技では考えられないほど非常に過酷なもので、競技は素手で行われ、目をえぐる、噛むなどの行為を除き、あらゆる攻撃が許されていました。

この競技は、どちらかが負けを認めるまで続くため、試合が長引くことが多く、選手たちは非常に危険な状況にさらされていました。

日没までに勝者が決まらなかった場合、サドンデス方式が採用されます。

これはさらに過酷なもので、選手たちはどちかかがら倒れるまで顔面を交互に殴り合います。避けることは絶対に許されず、勝敗が決するまで続きました。

厳しい罰則も!?古代オリンピックの規則・ルール

古代オリンピックにも、今のオリンピックと同じ様に競技に関する規則やルールが存在しました。

参加者は事前訓練の義務

古代オリンピックに参加する選手は、競技が始まる10ヶ月前から出身地の都市で訓練を行い、さらに1ヶ月前にはオリンピアかエリスで訓練を行うことが義務付けられていました。

これは、競技者が十分な準備を行い、最高のパフォーマンスを発揮できるようにするための措置でした。

また、競技開催日には、参加者はゼウス神に対して訓練を行ったことを宣誓しなければなりませんでした。

この宣誓は、競技者が神々に対する敬意を示し、自分が競技の精神に従って行動していることを証明するためのものでした。

強烈すぎる古代のトレーニングと伝説の選手「ミロ」

古代オリンピックの競技者は、自分たちの体力や筋力を向上させるために、様々な食事やトレーニング方法を取り入れていました。

その中でも、雄牛の血や睾丸は栄養価が高いとされ、筋力増強や持久力向上に役立つと考えられ、食べられていました。

古代オリンピックのレスリング競技で6連覇を果たしたとされるクロトンの伝説的な選手ミロは、その驚異的な食事やトレーニング方法で多くの人々に知られています。

ミロは必要な栄養素を確保し、体力を維持するため、1日9kgの肉、9kgのパン、8.5リットルのワインを摂取していたと伝えられています。

また、子牛を肩に担いで筋力トレーニングを行っていたというエピソードもあり、どれだけ努力して自分の体を鍛え上げていたかを物語っています。

不正を防ぐために競技者は全員全裸

古代ギリシャでは、裸体は美しさと純粋さの象徴であり、人間の最高の状態とされていました。

そのため、オリンピック競技祭で競技者は全裸で出場し、観戦者も全裸で観戦することが求められました。裸体で競技を行うことは、公正さや平等性を保つための措置でもありました。

しかし、古代オリンピックでも不正行為やドーピングが存在しました。当時のドーピングとしては、興奮作用のある牛の血を飲むことが知られていました。

全裸の体でオリーブオイルを塗りたくって競技

この全裸説については異論もあり、実際には下帯をつけていたというものもあります。その中で、確実にわかっているのは選手は裸体に油を塗って競技をしていたということです。

この油は主にオリーブオイルで、競技者の体をテカテカに光らせる効果がありました。

オリーブオイルを塗る目的はいくつかあります。まず、油が皮膚を保護し、日焼けや熱からの損傷を防ぐ効果がありました。

また、油を塗ることで筋肉が際立ち、美しい身体を強調することができ、古代ギリシャの美の理念や競技精神も表していました。

レスリングなどの競技では、油を塗ることで対戦相手が自分をつかみにくくなり、技術的なアドバンテージを得ることもできました。

順位は1位だけ!

古代オリンピックでは、競技の目的が“最も優れた選手”を見つけることに重きが置かれており、主に優勝者はたった1人の選手が選ばれていました。そのため、2位や3位といった順位は認められていませんでした。。

当時の競技は、祭典として勝利を神々に捧げることが重要であり、名誉や栄光を得ることが最大の目的であったため、優勝者以外の順位は重視されなかったのです。

競技者の精神面も重要視「カロカガティア」の概念

カロカガティア(kalokagathia)は、古代ギリシャの理想像であり、美しい心と体を持つことを目指す精神を表しています。

この理念は、古代オリンピックにおいて重要な価値観であり、競技者たちは身体的な優れたパフォーマンスだけでなく、道徳的な高潔さも追求していました。

古代オリンピックが進化し、競技者がプロ化し、ショー化されるようになってからも、カロカガティアは競技精神の理想像として重要な位置を占め続けていました。

競技者たちは、自分たちの能力やスキルを向上させるだけでなく、人間としての成長や向上心を持ち続けることが求められていたのです。

参加資格は犯罪歴のない「成人のギリシャ人男性」

古代オリンピックでは、すべての参加者に厳格な資格条件が適用されていました。

参加者はギリシャの自由市民であることが求められ、犯罪者や神を冒涜した者、信仰心のない者、競技や休戦の規則を破ったことがある者は参加が認められませんでした。

女性や奴隷は参加・観戦が禁止

女性や奴隷は、参加や観戦も禁止されていました。

奴隷は自由市民の約3倍もの人数がいましたが、彼らの参加が認められなかったことは、古代ギリシャ社会の厳格な身分制度と男尊女卑の価値観を反映しています。

【例外】若い女性や未婚女性は観戦が許された

ただし、若い女性や未婚の女性は観戦することが許されていました。これは、オリンピックの優勝者が社会的地位が高く、成功した選手として称賛されていたためです。

彼らは、優れた遺伝子や優秀な子孫を残すと信じられていたので、父親たちは優勝者と結婚させたい一心で娘を観戦に連れて来ていました。

【例外】実は戦車競走だけは例外!女性の優勝者も誕生!!!

戦車競走は、古代オリンピックの中でも非常に重要な競技した。その理由は、馬や戦車を持つことが大富豪であることを示すステータスシンボルであり、そのような富裕層だけが戦車競走に参加できたからです。

そのため、プロの選手たちは報酬をもらって馬や戦車を操り、そのオーナーが賞金を獲得していました。

戦車競走において、騎手は丈の長い白いチュニックを着用していたことが特徴で、他の競技とは異なり、裸で競技を行わなかったとされています。

また、この競技には女性の参加も許されており、当時の女性たちにとってオリンピックのタイトルを獲得する唯一のチャンスでもありました。

最も有名な女性戦車競走選手は、前396年と前394年に4頭立て戦車競走で優勝したスパルタの女性キュニスカで、優勝した後、オリンピアに大小2つの青銅像を建てたと伝えられています。

【例外】女性専用の競技大会も開催!

男性専用のような古代オリンピックですが、実が女性にも専用の競技祭が存在していました。それが「ヘライア」と呼ばれる競技祭です。

この競技祭は、ゼウスの妻である女神ヘラに捧げられ、オリンピアで行われながらも、オリンピックとは別に開催されていました。

競技祭に参加する女性選手たちは、丈の短いチュニックを着用し、女性の戦士部族「アマゾーン」を讃えるために右胸をはだけていました。

主な競技は短距離走で、女性たちが力と美しさを競い合っていました。

ただし、この競技祭は規模や知名度において、オリンピックに比べるとはるかに小さかったとされています。

不正には厳しい罰則!汚名が人類史に刻まれる

古代オリンピックでは、エリス人審判団によって管理運営され、厳格な規則が設けられていました。選手が規則を破った場合、資格剥奪、公衆面前での鞭打ち、罰金などの処罰が科されました。

競技の規則も定められており、格闘競技で相手を殺すと判定負けとなり罰金が科せられました。また、目の中に指を突っ込むことや股間を蹴り上げることも禁じられていました。

戦う相手を買収しようとした選手も少なくなかったといわれています。

選手は不正が発覚すると罰金を取られましたが、その罰金は不正者の名を刻んだ神像を造るのに使われました。これにより、不名誉の証が後世にまで残ることになりました。

実際に、不正を行った者の名前は、エイドスの壁という石刻に名前が刻まれたまれ、2000年以上経った現代にまで伝わっています。

スポーツだけじゃなく芸術も競い合っていた

古代オリンピックは、競技が良くフォーカスされますが、あくまで宗教的な祭典であり、さまざまな宗教的な儀式が行われていました。

これには、神々を喜ばせるために音楽の演奏や彫刻などの作品が奉納されました。

この期間、数多くの芸術家がオリンピアに集まり、裸でスポーツに励む若者たちを作品の対象としていました。神殿も当時の一級の建築家が作成し、芸術・文化との関連が強かったのです。

これらの芸術競技は主に音楽競技(笛などの楽器演奏)と詩歌競技(朗読)で構成されていました。

音楽競技では、参加者が楽器を演奏し、その音色が遠くまで鮮明に聞こえるかどうかを競い合いました。詩歌競技では、詩や歌を朗読し、その技量を競っていました。

この芸術競技で優勝すると、運動競技と同様に野生の葉冠が賞品として与えられました。

オリンピア競技祭では行われていなかった

古代オリンピックと呼ばれるオリンピア競技祭では芸術競技は行われていなかったとされています。

これに対して、デルポイ、ネメア、イストミアなどの競技祭では、芸術競技が行われていたことがわかっています。

そんな中で売春も蔓延

このように、古代オリンピックは、競技祭だけでなく、宗教的、文化的、政治的、経済的なイベントとしても非常に重要でした。そのため、多くの人々がオリンピアに集まり、さまざまな商売が行われました。

その中の一つが売春であり、地中海沿岸から売春婦が集められました。

オリンピック開催期間中、売春婦は大勢の観客や競技者にサービスを提供し、短期間で大金を稼ぐことができました。

一部の報告によれば、売春婦はオリンピックの5日間だけで1年分に相当する金額を稼いだとされています。しかし、当時の社会では、売春は一般的に認められた職業であり、それ自体が特別なタブーではありませんでした。

【伝説】参加した伝説の英雄達!

古代オリンピックでは、数々の優れた競技者が活躍しました。その中には、複数の祭典競技で優勝した者もいました。

以下は、いくつかの有名な古代オリンピックの競技者です。

  1. レオニダス:競走の選手で、4回連続で優勝しました。
  2. ピロムプロトス:五種競技の選手で、複数回優勝しています。
  3. キオーニス:競走の選手で、複数回優勝しました。
  4. ヒッポステーネス:レスリングの選手で、3回連続で優勝しました。
  5. ミローン:レスリングの選手で、6回連続で優勝しました。
  6. ティーサンドロス:ボクシングの選手で、複数回優勝しました。
  7. ドリエウス:パンクラチオンの選手で、複数回優勝しました。
  8. テアゲネス:レスリングの選手で、オリンピックで3回、ピティア祭で5回、ネメア祭で5回、イストミア祭で7回優勝しました。
  9. エウテューメネース:レスリングの選手で、複数回優勝しました。
  10. カイローン:レスリングの選手で、複数回優勝しました。

また、古代オリンピックは、ギリシャ文化の中心的なイベントであったため、多くの著名人が観戦に訪れました。

その中には、哲学者のピタゴラス、歴史家のヘロドトスやトゥキディデス、哲学者のプラトン、そしてキニク派哲学者のディオゲネスなどがいました。

彼らは、競技を観戦するだけでなく、その後の文献にもオリンピックについての記録を残しています。

This is Sparta_King Leonidas Statue_Sparti

【伝説】オリンピックを見るために人々は何日も歩き続けた!

古代オリンピックは、古代ギリシャ文化の最も重要なイベントの1つであり、多くの人々がこの祭典に参加するために喜んで果てしない長距離の旅を行いました。

アテネからオリンピアまでは約330kmあり、この当時の交通手段や道路状況を考慮すると、非常に遠い距離でした。

しかし、観客たちは2週間をかけて悪路を歩き、簡易な宿泊所やテントでの宿泊、あるいは野宿をしながら聖地を目指しました。哲学者プラトンをはじめとする著名な人物たちも、この旅を行いました。

これらの人々がこうした困難な旅を敢行した目的は、「至上の戦い」、つまり古代オリンピックの競技を目撃し、その栄光に立ち会うことでした。

女性、子供、奴隷は競技に参加することができず、一部の競技では観戦すらも許されなかったものの、推定20万人の観客が集まったといわれています。

【伝説】オリンピックをするためなら戦争も中断!聖なる停戦「エケケイリア」

「オリンピック停戦(聖なる停戦)」は、古代オリンピック競技祭が開催される期間中、ギリシャ全土で戦争や紛争を中止することを定めた制度で、紀元前8世紀に制定されました。

ギリシャ語でエケケイリア(Ekecheiria)と言い、これは「手をつなぐ」という意味を持っています。

当初、オリンピック停戦は競技祭をはさんで前後1か月間だったのですが、イタリアや小アジアのギリシャ植民地などから観客が遠くまで集まるようになり、前後2か月に延長されました。

この聖なる休戦は、古代オリンピックの第一回大会から実施されていたとされています。

オリンピック停戦は、競技祭の平和的な開催を保証するための重要な制度であり、戦争や紛争が続く古代ギリシャの時代において、神聖な競技祭への尊敬と平和の象徴として機能していました。

戦士が足りない…。オリンピック期間中にペルシア軍が侵攻

オリンピック停戦は、古代ギリシアの戦争が激化する中でも厳守されていました。

紀元前480年、オリンピア大祭が開催され停戦がなされている中で、アケメネス朝ペルシアがギリシャに侵攻していきました。

このギリシャ全土が滅亡する危機の中でも、ギリシャ各国はオリンピック停戦に従い、神事を優先して派兵を控えました。

レオニダス王率いるスパルタ軍が足止め!その数たったの300人

その結果、巨大なペルシア軍と対峙することになったは、スパルタ王レオニダス率いるわずか300人の精鋭だけでした。

この戦いは、後にテルモピレーの戦いとして知られるようになり、映画『300<スリーハンドレッド>』でも描かれています。

兵士がいない理由にペルシア軍がドン引き

戦いの後、勝利に酔うペルシア軍の陣地に、ギリシア軍を脱走したアルカディア人が引き出されてきました。

ペルシア軍の将校が脱走兵に向かって「今、ギリシャ軍は何をしているのだ?」と尋ねたところ、「オリンピア祭を祝っているところで、競技祭を開いている」と答えました。

これに驚いた将校がさらに、「その競技祭に勝つと、どんな賞品がもらえるのか?」と尋ねると、アルカディア人は「オリーブの冠が与えられるだけだ」と答えたため、将校はドン引きしたと伝えられています。

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【伝説】古代オリンピックの聖火は神話の炎!?

古代ギリシャでは、ヘスティアという女神が火を司る神として信仰されていました。ヘスティアは家庭と炉を守護する神であり、その存在は家族の安寧や幸福を象徴していました。

神殿や市役所などに設けられた炉には、ヘスティアが宿ると信じられており、火が絶えず燃え続けることで、都市の平和と幸福が保たれるとされていました。

火が消えないように見張る役人や巫女が配置されていたこともあり、彼らは炉の火を絶やさないように世話をしていました。

神話と現実が混ざり合う世界

古代オリンピックでは、聖火が灯されることが重要な役割を果たしていました。聖火は、ゼウスやヘラなどの神々への敬意と感謝の意を示すものでした。

火を扱うことができるようになったのは、プロメテウスがゼウスから火を盗んで人間に与えたというギリシャ神話によるとされています。

古代ギリシャでは、神話と現実の境界が曖昧で、神話の物語が現実の世界と密接に関係していました。神話は、人々の生活や文化に大きな影響を与え、彼らの価値観や信仰心を形作っていたのです。

Olympics/YouTube

【伝説】神話の時代から!?諸説あるオリンピックの起源

古代オリンピック起源には以下のようにさざまな説があります。

  1. 神話の説:ヘラクレスがオリンピックを創設したという伝説。ヘラクレスがオリンピアでゼウスに捧げる競技祭を開催したとされる。
  2. 宗教的起源説:ゼウスを讃えるための祭りが競技祭として発展した。古代ギリシャの神々を讃え、宗教的な意味合いが強かった。
  3. アキレウス説:ホメロスの叙事詩『イリアス』において、アキレウスはトロイア戦争で戦死した親友パトロクロスを弔うために、スポーツ競技を開催した。
  4. イフィトス説:紀元前8世紀、疫病の蔓延に悩んだオリンピア地方の王イフィトスがアポロンの神託を受け、ポリス間の争いを止めるために競技祭を創設した。
  5. 平和と統一の象徴:当時のギリシャ都市国家間の争いを一時的に休止し、平和と統一を促進するために開催された競技祭。

このように多くの説が存在する中で、最も現実的で有力な説が「イフィトス説」です。

「イフィトス説」起源説の中で、最も有力視

イフィトス説は、紀元前8世紀に疫病の蔓延に悩んでいたエリス地方の王イフィトスが、アポロンの神託を受けて開催した競技祭が起源であるというものです。

当時のギリシャは、多くの小さな国家(ポリス)に分かれており、それぞれが頻繁に戦争を繰り広げていました。

このような状況の中で、疫病が流行し、苦しむ人々を救いたいと考えたエリス地方の王イフィトスは、アポロン神の助けを求めるため、デルフォイの神殿に使者を送りました。

アポロンからの神託は、「戦争をやめ、喜びの年の祭典でともに友情を育むべし」というものでした。この神託を受けたイフィトス王は、古代に存在したオリンピア祭を復活させることを決めました。

農業の儀式が競技祭に!

イフィトス王はスパルタ王らと条約を結び、オリンピアの不可侵と祭典期間中の休戦を実現しました。そして、農閑期の8月にその儀式が始まりました。

当初は農事に関わる宗教的な儀式が行われていましたが、次第にオリンピア競技祭が中心となり、ギリシャ全土の都市国家間の友好関係を築く場となっていきました。

夏の暑い時期に開催

この儀式は、夏至から2回目の満月に合わせて開催され、夏の暑い時期に行われました。この時期に選ばれた理由は、いくつかの要因があります。

  1. ギリシャの地では、冬に降雨が集中し、夏のこの時期にはほとんど雨が降らないため、競技に適した天候であった。
  2. 麦の収穫と脱穀が終わり、ぶどうの収穫前という農閑期であったため、参加者や観客が大会に集中できる時期であった。
  3. 7月の酷暑期から外れており、暑さが少し和らぎ始めるため、競技者にとっては比較的適した気候であった。
  4. 地中海での航海にもっとも適した季節であり、各都市国家から参加者や観客が容易に移動できた。

これらの理由から、オリンピックは夏の暑い時期に開催されることになり、やがて古代ギリシャの人々にとって重要な祭典となりました。

小国のエリスはこの祭典によってギリシャで重要な役割を果たしていく

エリスは、アテナイやスパルタといった大国に比べて小さく、発展が遅れていた国でしたが、その政治的中立性が、オリンピア祭の威信を高める要因となりました。

大国の意向に左右されず、エリスはオリンピア祭を開催し、ギリシャ全土から参加者を招待することができました。

エリスは、祭礼使節を各都市国家に派遣し、招待者を募りました。また、ゼウスをはじめとする神々に対する大犠牲式や、招待者らへの供応の準備も行わなければなりませんでした。

これは大変な負担でしたが、各都市国家はエリスに返礼の品や神々への奉納の品を持って大会に参加しました。そのため、実際にエリスが負担したコストは、予想よりも軽かったといわれています。

最盛期オリンピックが5日間へ……。でもしだいに腐敗が進行

第22回大会(前692年)まで、オリンピア祭の期間は1日でしたが、前5世紀の中盤、ギリシアがペルシアに勝利し、その最盛期を迎えると、オリンピア祭は盛大なものとなり、会期が5日間に延長されました。

5日間の間には、選手の宣誓式、祭儀、優勝者の招宴などが行われ、そのうち1日は必ず満月に合わせられていました。

オリンピア祭が豪華なものとなると、政治家、軍人、文人たちがそれを宣伝の場とし、参加する各都市はその名誉のために、不正手段を使ってでも勝利を追求し始めました。

有望な選手の引き抜きや、審判(最初は1人でしたが、最盛期には12人に増えました)や相手選手の買収など、オリンピア祭の内部は腐敗しきっていたといわれています。

ローマに征服されオリンピックは国際的な大会に変貌

その後、ギリシャは国力を増していたローマに征服され、オリンピアの競技大祭にはローマ人たちも参加するようになりました。

もともと宗教行事であったオリンピアの競技祭は、ローマ帝国の支配下にある地域から競技者が集まる国際的な競技大会へと変化しました。

ローマ帝国が拡大し、多くの異なる文化や民族が統治下に置かれるにつれ、オリンピアの競技大祭はさらに多様性が増し、多くの人々によって楽しまれるようになりました。

ただのスポーツイベントに変容

また、オリンピアの神域は、ローマ帝国の観光地としての性格が強まり、多くの人々が訪れるようになりました。こうして、オリンピア競技祭は宗教的な祭典からスポーツイベントへと変容していきます。

大会の規模が拡大する中でさらに腐敗が加速

オリンピア競技祭の規模が大きくなるにつれ、徐々に競技の神聖さは失われていきました。地位や名声を求める人々が賭けの対象になり、裏では八百長や不正行為が増加しました。

古代オリンピックでは、優勝者に対する国家報奨金が存在し、選手たちが地位や名声を求めて競技に参加していました。

しかし、この報奨金制度がここで競技祭の腐敗を招く要因となってしまいました。今度は選手たち自身が勝利のために賄賂を送り、八百長によって勝利するなど、競技の純粋さが失われていったのです。

皇帝ネロによる私物化

ローマ帝国第5代皇帝ネロの私物化も問題になりました。ネロはオリンピックに参加し、音楽競技で優勝しましたが、その勝利は権力によるものであり、公平な競技とはいえませんでした。

この行為は、古代オリンピックが政治や権力の道具として利用されることを示し、大会の神聖さが失われる大きな要因となりました。

キリスト教の拡大と古代オリンピックの終焉

そしてキリスト教が拡大していく中で、古代オリンピックは終焉を迎えることになります。

紀元前390年、東ローマ皇帝テオドシウス1世のテサロニケで大量虐殺が、ローマにおけるキリスト教の国教化に大きな影響を与えました。

大量虐殺に怒ったミラノ司教アンブロシウスは、皇帝に対してその罪を懺悔するよう求め、聖餐式(キリスト教の重要な儀式)を実施すること許さないと宣言しました。

これ困った、テオドシウス1世はアンブロシウスの言葉に従い、ミラノの教会で懺悔することを選択しました。この出来事以降、テオドシウス1世はキリスト教の影響を強く受けるようになりました。

そして、テオドシウス1世は392年に「異教徒禁止令」を発布。異教の神々への犠牲や神殿への参拝が禁止されるようになると、異教の祭典である古代オリンピックに対する態度も急変しました。

古代オリンピックは、ゼウスや他の神々を讃える宗教的な祭典であったため、このような禁令によって大会の開催が困難になったのです。

その結果、394年に千年以上続いた古代オリンピックは第293回大会をもって終焉を迎え、聖火も消えてしまいました。

Athens
オリンピックは遥か昔に存在したと言われる伝説の存在になった……。

古代オリンピックの会場であった、オリンピア地方のスタジアムやゼウス神殿などの遺跡は、キリスト教徒による異教の神殿破壊の命令や、オリンピア地方を襲った大地震によって大きなダメージを受けました。

これらの災厄により、かつて栄えた施設は荒廃し、その後の度重なる洪水によって完全に土の底埋もれてしまいました。

これにより、古代オリンピックの制度や姿は、人類の記憶から次第に消え去っていきました。

しかし、その遺跡は後の時代に発掘され、古代ギリシャ文化や古代オリンピックの研究に貴重な資料となります。

悠久の時を超えて……。伝説のオリンピア遺跡が発見!!

1766年にイギリス人のチャンドラー率いる調査団によって、オリンピア遺跡の一部が発見されると、古代オリンピックへの関心が急激に高まりました。

当時、古代オリンピックは空想のおとぎ話とされていたため、実際に遺跡が発見されたことは一大ニュースとなり、ヨーロッパ中で一気に話題となりました。

その後、1829年にフランス発掘隊がゼウス神殿の一部を、そして1875年から1881年にかけてドイツ発掘隊がオリンピア聖域の中心部を発掘。

これらの発掘成果は、1878年のパリ万博において「オリンピア遺跡」の展示が行われ、古代オリンピックの情景が多くの人々に広まりました

オリンピアの所在が19世紀初めまで不明であった理由は、地名がスラブ語に変わったことが大きな要因でした。

スラブ人がこの地域に入植し、言語が変わることで、古代オリンピックの聖地オリンピアの正確な位置が長らく失われていたのです。

しかし、19世紀の発掘調査によりオリンピアの遺跡が次々と発見され、古代オリンピックに関する知識が広まりました。

これによって、オリンピアの神聖な地が再び世界中の人々の心に蘇ったのです。

The Birth of the Olympic Games
失われてから約1500年!!ピエール・ド・クーベルタン男爵の手で復活!!

この失われた古代オリンピックは、ピエール・ド・クーベルタン男爵の手によってついに蘇ることになります。

フランスの教育家のクーベルタン男爵は、古代オリンピックの精神を復活させることが、国際理解や友好関係の強化につながり、結果として世界平和に貢献すると考えました。

この思想から、クーベルタン男爵は近代オリンピックの創設に向けて尽力しました。

その後、クーベルタン男爵は、国際オリンピック委員会(IOC)を設立し、1894年に第1回近代オリンピックが開催されることが決定。

そして1896年、ついにアテネの地で第1回近代オリンピックが開催されました。

これは古代オリンピックの休止期を経て、約1500年ぶりにオリンピックの復活になりました。

世界を一つにするオリンピックにつながる

そして現代、オリンピックは、クーベルタンの精神を受け継ぎ、世界中の選手たちが競技を通じて友好関係を築いています。

読者の皆様へ

古代ギリシャのオリンピアの地で火が灯され、その火は暗い地底いの中で時を超え、今日のオリンピックの聖火として再び輝き続けています。

古代オリンピックの始まりから数千年が経過した現在、その精神は変わらず、スポーツを通じて国境を越えた友情と理解を育んでるのです。

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古代ギリシアのオリュンピアで、紀元前八世紀から実に千二百年もの間、四年に一回、一度も欠かさずに続けられたオリンピック。短距離走、長距離走、五種競技、格闘技、戦車競走などを迫力満点に再現し、一方で食肉市場、娼婦たち、芸術祭、賭けや賄賂など、競技場周辺の大騒ぎもつぶさに描く、熱狂と興奮の一冊。(「BOOK」データベースより)

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