【ウクライナ危機(9)】衝撃の真実!「ユーロ・マイダン革命」自由への壮絶な闘いの舞台裏

ウクライナの政治情勢が激変し、混乱が広がる中、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領の警備態勢の縮小から起こったデモが彼の失脚へとつながりました。デモ参加者による大統領府と行政機関の占拠、首都の支配権移行、そして彼の東部都市ハリコフへの逃避行。

この記事では、クーデターと非難されたヤヌコビッチ大統領の行動や、ティモシェンコ元首相の涙と感動の瞬間、新政権の動き、そしてクリミア半島の不穏な動きまでを詳しく解説します。衝撃の事実が明らかになるなか、新政権が取った措置や国際的な反応も紹介。ウクライナ政変の舞台裏に迫る、衝撃の真実が詰まった記事です。

【ウクライナ危機(8)】2010年大統領選と連合協定!ウクライナ危機下のEUとロシアの対立
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今や危機に瀕した民主主義、まだ可能性はあるのか?過去をたどり未来への答えを導く!(「BOOK」データベースより)

Ukraine’s Euromaidan Revolution

「ユーロ・マイダン革命」ヨーロッパが震撼した衝撃の広場闘争

Netflix Japan/YouTube

「ユーロ・マイダン革命」、別名「尊厳の革命」ともいわれています。「ユーロ・マイダン」とは、「ユーロ」が欧州を象徴し、「マイダン」がウクライナ語で広場を表す言葉で、これらを組み合わせた造語となります。このユーロマイダンはキーウでの反政府デモの象徴であり、この事件はヨーロッパを中心に連日のように報道の主題となりました。

ウクライナが直面した3つの危機の衝撃

ウクライナ危機は、ユーロマイダン危機、クリミア危機、そしてウクライナ東部危機の三つの段階から成り立っています。これらの危機の起点となるユーロマイダン革命は、当時のヤヌコヴィッチ政権に対する反政府デモが触発したものです。その根底に何があったのか、その起源と要因についてまずは解明していきましょう。

EU連合協定の延期がユーロ・マイダン革命の火種となる

当初、親ロシア派として知られるヤヌコヴィッチ政権は、EUが主導する東方パートナーシップ(EaP)に特に深い関心を示していませんでした。しかし、2013年の夏に入ると事情が変わり、EaPの一環としてのEUとの連合協定の締結に重きを置くようになりました。この連合協定の実現は、人口約4600万人の旧ソ連構成国であるウクライナが明確に西向きに舵を取る道を開くものとなるはずでした。

しかし、その進展に対抗する形で、ロシアはさまざまな手段を用いてウクライナを自身の影響下に引き戻そうとしました。そして、2013年11月末にヤヌコヴィッチ政権がEUとの連合協定の調印を延期するという決定を下しました。この決定がユーロ・マイダン革命のきっかけとなり、その後のウクライナ危機へとつながっていったのです。

「EU or ロシア?」どちらの経済圏につくか

まとめると、このユーロ・マイダン革命は、EUが推進する自由貿易圏構想である東方パートナーシップ(EaP)と、ロシアが推進する自由貿易圏構想であるユーラシア経済連合(EAEU)が、ウクライナという地盤を巡る間で行われた政治的綱引きの結果として生じたものといえます。

静かな広場が燃え上がる…革命の転機となった平和な抗議

危機の発端は、2013年11月28日にヤヌコビッチ大統領がEUへの加盟の前提条件となる「ウクライナEU貿易協定」の仮調印から手を引くと決定したことでした。

その日の午後、キーウの著名なジャーナリストが自身のフェイスブックを通じて、「22時30分に独立広場に集まりましょう。暖かい服装をし、コーヒーや紅茶を持ってきてください」とのメッセージを発信しました。それに応えるように数百人が集まり、大統領の親ロシアで反EU的な姿勢に抗議を行いました。

当初は約300人ほどが集まったのですが、SNSを通じた呼びかけの効果で、その数は次第に増え続けました。

hromadske/YouTube
声を上げる市民!ウクライナの怒りがヤヌコヴィッチ政権に集中する

人々はEUとの協定署名を求めていましたが、11月29日政府がEUとの交渉の破談を発表すると、「ヤヌコヴィッチ退陣」の声が高まり始めました。元々、ロシアと隣接するウクライナでは、2010年から続く親ロシア的なヤヌコヴィッチ政権に対する野党陣営の不満が蓄積しており、ウクライナの未来を欧州連合(EU)加盟に見ていた多くの市民も政権への不満を抱えていました。

極右勢力の台頭と攻防戦!ウクライナで燃える反政府運動

次第に、極右を中心とした反政府自警団が結成され、国内は混乱の様相を見せ始めました。反政府運動はキーウのマイダン広場(独立広場)を中心に行われる攻防戦となり、その緊張は高まる一方でした。

治安部隊の強制排除とデモの衝突

序盤は、市民による平和的な抗議デモが主流でした。しかし、11月30日に治安部隊が広場でのデモ隊を強制的に排除したことで、状況は一変しました。これに怒ったデモ参加者たちは12月1日に再び独立広場を占拠。治安部隊の厳格な対応とデモ隊との間で、この日を境に衝突が頻発するようになったのです。

hromadske/YouTube

「ヤヌコビッチ、次はお前だ」破壊されたレーニン像とウクライナ国旗

12月8日にはデモ参加者が独立広場に設置されたレーニン像を破壊しました。広場に集まった数十万人ものデモ隊の一部が暴動化し、力づくでレーニン像を引き倒し、ハンマーで破壊しました。

像が設置されていた台座には、「ヤヌコビッチ、次はお前だ」などと書かれたポスターが貼られ、その力強いメッセージが一部の市民の怒りを示していました。脚部分だけが残された台座上に立ち、ウクライナの国旗を振る人々の姿も見受けられました。

警察は、像を倒した具体的な行為者について調査していると発表しています。しかし、国営通信社の報道によれば、野党の一員である議員が自らが行為者であると主張しています。

Radio Free Europe/Radio Liberty/YouTube
象徴的な行為が引き起こした意識の転換

ウクライナのアザロフ首相の報道官は、レーニン像の破壊に関与したデモ参加者を「野蛮」と非難しました。ウクライナの独立派勢力内部でも、この破壊行為に対する反応は微妙なものでした。

ソ連に共感を持つウクライナ市民を極力刺激しないという考え方が穏健派の中で主流であり、そのために、レーニン像の破壊行為が反政府デモのイメージを損ね、運動そのものが勢いを失うのではないかという懸念が一部に存在しました。

しかしながら、社会の雰囲気は次第に変化しました。レーニン像の撤去は、過激な行為から一転、ウクライナが真の独立国家としての道を歩む象徴と捉えられるようになりました。そして、この行為はソ連からの解放のシンボルとなり、一部の人々にはポジティブな影響を与える結果となりました。

SankeiNews/YouTube

強制排除の一斉攻撃!抗議活動が激化し、大規模な衝突が勃発

抗議活動は日々激しさを増し、参加者は数万人にまで膨れ上がりました。行政庁舎の占拠も広がりを見せていました。そして12月11日の早朝、状況は一変しました。氷点下12度の厳寒の中、大量の軍と警察が動員され、バリケードなどを強制的に撤去し始めました。抗議者と当局との間で激しい衝突が繰り広げられました。

「数万人から80万人へ」膨れ上がった抗議集会の驚異的な規模

抗議参加者は数カ月間にわたりキーウで大規模な抗議集会を開催し、同年末にはなんと80万人の参加者を集めるに至りました。

hromadske/YouTube
この抗議デモの中に「アメリカ・EUの政府関係者」

この日、キーウを訪れていたヴィクトリア・ヌーランド米国国務省局長(祖父はウクライナ系ユダヤ人)とEUのキャサリン・アシュトン外務大臣は、抗議参加者に対してクッキーを配布していました。

「デモ規制法案」ウクライナで抗議デモへの制約が強化

新年が訪れ、クリスマス(正教会では1月7日)が過ぎた1月中旬に、事態は再び活発化しました。1月16日、ウクライナの議会では抗議デモの封じ込めと排除が可能となる法的枠組みを整備し始めたのです。公共の場でのステージやテントの無許可設置、スピーカーの使用を禁止する法案を急ピッチで通過させました。デモの際のマスクやヘルメットの着用も禁止され、大統領などへの中傷行為も刑事罰の対象とされました。

ヤヌコビッチ大統領は17日にこれらの法案(デモ規制法案)に署名を行い、法律として成立させました。

Al Jazeera English/YouTube

抗議行動が治安部隊との流血の闘いへと発展

抗議行動は治安部隊との血を流す衝突へとエスカレートしました。一部のデモ参加者たちは、デモ会場から僅か数百メートル離れた議会や内閣府へと通じる道路で、バスを用いて道路を封鎖し、治安部隊と激しい対決を繰り広げていました。

彼らはバスを破壊し、火を放ち、さらには治安部隊に対して火炎瓶を投げつけました。それに対抗して治安部隊は、催涙ガスやゴム弾、高圧放水銃などを駆使し、デモ参加者たちを制圧しようと試みました。

極右連合体「右派セクター」が反政府デモを牽引

この激しい衝突の背後にいたのは、これまでの主導的な野党指導者たちではなく、「右派セクター(Pravy Sektor)」という名前の極右の連合体でした。彼らはヤヌコビッチ政権への親ロシア的な立場に反対し、反政府の抗議活動を指導してきました。

右派セクターは、反ロシアでウクライナ民主主義を掲げる若者の一部と見なされています。当初、彼らはサッカー愛好家の若者や現状に不満を持つ人々を中心に集まっていましたが、次第に反ロシア思想を持つ極右派や民族主義の組織が加わり、その戦闘力は増していったとされています。

ロシア当局からは彼らをネオナチの組織と見なしています。そして、1月19日以降、デモ参加者と治安部隊の双方で銃撃による死者が出始めたことは、このネオナチ集団が市民の中に狙撃手を混ぜ込み、混乱を増幅させようとする挑発行為だとの疑念を引き起こしました。

ウクライナの指導者たちが衝突に驚きデモ活動の一時停止を提案

この激しい衝突に驚いたのが、抗議活動を展開してきた野党の指導者たちでした。驚きとともに政府当局を非難しつつ、自身は暴力的な衝突から距離を置く態度を示しました。

ウクライナの野党指導者であり元ボクシング世界チャンピオンのビタリ・クリチコは、大統領ビクトル・ヤヌコビッチとの協議に臨む前の1月23日、「午後8時までに戻って協議の結果を報告する」と約束。さらに彼は、「バリケードはそのままにし、協議が終わるまで抗議活動を自粛してほしい」とデモ参加者に呼びかけました。

EUや欧米からの厳しい批判が相次ぐ中、政府が折れる選択肢を迫られる

欧米やEU首脳からの厳しい批判や説得が相次ぐ中、政府側も妥協を迫られる状況となりました。

1月25日、政府側は野党「バティキウシチナ」の代表アルセー・ヤツェニュークに首相ポストを、また「ウダール」の党首ビタリー・クリチコに副首相ポストを提示し、彼らの味方を引き寄せようとしました。

しかしながら、両者はこれを断りました。さらに、ウクライナ西部各州でも、政府関連の庁舎がデモ隊に占拠され、州知事が追放されるなど、抗議活動が広がりを見せました。

混乱の中で「デモ規制法案」が撤廃

これらの事態を受けて政府は、抗議活動を規制する法案の撤廃を決定しました。その一方で、デモ隊に拘束された者に対する恩赦を与えることを約束しましたが、それが無条件であることを求める野党側はこの提案を拒否しました。

「2014年ウクライナ騒乱」デモは今や騒乱に発展

クライナの抗議活動は政府の腐敗と金権体質に対する怒りによって煽られ、その規模と深刻さは増す一方でした。この緊張は最終的に2月には「2014年ウクライナ騒乱」と呼ばれる大規模な反政府暴動に発展しました。

The New York Times/YouTube
騒乱の中のドラマ

騒乱の中でも、人間の熱情と希望の瞬間が見受けられました。

ピアニストが凍てつく路上でデモ隊を鼓舞

「政府は私たちを過激派や犯罪者と呼びますが、それは誤解です。ここにいる私たちは利益や暴力のためではなく、深い愛国心に駆られています」と、スキー用の目出し帽をかぶった戦闘服姿の男性ピアニストが述べました。彼は凍てつく路上で、デモ隊を心地よく楽しませる音楽を奏でました。

彼は「ピアニスト─過激派」と名乗り、これは彼の皮肉混じりの戦闘服姿と同様に、ウクライナ政府が欧州連合(EU)との関係強化を求めるデモ隊を「危険な武装派」と批判することへの反論として用いられました。彼は「音楽が私たちを支え、団結の力を高めている」と話し、ウクライナの国旗の色である青と黄色のピアノを奏で続けました。

hromadske/YouTube
極右連合メンバーの感動的なプロポーズ

その一方で、凍える寒さの中、極右連合「右セクター(Right Sector)」の活動家の一人は2月1日の夜、恋人の前にひざまずき、結婚を求めるプロポーズをしました。彼女がその申し出を受け入れると、周りにいたデモ参加者たちは一斉に歓声を上げ、花火や発煙筒で二人を祝福しました。

「“革命”が始まる前にプロポーズをしようと思っていた」と男性は述べました。その他のデモ参加者たちも彼らの祝福に加わり、花束を渡しながら「英雄に栄光あれ!」と声を上げました。

平和と悲劇の交差点…抗議デモから広がる死者の数

2月18日朝、憲法修正案の審議に向けて議会に向かっていたデモ隊と警官隊との間で激しい衝突が勃発しました。デモ参加者は石や火炎瓶を警官に向けて投げ、対する警官隊はゴム弾やスタングレネードで対応しました。その過程でデモ隊は与党・地域党(Party of Regions)の党本部に突入しました。

火炎瓶の投げつけによって広場や周辺の建物は激しく燃え上がり、デモ隊が小銃を発射している姿も映像で確認されました。元々平和的なデモが、血塗られた悲劇へと変貌してしまいましたが、それでもウクライナの人々は広場に集まり続けました。

「逃げずに、命をかけて祖国のために戦いました」「木製の盾を携えて、戦闘地帯へ突進した時、自分の行動がどれほど勇敢なのか理解していませんでした。人々から危険だと引き止められても、死ぬために来たと答えました。より良い祖国を築くための信念を胸に、雨のように降る銃弾に立ち向かったのです」。このような証言が、広場で聞かれました。これは老若男女、宗教を問わずに共有される愛国心の表現でした。

「騒動により経済が停滞し、エサを求めて犬までロシアへと逃れた。しかし、すぐに戻ってきました。ロシアでは自由に吠えることができなかったからです」。これは当時、一方的にロシアによるウクライナ領クリミアの編入が進行していた時期に流れたジョークです。これにはロシアへの強い怒りが込められていました。

首都キーウで発生したこの日の激しい衝突は、双方に少なくとも26人の命を奪い、大惨事へと発展しました。しかし、ウクライナ人たちの愛国心は揺るぎないままでした

Володимир Нагорнюк/YouTube

政府の野蛮な手段!特殊部隊ベルクトの暴力的鎮圧

政府は治安部隊として、特殊部隊ベルクトを動員しました。これは2014年まで存在し、内務省管轄の民警に属していた部隊です。しかし、その鎮圧手段は極めて暴力的で、市民を鉄棒で打つ、ゴム弾や実弾を発砲するなど、過度な力が行使されました。市民側もバット、銃器、火炎瓶などで抵抗し、結果的に多くの死傷者を出す大規模な騒乱にエスカレートしました。

ベルクト部隊の中には、元囚人から成る雇われ隊員も存在し、100万人を超える規模となったデモ隊に対して、目を覆いたくなるほどの暴力を振るっていました。さらに、彼らは赤十字のスタッフに対しても銃撃を行うという恐ろしい行為に及びました。この光景は、市民デモを鎮圧する警察活動とは言えない、異常な状況でした。

Roman Sukhan/YouTube

和平の道へ…ヤヌコビッチ大統領と野党指導者が停戦合意

2月19日の夜、ヤヌコビッチ大統領は、デモを主導するビタリ・クリチコという名の反政権の野党代表3人と会談を行いました。これは衝突が発生した独立広場近くの大統領府で行われました。その後、大統領は流血の事態を終わらせ、国内情勢の安定と平和を回復するための直接協議の開始を求める声明を発表しました。

ウクライナの保健省によれば、2月18日の朝に始まった反政権デモ隊と警察隊との衝突では、すでに28人が死亡し、18歳以下の未成年者や外国人を含む287人が病院へ搬送されていました。

このような混乱の中、ヤヌコビッチ大統領は欧州連合(EU)などから対応を求められたのです。

「攻撃は続かねばならない」ネオナチの党首とウクライナの未来

2月20日、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領と野党の3つの指導者が「停戦」に合意した翌日、「私たちはどんな合意もしておらず、民衆の反乱は続けられるべきだ」という声明を、過激な民族主義勢力の連合体である「右派セクター」が発表しました。この結果、大規模な衝突が再び発生しました。

右派セクターの党首チャグニボクが率いる極右政治組織

右派セクターだけでなく、全ウクライナ連合「自由」(スヴォボダ)の系列といった他のデモ隊も、この合意案を拒否していました。彼らは武器を振り回し、武力を用いてキーウ市内と議会を掌握しました。これは、民主主義的な過程を無視した権力掌握であり、事態を更に混乱させる要素となりました。

スヴォボダの党首は、自他共に認めるネオナチの「チャグニボク」です。彼は「ウクライナ愛国者」、「ウクライナ民族会議─ウクライナ自衛(UNA-UNSO)」、「トリズブ(ウクライナの紋章の三叉の意味)」などの右翼団体を中心に「右派セクター」という統一的な右翼政治組織を組成しています。

これらの団体は、1941年にナチス・ドイツがソ連に対して開戦しウクライナに侵攻した際、自発的にナチスの同盟者となり、ユダヤ人やポーランド人を虐殺し、ソ連と戦った「ウクライナ民族主義者組織」の指導者ステパン・バンデラを共に崇拝しています。チャグニボクらはウクライナの独立後、彼を名誉回復し、”愛国者”と位置付ける運動を展開してきました。これらの動きは、歴史的な誤解や偏見を繰り返す危険性をはらんでいます。

2014年2月20日のウクライナ抗議行動における大量殺戮事件

2013年11月から始まった抗議行動は、2014年2月20日に頂点に達しました。この一日だけで、少なくとも60人の命が奪われ、これまでの抗議行動の中で最も犠牲者が出る惨事となりました。

ユーロ・マイダン革命の最悪の瞬間、デモ隊への無差別攻撃と犠牲者の声

激化した抗議行動は、市内中心部に位置する独立広場の奪還に成功し、さらに議会周辺までその支配地域を広げました。一方で、銃撃戦は次々と勃発し、デモ隊は67人の警察官を人質にして大統領の即時辞任を迫りました。これに対し、内務省は警官隊に銃器を追加配布し、治安回復のためのデモ隊への実弾発砲を許可しました。

その結果、警察はデモ参加者に対し実弾を無差別に発砲し、デモ側の医療関係者によると、政権側の狙撃手までもが建物の屋上からデモ隊を無慈悲に狙い撃っていました。これは、”ユーロ・マイダン革命”と呼ばれる一連の出来事の中で、市民の命を奪った最も悲劇的な一幕でした。

BBC News/YouTube
「EUの求める早期選挙」ウクライナ情勢における国際的な圧力とロシアの反発

国際的な反応は、暴力行為に対する厳しい反対意見が多く、一部の国々は制裁措置の適用を示唆しています。2月20日、EUの関係者はヤヌコビッチ大統領に対し早期選挙を強く求めましたが、これに対しロシアは、これがウクライナに対する西側の影響力を強める試みの一環だと非難しました。

更に、EU外相会議ではウクライナに対する制裁措置の発動に合意しましたが、その規模は政治的暴力がどの程度続くかによるとの見解を示しました。その日の夜遅く、ヤヌコビッチ大統領の代表は、大統領が野党のリーダーたちと話し合いを行う予定であると発表しました。

ウクライナ抗議行動の合意で憲法改正と前倒し選挙が決定

国際社会の注目が集まる中で、2月21日にヤヌコビッチ大統領と野党のリーダーたちは、EUとロシアの仲介の下、紛争の解決に合意しました。彼らの合意によれば、次の大統領選挙は前倒しで実施され、憲法も改正され、大統領の権限は大幅に議会に移される予定でした。

ヤヌコビッチ大統領の即時辞任要求により、合意文書が無効化へ

そして、この合意に基づいて、現地時間の正午には合意文書への署名が行われることになりました。だが、野党勢力は22日にヤヌコビッチ大統領の即時辞任を求める姿勢を明確に示し、前日の合意は事実上白紙に戻ってしまいました。

ウクライナの歴史的転換!「2014年2月22日」の政治的な地殻変動

2014年2月22日は、ウクライナの歴史にとって重要な一日となりました。首都キーウは反政府デモによりほぼ完全に掌握され、職権乱用の罪で刑を服していた元首相ユリヤ・ティモシェンコが釈放されました。また、この日、国会はヤヌコビッチ大統領の解任を決議し、5月25日に新たな大統領選挙を実施することを決定しました。これらの出来事は、ウクライナの歴史の新たな章を切り開く契機となりました。

「クーデターだ」ヤヌコビッチは支持基盤のハルキフで糾弾

ヤヌコビッチ大統領の警備態勢が縮小した結果、キーウの大統領府や行政機関はデモ参加者に占拠され、首都は事実上、野党勢力の支配下に置かれました。これを受けて、ヤヌコビッチ大統領は、自身の強固な支持基盤がある東部の都市ハリコフへ移動しました。その地で行われたテレビインタビューにて、ヤヌコビッチ大統領は現状を「クーデター」と非難。政敵たちを「盗賊」と糾弾しました。

AP Archive/YouTube
ティモシェンコ元首相の涙と感動の瞬間!オレンジ革命を振り返る

釈放されたティモシェンコ元首相は、2004年の民主化運動「オレンジ革命」の中心人物として知られています。彼女の姿は、約5万人の群衆が待つキーウの独立広場のステージ上で見ることができました。車椅子に乗ったティモシェンコは「あなた方は英雄です。ウクライナで最高の人たちです」と人々に語りかけ、感動のあまり涙を見せました。さらに、ティモシェンコ元首相は5月25日に前倒しで開催される予定の大統領選挙への出馬意向を表明しました。

一方で、ティモシェンコに対する厳しい意見もあり、「ユリアにうんざり」「ユリア=プーチン」というプラカードを掲げた参加者も存在しました。

ティモシェンコの釈放については、国会が反政権デモの高まりとともに勢いを増し、2月21日にはティモシェンコの釈放を可能にする刑法改正案を可決しました。大統領が同法案に署名しなかったため、国会は2月22日に再度、ティモシェンコの釈放を決定。ティモシェンコの合法的な釈放を実現させました。

euronews/YouTube
ウクライナの暴動と衝突によりヤヌコビッチ政権が事実上崩壊

ヤヌコビッチ大統領が解任決議を受けた2月22日の夜、彼はウクライナ東部のドネツク空港からの出国を試みましたが、国境警備隊によって阻止されたとインタファクス通信が報道しました。

その後、ヤヌコビッチ大統領の所在はわからなくなりました。この混乱の中、閣僚や検事総長など政権幹部の海外逃亡の動きも報告されています。

ヤヌコビッチ政権は、国内の暴動と警察との衝突による多数の死傷者を受け、事実上崩壊しました。また、政府や治安機関が野党勢力に掌握され、ヤヌコビッチ政権の反撃が困難となったと考えられます。

BBC News/YouTube
「ネオファシスト」と怒りを露にしたヤヌコビッチの会見の衝撃

ヤヌコビッチ大統領消息不明から一週間後の2月28日に、ついに公の場に姿を現し、ロシア南部で記者会見を開きました。大統領は、ロシアの黒海艦隊の基地があるクリミア半島を経由して出国したと説明しました後、ウクライナの国旗の前に座り、首都キーウを自動火器での攻撃を受け、自分の生命が脅かされたために離れたと述べました。

帰国する意志があるとも表明しましたが、同時に5月25日に前倒しで実施される予定の大統領選をボイコットすると発表しました。

ヤヌコビッチ大統領は、ロシアがウクライナの混乱と恐怖に終止符を打つ必要があると主張しました。また、「ロシアは行動を起こすべきであり、そのような責任を負っている」と述べました。「私はプーチン大統領の性格を承知しており、現時点でまだ何も見解を示していないことに驚いている。ウクライナほどの緊密な関係にある国の運命に対して、ロシアが無関心な傍観者でいられるはずはない」とも付け加えました。

さらに、ヤヌコビッチ大統領はEU寄りの暫定内閣を「ネオファシスト」と呼び、欧米の「無責任な政策」が危機を招いたと非難しました。

The New York Times/YouTube
プーチン大統領、ヤヌコビッチ氏の発言に対し「暴力の拡大を許さない」と強調

ロシア政府はヤヌコビッチ氏の発言に対する短い声明を発表しました。その中で、プーチン大統領はEUの複数の首脳との電話会談で、「暴力のさらなる拡大を許さないことが非常に重要であり、情勢の迅速な正常化が必要である」と強調したと述べました。

衝撃の事実判明!ウクライナ防衛大臣は実際にロシアのスパイだった!?

その後、しばらくして驚愕の事実が判明しました。ヤヌコビッチ大統領は、その任期中に防衛大臣としてロシア人を任命してたのでうす。これは単なる比喩でも皮肉でもなく、その時の防衛大臣は本当にロシア出身のロシア人でした。

つまり、明らかにロシアの工作員がウクライナの防衛大臣を務めていたのです。これは、敵国であるロシアのスパイがウクライナの防衛大臣を務めるという最悪の状況を示しており、ウクライナは全く力を奪われていたと言えます。

ヤヌコビッチのクリミア占領への関与とロシア国籍保有の驚愕の事実

驚愕の事実はもう一つあります。ヤヌコビッチはロシアに逃れた後、2014年にロシアがクリミア半島を占領した際には、モスクワのクレムリンでのクリミア編入祝賀式典に参加しました。さらに驚くべきことに、ヤヌコビッチがロシアの国籍を保有していたことも判明しました。

そんなヤヌコビッチは、2019年に国家反逆罪で13年刑の懲役刑を宣告されることになります。

トゥルチノフ大統領代行の就任宣誓と新政府の組閣

2014年2月23日、ヴィクトル・ヤヌコビッチ大統領の政権は、大規模な抗議デモと暴動によって終わりを迎え、ウクライナ議会はオレクサンドル・トゥルチノフを大統領代行に選出しました。トゥルチノフ氏は親欧米派であり、前日に最高会議議長に指名されていました。彼はテレビで「国民のための政府」の設立を宣言し、ロシアに対してウクライナの政権交代を尊重するよう要求しました。

その後の日々で、彼は就任宣誓を行い、新たな政府を組閣しました。そして、予定されていた大統領選挙が行われる5月25日まで大統領の権限がトゥルチノフ氏に移されることが決定されました。

キーウでは1週間にわたる衝突で約100人が死亡し、警察官たちは街から姿を消しました。その結果、キーウの首都機能全体が反政府デモの管理下に置かれ、交通整理から政府庁舎の警備までがデモ隊によって行われるようになりました。

欧米の支持とロシアの懸念、ウクライナ情勢の緊迫化

欧米各国はトゥルチノフ氏の大統領代行選出を支持し、特にEUの外交・安全保障政策担当者キャサリン・アシュトンはキーウを訪れてウクライナ経済の支援に向けた協議を開始しました。

一方、ヤヌコビッチ政権の支持者であったロシアは、大統領が「武装した反乱」によって倒されたとして不快感と懸念を示しました。ロシア政府はウクライナ大使を本国に召還し、ウクライナへの15億ドルの金融支援を一時停止しました。

このロシアに対する懸念を示したのは米国で、スーザン・ライス米大統領補佐官(国家安全保障担当)は、ロシアが親ロシア派の政権をウクライナに樹立することを考えているならば、それは「大きな誤りだ」と牽制しました。

「ヤヌコビッチ前大統領の逮捕状」デモでの大量死亡と政府の行動調査の始まり

2014年2月24日、失脚したヤヌコビッチ前大統領がウクライナで、彼に対して逮捕状が発行されました。これは、首都キーウで続いた大規模な反政府デモと政府との暴力的な衝突による「大量虐殺」の疑いによるものです。

デモでは100人近くが死亡したと報告されています。逮捕状の発行は、新たな政府がヤヌコビッチ政権の様々な行動に対して調査を行い、法的な措置を講じるという意図を示すものでした。

特殊部隊ベルクトを解散

2014年2月26日、国内の分裂と経済的崩壊に直面するウクライナでは、新たな暫定政権の組成を進める親欧州連合(EU)派の指導者たちが、ビクトル・ヤヌコビッチ前大統領に忠実だった特殊部隊ベルクト(Berkut)を解散しました。

ベルクトは反政府デモを弾圧し、多くの市民がその結果死傷するという出来事で悪名高く、その解散はヤヌコビッチ体制からの明確な転換を象徴するものでした。この行動は新政権がデモ参加者の権利を尊重し、公正な扱いをするという新たな約束を表明するものでした。

その頃、クリミアでは今回の革命に対して不安を募らせていた

2014年のウクライナ政変後、ヤヌコビッチ大統領の政権基盤であった東部を含むウクライナの大部分では新政権が受け入れられていましたが、クリミア半島だけは新体制を認めようとしませんでした。

クリミア半島は黒海に位置しており、その住民の大半がロシア語を母語としていました。また、クリミアのセバストポリにはロシアの重要な軍港であるロシア黒海艦隊の基地が存在しています。

新たな暫定政権は当初、ロシア語の公用語としての地位を撤廃する方針を示しましたが、これが反発を招く結果となりました。南東部の諸州では「ウクライナ民族主義者が南東部を抑圧しようとしている」との意見が広がり、抗議運動が広まりました。この提案は後に撤回されましたが、その影響は深刻で、クリミア半島を含む一部地域ではロシアへの帰属を求める声が高まりました。

ロシアのプーチン大統領は、ヤヌコビッチ大統領の解任をクーデターと評し、2014年5月の大統領選挙までの暫定大統領の正統性を問いました。

このような背景のもと、プーチンは民族的、軍事的に重要な地位を持つクリミア半島の掌握を試み始めました、そしてそれは後の「クリミア併合」へとつながっていきます。

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2013年11月ウクライナ。為政者がプーチンに靡き、反政府デモが発生。混迷は全土に拡大した。この国で何が起きたのか。『ペンギンの憂鬱』のクルコフが綴った革命の日々。池上彰氏のウクライナ解説付。(「Books」出版書誌データベースより)
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