【ウクライナ危機(6)】ロシアからの独立の始まり!「オレンジ革命」で起こった驚愕の出来事とは?

ウクライナの歴史的な「オレンジ革命」によって引き起こされた政治的な騒乱と緊迫した情勢を知りたいですか?

2004年の大統領選挙の不正疑惑、野党の指導者ユシチェンコ氏のダイオキシン中毒事件、そして抗議デモの拡大など、この記事は真相解明へと導かれる一連の事件を詳しく紹介しています。ウクライナ国内外で起こった大衆の非暴力抵抗、国際社会の関与、そして政治の風向きが大きく変わる瞬間までをご紹介します。

【ウクライナ危機(5)】衝撃告発!プーチン大統領の報道統制と恐るべき毒殺事件の真実
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ロシア帝国やソヴィエト連邦のもとで長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為の人材を輩出し続けたウクライナ。不撓不屈のアイデンティティは、どのように育まれてきたのか。スキタイの興亡、キエフ・ルーシ公国の隆盛、コサックの活躍から、一九九一年の新生ウクライナ誕生まで、この地をめぐる歴史を俯瞰。人口五〇〇〇万を数え、ロシアに次ぎヨーロッパ第二の広い国土を持つ、知られざる「大国」の素顔に迫る。(「BOOK」データベースより)

Orange Revolution

「オレンジ革命」ウクライナの政治的転機

NBC News/YouTube

オレンジ革命とは、2004年にウクライナで発生した政治的闘争を指します。この運動は、大統領選挙における不正に対する市民の反発とその結果から生まれたものです。ソビエト連邦とその影響下の東欧社会主義国家の崩壊後、草の根レベルでの民主化の動きが浮上した中、ウクライナが果たした役割を象徴しています。現在では、このオレンジ革命は、ロシアからの自立へのウクライナの初動とも解釈されています。

ウクライナの独立後に広がった親露派と反露派の激しい国会対立

On Demand News/YouTube

ウクライナの独立後の1991年から、大統領選では親ロシア派と親欧米派が長年にわたり対立してきました。独立以降、ウクライナは民主主義体制を固め、表現の自由を大切にしてきました。親露派と反露派の国会議員が公開で激しく対立する様子を目にした方もいるかもしれません。これらの喧嘩は、逆に言えばウクライナの自由な表現の現れとも言えます。

ウクライナ経済の厳しい現実…独立後の課題とエネルギー依存のジレンマ

ウクライナの独立後の経済は、連邦の生産分業体制が崩壊し、エネルギー価格が国際化したことにより厳しい状況を迎えました。原材料の供給短縮とエネルギー価格の上昇は、各種産業の生産に大きな影響を与え、生産の減少、インフレの加速、対外債務の膨張という結果をもたらしました。ウクライナは鉄鋼業や農業といった強固な産業を擁していますが、石油やガスなどのエネルギー供給はロシアに大いに依存しており、この状況は更なる問題を引き起こしました。

「ハイパーインフレ」で生活が困窮

ソビエト連邦が崩壊した後の数年間、ウクライナはハイパーインフレという経済的混乱に見舞われ、人々の生活は苦境に立たされました。1994年には、物価上昇率が驚愕の800%を超えました。物資が不足し、どんな物を購入するにも長い列に並ぶ必要があり、給与の遅配が常態化していました。教師の給料が砂糖で支払われるほどの事態にまで至り、毎日の生活を維持するのが精一杯の時期でした。経済危機は企業の稼働率を低下させ、地方経済が崩壊の瀬戸際に立たされると、人々はクラフチュク大統領がこの危機に対応できないと見限り、経済危機の責任を取らされて政権を去ったクチマ前首相に期待を寄せ始めました。

「ロシアとの経済強化がウクライナを救う!」クチマ大統領就任

1994年6月のウクライナ大統領選挙では、元首相のクチマ候補がロシアとの経済的統合を訴えて現職のクラフチュク大統領を辛うじて破り、第2代大統領に選ばれました。この選挙の重要な議題は、経済的不況を招いたとされるクラフチュク体制を続けるべきか否かという点でした。

クチマ候補を支持した多くの国民は、ロシアとの経済統合がウクライナ経済の再生への道とみなして投票し、ウクライナがロシアに吸収されることを望んでいたわけではありませんでした。したがって、この選挙は、「親ロシア派」対「ウクライナ保護派」よりも、「経済再建者」対「経済不振の元凶」という視点から考えることもできます。

多くの国民にとって、「ロシアとの経済統合」は「ウクライナの国家性の喪失」よりも「ウクライナ経済の復興」を意味しており、この視点がクチマの選挙勝利の主要な要因だったと言えるでしょう。

AP Archive/YouTube

ロシアとの経済関係転換、EUへの夢へ舵を切った驚愕の決断の理由とは?”

しかし、大統領に就任したクチマは、予期せぬ方向へ舵を取りました。彼は、ロシアとの経済統合を選ばず、1994年10月にIMFとの協力による経済改革を宣言したのです。その理由は何だったのでしょうか。

IMFとの協力により、ウクライナはエネルギー債務危機の解消を図りました。ロシアのガスプロムは、ウクライナのガスパイプラインなどのガス関連企業への投資を通じて債務を相殺する提案を繰り返していました。さらに、ロシアの副首相はウクライナを訪れ、ガス債務の返済とガス輸送施設の長期貸与を要求しました。

それでも、ウクライナが期待していたエネルギーの割安供給に、ロシアは一切応じませんでした。その結果、クチマ大統領は選挙中に公約していたロシアとの経済関係拡大の方針を転換。大統領に就任後、彼は逆に将来的なEU加盟を目指す立場へと変わりました。この新たな方向性は、1994年6月に調印され、1998年3月1日に発効した「EUとのパートナーシップ協力協定」に明確に示されています。

次の大統領選も勝利したクチマ!さらなる経済改革へ!

クチマ大統領は、引き続きIMFや他の国際金融機関との協調を通じた経済改革を継続しました。省庁の統合や廃止などの行政改革にも本格的に取り組み、効率的な行政運営を追求したのです。

さらに、経済面では工業と農業の民営化を推進し、物価統制を廃止。また、為替通貨規制も撤廃しました。これら一連の経済改革を進めることで、ウクライナの経済は新たなステージへと進むこととなりました。

国民投票により大統領権限が強化

2000年3月の議会の変化は、ウクライナの政治風景に新たな展開をもたらしました。保守派の影響力が強かった議会において、大統領派の多数派が形成され、改革派のプリューシが新議長に就任しました。彼のリーダーシップの下で、議会は改革志向の運営を開始しました。

そして2000年4月には、さらなる重要なステップが踏まれました。大統領の権限強化を求める国民投票が行われ、国民の大多数が大統領の提案に賛成票を投じました。ウクライナ社会は政治の変革に期待していたのです。

クチマ大統領がEU・NATOに入る意思を表明

2002年、レオニード・クチマ大統領は、「9.11」後の米ロ関係の進展を背景にNATO加盟の意向を明らかにしました。これは「欧州選択」または「欧州大西洋統合路線」と呼ばれ、ウクライナがEUとNATOの両方に参加することを目指す新しい外交政策でした。

しかしクチマ政権は、EUとNATOへの加盟を公約とする一方で、ロシアとの具体的な関係を重視するという微妙なバランス政策を採用しました。これはロシアと「友好、協力およびパートナーシップ」の条約を締結するとともに、NATOと特別なパートナーシップを結ぶという形で実現しました。さらに、IMFからの大量の援助を確保することにも成功しました。

AP Archive/YouTube

ユシチェンコが首相に任命!!でもすぐに解任!?

1999年12月、再選を果たしたクチマ大統領は、ウクライナ国立銀行総裁のユシチェンコを首相に指名しました。これは1998年のルーブル危機後、ウクライナが自国通貨の安定を保てず、2000年以降のデフォルトの可能性が増していた状況を受けたものでした。ユシチェンコは債権者や国際金融機関からの信頼を集めるための人選でした。

しかしながら、クチマの支持率が低下し、一方でユシチェンコの人気が上昇すると、政権は危機感を抱き、2001年4月にユシチェンコを首相から解任しました。しかし、ユシチェンコはその人気を維持し、すぐに野党のリーダーとして台頭しました。

後釜にヤヌコビッチを任命!ロシアと関係維持へ

2002年、クチマ大統領はヴィクトル・ヤヌコビッチを首相に任命しました。ヤヌコビッチは任命時にウクライナ語を話すことができなかったものの、クチマ大統領のロシアとの関係を緊密に保ちたいという考えを支持していました。

権力は腐敗する?オリガルヒ」との癒着で非難

クチマ大統領は、民営化政策を進める中で、娘婿のヴィクトル・ピンチュクをウクライナの代表的なオリガルヒ(新興財閥)に育て上げました。この行為は、広範囲にわたる腐敗の一因として批判を受けました。

同時期のロシアでは、ウラジーミル・プーチン大統領がエリツィン政権時代に繁栄したオリガルヒの力を削ぎ落とし、シロヴィキを中心に国家資本主義を強化していました。これとは対照的に、ウクライナのクチマ大統領はオリガルヒ実業家との深い結びつきと腐敗で広く非難されるようになっていました。

政権を批判したジャーナリストが殺害される事件が発生

2000年、ウクライナのジャーナリストでクチマ政権の批判者として知られるジョルジー・ゴンガゼが誘拐され、その2週間後にキエフ近郊で首なしの遺体として発見される事件が発生しました。ゴンガゼの殺害は即座に政府の批判に対する政治的暗殺と見なされ、ウクライナ国内と国際社会を揺るがしました。

その3年後、2003年12月に、クチマ大統領の警護官が事件への大統領の関与を示唆する録音テープを持ち出し、アメリカに亡命しました。これらのテープはウクライナの最高会議で公開され、インターネット上で公開されました。

テープには大量の会話が記録されており、その中には「殺人の依頼」についてのものも含まれていました。また、クチマと彼の地方クランに有利に進めるための民営化の打ち合わせ、それによって起こる多数の訴訟への介入、裁判官の人事権の政治利用などの話題が含まれていました。これらのテープは、ウクライナ国家が一握りの集団の私有物と化していることを明らかにしました。

さらにウクライナ国民を驚かせたのは、テープの内容だけでなく、クチマ大統領の暴言の数々でした。

Public Insterest Journalism Lab/YouTube

「クチマのいないウクライナ」ユシチェンコを中心とした抗議デモが発生

2000年代初頭のウクライナは、レオニード・クチマ大統領に対する野党や市民の反感が高まる一方で、政治的な混乱と対立が激化していました。

ジョルジー・ゴンガゼ氏の暗殺やそれに続く録音テープの公開など、一連のスキャンダルはクチマ大統領に対する退陣要求を増幅させました。その中心にいたのは最大野党「我らのウクライナ」のヴィクトル・ユシチェンコ元首相でした。

2003年12月に「ジャーナリスト殺害依頼録音テープ」が公開された直後、学生を中心とした市民がキエフの独立広場で大規模な座り込みを始めました。これに対してクチマ大統領は広場を閉鎖し、デモンストレーションを強制的に終わらせようとしました。しかし、市民と学生はその隣のフルシチャティク通りへ場所を移し、座り込みを続けました。これが「クチマのいないウクライナ」運動の始まりでした。

こうして第二次クチマ政権の後半期は、大統領と首相を支持する与党派と、ユシチェンコとユリヤ・ティモシェンコを支持する野党派との間で対立が深まり、政治的な混乱が続きました。

AP Archive/YouTube
欧米諸国の圧力とクチマ大統領との距離

2000年代初頭のウクライナは、レオニード・クチマ大統領の国内における政治的なスキャンダルが続き、同時に国際的な立場も微妙になっていました。

欧米諸国はウクライナの改革を強く求めていましたが、スキャンダルに包まれたクチマ大統領とは距離を取る傾向にありました。具体的には、首脳レベルでの国際会議にクチマを招待しないなど、心理的な圧力を加えていました。

一方で、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、孤立感を深めるクチマに接近し、ウクライナを旧ソ連諸国による関税同盟へと誘う形を取りました。これに応じて、クチマ大統領も従来のバランス外交を修正し、ロシアへの傾斜を深めていきました。

こうした状況は、ウクライナを巡る欧米とロシアの対立を水面下で激化させ、クチマの任期切れと次期大統領選挙に向けての緊張を高める一因となりました。

「2004年ウクライナ大統領選挙」ヤヌコビッチの勝利宣言と論争の火種

2004年11月のウクライナ大統領選挙は、国内外で大きな注目を集めました。クチマ大統領の後継者と目されるヴィクトル・ヤヌコビッチと、改革派のヴィクトル・ユシチェンコの二人が対立し、非常に激しい選挙戦が繰り広げられました。

中央選挙管理委員会はヤヌコビッチの勝利を発表しましたが、これは即座に論争を巻き起こしました。ヤヌコビッチはロシア語を母語とするウクライナの東部出身で、ロシア政府からの支援を受けていました。彼の過去の犯罪歴とマフィアとの関係は、ユシチェンコ陣営から大きな批判を浴びました。

選挙不正への抗議「オレンジ革命」のきっかけはユシチェンコと支持者の訴え

ユシチェンコとその支持者は、選挙の結果が不正に操作されたと主張し、選挙の再実施を求めました。

2004年11月の大統領選挙の結果、与党のヴィクトル・ヤヌコビッチが勝利を宣言しましたが、野党のヴィクトル・ユシチェンコはこれに反発。選挙に大規模な不正があったと主張し、再投票を求めてキエフの中心部にある独立広場をはじめとする数箇所で、抗議活動が開始されました。

抗議運動は非暴力的なものであり、国内外の広範な支持を集めました。欧米諸国や欧州連合(EU)も、選挙に対する疑惑を表明し、ユシチェンコ陣営を支持しました。

ICNC – International Center on Nonviolent Conflict/YouTube
オレンジ色の街!ユシチェンコの名を叫ぶ抗議デモの様子

選挙の対立候補だったヴィクトル・ユシチェンコとユリア・ティモシェンコが中心となり、デモは全国的な規模に拡大しました。特にユリア・ティモシェンコは、金髪の三つ編みとクラウン・ブレードの髪型で一躍時の人となり、彼女はこの運動の顔ともなりました。

ユシチェンコ陣営は「蜜と蜂」を党のシンボルとしおり、共同体と働き者の精神を象徴しました。さらにこの色は「太陽」や「温かさ」の象徴でありながらも、「オレンジ色は革命を象徴する赤より穏やか」との説明もありました。

これは野党が民主主義と公正な選挙を求める象徴として使われ、ユシチェンコの選挙キャンペーンのシンボルカラーとして、選挙ポスターや街中の装飾に用いられました。

抗議デモに参加した数十万人の人々は、オレンジ色の旗やリボン、マフラーなどを身につけ、ユシチェンコの名を連呼しました。これらの経緯から、この抗議デモはオレンジ革命と呼ばれるようになりました。

「ウクライナ最高裁の大統領選挙無効宣言」国際批判と抗議の声を反映

選挙の結果に対する国際社会の批判とウクライナ国民の抗議の声が高まる中、ウクライナの最高裁判所は2004年12月3日、大統領選挙の結果を無効と宣言しました。同時に、同月26日に新たな選挙を行うよう命じました。

「ユシチェンコ毒殺未遂事件」顔の変貌と毒攻撃の噂

2004年のウクライナ大統領選挙の緊張が最高潮に達する中、野党のヴィクトル・ユシチェンコ元首相は異変を経験しました。その顔は、一夜にして不自然なほどの変貌を遂げ、「種痘だらけ」と形容されました。多くの人々が、それが「与党陣営による毒攻撃」の結果ではないかと噂され始めました。

やがて、その疑念は現実のものとなりました。2004年12月10日、米国ABCテレビは、ユシチェンコ氏が政敵から毒を盛られたと報じました。その証拠となるのが、ユシチェンコの夫人による告発でした。「夫の顔が変わったのは毒を盛られたからだ」と彼女は語りました。

この衝撃的なニュースは、大統領選挙のやり直しを控えたタイミングで全世界に広まりました。しかし、この毒殺未遂事件そのものは既に数ヶ月前の04年9月5日に起きていたとされていました。

BBC News Japan/YouTube
ダイオキシンの痕跡をユシチェンコの体内からの検出

何者かによる毒殺企てだとユシチェンコは断言し、その証拠としてダイオキシンの痕跡を示した。彼の主治医であるツィムプファー医師は、ユシチェンコ氏の症状がダイオキシン中毒であることに疑いの余地がないと確認した。彼の体内からは通常の量の約1000倍にも上る濃度のダイオキシンが検出され、これが口から摂取された可能性が高いと述べた。

詳しい病名は当初明かされなかったが、後に薬物専門家ブラウア教授(アムステルダム自由大学)により、「塩素座瘡」(クロロアクネ)と診断された。これはダイオキシンの大量経口投与によって発生する病状で、ユシチェンコの血液中からは通常値の6000倍以上のダイオキシンが検出されていた。

KGBの手口とウクライナ国家保安局の関与の疑惑

ダイオキシン中毒の症状をあらわれたは、特定の3人のロシア人と会食をした後だった。彼らは事件後すぐにロシアへと戻り、ウクライナ当局の取り調べからはぐらかした。ロシア政府は彼らの引き渡しを拒否し、その結果、事件の全貌はまだ明らかになっていない。

しかしながら、一般的な見解では、これはロシア政府がユシチェンコ氏のような反ロシア的な候補者を消すための暗殺未遂だったと推測されている。毒物を用いた暗殺はかつてのKGB(ソビエト連邦の国家保安委員会)の手口として知られており、その後継となるウクライナ国家保安局の関与が疑われている。

ユシチェンコは一世を風靡した美男子で、彼の顔がダイオキシン中毒により変貌したことは、国民の間で大きな同情を呼んだ。なお、体内から検出されたダイオキシンの成分は、米国、英国、ロシアの三研究所だけが製造可能とされている。捜査当局はこれらの研究所にサンプル提供を求めたが、ロシアの研究所だけがこれを拒否したという。

ウクライナ大統領選挙の混乱と最終的な勝者の確定

2004年12月26日、欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際選挙監視団1万2000人を超えるメンバーの立会いの下、やり直しの大統領選挙が実施されました。再投票の結果、ビクトール・ユシチェンコは52%の票を獲得し、対立候補のヴィクトール・ヤヌコーヴィチの44%を上回り、逆転勝利を収めました。

しかし、ヤヌコーヴィチ陣営は選挙に不正があったと主張し、最高裁判所に提訴。これに対抗して、野党は政府施設の封鎖を始めるなど、混乱が続きました。そして12月30日、裁判所はヤヌコーヴィチ陣営の提訴を却下。ユシチェンコの勝利が確定し、ウクライナの政治風景は大きく変わることとなったのです。

ユシチェンコ大統領の決断!ティモシェンコ首相任命とロシアからの離脱

大統領に就任したビクトール・ユシチェンコは、「オレンジ革命」の同志であるユリア・ティモシェンコを首相に任命し、親欧米政権の形成を目指しました。2004年の大統領選挙と「オレンジ革命」は、ウクライナの国際的な立ち位置を問い直すものでした。その問いは、「ロシアへの依存を続けるか」、「それともEUへの加盟を目指し、”ウクライナをヨーロッパへ”という道を進むか」でした。

しかしながら、ユシチェンコとティモシェンコの政治路線の違いが明らかになると、ティモシェンコは2005年に首相を解任されました。しかし、彼女はその後も政治活動を続け、2007年には再びウクライナの首相となることができました。

「カラー革命」の波及とロシアへの影響

ウクライナの「オレンジ革命」以前にも、新興独立国のジョージアでは「バラ革命」が引き起こされ、反ロシアの改革派が政権を手中にした。これらの政権交代は、それぞれの民主化運動を象徴する色にちなんで「カラー革命」とも称されました。

これらの政権変動は、ロシア政府に対して深刻な警鐘を鳴らしました。「カラー革命」は、ロシア政府の存続にとって重大な脅威となる可能性を示唆していたのです。さらに懸念されたのは、「オレンジ革命」が引き金となり、NATOがウクライナのロシア国境に部隊を展開する可能性があったことでした。この事態は、ロシアの安全保障に対する「直接の脅威」となり得るとプーチンは指摘していました。さらに、「カラー革命」が波及し、モスクワの赤の広場までその影響が及ぶリスクも存在していたのです。

プーチンの不信感を引き起こしたアメリカNGOの熱狂的なウクライナ革命支援

ウクライナの「オレンジ革命」には、アメリカからの支援が少なからず存在しました。米国の下院議員団が現地の抗議デモを支援していました。さらに。民主化活動支援を行っている、共和・民主両党の下部組織である非政府組織(NGO)が積極的に関与していました。

この一連の出来事を見て、プーチン政権は米国が旧ソ連地域の政治変動、そしてそれに伴うロシア離反の流れを、裏でで画策しているのは米国だと考え、信感を深めていきました。

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