【ウクライナ危機(5)】衝撃告発!プーチン大統領の報道統制と恐るべき毒殺事件の真実

この記事では、ロシア政治における暗殺事件や人権侵害について探求します。ボリス・ベレゾフスキー、アレクサンドル・リトビネンコ、アレクセイ・ナワリヌイなど、反体制派指導者や批判者たちが暗殺された事件が取り上げられます。

さらに、プーチン政権の激しい戦争と抑圧、特に第二次チェチェン戦争における大量死者についても触れます。記事は具体的な証拠の不足やロシア政府の否定にも言及しながら、国際社会からの懸念やウクライナでの暗殺の波に焦点を当てます。ロシア政治の影の闇に迫りながら、真相究明と責任の追及の必要性を浮き彫りにします。

【ウクライナ危機(4)】デフォルトとロシア再建!自由と民主主義の課題と独裁の必要性
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毒殺、撲殺、自殺偽装……暗殺の舞台はイギリス、そしてアメリカへ。裏切り者は、必ず葬り去られる。オリガルヒ、反体制派、内部告発者、外国人協力者まで、クレムリンはいかに彼らを追い詰め、抹殺するのか? そして、なぜ西側諸国はプーチンを止められないのか? ピュリツァー賞ファイナリストによる渾身の調査報道。(「Books」出版書誌データベースより)

Poisoning nation Russia

「毒と政治」ロシアにおける暗殺文化の歴史と現在

ABC News (Australia)/YouTube

ロシアは長い歴史を通じて、政治的な理由からの毒殺を繰り返してきました。ロシアの毒殺の歴史は、秘密警察組織と国家安全保障体制の形成と密接に結びついています。

1917年、ロシア革命の父とも言えるウラジーミル・レーニンは、新たに生まれ変わったロシア社会主義連邦ソビエト共和国の内部安全を確保するため、チェーカ(Всероссийская чрезвычайная комиссия)を設立しました。これは、ソビエト連邦の国家保安委員会(KGB)の前身であり、その存在自体が毒物を含むさまざまな手法で政敵を排除するという明確な目的を持っていました。チェーカの設立者であるフェリックス・ジェルジンスキーは、裁判を経ずに反革命派を逮捕し、処刑することで知られています。また、彼はロシア帝国の最後の皇帝ニコライ二世とその家族の殺害にも関与したとされています。

このような暗殺行為は、ソ連が崩壊しロシア連邦となった後も続きました。1978年には、ロンドンでブルガリアの反体制活動家ゲオルギ・マルコフが傘の先に仕掛けられた猛毒、リシンによって殺害されるという事件が発生しました。この事件は、当時のKGBの対外防諜局長で、後にアメリカへ亡命したオレグ・カルーギンが、KGBの犯行であったことを暴露しました。

さらに、ウラジーミル・プーチン政権下でのロシアでは、毒物を使った暗殺事件や試みが多数報告されています。これらの事件のいくつかでは、毒物が政治的な目的のために使用されたと疑われています。

諜報機関の頂点に至った男「ウラジミール・プーチン」

ウラジーミル・プーチンは1952年にロシア西部レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で生まれました。1975年にレニングラード大学を卒業後、KGBに入りました。

彼が33歳だった1985年、KGBエージェントとして東ドイツに派遣され、そこで勤務中に2人の娘が生まれました。プーチンはKGB将校として1989年12月までドレスデンで務務しました。しかし1989年12月には、大規模な民主化要求デモの結果、東ドイツの共産主義政権が崩壊しました。

その後、プーチンは祖国に戻り、サンクトペテルブルク市の対外関係委員会議長や第一副市長などの要職を経て、中央政界に進出しました。その後、彼はロシア大統領府で監督総局長や第一副長官などを務め、1998年にはKGBの後継組織であるFSBの長官になりました。

プーチンのキャリアと毒殺の歴史

プーチンの背景と経歴を考慮に入れると、彼の経歴は「諜報機関のトップまで昇りつめた男」とも言えます。これは、プーチンがロシアの政治風景にどのような影響を与えてきたかを理解するうえで重要な要素です。特に、一部では彼の指導下でのロシアの毒殺事件に彼の諜報バックグラウンドが影響を与えていると考えられています。

「シロビキ」の台頭とメディア支配

プーチンは1999年に首相に任命され、その年の終わりに引退を宣言したボリス・エリツィンから大統領代行に指名されました。2000年に大統領に就任した後、プーチンは自身のKGB時代の同僚を政権に引き入れ、最大派閥である「サンクト派」の「シロビキ」(武闘派)が形成されました。これにより、反米主義と強烈な愛国主義を持つインナーサークルがクレムリンで生まれました。

ロシアで権力を握る近道は「シロビキ」の一員になること

「シロビキ」の影響力は政界に深く浸透しています。80年代にソ連の指導者となったユーリ・アンドロポフは元KGB議長であり、現在の大統領ウラジミール・プーチンもKGBの出身であることは広く知られています。つまり、ロシアの情報機関は政治指導者と直接つながっており、ロシアで権力を握るためにはシロビキの一員となることが近道と言えます。

「シロビキ」はプーチンによるマスメディア支配の一翼を担った

「シロビキ」の存在はプーチン政権のマスメディア支配にも影響を与えました。プーチンが旧KGBなどの治安・情報機関出身者を積極的に登用した結果、政府機関の幹部の8割がシロビキとなり、メディア支配を強化しました。

ロシアの毒殺事件と関連する組織「SVR」「FSB」

ロシアにおける数々の毒殺事件には、主に2つの情報機関が関与しているとされています。一つ目は、ソビエト連邦時代に恐れられたKGBの後継組織である、国外諜報活動を担当するSVR(ロシア対外情報庁)です。二つ目は、国内の諜報活動を担当するFSB(ロシア連邦保安庁)です。

これらの組織はロシア内外の政治状況に影響を与え、同国の政治風景を形成してきました。また、これらの組織は、プーチン政権の下で力を増してきたシロビキの一部であり、ロシアの政界に広範に影響力を持っています。

反プーチン派に対する毒殺

ロシアでは、反プーチン派に対する暗殺事件が続いています。これらの事件は、主にFSB(ロシア連邦保安庁)が関与しているとされています。FSBは、プーチン大統領の出身母体である旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後継組織であり、国内外での暗殺を実行していると考えられています。庁内には、おそらく破壊工作専門のセクションが存在し、その要員たちはプーチン大統領の思惑を忖度(そんたく)して行動しているとみられます。

プーチン政権下での16年間には、不可解な殺人事件が後を絶たない。リトビネンコ(元FSB中佐)、ポリトコフスカヤ(女性ジャーナリスト)、ネムツォフ(野党指導者)など、政権の目障りになる人物が次々と殺害されています。しかし、その犯人が特定され、処罰されたケースは一切ありません。これは、プーチン大統領が彼らの行動をとがめず、結果的に暗黙裡(り)の承認を与えていると解釈されています。実際、プーチン政権は彼らを処罰するどころか、昇進させることもあります。例えば、リトビネンコの殺害の有力な容疑者とされるアンドレイ・ルゴボイは、英国政府から身柄引き渡しを求められましたが、プーチン政権はこれを拒否。ルゴボイは下院議員に選ばれ、不逮捕特権を与えられ、さらに勲章まで授けられました。このような状況は、ロシア政府の毒殺政策に対する黙認、あるいはそれ以上のものを示していると考えられます。

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「それで、大統領、ウクライナでの殺戮をどう思われるんですか?」モスクワアパート連続爆破事件、マレーシア旅客機撃墜、毒殺事件、ウクライナ侵攻––––。クレムリンの取材を30年続け、プーチン本人に突撃インタビューをしたことでも有名なイギリスのジャーナリストが、被害者たちの目撃談や証言から明らかにする、プーチンの真実(「Books」出版書誌データベースより)

プーチンの奇策!スキャンダルでエリツィン一族を牽制

エリツィン大統領の時代、急激な経済改革により国民生活は混乱の最中にありました。そして、生活苦にあえぐ人々の関心を集めたのが、当時の権力者たちのスキャンダルでした。共産党とも人脈を持つソビエト派のプリマコフ首相は、この状況を利用して、エリツィン一族の抑制を図りました。彼はロシアの政治腐敗や経済犯罪の実情を報告するよう命じました。

この頃、クレムリンの改修工事費用を水増し請求したスイスの業者が、その見返りとしてエリツィン一族の豪遊資金を肩代わりしていた汚職疑惑がスイスとロシアの捜査当局によって暴かれようとしていました。その最中、一つのビデオがロシア中のテレビで流されました。その映像には、二人の若い女性とベッドで戯れる裸の中年男性が映っていた。その男性は、ロシアの検事総長だったとされています。

このビデオが公開された後、検事総長は辞任に追い込まれました。そして、このビデオをテレビ局に持ち込んだのは、当時FSB(KGBの後継組織)の長官だったプーチンだとされています。

その後、プーチンはスクラートフ検事総長のスキャンダルについての記者会見を終えると、スクラートフは大統領令によって職務停止となりました。さらに、プリマコフ首相も解任され、エリツィン大統領が進めていたプリマコフ首相による自身の追い落とし工作は未然に防がれました。

その結果、プーチンは1999年8月にエリツィンから首相に任命されることとなりました。

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「市民の命を守るために」プーチンのテロリスト追撃作戦が支持を集める

1999年8月にエリツィン大統領から首相に任命されたプーチンだが、その就任から1ヵ月後の9月4日から16日にかけて、モスクワでアパート連続爆破事件が起こりました。4か所で発生したこの爆破事件により、300人以上の市民が犠牲となりました。

市民がテロの脅威に怯える中、プーチン新首相は「我々はあらゆる場所へテロリストたちを追い詰める。最後には便所の中まで追い詰め、ぶち殺す!」という強い決意を示しました。彼は一連の爆破事件をチェチェン人テロリストの犯行と断定し、それをきっかけに第二次チェチェン紛争が開始されました。

プーチン首相がテロ事件に対して強硬な姿勢を示し、軍事力を用いて対応するよう命じた結果、彼の支持率は8月の31%から11月の75%に急上昇しました。

当時、チェチェン共和国は独立を求めていましたが、これを阻止するためロシア軍が侵攻しました。ロシア軍は人道回廊を設ける一方で、無差別に都市を攻撃し、市民に多大な犠牲を強いて降伏させる戦術を取りました。

その後、ロシアは親ロシア政権をチェチェン共和国に樹立させました。これにより、一時的にチェチェンの独立動きは鎮静化されましたが、紛争は完全には解決せず、現在も潜在的な問題として残っています。

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「ロシアの新時代の幕開け」プーチンの大統領就任

1999年末、エリツィン大統領が辞任したことにより、プーチンは大統領代行に就任しました。この時、彼はエリツィン・ファミリーからの支援を受け、その後の2000年3月の大統領選挙では主にメディアを利用して選挙活動を展開しました。

プーチンは強力なリーダー像を描き、多くの人々から熱狂的な支持を得ることに成功しました。その結果、彼の支持率はわずか2%から50%へと急上昇し、2000年3月の大統領選挙で彼は圧倒的な勝利を収めました。

この勝利を受けてプーチン体制が急速に構築され、彼はロシアの指導者としての地位を固めていきました。

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連邦保安局の訓練か?それとも陰謀か?リャザン爆弾騒動の真相に迫る

1999年9月22日、モスクワから南東に位置するリャザン市内のアパート地階で、不審な男女3人が車に乗っているのを見た住民が警察に通報しました。その車のナンバープレートには地元リャザンのナンバーが書かれた紙が貼られていましたが、その紙から透けて見えるモスクワのナンバープレートが不審とされました。

翌日の夜、リャザンの人々はテレビを通じて連邦保安局(FSB)長官から驚くべき発表を聞きました。「爆弾は防犯訓練のために当局が仕掛けた。火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった」とのことでした。しかし、この訓練には多くの疑問が付きまといました。爆弾が見つかってから訓練だと発表するまでに1日以上も時間が経過していたし、訓練なら複数の地点で実施するべきであるにも関わらず、なぜリャザンだけで実施されたのかが不明でした。

その翌日、ロシア軍がチェチェンに対する空爆を開始しました。これを受けて、爆弾騒動はロシア当局のチェチェン攻撃との関連が疑われました。連続爆破事件は、ロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で、連邦保安局(当時はKGBと呼ばれていた)が実行した可能性が浮上しました。

プーチンの大統領就任後も、連続爆破事件に対する疑惑はなお続きました。そのためロシア当局は1月中旬にチェチェン共和国内の爆弾工場の映像をテレビで放映し、連続爆破の犯人はチェチェン人であると発表しました。しかし、この発表に対する疑問も完全には払拭されていないのが現状です。

ロシアの言論統制と闘い続ける新聞『ノーヴァヤ・ガゼータ』の勇気

ソ連の崩壊後、自由な言論活動を行うメディアが次々と誕生しました。しかし、プーチン政権の発足とともに、ロシアの放送局は政権寄りの報道を行うようになりました。政権に批判的な放送局はプーチン政権に近い富豪に買収され、批判の声を挙げなくなりました。新聞社もまた政権寄りとなり、言論の自由が再び制限される傾向が見られました。

しかし、言論の自由が制約される一方で、プーチン政権を公然と批判し続けるメディアも存在します。その代表的な存在が「ノーヴァヤ・ガゼータ」であり、それはロシアの言論環境において特筆すべきポジションを確立しています。

ノーヴァヤ・ガゼータの創設とその理念

ノーヴァヤ・ガゼータは、元大統領のミハイル・ゴルバチョフがノーベル平和賞の賞金を基に1993年に創設した新聞です。創設以来、政府の圧力に屈せずに独立した報道を行い続けています。編集長を務めるのは、同じく独立性を貫くトリー・ムラトフです。

この新聞社の本社は、政治の中心地モスクワのクレムリンからわずか2キロほど離れた静かな裏通りに位置しています。その立地からも独立性と政権への反抗の象徴といえるでしょう。

独立報道への信念と試練

ノーヴァヤ・ガゼータは、ロシア社会に深刻な影響を与える人権問題や腐敗問題を積極的に調査し、その真実を伝えることに尽力しています。これらの問題報道は政府や権力者にとって都合の悪い事実を暴露するため、新聞としては経営危機や政権からの圧力を受けることがありました。

しかし、ノーヴァヤ・ガゼータはそれらの困難にも耐え、あくまで自由な言論を守り続けていました。その姿勢から、今日のロシアでは「表現の自由」を標榜する数少ない日刊紙として認識されているのです。

ノーヴァヤ・ガゼータの調査報道とそのリスク

ノーヴァヤ・ガゼータに掲載される記事のクオリティは非常に高く、特に調査報道がその真価を発揮しています。プーチン大統領が2000年に誕生して以降、政府からの締め付けが徐々に強まる中でも、同新聞は可能な限りタブーを廃し、権力者が最も嫌がる不正蓄財や汚職といった問題に対して真剣に迫ろうとしました。

しかし、その報道活動には残念ながら大きな犠牲が伴いました。この新聞社は、社員数百名に見合わぬ数の記者を失いました。2人の記者が殺害され、1人が不審死を遂げ、さらに契約記者2人と顧問弁護士まで命を落としました。このような一つの新聞社における犠牲の数は、世界的に見ても例がないでしょう。

2000年5月には、評論員のイーゴリ・ドムニコフが自宅の入り口でハンマーで頭を殴られ、2ヶ月後に死亡しました。これは彼が行った批判的な報道への報復だと広く信じられています。

さらに2003年7月、副編集長のユーリー・シュチェコチーヒンが突如高熱を出し、モスクワの病院に入院しましたが、皮膚が剥げ、脱毛も始まり、呼吸困難となって死亡しました。彼の死因は未解決のままですが、毒物が関与した可能性が示唆されています。

アンナ・ポリトコフスカヤとその追求

「ノーヴァヤ・ガゼータ」の独立した報道は、中でも特筆すべきジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤによって広く認識されています。彼女は紛争地帯である北コーカサスを頻繁に訪れ、ロシア軍による民間人への武力の乱用や拷問などの人権侵害を告発する調査報道を行いました。また、彼女はプーチン政権の強権主義を公然と批判し、その功績が認められて数々の賞を受賞しました。

彼女は根本的な人権活動家であり、チェチェン共和国での戦争に強く反対しました。その一方で、紛争の背後に隠された真実を明らかにすることをライフワークとしていました。彼女の鋭い政策批判は、ロシアとチェチェンの当局からの脅迫を引きつけることとなり、何度も拘束され、報復の脅威にさらされました。

ポリトコフスカヤの人権侵害告発

2004年6月には、彼女はチェチェンのツェンテロイにある当時の首相、ラムザン・カディロフの自宅で数時間拘束され、言葉による嫌がらせと脅迫を受けました。その年には、チェチェンに向かう飛行機の中で彼女が飲んだ紅茶に毒が混入され、一時的に重体に陥りました。

AP Archive/YouTube
挫折せぬ決意と残酷な結末

それでもなお「ノーヴァヤ・ガゼータ」は自国の恥部をこれでもかと報道し続け、読者は離れ、売り上げは激減しました。しかしそれでもムラトフ編集長は、ポリトコフスカヤに自由に書かせました。「『ノーヴァヤ・ガゼータ』は一つのチームだ。上が命令して記者たちに記事を書かせるというシステムではない。記者たちは一人一人が独立して信念をもって仕事をしている。編集長といえども、記者たちが書きたいと思うことを止める権利はない」と彼は言いました。

だが、殺害予告が頻繁に舞い込むポリトコフスカヤの身を案じたムラトフは、これ以上のチェチェン行きを禁止すると告げました。彼女はそれに反発し、二人は大げんかとなりました。だが彼女の決意は揺るがず、「チェチェンでは、心ある人たちはほとんど殺されてしまい、チェチェンを取材するジャーナリストはもう私一人になった。だから私はチェチェン行きをやめない。生き残っている人を見捨てるわけにはいかない」とポリトコフスカヤは継続する決意をしました。

ポリトコフスカヤの殺害とプーチンの反応

その数カ月後の2006年10月7日、彼女はモスクワの自宅アパートのエレベーターの中で、4発の銃弾を浴びた射殺体となって発見されました。この事件には、多くの人が衝撃を受けました。しかし、プーチン大統領はポリトコフスカヤ記者の関係者にお悔やみを言うことは一切ありませんでした。プーチンは、「彼女の書いた政権批判の記事以上に、暗殺によってロシアは大打撃を被った」と述べました。その言葉からは、反政府のジャーナリストが殺害されるのは、プーチン政権を貶めようとする陰謀であるとの見解が感じ取れます。

ノーヴァヤ・ガゼータ編集長のノーベル平和賞受賞とその後

2021年10月8日、創刊に携わり24年間にわたって編集長を務めているドミトリー・ムラトフがノーベル平和賞を受賞しました。彼は受賞について「間違いなくノーヴァヤ・ガゼータ編集部が受賞したのであり、とりわけ亡くなった6人の記者が受賞したのだ」とコメントしました。

ウクライナ侵攻と報道規制

2022年2月に開始されたロシアによるウクライナ侵攻に対してはムラトフは反対を呼びかけました。彼自身もノーベル平和賞メダルをオークションで売却しウクライナから逃れた難民を支援する意向を表明しました。しかしながら、ロシア政府は報道規制を強化し、ノーヴァヤ・ガゼータは3月28日に2回目の警告を受けたことで登録廃止が申請可能となりました。同日中に新聞は業務の一時停止を表明し、軍事作戦が終了するまではウェブ上の記事も含めて新聞の発行を見合わせると発表しました。

新たな始まりと挫折

その後、4月7日に亡命した記者らは新たに『ノーヴァヤ・ガゼータ・ヨーロッパ』をリガで立ち上げ、YouTubeやSNSを使ってロシアのニュースを報じていく方針を表明しました。キリル・マルティノフ氏が編集長に就任し、ノーヴァヤ・ガゼータの支社ではないとされた独立したプロジェクトとして始まりました。また、ラトビア語版の立ち上げも検討中であり、地元の人々に帝国主義的な価値観を持っていないこと、ロシア語が使われることを期待しているわけではないと理解して欲しいとのメッセージが伝えられました。

その一方で、7月15日には元スタッフが『ノーヴァヤ・ラスカズ=ガゼータ』を創刊しましたが、7月24日には連邦通信・情報技術・マスコミ分野監督庁がサイトへの接続を遮断したため、サイトは7日間と9時間ほどでアクセスできなくなりました。

闇に消えた告発者「リトビネンコ」の暗殺とその背後の力

「ロシアはFSBの統制下にあり、アンナ・ポリトコフスカヤ記者のような立場の人がが、プーチンの許可なく殺されることはあり得ません」

アンナ・ポリトコフスカヤ記者が暗殺された12日後の2006年10月19日、アレクサンドル・リトビネンコはロンドンで会見を開き、連邦保安局(FSB、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後継機関)時代に政商ボリス・ベレゾフスキーの暗殺計画を指示されたことを明らかにした。

これは、当時FSBトップだったプーチン大統領に公然と反旗を翻したことになりました。

Frontline Club/YouTube
リトビネンコの証言が描くプーチンとFSBの繋がり

リトビネンコ自身は1998年にもモスクワで記者会見を開き、ボリス・ベレゾフスキーの暗殺指令を受けたと公表し、その結果、2度逮捕された。彼はモスクワの刑務所に送り込まれたが、罪に問われることなく釈放された。しかし、2000年に3度目の逮捕が迫ると、彼はロンドンに亡命した。

彼の妻、マリナによれば、リトビネンコはその頃から英国の治安当局で働き始めたとされる。そして2002年には、プーチンがFSB時代に犯罪組織と結託していたという告発も行いました。

リトビネンコの本が描くロシアの闇の一端

アレクサンドル・リトビネンコは、自分の出版した本で、1999年に起こったモスクワの高層アパート爆破事件について語りました。この事件では約300人が死亡し、一般的にはチェチェンの反乱勢力によるテロと見なされていました。しかし、リトビネンコはこの見解に異議を唱え、事件はプーチンとFSBがチェチェン侵攻の口実を作るための自作自演だったと主張しました。

さらに彼は、英国に亡命したボリス・ベレゾフスキーと共に、プーチン政権を徹底的に批判しました。その中で、彼が英国の情報機関と協力関係にあったことも明らかになりました。

毒殺事件の証言と闘いの終焉

2006年11月、リトビネンコが突如嘔吐し緊急入院しました。入院先で彼は「毒を盛られた」と主張しました

リトビネンコ暗殺事件の舞台裏

彼が重体となったのは、ロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺事件を調査するため、ロンドンでイタリア人教授との会食直後のことでした。

会食後、彼が次に足を運んだのはロンドンのミレニアムホテル内にある「パイン・バー」。そこで彼は3人のロシア人男性と遭遇しました。バーテンダーの証言によれば、この3人の中にはスパイ風の雰囲気を持つ2人が含まれていたという。彼らはジンを注文し、一方リトビネンコは緑茶を頼みました。

この会話は何気なく始まり、彼らはイギリスの政策について論じていました。しかしその後、リトビネンコの運命は一変。彼の注文した緑茶がテーブルに運ばれる際、1人の男性が邪魔するように立ちはだかりました。戸惑ったバーテンダーは、ティーポットの脇に飲み物を置いて去りました。

それから数時間後、リトビネンコは激しい嘔吐に襲われました。彼の体調は急速に悪化し、その日のうちに入院。わずか数日で彼の髪の毛は全て抜け落ちました。

BBC Newsnight/YouTube
リトビネンコ事件とポロニウム210の恐怖

リトビネンコ氏は病院で数週間過ごした後、体調が次第に悪化しました。死を目前に控え、彼は自分がウラジーミル・プーチンによって暗殺されるよう命じられたと刑事たちに告げました。その3日前、彼は治療を受けている間に撮影され、その写真が公開されました。「彼らが私に何をしたのかを世界に見て欲しい」と彼は語りました。

そして2006年11月22日の深夜、リトビネンコ氏は心不全を起こしました。翌23日の午後9時21分、彼は息を引き取りました。死後の検視は12月1日に行われ、その結果からリトビネンコ氏が摂取したポロニウム210の放射能量は4.4ギガベクレル(GBq)であったことが確認され、死因は急性放射線症候群とされました。

毒と放射能の暗殺劇が明かすロシア政府の闇

ポロニウム210は、キュリー夫妻により発見された放射性物質で、その半減期は138日と短い。この物質は、体内に取り込まれるとアルファ線の影響により、高度な毒性を発揮します。この元素を天然ウランから分離するか、原子炉や粒子加速器を用いる方法が存在しますが、どちらも専門的な知識と技術、および特殊設備が必要となります。

リトビネンコの体から検出されたポロニウム210の量は致死量の100倍を超えており、その入手には約2000万ポンド(約450億円)が必要だと言われています。これらの情報から、この毒殺事件には資金力のある組織が関与している可能性が高いと考えられます。しかし、ポロニウム210という希少な物質を使用し、それが原因で被害者が3週間以上も生き延びるという手口は、一般的なプロの殺し屋のやり方とは異なります。これから見ても、事件の実行犯はおそらく素人であったと考えられます。

一方で、サセックス大学のドムベイ教授は、ポロニウム210はロシア国内の2つの閉鎖都市でしか製造されておらず、04年にもチェチェンの反体制指導者が同じ物質で毒殺されていたと指摘しました。これらの事実から、ロシア政府が国家としてこの毒殺事件に関与していた可能性が高いと推測されます。

さらに、事件が起こった約1ヵ月前の2006年10月にも、リトビネンコがポロニウム210で毒を盛られた可能性があるとの指摘も出ています。これは、ロンドンに3回にわたりポロニウム210がモスクワから持ち込まれたという情報に基づいています。

「リトビネンコの遺言」プーチン政権に対する最後の抗議

リトビネンコの葬儀は12月7日にロンドン中央モスクで執り行われ、遺体はその後ハイゲイト墓地に埋葬されました。

そして、リトビネンコが亡くなる2日前に口述した声明が、彼の友人であるアレクサンダー・ゴールドファーブによって公開されました。その声明はプーチン大統領に宛てられたもので、次のような強い言葉が記されていました。

「あなたは私を沈黙させることに成功したかもしれない。しかし、この沈黙には代償が伴う。あなたは自分が最も敵対的な批判者たちが主張してきた通りに野蛮で非情であることを示した。あなたは自分が生命と自由、いかなる文明的価値への敬意を持たないことを示した。あなたは自分が大統領職に値しない人物であり、文明的な人々からの信頼に値しない人物であることを示した。あなたは1人の男を沈黙させることに成功したかもしれない。しかし、世界中からの抗議の咆哮は、プーチン殿、あなたの耳の中で死ぬまで反響し続けるだろう。私だけでなく、愛すべきロシアとその人々に対してあなたが犯した行為を、神が許し給わんことを。」

リトビネンコ事件の影響と未解決の謎

彼の死は、ロシアと西側諸国との間に重大な緊張を引き起こし、特にイギリスとロシアとの間に大きな外交的問題を引き起こしました。リトビネンコの死後も、真相はまだ完全には明らかになっていません。政治、スパイ活動、毒物の三つが絡み合ったこの事件は、複雑な問題として今も残っています。

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リトビネンコの友人でイギリスへの亡命を手助けしたアレックス・ゴールドファーブと未亡人マリーナが、世界を震撼させた暗殺事件の真相を描く話題のノンフィクション。(「BOOK」データベースより)

オリガルヒの帝王「ベレゾフスキ」の不審死

車のディーラーをしていたベレゾフスキーは、ソ連崩壊後、石油会社、国際航空会社アエロフロート、銀行、メディアなど、数々の企業を買収し、巨大な財力を手に入れ、オリガルヒノの仲間入りをしました。彼は「クレムリンのゴッドファーザー」と呼ばれ、特に国営テレビ「ORT」(現在は「1カナル」)の支配を通じて大きな影響力を持っていました。

しかし、ベレゾフスキーの力は絶えず問題を引き起こしました。自身が保有する企業に対する横領疑惑が浮上した時、彼は自身が支配するメディアを通じて情報戦を行い、捜査を逃れることに成功しました。この事件は、彼がメディアを通じて政治的な影響力を行使する能力を示すものでした。

ベレゾフスキーはまた、ボリス・エリツィンの側近として政治に深く関与し、エリツィンの後継者としてウラジミール・プーチンを擁立しました。しかし、プーチンが大統領になった後、彼とベレゾフスキーの関係は次第に悪化しましていき、2000年にイギリスに亡命しました。

プーチンとの闘いと不可解な結末

亡命後は、プーチンの政治体制を批判するとともに「1999年のモスクワの高層アパート爆破事件は、ロシア特殊部隊の自作自演だ」と主張していました。驚くべきことに、彼はベレゾフスキーは毒殺されたアレクサンドル・リトビネンコの親友でもあったのです。

これらの批判は、彼がプーチン大統領と対立する姿勢を明確にし、それが彼の命に対する危険を高める可能性があったと一部で主張されています。

2013年、ベレゾフスキーはイギリスの元妻の家で首を吊って死亡しました。彼の死因については、資産が減少し、多額の裁判で敗訴したことによる自殺という説がある一方で、彼の死は心臓発作によるものと報じるロシアのメディアもありました。また、彼の死がロシア政府の関与による暗殺である可能性も示唆されています。

ベレゾフスキーの死は、その背後にある多くの政治的な要素を含み、その一生と死はロシアの政治と毒殺の歴史に深く結びついています。

Channel 4 News/YouTube

「投獄と不審な死」エリツィン政権下で栄華を極めたオリガルヒたちの結末

エリツィンに与していたオリガルヒたちは、その後次々に投獄されたり、不審な死を遂げていきました。例えば、ベレゾフスキー氏の側近だったグルジア人実業家のバドリ・パタルカツィシビリは2008年、ロシア人実業家のアレクサンドル・ペレピリチヌイは2012年に不審な死を遂げました。

また、ロシアからの亡命者やオリガルヒと関わりの深い人物も不審な死を遂げています。例えば、ロシアとの深いつながりを持ち、数多くの不審な事件を目撃してきたイギリス人弁護士ステファン・カーティスは、2004年にヘリコプターの墜落事故で死亡しました。

これらの事例は、ロシアの権力との対立を引き起こしたり、不興を買ったオリガルヒやその関連人物が、投獄や不審な死に見舞われる傾向を示しています。

プーチンの怒りを買ったオリガルヒたち

特に注目すべき例として、ミハイル・ホドルコフスキーがあります。彼は自身が築き上げた巨大な財力を用いてプーチン政権を覆そうと試みましたが、2003年に投獄され、その財産は没収されました。彼の例は、プーチンの不興を買ったオリガルヒがその影響力と財産を失うことになる可能性を示しています。

プーチン批判の野党指導者「ネムツォフ」元副首相暗殺事件

プーチン大統領に対する批判的な立場を続けていたネムツォフは、2015年2月27日の夜、クレムリン付近の橋で女友達と共に歩いている最中に射殺されました。彼が殺害されるわずか2時間前には、ラジオ番組でプーチン政権のウクライナ危機に関する政策を公然と批判していました。

彼はプーチン大統領を「ウソの専門家、病的なウソつき」と呼び、反政府デモを通じて状況を平和にすることができると信じていました。彼は政策の転換を実現するためのデモを計画しており、ロシア軍のウクライナ侵攻に反対する大規模な集会の開催を予定していました。

しかし、彼の死後もその犯行の全容は明らかにされていません。ロシア大統領府は調査を行うと表明しましたが、事件の真相は依然として闇に包まれています。このような不透明性は、ロシアにおける言論の自由と公正な調査の欠如を示しています。

CBC News: The National/YouTube
ポスト・エリツィンの有力候補!ネムツォフ氏の人気と影響力

ネムツォフが政治の世界に足を踏み入れるきっかけは、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故に端を発します。原発反対運動を通じて、彼は政策形成に関与するようになり、ボリス・エリツィン大統領と知り合いました。彼はソ連崩壊後のロシア改革を推進する主要なリーダーで、エリツィン政権では副首相を務め、その名がエリツィンの後継者として挙がるほどの人気を博しました。

ネムツォフの反プーチンの闘い

しかし、彼の経済改革に対する不満が高まると、ネムツォフ氏は職を解任され、プーチン政権下では、リベラル派の野党に転じました。

ネムツォフは、2004年にウクライナで起きた「オレンジ革命」を支持し、民主化の指導者ヴィクトル・ユシチェンコの大統領顧問に任命されました。これは、彼が反プーチンの行動を段階的に拡大していく中での重要なステップでした。

彼はまた、2011年12月のロシア連邦下院選挙の結果に強く抗議しました。この選挙では、票の水増しといった大規模な不正が明らかにされました。ネムツォフの抗議活動は、その3ヶ月後に実施されるロシア大統領選挙に対する明確な警告となりました。

この時点で、再選を望んでいたプーチンとFSBからの圧力を増す結果となりました。

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「それで、大統領、ウクライナでの殺戮をどう思われるんですか?」モスクワアパート連続爆破事件、マレーシア旅客機撃墜、毒殺事件、ウクライナ侵攻––––。クレムリンの取材を30年続け、プーチン本人に突撃インタビューをしたことでも有名なイギリスのジャーナリストが、被害者たちの目撃談や証言から明らかにする、プーチンの真実(「Books」出版書誌データベースより)

二重スパイの暗躍と命の危険「セルゲイ・スクリパリ」毒殺未遂事件

2018年3月4日、元ロシア軍情報機関大佐であるセルゲイ・スクリパリと彼の娘ユリアが英南部のソールズベリーで意識不明の重体となり発見されました。現場にいた警官も一時的に重体となりました。

これは毒ガスによるもので、広範囲にわたる影響を持ちました。スクリパリの自宅の近くにいた100人以上の市民がこの毒ガスに晒され、その中の一人が重傷を負いました。

On Demand News/YouTube
神経剤「ノビチョク」

2018年のセルゲイ・スクリパリと彼の娘ユリアへの毒ガス攻撃は、国際的な緊張を高めました。使われた毒はは、ソビエト連邦時代に開発されたとされる神経剤「ノビチョク」というもので、イギリスの首相だったテレサ・メイは、ロシアがその製造と使用を行ったと非難しました。ロシアは全ての関与を否定しましたが、これは両国間の関係を一層悪化させました。

ノビチョクは有機リン系の神経剤で、非常に強力な毒性を持っています。他の有機リン系神経剤にはサリンやVXがありますが、ノビチョクはそれらよりも強力であり、”第四世代”の化学兵器と呼ばれます。その特徴は、その製造が比較的簡単であり、安全に持ち運びが可能であるということです。

ノビチョクは神経系に作用し、身体の多くの機能を制御する神経伝達物質の働きを阻害します。これにより、被曝者はまず目まい、嘔吐、呼吸困難などの症状を示し、最悪の場合、心停止や呼吸停止に至ります。

SBS Australia/YouTube
スクリパリ元大佐の亡命劇とプーチンの恐るべき予言

セルゲイ・スクリパリ元大佐は、かつてロシアの軍事情報機関(GRU)で働いていましたが、2004年にロシアで逮捕され、二重スパイとしての活動により、2006年に国家反逆罪で禁錮13年の判決を受けました。

彼は1995年に英国秘密情報部(SIS、通称MI6)によって二重スパイとしてスカウトされ、ロシアのエージェント情報を提供する代わりに、見返りとして約1,000万円に相当する10万ドルを受け取っていました。

しかし、彼の運命は2010年、米国でスパイ容疑で逮捕された「美しすぎるスパイ」アンナ・チャップマンらと10人のスパイと共にオーストリアのウィーンで行われた「スパイ交換」で大きく変わることになりました。この交換により、スクリパリは英国へ亡命することになったのです。

だがロシアの総裁ウラジーミル・プーチンは、スクリパリがイギリスに渡った2010年に「裏切り者は最終的には死に至ると」と言ったと報じられています。それはまさに、スクリパリが2018年にソールズベリーで神経剤攻撃を受けたことを予見するかのような発言でした。

ロシアと西側諸国の外交官追放で燃え上がる対立

この事件により、ロシアの対外行動に対する国際的な警戒が強まりました。ロシアが自国の元スパイや政治的な反対者に対して暗殺を試みる手段として、化学兵器を使用することに対する懸念が広がったためです。

イギリスを始めとする西側諸国から強い反発を引き起こし、29ヶ国が計約150人のロシア外交官に国外退去を命じました。

ロシアはこれに対して報復し、3月末までに25ヶ国から約140人の西側外交官に国外退去を命じました。これらの行動は、冷戦時代を超える過去最大規模のもので、新たなロシアと西側諸国との間の緊張を引き起こしました。

容疑者特定後もロシアは関与否定と引き渡し拒否

2018年に発生した英南部ソールズベリーの神経剤攻撃事件は、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の3人の容疑者による犯行と特定されています。

これらの容疑者は現在全員がロシアに居るとされているが、ロシア政府は一貫して事件への関与を否定しています。英国や国際刑事警察機構(ICPO)などが行った逮捕要請に対しても、ロシア政府は容疑者の引き渡しに応じていません。

ロシアの闇に消えた実業家!「ニコライ・グルシコフ」の不審な最期

2018年、セルゲイ・スクリパリとその娘ユリアが神経剤攻撃を受けた直後、同じくプーチン政権に対して批判的な立場を取っていたロシア人実業家ニコライ・グルシコフがロンドンの自宅で死亡しているところが発見されました

グルシコフは、ロシアのエリートビジネスマンであると同時に、政界でも活動的でした。彼は2013年にロシア人実業家ボリス・ベレゾフスキーが死亡した際に、彼の友人としてその死を批判しました。彼はボリスが殺されたと断言し、その死は自殺ではなく暗殺だったと信じていました。

さらに、グルシコフはアレクサンドル・リトビネンコの死についても語り、ロシア人亡命者の死が多すぎると語っていました。

The Star/YouTube

反体制派指導者「アレクセイ・ナワリヌイ」と毒殺事件

ロシアの反体制派指導者であり、ウラジーミル・プーチン大統領に対する最も有力な批判者であるアレクセイ・ナワリヌイ氏は、2020年に毒殺未遂事件に巻き込まれ、その生命を脅かされました。この事件はロシアでの政府反対派への攻撃の最新の一例であり、国内外から懸念を引き起こしました。

1976年、モスクワ州に生またナワリヌイは、ブログを通じて政府と国営企業の汚職を告発し、特に若者たちの間で人気を博しました。彼のブログはロシアの政治情勢についての重要な情報源となり、数百万人の読者を集めました。

2017年、ナワリヌイ氏はドミトリー・メドヴェージェフ首相の豪華な邸宅の映像を公開し、これが贈賄によって賄われたものである可能性を示唆しました。この発表は、彼の支持を拡大し、全国規模の抗議デモを引き起こしました。

しかし、彼の活動は政府に敵視され、多数の法的な追及を受けました。何度も逮捕され、罰金を科され、また短期間の収監も経験しました。

Washington Post/YouTube
プーチン大統領の任期延長と2036年までの支配

2000年、プーチン大統領は4期目に入り、2024年に予定されていた任期終了の時点での退陣が予想されていました。しかしながら、プーチンは憲法改正を行い、更に2回の大統領任期を取得する機会を得ました。これにより、プーチン政権は最大2036年まで続くことになりました。さらに、大統領任期終了後も終身上院議員となり、法的な不可侵性が保証されるという特権も設けられました。

プーチン政権とナワリヌイの真っ向対立

この長期化された大統領任期について、国内外からは多くの批判が寄せられました。特に、反体制派の指導者であるアレクセイ・ナワリヌイは、この憲法改正を「クーデター」であるとし、「憲法違反」だと非難しました。ナワリヌイはまた、改正案の国民投票の結果が「真っ赤なうそ」であり、国民の真の意見を反映していないと痛烈に批判しました。

反体制派指導者ナワリヌイの緊急状態!病院での治療遅延と異動制限

2020年8月20日、反体制派の指導者であるアレクセイ・ナワリヌイがシベリアからモスクワへの飛行中に突然体調を崩し、緊急着陸した後、ロシアのオムスク市第1臨床救急病院に運ばれ、昏睡状態に陥りました。この時、病院の医師たちは、ナワリヌイ氏の主治医との接触を許可せず、彼の出国を数日間も遅らせました。

これらの事情により、ナワリヌイ氏の治療や詳細な診断が遅れるという状況が生じました。しかし、最終的には、国際的な圧力とナワリヌイの家族や支援者の強い要求を受けて、ロシア当局は彼のベルリンへの移送を承認しました。

ノビチョクによる襲撃を裏付ける証拠

8月24日、ベルリンのシャリテ病院に移送された後、ナワリヌイの身体から採取されたサンプルはドイツ連邦軍の化学物質研究所に送られ、詳細な分析が行われました。この施設は化学戦やテロに備えて様々な毒物を研究する特殊施設であり、その実態は秘密にされています。

そして、9月2日に、ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、この研究所の分析結果をもとに、「神経剤ノビチョクが使用されたことには疑いの余地がない」との声明を発表しました。この結果はフランスとスウェーデンの研究所でも確認され、ナワリヌイ氏がノビチョクによる毒殺未遂の被害者であることが明らかになりました。

逮捕に物議!ナワリヌイの出頭期限と毒殺未遂の事情

ナワリヌイは、ドイツでの治療を終えてロシアに帰国した後、2021年に「裁判所が命じた出頭期限を過ぎていた」との理由で逮捕されました。これは2014年に彼が有罪とされた詐欺事件に関連した出頭期限についてのもので、当時ナワリヌイは毒殺未遂で昏睡状態にあり、この期限を遵守することが物理的に不可能であったにもかかわらずです。

彼の逮捕は国際的な非難を招きました。多くの人々と国際組織はこれを政治的に動機づけられたものと見なし、ナワリヌイの即時釈放を求めました。しかし、ロシアの当局はこれらの要求を拒否し、彼は収監されました。

ナワリヌイの逮捕はロシア全土で抗議を引き起こし、これに対する強力な弾圧もまた多くの国際的な批判を招きました。彼の収監は、ロシアの現政権に対する抗議の象徴となっており、彼の釈放を求める声は依然として高まっています。

ABC News/YouTube

暗殺の連鎖が続く…ロシアの深い闇

プーチン大統領の批判者が国内外で攻撃を受けたり、殺害されたりする事件は、残念ながら頻繁に報告されています。それらはジャーナリスト、人権活動家、反体制派政治家、元情報機関員など、さまざまな背景を持つ人々に及んでいます。

セルゲイ・スクリパリ氏のような例では、神経剤の使用という極めて専門的な攻撃手段が示されており、これはロシアの情報機関が関与していると広く見られています。しかし、明確な証拠が欠けているため、ロシア政府はこれらの指摘を一貫して否定しています。

また、プーチン大統領が権力を握ったときから続く激しい戦争と抑圧、特に第二次チェチェン戦争では、一般市民の間で大量の死者が出たと報告されています。人権団体アムネスティ・インターナショナルによれば、その数は約3万人に達しています。

これらの状況は、プーチン政権が反対派を弾圧し、その影響力を維持しようとする姿勢を示しています。しかし、具体的な証拠が不足しているため、これらの事件の責任をプーチン政権に直接帰することは難しいです。それにもかかわらず、国際社会からはプーチン政権の人権侵害と反対派に対する攻撃に対する懸念が高まっています。

ウクライナでの暗殺の波…反プーチン派との闘いの中で。

ウクライナとロシアの関係は、2014年のクリミア半島の併合以来、非常に緊張しています。この状況は、東ウクライナでの分離主義者とウクライナ政府との間の継続的な対立により一層深まっており、多くの人々はこれをロシアの影響力と見なしています。

これに加えて、ウクライナでは反プーチンのロシア人やウクライナ人が何人も暗殺される事件が発生しています。これは、ロシアがその影響力を拡大しようとし、反体制派を恐怖に陥れようとしていると広く考えられています。

2017年には、プーチン大統領と対立しウクライナに亡命した元ロシア議会議員デニス・ボロネンコフがキエフで射殺され、またウクライナ軍の特殊部隊指揮官マクシム・シャポワル大佐が車中で爆殺される事件がありました。

これらの事件は、ウクライナの安全保障に深刻な影響を与え、さらにウクライナとロシア間の緊張を高めています。ロシアがこれらの攻撃に関与しているとの疑念は強いですが、具体的な証拠を提供するのは難しく、ロシア政府は関与を否定しています。

CNN/YouTube
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毒殺、撲殺、自殺偽装……暗殺の舞台はイギリス、そしてアメリカへ。裏切り者は、必ず葬り去られる。オリガルヒ、反体制派、内部告発者、外国人協力者まで、クレムリンはいかに彼らを追い詰め、抹殺するのか? そして、なぜ西側諸国はプーチンを止められないのか? ピュリツァー賞ファイナリストによる渾身の調査報道。(「Books」出版書誌データベースより)

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